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2007.06.30

無門関第七則、趙州洗鉢から現代的自己搾取について

 蒸し暑くくけだるく怠惰な昼寝の季節なので、コンビニのとろろ蕎麦を食った後、ぼんやりうとうとしていると、趙州とおぼしき老師が夢にやって来た。こりゃまずい。禅をなさず居眠りという時にやって来るとは。しかし、これも大悟の好機かもしれぬ。ここは教えを請うフリでもしていようと、小風、乍入電妄、乞う老師、指示せよ。老師いわく、喫薯蕷蕎麦、了や未だしや。小風いわく、了。州、老師いわく、簡便鉢盂を洗い不燃物とせよ。

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無門関
 目覚める。変わらないな、趙州禅師。無門関第七則、趙州洗鉢の現代版か。と、プラスチックゴミを簡単に洗って、不燃物ゴミとする。スタバのマイカップではないが、コンビニ用マイ弁当箱であれば、まさに鉢盂を洗い去れといったところだろう。
 それから趙州洗鉢について少し考え込んだ。現代風に言えば、修行僧が趙州に教えを請うたところ、師は飯を食ったら茶碗を洗っておけ、ということ。無門関(参照)としてはここに禅の悟りがあるということなのだが、一般的には、禅の悟りや修行というのは日常の所作の中にあるものだ、と解されている。
 悟りにほど遠い私は勝手に思うのだが、趙州洗鉢の要点というのは、自分の飯の後始末は自分でしなさいということではないか。別の言い方をすれば、誰かのサービスを買うのはやめなさいと。あるいは、誰かに依存するのはやめなさい、と。
 しかし、と愚かな私は考え込む。人にサービスを頼むという相互の依存性から経済が起きるのではないか。日本の現状で重要なのは、そのような依存のサービスをより高度にしていくことなのではないか。そうすれば雇用が発生して云々と。
 そんな連想が働いたのも、FujiSankei Business i「物価はどうして上がらないの? 雇用との連動性低下」(参照)のことをなんとなく思っていたからだろう。私の世代、つまり昭和32年生まれだと、高田渡の「値上げ」(参照)でも口ずさんでしまいそうだが、今の日本で求められるのは、値上げである。というか、デフレの脱却だ。たぶん、秋頃には再度の原油高騰を受けて少しは上がるのだろうと思うが、そういう下駄なしだと、日本は依然デフレを脱却していない。失業率が3%台になったがその影響もない。

 大田経財相は29日の閣議後の会見で、「需給と価格の関連性が弱くなっている。需給は改善しても価格はなかなか上がらない。労働需給も一部に逼迫が見られながら賃金が上がらない」と述べるなど、やっかいな物価の動きにいらだちを隠さない。

 とのこと。また。

 内閣府の試算によると、今年1~3月期の需給ギャップは、プラス0・9%と、15年ぶりの高水準を記録した。最近の物価のマイナス基調は、需給ギャップのプラスの数値が上昇し、需要超過の度合いが高まれば、物価も上昇していくという経済学の常識にも反している。

 現状についてはそれでも各種の経済学的な説明が付くのだろうが、がというのは、個人的に思うのは、あまりサービスを必要としない世の中になってしまったな、という感じがすることだ。自分のことは自分できるしそれでとりあえずいいんじゃないかというか。
 へんてこりんな逆説を言うと、たとえばコンビニでとろろ蕎麦が買える。それほどおいしくはないけど、便利。便利という点にサービスはある。でも、このサービスは他のサービス(例えば蕎麦屋のとろろ蕎麦)を削っているし、そうした例ばかりでなくても、便利な新サービスでより自分で対応できる範囲が増えて、以前のサービスは減る。
 新サービスの側に労働者が流れ込めばいいのだろうとも言えるが、どうも現代的な便利さというのは、一見すると他者からのサービスのように見えるが、ある種の自己搾取による値引き感というのもあるな。
 繰り返すと、生活が便利になるというのは、受ける側のサービスが充実するというより、自分でハンドル(切り回し)できる範囲が広がったということで、そのあたりで実際には自分の隠れた労働(シャドー・ワーク)みたいのが織り込まれるような気がする。
 趙州洗鉢というのを、古いモデルのまま考えずに、そういうある種の自己搾取として、肯定的に見直してもいいのではないか。自己搾取というといかにも搾取されているみたいだが、ようするに貧乏人が各種の場において自分の労働による対価を自由に発現できるようになったということかもね、と。
 あるいは、可処分所得というのの類推からだが、可処分時間(カネはないが暇だけはあるとか)というポイント制みたいのが実際的にできそうな気もする。逆にカネで可処分時間も購入できるとか。

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2007.06.29

東芝による米原発二基受注、雑感

 東芝が米電力大手NRGエナジーによる米テキサス州建設予定の原子力発電所建設を総事業費約6400億円(52億ドル)で受注する見込みだ。2014年に稼働予定。
 日本企業による初の米国原発受注のニュースでもあるのでその点でも、へぇと思ったが、その金額を聞いて、少し驚いた。額が大きいというのではない、あまりに帳尻が合い過ぎている。なんなのだろうと少し考え込んでしまった。この話題について何かまとまった結論もないのだが、気になるのでブログに書いておこう。
 ニュースと背景については日経新聞記事”東芝が米原発受注、総事業費6000億円”(参照)より。


 東芝が米電力大手NRGエナジーから原子力発電所を受注することが内定した。同原発は日立製作所・米ゼネラル・エレクトリック(GE)連合が優勢だったが、日本での安定した実績などを訴えた東芝が逆転した。総事業費は約6000億円。東芝本体が海外で原発建設の主契約企業となるのは初めて。原子力政策を転換した米国では今後30基の原発新設が見込まれる。三菱重工業も米国で大型受注を獲得しており、日本の原発大手の攻勢が相次いでいる。

 全体の流れとしては主に昨年の石油高騰(現在もまた上がってきているが)の世界的な騒ぎと地球温暖化を避けようという祭りのような騒ぎから、各国とも原子力発電見直しにシフトした。特に米国では記事にもあるように今後さらに原発の建設需要があり、日本はかなりその恩恵にあずかることになる。もっとも、日本対米国という単純な図式ではないことは、今回の受注でも日立・GE連合が途中まで優勢だったことでもわかる。
 東芝の受注額で「あまりに帳尻が合い過ぎている」といった印象をもったのは、今回の受注の直接的なきっかけとなった06年の米ウエスチングハウス買収額が(54億ドル=約6400億円)だったことだ。まるでこの日に回収見込みが立つかのような受注だった。それだけ見れば、米国が米ウエスチングハウスを日本企業である東芝に買収させずに、なんとか持ちこたえさせるような米国内的な配慮でもすれば良かったかのようにも見える。が、技術的には米ウエスチングハウスには無理だったようだ。
 今回の受注はFujiSankei Business i.”東芝、初の単独受注 米原発2基、総事業費6400億”(参照)によると、「沸騰水型軽水炉(BWR)と呼ばれる方式の最新改良型(ABWR)」ということで、東芝はすでに「世界初のABWRである新潟県の柏崎刈羽原発6号機を手掛けた実績」がある。なお、この技術は日立もあるにはあるのだが。これに対して、米ウエスチングハウスは「世界の商用原子炉の約7割を占める加圧水型軽水炉(PWR)方式の大手」ということだった。うがった見方をすれば、東芝に買収させることで、米国内の雇用を守ったとも言えるのかもしれない。ちなみに、米ウエスチングハウスは06年の時点で、米国を含め世界34か所に技術・販売拠点を持ち、原発の建設実績は98基。従業員約9000人、売上高約18億ドル(約2100億円)とのこと(読売新聞2006.2.20より)。企業規模としてはそれほど大きいわけでもない。この買収は、「極東ブログ: 行け、行け、中国海洋石油!」(参照)や「極東ブログ: ユノカル問題続報」(参照)でふれた中国海洋石油(CNOOC)によるユノカル買収と同様に、対米外国投資委員会の審査対象となったが、4か月でスピード承認になった。
 日本国内的に見ると、東芝が結果的に米ウエスチングハウスを買収したのだがこの買収では、三菱重工業も狙っていた。”三菱重会長“恨み節” 東芝の米原子力大手買収”(2006.2.22)ではこう背景が語られている。

 三菱重工業の西岡喬会長は21日の記者会見で、米原子力大手ウェスチングハウス(WH)の買収レースで東芝に敗れたことについて、「理解に苦しむことが起こった」と述べ、東芝の提示した買収額(54億ドル=約6400億円)があまりに高すぎるとの認識を示した。

 業界的には常識外れのトーンもあったのではないか(当初の予想では3000億円)。しかし、今回の受注額を見ると、苦笑い以上もあるかもしれない。なお、三菱重工業と東芝は原発についてはこれがきっかけで事実上決裂したようだ。
 東芝を揶揄したわけではないが、もう少し気になることがある。東芝は米ウェスチングハウスの買収を足がかりに原子力事業拡大を狙っていた。計画では、06年時点で約2000億円の原子力事業規模が、2015年までに6000~7000億円に拡大される予定だ。もちろん、今回の受注から米国でのさらなる展開が見込まれているのだが、それでもこの膨れかたには、当然、中国の原発建設需要が含まれている。
 というあたりで、米ウェスチングハウスを振り返ると同社もそもそも中国市場を狙っていた。十年前の読売新聞記事(1997.10.23)”江沢民訪米に向けて(3)原発業界、巨大市場に的(連載)”だが、次のように語っている。

 米原発メーカー、ウエスチングハウスのマイケル・ジョーダン会長はこの四年間に六回、中国を訪問した。今後二十五年間の原発建設投資が推計六百億ドル(七兆二千億円)に達する見通しで、世界最大の原発市場となることが予想される中国への売り込みが、最大の目的だ。
 一九七三年以降、米国内での原発発注はゼロ。中国に原発を輸出できなければ、同社は身売りの可能性もあるとうわさされている。だが、商談の最大の障害は中国側にではなく、米国側にある。米国は八五年、対中原発輸出を始めるための原子力平和利用協定に調印したが、議会が中国の核拡散疑惑をやり玉に挙げ、協定履行を凍結させたままなのだ。

 結局、米ウエスチングハウスは東芝に身売りとなったのだが、東芝となることで中国進出の展望も開けてきたと言えるのだろう。
 以上、たらーっと書いてみて、自然にこの先のストーリーが見えつつあるようにも思えたが、結果的に日本にとって悪い話でもないのだろう、というあたりで雑感も中断しておくほうがよいような気がする。

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2007.06.28

ミンチ偽装事件にさらにボケた感想を

 なんだか悪ふざけしているみたいだし、そういうふうに前書きでもしとかないと書けそうにもない話題になりつつある。でもなあ、個人的には、前回「極東ブログ: ミンチ偽装事件にボケたツッコミでも」(参照)を書いたあと、多少関心をもって話題を追っていたら、へぇと思うことがあった。ボケた感想になるのだろうけど、まあ、たぶんこれっきりだから書いておこう。
 私のボケ感想には2つの「へぇ」がある。最初のは、ミンチ偽装事件ってミートホープについては違法性は全然ないっぽいこと。二六日付け朝日新聞”牛ミンチ表示、全国調査へ JAS法見直しも”(参照)によるとこう。


 ミート社を巡っては、表示以外の肉の混入や産地偽装、賞味期限の改ざんなど様々な不正が次々と明るみに出たが、同社が直接、消費者に販売している商品はなく、一連の行為は製造業者との取引での不正で、JAS法違反には問えない可能性が高いとされる。

 え? もしかして現行法では違法性は全然ないんじゃないのかもしれない。へぇ、と。
 しかし、なんか腑に落ちない。そりゃそうだ。いいわけないじゃん、どっかが罰せられるべき問題でしょ。で、誰が、ほんとは、悪いんだ、と単純に疑問に思っていた、ところ、26日付「解説委員室ブログ:NHKブログ 食肉偽装はなぜ起こったか」(参照)に、私には意外な指摘があった。これが二つ目の「へぇ」。

 現在のJAS法では、表示の責任は最終的な製造者が持つことになっていますから、問題を引き起こしたミートホープは罰されず、逆に北海道加ト吉や生協に、最高で罰則一億円が科される可能性があります。

 私は物事をけっこう単純に考えることが多いのだが、その単細胞頭で考えると、なーんだ、悪いのは北海道加ト吉や生協など最終的な製造者じゃないか。それで現行法的には、お終い、という問題なんじゃないか、と思えてきた。
 なんでそこで終わらないのだろうか? あるいは現行法が悪いなら、これから法改正をして今後そういうことがないようにすればいい、というだけのことではないか。
 ただ、どうも、国民感情というか、国民感情操作者的にはそれでもいけないかのようだ。NHKブログでは話はこう続く。

 最終的に確認を怠ったといえばそれまでですが、偽装の悪質さから考えるとミートホープも同じ責任を追わなければバランスがとれません。

 私は正直に言うと、そのコメントにはずんと引いた。どこに法意識があるんだ、それ、とか思った。「それまでです」で終わりじゃないのか。というか、私としては、予期せぬ終了をしてしまいました。
 あと余談っぽくなるけど、JAS法的には、同ブログにあるように、「企業の規模によって、都道府県と農水省が分担してその指導に当たることになってい」るらしい。そして、今回のミンチ偽装については、「東京にも支店を構えるミートホープは、本来は農水省が対応すべき企業でした」ということなので、それって単純に農水省さん、お仕事してちょうだいねというだけではないのか。
 というか、ちょっと出遅れたけど農水省さんがお仕事をしたということか。でも、当初は「担当者が北海道庁に文書で対応を依頼」ということなので、それって、べたに農水省さんのミスってやつではないのか。
 まとめると、法的には北海道加ト吉や生協などに罰金払わせろ、というのと、農水省のしくじりじゃん、の2点がこの事件の核心なんじゃないの、か?
 とま、以上、ミンチ偽装事件にさらにボケた感想でありました。

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2007.06.27

教育実習費問題というか

 教育実習費問題は必ずしも毎日新聞ネタというわけでもないのだが毎日新聞がよく取り上げているようだ。どういう問題かというと、毎日新聞”教育実習費:学生が学校側に謝金 全国各地で慣例化”(参照)より。


大学生が教育実習をする際、受け入れ先の学校に1万~2万円程度支払う謝金(実習費)が全国各地で慣例化していることが、毎日新聞の全国調査で分かった。学生からの謝金を指導教諭に渡していることが明らかになったのは滋賀県教委や京都市教委、新潟県教委など。13道府県と4政令市の教育委員会が取り扱いをルール化せず、現場判断に任せていた。文部科学省は、不透明な金銭授受だとして謝金の排除を求めているが、徹底されていない実態が浮き彫りになった。

 実態を知っている人にしてみると何が問題かという問題でもあるし、知らない人にしてみても何が問題なのかわかりづらい。ごくごく単純にいえば、大学生が教育実習する際に実習費は義務づけられてもいなければ、制度もないのに、慣例化していて困ったもんだということ。記事にもあるように、文部科学省としては、不透明な金銭授受だと見ている。
 同記事では全国で慣例化しているとのことだし、それがあながち間違いでもないのだが、これはやっている学校とそうでない学校がある。なので、実習生ですら知らなかったということもある。
 少し話を急ぎすぎるきらいはあるが、これが大した問題でもないというふうにも見られるのは、金銭が少額だからだ。

 また、教材のコピー代や消耗品の経費は実習生が負担すべきだとして、大阪や愛媛、福岡など7府県教委と仙台、京都、神戸の3市教委が実習期間に応じて1週間あたり3000~7200円の実習費徴収を要綱などで決めていた(愛媛は期間に関係なく定額9900円を徴収)。このうち京都市教委は、学生の指導教諭に報償費で金を渡しているという。

 噂では三万円くらいのところもあると聞いたことがある。
 が、それでも少額だと言える。受け入れ側の負担を実費で計算するとまるで見合わないはずだ。というわけで、この慣例なのだが、実際には、「薄謝」という枠を出ないし、実習費が取りやめになったからといって、それが大きな問題になるほどの額でもない。
 むしろ問題があるすれば、教育実習の受け入れ側の負担が、なんと言うべきか、恣意的にも見える点だ。簡単に言えば、母校でしかも恩師の先生がある程度力や権威を持っているといったふうでないと難しい。極端な言い方をすると縁故的でもある。ただ、教育現場における縁故の性質は他にも根深いし、一律でいかんとも言えないところがある。ごにょごにょと言ったところだ。なかなかこの部分は語りづらいし、表向きは見えない。しかし、例えば、読売新聞投書欄に掲載された”試験内容漏えい 厳しく追及せよ”(2007.1.30)などからその実態が伺われる。

 福岡市教育委員会ナンバー3の元理事が、教員採用試験問題の資料を元校長に漏らしていたことが明らかになった。官製談合や「政治とカネ」を巡る問題が相次いで明らかになる中、教員採用試験に対しても国民の不信感が高まっているのではないかと心配だ。
 私がそう思うのは、三十数年前に教員採用試験を巡って忘れがたい記憶があるからだ。大学4年生の秋、父が突然、「頼んでやろうか」と一言。それが何を意味するかは若い私にも理解できた。私の将来を案じた父が、どこかで聞いてきたのだろうか。
 血気盛んだった私は、当然拒否したが、父と大げんかになり、後々まで尾を引くことになった。学校教育の現場に、闇の部分はないことを信じたい。

 投書では三十数年前としているので現在ではそんなことはないということかもしれない。が、読売新聞記事”愛媛県議「口利き」文書、ネットで暴露 教員採用「ご配慮、切にお願い」”(2006.1.25)で取り上げられた、「お願い状」は現在でも存在する。

 県議によると、3通は支持者の依頼で昨年2~7月にかけて作成。教員採用に関し、県教委幹部に配慮を求めた「お願い状」と、その謝礼を断る文面のほか、地元銀行頭取に支持者の関係者の就職の便宜を図るよう依頼した文書も含まれていた。教員採用では「父親は同級生で、いろんな苦労を一緒にして参りました。ご配慮いただけますよう切にお願い申し上げます」などと記し、県教委幹部あてに郵送。しかし、この子どもは不合格になったという。

 この事例ではしかし子弟は不採用になったので、「お願い状」は機能しないではないかと理解することもできるのかもしれないし、こうした問題提起を不快に思う人々もいるだろう。
 もう一点は実習生が必ずしも教員にならない。効率が悪いとも言えるのだが、実習の過程で教育を天職に目覚めるという人もいないではない。これにはまったく逆とかパワハラ的な問題もあるとも聞く。ごにょごにょ、と。
 結論を言えば、ある程度社会的に騒げば教育実習費という問題は消えるだろうし、紙代などは実費ということになるだろう。表面的には問題は簡単に解決する。根っこの部分はまるで解決する兆しもない。

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2007.06.26

ミンチ偽装事件にボケたツッコミでも

 北海道苫小牧市の食肉製造加工会社「ミートホープ」による牛肉ミンチ偽装事件についてだが、当初ニュースを聞いたとき、何か危険なものでも混ぜたのかと思ったら豚肉を混ぜたということで、なーんだ合い挽きを巧妙にしたものか、日本風ハンバーグとか作るのに案外いいんじゃないか、とか思い、一気に関心を失った。が、その後、なにか世間のニュースで盛り上がっている。なんだ?
 もちろんもちろん偽装は良くない。それに、どうもその後のニュースを追っていると、読売”ミートホープ社、クレーム商品は保険金で賠償・回収し転売”(参照)や加ト吉の絡みもありそうだ。そういえば、加ト吉といえば四月に、日経”加ト吉、不透明取引で150億円損失・社長が引責辞任 ”(参照)という話があり、だもんで今回朝日”加ト吉の創業者の加藤義和相談役、経団連理事を辞任”(参照)ときた。そのあたりが狙い目だったというわけでもないのだろう。が、今回のミンチ偽装だが、業界的にはすでにわかっていたっぽい。なんで今頃浮上したのだろうかというのも気になるものの、ミートホープは大した規模の会社でもないので、裏側のネットワークを考察するのはめんどくさい。
 話を戻して、私はこの事件にまるで関心を持ってないのは、ふつう日本人が食べているハンバーグなどの肉は合い挽きですよ、というあたりだろうか。つまり、日本人の牛挽肉の味覚は豚を入れて調整されているはずですよ、と思うからだ。
 ミートホープの田中稔社長(68)もさすがプロだけあって、そういう日本人の味覚をよくご存じだった。朝日”ワンマン社長「混ぜれば逆にうまくなる」 ミンチ偽装”(参照)より。


 ミート社の元役員らによると、幹部社員らが数年前、田中社長から肉の塊を食べさせられ、「何の肉か分かるか」と尋ねられたという。豚や鶏など様々な肉を混ぜて最後に牛脂を入れ込んだ肉だった。牛肉の味しかせず、素材を言い当てた社員はいなかった。田中社長は満面の笑みで「混ぜてしまえば逆にうまくなる」「発想力だよ、発想力」と言ったという。
 そんな田中社長は、問題発覚後、言を左右にして事実や関与をなかなか認めなかった。自らの指示を認めたのは、4回目の会見。「本当のことを話して下さい。お願いします」。そばにいた長男の取締役に促されて、初めて「指示した」と認めた。

 孔子様が眉をひそめるような良い息子をもってよかったというべきか(ってな凝った修辞はイヤミっぽいか)、でも田中社長の味の偽装の「発想力」はいただけないが、ラベルを変えて安く売ればよかったのではないか。
 私などが偉そうに言えたものでもないので、また、バカかお前ツッコミを食らうかもしれないけど、思うところをざっと言うと、牛肉のミンチは牛肉の味を活かそうとしたら、日本で普通に販売されているほど細かくミンチにしない。というか、小さいスーパーだと牛肉ミンチは売っていない。あれでハンバーグとか作るとパサついて日本人の口に合わない。ちょっとお料理ネタ系でいうとあれはハンバーガーのパテにするにはいい。なので、日本人が普通牛挽肉を使うときは豚肉を混ぜるもの。
 あるいはちょっと大きいスーパーに行くと、最初から粗挽きの牛肉ミンチが売っているし、ちょっとこったファミレスだとすでにそれを使って牛肉の食感を出す。ただ、その程度なら安い牛肉買って包丁で叩いても同じ。
 また日本人の牛肉の嗜好はけっこうヘットの味によっているので、牛肉ミンチにしてもヘットの含有を多くすると、おお、牛肉って思ってしまう。まあ、そんなこんな。
 こんな話をしているとつい放言で、牛肉の味がわからない日本人の味覚が問題なんだよとかこきたくなるが(というかケロっとこいてたりもするが)、いやいやそこに罵倒を突っ込めよという釣りじゃなくて、しかたないのかなとも思う。普通の日本人が牛肉を食べるようになったのはこの二十年くらいではないか。そういえば、私が二十代のころちこっとつきあったことがあるお嬢さんは豚肉を知らなかった。中華料理は食べるでしょ?ときいたら、うちはいつも牛肉だから、とぬかした。だめだこりゃと思ったし、たしかに若い日のほろ苦い恋のエピソードになりましたとさ。

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2007.06.24

[食]冷や飯トマト・ドルマ

 右カラムの最近の記事から料理ものの話が消えたので、なんか平和な料理の話でも、と思い、では季節がら「冷や飯トマト・ドルマ」の話でも。
 トマトのドルマはトルコやギリシアでよく食べられているもので、トマトをくりぬいて中に米とか肉とか詰めて焼くもの。フランス語的にはトマトのファルシかな。とにかくありふれた料理。
 詰め物はお好みでなんでもいいみたい。焼きトマトに合うならなんでも詰めちゃえということ。エジプトで食べたのはニンニクの香りにパン粉となんかのハーブだったかな。似たようなものにするならパンの耳をちぎって、擦ったニンニクやチーズ入れてもいい。
 私がよくやるのは、冷や飯を入れるもの。手順的に書いてみるとこう。
 トマトの上部をフタになるようにすぱっと切って、トマト本体のほうの中身をスプーンでくり抜く。これでトマトの入れ物ができる。トマトの中身は別に取り分けておく。
 トマトの中身だが、この果汁に冷や飯と細切れのベーコンを混ぜる。このとき、あまり果汁が多いとべちゃっとなるので、多めの部分は芯の部分と一緒に取り出しておく。
 冷や飯とベーコンとトマト果汁をちょっと味見して塩味が足りなさそうな気がしたら塩を入れる。バジルとかオレガノとかハーブを入れてもいい。
 これをトマトに詰めてトマトのフタをして、オーブンで焼く、200度20分くらいでいい。適当。たぶん、オーブントースターでもできると思うけど、汁がこぼれないように入れ物に入れて焼くといい。

 焼き上がればお終いだけど、さっき取り分けた残りのトマトの中身と果汁は簡単に煮詰めるとトマトソースになるので、これで缶詰のイワシでもちょっと煮るとおいしい。
 できあがり。左のトマトはフタを開けてみたところ。下のチーズみたいのは豆腐をドレッシングしたもの。

 食べきれない分は残して冷蔵庫に入れて、あとで冷えたのを食べてもおいしい。

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2007.06.23

[書評]催眠誘導の極意(林貞年)

 催眠術にそれほど関心があるわけではないのだが、昨今のマスメディアのヒステリー的な状況やブログの状況などを見ていて、これは一種の集団催眠的な現象ではないのかと思い、つらつらと思い出したようにこのところ催眠術関係の本をいくつか読んだ。

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催眠誘導の極意
 このジャンルの本は、本として読むと奇妙なフカシが多い。しかし、実際には手品・奇術と同じで実技技能的な側面も強く、全体がくだらないと捨てるべき領域ではない。また、なんとなく子どもたちの世界で時折というか周期的に集団催眠現象みたいなことが起きるのも不思議なのだが、最近そういう背景があるのかもしれないニュースにその背景が見えづらくなってきた。
 他、NLPの、と言っていいのかエリクソン関連の翻訳書が増えてきているのもなぜかと訝しく思ったり、フロイトについて物思いにふけったり(フロイトはコカインと催眠術から精神分析を打ち立てた)という関心からも催眠術の本を読んだのだが、たまたま手にした「催眠誘導の極意 成功率アップ!「瞬間催眠術」もかけられる (林貞年)」(参照)とその前著「催眠術のかけ方 初心者からプロまで今日から使える(林貞年)」(参照)が非常に面白かった。長年疑問に思ったことがいくつも氷解した。と同時にこの術師林貞年という人はどういう人なのか関心を持ち、さらに「カリスマが教える本物の技術 スーパー・ベーシック催眠導入(林貞年)」(参照)も読んだのだが、私は催眠術を習得したいわけでもないので、そうした技術には関心が持てなかった。
 普通の読書人対象でも前二書は読んで興味深い書籍だろう。催眠術というものに一般の人が抱いている誤解や偏見などもクリアされる。術師林貞年の理性的な解説に共感する部分も多いだろう。私などからすると、エリクソンについての次の見解は貴重だった。おそらくNLPを含めてよいと思うが催眠術の世界についてこう語られている。

 この世界では話が飛躍していくのは珍しいことではありません。エリクソン博士の催眠にしても、広めているのはエリクソン博士ではなく、多くのお弟子さんたちです。話が飛躍していないとは言えないでしょう。このカリスマ性を帯びた催眠に魅せられた者たちがテクニックをバブル化していることも確かです。
 私はエリクソン博士を尊敬している人間のひとりです。悲しいのは、エリクソン催眠に便乗して、ありもしないテクニックを理論的な説明で、さも受講を受けて練習さえすれば誰でも人を操れるように宣伝することです。
 「現代催眠はどんな人でも催眠に入れてしまい、言葉ひとつで思うがままに操れる」――そんな、ありもしない魔術を追いかけている人が増えているのも事実です。催眠はその人の中にあるものを引き出す技術です。その人の心に沿った催眠だけが成功するのです。

 前著のほうだが禁煙と催眠術の関係で面白いエピソードもあった。話は、この著者ではない別の術師がテレビで禁煙の催眠を実施したことだが。

(前略)この番組の中で、トラウマをもった女性に年齢退行を施した後、スタッフの人が被験者になって「タバコがまずくなる! 吸おうとしても絶対に吸えない!」と暗示されたのです。ここまでならテレビでよくやる催眠なので、私ば漠然と見ていました。
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催眠術のかけ方
 問題はその後です。白衣を着たまま、征服欲に満ちた顔で、デスクの上に足を組み、まずそうな顔をしてタバコを吸っているスタッフに「タバコをやめたいなら、この暗示は解かずに、このままにしておいてやる」と、スタッフの顔を指さしながら言ったのです。
 このような催眠家を人に紹介できるでしょうか? 私はこのとき頭に血が上るのがハッキリ分かりました。医者であり、催眠療法家という肩書きは、精神的な悩みをもつ人たちの心を引きつけて離さないでしょう。それだけの威光を持った人がなぜ、間違った催眠を見せるのでしょうか? 実は、催眠だけで禁煙するのは不可能に近い。

 正しい指摘だと私は思った。
 私はかなりの嫌煙家なのだが、禁煙というのはマクロ的には人口比率的にある一定以上減らすことは不可能ではないかと思うし、たしかそうした研究を見たことがある。ミクロとしては禁煙が実現する率は低いだろうし、指導法も確立していないのではないかとも思う。
 著者が「催眠だけで禁煙するのは不可能に近い」とするのは、喫煙が単に行動的な習慣だけではなく神経に作用するニコチンという実体性にある。別の言い方をすれば、人によってはニコチンパッチなどを含めた総合的なメディケアが必要だろう。
 話は尻切れトンボになるが、この二著について、ドクター・苫米地の一連の著作にほのめかされている部分がクリアになったり、時折考察するある事件の内情への推理の補助にもなったりもした。よく読むと冒頭の問題意識、つまり、マスメディアやネットの催眠術的な仕組みを考える上でのヒントもあった。


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2007.06.21

ガザ状況メモ

 ガザの状況だがひどいことになったなという率直な感想と、事態がよく飲み込めないこともあって、まとまったことが書けそうにもないが、「極東ブログ: パレスチナ自治政府アッバス首相辞任はしかたがない」(参照)、「極東ブログ: スーハ・アラファト(Suha Arafat)」(参照)、「極東ブログ: 国連がハマスに資金供与の疑惑?」(参照)、「極東ブログ: シャロン後メモ」(参照)、「極東ブログ: 軍服もどき」(参照)といったエントリの延長になにかメモを書いておくべきだろう。
 現状について、基礎的な解説は省略したい。本当はそこをきちんと書くべきかもしれないのだが。
 さて、この問題についての私の基本的な視点だが、ハマスをできるだけパレスチナの政治プロセスのなかに取り込んで和平実現に向けていけばいいし、イスラエルもその対応ができないものでもないだろう、ということだった。長期的にはなんとかそれなりの和平の線が見えてくるだろうとも思っていた。そんな自分なりの理想もあってか甘い読みといえばそうだが、可能なら平和であってくれよと思っていた。まあ、現状ではダメでしたね。
 現状では、ガザをハマスが占有したとも言えるし、アッバス側ファタハと決裂を決定的にしたとも言える。流血の惨事が続き悲劇は悲劇だ。これで「パレスチナ国家」という看板の夢が遠のくと言えないこともない。
 が、すでに米ライス国務長官もつぶやいているように、ガザにハマスを押し込んだのだから、残りのファタハ=パレスチナ国家で、いわゆるパレスチナ問題がその線上で解決しないわけでもない、という見方もできないわけでもない(ギャグみたいな文章になったが)。また振り返ると、ここに至る一連の動きはハマスの欧米による追い込めであったと読めないわけでもない。
 ただ、ではガザはどうなるの? というあたりで、シャロンがガザを捨てたとき、実は彼の脳裏には今日の日の予感があったのかもしれないなと私は少し思って背筋が寒くなった。そうだったのだろうか。正直私はそんな想定はしていなかった。
 国内の大手紙の社説を参考までに振り返る。
 朝日新聞社説”パレスチナ―分裂より和解への努力を”(参照)はなにか意図的に焦点がずれた印象がある。というか、船橋洋一的なぼよよんとした話になっている。それでも論点的には欧米批判ということだろうか。欧米のアッバス支持路線は危険だと言いたいようだ。


 今回の危機で、米欧はアッバス議長支持を打ち出し、制裁を解除して支援再開を表明した。ハマス排除を歓迎してのことだ。しかし、それでは分裂が固定化され、危機を深めることにならないか。
 第一に、欧米の支援を受けたファタハが、西岸でハマス排除を強めると予想される。しかし、ハマスは西岸でも支持基盤を持っており、抗争がますます激しくなる危険がある。
 第二に、ハマスが支配するガザが封鎖されて孤立化すれば、飢餓などの人道的な危機が進む。イスラム社会全体に反米欧の機運を生みかねない。
 ハマスは、イスラエルとの和平を目指したオスロ合意を受け入れず、イスラエルの存在も認めようとしない。それが政権を握ってしまったことへの、米欧などのいら立ちは理解できる。

 率直に言って二点ともそれほど説得力はないだろう。そしてたぶん誰もが思うだろうがガザとエジプトはつながっているのに、表向き誰も言及しないのはなぜなんだろうか。
 産経新聞社説”パレスチナ分裂 両派和解以外に道はない ”(参照)は、ちょっと読むと朝日新聞社説みたいだが、わかりやすい。

 ハマスは選挙により評議会の多数を握ったとはいえ、和平交渉の前提となるイスラエル承認を拒否し、今回は武力でガザを制圧したとあっては、国際社会の支持を得られるはずがない。日本政府もアッバス議長支持だ。
 ハマス支配のガザ地区に対してはイスラエルが早くも封鎖の動きに出た。国際社会からの経済支援も得られない状況では、同地区は早晩、経済的に行き詰まることが必至である。

 たぶん、ガザは行き詰まるだろうし、ハマスは壮絶に自滅するというのが見えないわけでもない。そしてそれゆえに、「両派和解以外に道はない」という産経にはリアリズムがあるが、ただ私は受け入れがたいものも感じる。たぶん、そのリアリズムの先にはガザの民衆が事実上ハマスの人質のようになるという絵が待っているだろうから。
 日経新聞社説”パレスチナ分裂、和平外交の再構築急げ”(参照)は論旨が混乱しているように思えた。

パレスチナ自治政府のアッバス議長は危機管理内閣を立ち上げたが、ファタハ主導の自治政府は事実上、ヨルダン川西岸地区の政府にすぎなくなり、ハマスが実効支配するガザとの分裂状態は長期化する可能性が大きい。

 つまり、日経はガザが維持できると想定している。理由はハマスは孤立しないだろうというのだ。

ファタハ側へのテコ入れによって、ハマス支配下のガザを孤立させ、ハマスの弱体化を進める狙いだが、米国やイスラエルの思惑とは逆の展開になる可能性も小さくないだろう。
 昨年1月のパレスチナ評議会(国会に相当)選挙でハマスが勝利し、ハマス主導の内閣が生まれた後、武力闘争放棄やイスラエルとの共存の意思を明確にするようハマスに迫る形で国際的な対パレスチナ援助凍結の動きが広がった。だが、“兵糧攻め”によってハマスの力が弱まったわけではない。むしろ援助凍結によって経済力の弱いガザの状況がさらに悪化して政治的な反発も強まり、ファタハの地盤沈下が進んだ。

 そういう読みなのだが、ちょっと弱い。ガザに追い詰められたと見るべきだし、地理的にはやはりエジプトにかかっているとしか見えない。

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2007.06.20

モラルの低い人を傍観する時

 このところぼんやり考えているが結論も出ないことがある。ただ、考えあぐねてきたので、少しブログにでも書いてみようかな。モラルの低い人を傍観する時のことだ。
 話は私事からが切り出しやすい。私は沖縄で八年暮らしそれから東京に戻って四年になる。東京に戻ったころ、とにかくいやだったのは自転車だった。私は高校を自転車通学したくらいだから、自転車自体がいやということはない。が、その頃思ったのは、自転車に乗っている人のモラルがこんなにも低下していたのかという驚きだった。八年のうちに東京が変わったのか、それとも沖縄には自転車が少ないせいもあって感覚が変わったのか。個人的には前者のようにも思えた。私は、歩道を突っ走る自転車や二人乗り、無灯火、そういうやつらに誰彼かまわずどやしつけた。無法な警官もどやしつけた。ブログにも書いた。どうなったか。罵倒コメントをたくさんいただいた。そりゃそうだろ、世の中にあれだけ自転車運転のモラルの低い人がいるのに、ブログの世界がその分布に合わないわけがない。罵倒も食らわないことには世界の現状のバランスが取れないのだろうと思った。
 だがそのうち、何も言わなくなった。言っても無駄だと思うようになったし、率直に言って自分が安全ならいいやと思うようになった。モラルの低い人を傍観するようになった。それでも、小さな子どもや老人や身体障害者が自転車の危険にさらされそうなときは、私はダッシュして彼らを守るべく行動する。これだけは変わらない。そこだけは譲れない気がする。
 同じように、電車のなかで携帯やっている人に注意しなくなった。だらしなく電車のなかで場所を占有している人にも黙っているようになった。外人がタバコのポイ捨てをするときもまず日本語でそして日本語がわからないなら英語でどやしつける、というのを止めた。その他、社会で見かけるモラルの低い人を、なんというか、許すようになった。というか、傍観するようになった。それでも雨の日、傘をぶんまわす人は危険性ということで許せない。同じように社会的弱者に危害を与えそうなシーンでは私はダッシュして云々。それほど正義とは思わない。正義でもないかなと思えるあたりが心理的に楽だ。無意味な社会的危険性を最小限にする最小限の行動は大人の義務だろう。
 それが私の最後のモラルだ。でも、その最後がやぶれても別の最後のモラルがあるのだろう。人間とは自堕落なものだし、他人のモラルも基本的にどうでもいい。ということなのだが、ちょっと心にひっかかることがある。
 話が少しずれる。先日、列車車内で女性が暴力を受けるのを他の乗客が傍観していたという事件報道があった。私は詳細は知らないし、その個別の事件にはあまり関心がない。が、メディアなどで見かけた意見には、その傍観している人をバッシングするようなトーンがあり、奇妙な感じがした。
 私がその場にいたら、どうしただろうか。絶対にその暴力を阻止したという自信はない。過去の自分の行動パターンから想定されることはいくつかあるが、たとえそう推定されるとしても、こうした問題を倫理なりモラルを問う形で議論するのは間違っている。
 この問題についていえば、社会心理学的に有名な傍観者効果(Bystander effect)というもので、ウィキペディアにも解説があるし(参照)、先日のエントリで扱った書籍「極東ブログ: [書評]脳は意外とおバカである(コーデリア・ファイン )」(参照)でも第3章すべてを充てて「脳にモラルなし」として解説されている。ウィキペディアのほうを借りて、こうした事態についていえば。


つまり今回のような事件を防ぐには、人間の心理そのものを消したり改造することはまず無理であるから、この傍観者効果によって助けなかった人間を非難するのではなく、傍観者効果が発動してしまわないような社会システムを作ることが重要になってくる。

 ということになる。つまり、モラルを問うというのは典型的なダメな議論と言っていいだろう。
 ただ、そこでいくつか奇妙な連想も働く。そうした傍観者効果が抑制される社会システムというのはそれ自体が権力なのではないか、と。ぶっちゃけて言うと、モラルが問われるという状況に遭遇することはその人にとってまさに、その人の人生の場であり意味なのではないか。いや、その、ありえない電車男が偉いとか言いたいわけじゃないんだけどね。
 ちょっと話を戻すと、電車のなかで不埒に席を占有している人がいるというのはよくある。が、最近のJRの電車内みたいに、七人掛けの席の途中に仕切りの棒を二本つっこんで、ブロイラーよろしくここに入れ、座れ、と環境権力的に示唆されているのが、よいシステムということなんだろうか。あるいは、山手線を走る人間貨車に「これは人間の尊厳への挑戦ではなくそういう乗り物なんだよーん」と了解するのはよいことなんだろうか。難癖を付けているようだが、私は、基本的に、あの電車が不快というか不愉快。そしてその不快感は、どこかしら最低線の私のモラルとつながっているようにも感じられる。
 もうちょっと話を戻す。私は世界のアモラルな状態をけっこう傍観するようになった。内心、モラルの低い人がいるのはしかたがないことだ、私だって局面においてはそんなものかもしれない、まあ、レット・イット・ビー、ケセラセラー、ミアモーレ、と思っている。が、どこかしら、何かに耐えている感じもある。
 そのあたり、先の「脳は意外とおバカである」(参照)がうまく言い当てている箇所がある。

世界に蔓延する無数の不正を直視するのは、私たちの繊細な精神には荷が重すぎるのだ。哀れな運命の餌食になった人を見たときでも、世界が残酷で無慈悲な場所であるという事実をなんとか否定しようとする。けれど犠牲者への不当な仕打ちを正したり、苦しみの代償を求めたり、彼らの苦悩を取り除いたりするのが、あまりにも困難である場合、私たちはもっと安易な戦略に走る。彼らの不幸は自業自得の結果であると思い込もうとするのだ。

 そういうことだ。ということなのだが、どうもモラルというのはそういう自己弁護として機能しているような感じがする。あるいは、世界がもたらす不運や不幸に対して、自分がモラルを堅持することで防御や対抗できるような気がするのだ。死期が定まった者の心理過程のように内的な神との取引きのようなものだ。
 しかし、理性的に考えればそんなことができるわけもないか、できたとしてもわずかなことだろう。人生において運命や偶然の力は圧倒的だ。
 モラルとはなんだろうと再考する。モラルというのは高みにおいて存在するのではなく、低さのほうに紛れてしまうのだろうとも思う。モラルの低さも含めてだが、我々の存在とは小さく低く偶然的なものだ。他国人を嫌悪する根拠も偶然的なものだし、親がいて大人になれたというのも偶然に近い。別の偶然は人をこうのとりのゆりかごに運ぶかもしれない。そうする大人にはモラルが問われるかもしれないが、産まれてきた子供には問われるわけもない。そして我々がその子供でなかったというのは偶然でしかない。偶然のもたらす悲劇に対してできるだけ公平であること、あるいはそうした偶然の悲劇をもたらさないように僅かに試みることがモラルかもしれない、とか、ぼんやり思う。

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2007.06.18

年金騒ぎと住基ネット

 昨日iチャネルのニュースで、政府は、年金記録不備について住基ネットの強化で対応したいといった話があって、そうきたかそりゃまた騒ぎになっているかなと、他のニュースを当たってみたがさして話題になっていない。拍子抜けな感じがした。どういうことなのだろうかよくわからないなと、今日になってもう一度ニュースを見渡すとその話がないわけではない。というか正確にいうと、話題といった程度の話ですらない。なんでこんなに世間はこの問題に静かなんだろう。私の世相への感覚がボケているのかもしれないが。
 一応ホットな感じのニュースとしては17日付け毎日新聞記事”年金問題:加入記録を住基ネットと連携 政府方針”(参照)がある。


 政府は年金保険料の納付記録漏れ問題への対策として、年金の加入記録を住民基本台帳ネットワークと連携させることによって、住所を移転した人たちの年金記録を照合できるようにする方針を固めた。19日に閣議決定する予定の経済財政運営の基本方針「骨太の方針2007」に盛り込む。
 また年金、医療、介護の各制度にまたがって国民1人に一つの番号を割り振る社会保障番号を導入した上で、各制度を総合的に利用できるITカードにして国民に配布する方針。

 というわけで、この話(年金の加入記録を住民基本台帳ネットワークと連携)は明日の閣議決定の骨太とやらに含まれる。
 ぶっちゃけて言うと、年金記録不備が問題だ問題だ問題だと世間に不安を煽っておいてここで一気に国民総背番号制に持ち込んじゃえ、ということだ。
 私のこれまでの世相の観察からすると、この国民総背番号制の問題が提起されるごとに反対祭りのような状態になったものだが、今回は至って寂寥といった風情だ。どういうことなんだろうか。単純にいえば、反対者はどこに行ったのだろうか。某っ子の日記とかで話題になっているのだろうか。
 事態の背景については、今日付の読売新聞記事”社会保障番号導入 首相が意欲”(参照)が詳しい。

 柳沢厚労相は15日の閣議後の記者会見で、こう述べて、社会保障番号導入の検討を加速させる考えを強調した。柳沢氏の言う首相の答弁とは、14日の参院厚労委員会での発言を指している。
 首相は今回の年金記録漏れ問題の対応を問われ、「制度や保険をまたがる情報を統一して社会保障番号のようなものを作れば、処理も容易になり、国民にとっても自分の情報が確かめやすい。利便性があると思う。早急に検討したい」と述べた。参院選を目前に控え、年金記録漏れ問題で守勢に回っている首相としては、民主党が掲げる「保険料納付履歴を記載する『年金通帳』交付」などの公約に対抗する狙いもあったと見られる。
 ただ、首相にとって、社会保障番号は、劣勢に立たされて苦し紛れに口にした政策ではない。
 小泉政権の官房長官時代の06年5月には、私的懇談会「社会保障の在り方に関する懇談会」(宮島洋座長)で「社会保障の負担と給付の公正を実現するため、すべての納税者に番号を付けて所得を捕捉する『納税者番号制度』や、社会保障番号を導入する」などの内容の最終報告をまとめた。同年9月の自民党総裁選の公約にも掲げていた。
 一方で、首相は今年1月の通常国会での施政方針演説では社会保障番号の導入について具体的な言及を見送った。個人情報の扱いなど導入には相当な困難が伴い、政権1年目の課題として提示することは避けたためだ。逆に言えば、それだけ腰を据えて取り掛かろうとしていた政策でもある。

 うがった見方をすると柳沢厚労相バッシングが国民総背番号制反対運動と同期していたのかもしれないし、そもそも一連のとにかく安倍首相を叩いちゃえみたいのもそういうことかもしれない。お得パックというか。ただ、ちょっとそういう読みは無理に思える。
 気になるのは、安倍首相自身この問題を一月の施政方針演説でその困難さゆえに触れてないのに、ここでゴリっと押し通そうする意志のようなものも感じる。これは人気が落ちたからこそ本来の政治意志のために捨て身の動きに出たということなんだろうか。
 もっとも読売の記事としては、社会保障番号イコール住基ネットとはなっていない。

 報告書は、社会保障番号の具体的な導入方法として、〈1〉年金加入者が持つ10けたの「基礎年金番号」を活用する〈2〉住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)で使われる11けたの「住民票コード」を活用する〈3〉新しい番号を創設する――という3パターンが考えられると結論付けている。

 また住基ネットが採択されても単純に国民総背番号にはならないとの指摘もある。

一方で、社会保障番号導入には「国民総背番号制につながる」という懸念も強い。だが、実際には、住所、氏名、生年月日などを管理する住基ネットと、個人の所得と納税状況などを管理する納税者番号が結びつかない限り「総背番号」にはならないとの見方もある。

 こうした流れを見ていると、それでも近未来の問題でしょという気分にもなるのだが、どうもそうでもなさげだ。すでに昨年一一月二〇日時点で年金受給者の皆様の現況確認に住基ネットが利用されるとしている。”社会保険庁:年金を受給されている方の現況確認の方法が変わります”(参照)より。

 社会保険庁では、年金受給者の皆様の手続きの簡素化を図るため、平成18年10月から(※)住民基本台帳ネットワークシステム(以下「住基ネット」といいます。)を活用して年金受給者の皆様の現況確認を行うこととなりました。
 (※)12月生まれの方から順次実施
 これにより、毎年、誕生月に提出が必要であった「年金受給権者現況届」(以下「現況届」といいます。)の提出が、原則不要となります。

 もちろんこれは年金受給者の皆様の現況確認ということで、年金のための支払いをしている人を対象にしているわけではないが、それでも、年金については住基ネットベースのインデクシングという路線は決まっているように見える。
 これについてはちょっと気になることがあるのだが、誰も気にならないのだろうかとネットを見渡すと、たまたま一人発見。”社会保険労務士 李怜香の仕事と意見 - 年金の現況届”(参照)より。

 そう考えると、住基ネットとの連動はいいことのように思えるが、実際のところ、市町村役場に提出する「死亡届」とは別に、社会保険事務所に「年金受給権者死亡届」を出さなければならない現在の方法を改め、死亡届のデータを、市町村役場から社会保険庁に送ればいいだけの話である。データじゃなくて、もっと原始的に、用紙をカーボン複写にして、副本を市役所から社会保険庁に送付してもよい。現在の現況届自体、アナログな方式なのだから、このようにしても、とくに手間はかわらないはずだ。
 住基ネットの大きな問題点は、外国人や、ネットに参加していない自治体の住民が、排除されてしまうところである。ひとつの届出に、いくつもの方式が存在するというのは、間違いも起こりやすい。せっかく住基ネットが稼働しているのだから、あるものを使おう、ということなのかもしれないが、いくらでもそれ以外の方法はあるのに「住基ネットとの連動ありき」ではないか、というように感じてしまう。

 そのあたり専門家の意見はどうなのだろうとも思うがこのはてなダイアリーのsharouさんも専門家なのでその見解は傾聴したい。
 関連して、ライブドア鈴木修司パブリック・ジャーナリストによる”次に来る超管理社会へ国民一人ひとりの自覚を!自分自身は自分でしか守れない。”(参照)の記事に興味深い点があった。結論である「超管理社会では、一人ひとりの自覚した自立が必要である」については率直に言うと私は関心がないのだが、次の事実は知らなかった。

総務省発表の資料によると、2006年度の住基カードの交付枚数は、約50万枚で、前年比34.9%増であり、2007年3月31日現在の全国累計交付枚数は、約141万枚で、前年度比54.6%増と着実に定着しつつあるのだ。特に昨年度の伸びは、大きなものがある。

 総数でいえば大したものではないし、その伸び率からして住基ネットの未来は明るいとも言えるわけもないのだが、伸び率が大きいというのは意外だった。なぜかという話も同記事にあるが、利便性が高くなりつつあるのだろう。
 単純にいえば住基ネットって便利だなという認識が静かに普及しつつあるのだろう。
 さて、このエントリに落ちはない。だが、しいて思うのは、便利であるということは権力のようなものだなと考えつつある。便利だからということで、静かで圧倒的な権力のようながインプルメントされた社会とはなんなのだろうかと思う。私はそれに反対しているわけでも肯定しているわけでもない。ただ、便利さに流されている事実だけはある。

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2007.06.17

朝鮮総連ビル売却、緒方重威元公安調査庁長官問題メモ

 気乗りのしない話題だし私なんかに真相に迫れるはずもないが、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)中央本部のビルと敷地が、緒方重威元公安調査庁長官(七三)を代表取締役とする投資顧問会社に売却されそうになった件について、自分なりのメモを記しておこう。
 まずシンプルに何が問題なのか。一般向けに書かれた十五日付朝日新聞社説”総連本部売却―取引にも捜査にも驚いた”(参照)を借りる。


 公安調査庁といえば、暴力的な活動をする恐れのある団体の調査が主な仕事だ。朝鮮総連も対象とされる。監視する側の元トップが、監視される側と土地取引をしていたわけだ。
 さらに驚いたことに、東京地検特捜部がすかさず元長官の自宅などを捜索した。所有権移転の登記に偽装の疑いがあるというのだ。

 ここでの朝日新聞的な問題点をまとめると、(一)危険性のある団体を監視する機関の元トップがその団体と金銭取引をしていた、(二)取引に偽装の疑いがある、の二点ということになる。
 一点目の問題については朝日新聞の説明だけ聞いていると違法性があるとも言えないように思える。では二点が問題かというと常識的に考えてもそういう話でもあるまい。この先、朝日新聞社説は、朝鮮総連ビルが競売されることを避けるためだろうという話を説明している。ただ、そこが私などにはわかりづらい。
 この点は朝日新聞より一日早く論じた十四日付け読売新聞社説”元公安庁長官 朝鮮総連との取引は論外だ”(参照)がわかりやすい。

 しかし、今の時点で朝鮮総連が保有資産を売却すること自体、極めて問題のある行為と言わざるを得ない。
 在日朝鮮人系の計16の朝銀信用組合が1990年代後半以降、相次いで破綻(はたん)した。各信組が架空名義などを使って朝鮮総連に融資し、焦げ付いた額は約628億円に上り、整理回収機構が返還を求めて総連を提訴していた。
 その判決が来週18日に東京地裁で言い渡されることになっている。
 同機構は旧経営陣などに対する刑事告訴・告発や損害賠償請求の訴えを起こしてきた。そうした裁判の中で、朝鮮総連が朝銀信組を長年にわたって私物化していた実態がわかっている。朝銀信組の破綻は、朝鮮総連に対する乱脈融資が大きな要因だった。
 しかも、朝銀信組には、預金者保護などの名目で総額1兆円以上の公的資金が投入された。朝鮮総連からの債権の回収に全力を挙げるのは当然である。
 判決を前に、敗訴に備えた取引だったとすれば悪質だ。本部の明け渡しや将来の競売を逃れる意図はなかったのか。同機構の活動を妨害することにもなる。

 つまり、朝鮮総連が保有資産を売却すること自体が問題なのだ、と。
 明日十八日の東京地裁判決で、朝鮮総連から債権が回収される公算は大きい。その時、朝鮮総連ビルの競売を避けるために。話のわかるスジに売却したのではないか。
 そうなのだろう。つまり、緒方重威元公安調査庁長官は、朝鮮総連の拠点を守りたかったというのが、この事件のある意味でマクロ的な意味なのだろうし、同社説では次のように、緒方の言葉を伝えている。

元長官は、「在日朝鮮人が中央本部で活動している現実を踏まえ、在日朝鮮人の権利擁護のために行った。北朝鮮を利するつもりはない」と説明している。

 弁明は十三日付け朝日新聞記事”資金調達難航、断念の可能性も”(参照)が詳しい。

引き受けた理由については「総連は違法行為をし、日本に迷惑をかけている。だが中央本部は実質的に北朝鮮の大使館の機能を持ち、在日朝鮮人の権利保護の機能も果たしている。大使館を分解して追い出せば在日のよりどころはなくなり、棄民になってしまう」「満州(現中国東北部)から必死に引き揚げ、祖国を強く感じたことを思い出し、自分の琴線に触れた」などと語った。

 十五日付け産経新聞産経抄では次の一言を伝えている。

緒方氏は会見で、「いずれ歴史が私のしたことを分かってくれる」と言うばかり。小欄が歴史からくみ取るのは、北朝鮮が繰り出す謀略に、日本の対応が甘すぎたという反省ばかりなのだが。

 緒方重威元公安調査庁長官は今回の行動になぜだか信念をもっていたと見ていいだろうし、率直に言って、私の印象だが老人惚けの一種なのではないか。
 だが、巨額なカネのからむ件でもあり、緒方の信条とか惚けとかで済む話ではない。この点は先の朝日新聞社説の(二)の問題点の補足が詳しい。

 元長官に売ったのは、競売されることを避けようとしたからだ。それ自体に違法性はないが、問題は本当に売買が成立していたか疑わしいことだ。移転登記がされたのに、実際の支払いは済んでいなかった。外から見れば、売買を装ったと言われても仕方があるまい。
 こんな方法を取ったのは、実際に資金を出す人の強い意向だった。判決前に受け取るめどが立っていた。判決前に調達できなければ登記は元に戻す。これが、元長官に取得を頼んだ総連側代理人の土屋公献・元日弁連会長の説明だ。
 しかし、土屋氏も認めるように、金を受け取る前に移転登記をするのは異例のことだ。
 土屋氏は出資者とは面識もないという。出資者とどこまで具体的な合意ができていたのかもはっきりしない。

 ポイントは二つある。(一)緒方重威元公安調査庁長官を表向きたてて実際のカネを出す人が誰なのか現時点で不明。(二)このスキームを実際上実行したのは土屋公献・元日弁連会長(八四)であること。
 言い方が卑近すぎるが、黒幕は誰なのか? 候補は三人。
 一人目。緒方重威元公安調査庁長官か。信条的には関わっているが黒幕ではなさそうだ。というか惚け臭い。なお、このご老体の親族にその後問題が出てはいるが。
 一人目。土屋公献・元日弁連会長か、黒幕の可能性は高いが、オモテに出てくるだけ強い関係者の一人という書き割りかもしれない。というかさらに惚け臭い。
 三人目は謎の出資者だ。単純に考えてこれが黒幕なのだろうし、当然朝鮮総連の関係者であろう。しかし、先の朝日新聞記事にもあったように、資金調達は転けている。大惚けなのか、この黒幕。
 私の印象では、日本国家の中枢が北朝鮮やその日本国内組織的な朝鮮総連に籠絡されているというより、偉すぎるけど惚け老人たちのスラップスティックのように見える。というか、元からそんなカネ出せるはずだったのか? 
 いや、出せると目論んだスキーマだったら、そのカネはどういう絵のなかにあったのだろうか。
 ところで、今回のこの件、どういう経緯で浮上したのだろうか。そのあたりがよくわからない。政権側だろうか。あるいは、北朝鮮やその日本国内組織的な朝鮮総連側の内紛だろうか。一三日付け統一日報”朝鮮総連 中央本部を売却  揺れる在日朝鮮人社会”(参照)を見る限り、「朝鮮総連の内部関係者もほとんど事実を知らされてはいない」ようだ。そうなんじゃないだろうか。すごい組織だなというかすごいリーダーシップ。これが絵の通りだったらもっとすごかったのだけど。
 余談だけど、公安調査庁は、略すと、「公安庁」「公調」「PSIA」。法務省の外局(参照)。調査活動をする組織であって逮捕権はない。これに対して、いわゆる「公安」は公安警察を指すことが多い。こちらはウィキペディアによると。

公安警察(こうあんけいさつ、英:security police)とは、公共の安全と秩序、すなわち「公安」を維持することを目的とする警察の捜査部門の総称。

 両者の違いの詳しい説明もある。

 法務省外局である公安調査庁(公安庁、公調)とは、捜査対象が重複するためにライバル関係にあると言われる。その一方、内閣情報調査室や防衛省情報本部(特に電波部)などの幹部の多くは、警察(キャリア職員)からの出向者である。
 公安警察は、事件解決や対象の継続的な監視を目的としており、収集した情報を首相官邸や関係省庁等に提供することはほとんどない。一方公安調査庁は、政策の判断材料となるように情報を分析・評価し、首相官邸や関係省庁等に提供する点で違いがある。例えば、同じ北朝鮮情報を扱うにしても、公安警察が日本国内の工作員の存在という違法行為の把握を第一目標とするのに対し、公安調査庁は北朝鮮本国の政治・経済情勢の把握を優先する。公安警察には逮捕権等が付与され、公安調査庁に与えられていないのはこのためである。
 一見、同様の活動をしているかに見える両機関であるが、収集した後の情報の扱い方によって、公安警察は捜査機関、公安調査庁は情報機関に分類される。

 今回の件の浮上についてはよくわかんないが、安倍政権側からの公安調査庁へのお灸だったのではないか。お灸とか言っても、現代語じゃないけど。

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2007.06.16

バタフライが自然にできた

 最近個人的に凝っている水泳の話。エントリとしてはなんとなく三回目になるかな。一回目は「極東ブログ: [書評]水泳初心者本三冊」(参照)、二回目は「極東ブログ: ゆっくり長く泳ぎたい、でも、それってクロールなのか?」(参照)。
 五月くらいまではクロールのフォームの改良などをしていた。前回のエントリを書いたころは、土左衛門ストリームラインからどうやってひねり(ローリング)を最小限にして息継ぎができるのだろうかと訝しく思っていた。参考にしていた解説書「ゼロからの快適スイミング ゆっくり長く泳ぎたい! もっと基本編(趙靖芳)」(参照)ではクロールにローリングを加えない。それでいいのかあのころは悩んでいた部分もあったのだが、いつのまにかできた。
 これはいわゆる車輪掻きというらしく、プロなんかも基本的にはこちらの泳法のようだ。慣れてくると息継ぎに慌てなくなる。けっこうゆったり呼吸ができる。その間、土左衛門ストリームラインをできるだけ崩さないようにむしろ身体をフラットにして、息継ぎの必然的なロールから戻す工夫をすればいいようだ。
 慣れてくると、楽に、びゅんびゅんとまでは言えないにしても、これだけ体力をセーブしてもこの速度がでるのか、というくらい水中の移動が心地よく進むようになった。そして、そこでちょっと飽きちゃった。
 車輪掻きクロールが完成というわけではないが、最近ではローリングしてもいいんじゃないか。つまり、呼吸をもっと楽にするためにひねりの部分を胴体側のロールから巻き起こしたほうが楽そうだなとも思っている。が、そのあたりの泳法の改善というか変更というか別泳法は適当に考えよう。
 この間、並行して蹴伸びの練習をよくやった。現状ではまだ思ったほどいい蹴伸びができない。最初のキック力と水の抵抗のバランス地点がよくわからない点がある。むしろ、水面近くでかなり弱いキックでなよっとしかしすいっと進めたほうがいいかなと。そして蹴伸びが止まると今度はドルフィンジャンプというのか、立った地点で飛び込みのように前方に伸び出してあとは蹴伸びのように進めるのだが、これが意外と進む。五メートルくらいはすいーんと進む。これに水中でドルフィン・キックを一発加えるともうちょっと進む。練習しだいでもっとうまくいくのではないかと思うのだが、それでも水中にいて五メートル四方くらいはなんというかテレポーテーションのようにすいっと移動できるようになってこれが気持ちよい。

cover
ゆっくり長く泳ぎたい!
背泳ぎ&バタフライ編
 このドルフィン・ジャンプなのだが、手を加えたらそのままバタフライになるのではないかと無手勝流でやったらバタフライになった。自分であれ?と思った。ちょっと無理してみたら二十五メートルできた。ただ、ちょっと無理があって息が上がったが、私、バタフライ泳げるんじゃないか?と思いこんで、ゆっくり長く泳ぎたい!シリーズの「ゆっくり長く泳ぎたい! 背泳ぎ&バタフライ編 ゼロからの快適スイミング」(参照)を購入して検討にかかった。
 この本だと平泳ぎのようなバタフライがよいとしている。つまり、普通の人がバタフライにもっているイメージを変えて、水しぶきがあまり立たず静かに、しかも、ゼロからの快適スイミング的クロールのようにストリームラインを強調するという手法だ。
 やってみた。うまく行かない。ドルフィン・ジャンプ的に無茶したほうができたのになとか思いつつ、まああれは無茶だったしなといろいろ試してみた。いくつかやってみて、はっとわかったことがあって、バタフライは平泳ぎから進化したという話をヒントに、足は平泳ぎ、手掻きをバタフライにしてみると、なるほど、フラットでストリームラインに近いバタフライができないわけでもない。なので、今度は脚のほうの動きをドルフィンに戻すと、それなりにフラットに近いバタフライになる。ただ、いま一つ推進力が得られない。それと息継ぎのために首を持ち上げるとき、手掻きと脚のドルフィンの力に多少無理がかかる。と書きながら、いやそうでもないかと思うが、よくわからない。
 ところで普通のバタフライというのはどうやって教えているのだろうかと、今度は別の水泳解説書をかたっぱしから読んでみたのだが、率直に言って要領を得ない。また、どうも理想とするゆったりバタフライというもののイメージもよくわかない。
 としているうちに、「ゆっくり長く泳ぎたい! 背泳ぎ&バタフライ編」的なフラットなバタフライでなくてもいいんじゃないか。元のドルフィン・ジャンプのようなウェーブでいいんじゃないかと、自己流に戻ると、あれ?と思ったのだが、息継ぎのための力は不要で自然にウェーブのタイミングで首が水上に出る。そこで息をついで手掻きをすれば楽だ。なんかありそうだと、探していたら「ランナーズ ブックス&DVD -超速でマスターするバタフライ-(RUNNERS BOOKS&DVD)」(参照)というのを見かけた。

バタフライってカンタンなの?
4泳法の中で腕力やテクニックが必要に見えるのがバタフライ。
あなたはバタフライをあきらめていませんか?
実はコア(体幹)の使い方の覚えれば一番カンタンに習得できるのがバタフライなのです。コアスイムを提唱する内村亮が、あなたを最短でバタフライをマスターさせるために丁寧に解説します。

 DVDを見ると、なんとなく自分が思っていたことに近い。というか、ウェーブありでいいんじゃないかと開き直った。ら、とたんにバタフライが楽になってしまった。ようは身体が水との間で作り出すウェーブの流れに逆らわないようにそれに手掻きとドルフィンを最小限に加えていけば、けっこう楽にバタフライができる。ゆっくりやるならウェーブのタイミングをどう身体で感じて身体をウェーブさせるかだけみたいだ。
 これで毎回息継ぎではなく、二回掻くうち一回息継ぎだと、げっというくらい進み出した。まだ完成にはほど遠いけど、クロールに近い速度も出そうな感じだ。なにより、ぐわんぐわんと水のなかを揺れて進むのが快感。イルカとかマンタとかクジラとかペンギンとかああいうやつらは日々、この感覚で生きているのか、それもちょっとよさげといった感じ。
 クロールだと手掻きやキックが推進力と抵抗をどうバランスさせるかなんだけど、バタフライはもちろんそれもあるのだろうけど、むしろ身体のウェーブというか身体をそういう水生生物的な感覚にもっていくのがよさそうだなと。泳ぎ終わるとまだ背中に翼みたいのが生えているような奇妙な感覚があってオイリュトミー的な感じにも似ている。
 とはいえ、まだまだ改良余地ありか。あるいはフラット方式でもいいのかちょっと悩む。
 ついでにさっきの本で背泳の話もあり、背泳には関心なかったのだけど、読むとへぇと思うことがいろいろあり、背泳もめちゃくちゃ楽になった。そういえば、平泳ぎも速度を問わないならストリームラインを改善したので、よく進む。ちょっとそれだけ強調したら二十五メートルを八ストロークで進んだ。へぇとか自分でも思ってしまった。

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2007.06.15

NOVA一部業務停止処分とISDN遺跡

 外国語会話を学ぶということにあまり関心がないせいか、語学学校NOVA一部業務停止処分問題にも関心を持てないでいた。しかし、なんかこれって心にひっかかるものがあるなと報道を追っていくうちに、ISDN遺跡を発見した。いやそれは冗談。でも、へぇと思うことがあったので少し感想を書いておこう。
 NOVA一部業務停止処分自体について感想や、そこに至る直接的なプロセスについての感想は、まあそんなのものかな、というくらいしかない。四月に出た中途解約時の清算規定についての最高裁判決で、さすがにもう処分せざるを得なかったのだろう。むしろ、ここまで処分を伸ばしてきたかのようにも見えるのは、多少なりとも裏でもあるのかなとも疑った。結論から言うと大した裏があるようにも思えない。が、まるでないわけでもなさそうだ。そのあたりは以下の話にそれとなく、さしさわりなく、ほのめかして書くかもしれないし書かないかもしれない。うやむや。
 報道を見ていて、NOVAグループの猿橋望代表という人に関心をもった。さすが地車祭りの岸和田の出身者という気質が感じられる。どういう気質なんだとつっこまれると言葉に詰まるが。1951年生まれ。読売新聞”NOVAグループ・猿橋望代表 拡大戦略、見直しの時”(2006.3.13)によると、「日本をとにかく出たい」との一心で、「現地に行けば、何とか話せるようになるだろう」という前向きな姿勢で、高校卒業後フランスに向かった。
 1970年だろうか、やはり大阪国際万国博覧会の影響もあったのんじゃないかな。ところが、「極東ブログ: おフランスのパリ症候群ですか」(参照)ではないがそううまくはいかない。猿橋は率直にこう語っている。


それまでフランス語を多少は勉強していましたが、と思ったのが大間違いでした。たどたどしいフランス語しか話せないので、なかなか相手にしてくれる人はいませんでした。結局、数年間を無駄にし、「もっと前からフランス人と接する機会があれば……」と思ったのが語学教室を始める原体験となりました。

 5年半の滞在は学業という点では空しく終わったと言えるかもしれない。しかしそお青春の失敗から現在のNOVAの成功……でいいのかな……があるのだ。いや、そこまで話を進めるものでもないか。
 帰国後、猿橋の元にイギリス人とカナダ人が転がってきて居候。彼らが子ども相手に英語を教えているのを見て、それを仕事にしようと思い立ったらしい。猿橋望、三十にして立つ。受講料は映画料金を目安に一回1500円程度。会社としては赤字だったらしいが、86年に東京三店舗目を出してからようやく猿橋自身の給料分も出るようになったとのこと。拡大路線の始まりは成功だった。
 バブル崩壊につれ経営は苦しくなり、1993年、このままではじり貧というところで猿橋は大きな賭に出る。多店舗展開と合わせてテレビCMを打つことだ。このときの「駅前留学」のキャッチは猿橋自身の発想らしい。これが当たって現在のNOVAがあるとも言える。
 とか、資料をざらっと見ていて、ちょっと意外に思ったのだが、この「駅前留学」と同時期に猿橋は後の「お茶の間留学」のコンセプトも持っていたらしい。随分と先見の明があるものだと思ったが、ふと私自身の過去の仕事を振り返ると、その年代私もISDN技術の極末端に関わっていた。あの頃、私もAT&Tから取り寄せたNo.7共通線信号方式の文書なども読んでいた。思い出すとあの時代、これからのデジタル通信について薔薇色の未来を思い描いたものだった。いろいろあの頃を思い出す。昼食時先輩筋から「実はね世田谷にはまだ法的に交換することのできないクロスバーがあるんだよ」と聞きてぶっと味噌汁を吹いたことがあった。そういえば、もっと以前だが電電マンだった父から「クロスバーにはな、欠陥があって……」とか奇妙な話を聞いたことがあったな。
 日本版ISDNであるINSの実際的な基礎ができたのは1995年だったかと思う。私はだいたいのNTT技術の進捗を知っていたので沖縄移住後早々にNTTと交渉して僻地にISDN回線を引いた。NTT側の人も面白がって協力してくれたのが懐かしい。と、話が私事に逸れてきたが、猿橋もそうした技術屋さんたちの夢をたくさん聞かされていたに違いない。
 「お茶の間留学」つまりテレビ電話による英会話レッスンという技術は、ISDNの128kbps回線上に夢想されたものだった。それはインターネットですらなかった。128kbpsと言っても現代じゃなんだか笑っていいのか泣いていいのかわらない時代になったが、あの時代ISDN技術側にいた私などはすでに情報として入ってくるADSLによるインターネットについては、まったく実用に耐えないと信じ込んでいた。技術進歩というのものは恐いものだなとしみじみ思う。
 「お茶の間留学」が実現したのは2000年だった。もはやISDNに閉じる時代ではない。インターネットの時代なのだ。ADSLや光回線もISDNを過去のものにしようとしていた。
 話を端折ろう。私は、NOVAの失敗は、ISDNに「お茶の間留学」を賭けたことにあるのではないかとなんとなく思う。読売新聞”NOVA業務停止 予約対応困難、見学日が契約日… 偽りの「駅前」”(2007.6.14)を読むと、NOVAが「お茶の間留学」をビジネスの根幹近くに置いていたようすも伺われる。

 昨年12月まで統括本部の社員として、関西エリアを担当していた和歌山市の無職女性(24)は「『予約すれば、いつでもレッスンを受けられる』といううたい文句は、自宅でのテレビ電話のレッスンも含めればという意味だった」と証言。契約時に用いる営業マニュアルには「テレビ電話のことは、相手から尋ねられるまで一切触れてはいけない。聞かれないことには答えないという決まりがあった」と打ち明ける。

 「お茶の間留学」がISDN仕様だったことは、現時点では決定的な間違いとはでは言えないかもしれない。すでにNOVA自身ISDN以外の通信も利用できるような対応を取っていることも知っている。それでもスカイプ(Skype)時代には、機材と通信費というインフラ的な経費部分ですら対抗するには無理があるように思える。
 NOVAの「お茶の間留学」は、中国で高まる語学熱に合わせ、この8月には上海でも開始される方針がある。実現されるのだろうか。今回の処罰はその中止を結果的に導くだろうか。
 NOVAはどうなるのだろうか。厚労省は、教育訓練給付金制度による経費補助の対象からNOVAを6月20日以降打ち切ることにした。NOVAはこれまで7万1000人対象に161億円の給付金を受けていたとのことだが、その分の減収は大きいだろう。
 私はNOVAは生き残るのではないかと思う。これまでも語学学校が潰れて社会問題となったことを国が知らないわけはない。被害は大きいのだ。というか、NOVAが潰れたら、私はこの国の方針が本当に変わったんだと実感するだろう。

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2007.06.13

[書評]セブン-イレブンおでん部会(吉岡秀子)

 私はセブン・イレブンのヘビーユーザーということもあってか、「セブン-イレブンおでん部会 ヒット商品開発の裏側(吉岡秀子)」(参照)はとても楽しく読めた。
 私がセブン・イレブンを好きなのは近所にあるということもだけど、食べ物が美味しいと思えることが一番の理由だ。もちろん全部美味しいわけではないが、お弁当は美味しいなと思うし、私はセブン・ミールも使っているのだが、いままでこれは味を外していると思ったことはほんの数例しかない。ただ、最近は少し味が画一的な感じがしてつまらないなと思うようにもなった。

cover
セブン-イレブン
おでん部会
ヒット商品開発
の裏側
吉岡秀子
 一日最低でも二回は巡回するセブン・イレブンだが、そうなんじゃないかなと推測していたことが本書に解説があって、やはりそうだったのかと頷いたりもした。まったく知らなくて感心したエピソードなどもあった。ところどころに、例えば、セブン・イレブンのメロンパンの変遷史のように歴史年表もあり、これも面白かった。歴史とも呼べないような些細な歴史だが、こういうものの累積が大きな民衆史になっていくのだろう。
 読んでいて思わず笑ってしまったのが二〇〇五年に実施された「どんなパンが好きですか」一万人調査だ。総合の結果は、一位メロンパン、二位クリームパン、三位デニッシュと、うーん、私は食べないなというリストだったのだが、これが年代別になると興味深い。

10代男性 1位メロンパン、2位あんぱん、3位チョコパン
10代女性 1位メロンパン、2位チョコパン、3位菓子パン
20代男性 1位カレーパン、2位メロンパン、3位クリームパン
20代女性 1位メロンパン、2位クリームパン、3位チーズパン
30代男性 1位カレーパン、2位メロンパン、3位クリームパン
30代女性 1位デニッシュ、2位クリームパン、3位メロンパン
40代男性 1位カレーパン、2位あんぱん、3位メロンパン
40代女性 1位クリームパン、2位デニッシュ、3位メロンパン
50代男性 1位カレーパン、2位あんぱん、3位メロンパン
50代女性 1位メロンパン、2位あんぱん、3位フランスパン
60代以上男性 1位あんぱん、2位メロンパン、3位クリームパン
60代以上女性 1位あんぱん、2位クリームパン、3位サンドイッチ

 このリストを見ているだけで現代日本人というものが彷彿としてくる。ちなみに私は今年五〇歳になるのだが、ワタクシ的ランクだと、1位カレーパン、2位あんぱん、3位クリームパン、かな、だいたいこの統計の範囲に入っているといってもいいし、実はカレーパンが好きなことは身近な人にしか知られていない内緒だったりしたのだけど、それがずばっと暴露されているようで笑い出してしまったのだった。
 私自身はメロンパンが好きではないので関心を持ってなかったのだが、セブン・イレブンのメロンパンはオリジナルらしい。

 あたりまえのことだが、セブンのメロンパンはセブンでしか買えない。いまさらのことようだが、コンビニにはどこも同じと思っている消費者も多く、実はなかなか気づかない点である。
 ローソンのオリジナル菓子パンシリーズ「とっておき宣言」は大手製パンメーカーが作っていることが多いが、そのメーカーは、ファミリーマートやサークルKサンスクなど、複数チェーンのパンも作っていることがある。原材料や製法は各社オリジナルだから間違いないし、だからどうだと言及するつもりもない。が、セブンのように全国24ヵ所の焼成工場が、年がら年中「セブンのパンしか焼かない」システムは、ちょっと特異なのである。

 それは知らなかった。そしてそうなった経緯も面白かった。

 当時、菓子パン担当だった商品本部のMD・小池邦彦は、1991年に山崎製パンと組み、4ヵ月をかけて消費者アンケートを神奈川県内の店舗でおこなったという。結果、客がパンに望んでいるものは「味」や「鮮度」と判明。製パンメーカーが長年、商品の安全面から最重視してきた「日もち」は、二の次だったのだ。

 なるほどねと私は思った。私の世代が子どもの頃パンを食っていたのは、それが日持ちがして空腹を満たすことができたからでもあるだろう。もちろんメリケン粉が安かったせいもあるのだが。
cover
「買ってはいけない」は
嘘である
日垣隆
 そして、以前読んだ日垣隆の「「買ってはいけない」は嘘である」(参照)を思い出した。なお、この記述は一九九九年のものであって現在がそうであるという意味ではない。

 なお、私は個人的にヤマザキ製パンをできるだけ避けようと思ってはいる。なぜなら、他社にくらべて合成添加物が多く入っているからだ。が、そのような保存料が入っているおかげで、田舎の小さな雑貨屋さんがヤマザキ製パンを長く在庫しておける。「週刊金曜日」は、都会より田舎、大企業より小さなお店の味方ではなかったのかな。
 たまたま私が『買ってはいけない』を読んだのが、アフリカから帰った直後だったせいもあるかもしれない。食中毒や感染症や飢餓が日常であるアフリカ各地で、防腐や保存にすぐれた日本製のパンや菓子が、いかに多くの命を救っていること。防腐剤や保存料に対する『買ってはいけない』の過剰な憎悪は、実に日本的な現象だと私は感じた。

 私はうまく表現できないのだが、菓子パンの歴史のなかに、日本の現代かと地方の暗喩もあるように思える。私もまたかつてはアフリカの状況とまではいえないせよ、食中毒が日常的だった時代、また田舎とも言えるような空間のなかで保存性のよい菓子パンを食ってきた。しかし、今ではセブン・イレブンのヘビーユーザーになっているし、およそ都市民の嗜好はそのようになっている。セブン・イレブンはコンビニだから、コンビニ=便利の視点からそれを極めていけばいいのだが、実は同じような変化は行政サービスなどにもあるべきなのだろう。
 少し違ったエピソードだがへぇと私が驚いた話をもう一つ紹介しよう。セブン・イレブンのメロンパンはこっそり脱トランス脂肪酸になっていたのだ。トランス脂肪酸については二〇〇四年時点で「極東ブログ:パニックを避けつつマーガリンとショートニングを日本社会から減らそう」(参照)で小さな警鐘を書いた。ポイントはそれの健康被害より社会パニックを避けて移行してほしいということだった。それをセブン・イレブンは静かに実行していたのだ。

 「メロンパンの油脂をガラっと変えたんだけど、まだ大々的に発表できない」
 取材中、そんな声が商品本部から聞こえてきたので口外しなかったが、いまはHP上でも公表しているので、どうやら解禁になったようだ。
 セブンはメロンパンをはじめ「焼きたて直送便」ブランドのパンに使う油脂を”低トランス油脂”に変更した。


「確定でなくても、少しでも不安材料があったら使わない」(品質管理部)ことから、セブンはひそかに油脂を変えていた。
「なぜって? おおぴらにいうと、相場があがっちゃうんです」

 私は健全な市場というものが機能するならこういう現象は各所で起きるのではないかと期待したい。だが、現実はそういう問題でもないのかもしれない。
 いろいろ楽しく読めて、示唆深い本だった。さて、昼飯セブン・イレブンに買いに行くかな(それともバーミヤンに行くかな)。

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2007.06.12

年金記録不備問題メモ

 年金記録不備問題が皆目わからん。なにが問題なのか。そりゃ、年金記録不備が問題だ、ということなのだろうが、であれば、それは年金貰うときに整理したらええんでないの、というだけの話ではないのか。
 それとネットの世界を見ていると年金が貰えるの貰えないのという話題があるけど、なんだかなという印象が私にはある。年金制度の条件を満たしていたら貰えないわけないんじゃないの、それが国家の制度なんだし、と思う。ただ実質的にはそんな議論は無意味でしょとも思う。たとえば、私は今年五十歳になってしまうのだが、私が年金を貰えるのはたぶん七十歳でしょう。そこまで私は生きている自信はないし、生きていても年金で生きるというよりも病院とかに送り込まれて半分植物人間になっているんじゃないか。そうなりたいわけでもないけど、生きていたらそれでいいだけの存在じゃないだろうか。イエス様は明日のことを思い煩うなと言ったけど、二十年先のことは年金よりイエス様とかにお任せするような領域にも思う。いやマホメット様でもブッダ様でもいいけど。
 年金はどうあるべきかはこのブログでも過去に扱った。特に参照はしないけど、結論としては、スウェーデン方式というか一律の制度にすればいいんじゃないのというくらいだ。この改革案はけっこう民主党で検討されているように思えた。ただその後の動向を見ていると、民主党が政権をとったとしてもどうにもならないんだろうなとも思うようにもなったが。
 短絡的な話をするけど、今回年金が貰えるのかとか騒いでいる人たちってどんな人なんだろうか。報道を見ているとまるで国民全体が騒いでいるかのような印象もあるが、まず、公務員は関係ない。大手企業の雇用者も関係ない。そして国民年金の人も事実上関係ないんじゃないか。貰える額は雀の涙なんだし、大半はおカネを収めてもいないんだから。すると、残りはというか騒げる人は、中小企業を転々とした人たちだろうか。それでも数年ごとに勤め先をころころ変える人でもなければ、それなりに受け取り時の対応も不可能ではないし、ころころ変えた人は実際には国民年金と同じようなものではないか。とか思うのだが、よくわからない。
 話を少し戻して年金制度について言えば、民主党案のように一律の年金という制度にすると確実に国民年金は上がる。自営業の人は耐えられるのだろうか。よい制度なら耐えられるとか言えるのだろうか。ダメじゃないかなと思う。それに公務員が一律の年金制度なんか支持するわけもない。結局のところ、年金制度というのはダメであるそれなりのメリットというものもあるわけで、形骸化して雲散霧消になる定めかもしれない。冗談を言っているみたいだが。
 今回のバカ騒ぎで、私が注目したのは、自民党サイトにある「あきれた社会保険庁の実態」(参照)だった。いやすごい時代になったものだと思った。


はっきり見えてきました。わたしたちの「敵」の姿が。

混み合う社会保険事務所。
その受付の向こう側で、私たちを無視して休憩しながらコーヒーを優雅に飲み続ける職員。
そんな姿に怒りを覚えたこと、ありませんか。
しかしそれは、不正と腐敗の進んだ組織の、ごく表面の部分でしかありませんでした。

大切な年金を流用して、ゴルフボールやマッサージ器などを購入。
仕事の効率を上げよ、と言われて、ウソの実績を捏造して平気な顔。
興味本位で有名人の年金状況を覗き見て、その情報を他人に漏らす。


 その「敵」というのは労組らしい。つまり、この文書は「自治労の中の国費評議会という労働組合」が国民の敵だと自民党はいう、としているのだ。

社会保険庁の不正行為を突き詰めていくと、そこに労働組合の姿が浮かんできます。

社会保険事務所の窓口で端末を操作する時、「職員は45分操作したら15分休憩をとる」という約束事がありました。社会保険庁は、自治労の中の国費評議会という労働組合とこんな約束を交わしていたのです。
大問題になった「覚書」。これはそのほんの一部です。全部で100近くある覚書の中には、この他にも、普通の神経を持っていたら「?」と思う項目がたくさん羅列されています。

もう一つ挙げると、「磁気カード」の問題がありました。これは、パソコンを操作して情報を見る時に使うカードですが、なんと、このカードはつい最近まで、職場の誰が使っても特定できないようになっていました。


 この引用部のパソコンの云々の話はちょっと尾ひれがありそうだがそれには触れないとして、このプロパガンダは本当に自民党で作ったものなのか疑問だった。私はいっぱい食わされているのか。
 どうにも腑に落ちない。いったいどういう経緯でこれが作成されたのだろうか。ただ、作成意図はすごくはっきりわかる。民主党潰しだ。

年金不正免除問題では、最初は威勢の良かった民主党ですが、最近はさっぱりです。
理由は簡単。
民主党の最大の支持母体は連合で、連合の中の最大の組織が自治労。自治労の中で一番力を持っていると言われているのが自治労・国費評議会だからです。
つまり、自治労・国費評議会を批判することは、自分たち民主党の支持母体を批判することになるから、腰が引けているのです。

 ようするに今回の年金記録不備問題というのは参院選のためのプロパガンダ合戦であってそれ以上でもそれ以下でもない。というか、年金議論とまるで関係ないんじゃないだろうか。くだらないな。
 なによりこのプロパガンダがむかつくのは、安倍総理の顔が見えないこと。もし、安倍総理が、小泉元総理のように自分の言葉でこれを国民にきちんと訴えるなら、私はちゃんと聞く用意がある(批判する用意もあるというべきか)。現状ではなんとも言えない。
 以上でこのエントリの話は終わりでもいいのだが、社会保険庁と自治労の関係はそれはそれで別の話題とされるべきなのだろう。
 このあたり、私だけが知らないことかもしれないが、今回のバカ騒ぎであまり議論されていないようでもあるので、備忘を兼ねてメモしておく。専門性が高い問題でもあるので、間違っているかもしれない。そのあたりは「ばかだろお前」みたいなコメントではなく、間違いをただす有意義なコメントがいただけらたらと思う。
 まず、社会保険庁の問題だが、根っこに地方事務官制度というものがある。地方事務官は、身分は国家公務員だが、形式上知事の監督指揮を受けることになっている。
 この制度は、戦前、国が都道府県を下部機関とみなして事務を行わせていた制度の名残で、昭和二十二年の地方自治法制定で、地方事務官は地方自治体に勤務しながら身分上は「当分の間」国家公務員となった。その「当分の間」が半世紀以上も経って、ようやく二〇〇〇年四月地方事務官制度は廃止された。結果、社会保険庁を構成する公務員は次の三つに分別された(この話は北國新聞八日社説を参考にした)。

  1. 厚労省からの出向者(キャリアの国家公務員)
  2. 社会保険庁が採用した職員(国家公務員)
  3. 以前の地方事務官(国家公務員)

 地方事務官制度は廃止され、以前の地方事務官も国家公務員なのだから、組合としては日本国家公務員労働組合連合会(国公労)になるのではないかとも思うのだが、以前の地方事務官は、地方自治体職員などによる労働組合、全日本自治団体労働組合(自治労)に所属しているらしい。そして自治労は民主党・社民党を支持している。これはウィキペディアにもある(参照)。

現在、政治的には主に民主党を支援し、組織内候補も送り込んでいる。東北地連に所属する県本部や富山県など、いわゆる「13県本部」と呼ばれるところでは社民党を支援している。自民党にとっては脅威であることも手伝い、同党はヤミ専従問題摘発などの自治労批判に力を入れている。

 ウィキペディアにはさらにこう続く。

その一方で、2004年の第20回参議院議員通常選挙では、自治労出身の民主党・高嶋良充の比例個人名得票が約17万票にとどまり、また2001年の第19回参議院議員通常選挙では社民党の又市征治が同じく約15万票にとどまるなど、その集票力は必ずしも大きくないという見方もある。

 自民党による参院選のための民主党攻撃というには過剰攻撃なのかもしれない。むしろ、別の理由があって自治労を叩いているのかもしれないがその部分にはブログだと突っ込まないほうがよさそうな空気。
 話を二〇〇〇年四月の地方事務官制度は廃止に戻すと、国交労のサイトに興味深い話があった。「地方事務官制度廃止法案の衆議院通過をめぐっての談話」(参照)にある自治労側の意見である。

2.一方、自治労(国費評議会)は、「国の直接執行事務」とすることは、①地方分権に逆行する。②行政改革に逆行する。③年金制度の崩壊、無年金者の増大につながる。とし、事務処理は都道府県への法定受託事務とし、地方事務官は地方公務員とすべきと主張してきた。その立場で国会対策を行い、公明党・民主党・社民各党はそれぞれの思惑から、社会保険制度に対する根本的問題での質疑どころか、地方事務官制度問題で自治労(国費評議会)の主張に沿った質問を繰り返し、制度運営や事務処理実態を無視した質問に終始した。
 このことは、公党が自らの政策を持たないまま、一労働組合の組織問題のために地方分権一括法の本来の問題点を置き去りにし、地方事務官制度廃止後は地方公務員とすべき、あるいは国民・住民の利便性が損なわれる、国民年金制度の崩壊をまねくと主張するなど、いたずらに職員の不安をかき立て、国民の社会保険制度への信頼を損ねるもので極めて問題であると言わざるを得ない。

 以前の地方事務官は地方公務員に成りたかったし、そうしないことで国民年金制度がゆらぐと考えていたとなる。
 そのあたりの判断は私には難しいし、その部分はブログだと突っ込まないほうがよさそうな空気。いやはや空気が重たいな。

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2007.06.10

コムスン不正問題メモ

 コムスン不正問題についてはブログで取り上げるのを控えていた。コムスンが悪いのは社会的に明白というところだろうか。水に落ちた犬はみんなで一緒になって叩かないとろくでもないことになる、ということは長いことブログを続けてきて学んだことの一つでもある。ただ、心にひっかかりはあった。世相のログを兼ねてこの問題にも少しだけメモ書きしておこう。
 まず、なにが問題でいつから問題なのかということがひっかかっていた。そんなこと当たり前だろ的な空気が漂っているが、そのあたりを大手紙社説とかの概括を使って確認しておきたい。まず何が問題かだが八日付け朝日新聞社説”コムスン 処分逃れを許すな”(参照)より。話は厚労省の処分が決まったのはこうした悪があったからだといった文脈にある。


 こんな処分を受けたのは、東京や岡山、青森などにある8事業所を開設する際、条件を満たすため、うその申請をしていたからだ。辞めたヘルパーを責任者としたり、他の事業所の職員の名義を使ったり、という具合である。
 さらに、これらの事業所が取り消し処分となる直前に、自ら事業所の廃止を届け出て、処分を逃れていた。

 つまり、(一)嘘の申請があった、(二)事業所取り消し処分前に廃止届けを出して逃げていた。
 これらの不正に対して、朝日新聞はこう断罪する。

介護保険は40歳以上の人が払う保険料と、税金で運営されている。サービスを受ければ自己負担もある。その制度を食い物にする事業者は、トップ企業でも退場してもらわなければならない。

 それはそうだろう。わかりやすい正義のようでもある。
 だが、問題はこれだけではない。コムスンは厚労省からの処分を避けるために事業を丸ごと同資本系列に譲渡しようとした。それもまた問題だというのである。

 不正がばれて処分を食らったら、事業を丸ごと身内の仲間に譲って継続を図る。こんな人を食ったようなやり方が許されるのだろうか。
 訪問介護最大手のコムスンが、厚生労働省の処分を避けるためにとった事業譲渡が批判を呼んでいる。

 これが八日の時点で、その後の流れとして、事業の譲渡先は別の会社ということになった。つまり、事実上、コムスンは完全撤退することになった。めでたしめでたし……なのか? まあ、これで清廉潔白正義の会社が譲渡を受ければ、めでたしというところなのだろう。が、疑問が沸く? 買うところあるんだろうか?
 ちょっと率直に言ってみる、ないんじゃないだろうか?
 そんなことはない、不正に手を染めずにきちんと介護ビジネスを展開しているところだってある……という話も聞く。たぶん、そうなんだろう。ただ、それが全国展開できる可能性として問われているのかと考えると、どうなんだろうか? 採算の取れる地域とそうでない地域があるのではないか。
 というあたりで、疑問がトレースバックする。そもそもコムスンっていうのは、全国展開をしていた。儲け一辺倒ならそうすべきではない。コンビニの世界でもセブンイレブンは沖縄に手を出さない(ローソンとファミマが多い)。いや他の地域にも手を出さない。全国展開なんか考えてもいない。
 逆にコムスンはなぜ全国展開を志向していたのかという疑問が沸いてくるし、ちょっと考えると、不正をすればなんとかなると思っていたということなのだろうか。そうかもしれない。そのあたりがわからない。あるいは、ある程度の不正は不利益地域展開とのバーターだったんじゃないだろうか。そして、厚労省もそのあたりは阿吽で認めていたんじゃないだろうか。
 とか、ちょっと疑問が連鎖する。ちょっと陰謀論めいているだろうか。
 もうちょっと疑問を進めたい。
 私はこの介護問題についてNHKのクローズアップ現代などでぼんやり見たことがあるのだが、その時の印象では、これはビジネスとして成立する分野だろうか、ということと裁量幅が大きいなということだった。そして、そのあたりのクラウド内部にはいろいろご事情といったものがありそうだなとも思った。
 今回のコムスン不正問題だが、どっから降って湧いたかというと、先の朝日新聞社説の「東京や岡山、青森などにある8事業所を開設する際」がそのあたりなのだが、スペシフィックにその時期をトレースすると、社会的に問題の芽が浮上したのは、昨年末、一二月二七日のコムスン株暴落(ストップ安)だった。その時のネタが「介護報酬を過大請求していた疑いがあるとの報道」だった。報道の元は東京都によるコムスン監査なのだが、この監査自体はそれ以前の一八日から実施されていた。読売新聞”コムスン、介護報酬を過大請求 都が事業所50か所を一斉監査”(2006.12.27)より。

 都福祉保健局は今月18日から、同社が都内で展開している187か所の事業所のうち約50か所について、順次立ち入り検査(監査)を実施。複数の事業所で、こうした方法による過大請求の実態を確認した。サービスの実施計画を記した「訪問介護計画書」に不備があり、内容をチェックできない事業所もあったという。
 都道府県による介護事業所への立ち入りは、通常は改善を促すための「実地指導」として行われる。都はこれまでに同社の事業所に実地指導をしたが、「問題はなかった」と回答するなどして従わなかったため、今回は行政処分も可能な「監査」に踏み切った。今後、各事業所から提出を受けた書類を分析するなどして、過大請求について本社から具体的な指示があったかどうかを調べる方針だ。

 これが今回のコムスン不正の取りあえずの原点になりそうなのだが、事実関係を読み解くのが難しい。そう無理なく読み解ける部分だけ言うなら、東京都はコムスンの不正を以前から知っており、その指導にコムスンが従わないことに業を煮やしていた。そして堪忍袋の緒が切れたということなのだろう。
 この時点で厚労省はどう動いたのか。実は動かない。その後、東京都が都下のコムスン事業所の不正を明らかにしたので、それに押された形で、花見も終わったしという時節に関わり始める。四月一〇日に全国一斉監査を通知し、翌日都道府県担当者を集めた「全国介護保険指導監督担当係長会議」で厚労省は指導をした程度。どうにも春の暢気な雰囲気だ。読売新聞”訪問介護問題 法令順守徹底、指導を要請/厚労省”(2007.4.11)より。

 同省の中井孝之・介護保険指導室長は、東京都の事例以外にも、不正や運営基準違反などの報告が相次いでいることを指摘し、「法令順守を前提に、事業者指定されるということを、きちんと事業者に伝えて欲しい」と述べた。
 また、10日に通知した全国一斉監査についても説明。今回、グッドウィル・グループの「コムスン」(東京都港区)が、指定段階から別の事業所の職員の名義を使って虚偽の申請をしていたことに触れ、「複数事務所を持っていれば、こういうことがあり得る。こういうやり方を放置することはできず、速やかな監査の実施をお願いしたい」と要請した。

 校長先生の朝礼のお話のようにほのぼのとしている。
 ジャーナリズムも厚労省と同じようにのんびりと後追いの雰囲気があった。読売新聞”介護大手3社の不正発覚 7兆円市場、甘い監視”(2007.4.11)より。

「コムスン」「ニチイ学館」「ジャパンケアサービス」の訪問介護大手3社で、介護報酬の不正請求が相次いでいたことが、東京都の調べで明るみに出た。介護保険を巡るビジネスは、いまや7兆円市場。訪問介護の分野にも企業が次々と参入し、行政側のチェックが追いつかない実態が浮き彫りになっている。

 他ジャーナリズムも似たようなものだろうと思うが、ようするに「行政側のチェックが追いつかない」のが問題で、ジャーナリズムの問題ではなさげな暢気な雰囲気が漂っている。だが、そんなことがありうるのだろうか。同記事より。

◆指定取り消しや直前廃業459か所、氷山の一角? はびこる不正・過大受給 
 厚生労働省の集計によると、不正による指定取り消し処分や、指定取り消し直前に廃止届が提出されるなどした介護事業所は、介護保険制度が始まった2000年4月から昨年末までに、全国で計459か所に達している。
 このうち、コムスンなどと同様、営利法人が運営する訪問介護事業所は139か所。サービス提供の水増しや無資格者による介護、虚偽の指定申請などが主な処分理由だ。

 私はこの分野に詳しくないのだが、どうも実態は関係者ならわかっていたはずといった類にしか見えない。しかもこれって、コムスンだけの問題ではなく、この業態のある構造的な問題だったのではないか。そして、構造的な問題だということは、つまり厚労省のデザイン・ミスだったのではないか。制度が始まった二〇〇〇年時点でそうした雰囲気が感じられる。読売新聞”[現場から 介護保険スタート半年]〈中〉誤算(連載)=福岡”(2000.10.12)より。

 制度の導入から半年がたち、コムスン、ニチイ学館といった大手各社も予想外の苦戦を強いられている。サービス利用の伸び悩みに加え、訪問介護の三類型(身体介護、家事援助、複合型)のうち、最も報酬が低い家事援助の割合が予想以上に高かったためだ。
 コムスンは全国約千二百か所に事業所を設け、新制度の導入に備えたが、九月下旬には、当初の半分以下に規模を縮小する大リストラ計画を発表。九州事業部(福岡市南区)では、突然のリストラに反発した従業員が労組を結成し、会社との対決姿勢を強めるなど混乱が続いている。
 県高齢者福祉課によると、十月一日現在の県内の在宅サービス事業所は二千三百四十三。コムスンの十事業所を含む三十二事業所が既に廃止届を提出しているが、「届け出をしないまま、休眠中の事業所もかなりの数に上る」というのが関係者の一致した見方だ。

 無理をつっぱしっていたとしか見えないし、それが地方行政や厚労省側が無知だったとはとうてい思えない。
 そしてその無理はようやく国政にまで重大な懸念となってきたのだろう。介護保険の総費用が、〇七年度予算で〇〇年度実績の二倍以上七・四兆円なった。どこかでカタストロフを起こす必要はあったのだろう。それをできるだけ厚労省が泥を被らないように犬を水に突き落とすという計もあるだろう。
 厚労省はそういう筋書きだったのだろうか? どうもそうとも思えないほのぼのとした暢気さが春の終わりには感じられた。初夏に入ってから筋書きを変えたのではないだろうか。そして、ジャーナリズムも筋書きを変えたような感じがする。
 さて、このカタストロフ、どこから崩落するか。
 全国規模で展開したコムスンのことだから、採算性の合わない地方から崩壊するのである。いずれそこに回す国家のカネもないのだという普通の予想をコムスン叩きで覆ってしまえば、みんなが正義だ。そして正義も興行となれば相応の見料も必要。前口上はもちろん、「そもそも介護領域を民間にさせたのが間違いだ」だろう。厚労省の息のかかったお国ブランドでやるべきなのだこうした領域は……とかね。

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2007.06.09

[書評]日本語の語源(田井信之)

 書籍というのはある意味で売れれば勝ちなので売らんかなのトンデモ本も出版される。トンデモ本というのはある程度常識があれば笑って読み飛ばせるエンタテインメントでもあるし、昨今では偽科学・似非科学と揶揄され、少し学問を学べば判別がつくようにも思われている。確かに、科学の世界はグローバルな学会が存在するのでその中核的な学術集団のアートに真偽の信頼をしてもいいのかもしれない。が、これが人文学になると難しい。「極東ブログ: [書評]嘘だらけのヨーロッパ製世界史(岸田秀)」(参照)あたりなどでも簡単には判断できない。
 そして一見すると主要な学術派閥からは無視され、あるいはトンデモ本扱いされているが、これは正しいのではないかと思われる変な本も存在する。昭和五十三年に角川書店から出された「日本語の語源」(田井信之)(参照)もそのような本だ。
 私はこの本をほぼ三十年読み続けた。隅から隅まで読むといった感じでもなくあるいは聖書のように折に触れて読み返したという本でもない。いわく言い難いのだが、この本に書かれていることが真実なのではないか、となんども疑念と戦いつつ三十年が経った。現在では、これが概ね正しいのではないかと思うようになった。私もこの分野についてはトンデモの仲間入りになったことになる。
 語源学についてはもともとトンデモ学説が多い。岩波書店からの書籍もあるせいか大野晋など国語学の大家のようだが、白川静のように、私から見ると、同じくトンデモ学者のように思える。ただ、それを今となっては強く主張したいわけでもない。また、そうブログなどに書く私のほうこそトンデモ扱いされても一向に苦ではない。もともとブロガーなどは無のようなものであろう。気が楽だ。というわりに、実は長いこと、この本についてエントリを書くのをためらってきた。私がブログを続けるならいつか、誰の関心を惹くこともないとしても、書かなくてはならないだろうと思っていた。
 昨日のエントリはいいきっかけだったかもしれない。「極東ブログ: [書評]語源で楽しむ英単語 その意外な関係を探る(遠藤幸子)」(参照)では、現代英語ではかなりかけ離れた語について、印欧祖語からの関連を説いたものだ。英語であればかなり語源が辿れる。英語と限らない。欧州の言葉については現時点からするとかなり変化していても、それなりに変遷の過程が辿れるものだ。
 日本語はそうはいかない。琉球国を除けば、隣接した国家の言語との類似性がほとんどいってよいほどない。いくつか朝鮮語との関連はありそうだが、その音韻体系からしてかけ離れている。中国語とは表層的には外来語の関係しかない。ごく単純に考えても日本語の祖語というものは構築できない。あるいは、琉球語との関連から祖語を想定したくなる。服部四郎などもそう想定したが、私はこの分野の彼の業績についても、やはりトンデモの部類ではないかと思う。私は、服部説とは反対に、琉球語は日本語から派生したのだろうと、沖縄で暮らしながら考えるようになった。そう思う理由は、鳥越憲三郎のおもろ研究に関連してその言葉を本土室町時代からの派生と考察したことあたりに依拠している。難しいのは、いろいろわけあって鳥越憲三郎のおもろ研究は学問的には抹殺された。
 話が蛇行するが鳥越憲三郎は学問の世界ではすでに抹殺されているのだろうか。無視はされているだろうと思う。ただ、あまりに巨大すぎてトンデモ扱いも難しいといったところか。彼は古事記を偽書とした。その論考について、彼は自身が死んだら公開すればいいかと思っていたようだ。騒ぎが面倒臭く思えたのだろう。
 古事記偽書説は私が傾倒した史学者岡田英弘も支持していた。岡田はさらに日本語は人造語だとも言ってのけた。このあたりから、岡田もトンデモ学者の部類にされているのではないか。私はといえば、日本語は、岡田の影響からだが、やはり人造語だと考えている。ベースにあったのは朝鮮語というかその時代に朝鮮語は存在しないのだから、ある種の中国語があり、その文法に日本列島の住民のオセアニア的な語彙を嵌め込んでできた言語だろう。おそらく奈良時代ですら、この人造言語をまともに使う人はなかったのではないか。
 日本語という言語が人造語だとしても、語彙についてはおそらくその音韻の形態からみてオセアニア系の言語であることは間違いないだろう(多くの民衆は今からでは再構築しづらい別の日本語のようなものを話していたのだろう)。そして、この子音と母音で一つのモーラを形成する語だが、その構造ゆえに印欧祖語とは異なった言語変化を遂げやすい。そして、その変化の過程の研究、つまり語源学は、各種の歴史的なコーパスと方言を繋ぎあわせ、印欧祖語が研究されたように一義には音変化から考察されなくてはならないはずだ。だがそういう研究はほとんどないのではないか。大野晋が編纂した古語辞典を見てもそういう視点は見られないし、そもそも古語と現代語を結ぶOEDのような辞書が日本語には存在していない(と言っていいのではないか)。
 だが、この音変化を原理とした語源学探求という難事を、田井信之という人はたったひとり、そしてその人生でクローズするように完成してした。そして、ここにその結論の本、「日本語の語源」がポンと残されている。
 この本は辞書的な完成度はそう高くはないが、それでもここに日本言語学の比較言語学部分の方法論についてはこれで過不足なく終了しているように思える。そんなことがありうるのだろうかとも思うが、文法学でいえば、三上章(参照)がそのような人だった。彼を発見したのはチャールズ・フィルモアだったし、久野暲は三上にチョムスキーを超えるインサイトを感じ取っていたようだ。米国の言語学会が見いださなければ、三上はただのトンデモな人に過ぎなかっただろう。
 田井信之という、およそ執念のような人、学者を越えるような恐るべき知性の人は、どういう人だったのだろうか。私はなんどか田井信之という人をもっと知りたいと思った。本書には昔の本のせいか、著者の住所が掲載されている。香川県だ。少年カフカのようにそのために四国を旅をしたいと思ったこともある(果たさなかった)。ネットで書くと何か、識者からの反応が得られるものだろうか。
 七面倒臭いことを書いたが、本書は愉快な本でもある。普通の辞書には書かれていない日本語の語源が明確に指摘されていることだ。なぜ「猫も杓子も」なのか、なぜ「独活の大木なのか」。そうした例をいくつか引用すれば、若い人でも本書に関心を持つかもしてない。ただ、なんとなくこのエントリでは控えておく。古書は幸いなことにプレミアムはついていない。角川書店なのでかなり刷られたのかもしれない。現状なら古書店で比較的安価に購入できる。ちょっと気になる人は騙されたと思って入手しておいてもいい価格帯だ。
 本書は語源学に関連して、日本語の古代音韻についてと日本に稲作をもたらした人々と地名についての奇妙な説が掲載されている。古代音韻については概ねそれでいいのではないかと私などは考えるが、稲作関連の地名についてはなんとも判断しようがない。だが、田井信之という人はこの分野についても精力的な研究をしていたようだ。私はそれを読んだことがない。
 田井信之の「日本語の語源」と地名学が、一万円程度の書籍で復刻されるなら私はためらうことなく購入するだろう。知りたい。ただ、知りたいという思いだけで。

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2007.06.08

[書評]「語源で楽しむ英単語 その意外な関係を探る」(遠藤幸子)

 このところ受験英語みたいな本をいくつか買って酒のつまみ代わりに読んでいる。なかなか面白いものがある。受験英語なんて進歩もないだろうと思っていたが、そうでもなく良書っぽいのがあるのだなと気がついた。ただこの本「語源で楽しむ英単語 その意外な関係を探る(遠藤幸子)」(参照)については、受験英語の本ではないし、よくある語源でヴォキャブラリーを増やしましょうという類の本ではない。むしろ、孤独な大人の酒のつまみみたいな本だ。
 ネットの広告文ではこうまとめているが、ちょっと印象は違う。


 今や世界語になっている英語。その長い歴史の中、数奇な運命をたどって生き残ってきた英単語は数多くある。このような語は、実は同じ起源を持ちながら、今では似ても似つかない姿かたちに分かれてしまったものが多い。本書では、「手」「輝く」「上に」などの根源的な意味から生まれた英単語を紹介し、その驚きの結びつきと背景を俯瞰する。

 どこが違うかというと、この本は、まあ少しこの分野を勉強した人らならその手があったかと頷かれると思うが、印欧祖語から現代英語まで、びゅんびゅんと多少短絡的にだが話を繋げている。例えば、acid(酸)、acrobat(アクロバット)、heaven(天)を同一語根として繋げている。しかし、普通の辞書というか語源がしっかり書いてある辞書でも、この関係は、わかりづらい。わからないわけでもないが、とオンライン上のTheFreeDictionary(参照)を使うと。

  • acid  [From Latin acidus, sour, from acre, to be sour; see ak- in Indo-European roots.]
  • acrobat  [French acrobate, from Greek akrobats : akros, high; see acro- + bainein, bat-, to walk; see gw- in Indo-European roots.]
  • heaven  [Middle English heven, from Old English heofon; see ak- in Indo-European roots.]

 とあり、acrobatのacro-をさらに探ると[From Greek akros, extreme; see ak- in Indo-European roots.]とあるので、すべて印欧祖語のak-でつながることはわからないではない。ただ、普通英語学習者はそこまでしないし、普通の言語学者もこういうふうに連携して考察しない。理由は、派生は時代の層や系統図で離れるからだ。当然、辞書などでもこの例と同じように基本的に歴史的な一階層を分節するあたりで留める。
cover
語源で楽しむ英単語
その意外な関係を探る
遠藤幸子
 だが、本書ではこれをak-から全部軽いコラム口調で繋げてしまう。学術書や学習書ではないので別に問題ないし、なるほどねと思わせることがいろいろある。例えば、heavenがなぜak-から出てくるかというと、このakの「鋭利」という原義からアーチ型となり、そしてアーチ形状のドーム天井となる。私などは、なるほど西洋人の天界とは Sheltering Skyなのだなとか連想して微笑む。
 こんな感じで通常の語源解説書には掲載されていないかなりディープなレベルの話がこの本にはあるのだが、包括的ではなく、酒のつまみにむくような散発的な記述になっている。
 ちなみに、ak-からは、次の例が掲載されている。

ゲルマン語系
edge, hammer, heaven

ラテン語系
acid, acird, eager

ギリシア語系
acne, acrobat, oxalis, oxygen


 そして予想がつきやすいように、基本的な印欧祖語の話やGrimm's law(参照)などの話も入門程度についている。だが、私の読み飛ばしかもしれないが、Great Vowel Shift(参照)の話はない。古英語については別の著作で書かれているのだろうかというあたりで、昔学生のころ英文テキストで読んだ、ゲド戦記のネタ元みたいなBeowulf (参照)とか思い出した。
 本の話からそれるが先日6月に入り、水泳の帰りに木陰から天を見上げて、ふと"Sumer is icumen in"(参照)という古英語の歌が口をついた。学習参考書みたいな本を読んでいたり、学生時代みたいに水泳とかしているせいか、学生時代の記憶が想起しやすいのだろうか。そういえばと思ってYouTubeを見たら、掲載されていた。英国の夏は日本の夏とは違うが、鳥をまねた声の響きは初夏っぽい。

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2007.06.07

死者を悼むということ

 私の父が死んだのは私が三十一歳の時。父は六十二歳だった。早死の部類だなとも思ったが、息子が三十歳を過ぎたのだから死だっていいだろう、自由にさせてやろう、許してやろう、と今では思う。もっと若い日に子どもを残して無情にこの世を去る父親だっているのだ。
 死なれてから二十年近く経つ。男なんてものは死んで悲しい生き物でもないと言いたいところだが、残されたものに悲しい思いはある。が、自分の番もそう遠くないなと思うと悲しみは少し薄れる。私の父の人生スパンが私のそれであるなら私は後干支を一巡して人生が終わる。そのくらいでいいかとも思ったり、ちょっと物足りないというか寂しい感じもするし、もうちょっと生きてみたい気もする。幸運にももうちょっと生きられるかもしれない。そもそも五十歳まで生きていると青年期には思ってもみなかったしな。
 そんなことを思ったのは、今週6・13ニューズウィーク日本語版の投稿コラム「遺族を傷つけるお悔やみの手紙(The Art of The Condolence)」を読んでしばし物思いにふけったからだ。筆者ヒンズという二十六歳の米人女性は昨年その父を亡くした。父親は五十八歳だったとのこと。彼女はお悔やみの言葉をいろいろ貰ったが、元気づけようとする言葉がかえってつらかったようだ。


 アメリカ社会は、家族を亡くした人への礼儀を考え直したほうがいい。最近とくに、遺族に元気を出すようせかす風潮が強い。他人が苦しむ様子を見るのは楽しくないからだろうが、どうか気がすむまで悲しませてほしい。

 日本社会とアメリカ社会は違うが、なんとなく似たようなものを感じる。元気づけさせることがよいわけはない。
 コラムでは彼女は大学で英語を教えているとある。米国人にとっての英語とはただの国語だろう。その文脈で、お悔やみの手紙の基本ルールを紹介している。ライフハックなんてことでは済まされない、とても重要なことに思えた。なんどか読み返した。次の五点だ。

  1. 書き出しは率直かつシンプルに。「謹んでお悔やみを申し上げます」など。
  2. どういう気持ちで過ごすべきだと指示せず、相手の気持ちを尋ねよう。
  3. 「どんなにおつらいか想像もできません」という表現は避けよう。「気が重いので想像したくない」と言われているようだ。
  4. 悲しみを乗り越える方法をアドバイスしない。気分転換にパーティに行く人もいれば、暗い部屋に閉じこもりたい人もいる。時間の経過によって、気分が変わることもある。
  5. どうしても明るいことを書きたいなら、遺族の顔が思わずほころぶような故人の楽しい思い出を書いてあげよう。

 書き写して、これってまさに国語の学習の基本のようにも思えた。だがそういう授業は現実の教育で、国語としては教えられていないのだろう。そういうものだろう。
 彼女は、こうも言う。ここでちょっと気になることが私にはある。

 遺族を支える方法については、私たちは象を見習うべきだと思う。象は仲間の死を集団で悼む。鼻をからませ合って、近しい者を失った象を慰めるのだ。

 本当に象がそうするのか私は知らない。気になったのはそのことではなく、私は死を悼むというとき、私が誰かの死を密かに悼むことはできても、仲間と悼むことはできそうにないということだ。だが、およそ死を悼むとは、仲間で悼むことではないのか。
 であれば、どうやって? そして仲間とは?
 おそらく日本社会も最初の戦後世代が死に始めてその問題に直面し、それゆえに「千の風になって(新井満)」(参照)なども話題になるのだろう。些細なことだが「1000の風―あとに残された人へ(南風椎)」(参照)のほうがいいかもしれない。そういえば最近死者のためのオイリュトミーの話も聞いた。
 死者をどう悼み、その悼む仲間はどのようにあるのか。その模索が日本で始まったのだろうと思う。
 追悼と言えば、ちょうど今日、元台湾総統(大統領)李登輝が靖国神社を参拝したがその思いにもいろいろ心惹かれた。が、そこも難しい問題だ。基本的には李登輝の「私」の信仰の内部の問題であって、この私の問題ではありえない。問われるとすれば、李登輝と私は死者を介してどのように仲間でありうるのだろうかということだ。
 話を少し飛躍させる。死の悲しみをそれなりに受け止めるにはたぶん長い時間がかかる。というところで私は恋愛や失恋も似たようにその受け止めに時間のかかるものではないかと思う。情報の速度は高速化するが人間が生きていく基本の感情みたいなのにはそれなりの時間とか孤独とかが依然必要なのだろう。
 いや恋愛とか失恋からの立ち直りに時間がかかるなんていう認識は私が老いたということかもしれない。このエントリのはてなブックマークにだって「本人も爺の自覚をしているようす」とか書かれるのかもしれないしな。

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2007.06.05

[書評]「ニッポン社会」入門 英国人記者の抱腹レポート(コリン・ジョイス)

 昨年末に出たNHK新書の『「ニッポン社会」入門 英国人記者の抱腹レポート(コリン・ジョイス)』(参照)をふと思い出して読み返した。面白い。なんど読んでも面白い。簡単にも読めるけど、深く読める部分も多い。ニューズウィークのコラムと重なるネタも多いけど、この本でまとめて読むとけっこうも味わいが深い。個人的にはなんとなくロバート・リンドの随想も思い出した。

cover
「ニッポン社会」入門
英国人記者の
抱腹レポート
コリン・ジョイス
 コリン・ジョイスは、略歴を見ると、1970年ロンドン東部のロムフォード生まれ。オックスフォード大学で古代史と近代史を専攻とある。若いなと思うしエリートだなと思う。来日したのは92年とのこと。この間、太ったという話も最近ニューズウィークのコラムで読んだ。なんとなく日本生活でのプライバシーのある側面が気になるが、まあ気にしない振りしておこう。
 本書はいろいろと興味深いエピソードが多い。若い英国人は現代の日本をこう見るのかという示唆は当然として、意外と彼が自身を英国人だから感じるだろう異和感が、私などべたな日本人にとっても異和感に思え、共感する面も多い。
 たとえば、日本人のブランド品好み。

 また、ぼくは日本の人たちがブランド商品を欲しがり、それを身につけることに躍起になるのが不思議だったし、丸一日、ショッピングに費やす人がいるのも理解できなかった。ぼくは知り合いの日本人に「ルイ・ヴィトンのバッグを持ったところで、人柄に深みや幅が出るわけではないでしょう。だったら、ヘルマン・ヘッセでも読んでみたらどうですか」と説得してみたのだが、無駄だった。誰もぼくの言いたいことをわかってくれなかったのである。

 ビールについてもそう。日本にはなぜビールの種類が限定されているのか。飲み屋のメニューについて。

(前略)何十種類もの日本酒が載っているのに、ビールがたった一種類しかないのはどうしてなんだろう? なかでも最大の疑問は、どうしてどれも似た味がするのかということだった。いったいどれだけの人が、ラベルを見ないでサントリーとサッポロを正しく飲み分けられるだろう? ビターやエール、スタウト、ラガーといった多様なビールの味に慣れた舌にとって、サントリーとサッポロの違いを云々するというのは、オーシャン・グレイのペンキとミリタリー・グレイのペンキを区別するようなものだ。絶対にラガー以外のビールを飲んでやると決心したぼくは、一度、三ツ矢サイダーの缶を買ったことがある。そして、日本のサイダーはリンゴを原料にしたビールではないということに気がついたとき、ぼくはもう泣きそうになってしまった。

 名調子。
 だが、ジョイスの筆はありがちな外国人が見る日本に留まらない。先のブランド品好みついていえば、いつのまにか英国人もそうなっていることを彼は知り、英国が日本化しているようすも理解している。ビールについてはその後、日本にもバラエティが出てきてかなり満足したご様子。よかったね。
 外国の人にとってエキゾチックに見えた日本文化が、現在英国と限らず世界の文化にじわじわと影響を与えている。だが、世界が日本に単純に関心を持っているわけではない。そのあたりの、英国から見る日本のイメージのギャップについても、かなり詳しく本書に描かれている。簡単に言えば、英国人は日本に関心を持っていない。
 特派員としてのジョイスはそれゆえ英国メディアが求めるタイプの記事を書くことを強いられ、そして書いていた。彼は本書で、「悪いのはぼくだ」と書いているが、そのあたりの内実はなかなか興味深い。

 一度、ぼくは自分用のメモとして、日本の記事を担当するデスクが好むトピックのリストを作ってみたことがあるが、もう捨ててしまった。何がデスクの気に入るか、もういちいち紙を見るまでもないからである。第二次世界大戦、相撲、ヤクザ、芸者、皇室、女性、若者文化、憲法第九条、奇妙な犯罪だ。このほか、面白い展開があれば記事としてふさわしいと思ってもらえるトピックもいくつかある。パチンコ、宝塚、着物、演歌あたりがそれだ。

 BBCを見ているとあと二つ、捕鯨と英国女性殺害、を加えてもよさそうだが、いずれにせよ特定の話題の記事しか特派員には求められていないし、苦労して真相を書いてもずたずたにされて掲載される。保守的なテレグラフでこれだから、リベラルなニューヨーク・タイムズになると、なるほどミツノリ・オーニシが阿呆が記事を書くわけだよな。

 また、二〇〇五年、中国から反発を買い、国内でも議論を呼んだ歴史教科書の記事を書いたときのことだ。デスクはぼくの原稿の微妙なニュアンスをすべて吹き消してしまった。あれでは記事を読んだ読者は誰ひとりとして、日本には幅広い種類の歴史教科書があること、その中で図抜けて議論を呼んだ教科書を採択した学校は、これまでのところ日本全国で一パーセントも満たないということをとても理解できないだろう。

 ジョイスはこれに怒りちょっとしたユーモアの実力行使をするのだがそれについてはここで触れない。
 こうした奇妙な日本記事しか求められないということの背景には、やはり日本が英国の関心をひかない存在になったということが大きい。だが新聞論としては、それでもテレグラフの記事の多様性を彼は評価している。

日本人の知り合いに『テレグラフ』を見せると、みんな記事のバラエティーの豊かさに目を引かれるようだ。硬い記事もあれば、軽い記事もあり、長い特集記事や別立てのスポーツ面もある。

 日本の新聞についての彼の評も興味深い。

 日本の新聞には見習うべき点が多い。広く張り巡らされた記者のネットワークに支えられて、基本的には信頼は高いし、職業倫理もしっかりしている。

 そしてジョイスは日本の新聞がなぜすばらしいかの本質をずばりと言い当てる。

さらに素晴らしいと感じるのは、その読者層だ。一億二千万人の人口の国で、毎日二千四百万部を越える一流紙が購読されているというのは、国民の教養と公的関心の高さの表れだろう。イギリスの人口は日本の約半分だが、イギリスの高級紙は四紙合わせても(『デイリー・テレグラフ』、『タイムズ』、『ガーディアン』、『インデペンデント』)、その発行部数は二百万部をかろうじて越える程度にすぎない。

 日本の新聞が二千四百万部というのはちとホントかなと普通の日本人は思う。あれが一流紙かとも疑問に思うが、ここはタブロイドではないというくらいの意味だ。高級紙ではないし。いずれによ、日本の新聞がすばらしいのは、読者層がすばらしいからだ。それで、ある一定の記事の質や記者の質を維持している。逆ではない。逆だと思い込みたい向きもあるだろうけど。
 関連して、ジョイスは触れていないが、日本の新聞は戸配だということも重要。集金・収益のシステムが完備しているのだ。いや、完備とは言い難いがそれでも、収益面はかなり紙面の質や記者の質とは切り離されているので、記者は高給取りサラリーマンになっている。それが全面的に悪いわけでもないが、そういう構造があるから、日本の聞屋はわかっていても社会の空気が醸し出されてないと書けないことがいろいろあるものだ。
 でも、ジョイスは書いていた。
 私が、コリン・ジョイスを立派なジャーナリストだと思ったのは、「極東ブログ: 女王陛下、英国大使の野上義二でございます」(参照)で触れた野上義二の記事がきっかけだ。日本の聞屋たちは叩けるときは野上義二を叩いておきながら、英国大使昇進のときは批判をネグりやがった。「やっぱ、ばっくれやがったか、日本の聞屋」と思ったので、私はジョイスの心意気に応えるべく先のエントリを書いた。もっとも聞屋から見れば日本のブログなんてクズだ。読む価値もない。でも、グーグル様はそう見てないっぽい。野上義二で検索したら現状ウィキペディアについで第二位(参照)。え?グーグルだってクズだろってか。

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2007.06.04

キンタマウイルスのお仕事はジャーナリズムじゃーない?

 星は流れて何処へ行く。ジャーナリズムは何処へ行く。QWERTYキーボードに誠を誓い、さ、今日も武田徹がネットで歌います♪ってなノリの、まあ、ネタっていうのですか、ジャーナリズムっていうのですか、オッサンですかシャーですか、”ウィニーこそ史上最強の「ジャーナリスト」? (タケダジャーナル)”(参照)を一読して、何が釣れるかなと待っていると、おやま、”高木浩光@自宅の日記 - キンタマウイルス頒布にマスコミ関係者が関与している可能性”(参照)が。というわけで、ここでしばらく考え込むこと数日。これってやっぱ最近の戯画人さんや竹熊さん釣りネタと同じでスルーでしょうかね。まあ、あまり差し障りない程度に気になるところをちょこっとメモを。
 武田徹の意見は錯綜しているが、主張の一つは表題のようにウィニーが史上最強の「ジャーナリスト」だというのがある。釣りネタでしょうが、つまり政府関係の機密を自動的に暴いてくれるから偉いのだ、と。ほいで、高木浩光は批判する。


何が本題か知らないが、このジャーナリストは、「僅かな楔を打ち込むだけで一般人の私的な内容を千金の価値にできる」という手法について、否定していない。否定する表現が一切書かれていない*3。これが倫理に反する行為であることをこのジャーナリストは素で知らないのではないか。もし、「キンタマウイルスを作成し頒布しているのはあなたでしょう?」と問いかければ、憤慨するどころか、褒められたと勘違いして「いえいえ私にそんなプログラム力はありません」とニコニコするのではないか。
 馬鹿は死ねと言いたい。

 批判点は二点ほどに分けられそうだ。
 一つはキンタマウイルスが秘密を暴くことをジャーナリズムだと強弁するとしても、それが倫理に反しているのではないか、ということ。もう一つはキンタマウイルスの活動の背景への疑念だ。なお、キンタマウイルスについては、「極東ブログ: ウイニー(Winny)事件雑感。とても散漫な雑感」(参照)でも触れたことがある。
 前者の倫理の問題だが、「極東ブログ: オウム事件のころをまた思い出す」(参照)でも触れたが、私はジャーナリズムは技芸(art)の世界であり、倫理規定が必要であるにせよどこかでジャーナリストの責任で破ってしまうこともあるだろうくらいには考えている。ただその場合でも、その無法的な行為が彼または彼女自身の公への責務として自覚されているという主体的な、罪を背負いうる人間主体として問われなくてはならないと思う。オウムを暴いたフランス人ジャーナリストにはその気概があった。
 だが、キンタマウイルスが暴いているのは、そういう公の領域だけではなく、また暴く主体が不在に見える。こうした点で、関連する高木の次の認識は重要だと私には思える。

Winnyを媒介して悲惨なプライバシー流出事故が続いているのは、言うまでもなく、自然現象なのではなく、ウイルスを作成し頒布している者が企図するところによるものである。

 ここにも論点は二つある。一つは暴かれているものが公の領域だけではなく、むしろ大衆のプライバシー領域であること。もう一つは先のキンタマウイルスの活動の背景にも関わるが、キンタマウイルスを撒いている人たちが存在するのではないかということだ。
 くどいかもしれないが私の論点をまとめると、ジャーナリズムにおいて、いわゆる倫理規定を越えても彼/彼女の公認識における主体的責務において違法行為もありうる。が、キンタマウイルスがやっていることの大半はそうではなく、大衆のプライバシー領域における主体ない暴露である。別の言い方をすると、ジャーナリズムというのはジャーナリストという人間主体が問われる人間的な行為だろう。あるいは、完全な監視社会が成立し、そこでGoogleのようなシステムが特定のフィルタで暴露映像を抜き出して整理しても、ジャーナリズムとは言い難いのではないか。
 話を高木の指摘に移すのだが、キンタマウイルスを意図的に撒いている人ないし集団があるのだろうか。高木はその可能性を指摘している。

マスコミの委託を受けてか知らないが、キンタマコレクターと呼ばれる人たちがいる。ネットエージェントの杉浦社長も言っていることだが、私も自作のNyzillaを使って何箇所ものWinnyノードを観測した際に、ウイルス入りのキンタマファイルばかりを送信可能化しているノードが存在するのを見た。

 この問題の内実についてはある水準の技術的なレビューが必要になると思うが、私の印象では、それは妄想や陰謀論ではなくありそうに思える。もっとも、ウイニーが当初からそのような企図性をもっていたとは思わないが。
 では誰がキンタマウイルスを撒いているのか。高木はそれで儲かっている人々が怪しいとしてマスコミではないだろうかと疑っている。
 そうだろうか。このあたりになると、仮定に仮定を重ねているのでおよそ議論になりづらい。私はある印象を持っているが書きづらい。
 少し話の方向を変える。
 私には関連してもう一つの疑念がある。キンタマウイルスによって暴かれ、それが他者に関心を持たせるようなそのようなプライバシー情報がなぜパソコンの内部に保持されているのだろうか。また、そもそもなぜウイニーや類似の共有ソフトを使っているのだろうか。たぶん基本的には技術的な無知によるのだろうが。
 原則的にはそんなことは個人の勝手でしょといった領域でもあるのだが、私などには、技術的な無知以前に、理解しづらい点がある。つまり、人が、いわゆるパスワードなど機密情報以外に、暴露されて困る電子情報をパソコンに抱えているということはどういうことなのだろうか。そこがどうにも腑に落ちない。単純な例でいえば、恋人との痴態をデジタル情報にしてパソコンに保持する人間関係(恋人)もあるようだ。その行為自体が私には理解しづらい。人間関係のなかにいつの時代でも秘め事は存在する。だが、秘め事とはその関係者の主体性の関わりのなかでしか暴露しえないものだった。またそれゆえに関係者の外部からは秘め事の中身は見えなかった。ジャーナリストの技芸はその関係の内部に食い入ることでもあった。そういえば、「極東ブログ: [書評]隠すマスコミ、騙されるマスコミ(小林雅一)」(参照)で触れた西岡研介「スキャンダルを追え!『噂の真相』トップ屋稼業」(参照)でも少しこの関連の話に言及した。
 小難しく考えたいわけではないが、何かしら私などを過去の人としてしまうような現代人の意識の変容のようなものが、パソコンやネットの関連で生じていて、それが人間の定義を微妙に変更しているように思える。

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2007.06.03

吉本隆明「心的現象論」、雑感

 明け方夢のなかで鶴見俊輔のような老人と長々戦後民主主義についての対話をしていた。対談者は三人いてもう一人は私より十歳くらい若い気鋭っぽい学者さんで、私の話に関心をもったり皮肉ったり、それでいて鶴見をあの時代のインフォーマントとして分析しているようなツッコミも入れていた。「結局、吉本さんってどうなんでしょうね」みたいな話に流れ込んで三人は沈黙した。私が言いたかったのは、吉本隆明の真価は、鶴見がある程度念頭においている吉本のイメージとしての戦後から六十年代、そして七十年代に至る新左翼的な言論人よりも、七十年代の大衆的な資本主義論から超資本主義論、そしてセプテンバー・イレヴンまでの時事的な考察に現代的な意味があるのではないかという点だった。若い学者さんもそのスパンでの後期の吉本思想を半分せせら笑うようでいながら、多少は考え込んでいるみたいだった。
 と以上は夢で、おそらくもうしばらくすると夢の感触も消えていくだろう。妙に生々しく疲れる夢だったが、ぼんやりを明るくなる空を見ながら、そういえば南無さんの日記のエントリ”「心的現象論」がついに世に出たか、目次を見るとワナワナと ”(参照)で、吉本隆明の畢生の大著「心的現象論」が刊行されたことを知った。南無さんは以前も吉本の思想で顧みるべきは「心的現象論」だと述べられていたのでその点についての異和感はなく、また彼はメルロ・ポンティに至るハイデガーの存在論から身体論、そしてその傍流的なサルトルの実存論への関心を学者さんのように冷静に以前説いていたことがあるので(サルトルは視線論を越えて身体論的な問題があると私も思う)、そうした関心の線上にこの大著が受け止められていたのではないだろうか。
 私はといえば「畢生の大著」とかふかしておきながら、吉本翁支持の若造さえも耄碌爺の時代となり果て、こんな血迷った粗大ゴミみたいな本出しやがってしょーもねーな、という思いがある。が、この罵倒の心の動きこそ、実に私もまた吉本隆明の駄目なエピゴーネンでしかないことを如実に示すものだ。が、こんな「畢生の大著」は世界に残るトンデモ本か夢想庵物語や出口王仁三郎の霊界物語みたいな、なんでしょこの言語的な構築物は的なジャンルに封印しておくがよいのではないか。と、どうも南無さんに喧嘩を売っているようだがまったくの逆でこの大著を読み解きうる可能性というのがどうにも信じられない。「心的現象論序説」(参照)も「言語にとって美とは何か」(参照)と同じように人文学的な基礎訓練のない知的な人が無手勝流で書いた珍本を越えないように思う。あるいは三浦つとむの「日本語はどういう言語か」(参照)のように時枝文法の鬼子のようなもののさらに鬼子か、と、私はここでぼんやりとあの時代を思い出す。デンスケのように優しげな晩年の川本茂雄が吉本の言語論をもっと素直に理解してあげていいんじゃないかと提言したのが私の、今の心を少し痛める。また吉本が三浦の追悼文のなかで実は三浦の言語論より三浦という一庶民の存在自体を愛していたことを思い出した。その追悼は、試行で読んだ。
 そう、私は「『反核』異論」から吉本隆明を遡及するように読み出した遅い読者だった。私は、というも恥ずかしいが十代から二十代にかけて心酔して読んだのは小林秀雄や山本七平、森有正といった人のもので、今の歳になってみると私は基本的に欧風な和風的思想あるいはキリスト教的な倫理性を好む青年だった。それが吉本隆明を遡及的に読むための基礎になった部分もあるし、田川建三「イエスという男」(参照)なども「マチウ書試論」(参照)を読む橋渡しのようにはなった。そういえば私は椎名麟三や赤岩栄なを読みながら日本とキリスト教は何かという問題を、山本七平とは違った側面からあのころ考えていた。二十代の前半である。吉本隆明を読み始めたのは二十代の後半からだ。
 話を戻すと、三十代前半の私はあたう限りの試行のバックナンバーを読みあさった。パソコン通信の興隆から十歳ほど年上の全共闘崩れの知己を得て六十年代からのバックナンバーもアクセスできるようになった。ただ、私はそこに連載されている心的現象論にはあまり関心を持たなかった。背景は上の悪態のようなものである。
 おそらく私は心的現象論の後部三分の一は試行の読者として読んでいる。目次を見ると(参照)、身体論からは読んだように思える。ある時期、ふと手持ちの部分だけでもと心的現象論を読み返したのは、私が別のパスから三木成夫に関心をもったことだった。このあたりの話は過去エントリ「[書評]胎児の世界(三木成夫)」(参照)や「[書評]心とは何か(吉本隆明)」(参照)でも触れたが、このパスからのアクセスで吉本隆明のこの分野の思想の自分なりの概要はつかめたように思ったし、その成果は「母型論」(参照)だと理解している。この本は復刻されたはずだとアマゾンを覗くと微笑ましい素人評がある。


究極の吉本隆明, 2004/11/6
レビュアー: お留守居役様 (東京都品川区) - レビューをすべて見る
吉本隆明、渾身の根拠論です。
三木成夫理論を吸収して、幻想論・言語論を人間存在の根底から再構築する試みです。
ヘーゲル以後、最大の思想書と言えますが、
それも私たちの読み方如何に課せられた課題でもあります。
しかし、読者の理解よりも著者の探求を優先させている著述の仕方なので、
かく言う私も3割程度しか理解できていないと告白せざるをえません。

 お留守居役様の言わんとすることろはわかるが、この本が理解しづらいのは身体論・発生論・現象論的な領域に経済問題や言語論などごった煮にしている吉本隆明の混沌とした部分にもよるので、そうしたぐちゃぐちゃした部分は切り捨ててもいいのではないか。ただ、問題は心的現象論の成果として母型論を見た場合、心的現象論の理解が必要になるかということだろう。私の印象としては宮下和夫の配慮ともいえる「心とは何か(吉本隆明)」(参照)をもって、むしろ心的現象論の序説としていいだろうと思う。そしてそれに母型論があれば十分ではないのか。率直に言って、心的現象論は過去の書籍としたい。
 冒頭の夢の名残に戻るが、吉本隆明が私にとってどこからか変わってしまった地点があるな、という思いがした。伊豆で彼が溺死しかけたころだったか、あるいは私自身が彼の著作の大半を捨てて東京を出奔したころか。思想的にたどると、「マスイメージ論」(参照)までは読めたが、当時のニューアカ的な「ハイ・イメージ論」(参照)は微妙なところだ。時事を歴史として現在読み返す部分はあるが、それ以上に現在読み解くべき著作なのかわからない。
 そしてセプテンバー・イレヴンが来る。明け方、私が吉本隆明とある意味で異和となっていったのはそのあたりかと思った。ひどい言い方だが、あのころから吉本隆明はもう惚け出していたのではないか。糸井重里などのプロデュースもあるだろうし、ばななちゃんのパパ的な像として出版界の甘えもあるのだろうが、ひどく分かり易い対談本が乱造された。あれ以降の吉本の対談本のなんとわかりやすいことか。護憲そして平和、爆笑問題の太田でも読めるレベルの駄作。その陰で、吉本はごく普通にオウム問題を介して実は市民社会に強固に否定を投げ続けていた。
 だが私はこの惚けた吉本を恐れもしたし、読み続けもした。私は自分の生涯の限界では吉本の理路とは少し違うが吉本的な平和論を支持し、そして護憲的な態度も変えないだろう。この爺さんにバカと言われるのは恐いなと思うし、その怒りが好好爺の慈しみのようにも思えるあたりで、私も惚け出した。
 だが私は今朝方思ったのは少しそれと違う。吉本隆明はセプテンバー・イレヴンを否定してはいなかったという奇妙な異和感だった。超戦争論(参照)にもあったと思うが、吉本はあの突撃と特攻隊を重ねて見ていた。彼は、しかし、特攻隊なら乗客を降ろして決行しただろうと語った。それは支持しやすい思想シュガーのようでもある。だが、ビルの人々を非難させてと吉本隆明は言わなかった。
 彼の思想のどこかにオウムの思想性の可能性を否定しないように、彼は特攻も否定していない。私はそのことを糾弾したいのではない。吉本は平和主義者ではない(あるいは平和主義者の欺瞞に耐えられない)。もっと奇っ怪な、超時代な思想家なのだというのを不思議に思う。

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2007.06.01

事実婚夫婦の戸籍裁判、雑感

 この手の問題を扱うと誤解されてろくなことがないのでスルーしようかちょっと迷ったが、まあ同じく一日本人の庶民として思うことがないわけでもないし、というかいろいろ思い巡らすことがあるので、正直にブログに記しておこう。
 話のきっかけだが、日経新聞”子の住民票作成を命令・東京地裁、世田谷区に”(参照)によるとこうだ。


 婚姻届を出していない事実婚の夫婦らが、次女(2)の出生届が受理されず戸籍がないことを理由に住民票を作成しないのは違法だとして、東京都世田谷区に住民票作成などを求めた訴訟の判決が31日、東京地裁であった。大門匡裁判長は「住民票がないことによる社会生活での不利益は看過できない」として同区に住民票作成を命じた。

 詳細について気になることがいくつかあるが、後で触れたい。
 話を進める前に、これを言うのもごたごたの元かもしれないが、とりあえず私の基本的な考えとして、私は今回の判決を支持するという点を先に述べておきたい。
 受理されなかった理由についてはこの日経のニュースの記述からはよくわからない。時事”2007/05/31-18:20 子供の住民票作成を命令=「非嫡出」拒否で出生届不受理=東京地裁が初判断”(参照)を読むと微妙に違う。

東京都世田谷区に住む事実婚の夫婦と子供が、子供の出生届に「非嫡出子」との記載を拒否し、出生届を受理されなかった結果、住民票にも記載されないのは違法として、(後略)

 として非受理の理由は、「事実婚の夫婦と子供が、子供の出生届に「非嫡出子」との記載を拒否し」たことらしい。
 この点がわかるようなわからないところだ。まず最初の印象に過ぎないが、嫡出か非嫡出は日本の婚姻制度に対応しており、婚姻してなければ非嫡出子となるのはこの現状の日本の制度の枠組みではトートロジーに近いのではないか。私の印象の背景には、歴史的には、事実婚における女性とはいわゆるお妾さんになるはずで、お妾さんの子を嫡子にせよというのは、財産制度全般について日本社会の変革を前提にしないと難しいのではないかということがある。
 これに関連して思い出すのは、児童の権利に関する条約で、ネットを引くと国連の児童の権利に関する委員会の情報があり、こう述べられている(参照)。

B.肯定的要素
3. 委員会は,締約国による法改革の分野における努力に留意する。委員会は,嫡出でない子のための児童手当の権利を全ての未婚の母が持つことを保障することを目的とした1997年採択の児童福祉法改正及び1998年5月の決定を歓迎する。

 今回の判決もこれに沿っており、国際的に見ても今回の判決は妥当だろうと思う。関連して。

14. 委員会は,法律が,条約により規定された全ての理由に基づく差別,特に出生,言語及び障害に関する差別から児童を保護していないことを懸念する。委員会は,嫡出でない子の相続権が嫡出子の相続権の半分となることを規定している民法第900条第4項のように,差別を明示的に許容している法律条項,及び,公的文書における嫡出でない出生の記載について特に懸念する。委員会は,また,男児(18歳)とは異なる女児の婚姻最低年齢(16歳)を規定している民法の条項を懸念する。

 ここでは民法第900条第4項自体が問題視されている。この「懸念」について日本国がどう答えるべきかはそれなりの民主主義的な手順で応えていかなくてはならないと私などは思うので、それをジャンプして「公的文書における嫡出でない出生の記載」を司法的に解決すべきかよくわからないし、実際に今回の裁判はそれを問題視しているわけではない。
 いずれにせよ、私の認識としては、こうした問題は地方行政に裁量権があるし、戸籍の不備と住民票は切り離して考えられるものであり、実際には多くの地方行政においてそのような裁量が行使されていると思っていた。なので、今回の事態についていえば、ごく単純に地方行政の裁量権の問題ということであり、実際裁判判決もその点に対応している。このため訴訟では四〇万円の損害賠償請求があったが、判決では「区に注意義務違反はない」と退けられている。そのあたりで、この話は終わりではないかととりあえず考えていた。
 がその後、私は事態を多少誤解していたことに気がついた。失笑を買うかもしれないが、私はこの問題をなんとなく重婚または「お妾さん」の枠組みで見ていた。どうやらそうではなく、今回の訴訟者のカップルは重婚などの問題なく結婚をするならできる状態にあるが、結婚制度を支持しないということらしい。もちろん、結婚に国家を関与させないというのは欧州など先進自由主義国などで広くみられる傾向でもあるのでその点はわからないでもないのだが、今回の訴訟の背景に別姓問題にありそうだという点を知って、私は理解できず困惑してしまった。
 ネットでもう少し詳しいニュースを見つけたので触れておきたい。毎日新聞”住民票:東京地裁が世田谷区に作成命令 出生届不受理の子”(参照)である。判決後に東京・霞が関の司法記者クラブで会見があったらしい。

 菅原さんは、女性が男性の戸籍に入り姓が変わるのは平等でないと考え事実婚を選んだ。次女を「嫡出でない子」として届け出るのを拒んだのは、「生まれて最初の公的書類で、親が子を差別することになりかねない」との思いからだった。受理を求め最高裁まで争ったが、届け出の要件を満たしていないと退けられた。
 次女は児童手当や乳幼児医療費の支給は受けているが、住民票がないため別の申請が必要で支給が遅れた。予防接種は、手続きが1年半以上かかって公費で受けられなかったものもあった。
 判決には、非嫡出子(婚外子)を差別する現行制度への判断も望んだが、言及はなかった。だが、菅原さんは「判決は大きな前進。戸籍のない子も住民サービスを受けられるよう、各自治体が判決に従ってくれれば」と語った。

 まず繰り返しておきたいが、戸籍のない子でも住民サービスが受けられる地域社会の形成という点に私は賛成であるし、地方行政の裁量で可能であり、それは司法においても明確にされたと考える。
 困惑したのは、「女性が男性の戸籍に入り姓が変わるのは平等でないと考え事実婚」という点だ。そこがよくわからない。確か評論家の宮崎哲弥は妻の姓にしたと聞いたことがあるし、私も以前仕事の関係でそういう人がいた。もし女性の姓を変えることが問題なら、女性の姓に男性が変更すればよいのではないか。
 あるいは男性女性に限らず、姓そのものを変更することが間違いということなら、これはけっこうやっかいな問題になる。たとえば中華圏においては女性が姓を変えないのは歴史的に見れば女は借腹で血統に関係がないためである。なので親族と同じ墓に入ることができない。これらは文化伝統にも関わってくる部分があり、簡単には解けない。日本の戸籍というのも近代日本が古代幻想から生み出した奇妙な制度ではあるが、それなりの国家幻想の制度としてとりあえず成立している(戸籍法は戦後に廃棄されていない)。その是非の議論については訴訟の枠組みとは違うように思える(私個人の考えでは戸籍制度は不要)。ついでに言えば、日本人は名前を変更する権利もないが、「極東ブログ: Deed Poll(ディード・ポール)」(参照)で触れたように個人の名前そのものを根底から変更することを許す国家もある。
 あと率直に言って、訴訟を起こした菅原和之さん(42)夫妻に少し関心を持った。東京新聞”本人訴訟の父安堵 婚外子に住民票 事実婚の子 差別しないで”(参照)の記事がそこに焦点を当てていた。

 二十代で市民運動を始めた菅原さん。出会った「婚外子」の人たちの声は切実だった。「会社の面接で『へえー、私生児なんだ』とさげすみの目で見られた」「結婚の直前になって、相手の実家に戸籍を調べられて破談になった」…。
 国連の児童権利委員会は二〇〇四年、公的書類の「嫡出でない子」との記載を廃止するよう日本に勧告している。それも世田谷区に訴えたが認められず、最後の手段で提訴に踏み切った。
 弁護士費用が出せないため本人訴訟で闘った。膨大な資料を取り寄せ、徹夜で準備書面を書いたこともある。妻(38)は「あなたがやりたいのなら…」と見守った。

 今回の訴訟は市民運動の一環だったのだろうか。さらにネットを見ると、”ザ・選挙 -選挙情報-”(参照)の、”2003年04月20日告示 2003年04月27日投票世田谷区議会議員選挙”で次のようにあり、社民党員のようだ。

 菅原 和之 スガワラ カズユキ 38 男 社民 新 障害者ホームヘルパー

 今回の訴訟は、市民運動の一環で、かつ社民党員としての活動だったのだろうか。誤解されると困るが私はそれが悪いとはまるで思わない。ただ、もしそうならそのように社民党の政策や活動の一環として明示されてもよかったのではないか。そのほうが国家を変革する政策として多くの人にとって理解しやすいだろう。あるいはそれらと関係ないなら、関係ないことを明示されてもよかったのではないか。そのほうが国家が関わる政治の枠組みから離れることができ、より地域の問題として地域の人にとって理解しやすいだろうから。

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