[書評]フューチャリスト宣言(梅田望夫、茂木健一郎)
読みやすかったが、キーワードにひっかかりを持ってしまったせいで私には難しい本でもあった。対談本なので、当初は、前著「ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる(梅田望夫)」(参照)の解説的な話の展開か、あるいは同じく対談本「ウェブ人間論(梅田望夫、平野啓一郎)」(参照)のように、対談者のホームグランドを生かすような展開――今回は脳科学――となるか、という二つの予断をもっていた。そのどちらとも言えないように思えた。
![]() フューチャリスト宣言 梅田望夫 茂木健一郎 |
難しかったのは、茂木が提出する「偶有性」というキーワードに私が躓いたことだった。茂木は「偶有性」というキーワードをこう定義している。当然ながらその定義に沿って対談が進められている。
茂木 脳科学、神経経済学を研究している立場からいうと、脳とインターネットの関係は大変おもしろいテーマです。インターネットの世界は、私の言葉でいう「偶有性」、つまり、ある事象が半ば偶然的に半ば必然的に起こるという不確実な性質に満ちています。
「偶有性」とは、「ある事象が半ば偶然的に半ば必然的に起こるという不確実性」であるとされる。しかしこの定義は私には納得できない。必然を偶然が阻むというのはわからないでもない。偶然を後から必然だと了解するということもあるだろう。だが、偶然と必然とを半々に混ぜ合わせたアマルガムの性質は想定できないからだ。事象は本質的に、偶然か、必然か、未知か、そのいずれかである。なにより科学における事象の探求は、偶然に紛れたなかから必然的なモデルを取り出し、軽量化・数式化することにある。未知は探求の途中であることしか意味しない。あるいは偶然性は確率の量として示すことも可能だがプランク定数のような仕組みで限定される。
「偶有性」の原語は contingency(コンティンジェンシー)である。これは茂木の「「脳」整理法」(参照)にそのままに登場する。
ここでまた私は躓く。contingency という英語の概念も理解しづらい。英語が堪能な小飼弾氏も、同書の書評エントリ「404 Blog Not Found:「偶有」整理法」(参照)で原義を元に考察している。contingencyという言葉の意味はウィキペディアの項目(参照)にもあるが、茂木の定義とは表面的に相容れない。
Contingency is opposed to necessity:
(偶有性は必然性の反対)
contingency(偶有性)は、通常、必然性(necessity)の反対の意味を持つ言葉である。様相論理学的にはcontingencyの特性を表すcontingentとは、真でも偽でもない命題を指し、possible(可能)、necessary(必然・必要)と区別される(参照)。
- possible if it is not necessarily false (regardless of whether it actually is true or false);
- necessary if it is not possibly false;
- contingent if it is not necessarily false but not necessarily true either. In formal contexts, therefore, contingency refers to a limited case of possibility.
contingentは真でも偽でもない命題であり、限定された可能性とも言い得る。いずれにしても、様相論理学的にも、「ある事象が半ば偶然的に半ば必然的に起こるという不確実性」といった意味はない。茂木定義の「偶有性」は、彼独自の定義なのか、彼の無理解なのか、あるいは別の由来があるのか。ずいぶんと考え込んだ。
梅田は茂木の「「脳」整理法」(参照)などの著作事前に読んでいただろうから、茂木独自の「偶有性」概念に一定の理解があったにせよ、それでも対談的には唐突に聞こえたのではないだろうか。梅田は熟練の手つきで、茂木の「偶有性」を含んだ発言に続けてプローブのような確認を投げ落としている。
梅田 インターネット全体を、脳に似ていると言っていいんですか?
茂木 スモールワールド・ネットワーク性(一見遠く離れているものどうしも、少数のノードを通して結ばれている性質)という観点からみると、そっくりです。ローカルにコントロールできる部分とできない部分があることもとてもよく似ている。脳の神経細胞のネットワークもローカルな回路だったらコントロールできるんだけど、少し離れたところで何をやっているかということはコントロールできない。
この文脈からは、茂木の言う「偶有性」は、コントロール可能な部分において必然性であり、コントロールできない部分において偶然性の振る舞いをする性質だ、となるかもしれない。だが対談後に加筆されただろう部分、スモールワールド・ネットワーク性についての括弧内の補足(一見遠く離れているものどうしも、少数のノードを通して結ばれている性質)を考慮すると、統制不能領域はただのカオスではなく、なんらかのシステマティックなネットワーク的になっているという示唆がありそうだ。偶然性の理由が暗黙に想定されているのだろう。
話を不要に難しくしているのかもしれないが、茂木の言う「偶有性」には、ネットワークを統制する機能とは別に恣意的ともいえる機能が隠されているという含みがあるだろう。その恣意性は、おそらく、表向きの統制と、見えない統制の二系に分かれ、その見えない部分は、見える部分からは偶然性となるのだろう。見えない統制が見える統制をどう乗り越えていくのかということに、茂木の「偶有性」の重点があるはずだ。そう理解すると次の発言がより深い意味合いを持つようになる。
茂木 そうです。「偶有性」は脳にとって、とても重要な栄養なんです。人間の脳はつねに偶有的なできごとを探し回っている、と言うこともできます。
「偶有性」が価値あるものとして捉えられているのだが、この価値性は、関連するキーワード「セレンディピティ」でより明確になる。
だから、ネットはセレンディピティ(偶然の出会い)を促進するエンジンであると思う。もちろん、本屋でたまたま立ち読みしていて思いがけず何かに出会うということもあるけれど、インターネットはセレンディピティのダイナミックスを加速している。
セレンディピティ(serendipity)をここでは括弧で「偶然の出会い」としているが、もう少し解説すべき概念なので、ウィキペディアにセレンディピティ(参照)の項目が参考になるだろう。
セレンディピティ(英語:serendipity)とは、何かを探している時に、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」のことを指す。
「serendipity」という言葉はホレス・ウォルポール(ゴシック小説の「オトラント城奇譚」の作者として知られる人物)が1754年に造語したものであり、彼が子供のときに読んだ『セレンディップの三人の王子』という童話に因んだ造語である(セレンディップは現在のスリランカなので「スリランカの3人の王子」という意味の題名である)。
セレンディピティという概念は、茂木の主張の文脈ではその「偶有性」(contingency)の機能と言い換えてもよさそうだ。探すという行為の必然性に対して、セレンディピティは良いものをたまたま見いだす偶然性を指している。
![]() 生命潮流 ライアル・ワトソン |
ワトソンが the contingent system という概念で示そうとしたのは、必然の連鎖で描かれる科学的な視点から見える生命現象の背後に、偶発的とも見える別の有意味なシステムが存在する可能性だった。私の推測がある程度妥当なら、茂木のいう contingency とは、通常の contingency ではなく、ワトソン的な systematic contingency だと言えるだろうし、この system とは「生命」を意味するはずだ。
茂木の contingency がワトソンの the contingent system に近い概念であることは、彼の発言のあちこちに断片としてまたイメージとして出現している。特に以下の言及はワトソンの考えと同一と言っていいだろう。
生命原理というのは、近代が追求してきた「管理する」などの機械論的な世界観にはなじまない。本当の生命原理は管理できるものではないし。オープンで自由にしておかないと、生命の輝きは生まれない。結局、インターネットが人類にもたらした新しい事態の背後に隠されたメッセージは、一つの生命原理ということだと思います。命を輝かせるためには、インターネットの偶有性の海にエイヤッと飛び込まないと駄目なんです。
要するに、オープンにして偶有的なプロセスでやっていかなければ、生命体の成長ということはありえない。
茂木はこうした「偶有性」の場としてインターネットとその未来を提示している。またそこでは、インターネットは人の可能性として、人を縛り付けてきた必然性から解放し、輝かせるものとしてもイメージされている。
僕は小学生の頃に、どういうことをしたら脳が喜びを感じるか、ということを自覚したんです。偶有性のなかに自分を置いて、自分にある程度の試練を与えて、それを乗り越えたときに、ドーパミンが放出されて、強化学習が成立するということを自覚した。
偶有性の喜び、自分の人格をより高度なものにしていく喜びは、おそらく人間が体験できる喜びのなかでもっとも強く、深い喜びではないでしょうか。
強化学習と偶有性のキーワードにはスキナー学説も潜んでいるようにも思われるが、偶有性についての言及が人格の高度化という文脈に出現する背景は、やはり、ワトソン的な the contingent system を考えると理解しやすい。
それにしても、インターネットはそう楽観的に捉えることができるものだろうか。この偶有性についても、インターネットはそのままにしてセレンディピティを与えるわけはない。グーグルのような検索主体の存在が条件になっている。
ここで問題が浮かび上がる。インターネットのカオスの中に、グーグルはリアル世界の必然性とは異なった、しかし人にとって価値のある偶有性を本当に提供しているのだろうか? グーグルはただデータをキーワードで機械的に整理しているだけで、その整理の不備やエラーが偶有性に見えるだけなのではないだろうか?
茂木は前提的に楽観さから、あたかもインターネットそれ自体が生命現象の一環であるかのように見ている。だが、梅田はこの問いに対してより戦略的に考えているようだ。ブログを書いていると知識がグーグルに取り込まれたように思えたという体験から彼はこう発想する。
梅田 (略)なんか、取り込まれた感じがしたんです。茂木さんはブログを書いていて感じませんか? 僕は最初、グーグルにやられている感がありました。
茂木 グーグルに搾取されているということですか?
梅田 要するに、いいことをいっぱい書くと、グーグルが賢くなるんですよ。
梅田 (略)僕がグーグルを賢くしてやるんだよ、と開き直った(笑)。「マトリックス」の電池になってやろうじゃないかと。それが僕の社会貢献の姿なんだとね。
私もその主張に頷く。グーグルが生命を躍動させる情報の場として「偶有性」を持ち得るかどうかは、私たちの貢献に掛かっている。その意味で、インターネット情報の海にエイヤッと飛び込む人の勇気こそが未来を意味しているはずだ。
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コメント
内容としてはこのラスト・パラグラフはfinalventさんだなと思うのですが、こんなにすんなり表現されているというのは、何か、新しく感じました。勘違いかもしれませんね。
投稿: quip | 2007.05.12 14:35
セレンディピティについてはこちらのサイトも極めて参考になります。
金川 欣二:マックde記号論(言語学のお散歩)
「果報は寝て待て〜セレンディピティのすすめ」
http://www.toyama-cmt.ac.jp/~kanagawa/essay/serendipity.html
投稿: Jun | 2007.05.12 14:52
茂木さんは、武術家の甲野善紀さんと対談をしています。
甲野先生と対談ができるということは、ある意味、オカルト的な要素を彼が持っているということでしょう。
でなければ、共通項はなく、対談は成立しない。
とはいえ、茂木さんの商品価値は、科学の側ですので、オカルトを纏ってしまったら、自らの商品価値がなくなる。
そのことを彼は分かっているが、その裏の心理では、オカルト的な世界への憧れと、非言語化されぬ確信を彼が持っている。
それが、「遇有性」についての彼なりのわがままな定義になるのでしょう。
*
梅田さんの「僕がグーグルを賢くしてやるんだよ」という言葉。彼のすべてを現していますね。
彼の中には、ネットで向き合う無限の個たちとの対話の中で、自らが磨かれていくという概念がない。
*
茂木氏・梅田氏ともに、コメント欄で読みかけてみたものの、一切の対話は成立しなかった。
炎上を怖れてネットで対話をしない人たち…。
インターネットはインタラクティブではない。そのことを実行するのが、日本のネットの表に立つ人たちであることは憂慮すべきことです。
自説開陳失礼しました。
そして、ありがとうございました。
投稿: スポンタ | 2007.05.12 15:32
×非言語化→○言語化
×コメント欄で、読みかけて→コメント欄で、呼びかけて
粗忽でした。
ご迷惑をおかけいたしました。
投稿: スポンタ | 2007.05.12 15:36
少し難しく考えているのでは、と思います。演劇を例にすると、演じるものと観客がいる。どちらか一方では演劇にはならないわけですよ。それが、「偶有性」という必然でもあり偶然でもあると言う怪物を生み出すということではないかと。または、英語で書かれた文章を日本語に置き換えることも「偶有性」という概念を考えないと、理解できない。木をツリーと置き換えることでは、木にならないわけで。木とは、あくまでま木であるということでしょうね。木を見て、森を見ずということにつながるかもしれません。(これは反語的な意味ですが)。
>横レスだけどスポ氏
遇有性ではなくて偶有性。
投稿: トリル | 2007.05.12 20:56
自分はこの本に限らず、未だ「ウェブ人間論」も読んでませんけど、自称トリルさんに同意。
>グーグルはリアル世界の必然性とは異なった、しかし人にとって価値のある偶有性を本当に提供しているのだろうか?
人類全体レベルに対してはともかく、個人周りには取り敢えず「提供している」と思います。底上げ効果はあるんと違いますか?
グーグルのAIが学習しても、ノードを分けるとかして思考パターンが分岐させる努力を人間側で意識しないと、ネット上のAIでは多様性は図れないのではないでしょうか?
投稿: トの人 | 2007.05.13 05:54
ようやくフューチャリスト宣言を1回だけ走り読みしました。茂木さんの偶有性についてのこのブログの疑問と解釈はとても参考になりました。生命現象をモダンサイエンスの範囲内にとどめてオカルトにならないように説明しようとすると文章としては矛盾が出てしまいます。私自身はルドルフ・シュタイナーの流出論的な生命論が好きなので偶有性に対してあまり違和感を持ちませんでしたが、じっくりと考えてみるべきテーマなのだと感じました。流出論はあちら側にこの世とは違う構造があるという仮定ですから現代科学の範囲を超えてしまいます。偶有性は魅力的な言葉ですがまだ明確には定まっていない概念を表しており還元主義ではない脳の創発性を説明するための一つの試みであると私は解釈しています。
投稿: 福地博行 | 2007.05.13 13:07
ええっと、本来は、contingency learning (結果学習)の意味でのcontingencyでしょう。もぎさんが、どの程度この概念を拡張して考えてらっしゃるかは、よく分かりません。
言及されている通り、スキナー学習の意味でしょう。
contingency learningは代表的なのは、オペラント条件付け(古典的条件付け)です。
以下、ググってみました。
参考までに。
http://www.tmd.ac.jp/med/phy1/ptext/high3.html
投稿: katsumushi | 2007.05.13 18:55
>contingentは真でも偽でもない命題であり
真偽の問題じゃなくて、予測不能の可能性、もしくはイベントでしょ。
投稿: 佐藤秀 | 2007.05.14 00:20
インターネット情報の海にエイヤッと飛び込む人の勇気が何らかのシステムによって引き起こされているとしたら、その設計者は上手く人を騙したと言う事になりますね。騙す事は良いことですね、人をその気にさせてるわけですから(動機を作っている)。私は自分の努力と成果の因果関係は発見される事はないでしょうが、努力と成果の関係を上手く説明する事は可能だと思います。これから起こることが、起こった後で、偶然ではなく、予め決められていたとしか思えない、と言う事ははありますが(例えば何か特別な力がそれを引き起こした)、インターネットが生命を持つか否かは、その特別な力が密接にかかわっている、と言って良いでしょう。
投稿: itf | 2007.05.14 12:50
わかったとしても、この手の本の言説はばらけて六でもない歩き方をするので、 つまり、 宣言してひとを釣った時点で解散として、 BOOKOFFゆきとなる。 ワトソンにはそうかんがえざるをえない現地の切実があるけれど、ここでそちらにゆくのは、。
投稿: おつり | 2007.05.15 00:30
『恋に落ちたシェイクスピア』を想像しました。
茂木さんは「作劇」にも並々ならぬ興味があるようでしたが。
投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.05.16 17:42
結局のところ、私は、「情報に耐えることができない人は、インターネットをやらないほうがいいよ」という、ヒロユキ派だなぁ…。
イノベーションってもんは、加速装置を開発するときは、減速装置も開発しなければならぬ。
そんな当たり前のことも理解していないんだろうな…。
投稿: スポンタ | 2007.05.18 14:47