河合隼雄先生のこと
直接学んだことはないが、河合隼雄先生とお呼びしたい。その思いをこのエントリに書いておきたい。19日にお亡くなりになった。脳梗塞であったという。享年七十九。昨年夏にご自宅で脳梗塞の発作で倒れたというニュースを聞いたとき、ご高齢でもあるし不安に思っていた。
先生は1928年、昭和3年の生まれ。昭和の昭坊よりは若い。私の死んだ父が星新一と同じく大正十五年、1926年の生まれ。昔見た父の同窓会名簿に戦死の文字がずら並んでいたのに驚愕したことがあるが、父は大病を得て命を得た。彼の年代が戦争中派の境目で、河合先生はそこを逸れる。
ウィキペディアの「河合隼雄」(参照)項目を引く。
1952年、京都大学理学部を卒業後、数学の高校教諭として働く。その学校現場で生徒達の心の問題に直面することとなり、その後、京都大学大学院で心理学を学び、1959年にフルブライト奨学生としてカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)へ留学し、クロッパー教授やシュピーゲルマン(Spiegelman JH)の指導を受ける。河合は彼にスイスのチューリッヒで心理学を学ぶ事を勧められる。
その後、1962年から1965年までスイスに渡り、ユング研究所(Jung Institut Zuerich)で日本人として初めてユング派分析家の資格を得る。その際、マイヤー(Meier CA)に師事。帰国後、1972年から1992年まで京都大学教育学部HP・教育学研究科で教鞭を取る。退官後、プリンストン大学客員研究員、国際日本文化研究センター所長を歴任する。
私が先生を知ったのは、1974年1月である。16歳、高校一年生だった。その年の1月から3月まで教育テレビで月曜日と水曜日の週二回朝の六時半から7時まで、先生の講座「無意識の構造」があり、全24回を欠かさず聞いた。暖房もたいしてない部屋で寒くて振るえながら、でも食い入るように講義を聴いていた。それほど面白かった。大学で学ぶっていうのはこんなに面白いもんだろうかと思った。書き込みのあるそのテキストは私の一生の宝物だ。先生の死に際して実家に行ってもってきた。
その後、この講座は77年に中公新書「無意識の構造」(参照)として書籍化されている。74年から77年というと3年足らずなのだが、高校生の私はこのテキストは書籍化されないではないかと思っていたことを、今も思い出す。
それから私はユングに傾倒したかのように、私が読めるユングの書籍や関連書籍を片っ端から読んだ。日本教文社の選集はすべて読んだ。自伝も読んだ。だが、うまく言えないのだが、結局ユングには傾倒はしなかった。先生のあの講座がなにか自分がユングに傾倒することを押し止めていたようにも思う。先生は、直接言ったわけではないが、ユングを日本人は理解でないのではないか、理解できたという思い込みこみは大きな間違いではないか、そんなメッセージ性を私に残していた。私はむしろフロイトに傾倒したが、ユングへの反発ではない。フロイトは、私には当時とても好きだった生物学的な基礎があるように思えた。だから牧康夫の「フロイトの方法」(参照)には親近感を覚えた。77年のことだ。余談だが、ヨガにも傾倒した牧康夫の自殺も、わかるように思えた。
河合先生の講義に戻る。先生の講義はある意味で奇妙なものだった。二回目だったか三回目だったか、女子学生が数名講義に出演するようになった。京大の生徒だろう。先生は、誰かいないと話しづらいんで、みたいなことを少し照れたように語っていた。いわゆる講義めいたものではなく、もっと人に語るように語りたかったのだろうし、そうしなければ伝わりにくいものが先生の思いにあることはわかった。それと、今思うと、先生は意図的に若い女性を配したのかもしれない。
先生はためらいながら元型について語った。それをよくある解説書のように図式的に捉えてはいけないのだということをなんとか伝えたかったようだ。影とアニマの関係についての語り口調にはなにか不思議な思いがこもっていた。真面目に見つめる女子学生に、いやこれは男性の中年期、40歳ころの危機の問題になる、というようなことをくぐもりながら言っていた。
16歳の私は、生きていられるならいつか中年なんていう歳にもなるのだろうかと不思議に思ったことを今でも鮮明に覚えている。そういえば、ヘッセの「荒野のおおかみ」(参照)がその問題を深く掘り下げているのもわかるにはわかった。私はユングに影響を受けたヘッセの書籍も読めるものは片っ端から読んだ。
あの時の河合先生は、47歳であった。言うまでもなく、先生のなかに明確な形で中年の危機や影やアニマの問題、あるいは課題があったのだろう。47歳はそれが一段落つく歳でもあるだろう。今の私も、その歳を越えた。私は今年50歳になる。あのころの先生を思うと、先生ほどの寿命はあるまいと思うから、人生は残り少ないものだなと思う。
私は、先生のいう中年の危機に向き合ったか、と心に問うてみて、そのことは語りたくないわけでもないが語りづらいものを感じる。先生のためらいがよくわかるように思う。
私のユングと河合先生への傾倒のようなものは、高校時代で基本的に終わってしまった。その後、青春の嵐と蹉跌は人並みにあったというか、再起できないくらいのものでもあったが、ユングを顧みることはなかった。河合先生の本は依然読んでいたが、正直に言えば、あまり感銘も受けなかった。
河合先生はユングと死後の生命、そしてあの空に浮かぶ円盤のことについてもためらいながらに語っていた。その語り口調にはためらいもだが、この問題を否定してはいけないよという含みを感じた。言うまでもなく、死後の生命はない、UFOも存在しない。そんな当たり前のことを言うために偽科学だの似非科学だのと浅薄なこという必要はまるでない。ユングが語りかたかったことはそんなことではないし、河合先生が受容したのもそんなことではなかった。
この問題は難しい。私は歳を取るにつれて、難問というものは私の任ではないなと放り出すようになったが、率直に言えば、こっそりと考え続けてはいる。
河合先生のことをその後それほど関心をもたなくなったと言ったが、それも少し違うかもしれない。先生はキューブラー・ロス博士について生涯関心を持っていたようだし、ロス博士の人生観、つまり、死後の生命についても、その後もやはり否定していなかった。なお、関連は「極東ブログ: キューブラー・ロス博士の死と死後の生」(参照)で少し触れた。
74年の講義のテキストを繰っていくと目頭が熱くなるというのでもない、ある清明な感じがする。書き込みや赤い線がいっぱいしてある。16歳の私は人生を掴もうとし、そして人生に怯えていた。だが、私はもう人生の大半の結論を出した。言うまでもなく私は人生の失敗者となった。
たとえば、ある一流会社の社員は、中年になって自分の能力に自信がもてなくなり、人生も無意味に感じられ、果ては自殺ということも心の中に浮かぶほどになった。これでは駄目だと思い意を決して、大学時代の旧友を訪ね相談しようと思った。急に思い立って旧友を訪問すると、その友人が自殺し家族が嘆き悲しんでいるところであった。
われわれ心理療法家のところにおとずれて来る人は、大なり小なり個性化の問題に直面している人達であるので、このような不思議な体験を聞かせてくれる人が多い。この場合、この人の心の中に起こってきた「死」と、友人の「死」という外的事象が、ひとつの布置をつくりあげているのである。そして、この人は必然的に「死」の意味について考えねばならないし、われわれ分析家としては、この人の年齢が、人生の前半の「死」を迎え、後半へと下降する決意をうながしている時期にあることも見てとることができるのである。
人生において何らかの失敗をした人達が、偶然のいたずらを嘆くことが多い。「あの時に、あの女性に会わなかったら」、「あの時、あんな事故にさえ会わなかったら」、「息子がこんな嫁を貰わなかったら」などなど。しかし、われわれがその間の事情をよく聞くと、そこに、その人の内界にも通じる、元型的な、たとえば、アニマの、あるいは影の布置が存在していたことが認められるのである。元型的な布置は、ある「時」が来れば形成される。そのことが解らない人は、何か外的な先行事項に「原因」を求めようとして、探し出すことができず徒労を重ねたり、何かに原因を押しつけてしまってりする。しかし、それでは問題は片づかず、ただ他人は偶然を恨むだけになってしまう。そのときに布置を形成した元型の意味を知ろうとするとき、われわれは建設的な方向を見出すことができるのである。
アイロニカルなことを言いたいわけではないが、「建設的な方向」とは「後半へと下降する決意」である。死に意味がないなら、どうして下降できるのだろうか。あるいは、下降のなかで死に意味を求めるのか。
この問題が難しいのは、やはり、死にはそうした意味はない、ということだろう。死は無であり、人生はその無を意識のなかに取り込む過程なのだろう。
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コメント
それは恐らく上昇。
投稿: とと | 2007.07.22 02:21
人が死ねばブログの話題の出来上がり。趣味悪いのお。
投稿: 北澤 | 2007.07.22 07:48
いや、このそれなりに年月を重ねた「NHK大学講座」(画像)からして一定の愛を感じましたよボクは。
投稿: ぽっぽ | 2007.07.22 20:08
私はソニーの井深さんがスポンサードしていた「人体科学会」で、山折氏を知り、その師匠格ということで、河合氏を知りました。
そのとき、ユングのムック本なんかもすでに読んでいて、河合氏が監修だったのを確認したという感じ。
結局のところ、科学の限界・規範として、「魂の死後存続を認めない」というのがある。人体科学会では、ベッカー薫氏とも話しましたが、落胆したものです。
ユングの集合的無意識はぎりぎりのところで、現代社会に認知されるのだが、それから先は、「ぶっとび…」とされる。
キューブラロス女史が、魂の死後存続を語ったために、現代社会から異端視された。
社会的地位を得た河合氏は、山折氏はどうなのか…。どうだったのでしょうか。
巷間のアンケートによれば、魂の死後存続を信じている・感じている日本人は、半数に近いといいます。
社会も、教育も、「死んだらそれまで」と、教えているのに、この数字。
なんという現代なんでしょうか…。
投稿: スポンタ中村 | 2007.07.23 09:01
些かメロドラマ趣向が過ぎるのかもしれませんが、
「魂」を考えるとき、私はエルンスト・ルビッチ監督の『天国は待ってくれる』を思い浮かべます。
あの、「呼吸をするようなキス」とでもいったらいいのか?
まるで朝日と瞼の関係のようなスムーズさで彼女の「傍ら」に近づいて、事が起こって(「熾って」?)、駆け落ち、結婚。当惑する親族、一方に自分の断念された青春の再現を祝福する、豪腕な男方の祖父。たっぷりと禍根が揃っているのに、しかし「その時」に接した私は、違和感なんて想像する余地もない幸福を見てしまったのだと感じて…一瞬震えました(モナドを見たんでしょうか?)。
「在る訳が無いんだ、あんなことは。居る訳が無いんだ、あんな女は。随って、あんな男も…」と反芻しながら、残る一時間、いったいどれだけ一人の人間の人生には「今ココ」として「天国は待ってくれる」と信じられることがあるんだろうか?と考えたか知れません。
>この問題が難しいのは、やはり、死にはそうした意味はない、ということだろう。死は無であり、人生はその無を意識のなかに取り込む過程なのだろう。
以前として、「もしかしたら」が強いです、私の中では。
長文失礼しました。
投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.07.23 15:41
綾瀬はるかちゃんのお宝動画&画像を大量放出!ポカリCMのスタッフ流出物から、売れない時代に『品川庄司』に受けたセクハラ動画!ゆうこりんとの擬似フェラ○オ動画など、お宝満載ですよ!
http://ayaharu723.cocolog-nifty.com/blog/
投稿: 綾瀬はるか お宝 映像集 | 2007.07.23 16:12
東洋と西洋の違いとは、いつの時代から分化したのではなく、根本的な違いがあると、私は考えています。
*
つまり、キリスト教によって、西洋の形ができたのではなく、縄文人と弥生人の違いのような、文化的な問題ではなく、もっと深いレベルでの違いがあると考えています。
☆
私は、その典型的なものとして霊数を想起します。
13という数字が、単にキリストの運命に関わるだけではなく、不幸を呼ぶ数字だということは知られています。
偶然なのか、必然なのかは分かりませんが、13という数字に関する忌まわしき出来事は枚挙に暇がないし、そのことを西洋人たちは信じている。
だが、東洋での霊数という考え方においては、13はラッキーな数字。
忌み嫌われる数字は、4や9であり、それらは、死や苦を意味する以上に、霊数・占術の世界では、悪い数字なのです。
☆
シュタイナーも一人のシャーマンでしかなく、全知全能ではない。
それぞれのソウルメイトのレベルにおいて、納得する言論がある。
そのようなものだと感じています。
*
横レス失礼いたしました。
投稿: スポンタ中村 | 2007.07.28 09:32
ユングの心理学と仏教の唯識論、特に集合的無意識と阿頼耶識は関係があるのかないのか、知っている人は教えてください。
投稿: 疑問。 | 2007.08.05 16:04
ディーン・ルディアという占星術師は、ユングに関係が深いみたいです。この人は、サビアンとか、ルネーションとか特異な占星術のコンセプトを編み出しました。サビアンはよくわからないのですが、ルネーションの、新月から次の新月までを8分割していろいろな事柄を考察していくという手法は面白いと思いました。特に、プログレス法という運勢予測法、解釈法と組み合わせると納得することがいろいろ見つかります。中国の二十四節気も、もともとは春夏秋冬を8分割する季節分割法だったそうなので、ルネーションにも説得力があります。わたしは、なぜ東洋占術では正節を区分に用い、西洋占星術の黄道十二宮は中気が区分に用いられているのか知らないし、なぜ気学の年初が立春で、西洋占星術の区分の開始が春分点なのか、そして、なぜ中国の太陰暦の開始が新月で、キリスト教の復活祭が春分の日の直後の満月の日の直後の日曜日なのか知りませんが、天文学や心理学に明るい人ならば合理的な回答を用意できるのだろうと考えています。そして、その回答を自力で探り当てることに成功できれば、私も占星術や気学、四柱推命などを職業にできるのであろうと考えています。
投稿: ルネーション | 2008.03.01 12:41
ユングは禅仏教を好きになれなかったとのことです。
でも、ユングが知り得た禅は、きっと野狐禅だったのだろうと思います。
私は禅をきちっと学んだわけではないけれど、禅というのは、先入観を事実に押し付けるのではなく、対象それ自体の語り出すことを傾聴する訓練ではないのかと思っています。
ニーチェは、「困難なのは物事に関して考えることではない、物事に即して考えることである」といったと記憶していますが、禅とは「物事に即して考える」訓練ではないかと思っています。そして自由の拡大の訓練でもあろうとも思っています。
エドマンド・バークやセーレン・キルケゴールのようなキリスト教の篤信家は、自由を、権利の行使ではなく、責任能力と捉えたそうです。
禅仏教は、責任という観点では、老荘思想の悪しき影響のためか、意識に希薄な部分があるように思います。
責任という観点では、孔子と「論語」に登場する孔子の直弟子たちは、強烈な責任感をみなぎらせているように思われます。
禅宗でも、五山の僧侶たちは、朱子学を熱心に学び、普及させる努力をしていたようです。禅僧でも、まともな問題意識の持ち主たちは、禅仏教のエッセンスに欠けている要素を直感的に捉え、補えるところから補おうとしたのだろうと思います。
日本のユング研究者の中に、ユングが知ることの出来た禅は野狐禅だったのだと言えるような人がいないらしいのを残念に思います。
投稿: ユングと禅 | 2008.04.20 14:15
G.Iグルジェフは、弟子たちに占星術やタロットについていろいろ話をしたみたいです。
でも、その割には占星術やタロットの占い方の具体的な話や解釈法については注意深く言及を避けているように思われます。
若いときはなぜなのかわからなかったけれど、最近はこう考えるようになりました。
もし、グルジェフが占いを具体的に教えてしまうと、弟子たちの中に多くの教条主義者と勝手な解釈を付加していくものが現れることがわかっていたからです。そして、いずれは収拾がつかなくなるからです。
そう考えると、結局、グルジェフが教えていた神秘思想の多くは、後の時代にどういうふうに捻じ曲げられても、それほど有害ではないような、どうでもよいことがたくさん含まれているということなのだろうと思います。肝心なのはエッセンスです。人間の実存への真剣な関心です。
そして、こういうグルジェフ解釈も教条主義的グルジェフィアンには許しがたい1つの勝手なグルジェフ解釈なのだろうと思っています。
こういう、教条主義者と勝手な解釈を施す輩の出現という弊害は、ユング心理学でも事情は似ているだろうと推測しています。
投稿: グルジェフと占い | 2008.04.20 15:35
「感情の制御」と書いてしまいましたが、「感情を制御」の誤りです。すみませんでした。
投稿: 「心」の訂正 | 2008.05.04 12:29
「天神様のおはからい4」で、つづりに乱れがあったのがわかりましたので、その点再整理させていただきます。
「大学」と「中庸」は、
Ta Hsueh and Chung Yung
であり、
仏訳「論語」は、
Les Entretiens de Confucius
です。
直すまでもないことですが、不注意ゆえに体裁が悪くなったのが気分悪く感じたので、記入させていただきました。
投稿: つづりの乱れの訂正 | 2008.05.25 12:47
白隠禅師に「へびいちご」という著作があるそうです。
その「へびいちご」では、白隠禅師は毎日、200、300遍、延命十句観音経を唱えることを推奨しているそうです。そうすれば、「かならずおどろくばかりの霊験があらわれる」のだそうです。
白隠禅師ご自身がそうおっしゃっているのだからそうして悪いはずがありません。
それでも、妙心寺の、興祖微妙大師六百年大法会記念の、花園法皇の無相大師関山上人への書状(依頼状と申しますか、信任状と申しますかそういう内容です。)も収録した勤行聖典が、延命十句観音経は7回唱えればよいとしているのですから、この場合は、妙心寺の権威を優先させて、延命十句観音経は、その都度7回唱えれば十分であるとしてよいものと考えます。
投稿: 「へびいちご」 | 2008.06.03 14:42