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2007.06.20

モラルの低い人を傍観する時

 このところぼんやり考えているが結論も出ないことがある。ただ、考えあぐねてきたので、少しブログにでも書いてみようかな。モラルの低い人を傍観する時のことだ。
 話は私事からが切り出しやすい。私は沖縄で八年暮らしそれから東京に戻って四年になる。東京に戻ったころ、とにかくいやだったのは自転車だった。私は高校を自転車通学したくらいだから、自転車自体がいやということはない。が、その頃思ったのは、自転車に乗っている人のモラルがこんなにも低下していたのかという驚きだった。八年のうちに東京が変わったのか、それとも沖縄には自転車が少ないせいもあって感覚が変わったのか。個人的には前者のようにも思えた。私は、歩道を突っ走る自転車や二人乗り、無灯火、そういうやつらに誰彼かまわずどやしつけた。無法な警官もどやしつけた。ブログにも書いた。どうなったか。罵倒コメントをたくさんいただいた。そりゃそうだろ、世の中にあれだけ自転車運転のモラルの低い人がいるのに、ブログの世界がその分布に合わないわけがない。罵倒も食らわないことには世界の現状のバランスが取れないのだろうと思った。
 だがそのうち、何も言わなくなった。言っても無駄だと思うようになったし、率直に言って自分が安全ならいいやと思うようになった。モラルの低い人を傍観するようになった。それでも、小さな子どもや老人や身体障害者が自転車の危険にさらされそうなときは、私はダッシュして彼らを守るべく行動する。これだけは変わらない。そこだけは譲れない気がする。
 同じように、電車のなかで携帯やっている人に注意しなくなった。だらしなく電車のなかで場所を占有している人にも黙っているようになった。外人がタバコのポイ捨てをするときもまず日本語でそして日本語がわからないなら英語でどやしつける、というのを止めた。その他、社会で見かけるモラルの低い人を、なんというか、許すようになった。というか、傍観するようになった。それでも雨の日、傘をぶんまわす人は危険性ということで許せない。同じように社会的弱者に危害を与えそうなシーンでは私はダッシュして云々。それほど正義とは思わない。正義でもないかなと思えるあたりが心理的に楽だ。無意味な社会的危険性を最小限にする最小限の行動は大人の義務だろう。
 それが私の最後のモラルだ。でも、その最後がやぶれても別の最後のモラルがあるのだろう。人間とは自堕落なものだし、他人のモラルも基本的にどうでもいい。ということなのだが、ちょっと心にひっかかることがある。
 話が少しずれる。先日、列車車内で女性が暴力を受けるのを他の乗客が傍観していたという事件報道があった。私は詳細は知らないし、その個別の事件にはあまり関心がない。が、メディアなどで見かけた意見には、その傍観している人をバッシングするようなトーンがあり、奇妙な感じがした。
 私がその場にいたら、どうしただろうか。絶対にその暴力を阻止したという自信はない。過去の自分の行動パターンから想定されることはいくつかあるが、たとえそう推定されるとしても、こうした問題を倫理なりモラルを問う形で議論するのは間違っている。
 この問題についていえば、社会心理学的に有名な傍観者効果(Bystander effect)というもので、ウィキペディアにも解説があるし(参照)、先日のエントリで扱った書籍「極東ブログ: [書評]脳は意外とおバカである(コーデリア・ファイン )」(参照)でも第3章すべてを充てて「脳にモラルなし」として解説されている。ウィキペディアのほうを借りて、こうした事態についていえば。


つまり今回のような事件を防ぐには、人間の心理そのものを消したり改造することはまず無理であるから、この傍観者効果によって助けなかった人間を非難するのではなく、傍観者効果が発動してしまわないような社会システムを作ることが重要になってくる。

 ということになる。つまり、モラルを問うというのは典型的なダメな議論と言っていいだろう。
 ただ、そこでいくつか奇妙な連想も働く。そうした傍観者効果が抑制される社会システムというのはそれ自体が権力なのではないか、と。ぶっちゃけて言うと、モラルが問われるという状況に遭遇することはその人にとってまさに、その人の人生の場であり意味なのではないか。いや、その、ありえない電車男が偉いとか言いたいわけじゃないんだけどね。
 ちょっと話を戻すと、電車のなかで不埒に席を占有している人がいるというのはよくある。が、最近のJRの電車内みたいに、七人掛けの席の途中に仕切りの棒を二本つっこんで、ブロイラーよろしくここに入れ、座れ、と環境権力的に示唆されているのが、よいシステムということなんだろうか。あるいは、山手線を走る人間貨車に「これは人間の尊厳への挑戦ではなくそういう乗り物なんだよーん」と了解するのはよいことなんだろうか。難癖を付けているようだが、私は、基本的に、あの電車が不快というか不愉快。そしてその不快感は、どこかしら最低線の私のモラルとつながっているようにも感じられる。
 もうちょっと話を戻す。私は世界のアモラルな状態をけっこう傍観するようになった。内心、モラルの低い人がいるのはしかたがないことだ、私だって局面においてはそんなものかもしれない、まあ、レット・イット・ビー、ケセラセラー、ミアモーレ、と思っている。が、どこかしら、何かに耐えている感じもある。
 そのあたり、先の「脳は意外とおバカである」(参照)がうまく言い当てている箇所がある。

世界に蔓延する無数の不正を直視するのは、私たちの繊細な精神には荷が重すぎるのだ。哀れな運命の餌食になった人を見たときでも、世界が残酷で無慈悲な場所であるという事実をなんとか否定しようとする。けれど犠牲者への不当な仕打ちを正したり、苦しみの代償を求めたり、彼らの苦悩を取り除いたりするのが、あまりにも困難である場合、私たちはもっと安易な戦略に走る。彼らの不幸は自業自得の結果であると思い込もうとするのだ。

 そういうことだ。ということなのだが、どうもモラルというのはそういう自己弁護として機能しているような感じがする。あるいは、世界がもたらす不運や不幸に対して、自分がモラルを堅持することで防御や対抗できるような気がするのだ。死期が定まった者の心理過程のように内的な神との取引きのようなものだ。
 しかし、理性的に考えればそんなことができるわけもないか、できたとしてもわずかなことだろう。人生において運命や偶然の力は圧倒的だ。
 モラルとはなんだろうと再考する。モラルというのは高みにおいて存在するのではなく、低さのほうに紛れてしまうのだろうとも思う。モラルの低さも含めてだが、我々の存在とは小さく低く偶然的なものだ。他国人を嫌悪する根拠も偶然的なものだし、親がいて大人になれたというのも偶然に近い。別の偶然は人をこうのとりのゆりかごに運ぶかもしれない。そうする大人にはモラルが問われるかもしれないが、産まれてきた子供には問われるわけもない。そして我々がその子供でなかったというのは偶然でしかない。偶然のもたらす悲劇に対してできるだけ公平であること、あるいはそうした偶然の悲劇をもたらさないように僅かに試みることがモラルかもしれない、とか、ぼんやり思う。

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コメント

述べられている権力とは違う意味での権力になりますが、モラルを形づくるのはモロの暴力なんだと思います。だから言及しようとするときに嫌な感触がします。

投稿: papepo | 2007.06.20 18:17

数年前外国人に言われた「日本の凄いところ」:

(1)「自動販売機があれだけあるのは凄いね。アメリカなら、あんな風に「金庫」をそのまま街頭に置いていたら間違いなく狙われるよ」

→ダンプでの持ち去りなど、相次ぐ自動販売機への犯罪で、今はチェーンでがんじがらめ。

(2)「日本は凄いね。夜中に女性が電車に一人で乗れるなんて。アメリカでは絶対に考えられないよ」

→ご記憶に新しい、電車での複数の強姦事件。つい最近も強制わいせつ事件発生。

(3)「日本って凄いよね。女性が夜に一人で飲食店に入れる。これもなかなかないことだよ」

→遂に飲食店でも、拉致・強姦事件発生。

良くも悪くも、日本も「普通の国」になってしまったということなのでしょうね。日本の「安全神話」がまさに「神話」になりつつあります。

投稿: 日本が失ったもの | 2007.06.20 19:42

話の枕になっている自転車運転モラル云々は、交通事故統計を見る限りにおいてまったくの虚像。
平成17年の交通死亡者数統計で、自転車対人の事故死亡者は全国で2件しか発生していない。一方、単独転倒事故による死亡者は、老人を中心に11件。そっちの方がよほど多い。
こと自転車事故に関する世の中の不幸は、かなり自業自得であると言える。

投稿: 統計 | 2007.06.20 20:57

モラルの低下によって、ますます女性が生きづらく、
平等ではなくなっている,と言う事でしょうか…。
複雑な思いです。
と言うよりも、自由民主主義・平等社会の堕落ではないのでしょうか。
政治が荒れ、社会が荒れる…ただそれが元凶になっているのだと思いますが。

投稿: maronhappy | 2007.06.20 23:20

私はずっと東京ですが、自転車にぶつけられたりするようになったのは
感覚で言ってしまえば、この4〜5年です。
自転車でぶつけてくるほうは、歩行者をひっかけても気にかけず行ってしまうので
殆ど数字には乗らないと思いますよ>統計さん
あと、昔から住んでいる人が「地元で無法は出来ない」のは東京も同じ。

投稿: ぐりぞう | 2007.06.20 23:54

例えばモラルに反する人がいて、その人に注意すると、周囲の人が助け船を出すという風潮ではないですよね。なんだか、注意したこちらが悪いかの様な雰囲気さえあるんです。だから、この国ではモラル云々ではなく、いかに皆と同じ行動をするか、が至上命題な訳です。犯罪でもイジメ自殺でも善悪ではなく、皆と同じということが至上命題だからあとからあとから続く。そういえばこんなこともありました。電車で座っていると雨だったので、開いた窓から雨が入ってきていました。そこで雨が入るので閉めてもらえますか、と聞くとニヤニヤするだけ。一体この人達はなんなんだと思いました。電車が走っているので、雨は斜めに入り込んできます。だから、その人たちには雨はかからないので、どうして窓を閉めるのか、という訳です。一事が万事こんな感じです。私は別に性差別をするつもりはありませんが、電車内でのマナーの悪い人は女性に目立ちます。化粧をして何が悪い、そんな感覚の人間にマナーやモラルなど求める方が無駄というものです。だから、私は積極的に誰かが困っていても助けるなどということはしないつもりですし、そんな人たちから助けなど一切求めません。ヘドが出ます。

投稿: ぷるきんえ | 2007.06.21 00:13

そーか、確かにデータに無い事でキーキー言いまわすのはモラルの問題なのか?それともそれがブログだろ、って事なのか。ここでどうでもいいやとか思ってしまう私は無責任なんだろうか。モラルが低いんだろうか。後でもう一回読みます。面白かったです。以上

投稿: Rabi | 2007.06.21 01:23

困っているふりをするひと、ひとがこまっているふりをしているとしか
見えなくなる、そのようなゲームに自ら刃をふるって陥るひともいますがと、真剣で脅されて書かされるほどみえすいたルールのポスト。

投稿: あの | 2007.06.21 01:23

自己評価が低いと他人に注意などできないし、モラルなんて小難しいこともいえなくなる。そういう側面もあるかと思いますがどうなんでしょう。いずれ、今時、他人をドヤシつけられる頑固オヤジなんてキャラは絶滅危惧種の類でしょう。種を絶やさないためにも、finalventさんには現役復帰していただきたいと思います。

投稿: lylyco | 2007.06.21 02:01

モラルはlowではなく慣習によって植え付けられるものですよね?それが文化というその場に最適化された認識システムによって与えられるルールであるならば、共通の生活基盤も現実もない今、それを再構築するには受け継ぐ記憶というのが重要になってくるように思います。
西欧では主にそれは生きられる場(=建築など)との関係に宿る記憶によって受け継いできた。(加えて戦争慣れした彼らはそれがどのような情報だろうと受け継ぐことを忘れない。記憶喪失と記憶改ざんの恐ろしさを彼らはしっている。日本に焼夷弾というのはそこも考えての事かしらん)日本はどうかというと記憶は山々によって遮られ、それぞれに風土の違う土地でありましたから、そこに住まう人々の経験の総体としてあったことでしょう。記憶の譲渡も生活の中に組み込まれていた。そして我々は基本的にその方法での世界認識を重視してきた。(WGIPってそれを前提に組まれたんですかね?)そして価値観の変化はそのことによって容易に文化を破壊した。私は思うのですが、それはコミュニケーション基盤の喪失だけでは留まらず、言語と身体を引き裂いた。意味は記号となり宙を彷徨っている。そしてそれは個の中の物語を容易に暴走させる。(それは幼児趣味や近親相姦など生物的タブーにエロさを求める状況を鑑みても明らかでしょう。抑圧などないのです)
故に身体による世界の共有とそこからの言語を獲得というプロセスが生活の中でもっと重視されねばならない(そして戦後はその中に終わる)ように思います。
ブログはその前段階として興味深く、背景をつくるのに有効なものに感じます。ブログが注目を集めるのにもマルチチュードを超えて、今の我々に最適化された世界認識をなんとかして獲得したいという意志を感じます。

投稿: 通りすがり | 2007.06.21 02:08

社会で守るべきモラルの水準が共有されなくなったということですかね。特に若い人は悪意を持ってやっているわけではないのでしょう。

私は電車内で携帯で会話したりはしないですが、それはモラルが高いからではなく、それを不愉快に思う人がいるのを知っているからです。私自身は、隣で誰かが携帯を使っていたり化粧をしていても不愉快ではないのですよね。

電車に乗っている10人中8人がそれを許容する社会になったとすると、それをもってモラルが低いと言えるのかちょっとよくわかりません。

投稿: いち読者 | 2007.06.21 02:17

モラルの問題を快不快の問題に矮小化する見方もありますが、私はそれは問題だと思います。例えば、電車内の乗客全員がレゲエ好きと仮定します。乗客の誰かが、レゲエを大きな音で聞こうぜと提案します。乗客全員がレゲエ好きで、この案は実行されるとします。これはモラルが守られているのか、といえば、もちろん違和感を感じるはずですし、レゲエ好き乗客連中の中からも異議を申し立てる人物もいるはずです。それはかつて誰もしたことがないから、という表面的な理由もあるとは思いますが、何かしらある、物事かくあるべしということが集約された規範感覚みたいなものに合致しないということから来るものではないか、と思います。規範感覚は表面的な物事を円滑に運用するといった便宜上のものではなく、もっと奥深く、根深く、存在に係わる根源的な問題だと思います。例えば、電車内で化粧をする女性です。もちろん迷惑はかかりません。しかし、違和感は感じるはずです。当該女性自身も違和感を深層心理では感じているはずです。しかし、それを否定し(防衛機制の一種か)、化粧を実行しうる人間の(これは若さ、未熟さというものでは到底説明し得ない)絶望的鈍感さを感じます。地球上に存在するすべての諸問題はこの絶望的鈍感さが原因なのだと思います。

投稿: ぷるきんえ | 2007.06.21 03:00

モラルや注意の次元では解決不能。たとえば、電車で向かい側の母子の横に危険な人物が座った時、注意することは更なる危険をまねくけれども、ある動物の本能に近い部分をはたらかすことで、危険人物の意識を別なところに向けることはできる。テレパシーではない。個人の意識が顕在していれば相手のある部分に反応させることは臨場の態勢の理。
街が、乗り物が無意識の函と化しているこの国において、その函にはいった途端、老人、障害者、幼児と狂人以外のほとんどのひとは意識を麻痺させることでそこにいることを憶えてしまった。意識は携帯の画面、鏡、書物そんなものにすいとらせてしまう。死んだ魚の目をして自転車にのるひとも街にはいる。これだけはこの国の外でありえない。
何かが起こる時、その場に臨んだ意識でその瞬間に出来事を回避する能力を失い、事後に何かに原因を帰する、理由を求める。延々たる議論。
たちあらわれる現象として、テクストそのものとして生きるあり方を多くのひとが悲しいくらい喪失して、答えを求めブログにむらがる。
自転車にのるということは、ルールを守るのではなく、車の目、人の目それをもって乗り、さらに背中に目をつける体得、風速で速度をはかれる身体の獲得。そのような身体の外化が反面で産業を支え労働の能力としても機能してきた筈だったが。おそらく優れたロボットと人工知能にいずれとってかわられるという意味でこのくにの都市は先進するのか。
ひとは痴性と情報に操られて廃人として生きるのか。

投稿: yamafba | 2007.06.21 07:56

モラルとか倫理というのは、「私の」モラルという範囲から外にでたとたんに権力やら何やらに変質してしまうという話として読ませていただきました。

finalventさんはモラルのない人も、傍観者ももはや問題ではなくて、「私の」モラルと私がどう向き合うか。そういった境地に立っておられるのではないかなと思いました。

投稿: サモッチ | 2007.06.21 14:52

昨日、小津安二郎の『早春』を鑑賞したのですが、
男と女は死と生の意識の対なのだなあと、
夫婦という企画を再考する必要を感じました。

>そして我々がその子供でなかったというのは偶然でしかない。偶然のもたらす悲劇に対してできるだけ公平であること、あるいはそうした偶然の悲劇をもたらさないように僅かに試みることがモラルかもしれない、とか、ぼんやり思う。

終幕の、池部良に賭けることにした淡島千景が、二人して「上り」の機関車を見つめる様には、
何か楽園を後にしたアダムとイブを思わせるところがありました。特に後姿の陰影が、宗教画のようで…
そこら辺の印象が外国で受けるのかもしれないなあ、とも。

投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.06.26 14:34

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