マスコラボレーションとピアプロダクションの間にあるブルックスの法則的なもの
「極東ブログ: [書評]Wikinomics:ウィキノミクス(Don Tapscott:ドン・タプスコット)」(参照)の関連でもう一点、メモ的なエントリを書いておきたい。話は、マスコラボレーションとピアプロダクションの間にあるブルックスの法則的なものと、その関連からドラッカーの予言についてである。
ウィキノミクス(参照)とは著者たち自身の定義ではマスコラボレーションの技芸と知識であった。これはより具体的には、マスコラボレーションの実践とテクノロジーを指すとしていいだろうし、また実際に同書を読めばわかるようにマスコラボレーションの現象面も指している。そして同書では、マスコラボレーションとはピアプロダクションだとされているが、すでに「極東ブログ: ウィキノミクス=ピアプロダクションについてのメモ」(参照)で扱ったように、マスコラボレーションの基底にあるのがコモンズであり、共有は結果ではなく起点にある。
このエントリではコモンズの問題よりもっと具体的なコラボレーションのプロセスに関心を向けたい。というのも、書籍ウィキノミクスにおいてはその部分の叙述が奇妙に欠落しているようにも思えるからだ。もちろん、書籍ウィキノミクスには各種のマスコラボレーション事例があがっており、その背景にはコラボレーションのプロセスが存在することは疑えない。だが、それらはウィキノミクスのようなピヴォット的な概念によって包括できるのだろうか? 単純な問いにすれば、人々はどのようなからくりでマスコラボレーションを行うのだろうか?
ここで非常に単純な疑問が連想される。いわゆるブルックスの法則である。つまり、マス=多数がコラボレーションすることがけしてそのプロセスに有効ではないという経験則だ。ウィキペディアの同項目より(参照)。
ブルックスの法則( - ほうそく)はフレデリック・ブルックスによって提唱された、「遅れているソフトウェアプロジェクトへの要員追加はさらに遅らせるだけだ」という、ソフトウェア開発のプロジェクトマネジメントに関する法則である。これは1975年に出版された著書「The Mythical Man-Month」(邦題「人月の神話」)に登場した。ブルックスの法則は、しばしば「9人の妊婦を集めても、1ヶ月で赤ちゃんを出産することはできない」と説明される。ブルックスの法則がしばしば引用される一方で、「人月の神話」でブルックスの法則が述べられる直前の「ブルックスの法則を一言で述べると」という行が引用されることはめったにない。
ブルックスの法則はソフトウェア・プロダクションに限定されている。だが、この法則は、他の分野に当てはまる場合と当てはまらない場合がある。
ブルックスの法則は果たそうとする仕事の素性によって、適用できるかどうかが変わる。 例えば遅延した建設計画で、ダンプトラックを追加投入した場合、計画は遅滞しない。 これは仕事の性質上、最小限の技術とトラックだけを持っていたら誰でも業務をすぐ処理できるし、トラック運転手たちどうしで議論をして仕事をする必要も少ないからだ。
一方ソフトウェア開発のようなデザイン作業では、新たに投入された人力はプロジェクトに対する基本的な方向や方法、すでに進行している作業に対する教育がなされて初めてプロジェクトに貢献できる。
ウィキノミクスはソフトウェア・プロダクションに限定されないが、仮に、ブルックスの法則が適用されない分野であっても、まさにその分野において、マスの投入が可能であるかについての全体プランはどのように統制されるのかという疑問がある。
またソフトウェア・プロダクションについてはブルックスの法則がほぼ当てはまる。この場合、ウィキノミクスは、ピアプロダクションという言い換えにおけるピアの内部に、作業員の技能水準の平滑化が問われていることになる。
まとめると、ウィキノミクスの内部にブルックスの法則が関わらないのであれば、そこに人的資源配分の市場のようなメカニズムが存在することになる。また、ソフトウェア・プロダクションに限定した場合でも、その解決は次のように示唆される。
ブルックスの法則で言及された問題を避けるためには、問題全体を小規模のグループが担当できるサイズに分け、より上位のチームがシステムの統合を引き受けるというものだ。ところがこれも問題を分ける過程が正確でなければチームの間の意思疎通コストが増えるようになり、問題をもっと大きくする場合があるという短所がある。
ウィキノミクスが機能する、あるいは機能しているプロセスの内部には、人的資源としてのマスを配分する市場機構のようなものが存在せざるをえないし、実際のところ、ウィキノミクスを可能にしているのは、そのような人的資源の配分機構なのではないか。
ここで連想されるのは、ドラッカーが「新しい現実」(参照)で提起した情報化組織の概念である。ドラッカーは、情報化組織について、「その専門家集団は、同僚や顧客との意識的な情報の交換を中心に、自分たちの仕事の方向づけと、位置づけを行うようになる」としている。ここで専門家集団を「ピアグループ」と読み替えれば、ピアグループはその内外との情報交換を通して、自身の作業の方向付け・位置づけを自発的・自動的に行うようになるとしている。これがプロジェクトにおけるリソースの自動的な配分機構となるのだろう。
このような組織性を可能にしているのが、ドラッカーによれば、情報の単一性と単階層性である(彼がそのような用語を使っているわけではないが)。この特性を彼はオーケストラに喩えている。単一性とは「単純な、共通の目的」としてのスコア(楽譜)であり、単階層性は指揮者と演奏者の関係である。この比喩から読み取れるものは、情報システムの高度な実現でもあるが、ウィキノミクスとピアプロダクションに関わる点では、マスからピアを選別する原理として働くということではないだろうか。単純に言えば、情報システムがマスをポーリング(聞き回り)することで、そこからピアグループを創出する。つまり、マスコラボレーションの中心はマスからピアをポーリングすることなのではないか。
この一種の選別機能はピアグループへ個人を招請する際、金銭的なインセンティブよりも個人の倫理的な側面にその動力源のようなものをもっているのだろう。ドラッカーは「情報化組織では、そこに働く人間一人一人の自己規律が不可欠であり、互いの関係と意思の疎通に関して、一人一人の責任の自覚が必要になるということである」としている。
ウィキノミクスによってマスコラボレーションとして概括される現象の内部では極めて個人の倫理が問われるような現象が起きているし、起きるといえるのでないか。
では、このように招請される個人=知識労働者を、現存の資本主義的な生産機構のなかに置いたときどのような可能性の相として見えるだろうか。同じくドラッカーの「明日を支配するもの」(参照)が示唆深い。
さらには、資本ではなく知識労働者が統治の主体となったとき、資本主義とは何を意味することになるか。知識労働者が、知識を所有するがゆえに、唯一ともいえる真の資本財となったとき、自由市場とは何を意味することになるのか。
知識労働者は、いかなるかたちであれ、売買の対象とはならない。企業買収や企業合併によって自動的に手に入れることはできない。価値ある存在でありながら、彼らはいかなる市場価値なるものはない。つまり、伝統的な資産ではないということである。
このような知識労働者を留めおくことに最適化したのがグーグルという企業でもあるし、その最適化の内部にウィキノミクスが関わっていることはウィキノミクスという書籍にも描かれているところだ。
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コメント
3連エントリー読みましたが、十分理解しているとはいえないと思います。なので、大きな勘違いもあるかもしれませんが、
>「情報化組織では、そこに働く人間一人一人の自己規律が不可欠であり、互いの関係と意思の疎通に関して、一人一人の責任の自覚が必要になるということである」としている。
というあたりで、教育現場のことを考えました。少し勉強してみたい気がします。手軽な、新書でも出ないかなと思っています。
投稿: SeaMount[pepetio] | 2007.06.07 09:52