同級生、小河内ダム君
意外な同級生というのがいるもので、昭和32年生まれの私には、ああ、誰かな、東国原英夫宮崎県知事? 浅田彰京都大学経済研究所助教授? 彼は学年的には一つ上か、ついでに、漫画家柴門ふみと国谷裕子ニュースキャスターも学年的には一つ上のお姉様。女優だと、大竹しのぶ、名取裕子、かたせ梨乃、泉じゅん……ああ、夏目雅子。で、忘れてはいけないのが、小河内ダム君だな。久しぶりに会いに行った。
竣工はこの年の11月26日なので、ジャストのハッピーバースデーというわけでもないが、ダムコンクリート打込開始が3月19日、打込終了が7月21日というから、今頃夏の山間に英姿を現していたのだろう。それから、半世紀か。特設サイト「小河内ダムはしゅん工50周年を迎えます」(参照)によると、9月28日に新宿で記念のイベントがあるらしい。しかし、行くなら現地だろうな。
小学生のとき二度ほど来たことがある。今思うとダムもその頃はまだ私と同じで若いころだったのかなと思い返す。青梅線の終点というかなにかしら東京の果てみたいでもあり、私はときたまダムの光景を見に行く。物心ついてから自分の意志で靖国参拝をしたことはないが、その慰霊碑では殉職した87名に黙祷する。そして湖底に沈んだ旧小河内村945世帯約6千人の移転を思う。ありがとうございました。
東京市が後の市民の水源ダム建設候補地の調査を開始したのが1926年(大正15年)。私の父が生まれた年だ。同年は、小河内ダムの水源と関連のある多摩地域の歴史を振り返ると、箱根土地株式会社が東京商科大学を中心にした学園都市構想によって放射状の道路を整備して分譲を開始した年でもある。翌年大学ができる。
小河内村にダム建設の知らせがあったのは1931年(昭和6年)。村民は当初反対を表明する。いろいろ紛糾することはありこの歴史はきちんと顧みられるべきでもあるがここでは触れない。着工は36年、起工式は38年。43年に戦争によって工事は中断し、戦後に再開された。ダムコンクリート打込開始は1953年。
村民の思いの一端が06年10月8日読売新聞「秋祭り ダムに沈んだ古里思う 湖底に届け、89歳の篠笛」掲載されていた。
ダム建設が再開されれば移転しなければならない。だが、村にいる間は祭りに参加したいと思った。村の古老に習って笛を覚え、祭りで吹くようになった。
戦時中に結婚した妻と4人の子どもを伴い、約30キロ離れた八王子市に移転したのが53年。補償金で建てた家の近くで畑を耕すなどして一家の暮らしを支えた。
その後祭りは復元しているようでもある。
工事で殉職した87名中6名が朝鮮人とのことで、01年8月1日朝鮮新報「今年もやってきたサマースクールの季節」(参照)によると。
東京(6~8日)では、奥多摩の小河内ダム工事慰霊碑を参観し、強制連行された同胞の歴史を学ぶ。
慰霊碑には、工事に動員され強制労働を強いられて犠牲になった6人(実際はもっと多いと推測されている)の朝鮮人の名が刻まれている。
とのことだが、戦前の死者であろうか。また日本人労働者と区別されていたのだろうかと気になるが、よくわからない。
小河内ダムには興味深い歴史もある。奥多摩山村工作隊だ。元になるのは「山村工作隊」(参照)である。
山村工作隊(さんそんこうさくたい)は、1950年代、日本共産党の武装闘争を行った非公然組織。毛沢東の中国共産党が農村を拠点としているのに倣ったもの。
レッドパージ後、中国に亡命した徳田球一らは軍事方針を指示する。1951年10月の第5回全国協議会(五全協)では「農村部でのゲリラ戦」を規定した新たな綱領「日本共産党の当面の要求」を採択し、「山村工作隊」「中核自衛隊」など非公然組織が作られた。
各地で列車を爆破したり、交番の焼き打ちや、警察官へのテロを敢行するなどの武装闘争が展開された。そして、共産党の武装闘争を取り締まるため破壊活動防止法が1952年7月に制定・施行された。直接的な火炎瓶闘争は1952年夏頃から下火になったが、軍事方針は続き、農村部での活動が継続された。
もちろんというべきか現在の共産党はこう扱っている。
この運動方針は世論からも批判を浴び、1952年10月の総選挙では全員が落選し敗退。1955年7月の第6回全国協議会(六全協)で議会主義に転換し、軍事方針は否定された。
共産党の“正史”では「五全協の方針は一部の極左冒険主義者(所感派)による誤りで党本体(国際派)とは関係ない」とされている。
このあたりの蹉跌感は文学としては柴田翔「されどわれらが日々」(参照)が興味深い。冷やりとした気分で読むと、ここで描かれていた若者と、はてなでぶいぶい非モテ・童貞議論をしている半世紀後の若者とそれほど違いがないようにも思えるし、その後大学の先生になった柴田翔は長い沈黙の後「詩に誘われて」(参照)いるようだ。
この山村工作隊の一部に小河内山村工作隊があった。実態の一部は「“『五一年綱領』と極左冒険主義”のひとこま」(参照)で伺える。
六月になって、上部からは独立遊撃隊の問題が提起された。中核自衛隊だけでは活動に限界があり、山岳・農村を根拠地にしたパルチザンが必要だというわけだ。日本の革命をロシア型の都市労働者のゼネスト蜂起と中国型の農村から都市への結合とえがいているわけだから当然の帰結である。中核自衛隊は蜂起の中核となるものであるが、独遊は人民軍の萌芽であり、やがては軍隊ということになる。地区内の各隊からひとりずつ、五人で編成し六月中に出発することになった。
小河内には人家から一・五キロほど山道を登ったところにコジキ岩とか八丈岩と呼ばれる岩があった。山の中腹の岩の下に八畳はどの広さがあり、コジキが住んだこともあったとかで雨露はしのげた。一次の弾圧のあとの工作隊の住いである。工作隊には、その地に骨を埋めろといわれた定着と呼ばれる者と、十日から半年ぐらいまでの一定の期間で思想教育的側面を重視して送られてきた者とがいた。いずれにしてもほとんどは党派性の欠如などを理由にした懲罰的なものがからんでいた。
二人が闇の中でぼそぼそ話していると、いきなり警官隊がふみ込んだ。飯場への不法侵入と暴力行為で逃げた者を追っているといい、るす番だけということで引き上げた。このあと様子を見に行き、用心棒につかまって警察に引きわたされた私をふくめて逮捕者は九人。いったんは逃げたが後日キャップも逮捕された。これが三次の弾圧である。私は二三日の拘留だけだったが、数名が起訴され、岩崎は半年たらずに二度目ということになった。独遊に数日前に配置されたばかりの朝鮮人の同志もやられ、彼はそれ以前の都内の事件と密入国容疑ということで警視庁に移送されたが、すでに南への強制送還を覚悟していた。
引用が長くなったが、このスラップスティックな状況は40年後に若者が起こした悲惨な事件の内在に潜むスラップスティックにも似ているようにも思えた。
さて、同級生、小河内ダム君、どうだい、50歳になった感じは? なに? 最近来てくれるのは中国人や韓国人ばかりなのは何故かって? 別に君だけがそうじゃないんだよ。
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コメント
間違っていたらご免なさい。
>工事で殉職した87名中6名が朝鮮人とのことで、01年8月1日朝鮮新報「今年もやってきたサマースクールの季節」(参照)のよると。
>工事で殉職した87名中6名が朝鮮人とのことで、01年8月1日朝鮮新報「今年もやってきたサマースクールの季節」(参照)によると、
だと思うのですが。
投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.08.25 13:05
このへんの話は、真継伸彦や高橋和巳にも出てきますね。
かつての赤軍派も似たようなものでしょう。
投稿: かつ | 2007.08.25 20:26
文中で言われている「悲惨な事件」が連合赤軍を指しているのなら、20年後の間違いではないですか。しかし、いまから振り返ると、50年代の極左冒険主義と70年代の革命戦争派とは、存外に近接していたことに気付きます。50年代の分派闘争時代には互いのリンチも多発していたわけで(不破哲三もやられてますが)、これも70年代の内ゲバの先祖ということができます。
投稿: かつ | 2007.08.25 20:39
山村工作隊はここが詳しいです。
http://www004.upp.so-net.ne.jp/imaginenosekai/sannsonn-kousakutai.html
投稿: ねこ | 2007.08.26 19:52