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2007.07.31

[書評]私、おバカですが、何か? 偏差値40のかしこい生き方(深田萌絵)

 さすがマガジンハウスだけのことはあって、「私、おバカですが、何か? 偏差値40のかしこい生き方(深田萌絵)」(参照)は単純に面白く、役立つようにできているので、まずはお得な本と言えるなと感心した(昔の斎藤澪奈子本の編集と似ている)。本の、取りあえずのターゲットは高校生かとも思うがむしろ、彼女のように再学習したい二十代後半の女性(男性もかな)がターゲットと見ていいのかもしれないし、そのあたりにニッチの教育マーケットがありそうだ。そう考えると、いわゆる「失われた世代」も後期になると新しい動きが出てくるものだと思った。ちょっと感想が先走りすぎたか。

cover
私、おバカですが、何か?
偏差値40のかしこい生き方
 表題にあるように、著者のおバカ歴がこてこてと書いてあって、さすがにこれは偏差値40だろと納得するしかないリアリティがある、と言いたいところだが、私は偏差値40というのがわからない。自分の世代から偏差値が導入されたのだが私は68だったか72だったか。これって数学的には75までだけど78とか出せるんだよなと数字を見た記憶にある。ってなことを書くと、「私、お利口ですが、何か? 偏差値72のおバカな生き方」になりそうだが、現実の話、彼女はかしこい生き方で、私はおバカな生き方でもはやリセットも効かず。
 冷やっとした言い方をすると彼女は「かしこい」のであって、普通に偏差値40の人がこうできるわけもないのだが、やってみそ、やっちゃえ!みたいな元気なパワーはあってもいいのではないか。若いんだし。このブログに爺とか老人の戯言とかネガコメ付けるような後ろ向きな青少年なんか置いてけてば、みたいなイケイケの時代のサイクルかもしれない。彼女が言うように、宝くじを買わなければ当たるチャンスはない、というのもありだ。でも宝くじを買うのは期待値を考えればおバカなことだ、というのもあるが、まあ、そこは目をつむっちゃえ。
 本書がおバカねた満載でありながら、これは根本的に賢いなと思うことは二つ。一つはこれも冷やっと言ってしまうけど、家族の悲惨な物語がパーソナルに読めちゃうので彼女のパーソナルな部分が出ているような錯覚があるけど、本当のパーソナルな部分はうまく書かれていない。これはソートーに賢いし、でなければそんな復活の芸当はできなよなというあたりを大人はきちんと読むので、ずるこいオジサンや爺さんたちにとって、この人は買いでしょ。
 もう一つは、OL時代のお局さん対決のところで、お局さんの給料を盗み見て。

「えー!!マジ?!30歳になって給料が22万円しかなくて、男もいないお局様みたいになったら超不幸!!」
 とそのとき真剣に思いました。
 (中略)
 「うっわー……。30歳でお肌ボロボロになるまで働かされて、ヒステリーで、この給料なんて、夢がなさすぎる! こんなことをやっていたら私の将来が危うい!」
 とお局様に失礼なことを考えたときは、21歳で、何となく始めた英会話を真剣にやらないと、月収30万円になるのに何年かかるか分からないって焦りが出ました。
 「私が33歳になったら私の母は60歳で働けない。22万円でどうやって母と自分の生活支えるの? 国がなんとかしてくれるの?」

 その状況のパースペティブをさっと見抜くのはある意味でかしこいし、そういうドツボな状況から抜け出すには馬鹿力(ばかりょく?)が必要なことは確かで、鋏の使いようみたいなものでもある。ついでに言うと、引用部の最後の一言に現在の賢い彼女の思いがこそっと覗かせているあたりが小憎い。国はなんにもしてくれないよ、というメッセージをきちんとひとりのおバカな庶民がメッセージを出している、というか、そういうメッセージが出てきたとき、国は変わり始める。一身の独立なくして一国の独立なし。俺の払った年金クレクレとか騒いでいる爺さんたちが正義面している状態のほうが国は腐っていきやすい。
 笑いを取ってなんぼの関西人魂の裏に、こそっと大きな気概が隠れているし、普通の読書人なら彼女が偏差値40という国家的なトラップを打ち破ったものが賢さより気概であったことがわかるだろう。本書は若い人が内的な促しから一つの大きな意志を持つようになったビルドゥングスロマンでもある。

 父の会社が潰れて、仕事を始めたけど給料が安すぎてアルバイトをしないと暮らせない。私が感じたそんな苦しみは、私だけではなく私たちの世代が感じてきた苦しみ。きっとバブル崩壊後の日本の経済を上手にコントロールでできなかった日本銀行か政府か誰かのミスからきているんだ!!という気がしていたんです。「もっとうまくやってよ!」って偉い人たちに文句を言ってやりたいと思ってもいました。お役人は何もせずに高給をもらっているのに、私は私の友達を「若者はやる気がないから働かないんだ」、「なんでニートなんかやってるんだ」って好き勝手にレッテルを貼っている。この時代、正社員はおろか派遣社員にもなれないたくさんの若者の実態があるのに、テレビで好き勝手に言われているのは理不尽だと思った。夜な夜な街を徘徊している家出少女たちを大人たちは、「理解できない」と切り捨てる一方で、セックスの対象として買い漁ってるじゃないか。十代の子供を助けずにいいように扱っているくせに、「子供はキレやすくなった」なんて酷いんじゃない? 実態を知らない人たちの一方的な論調を聞くたびに「どうして、そういう切り口なの?」、「どうして、知っていて見捨てるの?」ってすごく憤慨していたんです。

 ちょっとテンプレ臭いが、このテンプレにはきちんと彼女の若い人生経験の裏付けがあり、そういう経験の地べたから語る人の真実味のようなものがある。
 そして彼女は経済を勉強したいと思うようになる。

 そうだ、私が書こう。勉強して、何が起こっているのか、専門用語なんか使わずに書けるようになろう。経済のことも政治のことも知らないけど、「好きでニートやってるんじゃないよ! 長引く不況だって、日銀の政策ミスだろ!!」って文句を言ってやりたいと思っていた。だから、
「そうだ、大学で勉強して、偉い人たちに文句を言おう!」
 なんて、思ってしまったんですね。

 ブログで私のように歳食ってもおバカのまま文句を言うより、大学で勉強して文句を言ったほうがいいし、文句とか他律的ことではなく、社会とかその評価とかどうでもいいから夢中になってそれに人生棒に振ってもいいやくらいのものの基礎を大学に求めてもいいだろうと思う。
 そして彼女も30歳になるということなのか、テンプレじゃなくて大人の言葉もこそっと語り始める。

(前略)本当に食べていくだけで精一杯だったんです。そんな鼻つまみ者扱いが、大学が決まっただけで「あ、早大生なんですね」って周囲は好意的に受け入れてくれるようになったんです。
 決して「早稲田大学が日本一の大学です!」、「学歴がすべてです!」なんて思っているのではなく、ある程度の大学にいるというだけで、社会的な信用度が大きくなり、有名大学って入ってみるとお得な身分だなって、つくづく思います。
 それまでの「え、○○短大卒なの?」って眉をひそめられていたのとは違う現実を突きつけられる。
 社会って、不思議な世界で、私は短大のときの私と何か変わった訳でもないのに、大学の看板があるだけで扱いが変わるんですね。
 「社会は、人々に機会を均等に与えるべきだ」という理念があるはずなのに、現実はまったく違います。
 でも、大学の看板ひとつで、今まで得られなかった幸運やチャンスが巡ってくるなら、有名大学に行くのって悪くありません。生まれた時代や、環境、性別から生まれる差は、自分の努力だけでは乗り越えられないものかもしれないけど、受験は努力と運でなんとかなるから。

 そういうことだと私は頷く反面、大学の看板なんか忘れちゃいなさいと思う面もある。
 そこは少しややこしい問題があるかなと思うし、彼女が10年後にダークサイドに落ちている可能性だってある。力というのは陰陽から出るものだし、たぶん、きっと。フォースと共にあらんことを。

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2007.07.30

2007年参院選、雑感

 参院選が終わった。民主党に投票した私とすれば期待を上回る結果になったが、ブロガーとしての予想(参照)は大きく外した。そのあたりの反省から書いてみたい。
 予想を外した理由は二つあった。一つは一人区でここまで自民党が負けるとは思っていなかったことだ。象徴的な事例としては片山虎之助参院幹事長落選は想像もしていなかった。私は基本的に5月時点での読売ウィークリーの読みである、15選挙区での獲得はいけるのではないかと思っていた。しかし、読売ウィークリーが自民党勝利例とした富山ですら自民党は敗れた。


 29選挙区のうち、自民が議席を固めつつあるのが群馬富山など15選挙区、逆に民主優位なのが岩手、三重など6選挙区。残りの8選挙区はほぼ互角の戦いだ。

 結果は自民党が獲得した議席は6に過ぎなかった。
 結果がわかった時点で振り返って、一人区の予想が7月7日の時点で可能だったかだが、私には無理だったのではないかと思う。なので、私には2007年参院選を的確に予想する能力が基本的になかったことになる。
 もう一つ予想を外したのは複数区で人気政党による押し出し効果があったことだ。単純な例で言えば、二人の民主党候補が当選することで公明党候補が押し出された。獲得票数としては公明党の勢力が衰えているわけではないが、こうした事態になるとき通常なら鉄板の票数による票固めが有効にならない。
 この点も参考にした5月時点での読売ウィークリーの読みを振り返ってみよう。便宜的に予想が当たっている部分を赤、外したところを青にしてみた。

 選挙区ごとに優位に戦いを進めている党派を並べると、次のようになる。
 ▼改選議席(5)=東京(民・民
 ▼改選議席(3)=埼玉(自・民)、千葉(自・民・民)、神奈川(自・民)、愛知(自・民)、大阪(自・民・公
 ▼改選議席(2)=北海道(自・民)、宮城(自・民)、福島(自・民)、茨城(自・民)、新潟(自・民)、長野(自・民)、静岡(自・民)、岐阜(自・民)、京都(自・民)、兵庫(自・民)、広島(自・民)、福岡(自・民

 東京の保坂三蔵落選を例外とすれば、残り3つは民主党による公明党押し出しによるものだった。この部分の予想については押し出し効果が出ることは予想できなったという点では予想を外したが、概ね予想した域内に収まってる。
 比例区についても同様に見てみよう。

比例選の場合、自民党の獲得議席は直前の報道各社の世論調査の自民党支持率が参考になる。自民vs民主の構図で戦った過去3回の獲得議席との相関(数字は読売新聞調査)を見ると、2004年(32.7%)→15議席、01年(41.0%)→20議席、1998年(31.4%)→14議席。直近調査(3月17日)の自民党支持率は36.4%だから、現段階で17議席程度が見込まれる。

 結果は自民党の議席は14なので、誤差は3議席ほど。これも概ね予想した域内に収まってる。
 なので、複数区と比例区についてはそれほど予想外のことは起きていない。この点について私はこう書いていた。

その後、安倍自民党バッシングのような状態は続いて、5日付読売新聞”安倍内閣支持率32%に下落、不支持率は53%…読売調査”(参照)ではさらに落ち込んでいるが、それで比例選に大きな影響を出すほどのものでもない。また複数区のほうもそれほど変化はないだろう。

 この点は概ね予想どおりではあったが、先の押し出し効果は想定できなかった。私はメディアが安倍自民党バッシングを流しても比例区と複数区にはそれほど影響はでないと思っていたし、結果としてはそれほど大きな影響を出しているとは思えない。
 以上で予想外しの反省は終え、結果についての考察に移る。
 今回の参院選の意義は一人区で自民党が大敗したことだろう。当然ながら一人区というのは基本的に票格差の大きい地方になるのだが、そこで従来の自民党による集票組織が機能していなかったことになる。開票速報のインタビュー映像などでそうした地域の話を聞くと自民党への怒りのようなものから票が民主党に流れたかのようにも思えるし、実際そういう面はあるのだろうが、私としては自民党による集票組織が機能しないことが大きな原因だろうと思う。ではなぜ機能しなかったのか。基本的にこうした地方の集票組織は利益集団でもあるのでその利益機能が弱体化してしまったのだろうということと、小泉政治によって解体させられた余波があるように思える。自民党に集票組織があれば島根の亀井亜希子のような当選は無理だったのではないか。
 今後の日本の政治について今の時点で思う印象を述べたい。外交面ではすでに米国ヒル国務次官補が結果的に言及していたが日本の対北朝鮮外交はより弱体化するだろう。内政面では自民党が参院をグリップできないことで大きな混乱が起きるだろう。ただ、橋本元総理のように安倍総理引退とまで予想はできない。衆院には衆院の論理があるだろう。
 橋本元総理の参院選敗退は、私は基本的に経済政策のミスによるものだろうと思っていたし、私は日本人というのは利に聡く、経済面で大きな失策がなければそれほど政権への打撃はないものだと考えている。年金問題についてはすでに言われているように民主党に解決の秘策があるわけではないし、憲法改正問題は私には悪いジョークのようにしか思えない。では、今回の参院選の結果は日本人が現政権の経済政策にNO(否)を言ったかというと、地方からは大きなNOが出たことは確かだろう。だがそれは多分に地方からのルサンチマンに近く、日本経済のステークホルダーたちにどの程度影響をもたらすかといえば、それほど大したことはないだろう。大企業の活動は円安によって好調だ。なので、経済政策面で安倍続投というのは無言に概ね支持されているのではないか。

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2007.07.29

なんとなく最近iPodで聞いている曲

 なんとなく最近iPodで聞いている曲というだけで、特にテーマもなければテイストもないし、そんな好きな曲ということでもないのだけど。

Kiss & Cry 宇多田ヒカル

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Beautiful World
Kiss & Cry
 歌詞のなかにべたに「日清カップヌードル」が出てくるCMソングみたいだし、実際そうなんだろうけど、その言葉の使い方がとてもうまい。彼女が生まれたのは80年代なんでそうした世代にしてみると「日清カップヌードル」は最初からあったのだろう。私はリアルタイムで「ヤングOH!OH!」を見ていたのでそこからの時代の詩情感はある。ほか、音の作りも面白いけどそれにもまして詩がとても美しい。恋について「少し怪我したって、まあいいんじゃない、Kiss & Cry」というのは、困ったことにオジサン受けしてしまうのでしょうね。

人魚姫の夢 松任谷由実

cover
人魚姫の夢
 ユーミンの最新だろうか。サウンドの作りはまいどまいどなんでさらっと流してしまうのだけど、詩がぞっとするほど美しい。そしてこれは死の美しさというもので、人魚姫というより夜のガスパールとか折口信夫「死者の書」の中将姫的なものとかそういう浄土教的な美でもありと駄言を弄してしまうのだが、聞き方によってはかなり気持ち悪い。ユーミンの声についてはいろいろ言われるがこの曲では老女化した彼女のいい部分が出てきて、これもぞっとする。

汚れた下着 中村中

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汚れた下着
 私は中村中についてなーんも知らないで最初「友達の歌」というのを聞いていたのだが、このいわゆる女性的とは違う奇妙な心の動きとそして悲痛な叫びはなんだろうと彼女に引き込まれた。「愚痴」という歌では彼女の腹の底からの叫びというか、これこそ演歌というコブシに魅了された。そして「汚れた下着」。美しい曲だと思う。なぜそこまで愛に真実を求めてしまうのか、普通は妥協するよなとか思いつつ彼女の抱えたものの強さに感動した。

Time after time花舞う街で 倉木麻衣

cover
Time after time
花舞う街で
 2003年の曲らしい。知らないでいた。私は倉木麻衣を聞いていると桜田淳子を思い出しそしてアコージングリー引くという脳内トラップがあるのでなんとなく避けていたのだが、この曲は中国人女性の水泳をユーチューブで見ていてBGMで知った。一発で心を捉えてしまったので、他に倉木麻衣の曲をあさったがどうもこの曲だけが私に特殊のようだ。美しくなぞめいた曲だが、歌唱はすごく歌謡曲っぽい。

ありがとう・・・  KOKIA

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pearl
 メロディと、率直に言って、ちょっとエロい声に引かれた。そしてなんとなくというかたぶん彼女のような女性私の世代にはクラクラしちゃうものがある。歌唱は元ちとせみたいな裏声の転がしがあってあって、なんだろうと思った。詩はメロディーにマッチしているかのようだが、そこで歌われている恋の風景は、これも私たちの世代に近い、どろっとした部分があるように思えた。

会いたい 藤田麻衣子

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会いたい
 これは聞いていると詩もメロディも歌唱もすべてが私のティーネージのことを思い出させて、なんか目の奥が痛くなる。ああ、そういう感情のなかで生きていたなというか、新宿、渋谷、吉祥寺の昔の風景がフラッシュバックする。歌を学んだ人の歌ではないように思うのと、この声はまだ成長してないんじゃないかとかいろいろ不思議な感じがする。アミンとかああいう感じに近いんだろうか、違うか。

僕たちのTomorrow 池田綾子

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僕たちのTomorrow
 これも古い曲っぽい。この人は曲の作りや歌唱からかなり音楽を学んだ人という感じがして、そのあたりになんだろ?とか思った。詩はぴんとこない。

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2007.07.27

韓国人ボランティア拉致事件、雑感

 アフガニスタンのタリバンが韓国人ボランティアを拉致した事件報道を聞いて、「ひどい話だ、早く女性たちが解放されればよい」と思った。が、率直なところ、日本人が拉致された事件ほどには関心はもってなかった。
 私はNHKのニュースをラジオで聞いたり、あるいはテレビの音声だけをラジオでときたま聞くのだが、このニュース、まるで国内ニュースのように比重が高いので、日本人の関係者が含まれているのかもしれないと思っていた。どうなんだろうか。そのあたりの日本でのニュース・バリューはなんなのだろうか、と奇妙な感じがしていたし、今もしている。
 拉致された人たちの大半が女性であるというのも不思議だなと思ったし、そもそもなぜ韓国人女性がアフガニスタンにボランティアを、というあたりで、昨年のあのニュースと関係あるのかなと少し思った。昨年のあのニュースとは「韓国のキリスト教系団体、アフガンでの祭典中止 イスラム聖職者らの反発で」(読売2006.8.5)である。


 国民のほぼ100%がイスラム教徒で占められるアフガニスタンの首都カブールで、韓国のキリスト教系民間活動団体(NGO)メンバーが1000人規模の「平和の祭典」を計画、混乱を恐れたアフガン、韓国両政府の説得で中止される騒ぎがあった。
 この団体は、ソウルに本部を置く「アジア協力機構」(IACD)で、今月5日、カブールの競技場などで集会を企画。韓国から2日までに、子ども約600人を含む約1500人がアフガン入りした。

 混乱を恐れたというのには、北部マザリシャリフでイスラム聖職者数百人が行った「韓国人キリスト教徒を追い出せ」のデモ行進も含まれる。
 昨年のこのとき、韓国政府は危険を想定していたようだった。

 このため、韓国政府がアフガン政府に、集会参加目的の韓国人の入国を許可しないよう要請。在カブール韓国大使館も約200人の在留韓国人に対し、危険回避のため、集会終了までアフガンを離れるように呼びかけたという。

 韓国人民間団体としてはボランティア活動ということだし、24日付け朝日新聞社説「アフガンの人質―韓国人たちの解放を願う」(参照)もその線で書かれていた。

 若者たちの中には、遺書をしたためて参加した者もいるという。治安が悪化し、危険なことを承知でアフガンに入り、手を差し伸べようとした志や善意を非難することはできない。
 問題は、アフガンの治安が彼らの予想を超えて悪くなっていたことだ。一行は真新しい大型バスに乗っていた。外国人を狙った拉致やテロ事件が増えていることを考えれば、目立たないようにするなどもっと工夫が必要だった。
 タリバーンに襲われているのは、外国人だけではない。彼らは女子教育を目の敵にし、昨年だけで200校近くの公立学校を焼き打ちにした。女子生徒が殺害される事件も続発している。

 朝日新聞は昨年の事件を知らなかったのかもしれない。あるいは「目立たないようにするなど」という言葉に万感の思いを込めたのかもしれない。が、この活動は、アフガニスタンの一部ではあろうが、宗教的な反発を買っていたので、広義に外国人や女子教育も迫害したというのとは文脈が違うように思える。そのあたり、この朝日新聞社説でも顕著なのだが、なぜか避けるように触れていない。
 もう一点、不思議に思えたのは、これはテロとの戦いであり相手はテロリストだということから、交渉の余地というのは表向きには存在しないのだが、だらだらと流れてくるNHKのニュースではやたらと交渉の話が出てくる。ただ、先の朝日新聞社説では一応こう踏まえてはいる。

 駐留している韓国軍は医療部隊と工兵部隊で200人余り。もともと年内に撤退する予定であり、即時撤退の要求には応じていない。人質をとっての脅しに屈するわけにはいくまい。

 ここに一応「テロとの戦い」が含まれているのだろうか。ところが、今日付の朝日新聞記事”「タリバーンへ身代金」州当局 人質女性、助け求め電話”(参照)では、次のように書かれている。

 アフガニスタンの韓国人人質事件で、地元ガズニ州当局筋は26日、反政府勢力タリバーンへの身代金の一部を25日夜に支払ったと朝日新聞に明らかにした。

 よくわからない報道だという感じがする。私の常識が普通の常識なら、この報道は韓国政府を窮地に立たせる。ので、「朝日新聞に明らかにした」としても流すのを抑えるものではないだろうか。
 イスラム教国へキリスト教を布教するというはどうだろうかという議論は、ネットなどでも見かけないように思うが、どうだろうか。なんとなく日本では問題意識にも登らないのかもしれないが、私は布教というのは本質的にそんなものかもしれないなという思いもあり、そのあたりの問題意識は浮いている。
 韓国人はそのあたりどう考えているかと、私が読める英語側の報道を見ていると、ずばりその問題意識を問うているものがあった。Korea Times”Is Missionary Work Safe in Islamic World?(イスラム世界での布教は安全か?)”(参照)である。

Is it safe for Christians go to an Islamic country to conduct missionary work?
(キリスト教徒がイスラム国に布教に行くことは安全か?)

This question was first raised in Korea when interpreter and aspiring missionary Kim Sun-il was kidnapped and killed by insurgents in Iraq in June 2004.
(この疑問は、2004年、通訳であり野心的な宣教師キム・ソンイルが反乱兵にイラクで誘拐され殺害されたときに最初に提起されたものだ。)

To this question, the Korean government has consistently said no, citing that the Iraqi militants who killed Kim claimed they did so because he and his company were engaged in Christian activities in Iraq.
(この質問に対して韓国政府は一貫して「ノー(安全ではない)」と言っているし、その際、キムを殺害したイラク兵が彼とその仲間の殺害理由をイラクにおけるキリスト教徒的活動に従事していたからだという話を引用した。)

Since then, government officials have said that it is almost ``suicidal'' for Christians to evangelize Muslims, for security reasons.
(以降、韓国政府公人は、キリスト教徒がイスラム教徒に伝道することは安全の理由からしてほとんど「自殺」だと言い続けている。)


 けっこうずばっと言うなという印象で、私などは少し引くものがある。この先、いろいろ興味深い話があるのだが、一つ紹介。

Oleg Kiriyanov, correspondent of the Russian state-run newspaper, Rossiyskaya Gazeta, said he was surprised to meet Korean missionaries, as they were too persuasive at home and abroad.
(ロシア政府新聞ロッシースカヤ・ガゼッタの特派員オレグ・キリヤノフは、韓国人宣教団が国内外で説得力過多で驚いたと言っている。)

``I attended a Korean language class by a Korean missionary in my state-run university in Russia, but he was kicked out because he taught mainly the Bible and Christianity rather than language,'' said Kiriyanov, who lived in Korea for nine years. He could confirm that the forcible way of missionary works was more explicit in Korea after he arrived here.
(9年間韓国で暮らしたキリヤノフは、「私はロシア国立大学で韓国人宣教師による韓国語講座を受講したが、彼は語学よりほとんど聖書とキリスト教しか語らなかったので、教師の職を放り出された」と語った。キリヤノフは韓国に来て、強制的な布教活動は韓国においてより顕著であると、ほとんど確信したようだ。)

Their bizarre missionary works are very unique compared to those of other nations' Christians, he added.
(彼は「韓国人の珍妙な布教活動は、他の国のキリスト教徒と比べてとてもユニークである」とも言っている。)


 へぇと私は思うのだが、私のへぇは韓国キリスト教についてではない。ロシアと韓国の関係のほうだ。
 さてキリヤノフのこの印象ってひどすぎるだろうか。私にはよくわからないのだが、同記事には国家規模と宣教団人口の表が掲載されていて興味深い。少し紹介する。括弧内は全人口。

韓国、12,279(48,846,000)
米国、64,084(298,444,000)
加国、 7,001(33,098,000)
豪州、 4,167(20,264,000)
英国、 8,164(60,609,000)
独国、 3,953(82,422,000)
印度、40,713(1,095、351,000)
伯国、 5,901(188,078,000)

 比率で見ると韓国の宣教師人口が突出していると言ってもよさそうだ。
 ところで、「アジア協力機構」(IACD)はウズベキスタンなどでも活動しているようだ。そのあたりが先ほどのキリヤノフの話と合わせて私など関心を持つ領域でもある。

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2007.07.26

ネズミでもできるラタトゥイユ

 嘘、嘘。ネズミが作るラタトゥイユにはかなわない。その分、けっこう誰にでもできる手抜きラタトゥイユの話でも。夏だし。

材料
 野菜。けっこうなんでもいい。ジャガイモはどうかと思うけど、私は、ニンジン入れちゃうよ。オクラとかアスパラガスとかもでいい。
 それとオリーブオイル。もう一つの材料については後で触れる。
 野菜で、でも、これは入れといたほうがいいんじゃないのというのは、次の3つ。これが入っているとなんとなくラタトゥイユの感じがする。


  • パプリカ(肉厚のあるやつ)
  • ズッキーニ
  • ナス

 野菜の切り方だけど、一口大で。つまり、ちょっと大きめに適当に切る。ズッキーニとナスは輪切りでざくざくと。

調理方法
 ニンジンは水から下ゆでしておく。水の量は適当に浸る程度。串がすっと入るくらいまでゆでる。切り方にもよるけど10分くらいから。
 フライパンにオリーブオイルを入れる。これはやや多めに。野菜の量にもよるけど、フライパンにちょっと水たまりができるくらい。
 まず、パプリカから炒める。中火。これをけっこう入念にやる。焦がさないように。5分くらいか。パプリカはきっちり炒めると甘くなっておいしい。
 次にズッキーニとナスを入れて、弱火で炒める。ナスが油を吸って、濡れた感じになるくらいまで炒める。5分くらいか。
 このころニンジンがゆであがるので入れる。
 そして、ここで、レトルトのナポリタンソースを入れる!
 瓶入りのナポリタンソースでもいい。ようするに出来合のパスタソースを入れちゃえ!
 これで味とか一切気にしない。
 いや、もちろん、きちんとしたトマトソースを入れてたっていい。オレガノとバジルを加えてもいい。まあ、そのあたりは好きな人はご勝手に。
 それで少し煮込む。5分くらいでもいい。焦げがさないように。

食べ方
 そりゃもう適当に。
 だけど、ちょっと多めに作っておいて冷蔵庫で冷やしてから食べるとうまい。トルコのメゼとか冷やして食べるのが普通。

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2007.07.23

トルコ総選挙、雑感

 トルコ問題については日本に識者も多いがマスメディアを通してはわかりづらい。私はそうした識者のうちには入らないが、湾岸戦争からイラク戦争にかけての国際情勢でトルコはとても重要な位置にあり、今後も重要な問題を含んでいると考えるので、とりあえず今回の総選挙について言及しておく(逸する可能性が高いように思えるのでなおさら)。なお、当ブログでの関連エントリは「極東ブログ: トルコのEU加盟問題近況メモ」(参照)であるが、この間の情勢についての言及が欠けてしまった。
 総選挙の結果だが、日本時間8時42分スタンプの共同”イスラム系与党が過半数 トルコ総選挙”(参照)より。


政教分離を国是とするトルコの国会(1院制、定数550)総選挙は22日即日開票され、トルコの民間テレビNTVの集計によると、開票率約97%の段階でイスラム色の強い与党、公正発展党(AKP)が過半数の約340議席を獲得、単独での政権維持が決まった。2002年の前回選挙で議席を失った極右、民族主義者行動党(MHP)は約70議席を獲得、躍進した。

 AKPの優位は予想されたことなので意外性はなく、ニュース・バリューとしては「過半数の約340議席を獲得」という、ほぼ確定数にある。
 ニュースではこの先、政教分離の共和人民党(CHP)が148議席から約35議席減らしたことを伝え、「イスラム化か政教分離の堅持かの選択を国民に迫ったCHPなど世俗派の戦略は失敗」と述べている。ニュース報道の視点として間違っているわけではない、というのもそこが一つの争点でもあった。ただ、共同のニュースではAKP議席数の意味について過半数という以上には踏み込んでいない。
 昨日の東京新聞”イスラム系与党勝利へ トルコ総選挙 大統領単独選出は困難”(参照)は、AKP単独で大統領選出ができないという点を強調していた。言うまでもなく、背景には、AKPが今年に入ってセゼル大統領任期満了でギュル外相を大統領候補に推し、大統領選の第一回投票に持ち込んだものの、憲法裁判所は投票を無効とした、ということがある。経緯はウィキペディアの「大統領選挙 : アブドゥラー・ギュル」(参照)に詳しく、間違いではないがやや書き方に偏りが感じられる。いずれにせよ、今回の選挙でAKPの独走は抑制される。
 共同では触れていないが、今回の選挙では、民族主義者行動党(MHP)が躍進し約70議席を獲得したが、5時18分タイムスタンプのNHKの報道はこの点にかなり踏み込んでいた。「トルコ総選挙 右翼政党が躍進」(参照)より。

トルコ国内では分離独立を目指す少数民族クルド人の武装組織によるテロや攻撃が急増しており、「民族主義者行動党」は、この武装組織がイラク北部のクルド人自治区に拠点を置いて軍事支援を受けているとしてイラクへの軍事作戦が必要だと訴え、躍進につながったとみられます。

 このあとNHKも触れているが、政教分離・近代化の推進でもあり、ある意味これまでクルド弾圧を担ってきた軍部も対クルド政策では同調しており、現状、すでにイラク国境に20万人規模の部隊を展開している。NHKは「トルコ軍によるイラク侵攻の可能性はさらに高まるのではないかという見方が出ています」としている。ここまで踏み込みましたかという印象だ。示唆したのは内藤さんかな。
 このあたりからトルコの今後のバランスが見えてくるのだが、AKPがある意味少し弱体化した反面、連立でどう政策が動くが難しくなりつつある。基本の構図としては、アタチュルク主義(近代化)、穏健イスラム派、民族主義という3つの軸があるにせよ、ある意味で責任主体が明確ではなくなりつつある。
 国外の視点としては19日付けフィナンシャルタイムズ”A contest to decide Turkey's future”(参照)が概括的、かつ示唆的ではあるのだが、多少違和感を残す。基本の構図としてはAKPを支持しようというものではあるだろう。EU問題から見て穏健に考えるとそういうところかもしれないが、EU的な冷ややかさも感じられる。

In 2002, the AKP got two thirds of the seats on one third of the votes. A more proportional result would be healthier: for a compromise candidate as president; for democratic balance in which all sides openly articulate their fears and hopes; and for Turks to remind themselves what they have shown the world - that Islam and democracy are perfectly compatible.
(2002年では、AKPは1/3の投票によって議席の2/3を得た。今回のバランスの取れた結果はより健全になるだろう。つまり、大統領選候補についての妥協、国内世論の脅威と希望をオープンに表明する民主主義的なバランス、イスラム宗教と民主主義が完全に両立するというトルコ国民の自己イメージについてもよい結果だろう。)

 そうかもしれないがこういう欧米からの言われかたはトルコの人には、どの勢力であるによ、またかよという感じはあるだろう。

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2007.07.22

トラックバックが使えないなあ

 エントリを起こすような話題ではないけど、考えようによってはブログの変化のエポックかもしれないと思うので、このブログのトラックバック受付け変更の話と雑談を。
 要点は、このブログでトラックバックを認可制にしましたということ。
 どういうことかというと、戴いたトラックバックは、いったん公開保留し、私が適時エントリ末に反映・公開するとしました。トラックバックがまったく使えなくなったわけではないので、誤解なきよう、お願いします。
 トラックバックを認可制にしたのは二つ理由があって、一つはスパムが多いこと。エロとか金儲けとかこのブログには要らないってば、というのは当然として、まいったのはコピペ・ブログからどさどさトラックバックがやってくるようになったこと。コピぺ・ブログというのは、たぶんCGI(プログラム)でRSSからキーワード選択し、概要部分だけぺとぺと貼りつけたエントリだけのブログで、つまり他人様の褌だけという情けないブログ、というかブログと呼べないよ、そんなもの。で、それにアフィリエイトまでついてたりする。
 もう一つの理由のほうが大きい。真面目なトラックバックをニフティが勝手にスパム認定して一時的に非公開にしていること(あとで解除できる)。はてなからのトラックバックは全滅。楽天からも駄目だ。どうなっているのでしょうかね、とニフティの運営をちょっと疑います。
 つまり、良質なトラックバックがすでに認可制になってしまっているのだから、これはもうトラックバック全体を認可制するにしかないなと思いました。
 そのあたり、ちゃんとお仕事してスパム・トラックバックを排除しましたという通知がニフティからあれば、以上は撤回して、また「トラックバックなんでもバッチ来い」状態に戻します。
 くどいけど、気にくわない意見だからとか、またNakajimaさんがなんか言っているとかの理由では削除しないので、誤解なきよう。
 ついでに。
 コメント欄のほうは、ご覧とおり、なんでもコメントを戴いています。ただ、「マモウマー」だけのコメントとか、「finalventバーカバーカ」というのは、気がついたら削除。あれです、「おやこんなところに丸まったティッシュが落ちている、さては誰かやったか(当然くしゃみ)、でもこれはゴミ箱にぽい」というだけのこと。基本的に「気にくわないコメントだから消しちゃえ」とかやらないし、「匿名で言うなよ、お前」みたいのは放置。ついでに、それってどう答えていいのかわからん問い掛けはただわからんというだけ。「おまえバカだろ」とか言い返しません。お互い様であります(ケロロの声で)。
 コメント欄については、以前、「早晩、うちも炎上するんだろうな」と思っていたけど、その後特に炎上はなし。というか、あまりその手のことが好きな人の関心話題を避けるというのが炎上を避けるコツか、みたいな釣りっぽい話すらも避けていますので。
 とか言って、コメント欄を認可制にするのは時間の問題かなという感じもしています。コメント欄についてはこちら側から見ていると、へぇと思うこともあるけど世の中いろんな人がいても、特に波風ないようでしたらできるだけ許容していきたいものです。お互い様であります(ケロロの声で)。

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2007.07.21

河合隼雄先生のこと

 直接学んだことはないが、河合隼雄先生とお呼びしたい。その思いをこのエントリに書いておきたい。19日にお亡くなりになった。脳梗塞であったという。享年七十九。昨年夏にご自宅で脳梗塞の発作で倒れたというニュースを聞いたとき、ご高齢でもあるし不安に思っていた。
 先生は1928年、昭和3年の生まれ。昭和の昭坊よりは若い。私の死んだ父が星新一と同じく大正十五年、1926年の生まれ。昔見た父の同窓会名簿に戦死の文字がずら並んでいたのに驚愕したことがあるが、父は大病を得て命を得た。彼の年代が戦争中派の境目で、河合先生はそこを逸れる。
 ウィキペディアの「河合隼雄」(参照)項目を引く。


 1952年、京都大学理学部を卒業後、数学の高校教諭として働く。その学校現場で生徒達の心の問題に直面することとなり、その後、京都大学大学院で心理学を学び、1959年にフルブライト奨学生としてカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)へ留学し、クロッパー教授やシュピーゲルマン(Spiegelman JH)の指導を受ける。河合は彼にスイスのチューリッヒで心理学を学ぶ事を勧められる。
 その後、1962年から1965年までスイスに渡り、ユング研究所(Jung Institut Zuerich)で日本人として初めてユング派分析家の資格を得る。その際、マイヤー(Meier CA)に師事。帰国後、1972年から1992年まで京都大学教育学部HP・教育学研究科で教鞭を取る。退官後、プリンストン大学客員研究員、国際日本文化研究センター所長を歴任する。

 私が先生を知ったのは、1974年1月である。16歳、高校一年生だった。その年の1月から3月まで教育テレビで月曜日と水曜日の週二回朝の六時半から7時まで、先生の講座「無意識の構造」があり、全24回を欠かさず聞いた。暖房もたいしてない部屋で寒くて振るえながら、でも食い入るように講義を聴いていた。それほど面白かった。大学で学ぶっていうのはこんなに面白いもんだろうかと思った。書き込みのあるそのテキストは私の一生の宝物だ。先生の死に際して実家に行ってもってきた。

 その後、この講座は77年に中公新書「無意識の構造」(参照)として書籍化されている。74年から77年というと3年足らずなのだが、高校生の私はこのテキストは書籍化されないではないかと思っていたことを、今も思い出す。
 それから私はユングに傾倒したかのように、私が読めるユングの書籍や関連書籍を片っ端から読んだ。日本教文社の選集はすべて読んだ。自伝も読んだ。だが、うまく言えないのだが、結局ユングには傾倒はしなかった。先生のあの講座がなにか自分がユングに傾倒することを押し止めていたようにも思う。先生は、直接言ったわけではないが、ユングを日本人は理解でないのではないか、理解できたという思い込みこみは大きな間違いではないか、そんなメッセージ性を私に残していた。私はむしろフロイトに傾倒したが、ユングへの反発ではない。フロイトは、私には当時とても好きだった生物学的な基礎があるように思えた。だから牧康夫の「フロイトの方法」(参照)には親近感を覚えた。77年のことだ。余談だが、ヨガにも傾倒した牧康夫の自殺も、わかるように思えた。
 河合先生の講義に戻る。先生の講義はある意味で奇妙なものだった。二回目だったか三回目だったか、女子学生が数名講義に出演するようになった。京大の生徒だろう。先生は、誰かいないと話しづらいんで、みたいなことを少し照れたように語っていた。いわゆる講義めいたものではなく、もっと人に語るように語りたかったのだろうし、そうしなければ伝わりにくいものが先生の思いにあることはわかった。それと、今思うと、先生は意図的に若い女性を配したのかもしれない。
 先生はためらいながら元型について語った。それをよくある解説書のように図式的に捉えてはいけないのだということをなんとか伝えたかったようだ。影とアニマの関係についての語り口調にはなにか不思議な思いがこもっていた。真面目に見つめる女子学生に、いやこれは男性の中年期、40歳ころの危機の問題になる、というようなことをくぐもりながら言っていた。
 16歳の私は、生きていられるならいつか中年なんていう歳にもなるのだろうかと不思議に思ったことを今でも鮮明に覚えている。そういえば、ヘッセの「荒野のおおかみ」(参照)がその問題を深く掘り下げているのもわかるにはわかった。私はユングに影響を受けたヘッセの書籍も読めるものは片っ端から読んだ。
 あの時の河合先生は、47歳であった。言うまでもなく、先生のなかに明確な形で中年の危機や影やアニマの問題、あるいは課題があったのだろう。47歳はそれが一段落つく歳でもあるだろう。今の私も、その歳を越えた。私は今年50歳になる。あのころの先生を思うと、先生ほどの寿命はあるまいと思うから、人生は残り少ないものだなと思う。
 私は、先生のいう中年の危機に向き合ったか、と心に問うてみて、そのことは語りたくないわけでもないが語りづらいものを感じる。先生のためらいがよくわかるように思う。
 私のユングと河合先生への傾倒のようなものは、高校時代で基本的に終わってしまった。その後、青春の嵐と蹉跌は人並みにあったというか、再起できないくらいのものでもあったが、ユングを顧みることはなかった。河合先生の本は依然読んでいたが、正直に言えば、あまり感銘も受けなかった。
 河合先生はユングと死後の生命、そしてあの空に浮かぶ円盤のことについてもためらいながらに語っていた。その語り口調にはためらいもだが、この問題を否定してはいけないよという含みを感じた。言うまでもなく、死後の生命はない、UFOも存在しない。そんな当たり前のことを言うために偽科学だの似非科学だのと浅薄なこという必要はまるでない。ユングが語りかたかったことはそんなことではないし、河合先生が受容したのもそんなことではなかった。
 この問題は難しい。私は歳を取るにつれて、難問というものは私の任ではないなと放り出すようになったが、率直に言えば、こっそりと考え続けてはいる。
 河合先生のことをその後それほど関心をもたなくなったと言ったが、それも少し違うかもしれない。先生はキューブラー・ロス博士について生涯関心を持っていたようだし、ロス博士の人生観、つまり、死後の生命についても、その後もやはり否定していなかった。なお、関連は「極東ブログ: キューブラー・ロス博士の死と死後の生」(参照)で少し触れた。
 74年の講義のテキストを繰っていくと目頭が熱くなるというのでもない、ある清明な感じがする。書き込みや赤い線がいっぱいしてある。16歳の私は人生を掴もうとし、そして人生に怯えていた。だが、私はもう人生の大半の結論を出した。言うまでもなく私は人生の失敗者となった。


 たとえば、ある一流会社の社員は、中年になって自分の能力に自信がもてなくなり、人生も無意味に感じられ、果ては自殺ということも心の中に浮かぶほどになった。これでは駄目だと思い意を決して、大学時代の旧友を訪ね相談しようと思った。急に思い立って旧友を訪問すると、その友人が自殺し家族が嘆き悲しんでいるところであった。
 われわれ心理療法家のところにおとずれて来る人は、大なり小なり個性化の問題に直面している人達であるので、このような不思議な体験を聞かせてくれる人が多い。この場合、この人の心の中に起こってきた「死」と、友人の「死」という外的事象が、ひとつの布置をつくりあげているのである。そして、この人は必然的に「死」の意味について考えねばならないし、われわれ分析家としては、この人の年齢が、人生の前半の「死」を迎え、後半へと下降する決意をうながしている時期にあることも見てとることができるのである。
 人生において何らかの失敗をした人達が、偶然のいたずらを嘆くことが多い。「あの時に、あの女性に会わなかったら」、「あの時、あんな事故にさえ会わなかったら」、「息子がこんな嫁を貰わなかったら」などなど。しかし、われわれがその間の事情をよく聞くと、そこに、その人の内界にも通じる、元型的な、たとえば、アニマの、あるいは影の布置が存在していたことが認められるのである。元型的な布置は、ある「時」が来れば形成される。そのことが解らない人は、何か外的な先行事項に「原因」を求めようとして、探し出すことができず徒労を重ねたり、何かに原因を押しつけてしまってりする。しかし、それでは問題は片づかず、ただ他人は偶然を恨むだけになってしまう。そのときに布置を形成した元型の意味を知ろうとするとき、われわれは建設的な方向を見出すことができるのである。

 アイロニカルなことを言いたいわけではないが、「建設的な方向」とは「後半へと下降する決意」である。死に意味がないなら、どうして下降できるのだろうか。あるいは、下降のなかで死に意味を求めるのか。
 この問題が難しいのは、やはり、死にはそうした意味はない、ということだろう。死は無であり、人生はその無を意識のなかに取り込む過程なのだろう。

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2007.07.20

ロイターが世界に報道する美しい日本の人形というか

 こんなネタ、格調高い極東ブログで扱うことないんじゃないか、どうせ2ちゃんねるコピペブログで扱うんじゃないかと思っていた。一昨日のネタだし。でも、なんかなさげ。どっかにあるのかもしれないけど、まあいいや。このあたりでべたに「はいここでボケて」と、それと、ネタ元の映像の寿命が短いそうなので、今がチャーンスかも。
 で、ネタはこれ。世界に流れる英文のロイターニュースの18日付”Japan's lonely hearts turn to dolls for sex, company”(参照)。表題を訳すと「日本の孤独な心の向きは、おセックスやお友だちとして人形に方向を転じる」といったところか。こんな感じで始まる。


TOKYO, July 18 (Reuters Life!) - Real love is hard to find for one Japanese man, who has transferred his affection and desires to dozens of plastic sex dolls.
(東京18日ロイター[生活] 真の愛を見いだすことが難しい日本人男性は、愛情と欲望を多数のおセックス人形に向けている。)

When the 45-year-old, who uses a pseudonym of Ta-Bo, returns home, it's not a wife or girlfriend who await him, but a row of dolls lined up neatly on his sofa.
(45歳仮名ター坊が帰宅すると、そこで彼を待っているのは妻でもガールフレンドでなく、ソファーにきちんと並んだ人形たちだ。)


 というわけで、日本語でいうところ和蘭妻(和漢三才図会)といかダッチワイフ(死語)がぞろっと並んでいるというのだが、このあたりでブログのエントリ読むのかったりーというかたは、Photo Slideshow”(参照)に写真がある。GIGZINE有料版ではないのでここに無断コピペするわけにもいかないが見れば、記事の印象がわかると思う。
cover
生物彗星WoO (ウー)
 というかもっとベタに動画があったりする。”'Love dolls' woo Japanese men”(参照)。ところで、こういう日本人男性って、ウーなわけだ。頑張れアイ吉、てか。どうでもいいけど、英語がわかんなくても、こりゃ見ればわかるでしょ。てか、ようつべに上がってんじゃないのか知らんけど。
 エントリ書きながらも一度動画を見るに(うっぷす)、工場シーンで解説するお兄さんがすげえふりゅうえんとな米語をくっちゃべっているのだけど、これってつまりそのあたりの東京のごろつきじゃないや特派員お友だちネタというか、というかというか、ああべたにいうと日本人をお笑いにして実は世界マーケットを狙っているというやつじゃないのかとつい結論が出てしまったのでこれでエントリ終わりかよ。
 もうちょっと。記事に戻る。もしかしたらテコンドー名人ってことはなさげなター坊(45)はこう語る、オリジナルは日本語だろうけど柄谷行人の昔のネタみたいに日本語訳もつけておく。

"A human girl can cheat on you or betray you sometimes, but these dolls never do those thing. They belong to me 100 percent," says the engineer who has spent more than 2 million yen ($16,000) over the past decade on the dolls.
(「人間の女の子だったら騙したり裏切ったりすることがありますよね。でもこのお人形たちはけしてそんなことしないんです。彼女たちは100%私の所属です」と過去二百万円をこの手の人形に投じてきたエンジニアは語る。

 なんかそれって米人に言わされているっぽいんですけど。

"Sometimes it takes too much time before I can have sex with the person I meet. But with these dolls, it's just a matter of a click of the mouse. With one click, they are delivered to you."
(出会った人とおセックスの関係を持つのに時間がかかりすぎるってことがあるじゃないですか。でもお人形だと、ワンクリックってなものですよ。ワンクリックで自分を解放してくれるんですよ。)

The man, who says he has had sex with five women but prefers the dolls, is one of a gradually increasing, though secretive, group of Japanese men who have given up on women.
(過去に5人の女性とおセックスの関係を持ったことがあるがそれでも人形が好きだという、こうした男性が増加している。もっとも女性を断念した日本人男性たちは表向きには出てこないのだが。)


cover
危ないお仕事!
北尾トロ
 というわけでネタのおいしいところも書いたし、結論も書いちゃったんでこのエントリも終わりなんだけど、ついでにやっぱアフィリっておこう、じゃねーよ、マジでお勧めしたい関連本がある。すでに読んだ人も多いだろうし、ちと話が古いんでねーの系だが、北尾トロ「危ないお仕事!」(参照)だ。この「第三章 エロスのお仕事」に「人呼んで、裏人形師 ― ダッチワイフ製造業者」があって、この手の産業の裏話があって面白い。いや産業の裏話というより日本社会の裏話というところだろうか。私はロイターのこのネタをめっけたときアレ、これってアレじゃないのと本書を思った。違った。
 人形製造の内幕話がある。

 中でも心配だったのは、こういうモノを売っているのは、その筋の人たちなんじゃないかということだった。しかし、実際にはそういうことはなかった。
 それからワイセツ物のほう。せっかく開発してもヤリ過ぎでお縄ちょうだいではなんにもならない。人形型ワイフが法律にひっかからないかどうかも調べ、刑法には触れないことを確認した上で前に進んだ。最初のひらめきから開発開始までに要した期間は軽く数ヵ月。
 業界のほうは、特殊な業界だから情報は筒抜け、あるいは横の連絡網があるのかと思っていたが、そんなことはないらしい。みんな勝手に商売をやっているようだ。

 この先、え?みたいな、あるいは、やっぱりそうか!みたいな話がある。嘘っぽい感じがしないのはモデレートな記事に収めているからだろう。トロさんうまいなあ。
 他にもこの本、いろいろ世間の常識というものがちりばめられていて面白い。100倍くらいに薄めても一年分、はてなの「最近の人気エントリー」に載るんジャマイカ。

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2007.07.19

[書評]タンタンのコンゴ探検(エルジェ作)

 日本では報道されているかわからないが、欧米圏のニュースを見ていると、「タンタンのコンゴ探検(エルジェ作)」(参照)問題は今日になってもまだ収まっていないようだ。問題? 
 英国政府機関の人種平等委員会(CRE:Commission for Racial Equality)(参照)がエルジェ作「タンタンのコンゴ探検」が人種差別だと声明を出し、書店は販売方法について見直しを進めている。出版停止という事態ではなく、成人向けということになりそうだ。さらに、この問題は米国にまで波及し、およそ英米圏に広がりを見せている。動物虐待との非難もあるようだ。
 当初の報道にある識者の意見としては大げさではないかということだったが、しばらく収まるようすもない。日本のジャーナリズムはだんまりなのか、それとも期待の新ジャーナリズム、ウイニーが何かを明らかにするのか。
 CREの声明は”CRE statement on the children's book 'Tintin In The Congo'”(参照)にある。12日の日付だ。試訳を添えておこう。


A hundred years ago it was common to see negative stereotypes of black people. Books contained images of 'savages', and some white people considered black people to be intellectually and socially inferior.
(百年前なら黒人について否定的なステレオタイプの見解が一般的だった。書籍には野蛮人の挿絵があり、黒人というのは知的に社会的に劣るものだと考える白人もいた。)

Most people would assume that those days are behind us, and that we now live in a more accepting society. Yet here we are in 2007 with high street book shops selling 'Tintin In The Congo'. This book contains imagery and words of hideous racial prejudice, where the 'savage natives' look like monkeys and talk like imbeciles.
(多くの人はそれは過ぎ去った年月だし、私たちは心開いた社会に暮らしているとも思いたいだろう。しかし、私たちがいるこの2007年に中心街の書店が「タンタンのコンゴ探検」を販売している。この本には胸くそ悪い人種偏見の絵画と文章が含まれており、「野蛮な土人」は猿のように見えるしバカのように語られている。)

Whichever way you look at it, the content of this book is blatantly racist. High street shops, and indeed any shops, ought to think very carefully about whether they ought to be selling and displaying it.
(どう見ても、この本の内容は露骨な人種差別主義者である。中心街の書店であれ、どの書店であれ、この本をどのように販売したり陳列するか注意深く配慮すべきだ。)

Yes, it was written a long time ago, but this certainly does not make it acceptable. This is potentially highly offensive to a great number of people.
(なるほど、この本が書かれたのは昔のことだ。しかし、確実にこれは受け入れることのできないものなのだ。この本は、潜在的に多くの人を侮蔑的に攻撃しうるものだ。)

It beggars belief that in this day and age that any shop would think it acceptable to sell and display 'Tintin In The Congo.'
(今日この時代に「タンタンのコンゴ探検」を販売し陳列してもよいとみなす書店が存在することは信じがたい。)

The only place that it might be acceptable for this to be displayed would be in a museum, with a big sign saying 'old fashioned, racist claptrap'.
(唯一この本が置かれてしかるべき場所があるとすればそれは博物館の中だろう。そしてこう標識されるべきだ、「古くさい、人種差別主義者の戯言」。)


 BBCでの報道例には”Bid to ban 'racist' Tintin book”(参照)などがある。
 ところで、そんな古い絵本というかマンガ本と言ってもいいだろう本が、なぜ今更に話題になるのだろうか。スピルバーグの映画化か。いや、今更に話題になることは他にもなにかと多いものだが、それにしてもなぜという疑問はわくかもしれない。
 しかし、「タンタンのコンゴ探検」の問題はかつてから識者にはよく知られたものだった。2004年漫棚通信”タンタンはコンゴで何をしたのか”(参照)が詳しい。本文が長いので多少長く引用したい。

 アマゾン書店が日本にまだないころ、わたしはアメリカのアマゾン(amazon.co.jpじゃなくてamazon.comの方ですね)に直接洋書を注文していた時期がありました。フランス語版の「TINTIN AU CONGO」を注文するとアメリカのアマゾンには在庫がないので、ヨーロッパから大西洋を渡りアメリカ経由で日本にやってくるのですが、それにしても時間がかかりすぎる。途中でアマゾンからメールがありました。フランス(ベルギーだったかも)に注文をいれたが、この本はアメリカに輸出してはいけないことになっているのだが本当にかまわないのかという問い合わせがあって、手続きが遅れている、という内容でした。結局手にはいりましたが、フランス語ですしねえ、わたし読めませんし。ただ、単純な話なので、絵を見るだけでもだいたいわかるものです。
 フランス語版で「TINTIN AU CONGO」。英語版なら「TINTIN IN THE CONGO」。日本語でタイトルを記すなら「タンタンのコンゴ探検」(小野耕世の訳したタイトルに準じてます)。おそらく日本語に訳されることのないであろう作品です。フランス語版や英語版のタンタン(CASTERMANやLITTLE, BROWN)も、日本の福音館書店版とほぼ同じ版形のものが多いのですが、裏表紙には発売されているタンタンシリーズの一覧が載っています。ところが、フランス語版では全22作ですが、英語版では21作。「TINTIN IN THE CONGO」は存在しません。実はスペイン語版やイタリア語版でも読める「タンタンのコンゴ探検」は、米英では読めない本なのです。(正確にいうとカラー版じゃなくて白黒オリジナル版ならば英語でも読めるのですが。)

 同記事にもあるが白黒の原典については英米共に復刻されたが、子どもが読んでもよい一般向けのカラー版はこの時点でも英米では販売されていない。理由はやはり黒人差別問題である。
 米国および英国アマゾンを調べると、現在では販売されている。二種類あり、Publisher: EGMONT CHILDREN'S (September 5, 2005) とPublisher: Little, Brown Young Readers (September 1, 2007) とのことだ。後者については、予約ということだろう。CREとしては一年ほどの検討があったのかもしれない。
 ついでに英米圏の読者評を読んでいると、この版は改訂されているとある

This is the edited version!!, May 25, 2007
By Sami (Florida) - See all my reviews

The book is not faithful to the first colored edition as it is supposed to be. This is the edited version where the exploding Rhino was replaced with more P.C. drawings.
(この本は想定されている最初のカラー版に忠実ではない。これは改訂が加えられており、サイ狩りについてはよりPC的な描画に置き換えられている。)


 ということなので手元の日本版を見ると、なるほど、日本版のほうも書き換えられているような印象を受ける。そのあたりどうなのだろうか。と、書いたように私もこの機会に「タンタンのコンゴ探検(エルジェ作)」(参照)を読み返してみた。
 日本語版については今年の1月31日に福音館書店から出版されている。いきさつについて無視はしていない。「読者の皆さんへ」として冒頭に説明がある。一部を引用する。

 さて、この本には、皆さんにぜひとも知っておいてほしい二つの問題が含まれています。
 一つは、コンゴの人々の描き方です。つまり、「無知」で「野蛮」で「迷信深い」アフリカの人々を、文明人である自分たちがが指導し救ってやっているのだという西欧中心の考えです。当時はタンタンの作者エルジェですら、そのような風潮から自由ではありませんでした。今、この本を読んで、皆さんにこのような植民地時代の歴史的な背景をも考えていただけたらうれしく思います。
 もう一つは、これも今では考えられないことですが、タンタンが動物たちを次々と銃で撃つシーンがあります。当時は、こんなことが一種のスポーツのように行われていたのです。野生動物の保護が叫ばれる以前のことです。自然界に対する身勝手な行為の一つとして記憶されるべきだと思います。

 出版社としてはそうした反面教師としての側面を強調しているのだが、本文中にはどこがどうなのかという示唆は含まれていない。どう読むかは読者に任されている。
 また「大人になってから読んでほしい訳者あとがき」がある。これも一部引用しよう。

 描かれた主題のせいで『コンゴ探検』は長いこと、良い子には読ませたくない本とみなされてきました。それは表面的すぎる評価です。この本を危険なものと感じるのは、私たち自身の中に、かつての宗主国と同じ「オリエンタリズム」の視線、非西洋的なものを劣ったものと感じる歪んだ眼差しがひそんでいるからにほかなりません。植民地主義も人種差別もしらない子供の目には、この本はまったく違ったものと映るでしょう。

 以上がこの問題に触れた訳者の後書きだが、出版社も近い考えにある見てよいのだろう。
 日本の教育現場ではどう扱われることになるのかわからないが、福音館書店と同じ立場に立つだろうか。
 本文の一部を以下に画像として引用したい。あえてきれいにスキャンしなかった。

 このエントリに書影を載せるべきか迷った。日米アマゾンともに書影の掲載を避けているようにも思える。CREもこの本を販売するなとは言っていないが、販売方法に工夫してほしいということはある。

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2007.07.17

米国がなぜか今時分ヘッジファンド規制に頑張っているのに

 新潟県中越沖地震被災者の皆様に謹んでお見舞いを申し上げます。
 
 今日のFujiSankei Business i.の記事”米議会でヘッジファンド包囲網 税金倍増・監視強化へ法案”(参照)が気になるので、思うところを取りあえず書いておこう。話の行きがかり上、また中国への批判のようになるかもしれないが、タメに中国バッシングをしたいという意図はない。なんとなく日本のメディアにとって中国問題はタブー化しているのかなとも少し思う。ブログでもタブー化してくるのだろうか。
 同記事の話は表題からもわかるが、冒頭を引用しよう。このこと自体はまあそんなものかなくらいの話ではあるが。


 日本企業を標的にM&A(企業の合併・買収)を繰り返す米大手ヘッジファンドが、米議会から激しい突き上げを受けている。上下両院は、ヘッジファンドの活動が金融市場の安定を阻害しかねないなどとして、監視強化や大幅な増税に向けた法案づくりに着手した。実現すればヘッジファンドには大きな痛手となり、日本での活動にも影響しそうだ。この一方、ロンドン証券取引所がヘッジファンド誘致計画を打ち出し、金融監督当局からは「ヘッジファンドが海外に逃げ出しかねない」と懸念の声が上がっている。

 記事としては日本の経済で「ヘッジファンドが海外に逃げ出しかねない」と懸念ということなのだが、ちょっと待て。なんで米国が監視強化や大幅な増税に向けた法案づくりをしているのかということと、日本では規制はどうよ、というのが先に問われるべきではないのか。
 米国議会はなぜヘッジファンドを批判しているのか。

 野党、民主党内では、ヘッジファンドの経営陣らが投資家の利益を搾取しているとの批判が高まっている。現在、ヘッジファンドの利益への課税は株式譲渡益税と同じ15%となっているが、これを一般企業の法人税並みの35%に引き上げる案を軸に検討が進む見通しだ。報道によると、ボーカス財政委員長(民主)は公聴会後「増税には十分な支持が得られると思う」と述べ、実現に自信を示した。

 この記事の説明だと「投資家の利益を搾取している」からいけなのだということなのだが、じゃ、日本はどうなの? というのと、なんで民主党が頑張っているのか。そのあたりがよくわからない。
 ところで冒頭私が気になったのはそこではない。こっちのほうだ。

 米紙ワシントン・ポスト(電子版)などによると、上院財政委員会など3委員会が先週、金融監督当局の代表らを呼び、合同公聴会を開催。ニューヨーク市場で6月下旬に株式を公開したブラックストーン・グループや、同社に続き、株式公開を計画しているコールバーグ・クラビス・ロバーツ(KKR)、オク・ジフ・キャピタル、カーライル・グループ、アポロ・マネジメントなど大手に対する増税案を話し合った。

 それって、基本的にブラックストーン・グループが筆頭の問題ということなのではないか、というあたりで、黒石って、あれだよな。あれだ、先月21日付けロイター”米上院議員、中国によるブラックストーン出資に懸念表明”(参照)。

米上院のジム・ウェブ議員(民主党、バージニア州)は20日、米プライベートエクイティ大手ブラックストーン・グループ[BG.UL]が40億ドル超規模の新規株式公開(IPO)を控えるなか、中国によるブラックストーンへの出資が「国家安全保障」問題をもたらすとして、これを検討するよう米当局者らに求めた。

 ブラックストーンの中国マネーの背後の動きが気になる米民主党ということなのだろうが、全体の構図としては、中国マネーによるヘッジファンドへの警戒が米国を覆い出しているということではないのか。
 このあたりは先月23日付け産経新聞”潤沢な外資…中露が運営 米「国家ファンド」警戒”(参照)がわかりやすい。

輸出増で潤沢な外貨準備を抱えた中国やロシアが運営する「国家ファンド」に対し米政府が初めて懸念を表明した。22日に上場した米最大投資ファンド、ブラックストーン・グループに中国が30億ドルを出資するなど、外国政府がファンドを通じて米企業を買収することを恐れ、米政府は、国際通貨基金(IMF)や世界銀行による国家ファンドの監視や規制の検討を求めている。

 そういえば先日のヒルトン買収も黒石でした。4日付けCNN”ヒルトン・ホテルズ、投資会社に身売り”(参照)より。

米投資会社ブラックストーン・グループは3日、ホテルチェーンを展開するヒルトン・ホテルズを、現金約260億ドルで買収すると発表した。


ブラックストーンは先月、新規株式公開(IPO)で41億ドルを調達した。今後はヒルトンのブランド力を生かし、海外ホテル事業を強化していく。

 この買収ってなんかメリットがあるとも思えないし、もともとヒルトンなんかただの格調のブランドだけなのに、中国様の思惑があったのでしょうか。って、妄想?
 黒石はかなり目立つし、たぶんヒルトンとかに手を出すのもまずかったのではないかなとちと思うが、目立たない部分でも中国マネーはこれまで動いていたのではないか。そのあたりどうなんでしょうね。どうって、日本がということなんだけど、という疑問が参院選の騒ぎのなかでフェードアウトしていくのであった。

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2007.07.14

中国国家食品薬品監督管理局元局長鄭篠萸処刑、雑感

 中国国家食品薬品監督管理局元局長鄭篠萸(Zheng Xiaoyu)が10日午前北京で処刑されたというニュースを数日遅れて知った。別の類似の裁判と勘違いしていたので、まさかと私は思った。何の罪が死刑に値したか。食品や医薬品に故意に毒でも混ぜたのか。彼の罪は、同日付朝日新聞記事”中国食品薬品監督局長に死刑執行 薬品検査で1億円収賄”(参照)の見出しからもわかるが、賄賂である。しかも、一億円。それで人間の命を合法的に奪える国家が存在する。人権問題に敏感な人たちは反対の声を上げたのだろうか。
 同記事が示唆しているように。この死刑はある意味で外交的なメッセージである。


この日記者会見した同局政策法規部の顔江瑛・副部長は、事件について「重大な法律違反で、死刑は当然の結果だ」と述べた。中国当局は事件への迅速な対応をとることで、国内外で高まる中国製食品や薬品に対する管理体制の不備への批判をかわす狙いがあるとみられる。

 私は欧米でのこの事態の受け止め方をぼんやりと見ていた。明確な嫌悪表明はないのだろうか。ワシントンポスト”A Matter of Execution(執行という事態)”(参照)は示唆的に思えた。

The official Xinhua news agency did not say how Zheng -- sentenced on May 29 -- was killed on Tuesday. So we do not know if he was shot in the back of the head, as is customary. Nor do we know if his family was then presented with a bill for the cost of the bullet that killed him. This cruel twist has long been standard practice for dissidents in China, which carries out more court-ordered executions than the rest of the world combined, according to human rights groups.
(公式の新華社通信は、5月29日死刑判決を受けた鄭がこの火曜日に処刑された手段について述べていない。だから私たちは、慣例通りに彼は後頭部を打ち抜かれたかどうか知らない。また彼の親族に、彼を打ち抜き死に至らしめた弾丸費用の請求書が渡されたかどうかも知らない。この残忍なやり口は長期にわたり中国反体制派を処分する標準的な手法であり続けているし、それは、人権保護団体によると、裁判所命令の処刑として実行された事例としては、残りの世界を寄せ集めた事例より多い。)

 そして、コラムはこう締められている。

Flagrant abuses of power discredit the party with a people who value morality and decency in public life. One well-publicized execution may reassure markets abroad, but it is unlikely to defuse China's internal tensions.
(権力の乱用は、公的生活において道徳と良識を重視する人民に対して、中国共産党を貶めるている。広報された処刑は対外市場を安定化させるかもしれないが、中国国内の緊張を緩和することはないだろう。)

 このあたりが欧米人の一つの典型的な受け止め方かもしれない。
 ところで中国史についてまったく無知でもない私はこの事態について、しかしそう驚くべきことでもないのかもしれないと心の隅で思い、そしてこの事態はこれだけのことかと思ってもいたのだが、さらに驚愕することがあった。政府の事実上の代弁である人民日報にこの事態についての社説が掲載され、どうやら中国政府は今回の処刑を中国国内および全世界に正義として強くアピールしているようなのだ。CRI”「人民日報」、元国家食品薬品監督管理局長の死刑執行で社説 ”(参照)より。事実を述べたものでありベタ記事に近いのであえて全文引用する。

 中国国家食品薬品監督管理局の鄭篠萸元局長が10日午前、北京で死刑を執行されたことを受けて、11日付けの「人民日報」は、社説を発表しました。社説では、「これは、法律の公正と正義の精神が十分表現されただけでなく、中国共産党と国家が断固として腐敗を処罰する決心も表している」としています。
 社説は、また、「腐敗を摘発し、廉潔な政治を提唱することを重点に置く。また、幹部らが自律して、党の規定と国の法律を遵守し、権力や金銭などからの誘惑に打ち勝つよう教育していく。党では、法律を守らない特殊な党員の存在は許さない」と強調しました。(翻訳:藍)

 該当社説を探したが、私は中国語が読めないのでわからなかった。が、英語ではこれが相当するのではないかと思ったのが、”Only death penalty can atone his towering crime!”(参照)である。表題を直訳すれば「死刑のみでしか彼の累積した犯罪は償えない!」となるか。結語を引用しよう。

As part of the effort to cope with corruption, no "extraordinary and special" Party members are allowed to stay aloof the laws and no corrupted elements permitted to have any place to hide themselves. Whoever daring to commit outrages and run amuck in defiance of state laws will be subjected to severe punishment of the Party disciplines and the state laws.
(収賄を扱う努力の一環として、法律から除外される例外かつ特別的な共産党員は存在せず、身を隠せるような場所を許す収賄的な要素も存在しえない。暴挙を遂行し、国法を無視し反逆すればいかなる者であろうとも、共産党の掟と国法によって厳罰に処すことになるだろう。)

 孫子にある美人部隊の逸話を読んでいるような錯覚に陥るが、ようするに鄭篠萸の死刑とは、厳罰が本当であることを示すためのコミュニケーション技術でもあったのだろう。そして、わざわざこうして国家がその死刑を正当化するために国内外に大々的にアナウンスしているところをみると、ユニバーサルなコミュニケーション技術のつもりでもあるだろう。
 私にはついていけない世界だし、ついていきたくもない正義の世界だ。が、そんな甘ちゃんではやっていけないのだろう。もうひとつパンチが効いていたようだ。朝鮮日報”収賄で死刑となった前薬品監督局長の遺書公開=人民網”(参照)によると、人民日報は鄭篠萸の遺書まで公開したらしい。

「明日には死ぬ。恐ろしい。あの世でわたしから被害を受けた人たちに許されるだろうか」


遺書には「家族の誇りと喜びと興奮の対象だった自分が全国民の公敵1号になっている。このような結末になるとは夢にも思わなかった」と書かれていた。


米国FDAが1年間に出す新薬の許可は140件に過ぎないが、鄭前局長は在任中に15万件の許可を出した。しかし官僚の腐敗に慣れた中国人の反応は、彼の懺悔に対しても冷たかった。彼本人も遺書で、「国民は死刑宣告に拍手で喜んでいた。国民の怒りがそれほどのものとは思わなかった」と告白している。

 私は阿Q正伝(参照)を思い出した。

輿論の方面からいうと未荘では異議が無かった。むろん阿Qが悪いと皆言った。ぴしゃりと殺されたのは阿Qが悪い証拠だ。悪くなければ銃殺されるはずが無い!
 しかし城内の輿論はかえって好くなかった。彼等の大多数は不満足であった。銃殺するのは首を斬るより見ごたえがない。その上なぜあんなに意気地のない死刑犯人だったろう。あんなに長い引廻しの中に歌の一つも唱わないで、せっかく跡に跟いて見たことが無駄骨になった。

 嗚呼、魯迅先生!

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2007.07.13

パキスタン・モスク籠城事件、雑感

 パキスタン、イスラマバードのモスク籠城事件は、パキスタン政府の決断による治安部隊の強行突入によって悲劇的に終了した。事件は、3日、イスラマバード中心部の礼拝所ラル・マスジード(赤いモスク)と併設されるイスラム神学校(マドラサ)に籠もる過激な原理主義者と政府治安部隊との銃撃戦で始まったというのだが、この問題を扱った日本大手紙(朝日、読売、毎日、産経)社説からは全体構図がわかりづらかった。どうわかりづらいかをそれぞれ引用して指摘するのも空しいので省略するが、社説というのは主張以前にその事件がなんであったのかわかりやすく書くべきなのではないかと思った。
 事件だが、重要な背景として中国人拉致の問題がある。12日付朝日新聞社説はこの背景を次のようにさらっと書いていた。


欧米の映画や音楽ソフトを売り物にする店に押しかけて商品を持ち去る。「いかがわしい商売をしている」と、中国人を拉致する。一部の学生は、そんな宗教警察まがいの活動までしていた。

 字数制限から詳しく書けないということもあるのだろうが、6月23日の中国人拉致事件は今回の事件の構図に深く関わっている。このことは今日付の共同”神学生は「テロの犠牲者」 大統領、中国に配慮も”(参照)からもわかる。

 ムシャラフ大統領はスーツ姿で約30分にわたり演説。神学生らが6月に中国人7人を拉致した事件について「恥ずべき行為」と非難、中国の胡錦濤国家主席から中国人の身の安全を電話で要請されたことも明らかにした。

 中国人拉致事件だが、今回の籠城派は、中国人経営鍼灸院とされる店で働く中国人女性6人と男性1人をパキスタン人2人計9人を拉致監禁した。彼らの理由では売春が許せないということらしい。日本語で読める報道としてはCNN”売春従事と中国人ら拉致、パキスタンのイスラム宗徒”(参照)がある。
 現時点ではかなり明らかになったが、この時点で胡錦濤はパキスタン大統領ムシャラフに圧力をかけたらしい。言うまでもないが、中国はそのくらいパキスタンに強い立場にある。ここで興味深いのだが、中国人7人は即日解放された。この経緯にはこの政府とラル・マスジード側のコネクションがどのようなものか暗示している。
 中国人拉致事件はそれで終わりかというとそうでもなかった。私はよくわからないので事件の流れを見ての推測が混じるのだが、胡錦濤側は犯人を求めたようだ。また、9日付朝日新聞”中国人4人死傷、立てこもりの報復か パキスタン”(参照)にある中国人4人死傷も関係しているのではないか。つまり、胡錦濤としては在パキスタン中国人の保護として、あたかも中国領内のような犯人処罰で対処できると想定したのではないか。
 というのも、その後、ムシャラフは治安部隊を1500人繰り出しラル・マスジードの包囲を開始し、今回の籠城事件に至る。このような流れで見ると、潜在的な問題を顕在的な問題に変容させたのは中国政府であるように思われるのだが、ざっと国内の報道を見た限りそういう指摘は見当たらない。なにもことあるごとに中国をバッシングしたいというわけではないが、そういう流れでこの事件の構図が見えてくるように思える。
 話を朝日新聞社説の引用部に戻すと、「欧米の映画や音楽ソフトを売り物にする店に押しかけて商品を持ち去る」云々のくだりがあるが実態はかなりひどいもので住民は辟易としていたようだ。が、逆に言えばその程度ではムシャラフは動かなかった。もともと、ムシャラフはイスラム原理過激派に対して融和的だった。このあたりの背景は「極東ブログ: パキスタン情勢、微妙なムシャラフ大統領の位置」(参照)もご参考に。
 さて、今回の籠城事件についての日本国内の扱いなのだが、大手紙では読売と産経が制圧をどちらかと言えば是としているようだ。11日付産経新聞社説”宗教施設突入 「テロの温床」放置は危険”(参照)より。

 この強行突入で多数の死傷者が出、痛ましい結果となったが、政府側が再三、投降を呼びかけた後でもあり、強行突入は法治国家としてやむをえない措置だったといえよう。
 放置すればイスラム過激派、テロリストの拡大再生産を許しかねない事態だった。今回の事件を機に、過激派の温床になっているところもあるといわれるイスラム神学校(マドラサ)の実態に改めて目を向け、必要な改革に乗り出すことが求められる。

 同日読売新聞社説”パキスタン情勢 テロの温床を放置すべきでない”(参照)より。

 軍出身であるムシャラフ大統領の手ぬるい対応の背景に、軍と過激派勢力のゆがんだ関係があるとすれば、今回のような事件は今後も起きかねない。
 そうした事態を防ぐためにも、ムシャラフ大統領は、国内に1万2000校もあるとされるマドラサの改革に取り組む必要がある。国内だけでなく国際情勢の安定のためにも、「テロの温床」の解消を急がねばならない。

 このエントリでは触れないが、ムシャラフは軍にそれほど強い力を持っていないのかもしれないし、「極東ブログ: パキスタン情勢、微妙なムシャラフ大統領の位」(参照)の関連がある。なお今回の事件では、テレグラフ”Benazir Bhutto backs Musharraf's decision ”(参照)によるとベーナズィール・ブットー(参照)も是としているようだ。
 両紙社説については異論もあるだろうが制圧を是とする議論は理解しやすい。ところが朝日新聞と毎日新聞の社説の主張はわかりづらかった。まず、12日の毎日新聞社説”パキスタン 「核保有国」の不安定化が心配だ”(参照)だが、表題のように核問題をこの事件の構図の主軸に据えているのだがそれだけで失当ではないだろうか。総じてトンチンカンな印象を受けるのだが、中でも米国を構図に引き出すのも唐突だ。

 強行突入の背景には、隣国アフガンや対テロ戦争を続ける米国の圧力もあっただろう。アフガンでは01年からの米軍の攻撃でタリバン政権が崩壊したが、その後タリバンが再結集し、親米カルザイ政権を揺さぶっている。アフガンや米国は、なぜもっとタリバンなどを取り締まらないのかとパキスタンへの不満を募らせていた。

 米国のパキスタンへの不満は確かにそうだが、今回の強行突入の背景では米国より中国を想定したほうが流れ的にはすっきりする。
 朝日新聞社説”モスク制圧―力ずくでは危うい”(参照)は読み取りづらい。が、強行突入を是としないとしているようだ。もっとも、このあたりは先のブットーの見解のように国際的にはあまり支持はないだろう。

 問題は、その対処の仕方である。
 今月初めに学生たちが立てこもりを始めた直後、当局は宗教施設への電気や水道の供給を止めた。兵糧攻めにしながら、じっくりと時間をかけて説得する余地もあったのではないか。
 ところが、わずか7日で陸軍部隊を突入させ、力でねじ伏せた。砲撃まで加え、モスクには白煙が上がった。

 実態はラル・マスジード側の暴発の要因が強いように思えるし、中国人拉致と中国政府の関係を、朝日新聞が知らないはずはない。

 貧しい子どもたちが無料の神学校に行かなくても公立学校で学べるような環境を整える。腐敗を許さない社会を築く。そんな地道な努力を重ねることで、過激派を孤立させる必要がある。

 という見解は中国政府指導者でも言いそうな空論にも聞こえる。というあたりで、私の妄想の部類かもしれないが、朝日新聞はより胡錦濤に近い声を日本側から代弁させているのではないか。むしろ、中国人拉致問題について強圧的にムシャラフに迫ったのは、中国の別の勢力なのではないだろうか。
 繰り返すが、中国政府指導者でも言いそうな朝日新聞の理想論は理想としてはそうかもしえれない。私も理想としては同意したい。だが、それが実現化している事例は見当たらないように思えるし、そもそもイスラム原理が覆うなかで公立学校がどのような意味を持つかについては、「極東ブログ: なぜフランスはスカーフを禁止するのか」(参照)で触れたライシテが前提となるのではないか。

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2007.07.12

ジンバブエ情勢メモ

 過去ジンバブエについて言及したエントリとして「極東ブログ: お次はジンバブエとベラルーシかな」(参照)があるが、その後それほど触れてこなかった。この春の動乱の際に触れるべきだったのだが、全体の構図が今一つわからないでいた。現状でもどう書いていいのかわからないし、私など門外漢の書く問題でもないのではないかと思ったが、たまたまグーグルのブログ検索でジンバブエを検索したら別途書いたメモが上位にヒットし、反省した。とりあえずもう少し書くべきだろう。

cover
グレートジンバブウェ
東南アフリカの歴史世界
 もう一点、そう思った理由がある。2日NHK「知られざる文明への旅」で関口知宏が案内役によるグレート・ジンバブエ遺跡の番組を見たことだ。私はこの遺跡に関心をもっているので感銘を受けたのだが、逆にこの詩情豊かな番組を取り巻くジンバブエの現実を知っているので、いきり立つ感じもした。
 何がジンバブエの問題かというと、独裁制によって国家が事実上崩壊していることだ。傍証的に”ジンバブエ、経済崩壊 年間インフレ率4500%超 ムガベ政権に強まる批判”(読売2007.6.19)より。

 国民の8割は定職がなく、300万~500万人が、仕事を求めて南アフリカなど近隣諸国に渡っている。国内では外貨、燃料不足で長時間の停電や断水が頻発する。
 1米ドル(約120円)は、公定レートでは250ジンバブエ・ドルだが、闇市場では400倍の10万ジンバブエ・ドルに迫る。地元紙の報道によると、政府がまとめた5月時点の年間インフレ率は4530%に上った。

 食料の問題も深刻だ。5日付ReliefWeb”Zimbabwe rural areas run out of food”(参照)より。

The United Nations Food and Agriculture Organisation (FAO) and the World Food Programme (WFP) had issued an earlier warning last month that a third of Zimbabwe's 12 million people will face serious food shortages by early next year.
(国連食糧農業機関FAOと世界食糧計画WFPは、先月初期段階の警告として、ジンバブエ1200万人の3分の1が来年初頭に深刻な食糧不足に直面すると発表した。)

 原因は干魃と農政にある。構図は、JANJANで2月に掲載されたISP”南部アフリカ:雨期がもたらす恩恵”(参照)がわかりやすい。このあたりの事情は日本のブログの世界ではどう書くか戸惑うところだろう。私は戸惑う。なお、この問題は”Zimbabwe: Food a Political Tool?”(参照)という側面もある。

 深刻な食糧不足に苦しむ国のひとつである人口1300万のシンバブエは、かつて豊かな穀倉地帯だった。けれども、2000~2002年にロバート・ムガベ大統領が4,500人の白人農場経営者から土地を没収して土地を持たない黒人に分配して以来、収穫が落ち込んでいる。
 かつては白人の農場経営者たちがジンバブエの食糧の大半を生産していた。現在ジンバブエは1,000%の悪性インフレに襲われ、純食糧輸入国になっている。南アフリカ穀物情報サービスによると、先週ジンバブエは南アフリカ共和国から3,351トンの小麦を輸入した。

 ジンバブエの問題は、ある意味では単純で、独裁制がもたらした弊害であるし、現時点となってはそれにどう国際社会が対応していいか難しい。加えてこの問題が微妙なのは、1980年独立以降27年統治を続ける独裁者ムガベ大統領が83歳といいう高齢であることも関係しているだろう。キューバのカストロと同じく、そしてたぶん北朝鮮の金正日と同じく、近未来に死去するのだが、その時の実質的な危機に積極的に関与したい国はないだろう。
cover
When a Crocodile Eats the Sun
A Memoir of Africa
Peter Godwin
 ジンバブエに話を戻すと、そうはいってもこの混乱に国際社会は関与せざるえないわけで、関係も深く実際に流民を受けている南アフリカが重要なポジションにある(大半の電力を供給している)。つまり、南アのムベキ大統領の手腕が問われるし、彼も自覚はあるのだが、その期待を現実的には果たしていない、としか見えない。この背景が何らかの利権が絡んでごちゃごちゃしているようなのだが私には今一つわからない。
 ジンバブエと日本との関わりは薄いとも言えるといえば言えるかもしれないあたりが、今一つ日本でのこの問題への関心の薄さに対応しているのだろう。
 そういえば、ニューズウィーク日本版6・13(2007)に”失われたアフリカの故郷”というコラムで、ピーター・ゴッドウィン著「When a Crocodile Eats the Sun: A Memoir of Africa(ワニが太陽を食べるとき:アフリカの思い出)」が紹介されていた。ジンバブエを生まれ育った49歳の男の物語である。

 ゴッドウィンによれば、これは単にジンバブエに関する本ではなく、「故郷とは何か、アイデンティティーとは何か、そして家族の秘密についての物語であある。」。
 本書で明らかになる「家族の秘密」の一つが、彼の父親はイギリス出身ではなく、ポーランド出身のユダヤ人で、母親と妹をホロコースト(ユダヤ人大虐殺)で失っていたこと。父の子ども時代のつらい経験が、崩壊しかけたジンバブエから両親が離れようとしない理由にもなっている。

 私はここでちょっと変なことを思い出す。ネットなどではすっかりイザヤ・ベンダサンは山本七平の偽名という議論が多いが(実際に山本は共著者の一人であるが)、ベンダサンに模された人物は、父親がアフリカで雑貨商をしていたというふうに設定されている。共著者の一人、ホーレンスキーはウィーン生まれのユダヤ人だったが(参照)、ベンダサンの設定にはホーレンスキーの何か思い入れのようなものがあったのではないだろうか。まあ、これは「ちょっと変なことを思い出す」程度の話なので、野暮なツッコミはご勘弁を。

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2007.07.10

日本人は米国人より野菜摂取が少ないとしても

 気がつくとブログが二日欠になっているし今日書かないと三日か。それでもいいのだけど、ブログらしくなんか書いておこうかと、手元の朝日新聞をめくってネタはないかと物色していたら五面に「日本人はアメリカ人より野菜不足」というでかい見出しがあって、なんだこれと読むに面妖。というかなんだか広告みたいだなと思ったら、広告だった。あちゃー、ひっかかってしまったよ。というわけで、その手のつまんない話でも。
 広告は小林製薬「野菜顆粒」ということで、ようするに日本人の野菜摂取は米国人より少ないからそれを補うのにサプリメント(でいいのかな)をということらしい。まあ、その件については特に触れない。じゃどこをブログのネタにするかというと、「日本人は米国人より野菜摂取が少ない」という事実だ。みなさん、ご存じでしたか?


(前略)私たちの食生活は欧米化が進み、またインスタント食品や外食の機会も増え、思うように野菜を摂取できないのが現状だ。
 では、引き合いに出される欧米人、特にアメリカ人の野菜摂取事情はどうだろうか。「肉食中心」のイメージが強い彼らの食生活だが、驚くべき事実がある。日本人に及ばなかったアメリカ人の野菜摂取量が1990年代後半を境に逆転しているのだ。

 ということで、FAO"Food Balance Sheet"と農林水産省「食料需給表」という出典でその逆転のグラフが掲載されており、それによる、日本人の野菜消費量は一人一年あたり102.3キログラムであるのに対して米人は115.5キログラムとのこと。
 驚くべき事実と広告はいうのだが、ALIC農畜産業振興機構・野菜の情報のサイトの”野菜の消費改善への取組み状況について”(参照)にも似たようなグラフがあって、ようするにこの手の話はその分野ではよく知られている。
 でそれが困ったことなのかということ、私はよくわからないのだが、この手の話はつい日米比較をやってしまうのだけど、他の国を入れてみると面白い。きちんと調べるとよいのだが手抜きで、野菜等健康食生活協議会ホームページにある”各国の1人1日当たりの野菜消費量はどれくらいですか?”(参照)を見るとこうだ。これは一日当たりの換算ではあるが。

アメリカ 338.11g
カナダ 350.78g
フランス 408.25g
ドイツ 310.59g
イギリス 367.71g
スウェ-デン 404.91g
オランダ 556.29g
スペイン 402.96g
オーストラリア 304.69g
韓国 709.53g
日本 327.73g

 日本と米国はむしろ近い。豪州などもそう。フランスや北欧が少し多い。で、ご覧のとおりダントツが韓国。日本の倍以上もある。野菜摂取イコール健康だと、韓国はスーパーヘルシーということなのだが、そのあたりの評価はあまり聞かない。
 めんどくさいの話をさくっと急ぐと、ようするに野菜摂取は食文化に依存するし、基本的に肉が十分に摂取できない開発途上国は高くなる。それと、国連食糧農業機関(FAO)の分類では、野菜は、芋、豆、穀類、果実と分離されているので、それらがバランス良く摂取されているなら野菜へのこだわりはどこかであまり意味がないという均衡点があるはずだ。
 ちなみに韓国の平均寿命だが”韓国人の平均寿命78.5歳…先進国水準に”(参照)にもあるように、「もはや先進国水準に達していると評価されている」となった。
 むしろ韓国の平均寿命で日本と何が差の要因となっているかということが興味深いのだが、意外と交通事故ではないかなと思う。このあたりは放言なので、またなんかの機会でもあったら調べてみたい。じゃ。

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2007.07.07

ありがちに参院選の予測など

 参院選にはあまり関心ないが、まずごく基本からちょっとだけまとめてみよう。
 参院の全議席数は242。内訳だが、与党が自民112プラス公明24で136。残りは野党で106議席。
 現状では、与党が30議席分強いが、自民党で単独過半数は取れないので、参院では自民党は公明党との妥協を強いられるというか、公明党っていうかそのぉ……鼻息ふんっ状態。
 参院において現状の自民・公明体制を崩すには、自公から16議席削ればいいことになる。そうなれば、つまり与党120、野党122となって野党が優勢になる。オール野党で意思の合意ができるわけはないにせよ、与党について大きな歯止めになるし、そのあたりの雲行きで公明党の動向も変わってくるだろう。
 参院選は半数改選なので、今回の選挙で改選議席は121議席。内訳だが、与党の改選議席は78、野党は43。なお、区分で見ると、選挙区が73、比例選が48。
 非改選議席は与党58、野党63。これが今回の選挙で影響しない部分。
 ここで今回の選挙で与党が過半数を維持するには、全体で122議席が必要。この場合、野党は120議席。
 今回の選挙で変動する改選議席に限定すると、与党は64議席が最低必要で、この場合、野党は57議席。
 この最低の過半数状態をシナリオとして見ると、与党は14議席減らしても大丈夫(つまり野党は14議席以上増やさないと過半数は取れない)。
 話を与党側に引き寄せてると、与党の最低目標64議席のうち、公明党の組織票がどこまで鉄板かだが現状の13議席を維持したとすると、自民党のみで51議席取ればよい。
 自民党総裁安倍ボクちゃん……違った安倍晋三さんの命運だが、51議席行けるかなというところ。公明党が鉄板割れするときついし、自民が50を少し割るとなると、スジの悪い野党の抱き込みというシナリオになる。
 総裁の首が飛ぶのはもうちょっと下だが、9年前の橋本元総理が当時の参院選で44議席という栄光のどん底でワイプアウトした実績があるので、安倍総理の命運もだいたいそのあたりということになる。
 さて、ちょいとだけ素人予測をしてみよう。
 安倍総理の首がふっとぶ可能性だが、現状の与党78議席中自民65議席から44議席(橋本ライン)へのダウンってことで、21議席減るかなのだが、ちょっとそれはなさそうだ。安倍政権続行はすでに織り込み済みなのではないか。
 次に、自民党が51議席を割って、与党が参院過半数が維持できないシナリオがあるかなのだが、どうか。
 参考に、ちょっと古いが5月時点での読売ウィークリーの予想(参照)では、まず29個ある1人区については。


29選挙区のうち、自民が議席を固めつつあるのが群馬、富山など15選挙区、逆に民主優位なのが岩手、三重など6選挙区。残りの8選挙区はほぼ互角の戦いだ。

 複数区では。

選挙区ごとに優位に戦いを進めている党派を並べると、次のようになる。
▼改選議席(5)=東京(自・自・民・民・公)
▼改選議席(3)=埼玉(自・民・公)、千葉(自・民・民)、神奈川(自・民・公)、愛知(自・民・公)、大阪(自・民・公)
▼改選議席(2)=北海道(自・民)、宮城(自・民)、福島(自・民)、茨城(自・民)、新潟(自・民)、長野(自・民)、静岡(自・民)、岐阜(自・民)、京都(自・民)、兵庫(自・民)、広島(自・民)、福岡(自・民)

 よくわからん。
 比例選については。

比例選の場合、自民党の獲得議席は直前の報道各社の世論調査の自民党支持率が参考になる。自民vs民主の構図で戦った過去3回の獲得議席との相関(数字は読売新聞調査)を見ると、2004年(32.7%)→15議席、01年(41.0%)→20議席、1998年(31.4%)→14議席。直近調査(3月17日)の自民党支持率は36.4%だから、現段階で17議席程度が見込まれる。

 これはまあそんなところか。
 5月時点での読売ウィークリーの予想をまとめると。

選挙区選、比例選の数字を集計すると、自民党は選挙区選で34議席を固めつつあり、比例選の17議席を足せば、勝敗ラインの51議席にギリギリ届く勢いだ。

 とのことで与党過半数という線を出している。その後、安倍自民党バッシングのような状態は続いて、5日付読売新聞”安倍内閣支持率32%に下落、不支持率は53%…読売調査”(参照)ではさらに落ち込んでいるが、それで比例選に大きな影響を出すほどのものでもない。また複数区のほうもそれほど変化はないだろう。
 勝敗を決めるのは、読売ウィークリーの読みの線でいうと、1人区の8議席とかかなという感じがするし、そのあたりで小沢どさ回りがどのくらい威力を持っているかだ。
 が、小沢力も大したことはないんじゃないだろうか。
 ということでまとめると、安倍内閣支持率から見れば自民党の票はかなり減るだろうけど、参院選与党過半数という構図が崩れるまでもないのではないか。
 この読みに確固たる自信があるなら私は投票くだらねと思うが、そこまでは言えないかな、投票に行こうかなという気になった。

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2007.07.06

最近の北のお便り、どんより編

 先日ちょこちょこと北朝鮮がミサイル実験をしていた。固定燃料だったらしいので、すわっとも思ったが直接的には日本の安全保障には影響はなさそうだし、国内でもそれほど問題視されてもいないようだった。ただ、気になることはあった。これも微妙な話なんでどう書くか迷うのだけど、ブログをやっているなら時事で気になることは書いておくという程度に書いておく。
 話を単純にすると、今回の一連のミサイル実験は北朝鮮が韓国を狙ったものかもしれない。もっともそれを言うなら一年前の、日本が大騒ぎした実験にもそういう面はあったかとも思うのだが。そのあたりはどうなのかとぼんやり疑問に思っていると、三日付の朝鮮日報社説”北のミサイルはソウル以南の都市を狙うためのもの”(参照)で、この件にふれたバーウェル・ベル在韓米軍司令官の講演を扱っていた。


 バーウェル・ベル在韓米軍司令官は2日、寬勲クラブで講演を行い、「北朝鮮が先月27日に(咸興近辺から)試験発射した短距離弾道ミサイルは、韓国軍と韓国の国民を攻撃するために開発したものと判断される」とし、「北朝鮮は発射試験に成功した」と語った。またベル司令官はこのミサイルについて「旧型の地対地フロッグミサイルを改良・改善した現代型で、固体燃料を使用して迅速な発射と移動を可能にしている」とするとともに、「北朝鮮は射程距離を延長することでソウル以南の都市を狙ってくるはず」と語った。


 射程距離が120キロということは、韓国軍の基地はもちろん、平沢の米軍基地をも狙えることになる。ベル司令官が説明したように迅速な発射や移動が可能だとすれば、韓米連合軍が迎撃するのも容易ではない。北朝鮮が同ミサイルに生物兵器や化学兵器を装てんした弾頭を装着すれば、危険は一層拡大する。

 朝鮮日報としてはこれで韓国の安全保障はどうなるのだという問題提起でもあるし、大統領選に関わる政局の文脈もあるのだろう。
 韓国国内でのこの問題の受け止め方については私はわからない。概ね、また、ふかしてやがんなという程度ではないだろうか。その雰囲気は多少この社説からも感じられる。また、これは米軍のおねだりでしょというふうな理解も当然あるだろう。同じく同日の朝鮮日報”在韓米軍司令官「韓国側が防衛費5割負担を」(下)”(参照)では露骨にカネの話が出てくる。

 また、在韓米軍の防衛費の分担金の問題について、ベル司令官は「50%程度は韓国が負担してくれることを望んでいる。交渉が順調に進まなければ規模の縮小は避けられない。有事の際に備えた態勢に問題が生じる兵力削減や、韓国人労働者の解雇はしたくないので、あと残された道は組織改革と基地の移転しかない」と述べ、米軍基地の再編計画を調整する可能性についても示唆した。

 ここでオチとしてもいいのかもしれない。ただ、私はこの問題の構図はむしろ、次の部分にあると思う。

 ベル司令官は、戦時作戦統制権が韓国軍に移管された後、有事の際に戦争を勝利に導く上で重要な役割を果たすことになる米軍の戦力増強について、「多くの数を確保するのは難しいだろう。地上戦は韓国軍が主導し、最初の攻撃も韓国軍が中心になって行うことになるはずだ」とし、戦力増強の規模が縮小されるとともに、海軍・空軍は米軍が支援するが、地上戦は韓国軍が責任を持って行わなければならない、という点を強く示唆した。

 要点は二つあると思う。一つは、戦時作戦統制権が韓国軍に移管されるということ。もう一つは、先の記事のほうがわかりやすいが、北朝鮮の射程はソウルを超えて、在韓米軍を威嚇していること。このあたりの行為は北朝鮮と利害を一にする国家や勢力にもメリットがあるかもしれない。
 戦時作戦統制権については、「極東ブログ: 朝鮮半島有事における戦時作戦統制権が韓国へ返還される予定」(参照)や「極東ブログ: 韓国の戦時指揮権問題」(参照)で少しふれた。また、後者については、「極東ブログ: 在韓米軍基地移転の裏が読めない」(参照)や「極東ブログ: ソウルが軍事的空白になる」(参照)でも少しふれた。
 率直に言ってよくわからないことも多いのだが、大枠でいえば、在韓米軍は北朝鮮が引き起こすかもしれない問題に関わりたくないというのがあるだろう。特に、米兵に犠牲者が出るような事態については、今の内から退路を取っている印象がある。その場合、韓国はどうなるのかということについては、米国としては韓国が考えればよいだろうくらいな。
 当然、この構図のなかで日本はどうかという問題がある。が、ちょっと書く気力がない。というかブロガーが考えるこっちゃないか。大枠だけ言えば、日本の安全保障に米国が関与するだけの、米国側のメリットというのを米国がどの程度意識しているかに関わっている。それを言うなら、日本側のメリットも議論されるべきだろうが、そのあたりは実際にはほぼタブーなのだろう。

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2007.07.05

民医連→東京新聞→ロイター(国際)に流れる東京の老人問題

 ちょっと微妙な話題かもしれないのでできるだけ誤解を避けるべき前口上をあげるべきかもしれないのだが、どうもその手の前口上を逆手にとられることが多くなってきたので、それもどうかなとちょっと戸惑う。まあ、なんとなく気になるので書いておこう。
 話は4日付けのロイター記事”Tokyo's isolated elderly risk dying alone -survey”(参照)からだ。


TOKYO, July 4 (Reuters) - Thousands of elderly people who live alone in Tokyo have little social contact and face the prospect of a lonely death, according to a survey by an association of hospitals published this week.
(東京7月4日(ロイター)今週発表されたとある病院協会の調査によると、東京に住む何千人も一人住まいの高齢者に社会的な交流がなく、孤独死の予測に直面している、とのことだ。)

 東京に住む一人として、そして青春の日々からの時の速さを思えば遠からず高齢者の私にも気になるニュースではあるのだが、その前に、「とある病院協会」というのがなんだろと調査団体に関心が移った。これは次のパラグラフでわかる。東京民医連だ。

Tokyo is home to some 2.3 million people over the age of 65, and according to the Tokyo Min-Iren association, more than 30 percent of them live alone and need urgent help, the regional Tokyo Shimbun said on Wednesday.
(水曜日のローカルな東京新聞の報道では、東京には65歳を越えた230万人が住むが、東京民医連によると、その30パーセントが一人住まいであり、緊急の支援を要するとのことだ。)

 というわけで、老人の一人住まいは約70万人ということだ。そのこと自体は、他の国際都市と比べて多いと言えるのかよくわからない。老人には意外と一人で暮らしたい人も少なくないし、それ自体はどうということでもないはずだ。というか、ロイターはいったいどういうつもりでこのニュースを流したのだろうか。ロイターの問題意識はこうらしい。

The survey of almost 2,000 people aged 65 or over in the capital last year found 37 percent had little or no contact with their neighbours and 30 percent almost never went out, except to buy food or visit the doctor.
(昨年首都に済む65歳以上の人2000人を対象とした調査では、その37パーセントが隣人との接触がなく、食品購入などを除けば30パーセントが外出したこともないとのことだ。)

 このあたりから、ちょっと違うような感じがして、どういうサンプリングだったのか、気になりだした。それはちょっと置くとして、ロイターの結語はこうだ。

Japan has the world's highest proportion of elderly to the population as a whole, and many experts have expressed concern about the fate of the urban elderly, who often have fewer social ties than their rural counterparts.
(日本は世界有数の高齢者人口比を抱えている。多くの専門家が指摘したことだが、地方より社会的な絆が薄い都市高齢者の今後に懸念を表明している。)

 いま一つロイターの趣旨がわからない。
 この話題日本ではどうなっているかざっと探すと、ロイターの参照にもあったが東京新聞の記事にある。だが、他紙では見かけないようだ。
 元記事はこれらしい。”東京・独り暮らしの高齢男性 『相談相手なし』4人に1人”(参照)。

近所との付き合いがまったくないか、あいさつ程度という人が四割近くを占め、三割は日常の買い物や通院以外ほとんど外出しない―。東京の高齢者のそんな実態が三日、東京民主医療機関連合会(東京都豊島区)の調査で分かった。独り暮らしの高齢男性の四人に一人は相談相手が「いない」と回答。東京民医連は“孤独死予備軍”にあたるとして「行政と住民の協力による対策が急務」と指摘している。

 ロイターの記事と比べると、トーンがかなり違う印象があるが、全体を比較すると大きな違いがあるわけでもない。気になる調査方法だが、同記事には明記されていた。

 調査は全日本民医連が昨年十、十一月に全国の約二万人を対象に実施した「高齢者医療・介護・生活実態調査」の一環。東京民医連が六十五歳以上の高齢者のうち、医療生協組合員など都内の千九百五十六人から聞き取り調査した。

 つまり、東京での調査対象者は医療生協組合員がベースになっているようだ。よくわからないのだがそれって、この手の統計調査としてどの程度有意味なのだろうか。
 もう少し実態が知りたいので、東京民医連と全日本民医連のサイトを見たのだが該当調査報告はなさそうだ。もしあったらコメントなどで教えていただきたい。追記 全民医連サイトに概要についてはレポートがあった。「高齢者医療・介護・生活実態調査/貧困 孤立/2万人の声が伝えたこと」(参照)。
 ところで元になる全日本民医連、全日本民主医療機関連合会だがウィキペディアの関連項目はこう(参照)。

関連項目
日本共産党 - 全日本民医連内、各地方の民医連内には同党の党員が多い。また加盟医療機関内に党支部(所謂職場支部)や有志後援会が組織されているケースもある。

 共産党と強い関わりはあるとはいえるのだろう。03年の読売新聞記事”「民医連系の病院、共産の集票マシン化」と指摘/自民・西野氏”(2003.2.7)にはこうある。ベタ記事で短いのと事実を記載したものなので全文を引用する。

 自民党の西野陽氏は六日の衆院予算委員会で、民医連(全日本民主医療機関連合会)系の複数の医療機関で起きた医療事故を取り上げ、「本業の検査では手抜きしていながら、あらゆる選挙で共産党を支持し、集票マシン化している」などと指摘した。共産党は西野氏の発言に対し、「医療ミスの問題を特定政党の誹謗(ひぼう)中傷と結びつけるのは卑劣だ」と反発しており、議事録からの削除を求める方針だ。

 たしかにそれは誹謗中傷のようにも思える。
 地域レベルでは共産党と民医連の選挙のつながりは比較的硬いようにも見える。例えば、”鹿児島市長選 「つくる会」の園山氏が無所属で立候補表明=鹿児島”(2004.10.30読売)より。

 十一月二十八日投開票の鹿児島市長選挙で、共産党や民医連など十一団体が作る「市民の市政をつくる会」の常任幹事で農業の園山一則氏(61)が二十九日、同市役所で会見を開き、無所属で立候補すると表明した。

 とま、話は以上で、こういうエントリの書き方をすると、情報の流れ、民医連→東京新聞→ロイター(国際)の背景に共産党がとか誤読されそうだが、別にそういう意図ではない。ので、そんなバッシングはしないでね。そうではなくて、調査の信頼性についてロイターが伝聞記事ということで放棄しているけど、他のジャーナリズム的にはこの問題どうなんでしょというののほうが気になる。なんとなく、シカトなのだろうか。

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2007.07.03

東京大気汚染訴訟、雑感

 東京大気汚染訴訟についてちょっと心にひっかかることがあるので簡単に書いておきたい。まず、東京大気汚染訴訟についてだが、二日付け読売新聞”東京大気汚染訴訟 原告、和解受諾を回答”(参照)を借りる。


 自動車の排ガスで健康被害を受けたとして、東京都内のぜんそく患者らが国や都、自動車メーカーなどに損害賠償を求めた東京大気汚染訴訟の控訴審で、原告側は2日午前、東京高裁の和解案を受け入れるとの書面を同高裁に提出した。メーカー7社も同日午後、受諾を高裁に伝え、共同見解を発表する。これにより、訴訟の全当事者が和解に合意。訴訟は提訴から11年を経て、全面決着する。

 つまり、都、国、首都高速道路会社は既に和解案を受諾しているが、これに今回メーカー七社も加わった。
 また、和解案と国については。

 同高裁が提示した和解案は、〈1〉ぜんそく患者のための医療費助成制度の創設〈2〉公害対策の実施〈3〉メーカー7社による計12億円の解決金支払い――という内容。
 医療費助成制度について、国は当初、資金負担を拒否していたが、安倍首相の政治決断で60億円の拠出が決まった。また、解決金については、原告、メーカー双方で最後まで折り合いが付かなかったが、原告団は、医療費助成制度や公害対策の実現により、原告以外の患者も広く恩恵を受けられることなどを理由に、受諾を決めた

 国ついては、安倍首相の政治決断が重要だった。
 新聞各紙の社説としては今日の読売新聞では”大気汚染訴訟 和解を環境改善につなげたい”(参照)、また毎日新聞では”大気訴訟和解 企業も国も重い責任負った”(参照)があるが、両者ともにこの和解を高く評価していると理解してよいだろう。
 大手紙では、日経はこの間の社説では触れていない。朝日新聞は先月二十五日付けの社説”大気汚染訴訟―高裁の和解勧告を生かせ”で前もって触れている。
 産経も今日この問題を社説”大気汚染訴訟 評価したい和解での解決”(参照)で扱っているのだが、他紙と少し異なる指摘がある。

 とくに医療費助成制度の創設は、石原慎太郎都知事が、国に強力に要請したもので国、都など当事者がそれぞれ資金負担することになっている。原告側は、解決金の額には不満を示したものの、同助成制度を高く評価、これが和解案受諾の要因となった。

 和解の重要なキーに医療費助成制度の創設があり、この発案は石原都知事によるという点を産経は重視している。
 エントリ冒頭、心にひっかかるとしたは、この問題における石原都知事の政治的決断の評価についてだ。率直に言うと、この東京大気汚染訴訟の和解を決定づけたのは、石原慎太郎都知事の政治手腕であり、その点をきちんと評価すべきなのではないか、そう私は思った。
 ただ、これも率直に言うのだが、マスコミやネットの空気では、石原都知事をバッシングこそすれ、評価するという意見をあまり見かけない。今回の件でも、そうした例なのだろうかと疑問に思った。あるいは、石原都知事は右派であり産経も右派だから、今日の社説で好意的に取り上げたにすぎないということなのだろうか。
 私の率直な意見は、石原都知事がどのようなイデオロギーを持っていても、今回の件においての政治的な決断は評価されるべきだし、それをきちんと評価することで、他の行政の長がこの件で学ぶことができるのではないかということだ。
 ただ、こういう意見をブログで言うと、お前は石原シンパだろうという批判になるのだろうか。そういう予感はするので、口ごもってしまう。私は石原都知事の支持者でもなければ前回の都知事選で彼に投票もしてない。それ(石原都知事のイデオロギー的な見解)とこれ(東京大気汚染訴訟でのリーダシップ)は別だろうと思うだけなのだ。
 もっとも、今回の件について、石原都知事の功と理解するのは間違っていて、別の背景があるのかもしれない。むしろ、そうであれば、誰がこの問題を評価すべき今日の和解に導いたのか、それをどこかで的確にまとめるほうがよいのではないか、それは今後の日本の市民社会に有益なのことなのではないか。そのあたりの言論が、どうも私には見えてこない。
 少し今回の問題を、石原都知事の文脈で振り返りたい。まず、00年12月2日の読売新聞”[青空を]尼崎公害訴訟和解(下)追い詰められた国 石原都政“反乱”より。

 一九九六年に提訴された「東京大気汚染訴訟」は、国と都などに汚染物質の排出差し止めと約百十七億円の損害賠償などを求めて係争中。記者会見で、石原知事は「(大気汚染は)東京は尼崎よりもひどい。全部、国の不作為だ。裁判に負けて賠償金を払わなければならなくなったら、国を訴える」とまで言い切った。
 尼崎訴訟の和解にも「行政が車両規制をできるだけ早期にすると約束しても、なかなかそうはいかないんじゃないか」と国への根深い不信をのぞかせた。
 こうした都の強硬な姿勢に、環境庁大気保全局の桜井康好企画課長は「汚染のひどい所が進んだ施策を取るのは当然」と言う。だが、〈独走〉する石原都政に警戒と不快感を示す幹部は多く、「反乱」と呼ぶ声も。

 ここには、国の不作為に対して都というローカルな行政から強く異を唱える行政の長としての石原都知事の意志があるように思える。
 02年10月24日読売新聞”東京大気汚染訴訟29日判決 車メーカーの責任問えるか 未認定患者も原告団に”の記事は、今振り返ると、やや意外ともいえる印象を私は持つ。記事は、同月29日の東京地裁における「東京大気汚染訴訟」判決を前に、判決を予想してして書かれたものだ。

 判決後に、もう一つ注目されるのは、ディーゼル車規制に積極的な石原都知事の動向だ。
 知事は国の対策を強く批判しており、スタンスは原告に近い。判決が原告に軍配を上げた場合、「都は控訴を断念するのでは」と、原告側は期待する。


 こうした姿勢が「控訴断念」の推測を呼ぶ根拠だが、都庁内では否定的な空気も強い。先月から関係部署が集まり、判決後の対応を協議しているが、「責任を認めることは、賠償など様々な問題が生じる」(環境局幹部)と慎重論が大勢だ。「最終的には知事の判断次第」という状況になっている。

 この時期の空気を回顧するに、石原都知事の主導で都が控訴を断念するかどうかは、マスメディア側からは明確に読めていなかった。むしろ、否定的なトーンが感じられる。
 しかし、結果は、石原都知事の言葉をそのまま借りれば、「控訴はしません。国の対応を見ていると、心情的には私も原告団に加わりたいくらい」ということだった。そして、「行政の対応がこれまで不十分であった点を重く受け止め、心からおわび申し上げます」と石原都知事は明確な謝罪をした。
 国は当然といっていいだろうが控訴した。これに対して、石原都知事は国に翻意を促していた。02年11月9日読売新聞”東京大気汚染訴訟で国が控訴 石原都知事、小泉首相に取り下げ要請”より。

都の石原慎太郎知事は八日、官邸で小泉首相と会い、東京大気汚染訴訟で東京地裁から損害賠償の支払いを命じられた国と首都高速道路公団が控訴したことについて、取り下げを要請した。石原知事が持参した要求書によると、「大気汚染をここまで放置した国の責任を自ら認め、控訴を取り下げるよう要請する」としている。

 安倍首相になってからもこの件についての石原都知事の行動は変わらず、ついに安倍首相を動かしたと言ってもいいだろう。5月31日読売新聞”東京大気汚染訴訟 国60億円拠出「大きな壁クリア」 原告団と都が歓迎”では、30日の石原都知事と安倍首相の対談に触れこう記している。

 この日夕、石原慎太郎知事と会談した安倍首相は「長い間、ぜんそくに苦しんでこられた方々のことを思えば、早期に解決しなければならないと思う。私の判断で決断した」と語った。

 それが本当なら、安倍首相もまたリーダシップして決断したのだろうし、それらを評価してよいように思える。
 以上でこのエントリのコアの話は終わりなのだが、参院選が近づき、安倍首相バッシングのような空気も醸し出される中、あたかも安倍首相支援のようなエントリを書くなよバカみたいな気後れ感もある。また、私がこれで安倍首相支持派のように誤解されてもなといううんざり感もある。
 ただ、それとこれとは違うだろと思う。石原でなくても安倍でなくてもいい、都という大きな地域行政と国の行政の責任者が、大気汚染の原告を理解し決断した教訓として正しく評価されるべきだとだけ思う。

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2007.07.01

[書評]ウェブは資本主義を超える(池田信夫)

 現在のインターネットのシーンでこれを読まなければ先には進めないよという一冊があるとすれば本書だろう。ただし、すでにブログシーンのコアなところに漬かっている人なら、知っている話ばかりであるという印象を持つかもしれない。あるいは、ある種のボックスに分類されるべき視点からの思索ノート群に見えるかもしれない。私もどちらかというと当初ざっと目を通したときにそう思った。再読して大いに反省した。

cover
ウェブは資本主義を超える
「池田信夫ブログ」集成
 個々の点においては重箱の隅をつつくような批判も可能だが、この書籍全体が示唆するものは相当に長い射程を持っている。最初にここから引用し紹介するのは反って誤解を招きかねないが、次の指摘は一見すると柄谷行人あたりが言いそうなごく当たり前のことのようにも思えるが、この要点を思索の根幹に据えて、ITの未来を正確に見ている人は少ないのではないか。

 マルクスの未来社会像としては『ゴーダ綱領批判』の「各人はその能力に応じて働き、各人にはその必要に応じて与える」ばかりが引用され、「無限の富を前提としたユートピアだ」と批判されることが多い。しかし、『資本論』では、未来社会は共産主義とも社会主義とも呼ばれず、「自由の国」とか「自由な個人のアソシエーション」などと呼ばれている。その自由とは、ヘーゲル的自由ではなく、自由時間のことである。


マルクスにとって未来社会とは、必要(必然)に迫られて労働する社会ではなく、自由に活動する社会であり、共産主義の目的は「自由時間の拡大」(=労働時間の短縮)なのである。

 マルクスはえてして資本主義や社会主義といった制度から人間の自由を見つめ直す思想家として理解されてきた。それが間違いというのではないが、マルクスの哲学が重視していたのは経済制度や階級的な権力の装置より、人間個々人の自由であり、その自由とは自由時間であった。労働が自由と自由時間のなかに置きなおされる状態が、人間の本質を捉え解放する思想の極点に据えられていた。
 その視点から、現在資本主義やあるいはウェブを中心とするITテクノロジーはどう見えるだろうか。つまり人間を取り巻く歴史の巨大なトレンドや状況といった外的な運動から未来を捉えるのではなく、人間の側の、その本質となる自由から逆に資本主義やITテクノロジーを見つめたとき、どのように考えられるだろうか。

 資本主義とは、現代の企業理論でも、資本家が物的資本の所有権をテコにして労働者を支配するシステムであり、その有効性は人的資本や知的労働の重要な情報産業では低下する。だから、資本が経済システムの中心であるという意味での資本主義の時代は、終わりつつあるのかもしれない。この意味でも、マルクスは正しかったわけだ。

 なぜ情報産業でそう言えるのか。ITテクノロジーがどう関わるのか。池田はこう説明する。

 資本主義の前提は、資本が希少で労働力は過剰だということだ。工場を建てて多くの労働者を集める資金をもっているのは限られた資本家だから、資本の希少性の価格として利潤が生まれる。これは普通の製造業では今も正しいが、情報の生産については状況は劇的に変わった。ムーアの法則によって、1960年代から今日までに計算能力の価格は1億分の1になったからである。
 これは建設に100億円かかった工場が100円で建てられるということだから、こうなると工場に労働者を集めるより、労働者が各自で「工場」をもって生産するほうが効率的になる。


 つまり情報生産において、資本主義の法則が逆転し、個人の時間を効率的に配分するテクノロジーがもっとも重要になったのである。だからユーザーが情報を検索する時間を節約するグーグルが、その中心に位置することは偶然ではない。資本主義社会では、希少な物的資源を利用する権利(財産権)に価値がつく。情報社会では膨大な情報の中から希少な関心を引きつける権利(広告)に価値がつくのである。

 おそらくマルクス経済学を学んだり資本論をある程度精読した人なら、「資本の希少性の価格として利潤」といったフレーズに首を傾げるかもしれない。そしてその上に立てられた議論には本質的な誤謬が潜んでいるのではないかと警戒するだろう。むしろマルクス経済からすれば地代論に相当するのではないかとも。
 しかし、そうした細かい点を捨象し、生産手段と資本家の関係で資本主義を捉えるとする割り切った視点に立ち、情報社会にあって生産を情報の産出とするなら、そのインフラ(池田はここではハードウェアのみを便宜的に強調しているがソフトウェアや基本的なデータベースも含める含意があるだろう)さえ整備されているなら、生産手段としての情報機器・環境は労働者の側に戻される。つまり、情報の生産者は生産手段を持ち合わせうるようになる。であれば、その労働者のインセンティブとなるものが、その自由の本質である時間だと考えることにそれほど無理はない。池田のこの視点はかなりくっきりと、現在進行中の世界変化の様相の一部をうまく表している。
 以上引用が多くなったし、私の理解は池田の好むところではないかもしれない。だが、この根幹とも思える思索者として池田の立脚点が見えたとき、本書の表題「ウェブは資本主義を超える」が私にはすっきりと理解できたし、また副題『「池田信夫ブログ」集成』ということからも、各方面の雑文集にも見える本書に一貫した思想が流れていることが理解できた。
 このコアの部分から、著作権問題や彼が得意とする放送の問題、規制緩和による生産性の向上など各種の議論が一つの全体につながってくる。なお、本書は池田信夫ブログの内容を含んでいるとはいえ、私の読む限り『「池田信夫ブログ」集成』とはまったく異なるものであり、むしろ書籍によって池田信夫ブログ(参照)を理解する援助となった。
 思想的なコアに加えて、本書についてもう一つ述べておきたいことがある。ある種の政治的情熱とも言えるものかもしれないのだが、本書を読みながら、池田が資本主義の限界とITの可能性について理路正しく議論を展開していくなかに、理路の持つ情熱とは異なる、ある種のパーソナルな情熱のようなものが感受できる。それはなんだろうかと気になっていたのだが、本書の最終部、第7章「官治国家」の病理、5産業の亡霊の節を読んでようやくわかった。私が失念していただけのことでもあるのだが、池田は自身が言うように「私は2001年から3年間、RIETIに上席研究員として勤務した」。RIETI、独立行政法人・経済産業研究所に彼は深く関わっていて、それが経験に刻印づける情念を生み出したのだろう。
 RIETIの問題については、池田の視点のみから判断することは公正とはいえないだろうが、その内側から彼がどのように実際経験したか、あるいは実際の政治に巻き込まれて思考していたが、ある程度察しが付くと、彼がかつて働いたNHKとの関係についても、ある種の情念のようなものが見え隠れするように思えた。
 こうしたある種の情念が見えてしまう著作というのは、それ自体当然ながら対応する反感の対象ともなるだろうし、またそうした情念から手繰り寄せられた強烈な批判にはそれに相応した反対者も生み出さざるを得ない。その意味で、本書は読者にある種の立場の選択を強いる部分もあるように思える。もちろん、そう受け止めなくてよいほど十分に筆法は理性的に抑えられているのだが。
 私がぼんやり知る限りだが、池田が戦ってきた、あるいは戦いつつある存在は、幸いにしてか未だこの日本の小さなブログシーンには見えない。だが、そのブログシーンのなかでにすでに池田信夫ブログがくっきりと見えるようになっている。些細だったブログシーンになにかが接近する、あるいは何かが発生する兆しなのかもしれないとも思う。が同時に、現状のブログシーンでは池田は(彼のせいではないのだが)十分に見合うだけの力を発揮しているとも思えない。

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