[書評]私、おバカですが、何か? 偏差値40のかしこい生き方(深田萌絵)
さすがマガジンハウスだけのことはあって、「私、おバカですが、何か? 偏差値40のかしこい生き方(深田萌絵)」(参照)は単純に面白く、役立つようにできているので、まずはお得な本と言えるなと感心した(昔の斎藤澪奈子本の編集と似ている)。本の、取りあえずのターゲットは高校生かとも思うがむしろ、彼女のように再学習したい二十代後半の女性(男性もかな)がターゲットと見ていいのかもしれないし、そのあたりにニッチの教育マーケットがありそうだ。そう考えると、いわゆる「失われた世代」も後期になると新しい動きが出てくるものだと思った。ちょっと感想が先走りすぎたか。
私、おバカですが、何か? 偏差値40のかしこい生き方 |
冷やっとした言い方をすると彼女は「かしこい」のであって、普通に偏差値40の人がこうできるわけもないのだが、やってみそ、やっちゃえ!みたいな元気なパワーはあってもいいのではないか。若いんだし。このブログに爺とか老人の戯言とかネガコメ付けるような後ろ向きな青少年なんか置いてけてば、みたいなイケイケの時代のサイクルかもしれない。彼女が言うように、宝くじを買わなければ当たるチャンスはない、というのもありだ。でも宝くじを買うのは期待値を考えればおバカなことだ、というのもあるが、まあ、そこは目をつむっちゃえ。
本書がおバカねた満載でありながら、これは根本的に賢いなと思うことは二つ。一つはこれも冷やっと言ってしまうけど、家族の悲惨な物語がパーソナルに読めちゃうので彼女のパーソナルな部分が出ているような錯覚があるけど、本当のパーソナルな部分はうまく書かれていない。これはソートーに賢いし、でなければそんな復活の芸当はできなよなというあたりを大人はきちんと読むので、ずるこいオジサンや爺さんたちにとって、この人は買いでしょ。
もう一つは、OL時代のお局さん対決のところで、お局さんの給料を盗み見て。
「えー!!マジ?!30歳になって給料が22万円しかなくて、男もいないお局様みたいになったら超不幸!!」
とそのとき真剣に思いました。
(中略)
「うっわー……。30歳でお肌ボロボロになるまで働かされて、ヒステリーで、この給料なんて、夢がなさすぎる! こんなことをやっていたら私の将来が危うい!」
とお局様に失礼なことを考えたときは、21歳で、何となく始めた英会話を真剣にやらないと、月収30万円になるのに何年かかるか分からないって焦りが出ました。
「私が33歳になったら私の母は60歳で働けない。22万円でどうやって母と自分の生活支えるの? 国がなんとかしてくれるの?」
その状況のパースペティブをさっと見抜くのはある意味でかしこいし、そういうドツボな状況から抜け出すには馬鹿力(ばかりょく?)が必要なことは確かで、鋏の使いようみたいなものでもある。ついでに言うと、引用部の最後の一言に現在の賢い彼女の思いがこそっと覗かせているあたりが小憎い。国はなんにもしてくれないよ、というメッセージをきちんとひとりのおバカな庶民がメッセージを出している、というか、そういうメッセージが出てきたとき、国は変わり始める。一身の独立なくして一国の独立なし。俺の払った年金クレクレとか騒いでいる爺さんたちが正義面している状態のほうが国は腐っていきやすい。
笑いを取ってなんぼの関西人魂の裏に、こそっと大きな気概が隠れているし、普通の読書人なら彼女が偏差値40という国家的なトラップを打ち破ったものが賢さより気概であったことがわかるだろう。本書は若い人が内的な促しから一つの大きな意志を持つようになったビルドゥングスロマンでもある。
父の会社が潰れて、仕事を始めたけど給料が安すぎてアルバイトをしないと暮らせない。私が感じたそんな苦しみは、私だけではなく私たちの世代が感じてきた苦しみ。きっとバブル崩壊後の日本の経済を上手にコントロールでできなかった日本銀行か政府か誰かのミスからきているんだ!!という気がしていたんです。「もっとうまくやってよ!」って偉い人たちに文句を言ってやりたいと思ってもいました。お役人は何もせずに高給をもらっているのに、私は私の友達を「若者はやる気がないから働かないんだ」、「なんでニートなんかやってるんだ」って好き勝手にレッテルを貼っている。この時代、正社員はおろか派遣社員にもなれないたくさんの若者の実態があるのに、テレビで好き勝手に言われているのは理不尽だと思った。夜な夜な街を徘徊している家出少女たちを大人たちは、「理解できない」と切り捨てる一方で、セックスの対象として買い漁ってるじゃないか。十代の子供を助けずにいいように扱っているくせに、「子供はキレやすくなった」なんて酷いんじゃない? 実態を知らない人たちの一方的な論調を聞くたびに「どうして、そういう切り口なの?」、「どうして、知っていて見捨てるの?」ってすごく憤慨していたんです。
ちょっとテンプレ臭いが、このテンプレにはきちんと彼女の若い人生経験の裏付けがあり、そういう経験の地べたから語る人の真実味のようなものがある。
そして彼女は経済を勉強したいと思うようになる。
そうだ、私が書こう。勉強して、何が起こっているのか、専門用語なんか使わずに書けるようになろう。経済のことも政治のことも知らないけど、「好きでニートやってるんじゃないよ! 長引く不況だって、日銀の政策ミスだろ!!」って文句を言ってやりたいと思っていた。だから、
「そうだ、大学で勉強して、偉い人たちに文句を言おう!」
なんて、思ってしまったんですね。
ブログで私のように歳食ってもおバカのまま文句を言うより、大学で勉強して文句を言ったほうがいいし、文句とか他律的ことではなく、社会とかその評価とかどうでもいいから夢中になってそれに人生棒に振ってもいいやくらいのものの基礎を大学に求めてもいいだろうと思う。
そして彼女も30歳になるということなのか、テンプレじゃなくて大人の言葉もこそっと語り始める。
(前略)本当に食べていくだけで精一杯だったんです。そんな鼻つまみ者扱いが、大学が決まっただけで「あ、早大生なんですね」って周囲は好意的に受け入れてくれるようになったんです。
決して「早稲田大学が日本一の大学です!」、「学歴がすべてです!」なんて思っているのではなく、ある程度の大学にいるというだけで、社会的な信用度が大きくなり、有名大学って入ってみるとお得な身分だなって、つくづく思います。
それまでの「え、○○短大卒なの?」って眉をひそめられていたのとは違う現実を突きつけられる。
社会って、不思議な世界で、私は短大のときの私と何か変わった訳でもないのに、大学の看板があるだけで扱いが変わるんですね。
「社会は、人々に機会を均等に与えるべきだ」という理念があるはずなのに、現実はまったく違います。
でも、大学の看板ひとつで、今まで得られなかった幸運やチャンスが巡ってくるなら、有名大学に行くのって悪くありません。生まれた時代や、環境、性別から生まれる差は、自分の努力だけでは乗り越えられないものかもしれないけど、受験は努力と運でなんとかなるから。
そういうことだと私は頷く反面、大学の看板なんか忘れちゃいなさいと思う面もある。
そこは少しややこしい問題があるかなと思うし、彼女が10年後にダークサイドに落ちている可能性だってある。力というのは陰陽から出るものだし、たぶん、きっと。フォースと共にあらんことを。
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