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2007.05.30

簡単浅漬け、電子レンジでチン

 きつい話がつづいたみたいなので、箸休め。簡単浅漬け、電子レンジでチン。
 漬け物とか浅漬けとかまじでやるとけっこう難しいのだけど、電子レンジでチンという簡単浅漬けという芸のないやり方がある。こんなの誰でもやっているだろうと思って、ちょっとネットを覗いたら、あるようなないような。具体的な例は簡単には見つからない感じがしたので、じゃ、ネタでご紹介。
 サンプルは適当なキュウリ一本で。
 まず、シマシマに皮を剥く。ピーラーですっすっと。

 これを適当に乱切りのようにする。別段どう切ってもかまわない。

 これを適当なビニール袋に入れ、塩小さじ1/2を入れてよくもむ。全体に塩が回る感じにもむこと。もむのはちょっと水が出るくらいでいい。

 これを電子レンジに入れる。このくらいだと、500Wで30秒。
 ちょっと熱いかなくらいになるのを、また少しもむ。
 そのままあら熱が取れるまでほっておき、冷めたら、小皿に載せる。
 あと、これにちょこっとキムチの素をかけるとインチキなオイキムチができる。

 まあ、そんだけのことなんだけど、これも最初は塩加減やレンジ加熱加減でちょっと失敗するかもしれない(失敗してもそれなりに食べられる)。めげずに塩加減、加熱加減をキュウリの量に合わせて調整するといいと思う。
 他に大根とかでもできる。ナスだとうまくいかない。
 別段料理ってほどのものでもないけど、この手の浅漬けは一品あるとちょっとよい感じがするものだ。

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2007.05.29

松岡利勝農水相自殺、雑感

 松岡利勝農水相自殺について。ブログとして世の中の話題を無名の庶民である自分の心に浮かぶところから記しておくという以上の話はない。まず、哀悼の意を表したい。
 私が昨日ニュースを聞いたおりにはまだ生死が不明であったようだ。経緯は、午前10時ごろまで彼は宿舎の室内で秘書と話をしていたが、その後、出かける予定なのに現れず、午後零時18分ごろ秘書と警護の警察官が部屋を訪れ、意識不明の農相を発見したとのこと。死亡が確認されたのが午後2時頃らしい。すでに本人の意識はなく苦しいという感覚もないのかもしれないが、人はなかなか死ねないものだなという思いと、なぜ人は縊死を思うのだろうかと、しばし考え込んだ。類似の要人事件のようにまた陰謀論が起こるかとも思ったが、遺書がすでに8点発見されており、その筋はなさそうだ。
 死亡が確認されていないまでも、一報を聞いたときの私の最初の印象は、まあ率直に言えば、日本の恥だ、ということと、残された家族が不憫だ、ということだった。その合い混じった奇妙な感覚には彼の名前への思い入れがある。というのは、国家の名誉みたいなものをふと連想してしまったからだ。
 「なぜ利勝」で「勝利」ではないのだろうか、それでも「勝利」のヴァリエーションだろうなと思っていた。戦中にはこの名前が少なくないし、その名前を付けられた人は戦後世界で微妙な思いを抱いて生きてきたものだ。時代と名前の引きずりの類似には昭和の昭坊がある。こうしたことは特に指摘されなければある年代以上には常識でも、ある年代以下にはぷっつりと通じなくなる。なお、彦野利勝のようにそうした背景を想像しなくてもよい時代も訪れる。
 松岡農水相の生年月日は1945年2月25日。都市部では敗色が濃くなる時期で、この時期に「利勝」という名前が付くのはよほど田舎であろうか。歴史上の有名人には土井利勝がいるがその由来もなさそうだ。経歴のサマリーをウィキペディアに借りる。


農家に生まれる。熊本県立済々黌高等学校、鳥取大学農学部林学科を卒業し、1969年に農林水産省に入省。大臣官房企画課、天塩営林署長、国土庁山村豪雪地帯振興課課長補佐などをつとめる。1988年、林野庁広報官を最後に退官し、1990年の第39回衆議院議員総選挙に旧熊本1区から無所属で立候補。

 農家の生まれで農学部を出て農水省に入るという、農業が人生の課題のような人でもあったようだ。官僚から政治家への転向は四〇代半ばということで、そのあたりをどう読むべきかは微妙だ。それほど娑婆気のあった人でもないのだろうし、その後の政治家としての活動をざっと見ても、どちらかといえば農業問題の専門家という印象がある。政治家をきれいに辞めていたら大学の先生でもしそうなタイプなのではないか。
 経歴を見ていると永岡洋治と同じく亀井派を裏切ったようにも見える。またそうしたことを含めて、私は彼を取り巻くスキャンダルについては関心もなく知らない。むしろナントカ還元水騒ぎのとき、よくメディアやネットがそれをネタに安倍政権を叩くものだなと呆れて引いていた。が、たぶん彼が自殺に至る背景は、すでにメディアで言われているように緑資源機構に関わる問題があるのだろう。
 ただ、死ぬものかなとは思う。この点、率直に言うのだが、彼は一種の鬱病だったのではないだろうか。つまり、政治の文脈もあるだろうが、一義的には精神の病ではないかという感じがする。私は五〇歳にもなるのでそれなりにこりゃもう死ぬか生きてられないかと思うことも人並み程度にはあったが、そういう人並みもなく六〇歳を過ぎる人も世の中にはおり、その歳で人生の絶望というのは精神抗体不足もあるのか、いやいやその年代になると今の私などからは思いがけないほど重たいものがあるのか。後者かもしれないなと思うので、それほど自死を責めるわけにもいかない。だが大人というものは、残る人のことを配慮してできるだけ自殺などするものではない。老兵は消えていくのがよろしい。
 本人の意識のなかで自殺の理由付けはどのような理路を辿っていたのかには、まったく興味がないというわけではない。そこに政治的な疑惑も関連しているだろうから、という点において無関心であれとも言い難い。
 では単純になぜ自殺したのだろうか? もちろんわからないのだが、推理小説のように考えるなら、ヒントは本人が残しているはずだ。遺書を読むことができないが、報道されている「内情は家内がよく知っており、全部託している。家内がどこに何があるかを知っているので探さないで下さい」という部分が心に残る。
 まず私は個人的な思いが先に立った。この遺書の言葉は、妻への残酷な甘えの響きがあると思う。妻が自殺を了解してくれると思い込んだ孤独な男がいる。私にはまずもってそれが耐えられない。しかし、それもある愛情なのかもしれない。
 故人が家捜しされることを恐れていたことは確かだろうし、であれば、そこに何か捜されることを拒むものがあるのだろう。この遺された言葉はそのあたりの、微妙な駆け引きについての誰かへのメッセージであろう。であれば、この事件はどこかに落とし所が想定されており、彼の死もその絵のなかに嵌っていたのだろう。
 野党や反安倍の勢力はこの事件を政局にもっていきたいのだろうが、悲しいかな、この詰め将棋、松岡利勝農水相が一手分だけ勝っていたのではないか。ただ、そんな勝利に人間としてなんの意味があるのか。

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2007.05.27

マスコラボレーションとピアプロダクションの間にあるブルックスの法則的なもの

 「極東ブログ: [書評]Wikinomics:ウィキノミクス(Don Tapscott:ドン・タプスコット)」(参照)の関連でもう一点、メモ的なエントリを書いておきたい。話は、マスコラボレーションとピアプロダクションの間にあるブルックスの法則的なものと、その関連からドラッカーの予言についてである。
 ウィキノミクス(参照)とは著者たち自身の定義ではマスコラボレーションの技芸と知識であった。これはより具体的には、マスコラボレーションの実践とテクノロジーを指すとしていいだろうし、また実際に同書を読めばわかるようにマスコラボレーションの現象面も指している。そして同書では、マスコラボレーションとはピアプロダクションだとされているが、すでに「極東ブログ: ウィキノミクス=ピアプロダクションについてのメモ」(参照)で扱ったように、マスコラボレーションの基底にあるのがコモンズであり、共有は結果ではなく起点にある。
 このエントリではコモンズの問題よりもっと具体的なコラボレーションのプロセスに関心を向けたい。というのも、書籍ウィキノミクスにおいてはその部分の叙述が奇妙に欠落しているようにも思えるからだ。もちろん、書籍ウィキノミクスには各種のマスコラボレーション事例があがっており、その背景にはコラボレーションのプロセスが存在することは疑えない。だが、それらはウィキノミクスのようなピヴォット的な概念によって包括できるのだろうか? 単純な問いにすれば、人々はどのようなからくりでマスコラボレーションを行うのだろうか?
 ここで非常に単純な疑問が連想される。いわゆるブルックスの法則である。つまり、マス=多数がコラボレーションすることがけしてそのプロセスに有効ではないという経験則だ。ウィキペディアの同項目より(参照)。


ブルックスの法則( - ほうそく)はフレデリック・ブルックスによって提唱された、「遅れているソフトウェアプロジェクトへの要員追加はさらに遅らせるだけだ」という、ソフトウェア開発のプロジェクトマネジメントに関する法則である。これは1975年に出版された著書「The Mythical Man-Month」(邦題「人月の神話」)に登場した。ブルックスの法則は、しばしば「9人の妊婦を集めても、1ヶ月で赤ちゃんを出産することはできない」と説明される。ブルックスの法則がしばしば引用される一方で、「人月の神話」でブルックスの法則が述べられる直前の「ブルックスの法則を一言で述べると」という行が引用されることはめったにない。

 ブルックスの法則はソフトウェア・プロダクションに限定されている。だが、この法則は、他の分野に当てはまる場合と当てはまらない場合がある。

 ブルックスの法則は果たそうとする仕事の素性によって、適用できるかどうかが変わる。 例えば遅延した建設計画で、ダンプトラックを追加投入した場合、計画は遅滞しない。 これは仕事の性質上、最小限の技術とトラックだけを持っていたら誰でも業務をすぐ処理できるし、トラック運転手たちどうしで議論をして仕事をする必要も少ないからだ。
 一方ソフトウェア開発のようなデザイン作業では、新たに投入された人力はプロジェクトに対する基本的な方向や方法、すでに進行している作業に対する教育がなされて初めてプロジェクトに貢献できる。

 ウィキノミクスはソフトウェア・プロダクションに限定されないが、仮に、ブルックスの法則が適用されない分野であっても、まさにその分野において、マスの投入が可能であるかについての全体プランはどのように統制されるのかという疑問がある。
 またソフトウェア・プロダクションについてはブルックスの法則がほぼ当てはまる。この場合、ウィキノミクスは、ピアプロダクションという言い換えにおけるピアの内部に、作業員の技能水準の平滑化が問われていることになる。
 まとめると、ウィキノミクスの内部にブルックスの法則が関わらないのであれば、そこに人的資源配分の市場のようなメカニズムが存在することになる。また、ソフトウェア・プロダクションに限定した場合でも、その解決は次のように示唆される。

ブルックスの法則で言及された問題を避けるためには、問題全体を小規模のグループが担当できるサイズに分け、より上位のチームがシステムの統合を引き受けるというものだ。ところがこれも問題を分ける過程が正確でなければチームの間の意思疎通コストが増えるようになり、問題をもっと大きくする場合があるという短所がある。

 ウィキノミクスが機能する、あるいは機能しているプロセスの内部には、人的資源としてのマスを配分する市場機構のようなものが存在せざるをえないし、実際のところ、ウィキノミクスを可能にしているのは、そのような人的資源の配分機構なのではないか。
 ここで連想されるのは、ドラッカーが「新しい現実」(参照)で提起した情報化組織の概念である。ドラッカーは、情報化組織について、「その専門家集団は、同僚や顧客との意識的な情報の交換を中心に、自分たちの仕事の方向づけと、位置づけを行うようになる」としている。ここで専門家集団を「ピアグループ」と読み替えれば、ピアグループはその内外との情報交換を通して、自身の作業の方向付け・位置づけを自発的・自動的に行うようになるとしている。これがプロジェクトにおけるリソースの自動的な配分機構となるのだろう。
 このような組織性を可能にしているのが、ドラッカーによれば、情報の単一性と単階層性である(彼がそのような用語を使っているわけではないが)。この特性を彼はオーケストラに喩えている。単一性とは「単純な、共通の目的」としてのスコア(楽譜)であり、単階層性は指揮者と演奏者の関係である。この比喩から読み取れるものは、情報システムの高度な実現でもあるが、ウィキノミクスとピアプロダクションに関わる点では、マスからピアを選別する原理として働くということではないだろうか。単純に言えば、情報システムがマスをポーリング(聞き回り)することで、そこからピアグループを創出する。つまり、マスコラボレーションの中心はマスからピアをポーリングすることなのではないか。
 この一種の選別機能はピアグループへ個人を招請する際、金銭的なインセンティブよりも個人の倫理的な側面にその動力源のようなものをもっているのだろう。ドラッカーは「情報化組織では、そこに働く人間一人一人の自己規律が不可欠であり、互いの関係と意思の疎通に関して、一人一人の責任の自覚が必要になるということである」としている。
 ウィキノミクスによってマスコラボレーションとして概括される現象の内部では極めて個人の倫理が問われるような現象が起きているし、起きるといえるのでないか。
 では、このように招請される個人=知識労働者を、現存の資本主義的な生産機構のなかに置いたときどのような可能性の相として見えるだろうか。同じくドラッカーの「明日を支配するもの」(参照)が示唆深い。

 さらには、資本ではなく知識労働者が統治の主体となったとき、資本主義とは何を意味することになるか。知識労働者が、知識を所有するがゆえに、唯一ともいえる真の資本財となったとき、自由市場とは何を意味することになるのか。
 知識労働者は、いかなるかたちであれ、売買の対象とはならない。企業買収や企業合併によって自動的に手に入れることはできない。価値ある存在でありながら、彼らはいかなる市場価値なるものはない。つまり、伝統的な資産ではないということである。

 このような知識労働者を留めおくことに最適化したのがグーグルという企業でもあるし、その最適化の内部にウィキノミクスが関わっていることはウィキノミクスという書籍にも描かれているところだ。

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2007.05.26

ウィキノミクス=ピアプロダクションについてのメモ

 前エントリ「極東ブログ: [書評]Wikinomics:ウィキノミクス(Don Tapscott:ドン・タプスコット)」(参照)で取り上げたウィキノミクスだが、読後の感想と、関連する問題、背景について、メモ書きしておきたい。
 書籍「ウィキノミクス(Wikinomics)」(原書訳書)の読後、正確に言うと読書中にも疑問のように思えたことが二点あった。著者たちもその二点は想定していたのか微妙な配慮を持っているように思えた。


  1. ウィキノミクス=ピアプロダクションの収益モデルはどうなっているのか?
  2. ウィキノミクス=ピアプロダクションにおけるピアグループ形成の原理およびリーダー論はどうなのか?

 一点目の収益モデルだが、いくつかのケースでは提示できないわけではない。たとえば、オープンソースと収益については議論しやすい。また雑駁に言うなら、グーグルがそうであるように、ニッチのように見えたところに新しいプレザンスを置き、圧倒的な力(事実上ウェブ2・0やウィキノミクスなど)によって、他社の既存の安定収益圏を席巻するということだろう。あるいは新しい技術世界のインフラストラクチャーのようなものを提示することによって、既存技術領域におけるプレザンスをシフトさせるような幻想を投げかけ、投資面で優位に立つというのもある。私はこの間の世界経済動向に詳しくはないが、グーグルやウェブ2・0企業というのは所詮カネ余りの状況と無縁ではないだろう。
 だがウィキノミクスによって、世界全体、あるいは産業界が、収益の側面でどうシフトするかはまったく見えてこないと言っていいように思える。
 さらにこの問題は、ある種の議論上の詐術とも言える背景もあるのではないか。簡単に言うと、「ウィキノミクスとはピアプロダクションである」というとき、そのピアプロダクションという概念は、「極東ブログ: [書評]Wikinomics:ウィキノミクス(Don Tapscott:ドン・タプスコット)」(参照)でも強調したように、ウィキノミクスで提示されているそれと、元になったとされるイェール大学ヨハイ・ベンクラー博士によるそれとの間に微妙な齟齬がある。
 ヨハイ・ベンクラー博士によるピアプロダクションにはウィキノミクスのように拡張される含みはなく、むしろ、Commons-based peer production(参照)、つまり「コモンズに基づいたピアプロダクション」である。コモンズという公共性から共有性という概念が自然に結合して導出されている。これに対して、ウィキノミクスの場合はその現象的側面の記述からあたかもその概念を実体的に疎外させ、そこからモデルの特性として共有性とさらにピア性を組み込んでいる。この議論手順は、私にはやや詐術に見える。
 ここでピアプロダクションを、ウィキノミクスではなく、コモンズ・ベースト・ピアプロダクション(コモンズに基づいたピアプロダクション)に引き寄せて再考するなら、同概念を解説した英語ウィキペディアの解説にもあるように、collective invention(集合的発明)やopen innovation(開かれた革新)とも言えるし、いずれにせよ、根幹にあるのは、ピア性よりも共有性を可能にする財産権の問題である。なお、ヨハイ・ベンクラー博士はこの概念をクリエティブ・コモンズのよる書籍「The Wealth of Networks(ネットワークの富)」(参照)で公開している。おそらく、ウィキノミクスをきちんと議論するなら、「The Wealth of Networks(ネットワークの富)」の関連性および差異の考察が重要になるだろう。
 ここで余談。コモンズについて法学的な発想からの議論は多いようだが、私は歴史的に見た場合の、「ローマ帝国」の概念が気になっている。「ローマ帝国」は、ウィキペディアを見ると(参照)次のように書かれている。間違っているわけではないが、その本質的な説明になっていないように思える。

「ローマ帝国」はラテン語の「Imperium Romanum 」の訳語である。「Imperium」は元々ローマの「支配権(統治権)」という意味であり、転じてその支配権の及ぶ範囲のことをも指す。ラテン語の「Imperium」はドイツ語では「Reich 」という言葉が当てられ、英語やフランス語では一般に「帝国」を意味する「Empire 」という訳が当てられるが、ラテン語の「Imperium」とドイツ語の「Reich」という言葉は、本来「帝国」という言葉の意味する皇帝の存在を前提とはしておらず、共和政時代には既に成立していたとされるが、しばしば帝政以降のみを示す言葉として用いられている。

 英語版も参照したが同様に「ローマ帝国」という字面に引きずられている。だが、実際のローマ帝国が「Imperium Romanum 」というように「ローマ人の支配権」などと自称するわけもないことは、単純に常識で考えればわかることだ(ついでにImperium の原義も関連するのだが)。もっとも後代の歴史学・歴史観からの議論が混入しやすいテーマでもあるのだろう。
 実際に「ローマ帝国」とはなんであったかというと、言葉だけ取り上げるならごく常識的なことでもあるのだが、「Res publica」である。ただしその常識の一環としてそれが「ローマ帝国」にアソシエイトされるよりも、「国家」に結びつきやすい("republic"の語源でもある)。
 「Res publica」についてのウィキペディアの項目はやや詳しい(参照)。

"The state" - "The Commonwealth"
Taking everything together that is of public interest leads to the connotation that the res publica in general equals the state. For Romans this equalled of course also the Imperium Romanum, and all its interests, so Res Publica could as well refer to the Roman Empire as a whole (regardless of whether it was governed as a republic or under imperial reign). In this context scholars suggest "commonwealth" as a more accurate and neutral translation of the term, while neither implying republican nor imperial connotations, just a reference to the state as a whole. But even translating res publica as "republic" when it clearly refers to the Roman Empire under Imperial reign occurs (see quotes below).

 また原義はこうである。

Res publica usually refers to a thing that is not considered to be private property, but which is rather held in common by many people. For instance a park or garden in the city of Rome could either be "private property", or managed by the state, in which case it would be (part of the) res publica.

 長い余談でいったい何を議論してたいのだと怒られそうだが、ここに私の関心の文脈がつながる。つまり、「ローマ帝国」とは、「Res publica is held in common by many people.」である。人々よってコモンズとして所有される、ということだ。
 と同時に、これが英語のCommonwealthの原義であり、そこから大英帝国、そしてコモンウェルスが出てくる。
 これらが、帝国=国家として、人々(西洋人)に意識されている、あるいは西洋人にとっては国家の原義が共有性の財産として理解されているということであり、国家を生み出す情熱もまた、この共有志向の流れから考察が可能だ。共有性とは国家の領域なのである。
 ウィキノミクスという概念にすると曖昧になるが、これを「コモンズ・ベースト・ピアプロダクション(コモンズに基づいたピアプロダクション)」として考えると、この運動は、近代におけるネーション・ステーツとしての国家が、資本主義=私有制と富を作り出す動向に、その対立する内在性として包含されていたものかもしれない。
 その意味では、ウィキノミクスないしコモンズ・ベースト・ピアプロダクションというものは、資本主義の内側の収益性といった議論に本源的馴染まないのではないだろうか。
 二点目のピアグループ形成の原理およびリーダー論については、以上のような、コモンズの観点が不可欠になり、ウィキノミクスの枠組みからはいったん離れたほうがよいようにも思える。が、それでもウィキノミクスの枠組みのなかでリーダー論がどうなるのかについては、同書のなかである程度議論はされている。その大半は企業=利益集団、側であり、得られた結論も、せいぜい「ピアグループのローカル・ルールを尊重せよ」というだけに留まる。どのようにピアグループ内にルールと秩序・権力が発生するのかは議論されていない。しかし、ウィキノミクスのメタファであるウィキペディアの編集戦争を見てもわかるように、まさにそこに現在的な問題がある。
 ピアグループ形成の原理およびリーダー論はどのようになるのか。
 この問題も先の「コモンズ・ベースト・ピアプロダクション」のように共有財産=私有財産の抑制から発する面があるが、より深く思索するにはそもそもの「ピア」が何かと問わなくてはならない。あるいはピアリングという言葉の曖昧性を払拭しておく必要もあるだろう。
 ところが、ピアリングはウィキペディア(参照)を見てもわかるように、ネットワーク技術的な側面しか描かれていないことが多い。

 ピアリング(Peering)とは、インターネットサービスプロバイダ(ISP)同士が相互にネットワークを接続し、互いにトラフィックを交換し合うこと。
 一般的にはインターネットエクスチェンジ(IX)を介して行うものを指すが、IXを介さずにISP同士が直接専用線などを用いて接続を行う場合(プライベートピアリング)もある。

 ここからウィキノミクス的なピアリングを考えると、よほど無理のあるメタファとされてしまう可能性がある。英語版ではもう少しメタファーの内実に入っている。

Peering is voluntary interconnection of administratively separate Internet networks for the purpose of exchanging traffic between the customers of each network. The pure definition of peering is settlement-free or "sender keeps all," meaning that neither party pays the other for the exchanged traffic, instead, each derives revenue from its own customers.

 このネットワークがなぜピア(peer)と名付けられたかといえば、"neither party pays the other for the exchanged traffic"に比喩されるように一種の対等性にある。つまり、peer=同等の仲間ということだ。
 ウィキノミクスにおけるピアはすでにこのエントリでも無定義に導入したが「ピアグループ」の含みがあるだろう。「ピアグループ」はすでにピアリングがそうであるように、Open Systems Interconnectionで定義されている概念もあるが、原義としては、一般的な「仲間」を指すとしてよい(参照)。

A peer group is a group of people of approximately the same age, social status, and interests. To work out the relationship with peers, there can be confusion for people to find out how they fit in. Some groups are socialized by peers rather than by their families or conventional institutions. They define themselves as a gang or sometimes as a circle of friends.

 一読してわかるように、「same age, social status, and interests」というあたりから暗に青少年期の集団を指していることがわかる。また、ピアにおける個人の適合に困難が伴う点の指摘も、この概念において重要である。
 議論を端折るが、ウィキノミクス=ピアプロダクションにおけるピアグループ形成の原理およびリーダー論の問題には、二面あり、一面は一般的なピアグループの特性、二面は技術の関与だ。
 技術関与の部分については、「極東ブログ: [書評]ウェブ人間論(梅田望夫、平野啓一郎)」(参照)で、梅田望夫が「恐るべき子供」として語ったグーグル社員のエートスが関係する。簡単に言えば、「数学とITとプログラミング、そして『スター・ウォーズ』」という側面におけるピアグループ内での評価性が、その内在のリーダシップや権力を規定している。
 当然ながら、ここに潜む大きな問題は、この「スター・ウォーズ」が、その映画のオタク的な知識を指しているのではなく、この映画が示す超越的な正義のエートスを指していることなのだ。

補足
 「Res publica」と共和制ついて補足。現在世界では君主制に対立する概念として共和制が想定され、共有財としての「Res publica」の原義は薄いようにも思われるのだが、「極東ブログ: 領有権=財産権、施政権=信託」(参照)で指摘したように、むしろこの原義が根底にあるのではないだろうか。


 つまり、元来、領民と領土は王のものであったが、市民革命によって、領民と領土は国民の主権に収奪された。しかし、国民=主権というのは、概念的なものなので、実際に国家の経営は、信託としてつまり施政権として、政府に貸与されているのだ。authorityというのは財産権なのだな。

 「領民と領土は王のもの」という王の所有権が、市民の共有財となることが共和制であり、その根底には「Res publica」という共有財の発想があるように思われる。

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2007.05.24

[書評]Wikinomics:ウィキノミクス(Don Tapscott:ドン・タプスコット)

 「Wikinomics: How Mass Collaboration Changes Everything(Don Tapscott, Anthony D. Williams)」(参照)の訳書が5月31日に「ウィキノミクス マスコラボレーションによる開発・生産の世紀へ(ダン・タプスコット、アンソニー・D・ウイリアムズ)」(参照)として出版されることから、「Wikinomics:ウィキノミクス」という概念に、日本のIT産業界やネットの世界が注目し始めたようだ。このエントリでは訳書出版以前ということもあり、原書ベースで簡単なメモを記しておきたい。

cover
Wikinomics:
How Mass Collaboration
Changes Everything
Don Tapscott
Anthony D. Williams
 まず副題を見るとわかるが、原書と訳書とで差がある。原書副題How Mass Collaboration Changes Everythingでは「どのようにマスコラボレーションがすべてを変えるか」として、変化がすべてに及ぶとしている。
 これに対して訳書では「マスコラボレーションによる開発・生産の世紀へ」として、その経済現象的な側面と新時代が強調されている。経済的・市場な側面への関心を喚起していると言える。このため、「Wikinomics:ウィキノミクス」という新語を「Wiki+economics」つまり、レーガノミックスのように、「ウィキ経済学」と理解したい傾向も生じうるし、普通の英語の語感としてもその含みを持つ。韓国語版のウィキペディアを見ると、韓国ではそのような訳語があった。

cover
ウィキノミクス
マスコラボレーション
による開発・生産の世紀へ
ダン・タプスコット
アンソニー・D・ウイリアムズ
井口耕二
 しかし本書では、Wikinomicsの語解釈として明示的に経済(economics)を示唆している文章はなく、この新語が経済面の限定性を強調しているかは判断しづらい。語形成としては単純にErgonomicsのように、Wiki+nomics、つまり、基幹となる語にギリシア語のノモスを追加した造語であろう。ノモスの語感をオモテに出して訳せば「ウィキ秩序」となるかもしれない。とはいえ本書全体からは、やはり経済的な世界の側面を描いていると受け止めてよいので、ウィキ経済学といった解釈もあるだろう。
 Wikinomics(ウィキノミクス)という新語のもう一つのポイントは頭4文字のWikiという言葉にある。誤解しやすいのだが、WikinomicsのWikiとは、Web技術者がWikiとして理解しているCMS(コンテンツ・マネジメント・システム)ではなく、元になるハワイ語の語源的な意味「素早い」もそれほど関連していない。むしろ、このWikiはWikipedeia(ウィキペディア)を連想させるための造語のようだ。ウィキノミクスでは、オンライン百科事典ウィキペディアのように、多数の人が執筆・編集に参加するというイメージが重視されている。

A new art and science of collaboration is emerging --- we call it "wikinomics." We're not just talking about creating online encyclopedias and other documents. A wiki is more than just software for enabling multiple people to edit Web sites. It is a metaphor for a new era of collaboration and participation, one that, as Dylan sings, "will soon shake your windows and rattle your walls." The times are, in fact, a changin'.
(共同作業を進めるための新しい技芸と知識が出現してきている。それを私たちは、ウィキノミクスと呼ぼう。私たちは単にオンライン上の百科事典やその他の文書を作成することについて語るつもりはない。wikiなるものは、単にWebサイトを多数の人が編集可能にするソフトウェア以上のものである。それは、共同作業と参画の新時代の比喩となるものだ。ボブ・ディランが「君の窓は震え、君の壁は崩れる」と歌ったように、本当に「時代は変わる」。)

 具体的に本書において、Wikinomics(ウィキノミクス)はどのように定義されているだろうか?
 明示的な定義の説明はないためわかりづらい。事実上の初出は序にある次の文脈である。

To succeed, it will not be sufficient to simply intensify existing management strategies. Leaders must think differently about how to compete and be profitable, and embrace a new art and science of collaboration we call wikinomics. This is more than open source, social networking, so called crowdsourcing, smart mobs, crowd wisdom, or other ideas that touch upon the subject. Rather, we are talking about deep changes in the structure and modus operandi of the corporation and our economy, based on new competitive principles such as openness, peering, sharing, and acting globally.
(既存の経営戦略を単に強化することは成功のための十分条件ではなくなってくる。指導者は、競争と利益体質の手法について考え方を変え、私たちがウィキノミクスと呼ぶ共同作業を進めるための新しい技芸と知識を採用することが必要になる。これは、オープンソース、ソーシャルネットワーキング、クラウドソーシングなるもの、スマートモブ、集合知、その他、このテーマに寄せられる各種の考え方を越えるものだ。むしろ私たちが語ろうとしているものは、法人や社会経済の構造や活動形態の根底的な変化であり、それは、オープン性、ピアリング性、共有性、グローバル性など新しい競争原理に基づく。)

 先の引用部にも見られたように、Wikinomicsの文脈では、"a new art and science of collaboration"というフレーズが表れている。これをもってウィキノミクスの定義としてよいだろう。
 試訳では「共同作業を進めるための新しい技芸と知識」としたが、artは「極東ブログ: 教養について」(参照)で触れたように、教養と人文学の語感があり、これに対して、scienceは知識と自然科学の語感がある。別の言い方をすれば、artは経験から徒弟的に学ぶものであり、知識はデータベースや体系として整備できるものだ。この語感をウィキノミクスという言葉に反照させると、そこに感性を通して経験的に取得される部分と、知識として整理して学習される部分の二面になる。もっとも、このart and scienceは決まり切った言い回しなのでそれほど分けて考えなくてもよいかもしれない。
 ウィキノミクスでは、この新しい技芸と知識が共同作業(コラボレーション)に向けられていることから、ここでウィキノミクスの文脈における共同作業の理解が重要になる。それは通常の共同作業とは異なる。

Word association test: What's the first thing that comes to mind when you hear the word “collaboration”? If you're like most people, you conjure up images of people working together happily and productively. In everyday life, we collaborate with fellow parents at a PTA meeting, with other students on a class project, or with neighbors to protect and enhance our communities. In business we collaborate with coworkers at the office, with partners in the supply chain, and within teams that traverse departmental and organizational silos. We collaborate on research projects, work together to make a big sale, or plan a new marketing campaign.
(言葉の連想をしてみよう。あなたが「共同作業」という言葉を聞いたとき最初に思い浮かぶことは何だろうか? 多数の人は、人々が楽しく生産的に共同で作業をしている状況が思い浮かぶだろう。日常生活では、PTA会合で子どもの親たちと共同作業をしたり、学生なら学級活動で共同作業をしたり、地域活動なら隣人どうしで地域の安全や改善に共同作業をするものだ。ビジネスにおいては、仕事場で同僚と共同作業をするし、流通上の関係者とも共同作業をする。部門や組織の枠組みを超えたチームの一員となることもある。私たちは、研究や、大売り出し、新商品の販促活動などで共同作業をするものだ。)

Google CEO Eric Schmidt, says, "When you say ‘collaboration,' the average forty-five-year-old thinks they know what you're talking about --- teams sitting down, having a nice conversation with nice objectives and a nice attitude. That's what collaboration means to most people." We're talking about something dramatically different.
(グーグルの最高責任者エリック・シュミットは、「共同作業という言葉で45歳以上の人が考えるのは、チームが会席して、お上品な態度でお上品な目的についてお上品に語り合うといったものでしょう。それが多くの人にとって共同作業の意味でしょう」と語る。しかし、私たち語るのは、それとはまったく異なる。)


 ウィキノミクスにおける「共同作業」は、通常の意味のそれではないという。では、それはなんだろうか? 先の文脈はこう続く。

We're talking about something dramatically different. The new promise of collaboration is that with peer production we will harness human skill, ingenuity, and intelligence more efficiently and effectively than anything we have witnessed previously.
(しかし、私たち語るのは、それとはまったく異なったものだ。共同作業に新しく期待されていることは、ピアプロダクションによって、人間の技術や創意の能力や知性について、従来当たり前とされた状態を越えて、より効率的かつ効果的にその可能性を活用することなのだ。)

 この説明と用語が難解に思えるが、二つ要点があるだろう。一つは、ピア(peer)ということだ。この点については後で触れる。もう一つは、ハーネス(harness)という言葉とその語感だ。私の誤解かもしれないが、この用語の独自な含みはマイケル・ポランニの哲学に由来よるものだろう。ポランニはこの言葉を創発の哲学の主要な原理とした。ハーネス(harness)とは、馬に比喩される本源的な過剰な力を馬具(harness)によってより有用な動力源に変えることだ。
 ピア(peer)は本書ではより重要な概念になっている。ウィキノミクスにおける共同作業、あるいは多数を巻き込むマスコラボレーションは、ピアプロダクション(peer production)とも言い換えられるからだ。本書では次の注釈が最初の注釈となっている。

The term "peer production" was coined by Yele professor Yochai Benkler. See Yochai Benkler, "Coase's Penguin, or Linux and the Nature of the Firm", Yele Law Journal, vol.112,(2002-2003). Throughout the book we use peer production and mass collaboration interchangeably.
(ピアプロダクションという用語を造語したのは、イェール大学ヨハイ・ベンクラー博士である。Yochai Benkler, "Coase's Penguin, or Linux and the Nature of the Firm", Yele Law Journal, vol.112,(2002-2003).を参照のこと。本書では一貫して私たちはピアプロダクションという言葉をマスコラボレーションと同じ意味で使っている。)

 ウィキノミクスという共同作業が他の共同作業と異なる側面を持つことを明示するのが、ピアプロダクションだと言える。では、ピアプロダクションとは何だろうか。
 ここでピアプロダクションの定義以前に、ウィキノミクス(Wikinomics)という新語の比喩(メタファー)が活きている点に注意を促したい。つまり、ウィキペディアをピア(仲間)がよってたかって共同作業で創作するというイメージがある。
 ピアプロダクション定義に移ろう。

Before we launch into the stories of the peer pioneers, a few words about peer production are in order. First of all, what is it and how does it works?
(ピアプロダクションの諸相を物語り始める前に、この言葉について補足しておくほうがよい。一体全体、この言葉は何で、どのように使われるのだろうか?)

In its purest form, it is a way of producting goods and services that relies entirely on self-organizing, egalitarian communities of individuals who come togather voluntarily to produce a shared outcome.
(理念型として考えるなら、ピアプロダクションとは、共用できる産物を生み出すために自発的に集まった個々人からなる、自己組織的で平等なコミュニティに全面的に依拠することで、商品やサービスを生産する手法である。)


 訳がこなれていないせいもあるが、イメージとしては、やはりウィキペディアを作り上げる個々人とその集団を想定するといいだろう。ピアプロダクションは、共有できる物を生み出すために、個人個人が平等の立場(ピア=仲間=同等)で集い、共同作業をすることだ。
 ウィキノミクスの理念型は、本書では4つの基本原理としても提示されている。補足を含めてリストしておこう。

  1. Being Open(オープン性:参加に開放されていること)
  2. Peering(ピアリング性:参加者は本質的に対等であること)
  3. Sharing(共有性:古い著作権・知的所有権の考えを抑制すること)
  4. Acting Globally(グローバル性:国境を越えて共同作業すること)

 以上、ウィキノミクスの基本的な部分にこだわったが、こうした文脈から、ウィキノミクスとは、マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(参照)に描かれる、プロテスタンティズムの倫理、つまり、プロテスタントのエートスにも似た、新時代のエートスとしても考察できるだろうし、それは資本主義を超えていくといった構図も見えてくるだろう。
 本書はしかし社会学的な考察よりも、より具体的なイメージを結びやすい記述が多く、ある意味でアルビン・トフラーの「未来の衝撃」(参照)や「第三の波」(参照)に近い。特に本書においてトフラーが造語したプロシューマーという概念は、第5章の章題となり一章が充てられている。つまり、ピアプロダクションとしてプロシューマーが位置づけられている。
 他に、ピアプロダクションは本書において7つの典型例が提示され、それぞれに一章が充てられている。全体の章構成との関連で確認しておこう。

  1. Wikinomics(ウィキノミクス)
  2. The Perfect Storm(完全な嵐)
  3. The Peer Pioneers(ピアの開拓者)
  4. Ideagoras(アイデアゴラ)
  5. The Prosumers(プロシューマー)
  6. The New Alexandrians(新アレキサンドリア人)
  7. Platforms for Participation(参加のためのプラットフォーム)
  8. The Global Plant Floor(グローバル工場)
  9. The Wiki Workplace(ウィキ的作業場)
  10. Collaborative Minds(共同志向の考え方)
  11. The Wikinomics Playbook(ウィキノミクス脚本)

 ピアプロダクションの7つの典型例が、第3章 The Peer Pioneers(ピアの開拓者)から第9章 The Wiki Workplace(ウィキ的作業場)に割り当てられており、それらは、具体的にピアプロダクションの具体的な事例の連載として読める。ある程度ウィキノミクスの基本概念が理解できたなら、これらの章は折に触れて関心の向く部分からランダムに読んでも問題ないだろう。それぞれのテーマはウィキノミクスとしてくくらずそれぞれの範囲のなかで読んだとしても十分に興味深い。
 逆に、ウィキノミクスという概念は、序章、第1章 Wikinomics(ウィキノミクス)、第2章 The Perfect Storm(完全な嵐)、および第9章の Collaborative Minds(共同志向の考え方)の4つの章にまとまっているので、ウィキノミクスを理解するにはこの部分を丹念に読む必要があるだろう。補足すると、第1章 Wikinomics(ウィキノミクス)は読みやすいが、第2章 The Perfect Storm(完全な嵐)は重要な記述が多いわりに構成的にはやや錯綜した印象もあるかもしれない。だが、この章にリストされる次の3点は留意しておきたい。

  1. the rise of the second-generation Internet(第二世代インターネットの興隆)
  2. the comming of age of a new generation of collabollation(コラボレーション新世代の到来)
  3. the collaboration economy(コラボレーションの経済)

 1点目のthe rise of the second-generation Internet(第二世代インターネットの興隆)は事実上、Web2.0と呼ばれる動向に等しい。2点目のthe comming of age of a new generation of collabollation(コラボレーション新世代の到来)は本書の著者の一人タプスコットの前著「デジタルチルドレン」(参照)とも重なる。日本では「75世代」と呼ばれる世代に近いだろう。三点目のthe collaboration economy(コラボレーションの経済)が本書全体から見ても、一つの山場を形成しており、企業人はこの部分だけでも一読しておくべだろう。
 具体的にウィキノミクスによる大きな変化にどう対応するかに触れてエントリを終わりにしたい。
 企業は、大きな潮流となるウィキノミクスに逆らうことは事実上できないので、逆に積極的にウィキノミクスを志向していくほうがよい。そのための指針が第9章の Collaborative Minds(共同志向の考え方)にまとめられている。大著のウィキノミクスだが、この部分が結論だとも言える。

  • Taking cues from your lead users(先導的なユーザーたちから解決の糸口を得る)
  • Building critical mass(一定規模の集団を作り上げる)
  • Supplying an infrastructure for collaboration(共同作業のための基本ツールを提供する)
  • Take your time to get the structures and governance right(コミュニティ機構と運営の権限を獲得したいなら十分時間をかけること)
  • Make sure all participants can harvest some value(参加者すべてにそれなりの見返りを約束すること)
  • Abide by community norms(コミュニティのローカルルールに従うこと)
  • Let the progress evolve(コミュニティ自身の発展に口出ししないこと)
  • Hone your collaborative mind(共同志向の考え方を洗練させること)

 指針の詳細は本書を読めばわかるが、もし企業人、特に企業経営者なら、オープンソースに関わる社内エンジニアを一人呼び出し簡単な関連の質問をすれば、そのエンジニアがウィキノミクスという大著を読まずに、これらの指針の詳細を明確に伝えることができることを理解するだろう。ウィキノミクスは、多くのITエンジニアにとってすでに常識として飽和した感覚に対して、秩序と実例を含めて詳細に叙述したにすぎないとも言えるはずだ。

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2007.05.23

[書評]嘘だらけのヨーロッパ製世界史(岸田秀)

 この手のトンデモ本を読むのもなんだなあと思いつつ、酔狂の部類でいいかとも思いつつ、それでも「嘘だらけのヨーロッパ製世界史(岸田秀)」(参照)は、購入前にブログでの書評とかもあまりないとかざっくり調べた。っていうか、アルファーブロガーに献本しないと書評の出ない時代になるかもかもかも(なわけないです)。

cover
嘘だらけの
ヨーロッパ製世界史
 この手の本はアマゾンの素人評もハズレが多いし、偶然だと思うが私も書店でなんとなく見かけなかったが、まあいいやと思って別の本の購入に合わせてアマゾンで購入。結論から言うと、ちょっと微妙なところはあるにせよ、良書でした。
 岸田秀という癖のある著者に拘泥せず、普通に歴史に関心ある人は買って読んで損はない。という理由を述べておくと、マーティン・バナール(参照)の、あのめんどくさくかつ膨大な「黒いアテネ」の二巻分、つまり、一巻目の「ブラック・アテナ 1―古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ (1)」(参照)と、二巻目の「黒いアテナ―古典文明のアフロ・アジア的ルーツ」(参照上参照下)はもとより、その批判についての簡易なサマリー本になっているからだ。特に、なにかと目がつく、バナール破れたりみたいな批判の類型についても、岸田は丹念にまとめているので、論争の全体構造がわかりやすい。
 問題点はある。岸田のまとめでいいのかというと、その判定がしづらい。原書や批判論文を原文で読めよというのが正解だが、現実のところそこまでするのは、日本では院生とかその類だろう。また、岸田はバナールとバナール批判の双方にコメントをしているがそのあたりは、あってしかるべきだろうが、その評価も難しいには難しい。ただ、概ね、岸田の読みが存外に自己視点を外して冷ややかに見ている面で良いのと、その冷ややかさを一気にはずして妄想じゃね?の部分のコントラストが激しく困惑する。
 別の言い方をすると、各論点のサマリーとコメントに留めておけばいいのに、彼にとっては関心や関係性があるのだろうが、普通の知識人には関係のない話が諸処にぐちゃぐちゃと脈絡なく書き込まれてこれが辟易とするにはする。特に、黒人の一部がアルビノ(白子)となって白人が発生した説については、事実上本書と関係ないので、そのあたりは笑ってスルーして読むといいだろう。
 とはいえ、岸田の思い入れの側からこの本を読むと、特に、近代日本史の関連で読むと、実に奇妙な味わいのある本ではある。率直にいうと、ある種の狂気のようなどろっとした迫力があってかなり気持ち悪い。ただ、この部分に本書の真価があるという評価もあってもいいのかもしれない。私は率直に言うと、その部分については触れたくない。それとかなり率直に言うと、本書は高校生とかあるいは現代では大学生か、そのレベルのお子様に読ませるにはかなり危険な本だと思う。岸田はある経緯を経てああいう知的怪物になったのだが、その怪物性だけを若い知性に移植しがちな強さが本書にはある。
 話を戻して、バナール説だが、黒いアテネという言葉が示すように、古代ギリシア文明はエジプトの黒人による文化だ、それを近代西洋が無理に近代西洋幻想に結合してしまったという話で、単純にわかるように、それって実証論なのか、イデオロギーないしイデオロギー批判なのか、という奇妙なねじれのようなものがある。困ったことに、このねじれこそが問題の核心だという点だ。
 ぐちゃぐちゃ言ったが、バナール説については、普通の知識人なら知っておくべきなので、それがチートシート的に読めるという程度で本書は読んでおいていいと思う。繰り返すが、岸田の理解でバナールの論争とかに突っ込むのはだめだめ。

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2007.05.22

米国のクレジットカードの話

 米国のクレジットカードの話。私よりもたーんと詳しいかたがいらっしゃるでしょうが、19日付けの、ニューヨークタイムズ”Couple Learn the High Price of Easy Credit(ご夫妻は簡易なクレジットカードが高くつくことを学んだ)”(参照・要登録)という記事が、なんとなく心に引っかかっていたのでその話題を少し。
 記事は、モーラリング夫妻(と読むのか、Moellering)の話。夫39歳、妻40歳。幼い子どもがいる。結婚は04年。そのご夫妻が話が記事のきっかけなっている。


Ms. Moellering, and her husband, Mark, 39, earn average salaries for their age (together about $66,000 a year), live in an average-priced home and have an average cost of living. But like many other households these days, they have found that their day-to-day economic life has come to depend not just on how much they earn or spend, but also on how well they shuffle what they owe among a broad array of credit cards, home equity loans and other lines of credit.
(モーラリング夫人と39歳の夫マークは彼らの年齢では平均的な収入を得ている。二人合わせて年収800万円ほど。暮らしている家も普通の価格だし、生活費も普通。しかし、現代の他の家庭が多くそうであるように、日々の家計は収入と支出に拠っているというより、いかにして多岐にわたるクレジットカードや、住宅担保ローン、そのほかの借金を使い回すかに拠っている。)

 このあたり、たぶん微妙に日本人にはわかりにくいのではないかと思った。というのと、当初この記事の概要をポッドキャスティングで聞いたとき、貧困より問題みたいな含みを感じて、へぇと思ったのだった。もう少し引用を続ける。

Behind closed doors, the decisions families like the Moellerings make about their debt --- when to pay it off, when to shuffle it to lower-interest sources and when to let it revolve and build --- can determine how much their salaries are worth. Like many others, the Moellerings have run up avoidable penalties and occasionally spent themselves into more debt or higher interest rates, even as they have tried to juggle other balances to bring down their monthly payments.
(モーラリング家が負債についてこっそりと下した決断、つまり何時清算期限を延期するか、何時低金利のものに混ぜるか、何時リヴォルヴとビルドにするか、それらが給与の価値を決めている。他の家庭も同様にモーラリング家も、回避可能なペナルティに近づいているし、時にはより多くの借金をしたり、高金利に手を出したりする。まるで各種の月払いのバランスを取るためにジャグリングしてきたような状態だ。)

 というわけで当面の問題は、やりくりということになってはいるのだが、日本語でいう「やりくり」とは違う。こうした状況に普通の家庭が置かれるようになったのは、80年代以降のことといった言及もあるが、結論を先にいうと、日本もこれからこうふうになるのだろう。
 もう一カ所だけ引用する。

“It's a whole change in what we consider normal now,” said Vanessa G. Perry, an assistant professor of marketing at the George Washington University School of Business. “Not only has the total amount people borrow increased, but the number of instruments we borrow on has increased. An average family has a mortgage, home equity loan, various credit cards, a car loan, maybe a student loan.”
(ジョージ・ワシントン大学ビジネス校のペリー準教授によると、「現状は我々が正常だと見なせる全体が変化している」とのこと。さらに、「人々の借金の総額が増えたのではなく、借金の手法が増えたのです。普通の家庭なら、不動産担保貸付、住宅担保ローン、各種のクレジットカード、自動車ローン、学生ローンなどが選べます。」)

 話を自分なりに整理すると、というか普通の日本人からは見えてないだろう部分を自分なり補うと、まず当面の問題は、米国人は借金しまくりの手法がたんとある。特に、持ち家をベースに借金できるし、借金には金利がいろいろあるので借り換えなどのやりくりができる。そして、どうやら普通の家庭だと社会的ステータスの関連でクレジットカードで借金しないといけない雰囲気になっている(追記 そうでもないとのコメントをいただきました)。さらに、これらの借金は大半がリヴォルヴィングなので、月毎の支払いと借金の全体像の関連が取りづらい(これは借金が多岐にわたることにも関係)。さらにさらに、こうした支払いが日本みたいに自動引き落としになってない。
 このあたりの話、これだけブログがあるんだから少し身近に見えないものかと見回すと、いくつか参考になる話があった。
 ブログ「アメリカでがんばりましょう」の「クレジットカードが変わった」(参照)という03年のエントリより。

クレジットカードはアメリカでは借金として考えられています。日本と違って申し込み時に銀行口座を教える必要も無く、支払いも毎月何日に銀行口座引き落としなんてことは普通できません。なので、貸すほうは踏みたおされないように厳しい審査をしてきます。

審査で重要視されることは、日本のように定職についてるかじゃなく、これまでの借金歴。クレジットヒストリと呼ばれるこの借金歴は信用ある会社(例えば Equifax, Experian, Fico (Fair Isaac)といった会社が大手) が国民背番号である Social Security Number (通称 SSN) を使って全米の人の借金情報を管理して、これまでの統計からクレジットスコアというもので数値化します。この数値をもとに発行会社がこの人にクレジットカードを作ってもよい(=お金を貸してもよい)かを判断するわけです。


 これに関連して以前NHKの海外ドキュメンタリーかなにかで見たのだけど、クレジットスコアが金利に関係している。つまり、スコアを落とすと金利が上がる。でも、リヴォルヴィングなので知らぬは当人で、泥沼。
 ブログ「On Off and Beyond」の「クレジットカード支払い怖い」(参照)のエントリも日本人ならではの感想が共感できる。

アメリカで働き、生きていくために最も重要なものは:

1)ビザ
2)クレジットヒストリー

この二つさえあれば何とでもなる。前者はまぁ当たり前だが、後者は、住宅ローンの借り入れでもチェックされるし、賃貸でも大家さんからのチェックが入る。就職するときも勤め先からチェックされる。お金を盛大に借りて、盛大に使うとどんどん点数が上がるのだが、クレジットカードを作るのにもヒストリーがいるので、最初は「にわとりたまご問題」に悩むこととなる。つまり、ヒストリーが無いからカードが作れず、カードが無いからヒストリーができない、という・・・。(これについては、限度額相応の現金を預託しておいてカードを作るという手があるのだが。)

とにかく、クレジットヒストリーは、アメリカで生きていくための人間としての点数みたいなもんで、とにかく、これがないと人生いろいろ大変なのである。


 皮肉な含み無く日本人だなと思うのは、「限度額相応の現金を預託しておいてカードを作る」と考えてしまう点だ(追記 コメントいただきました。移民の場合この手しかとれないとこのこと)。米国だと金利は生き物なので、借金をうまく使いこなせるのがマネー技能になっている。
 先にちょろっと書いたけど、日本もこういうクレジット地獄といった時代になるのだろうと思うし、産業界というか金融界というかジャパン・アドミニストレーターズは望んでいるのだろう。
 格差とか相対的貧困とかの議論が日本では盛んだが、実質はそういうのをスルーしてこういうシステムが日本社会に埋め込まれるようになるのだろう。
 いや、そうでもないかな。税金も引き落としの日本人だしな、もうちょっと違った地獄がプランされるのかも。

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2007.05.20

よくある手作り豆腐なんだけどね

 先日スーパーマーケットを見ていたら棚ににがりがあった。へぇなんか懐かしいと思って、豆乳を合わせて買って、早速手作り豆腐を作った。簡単にできる。普通の電子レンジでチン。それで旨い。やっぱ、自分で作った豆腐が旨いやと思った。もっとも、いくら旨いとはいっても、技術のある豆腐屋さんの豆腐にはまるでかなわない。なにしろ手作り豆腐は、なんというか、茶わん蒸しみたいなとろ~り系なのだ。クリ~ミィっていうか。そんな感じ。沖縄のゆし豆腐みたいなもん。本土では寄せ豆腐というのか汲み出し豆腐というのか。
 作り方はネットを検索するといろいろ出てくる。私がネタにするまでもないなあと思ったのだけど、意外に重要なことが書いてないのというのと、それに関係するのだけど、微妙に作り方が違う。じゃ、ちょっと書いておこうか。
 一番重要なこと。豆腐作りは最初、必ずといってほど、なぜか失敗する。いろいろ理由はあるんだけど。で、失敗のようすを見て、にがりの量とか加熱時間とか調整する。つまり、一発でグッドといかないことが多いよ、めげないように。
 それと、大豆から作るのはやめたほうがいい。経験者が言うのだから、ほんと。っていうか、いろいろ装置はあるのだけどなにかとめんどくさい。続かない。スタート地点は豆乳からね。
 豆乳は固形分10%の無調整のものならたいていなんでも使える。いや高橋陽子先生によると調整豆乳バナナ味でもできちゃうみたいだから、それはそれでちょっと微妙なデザートに仕上がるかもしれないので、科学の心の人は試してみるといいかも。ってか、俺もやってみっかな。
 にがりがけっこう問題。塩化マグネシウムならいいのだけど、濃度の基準っていうのがないのかこの業界。なので、買うときラベルとかよく読む。すると、指示が書いてあることが多い。今回使った赤穂化成のだと、成分無調整の豆乳200mlに10ml~12mlとある。小さじ2杯だ。あー、言うまでもないが、小さじというのは計量サジのこと。持ってない人は買っておいて吉。ラベルの指示がなくてもこの割合でとりあえずやってみるといい。

 さて、作り方。豆乳200mlを計量してこれににがりを10ml(小さじ2)を入れて、泡が立たないようにていねいに混ぜる。豆乳はできたら常温がよい。
 これをお茶碗みたいのに入れる。陶器とか耐熱ガラスとか電子レンジで使えるのならなんでもよい。ラップする。
 電子レンジは500Wで2分。
 それから自然に熱が落ち着くまで3分待つ。計5分といったところか。
 場合によっては加熱時間を一分増やすとか、にがりの量を調整するとか。そのあたり、フォーミュラができるまではちょっと苦戦するかも。

 これにそばつゆとか、卵豆腐のつゆとかかけてスプーンで召し上がれ、と。この季節、作って冷やしておくと、旨いです。
 ゆるくできることが多いので、取り出していわゆる冷や奴みたいにするのは難しい。まあ、やりたければトライ&エラーで挑戦してみるといいけど。
 あと、これをそーっとみそ汁に入れるとうまかったりする。沖縄のゆし豆腐っぽい。

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2007.05.19

愛知立てこもり発砲事件、雑感

 愛知立てこもり発砲事件についてぼんやりと思う雑感を時代のログとして書いておく。毎度ながら大した話はない。
 この事件に私は関心を持ってなかったのだが、今朝の大手紙の社説で事件が悲劇的に終わったことを知った。各社説から事件のニュースをいくつかあらためて読んだが、特に心にひっかかるものはない。事態がよくわからないというのが率直な印象だが、何が事件だったかとあらためて問えば、二十三歳の未来有るSAT隊員の林一歩警部が無念の殉職をされたことになるだろうと思う。哀悼したい。
 なぜこの悲劇に至ったのか気になるところだが、朝日新聞社説”立てこもり事件 銃と暴力団を追いつめよ”(参照)では標題どおり暴力団と銃器の問題という枠組みに押し込んでいる。確かにそれも問題には違いないが、統計上は同社説が触れているように銃器については日本社会からは減少している。だが、発砲事件が今年28件ということを根拠に、「銃が大量に出回っているのに、警察が発見できなくなっているということだろう」と主張するのは、私には奇妙な論理には思える。他、気になる指摘としては、「防弾衣や盾などの装備や隊員の配置は適切だったのか」という問いかけがある。そのあたりはどうだったのだろうか。
 はてなブックマーク(参照)の今日のトップの話題に”My Diary 2007年4月26日(木)/「町田市立てこもり事件」のヤバい内幕”(参照)が上がっていたので、なにか防弾チョッキについて構造的な問題の裏話でもあるのかと思って読んだが、私にはよくわからなかった。別の事柄のような印象も受けた。というのも今回林警部が殉職されたのは、防弾チョッキ隙間が原因だったらしく、それが事実ならどう受けとめていいのか、やはりそれも防弾チョッキの構造の問題なのか、そこを撃たれないように行動すべきという意味での指示の問題か、偶然的なものか。雑駁な印象にすぎないが偶然的な要素が強いように感じられる。
 読売新聞社説”籠城発砲事件 多くの疑問が残った警察の対応”(参照)では、たぶんこの事件を聞いて誰もが思う疑問を率直に述べていた。


 現場の状況が分からないから軽々には言えないが、籠城男を狙撃するなど、早期解決の方法はなかったのか。
 

 そしてこの早期解決の方法こそが、私の主観に過ぎないといえばそうなのだが、朝日新聞社説なかで結局、語るまいとされていた部分のように思えた。
 なぜ「籠城男を狙撃するなど、早期解決の方法はなかった」という理由がごく自然に理解できるのは、たぶん、私のように(今回の犯人もたまたまそうだが)五十歳以上の日本人ではないかと思う。ちょっとひねくれた言い方をすれば、読売新聞がばっくれてしらっと語っている背後をきちんと読めるのは、もう五十歳以上になってしまった。その意味で、そうした背景を語らず、狙撃もありだよねというばっくれ方には疑問を持つ。
 この問題の歴史背景について、いくつか資料を探しているうちに、そうだウィキペディアにあるのではないかと検索したらあった。瀬戸内シージャック事件(参照)である。

瀬戸内シージャック事件(せとうちしーじゃっくじけん)とは、1970年(昭和45年)5月12日に発生した、旅客船乗っ取り事件である。また別名を「ぷりんす号シージャック事件」ともいう。

 事件の季節が今頃に近いのが因縁深く思えるが、この事件には後に小説化・映画化されるなど、いろいろと奥行きがあるものの、市民社会との関わりでは、日本で戦後初の犯人狙撃・射殺だった点が重要だ。

この事件は単独犯による犯行であり、日本で戦後初の犯人狙撃・射殺によって人質を救出した事件となった。

 戦後初の犯人狙撃・射殺という点はその後も尾を引いた。

事件後、自由人権協会北海道支部所属の弁護士(下坂浩介、入江五郎)が、狙撃手を殺人罪で広島地検へ告発した。広島地検は狙撃手の行為を刑法36条の正当防衛及び刑法35条正当行為として不起訴処分にしたが、弁護士側は不服として広島地裁に準起訴処分を取ったが棄却され無罪が確定した。これ以降起こった日本の事件では、犯人が銃器等で武装している場合でも、なかなか射撃命令が下されなくなり、1972年のあさま山荘事件では、犯人からの一方的な攻撃で、警察官が殉職するといった事態を招いた。

 射撃命令が事実上禁忌とされたことも遠因となり、警察官殉職になった。もう少し引用を続ける。

この事件を教訓とした結果、1979年に発生した三菱銀行人質事件では、一人の狙撃手ではなく、大勢で一斉に狙撃をすることにより、誰が致命傷を負わせ、射殺したのか分からなくするようにした。世界的には珍しい対応である。

この事件以降、日本の警察は、狙撃の態勢は取るものの、射撃の命令には極めて慎重になった


 実際上、こうした事件の担当者としては、狙撃命令を回避して済ませるなら済ませたいだろうし、毎日新聞”愛知立てこもり:重傷の巡査部長、防弾チョッキ着用せず”(参照)などを読むと、やはり今後も犯人狙撃・射殺という手法を上位の解決手法とするような動向にはならないだろう。

 元警察庁警備局長、瀬川勝久さんの話 警察は早く動きたかったろうが、人質もいるし、倒れた警察官は無防備だからまた撃たれる危険もあった。夜の救出はギリギリの判断だったのではないか。容疑者を無事に逮捕し、裁判にかけるのが第一目標だ。今後、類似事案が起きたときにどう対応するかだ。

 元内閣安全保障室長、佐々淳行さんの話 最初の通報で駆け付けた巡査部長が撃たれた後の対応は納得できないことばかりだ。約5時間も巡査部長を救助せずにいたことは信じられない。警察官の人命は尊重されないのか。さらに、SAT隊員が撃たれた際も、どうして反撃や突入をしなかったのか。


 佐々淳行元内閣安全保障室長のコメントには多少問題への煽りの印象も受ける。だが、現場の警察としては、俺たちの人命は尊重されるわけないよなという空気が満ちてくるだろうし、おそらく今回の事件は、類似の事件が連鎖しなければ、そういうこともあったというふうに風化していくのだろうと思う。

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2007.05.18

[書評]120%人に好かれる! ハッピー・ルール 即効! 1分間で自分を磨く本(中谷彰宏)

 実はこの歳になるまで中谷彰宏の本を一冊も読んだことがなかった。先日、駅の売店的な本屋で平積みみたいになっていたのを見たら、書名「120%人に好かれる! ハッピー・ルール 即効! 1分間で自分を磨く本(中谷彰宏)」(参照)の、そのあまりな超論理性にくらくらと来て気が付いたときは買っていた。はっ!

cover
120%人に好かれる!
ハッピー・ルール
即効!1分間で
自分を磨く本
中谷彰宏
 120%人に好かれる!というのは、たぶん20%の折り返し地点で嫌わるということではないかとかぼんやり考えて、まあそれでも半々よりもいいし、なにしろ一分間で自分を磨く本っていうのもすごいなと思った。自動車のスピード洗車だって一分じゃできないし、急ぎの散髪スタンドだって十分間。で、じゃあ一分読んでみようと読んだら、またまたくらっときた。くらくら。すげーことテンコモリで書いてあるぞ。少し紹介しちゃうぞ。
 まず、恋は、反射神経だ、だ。なんか、もっとフォントサイズを上げたり、べたに朱色にしたい感じもするけど、そういうブログじゃないんだよここ、っていうか、恋は、反射神経だ、だ。

 恋愛においても仕事においても大切なのは、反射神経です。


 親しい人から「あっ」と髪の毛にさわられる。
 その伸ばした手を引っ込めつつ、「髪、すごくきれいだね」と言われるのは、悪くありません。
 でも、いくら親しい人でも「髪の毛、触ってもいいですか?」と許可をとられるのは、気持ち悪い。
 人によっては、痴漢かセクハラと同じだととらえます。
 スキンシップがうまい人は、軽くタッチしたあと「あっ、すみません。さわっちゃった」とすぐに言葉が続きます。
 こういうさわり方には、好感が持てます。

 な、な、な、わけねーだろぉぉぉ。
 と脊髄反射してしまった私はだめだめの反射神経なんですよ。で、こう続く。

 こういうさわり方には、好感が持てます。
 これは、反射神経が鋭いか、鈍いかの差です。
 気がついたらキスしていた、気がついたらベッドの中にいたというのも、全部反射神経の連続で起きていることです。

 いや、そーかもしれん、それ、私が、50年の人生で、知らなかったことの一つかもしれない、ってか、フツーの青春っていうのは、そーゆーもんだったのか?
 ついでに、外人が挨拶で抱き合っているときは、本当は強く抱き合ってないという国際マナーの説明なんかもあってとても勉強になります。そりゃプーチンと金正日がぎゅっと抱き合うかなと疑問に思っていたし。
 この先も説得力あるぞ。

 「キスしていいですか?」と聞くのは、前もって相手に許可をとることで、自分のリスクを回避しようとしているのです。
 「していいと言ったのは、あなたでしょ」と弁護するためです。
 同じように、「君はどうされたいの?」と聞くのも、ずるい言い方。

 ああ、このあたりは、そうでしょう。うんうん。いや経験ないけど、そーゆー。いや、頭で理解できるっつうことですよ、つまり、恋で傷つくかもしれない自分のリスクっていうのを回避していてたら、恋はできないのでしょう、っつことで。なので、恋というのは、反射神経でというのになんか納得するなというか。納得していいのか、俺。
 でも勉強になるなぁ。他に「デートの直前に、確認してくれる男性に、女性は安心感を覚える」とか、ああ、そうなんだろうな。

 男性は、「○月×日△時、ごはんを食べましょう」と言うと、その時間まで、もう連絡しません。
 「時間も場所も、ちゃんと確認しているでしょう」というのが男性の言い分です。
 でも、女性の感覚は違うのです。
 リコンファームが欲しいのです。

 そっかぁ、中谷彰宏って女性だったのか。違う。
 あともう一例。「恋愛と戦争は、メンテナンスが勝負」とか、わはは、痛いな、痛いぞ、世銀のウルフォウィッツ君。いくら頭が良くて、モテても、中谷彰宏を読んでないから人生失敗したのだぞ。

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2007.05.17

日本もカザフスタンのウランにはなりふり構わぬ資源外交

 背景がよくわからないのでためらっていたのだが、とりあえずブログしておこう。話は、先月末の甘利明経済産業大臣によるカザフスタン訪問だ。公式なアナウンスはカザフスタン大使館の”2007年4月29~30日 甘利明経済産業大臣がカザフスタンを訪問
”(参照)があるが、表向きの話ばかり。
 この訪問で、日本のウランの全輸入量に占めるカザフスタンから調達の割合が現在の現在1%から30~40%と大幅にアップする。エネルギー全体の依存度を石油から原子力に転換しないといけない日本のエネルギー事情を考えると、日本のカザフスタンへの依存が洒落にならないくらい大きくなるといえるだろう。
 それでいいのだろうか、というのがまず素朴な疑問で、そこからいろいろと思うことがある。今回の合意はすでに前年小泉元総理の訪問で十分に足固めはしてあるので驚くほどのことはなく、たぶんその筋の専門家にはあたりまえの事実がいろいろあるのだろうが、ニュース報道やネットのリソースを見ている分にはあまり全体像が描けない。なお、カザフスタンは全世界で第二位のウラン埋蔵量を持つ。ちなみに一位はオーストラリアだ。
 「それでいいのか」と思うのは、端的に言えば、カザフスタンはヌルスルタン・ナザルバエフ大統領(参照)による事実上の独裁国家だ。ただし国情は、同じく甘利明経済産業大臣が今回のどさ回りに行ったウズベキスタンとは比べものにならないくらいと言っていいだろう、安定している。懸念なのは、今回の日本の行動は、中国様と同じように、あるいは中国様を真似て、なりふり構わぬ資源外交やってやがんな日本も、としか見えないことだ。この手の資源外交がろくでもない結果になりがちなことについては言うまでもないだろう、というあたり、いいのか日本。
 カザフスタンを取り巻く資源外交で、かつてフィナンシャルタイムズがグレートゲームと評したのは石油のほうだった。この問題については、「極東ブログ: ペトロカザフスタンまわりの話」(参照)で触れた。ベタに言うと中国とウイグル自治区の関連や、米国とロシアの関連もある。このグレートゲームと、今回の日本のウラン外交がどう関連しているか、はっきりとはわかりづらい。単純にいえば、ロシアも中国もカザフスタンについて石油だけではなくウランも狙っていたので、一見日本が二国を出し抜いた形にも見える。
 日本側では、少し調べればわかるように表向き、商社や電力会社が関連している。いちおうニュース記事も引用しておこう。4月30日付け共同”ウラン輸入4割確保へ カザフと共同声明 ”(参照)より。


 世界的に資源獲得競争が激化しウランの価格が急騰する中、埋蔵量が世界2位のカザフを官民約150人で訪問、ウランの安定確保への道筋をつけた。安倍晋三首相も原油の安定調達を目指し財界首脳らと中東を歴訪中で、官民挙げての異例の資源外交が展開された。

 訪問団には電力、商社、メーカーなど29社のトップらが参加。丸紅の勝俣宣夫社長らがウラン鉱山の権益確保で、東芝の西田厚聡社長は原発建設事業での協力で、それぞれ国営「カザトムプロム」と合意。日本側がカザフのウラン燃料加工や、軽水炉建設計画に技術協力をすることでも一致した。


 カザフスタンといえばかつてソ連時代の原爆実験(セミパラチンスク)との関連や「極東ブログ: [書評]沿海州・サハリン近い昔の話―翻弄された朝鮮人の歴史」(参照)で触れた高麗人のネットワークなども連想される。ただの連想に過ぎないのかもしれないが。
 話が粗くなるが、カザフスタンは事実上中ロ同盟のようにも見られた上海協力機構、中国・ロシア・カザフスタン・キルギスタン・タジキスタン・ウズベキスタンの六か国中の一国である。その枠組みは現状どのようになっていて、またカザフスタンはどのような位置にあるのか。もし今回の日本・カザフスタンのウラン合意が、中ロを出し抜くとすれば、どういう図が描けるのか。このあたりがよくわからない。
 上海協力機構についてだが、ウィキペディアを参照すると、説明にちと疑問にも思えた点がある(参照)。まず、02年時点については上海協力機構(SCO)はこう描ける。

2002年6月7日、サンクト・ペテルブルグにおいて、SCO地域対テロ機構の創設に関する協定が署名された。SCO地域対テロ機構執行委員会の書記局は上海に、本部はキルギスの首都ビシュケクに設置する。また同時に、同年初頭の米ブッシュ大統領の悪の枢軸発言に始まる、対テロ戦争拡大の動きを牽制した。

 そしてこの路線で日本で考えられることが多い。ウィキペディアへの疑問点は以下の部分だ。

SCOへの加盟の希望については、モンゴル、インド、パキスタン、アフガニスタン、イランが表明しており、2004年にモンゴル、2005年にインド・パキスタン・イランがSCOのオブザーバー出席の地位を得て、2006年6月の会合によってこれら4カ国は正式に加盟する見込みである。これによって、SCOは中国の国境対策の機構から、中国・ロシア・インドといったユーラシア大陸の潜在的大国の連合体に発展することになり、アメリカに対抗しうる非米同盟(反米ではないことに注意、また当事者がそう断言しているわけではなく、同盟の強制力はない)として成長することは、アフリカや南アメリカの発展途上国・資源国から歓迎されている。また、印パ両国が加盟することで、中印パ3国間の対立の解消も期待されている。2005年にはロシアが中国・インドと相次いで共同軍事演習を行った。

 ウィキペディアの説明が間違っているというのではなく、むしろ括弧内の「反米ではない」という補足のあたりの微妙なブレ感への疑念だ。
 あまり妥当ではないかもしれないが、私の印象を加えれば、反日デモなど反日攻勢を推進していた上海閥の弱体化と、ロシアの資源戦略の好調から、非米同盟な要素はかなり弱くなっているし、カザフスタン側でも、ロシアや中国と微妙な距離を取りたがってきているのではないか。
 英語版の説明には日本語版にない次の言及がある(参照)。

In some Western sources, the Organisation is sometimes referred to as the "Shanghai Cooperative Group" to imply that the organization lacks coherence and authority, usually in the context of the petrodollar.
(西側の報道では、SCGは、上海協力グループとして参照されることがあり、その含みは、通常オイルマネーを背景とした、一貫性と権力の欠如を意味している。)

 この言及は現状ではソースの指定がなく不確かな情報になるようだが、現状の上海協力機構の実態を示しているだろう。
 話が少し飛躍するが、米国はカザフスタンについて資源に目が眩んだかのようにその独裁制について叱責していない。米国がどのようにカザフスタンを巻き込む利権に関係しているのかもよくわからない。ただ、けっこう複雑な図柄になりそうだ。

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2007.05.16

米ペットフード事件に関連した人間の食の問題についてメモ

 米ペットフード事件については特に取り上げてこなかった。単なる中国バッシングでは意味がないことと、化学・医学面でよくわからない点があることだった。後者については、ニュース報道ではあまり見かけないように思われるが、日本語版ウィキペディアのメラミンの項目にあるように、毒性は、メラミン単独ではなくシアヌル酸との化学反応によるものらしい(参照)。


なお2007年に、メラミンが混入された中国企業産ペットフードがアメリカ等に輸出されて犬や猫が主に腎不全で死亡する事件があった。メラミンはペットフード中のタンパク含有量(窒素含有量)を多く見せかけるために混入されたものとみられる。 この毒性はメラミン単独ではなく、シアヌル酸との化学反応により得られた結晶にあったと考えられている。

 より科学的な詳細については、英語版ウィキペディアのMelamineの項目にある”Focus on melamine and cyanuric acid : Melamine”(参照)が詳しい。
 ネット上のリソースとして日本語で読めるものとしては、ホームページ「猫のIBD」(参照)にある”リコールの件”(参照)が詳しい。
 現状の日本人の問題意識としては、このペットフード事件が日本人の通常の食とどう関わるかという点だが、先の”リコールの件”に詳しいが、それほど心配することでもないさそうだ。

人間の食物経路へメラミン流入

リコールで回収されたペットフードが豚や鶏の飼料として処分されていることがわかり、人間の食物経路へのメラミン流入危機について波紋が広がる。まだ市場へ出回っていない分については出荷自主規制。

5/7 FDAとUSDAが合同ニュースリリースを発表。多くの政府機関からの科学者を集めたチームによりメラミン汚染飼料を食べた鶏や豚の肉を人間が食べても、極めて低いリスクしかないことがあらためて確認されたと報告。その他すべての影響評価の報告を受けてから、今週中には現在一時留め置き中の鶏、豚をどうするかが決定される由。 5/14同様内容の公表

メラミン汚染飼料原料は魚用飼料原料としてカナダへも運ばれ、出来上がった魚用飼料はアメリカへ持ち込まれて養殖に使われた。魚への影響については、先に調べられている豚や鶏と同程度とみられる。 中国からの小麦粉については、小麦粉は小麦粉であり内容を偽装する必要がないため、汚染されている可能性が高いとは考えられないとの事。 魚用飼料原料にもケムニュートラ社が関わっていた。


 基本的には、家畜を介した食物連鎖で人間が毒性の影響を受ける可能性と、人間が食べる加工品材料に同質の毒性があるかという2点だが、どちらもそれほど深刻ではなさそうだ。
 英語版ウィキペディアには、今回のペットフード事件についてかなり詳細なまとめである”2007 pet food crisis ”(参照)が上がっており、ざっと見た感じ新書一冊分くらいの情報が含まれている。
 この中に、”Impact on human food supply(人間食物供給への影響)”(参照)という項目もあり、今後の参考にもなるかもしれないので、簡単に訳しておきたい。エラーがあれば、コメントでご指摘を。できれば、バーカバーカといったノイズは少なめに。

Impact on human food supply(人間食物供給への影響)

While U.S. officials say they don't believe melamine alone to be harmful to humans, they have too little data to determine how it reacts with other substances, in particular, the combination of melamine with cyanuric acid, a similar chemical known to be found in the waste product of at least some methods of melamine production[121], and which combination some American and Canadian scientists have suggested may have led to the pet deaths through kidney failure.[122][67][123]
(米政府当局者はメラミンは単独では人間に有害ではないと述べているが、メラミンが他の物質、特に、シアヌル酸とどのように反応するかについて、当局者ほとんど情報をもっていない。シアヌル酸は、メラミン製造手法によっては廃棄物のなかに存在することが知られている。米国またカナダの科学者は、腎不全でペットを死に至らしめたのはメラミンとシアヌル酸の化合物であると示唆している。)

In the United States, three potential vectors of impact on the human food supply have been identified. The first, which has already been acknowledged to have occurred by US FDA and USDA officials, is via contaminated ingredients imported for use in pet foods and sold for use as salvage in animal feed which has been fed to some number of hogs and chickens, the meat from which has been processed and sold to some number of consumers: "There is very low risk to human health" in such cases involving pork and poultry.[124][125][126][14] On May 1, the FDA and USDA stated that millions of chickens fed feed tainted with contaminated pet food had been consumed by an estimated 2.5 to 3 million people.[12]
(米国では、人間食物供給への影響について潜在的な3要素が特定されている。第一は、汚染された原材料によるもので、これは米国FDAとUSDA担当者によってすでに認められている。これらの原材料は、ペットフード用に輸入され、豚や鶏用の餌への廃品として販売されていたものだ。この豚や鶏肉が加工されすでに消費者に販売されていた。しかし、豚や鶏肉を介した場合では「人間の健康へのリスクは非常に小さい」とされている。5月1日、FDAとUSDAは、汚染ペットフードを含んだ何百万もの鶏が250万から300万人に消費されたされたと述べている。)

The second potential vector is via contaminated vegetable proteins imported for intended use as animal feed, which has apparently been acknowledged to occur with regard to fish feed in Canada,[127][128] while the third possible route is via contaminated vegetable proteins imported for intended use in human food products, and the FDA has issued an import alert subjecting all chinese vegetable proteins to detention without examination."[11][4]
(第2の経路は、養殖用の餌として輸入された植物性たんぱく質の汚染によるものだ。すでにカナダでの魚の餌に利用されていたことが解明されている。第3の経路は、人間の食物に利用するために輸入された植物性たんぱく質の汚染によるものだ。FDAはすでに検査なしで中国製植物たんぱく質を引き留める輸入警告を出している。)

A fourth potential vector is referred to in the May 10 FDA-USDA press conference, viz. incorporation of contaminated vegetable proteins into products intended for human use and subsequent importation.[128]
(第4の潜在的要素については、5月10日のFDAとUSDAの記者会見で言及されているが、汚染された植物性たんぱく質が意図的で人間の利用や今後の輸入品に混入されることだ。)

The original Xuzhou Anying wheat gluten was "human grade," as opposed to "feed grade," meaning that it could have been used to make food for humans such as bread or pasta. At least one contaminated batch was used to make food for humans, but the FDA quarantined it before any was sold. The FDA also notified the Centers For Disease Control and Prevention to watch for new patients admitted to hospitals with renal failure. There have been no observed increases in human illnesses and little human food has tested as contaminated, however the FDA still has not accounted for all of the Xuzhou Anying wheat gluten.[129]
(元来、徐州安営生物技術開発公司の小麦グルテンは人間食向け品質であり、飼料品質ではなかった。つまり、人間が食べるパンやパスタに利用可能なものであった。少なくとも一塊は人間食向けに利用されたが、FDAはそれが販売される以前に隔離したとしている。また、FDAは疾病対策予防センターに対して、新患者に腎不全が認められるか注意するよう通知した。人間の疾病は観察されておらず、人間向け食材の汚染についてはわずかだが、FDAは依然徐州安営生物技術開発公司の小麦グルテンすべてを認可していない。)

Reports of widespread melamine adulteration in Chinese animal feed have raised the possibility of wider melamine contamination in the human food supply in China and abroad.[10] Despite the widely reported ban on melamine use in vegetable proteins in China, at least some chemical manufacturers continue to report selling it for use in animal feed and in products for human consumption. Said Li Xiuping, a manager at Henan Xinxiang Huaxing Chemical in Henan Province: "Our chemical products are mostly used for additives, not for animal feed. Melamine is mainly used in the chemical industry, but it can also be used in making cakes." [130]
(中国製家畜飼料へのメラミン不純物混入拡散の報告は、中国内のみならず海外の人間の食の供給に対する幅広いメラミン汚染の可能性を喚起した。中国で植物性たんぱく質にメラミンを使用ことは広く禁止と報告されているにもかかわらず、化学品製造業社によっては、人間が消費する食品となる家畜の飼料として、その販売を継続すると未だに報告している。河南省の河南新郷Huaxing化学社の管理者Li Xiupingによると、「私たちの化学製品は添加物に利用されますが、家畜飼料用ではありません。メラミンは主に化学産業で利用されますが、同時にケーキを作るにも利用されます」とのことだ。)


 ウィキペディアとしての公平性に欠ける印象もあるが、事実の点において大きな間違いはなさそうだ。潜在的に日本人にとっても警告となる指摘もあるかと思われる。

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2007.05.14

2つのスキッピー、NO TRANS FAT

 いつか解決されるに違いないけど、それはいつなんだろうと、困りながら長いこと待っていたら、先日偶然解決されているのを発見。すげーハッピーになっちゃったよ。何って、ピーナッツバター、スッキピー(SKIPPY)の NO TRANS FAT、つまり、トランス脂肪酸なしのスッキピーがあったのだ。ないわけないと思っていたんだよ、うるうる。些細なことなんだけどね、だいたいにおいてハッピーなんて些細なことが原因だから。
 簡単に言うと、健康によくないトランス脂肪酸なしのピーナッツバターが売っていたということ。嬉しいのなんのって。恥ずかしながら、私、ピーナッツバター大好きなんですよ。それでいて、私、健康オタクだし、ってほどのことはない。健康オタクだったらピーナッツバターなんか食わんでしょ、フツー。でも、トランス脂肪酸ってなんか好きじゃないんだよ。その話については「極東ブログ: パニックを避けつつマーガリンとショートニングを日本社会から減らそう」(参照)にも書いたけど、それほどパニくるほど危険ではない。ただ、国際的に加工品にはトランス脂肪酸の含有を明記しようという流れを日本がいまだに無視しているのはどうかとは思うが。

 左のブルーのスキッピーがトランス脂肪酸入り。楽天のショップとかでよく見かけるやつ(だからアフィリのリンクできねーじゃないか)。原材料名を見ると日本語で、ピーナッツ・砂糖・植物油(大豆油を含む)・食塩と書いてある。どこにもトランス脂肪酸って書いてない、かというと、英語のINGREDIENTSを見ると、ROASTED PEANUTS, SUGAR, PARTIALLY HYDROGENATED VEGTABLE OILS(COTTONSEED、SOYBEAN AND RAPESEED) TO PREVENT SEPARATION , SALTとある。このPARTIALLY HYDROGENATED VEGTABLE OILSというのがつまり、部分的水素添加による硬化植物油というやつ。つまり、こいつが、トランス脂肪酸。しかも、綿実油まで入っている。ということで、ちょっとずつ食べていたのだけど、今回右の茶色のほうを発見。詳しいNutrition Factsがあって、Trans Fat 0gと明記されている。INGREDIENTSは、ROASTED PEANUTS, SUGAR, PALM OIL, SALTとシンプル。パーム油もよいなぁと思う。ラベルには、Good source of Vitamin Eともある。ビタミンEの量は10%とのことだがいくらトランス脂肪酸なしでもそう食べるもんじゃない。でもナチュラルソースのビタミンEはちょっと嬉しい。あまり詳しい説明はしないけど、ビタミンEはどうやら洗練されたサプリメントだと身体は有効に利用しないっぽい。
 もうちょっとブログのエントリっぽく書くと、食品について、日本の原材料名からはトランス脂肪酸の含有がわかんないということ。とりあえずマーガリンとショートニングは避けるとしても、単に植物油とあっても、トランス脂肪酸が含まれていることがある。もうちょっというと食パンにはほとんどトランス脂肪酸が含まれていると言っていい。そうでない食パンをどう探すか私は方法がわからない。幸い私は自分の食べるパンは自分で作る。いや、バターピーナッツも自作しようと思っていたのだけど、案外難しい。
 もひとつおまけ情報。ピーナッツバターっていうのは、パンとかに塗るだけじゃなくて、ガドガドに使える。ウィキペディアを見たら項目があった(参照)。


ガドガド (インドネシア語:Gado-gado) はインドネシア料理の伝統的なメニューで、温野菜にブンブ・ガドガド(bumbu gado-gado)と呼ばれるピーナッツ・ソースをかけたものである。

 特にホウレンソウのおひたしにかけるとうまい。好みによって醤油をソースに混ぜてもいい。ピーナッツバターが固いときは、荏胡麻油でのばして使うとよい。

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2007.05.13

杜子春の話の裏バージョン

 いつからか杜子春の話には裏バージョンがあるような気がしている。オモテのバージョンはあれだ、芥川龍之介名作杜子春というやつで、青空文庫で無料で読むことができる(参照)。筋書きは誰もが知っていると思うが、ウィキペディアにあるように(参照)、こんな展開だ。と引用するにはちと長いし、概要からはわかりづらい意外なディテールが面白かったりするのだが、まあ、いいでしょ。


 ある春の日暮れ、洛陽の西門の下に杜子春という若者が一人佇んでいた。彼は元々金持の息子だったが財産を使いすぎたために今は惨めな生活になっていた。
 杜子春はその門の下で片眼すがめの不思議な老人に出会い、大金持ちにしてもらう。しかし、杜子春は三年後また財産を使い果たし一文無しになってしまう。杜子春はまた西門の下で老人に出会い金持ちにしてもらい同じことを繰り返す。
 三度目、西門の下に来た杜子春は変わっていた。金持ちになったときには友達もよってくるが、貧乏になるとみな離れていく、杜子春は人間というものに愛想を尽かしていた。
 杜子春は老人が仙人であることを見破り、仙術を教えてほしいと懇願する。そこで老人は自分が鉄冠子(三国志演義などに登場する左慈の号)という仙人であることを明かし、自分の住むという峨眉山へ連れて行く。
 峨眉山で杜子春は試練を受ける。鉄冠子が帰ってくるまで口をきいてはならないので、杜子春はじっと試練に耐える。しかし、親が畜生道で苦しんでいるのを目の当たりにしてつい「お母さん」と一声、叫んでしまう。

 単純に言うと、仙人というか超人たらんとしたトシシュン君は、最初の試験で落第してしまった。だめなやっちゃなぁ、凡人だな、オメー、ということだ。鉄冠子もいろいろトシシュンを釣ってみて導いてきたのに、いざ試してみてら初手からダメだよ、こいつ、使えねーな、とがっかりしているのではないか。と思いきや、オモテの物語ではうるうる慰めちゃっているわけだ。

「どうだな。おれの弟子になつた所が、とても仙人にはなれはすまい。」
片目眇の老人は微笑を含みながら言ひました。
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかつたことも、反つて嬉しい気がするのです。」
 杜子春はまだ眼に涙を浮べた儘、思はず老人の手を握りました。
「いくら仙人になれた所が、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けてゐる父母を見ては、黙つてゐる訳には行きません。」
「もしお前が黙つてゐたら――」と鉄冠子は急に厳な顔になつて、ぢつと杜子春を見つめました。
「もしお前が黙つてゐたら、おれは即座にお前の命を絶つてしまはうと思つてゐたのだ。――お前はもう仙人になりたいといふ望も持つてゐまい。大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。ではお前はこれから後、何になつたら好いと思ふな。」
「何になつても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです。」

 ダメで良かったんだよ、もし合格していたらそんな人間の風上にもおけないヤローは殺すつもりだった。トシシュン君、きみは偉い、走れメロス……ってなべたな慰めなんだが、そりゃもうダメダメのトシシュン君だからして、こんなべたなお言葉で、まるで中谷彰宏「サクセス&ハッピーになる50の方法」(参照)を読んだみたいに元気になってしまってさ。毫も、微塵も「待てよ、それってダブスタでねーの、鉄冠子」とかはまるで思わない。ちょっと考えたらわかるのに。仙人試験に合格していたら殺されるってことは、じゃあ、どうしたら正解なわけ? ここはアレです、仙人になる12の方法、とかリストにしないといけないんじゃないか。
 という感じで、杜子春の話の裏バージョンは膨らんでいくわけですよ。
 そもそもだ、なぜ鉄冠子は杜子春に目を付けたのだろうか? カネをたーんと持たせてそして念入りに人間不信という確固たる仙人たらんとする基礎能力を築かせたわけですよ。まるでユダヤ人富豪の教えのメンターなんてもんじゃないわけですよ。鉄冠子にはなにかファウストの悪魔のような意図があったに違いない。それは何か? いろいろ考えてみる、が、やはり、トシシュン君を仙人にさせたかったのではないか。
 とするとやはりこの試練はベタに通過すべきだったのではないか。畜生道の母はそのあたりちゃんと理解しているし。

「心配をおしでない。私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね。大王が何と仰つても、言ひたくないことは黙つて御出で。」
 それは確に懐しい、母親の声に違ひありません。杜子春は思はず、眼をあきました。さうして馬の一匹が、力なく地上に倒れた儘、悲しさうに彼の顔へ、ぢつと眼をやつてゐるのを見ました。母親はこんな苦しみの中にも、息子の心を思ひやつて、鬼どもの鞭に打たれたことを、怨む気色さへも見せないのです。大金持になれば御世辞を言ひ、貧乏人になれば口も利かない世間の人たちに比べると、何といふ有難い志でせう。何といふ健気な決心でせう。

 母だってそう言ってるじゃん、なのに母を裏切ってトシシュン君は挫折する。

 杜子春は老人の戒めも忘れて、転ぶやうにその側へ走りよると、両手に半死の馬の頸を抱いて、はらはらと涙を落しながら、「お母さん。」と一声を叫びました。……

 あれです、この瞬間、トシシュン君の母のがっかりした顔を浮かびませぬか。
 だめだわ、このドジ息子……あちゃー。まったくワタシみたいに畜生道に落ちるようなタマでもない根かっらの善人ってやつか。いったいこのバーカマヌケ的善人の父親はどの男だったのだろ……。
 いやいや、違うかな。
 この母親の「私たちはどうなつても、お前さへ仕合せになれるのなら」っていうのはあれだな。岸田秀「唯幻論物語」(参照)みたいに、子供に無意識の罪責感を持たせることでその人生を支配しようとするありがちなダブスタ心理戦略だともいえるのではないか。トシシュン君は「親の毒 親の呪縛(岸田秀、原田純)」(参照)を読んでおけばよかったのに。いやそうでもないか。アマゾン素人評とか。

この本から伝わるのは絶対的な親批判だ。
共著の原田氏は父が亡くなった祖母を尊敬してるのをわざわざ否定する。
その内容で怒った父を再びこの本でも非難する。
親であろうとも、心の中にまで踏みこむのはどうだろうか。
人の好き良しに対して、訂正させたいと執拗な行動についてゆけいない。
故人に対しての冒涜は、親云々ではないように思う。

 そうきたか。オモテの杜子春の話のほうが、リアル社会的には★★★★☆かもな。
cover
親の毒 親の呪縛
岸田秀
原田純
 しかし、この畜生道の母親がダブスタだと考えると、鉄冠子の意図もすーごくわかりやすいじゃないか。ってか、トシシュン君、分かれよ、お前の母親はダブスタなんだ、エリック・バーンの交流分析だってこのダブルバインドはテンプレなんだってばさ。「人生ドラマの自己分析―交流分析の実際(杉田峰康)」(参照)にちゃんと図入りで解説されているから、ってか、それ以前に、そんな愛情深いと幻想している母親が畜生道に落ちているということを少し考えれば、分かれよ、……というのが鉄冠子の思いだろう。
 ところで、今日、なんの日だっけ。

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2007.05.12

[書評]フューチャリスト宣言(梅田望夫、茂木健一郎)

 読みやすかったが、キーワードにひっかかりを持ってしまったせいで私には難しい本でもあった。対談本なので、当初は、前著「ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる(梅田望夫)」(参照)の解説的な話の展開か、あるいは同じく対談本「ウェブ人間論(梅田望夫、平野啓一郎)」(参照)のように、対談者のホームグランドを生かすような展開――今回は脳科学――となるか、という二つの予断をもっていた。そのどちらとも言えないように思えた。

cover
フューチャリスト宣言
梅田望夫
茂木健一郎
 もちろん対談という特性はよく活かされている。両者が互いに相手を理解しつつ配慮しているようすも伺えるし、もともと共通の理解が成立しそうな対話者同士でもあるから、対話の流れがつかえることもなく表面的には読みやすい。個々の挿話も納得しやすい。書名になったフューチャリスト、つまり、マリネッティのそれではなく、インターネットの未来を肯定する人、という点からこの対談を要約するのもそう難しくないだろう。
 難しかったのは、茂木が提出する「偶有性」というキーワードに私が躓いたことだった。茂木は「偶有性」というキーワードをこう定義している。当然ながらその定義に沿って対談が進められている。

茂木 脳科学、神経経済学を研究している立場からいうと、脳とインターネットの関係は大変おもしろいテーマです。インターネットの世界は、私の言葉でいう「偶有性」、つまり、ある事象が半ば偶然的に半ば必然的に起こるという不確実な性質に満ちています。

 「偶有性」とは、「ある事象が半ば偶然的に半ば必然的に起こるという不確実性」であるとされる。しかしこの定義は私には納得できない。必然を偶然が阻むというのはわからないでもない。偶然を後から必然だと了解するということもあるだろう。だが、偶然と必然とを半々に混ぜ合わせたアマルガムの性質は想定できないからだ。事象は本質的に、偶然か、必然か、未知か、そのいずれかである。なにより科学における事象の探求は、偶然に紛れたなかから必然的なモデルを取り出し、軽量化・数式化することにある。未知は探求の途中であることしか意味しない。あるいは偶然性は確率の量として示すことも可能だがプランク定数のような仕組みで限定される。
 「偶有性」の原語は contingency(コンティンジェンシー)である。これは茂木の「「脳」整理法」(参照)にそのままに登場する。
 ここでまた私は躓く。contingency という英語の概念も理解しづらい。英語が堪能な小飼弾氏も、同書の書評エントリ「404 Blog Not Found:「偶有」整理法」(参照)で原義を元に考察している。contingencyという言葉の意味はウィキペディアの項目(参照)にもあるが、茂木の定義とは表面的に相容れない。

Contingency is opposed to necessity:
(偶有性は必然性の反対)

 contingency(偶有性)は、通常、必然性(necessity)の反対の意味を持つ言葉である。様相論理学的にはcontingencyの特性を表すcontingentとは、真でも偽でもない命題を指し、possible(可能)、necessary(必然・必要)と区別される(参照)。


  • possible if it is not necessarily false (regardless of whether it actually is true or false);
  • necessary if it is not possibly false;
  • contingent if it is not necessarily false but not necessarily true either. In formal contexts, therefore, contingency refers to a limited case of possibility.


 contingentは真でも偽でもない命題であり、限定された可能性とも言い得る。いずれにしても、様相論理学的にも、「ある事象が半ば偶然的に半ば必然的に起こるという不確実性」といった意味はない。茂木定義の「偶有性」は、彼独自の定義なのか、彼の無理解なのか、あるいは別の由来があるのか。ずいぶんと考え込んだ。
 梅田は茂木の「「脳」整理法」(参照)などの著作事前に読んでいただろうから、茂木独自の「偶有性」概念に一定の理解があったにせよ、それでも対談的には唐突に聞こえたのではないだろうか。梅田は熟練の手つきで、茂木の「偶有性」を含んだ発言に続けてプローブのような確認を投げ落としている。

梅田 インターネット全体を、脳に似ていると言っていいんですか?
茂木 スモールワールド・ネットワーク性(一見遠く離れているものどうしも、少数のノードを通して結ばれている性質)という観点からみると、そっくりです。ローカルにコントロールできる部分とできない部分があることもとてもよく似ている。脳の神経細胞のネットワークもローカルな回路だったらコントロールできるんだけど、少し離れたところで何をやっているかということはコントロールできない。

 この文脈からは、茂木の言う「偶有性」は、コントロール可能な部分において必然性であり、コントロールできない部分において偶然性の振る舞いをする性質だ、となるかもしれない。だが対談後に加筆されただろう部分、スモールワールド・ネットワーク性についての括弧内の補足(一見遠く離れているものどうしも、少数のノードを通して結ばれている性質)を考慮すると、統制不能領域はただのカオスではなく、なんらかのシステマティックなネットワーク的になっているという示唆がありそうだ。偶然性の理由が暗黙に想定されているのだろう。
 話を不要に難しくしているのかもしれないが、茂木の言う「偶有性」には、ネットワークを統制する機能とは別に恣意的ともいえる機能が隠されているという含みがあるだろう。その恣意性は、おそらく、表向きの統制と、見えない統制の二系に分かれ、その見えない部分は、見える部分からは偶然性となるのだろう。見えない統制が見える統制をどう乗り越えていくのかということに、茂木の「偶有性」の重点があるはずだ。そう理解すると次の発言がより深い意味合いを持つようになる。

茂木 そうです。「偶有性」は脳にとって、とても重要な栄養なんです。人間の脳はつねに偶有的なできごとを探し回っている、と言うこともできます。

 「偶有性」が価値あるものとして捉えられているのだが、この価値性は、関連するキーワード「セレンディピティ」でより明確になる。

だから、ネットはセレンディピティ(偶然の出会い)を促進するエンジンであると思う。もちろん、本屋でたまたま立ち読みしていて思いがけず何かに出会うということもあるけれど、インターネットはセレンディピティのダイナミックスを加速している。

 セレンディピティ(serendipity)をここでは括弧で「偶然の出会い」としているが、もう少し解説すべき概念なので、ウィキペディアにセレンディピティ(参照)の項目が参考になるだろう。

セレンディピティ(英語:serendipity)とは、何かを探している時に、探しているものとは別の価値あるものを見つける能力・才能を指す言葉である。何かを発見したという「現象」ではなく、何かを発見をする「能力」のことを指す。


「serendipity」という言葉はホレス・ウォルポール(ゴシック小説の「オトラント城奇譚」の作者として知られる人物)が1754年に造語したものであり、彼が子供のときに読んだ『セレンディップの三人の王子』という童話に因んだ造語である(セレンディップは現在のスリランカなので「スリランカの3人の王子」という意味の題名である)。

 セレンディピティという概念は、茂木の主張の文脈ではその「偶有性」(contingency)の機能と言い換えてもよさそうだ。探すという行為の必然性に対して、セレンディピティは良いものをたまたま見いだす偶然性を指している。
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生命潮流
ライアル・ワトソン
 茂木独自の意味合いを考えながら、私は、茂木のいう「偶有性」(contingency)は、ライアル・ワトソンが「生命潮流―来たるべきものの予感」(参照)で、生命の隠された原理として提示した、the contingent system を指しているのではないかと推測した(もっとも、ワトソンの the contingent system はその例解に「百匹目の猿」などが引かれているため現時点ではただのオカルトと言われてもしかたがない)。
 ワトソンが the contingent system という概念で示そうとしたのは、必然の連鎖で描かれる科学的な視点から見える生命現象の背後に、偶発的とも見える別の有意味なシステムが存在する可能性だった。私の推測がある程度妥当なら、茂木のいう contingency とは、通常の contingency ではなく、ワトソン的な systematic contingency だと言えるだろうし、この system とは「生命」を意味するはずだ。
 茂木の contingency がワトソンの the contingent system に近い概念であることは、彼の発言のあちこちに断片としてまたイメージとして出現している。特に以下の言及はワトソンの考えと同一と言っていいだろう。

 生命原理というのは、近代が追求してきた「管理する」などの機械論的な世界観にはなじまない。本当の生命原理は管理できるものではないし。オープンで自由にしておかないと、生命の輝きは生まれない。結局、インターネットが人類にもたらした新しい事態の背後に隠されたメッセージは、一つの生命原理ということだと思います。命を輝かせるためには、インターネットの偶有性の海にエイヤッと飛び込まないと駄目なんです。


 要するに、オープンにして偶有的なプロセスでやっていかなければ、生命体の成長ということはありえない。

 茂木はこうした「偶有性」の場としてインターネットとその未来を提示している。またそこでは、インターネットは人の可能性として、人を縛り付けてきた必然性から解放し、輝かせるものとしてもイメージされている。

 僕は小学生の頃に、どういうことをしたら脳が喜びを感じるか、ということを自覚したんです。偶有性のなかに自分を置いて、自分にある程度の試練を与えて、それを乗り越えたときに、ドーパミンが放出されて、強化学習が成立するということを自覚した。


 偶有性の喜び、自分の人格をより高度なものにしていく喜びは、おそらく人間が体験できる喜びのなかでもっとも強く、深い喜びではないでしょうか。

 強化学習と偶有性のキーワードにはスキナー学説も潜んでいるようにも思われるが、偶有性についての言及が人格の高度化という文脈に出現する背景は、やはり、ワトソン的な the contingent system を考えると理解しやすい。
 それにしても、インターネットはそう楽観的に捉えることができるものだろうか。この偶有性についても、インターネットはそのままにしてセレンディピティを与えるわけはない。グーグルのような検索主体の存在が条件になっている。
 ここで問題が浮かび上がる。インターネットのカオスの中に、グーグルはリアル世界の必然性とは異なった、しかし人にとって価値のある偶有性を本当に提供しているのだろうか? グーグルはただデータをキーワードで機械的に整理しているだけで、その整理の不備やエラーが偶有性に見えるだけなのではないだろうか?
 茂木は前提的に楽観さから、あたかもインターネットそれ自体が生命現象の一環であるかのように見ている。だが、梅田はこの問いに対してより戦略的に考えているようだ。ブログを書いていると知識がグーグルに取り込まれたように思えたという体験から彼はこう発想する。

梅田 (略)なんか、取り込まれた感じがしたんです。茂木さんはブログを書いていて感じませんか? 僕は最初、グーグルにやられている感がありました。
茂木 グーグルに搾取されているということですか?
梅田 要するに、いいことをいっぱい書くと、グーグルが賢くなるんですよ。


梅田 (略)僕がグーグルを賢くしてやるんだよ、と開き直った(笑)。「マトリックス」の電池になってやろうじゃないかと。それが僕の社会貢献の姿なんだとね。

 私もその主張に頷く。グーグルが生命を躍動させる情報の場として「偶有性」を持ち得るかどうかは、私たちの貢献に掛かっている。その意味で、インターネット情報の海にエイヤッと飛び込む人の勇気こそが未来を意味しているはずだ。

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2007.05.11

ゆっくり長く泳ぎたい、でも、それってクロールなのか?

 あれから一ヶ月。あれって恋の痛みも癒えたころ、じゃねーよ、「極東ブログ: [書評]水泳初心者本三冊」(参照)。時間を見つけてはちょこっと泳いでいる。体調がいまいちでない時を除くと、ほぼ毎日かな。がんばって夏までにはターザン腹にしてモテたいものだ、やっぱサブリミナル・アルファーブロガーが中年太りっつうのはまずいでしょとか、そんなこたぁないです。
 泳ぎに嵌っているのは、面白いというのがある。若い頃はがむしゃらに泳げばフォームなんか度外視で水泳部くらいのスピードが出せたがもうそんな歳でもないし、考え方を変えると泳ぎ方も変えることになる。ゆっくり長く泳ぎたい。じゃ、どう泳ぐかということで、「ゼロからの快適スイミング ゆっくり長く泳ぎたい! もっと基本編(趙靖芳)」(参照)を読むと、以前書いたように、目から鱗が落ちまくりんぐだった。そんなのありかのてんこ盛り。
 ただこれ、他の「クロールがきれいに泳げるようになる!(高橋雄介)」(参照)とかと比べると、クロールの本道ではないなとは思ったので、どういうフォームにすべきかいろいろトライアル。それも面白い。そのうち、いや今頃わかったのだけど、長く泳ぐということは水の抵抗を減らすことがポイントだ。つまり、蹴伸び(最初の壁キーック、人間魚雷発進みたいな)の状態が連続すればいい。そのための推進力をどう最小限の人力で得るか? いや、ここですでに二つの極があって、(1)推進力、(2)抵抗最小限、そのバランスだな。あと強いて言うと、(3)水に対する人間の根源的な恐れみたいのがあって、それで自然にフォームが崩れる傾向がありそう。
 先の本だとキックは2ビートがよいというのだけど、本当なんだろうかといろいろやってみる。現状の結論では2ビートでよさそうだ。その他、車輪掻きとかもそれでよい。へぇへぇである。そのうち、これってクロールなのか?という根源的な疑問と、いまいちうまくいかない壁みたいのができてきたところで、今更ながらに今年の三月に出た続編「ゆっくり長く泳ぎたい! 超基本編―ゼロからの快適スイミング」(参照)を発見。読んでみると、うわっ、そこまで言うみたいな話。特に、猫背ふうでいいみたいのところは、えええ!やっぱりそうかだった。人間の肺というのは身体中央部の浮き袋なんで手を前方にできるだけ伸ばし頭を下げてやや猫背ぎみにすると、足とのバランスが取れて浮いてくる。ボク、土左衛門、ポーズだ。
 それにしても、この超基本編までのプロセスを順に追ってみると、基本コンセプトは同じでも微妙に泳ぎ方が変わってきている。だんだんとクロールじゃない、不思議な泳ぎ方の洗練になってきているように思うんですが、その点でネット社会ではどうですか、佐々木さん。
 というわけで、すこしトレース。

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ゼロからの快適スイミング
ゆっくり長く泳ぎたい!
 最初はこれ。「ゼロからの快適スイミング ゆっくり長く泳ぎたい!」(参照)は、競泳クロールじゃなくて、ゆっくり長く泳ぎたい!というコンセプトによるクロールの提言本だった。いちおう初心者向け。競技者へ向けたクロール技術論を避けて、一般向けの健康志向で長時間、長距離泳ぐことが可能なクロールの泳法を勧めている。でも、アマゾン素人評にもあるが、ちょっとわかりづらい点があった。お説教ばっかりに読めないこともない。それでもこのコンセプトは当たったのだろう。


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ゼロからの快適スイミング
ゆっくり長く泳ぎたい!
もっと基本編
 続編、「ゼロからの快適スイミング ゆっくり長く泳ぎたい! もっと基本編(趙靖芳)」(参照)が出た。私としてはここから読み始めたので、え!え!の連続だったし、他の本とかの違いに、どっちにしたらいいのかけっこう悩んだ。でも、やってみてとわかると、何かと説得力があるし、どうもなんかありそうだというのが実感としてつかめてくる。イラストは多いのだけど、映像的にはどうよとも思っていた。




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ゆっくり長く泳ぎたい!
誰もが編
学研スポーツムック
 たぶん、「ゼロからの快適スイミング ゆっくり長く泳ぎたい!」の二著でイメージ的にわからんというのと、これってホントかよ、写真で説明しろよのニーズでできたのではないか。ムック形式ですっきりしている。内容は前二著とほぼ同じなので、これ一冊買ってもいいのかもしれないけど、いきなりこれから読むとどうなんでしょ。写真はわかりやすいといえばそうなんだが、泳いでいる自分というのは身体のセルフイメージなんで、客体映像の身体イメージとの差がよくわからない。やっぱ、昔みたいに指導してもらったほうがいいと思うのだけど、この泳法の指導ってどこにあるのだろうか。


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ゆっくり長く泳ぎたい!
超基本編
ゼロからの快適スイミング
 で、さらに、これが出ていたのだね、超基本編。確かに、超基本編と言えないこともないのだけど、どうなんだろ。前二著、あるいはムック本なしでこれだけで超基本が身に付くのかよくわからない。というかさっきも書いたけど、微妙に泳法が変わっているように思える。もうキックの話なんかほとんどないし。というところで思い出したが、(1)推進力、(2)抵抗最小限のバランスというとき、ゆっくり泳ぐとはいえある一定の推進速度が必要になるように思うのだが、そのあたりの説明はない。私の間違いかもしれない。でも、次に超・超基本編が出ても、私は驚かないぞ、で、また買うぞとか思う。なんか新興宗教みたいもんに嵌っている心境でしょうかね。
 
 話がちとずれるが、自分が今年五十歳。今後継続できそうなスポーツは水泳かな。ヨガなんかもできるにはできるが、水泳って、結局水遊びじゃん、楽しい。で、そういう年寄り向け、楽しいスポーツの、スポーツ科学っていうのがあってもよさげな気はする。そういえば、デューク更家って爺マーケット向けウォーキングの指導になってねー気がするんだけどね。というか、あのウォークしている年寄り、身体壊しませんかね。

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2007.05.10

完全菜食主義者の両親が赤ちゃんを餓死させたというびっくりニュース

 菜食主義の両親が赤ちゃんを餓死させたというびっくりなニュースを朝日新聞サイトで見かけた。記事は”「完全菜食主義者」の両親、赤ちゃんを餓死させ終身刑に”(参照)で、標題を見るとわかるように「完全菜食主義者」と括弧付けすることで含みを持たせているようだ。現状、他のソースで日本語のニュースは読めないようだが、これはもともとAPのネタなのでそのあたりのニュースの伝搬経路が少し気掛かりにはなった。AP版は”Vegans Sentenced for Starving Their Baby ”(参照)などでも読める。AP版以外にたとえばタイムズの記事”Strict vegans guilty of murder after their baby starves to death”(参照)もあり、APと違ったファクト(事実)も含まれてはいる。
 朝日新聞サイトの記事を読むとソースについては「地元紙によると」という表現があり、APからのニュースではなく地元紙から情報を得たように書かれている。APの記事とでファクトについての差分を見ると増えているという点では、記事の締めにある以下のコメントが際立つ。


 ビーガンと呼ばれる完全菜食主義者は、ミルクや卵を含めすべての動物性たんぱく質食品を食べないことで知られる。近年、米国では健康志向や動物愛護のため、菜食主義者が増え続けている。
 自らも完全菜食主義者で、反フライドチキン運動をしている「動物の倫理的扱いを求める会」事務局のリンゼー・ライトさんは「今回のケースは菜食主義ではなく、児童虐待だ。私の友人らは完全な菜食で子育てを完璧(かんぺき)に成し遂げている」と話している。

 前半については記者の知識によるものだろう。ヴィーガン(vegan)の理解が違っているとまではいえないが、菜食主義者が増加しているという話の裏が取れているのはわからない。問題は後半で、反フライドチキン運動のリンゼー・ライトさんのコメントがあるのだが、これはどこから得た情報だろうか。朝日新聞が独自に取材したのだろうか。いくつか英文記事を当たってみたがよくわからなかった。そもそも「反フライドチキン運動」がPETA系のKentucky Fried Cruelty(参照)なのかもわからなかった。ご存じのかたがあればコメントを頂ければ幸い。
 AP記事と朝日の記事を比較すると全体のトーンとしては、締めに上のコメントを置いたことで、ヴィーガンを援護するトーンが出ている。
 逆にAPにあって朝日に抜けているファクトについてだが、これは報道記事の基本である5W1Hに関わるはずなのだが、ニュースの対象者名が抜け落ちていることだ。朝日の記事では『米アトランタの自称「完全菜食主義者」の男女』とのみある。APからこの点を補う。

Superior Court Judge L.A. McConnell imposed the mandatory sentences on Jade Sanders, 27, and Lamont Thomas, 31. Their son, Crown Shakur, weighed just 3 1/2 pounds when he died of starvation on April 25, 2004.

 タイムスの記事にはもう少しディテールに関する興味深い指摘がある。

Sanders, 27, told police that she fed the baby organic apple juice and soy milk, supplemented by breast milk. But containers found in their flat clearly stated that soy milk was not to be used as a substitute for baby formula.
(二七歳の母親センダーは警察に、母乳を補うように有機リンゴ・ジュースと豆乳を与えたと言った。しかし、アパートにある容器を見るかぎり、粉ミルクの代替に豆乳は利用されていない。)

Their lawyer, Brandon Lewis, said he believed that they unintentionally starved their child because the apple juice worked as a diuretic and blocked the absorbtion of nutrients from the soy milk. He said they never took their son to a doctor because they feared hospitals were infested with germs.
(ブランデン・ルイス弁護士によれば、両親が赤ちゃんを餓死させたのは意図的ではなく、リンゴ・ジュースが利尿作用と、豆乳からの栄養吸収を阻害させたためだとのこと。また両親が医師に息子を診せなかったのは、病院が黴菌に感染しているを恐れたからだ、とも述べている。)


 事実はわからないが、朝日の記事から伝わる状況とは異なる可能性も高い。また、米国のブログなどを見ると、この事件は、菜食の問題じゃなくてただの虐待でしょという意見も見られる。

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2007.05.08

エキスポランド・ジェットコースター脱線事故メモ

 最初にお断り。この事故について何か深層があるに違いないといったネタではない。心にひっかかる部分を時代のログとしてメモしておくという意図だけなので、誤解なきよう。
 連休中に起きた、大阪府吹田市万博記念公園エキスポランドのジェットコースター脱線事故についてはあまり痛ましく、それゆえに私はニュースを避けていた。特に映像を伴うものは一切見なかった。弁解がましい言い方をすれば、鉄道脱線事故ほどの社会性はないだろうということと、ジェットコースター事故はそれほどめずらしいものではなく、〇三年にも三重県のナガシマスパーランドでは、ジェットコースターの車輪が外れ十人が重軽傷を負ったことがある。今回の事件についてはいまだ私が詳細を理解してないのだが、死者は鉄製手すりに衝突したということなので、潜在的にはナガシマスパーランドの事故も死者を出すほどであったかもしれないと思った。
 もう一点、関心がそれほど向かなかったのは、個人的なことでもあるが、私はスリルとか求めない人なので、ああいう遊具を面白いと思わない。関心がない。スリラー映画なども特別なものでない限りエンタとしては見ない。スポーツ観戦など人と熱狂するというのも好きではない。そういう人も少なからずではあろうが、全体的に見れば、ジェットコースターは人々に好まれているようだ。今朝の読売新聞社説によると、東京ディズニーランドなど大型テーマパークとの競争から、地方の遊園地では集客の目玉としてこの手のスリルを体験できる遊具に力点が置かれているようだ。つまり、人々はそれを求めている。
 そういう道筋で考えていけば、人々にそれに乗るなとも言えず、運営側の安全対策や国の基準などが社会問題になるだろうし、おそらくジャーナリズムもそのあたりに群がるだろう。耐震偽装事件のように運営の背後などに深淵なる悪を探したい人もいるだろう。それをネタに株の操作でも目論んでなければ、一罰百戒でバッシング騒ぎをするのもしかたないかもしれない。
 話の文脈がねじれるが、人々がその手の絶叫マシンを好むという心性は私には異和感があるので、先日そうした物に乗ったことがある小学生に、好きなのか? 恐くないのか? どんな感じなのか? と訊いてみた。人によっては好きではないようだし、恐くもあるそうだ。どんな感じかというとき、ちょっと意外な答えを貰った。ビルから飛び降りたような感じ、と言うのだ。「え、でも、ビルから飛び降りたことなんてないでしょ。そんなことしちゃだめだよ」とオッサンな私は優しく諭すし、小学生だって高学年になればオッサンの傷つきやすい心に配慮するので、そのあたりで会話は収めるのだが、さて、私はその感じが実はよくわかっていた。うまく言えないのだが、子どもたちは内的にはというか無意識というか夢のような部分に隣接する意識で、ビルから飛び降りたような予見的な想像の体験を持っているのだろう。というあたりで、私は少しハッとしたことがあったのだが、ブログに書くべきか。少しだけ書く。先日のタミフル騒ぎで外国の報道を見ていると、日本人っていうのは自殺したい無意識の願望を持つ国民だからね、というのがあった。ひどいこと言うなと思ったが、たしかに外国からはそんなふうに見えてもしかたがない面がいろいろある。この話はこのくらいに止める。
 事故の詳細とまでいかなくても、メカニズムには私は関心を持つので、ニュースを読み返してみた。まず状況が知りたかった。事故とコースの関係については、ネットのリソースでは産経新聞”「よっちゃんがいない」コースター事故、乗客が証言 瞬の静寂、響く声(5月7日)”(参照)に図がある。全長約970mで、事故地点は終点手前約二五〇m。
 時速75kmの最速点は過ぎ50kmで二重輪を左側に巻き込んで昇っていく。時速はかなり減速するだろうが、左側への遠心力がかなりかかっているだろう。そして、二重輪から下ったところで脱輪。この時、二両目左に四五度に傾き、手すりに衝突。致死はコース脇の手すりに衝突したことによる。
 現在のところ直接の事故原因は車軸の金属疲労だろうと推測されているが、定期検査では見つからなかっとも言われる。このあたりの情報はまだ錯綜している。また、車軸の折れ方だが、直径が約五センチの車軸の断面がほぼ垂直で平らな状態だったとのこと。
 私としては、なぜ、この地点で脱輪が起こったのかについてよくわからない。遠心力のかかっていた時点で脱輪はしてないらしい。
 別のニュース、日経”金属疲労を検査せず――コースター事故、ずさんな管理が遠因か
”(参照)によると。


調べによると、立ち乗りのジェットコースター「風神雷神2」(6両編成)の2両目の車軸はスタートから約440メートル地点で折れ、その約240メートル先で車輪が脱落して車両が左側に約45度傾き、小河原良乃さん(19)がコース脇の手すりに衝突して死亡した。

 とのことなので、車軸が折れたまま走行していたのだろう。二重輪に入る前だろうか。
 事故時の状況だが、ジェットコースター「風神雷神2」は六両編成定員二四人のこと。次のように四人ブロックで六両だったらしい。情報を総合すると被害者は■の位置にいた。全員で二〇人乗っていたとのことなので、空き部分を推測して◇とした。

     ←進行方向
     □□ □□ □□ □□ □□ ◇◇
     □□ ■□ □□ □□ □□ ◇◇

 先の記事ではこう。

 事故を起こした「風神雷神2」(6両編成)は定員24人。1両に4人が直立した状態で乗り込み、両肩付近の安全バーで固定される。当時20人が乗車し、死亡した小河原良乃さん(19)は2両目の左前列にいた。
 福井市の男性会社員(25)はすぐ後ろの3両目だった。コース後半に入ったあたりでガタガタと音が激しくなり、部品の白い破片が横に飛んでいくのが見えた。

 また、事故についての証言。

各車両の左右に5つずつある車輪のうち、2両目の前部左下の車輪の脱落地点から約30メートル先だった。しばらくして、前の方から「よっちゃんがいない。どこ、どこ?」と小河原さんを呼ぶ声。女性が車両と鉄柵に挟まれ倒れていた。初めて事故の重大さを知った。
 大阪府松原市の男性会社員(45)は娘2人と「風神雷神2」の列に並んだ。途中で前の女性2人が後ろの4人組の女性に合流。列を譲られ、男性一家は1両目に乗ることになった。「もしかしたら自分たちが2両目に乗っていたかもしれない。それを思うと複雑だ……」

 些細なことだが、被害者は六人のグループで、最初二人が待ち行列の先頭に並んでいた。そして、その後ろに、大阪府松原市男性会社員(45)とその娘の二人がいた。ここでこの家族が三人。列順通りならこの三人のうち二人が一両目に乗るはずだった。しかし、それでは家族が別車両に分かれることになる。
 列についてだがその後、前二人の女性が後ろの四人と合流して六人固まる。被害者が列のどの位置にいたかは不明。女性グループ六人がどのように席を配分したか不明だが、被害者は二両目の前部にいたのだろう。そして、福井市の男性会社員(25)が三両目だが、ここには女性グループの二人が含まれていた。
 「よっちゃんがいない。どこ、どこ?」と被害者を呼ぶ声が前方からしたと記事があるが、それを聞いたのは三両目の女性か。
 もちろん、こうした状況が事件に関わっていたわけではない。車軸が事故原因であれ、安全対策には事故の状況の検討も必要になるだろうが、そうした検討がブログの役割でもない。

追記
 一〇日付け朝日新聞記事に気になることがあった。
 ⇒「asahi.com:ナットの緩みで車軸破断か コースター事故 - 社会」(参照

大阪府吹田市の遊園地「エキスポランド」でジェットコースター「風神雷神(ふうじんらいじん)2」が脱線し、1人が死亡、19人が負傷した事故で、ナットの緩みが車軸の破断につながった疑いのあることが府警の調べでわかった。構造的には金属疲労を起こしにくい場所が折れていたことから、府警は人的ミスが事故につながった疑いもあるとみて、保守点検の状況を詳しく調べる。

 この観点に説得力があるとすると、直接的に金属疲労による事故ではないということになる。もちろん、この観点でも運営側の責任は重い。
 関連して。
 ⇒「安全軽視が招いた遊園地惨事 : さるさる日記 - 泥酔論説委員の日経の読み方」(参照
 例えば、ジェットエンジンで使用されているタービン・ブレードの如く、高温・高圧・高回転に晒される部品はX線による探傷検査が義務付けられています。
これは大変手間と費用がかかる作業ですが、それでもブレードが破壊する事故は後を断ちません。
 一方、ジェットコースターの車軸がどれぐらいで金属疲労をおこして破断するのか、実際のところよく分かっていないのが実情じゃないでしょうか。
 設計上、これぐらいの距離を走行させれば車軸は交換しなければならない、という確たる値はメーカ側からも示されていないようで、どの遊園地もそれまでの経験から予防的に部品を交換してきたのだと思います。

 この視点も含めて、初期の報道で、やはり技術的な視点を十分に検討すべきだったように思えた。

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2007.05.05

[書評]森有正先生のこと(栃折久美子)

 大人にしかわからない上質な苦みのある、美しく同時に醜悪な恋愛小説のように読んだ。五十五歳の知的な男に三十九歳の才能のある女が十年ほど恋をする物語。さりげないフレーズに本当の恋愛にはこの感触があると何度も煩悶のような声が自然に喉を突く。恋愛といっても、肉体的な交わり……少なくとも肉体の哀しみと歓びは表向き描かれていない。その契機が存在してなかったようにも読める。が、この物語の本質はキリスト教のいう肉、サルクスというものの、胸引き裂かれるような絶望感にある、と思う。

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森有正先生のこと
栃折久美子
 小説ではない。森有正という男と栃折久美子という女の現実の物語だ。私もこの物語のある重要人物を知っていたので、この物語のごく一部だが魔法のように織り込まれたような感覚を味わった。しかし森有正という男を知らない今の日本人でも、大人ならこの物語の味わいがわかるのではないか。と、自分がさも大人であるかのように書くのだが、そういう大人とは大人になれない心を持ち続け中年期以降を迎えた人であって、普通はこういう世界に出会うことはないし、出会うことがよいわけでもない。
 森有正に傾倒していた私にとってはこの本が出たと知った数年前、ああ、こういう日も来るのかと思ったし、その思いには吉行淳之介の暗室の女が出てきたような滑稽な恐怖感もあった。自分の、森有正への傾倒には未だうまく整理がつかない。今でもこのブログに森有正のことは十分に書いていない。この物語も読めないままでいた。だが、自分も五十歳という歳に向き合い、いろいろ思うこともあって、というか何かが熟したような気がして読んでみた。
 森有正、一九一一年、明治四四年生まれ。森有礼の孫でもある。一九七六年、昭和五一年に死んだ。十九歳だった私はその死を伝える新聞をくっきりとした映像として思い出せる。お会いすることができなかったなとその後痛烈に思うようになったのは、その後彼を知る人の出会いからいろいろ森有正のことを伺ったせいでもある。本書を読むと、あの時代の空気を思い出す。森有正がどれほどのあの時代の寵児であったかも鮮烈に思い出す。
 あえてひどいことを言えば森有正は一種の女狂いにも見られたし、壮年期には目をつけた女なら誰でもものにできるという男性の充溢感を極めていた(当時の文化人はみなそのようなものでもあったが)。三十代の女の身体を持った栃折久美子もその力とその力の影響をよく知っていたことがこの物語を子細に読めばわかるし、その力に対して覚めた了解もあった。だから描けた映画のような光景もある。
 長くパリに暮らす森有正だからということもあるだろうが、当時の日本にはありえない新鮮な牛乳を大量に飲む。「五本の牛乳」という章には日本でまともな牛乳十分に飲めないと嘆く森有正に、栃折が五本の牛乳を届ける逸話がある。眼前に五本の牛乳が置かれると即座に彼は二本を飲み干す。熟れた恋の精神性に捕らわれた女の視線の残光の中で、ごくごくと牛乳を瓶底を天に傾けて飲む小太りで眼光の深い精力的な五十五歳の男。構図はまったく違うがバタイユの眼球譚に出てくる生卵のようなおぞましい印象もある。栃折はその男に「ハンドバッグと寝間着だけ持ってパリ行きの飛行機に乗ってしまいたい」と手紙を書く。そして森有正もプロポーズを切り出す。もちろん、互いに退路をさりげなく取りながら。
 栃折久美子、一九二八年、昭和三年生まれ。本書に逸話があるが室生犀星がからかい半分で短編を書きたくなるような若い知的な女でもあった。この恋の物語が始まるのは、本書の帯に「1967-1976 ひとつの季節、ひとつの恋」と書かれているように一九六七年。そして一九七六年は森有正が死んだ年だが、恋の物語としては七二年には終わっていると見てもいいだろう。恋は四年で終わると言われるがセオリー通りにその情念は両者に四、五年で終わっているかのようだし、通常の恋愛小説にありがちな恋の終わりの事件はなかった。現実の大人の恋は狡猾に隠蔽された幻滅感と気まぐれな傲慢さのなかでいつか静かに終わるものだ。だがそうして終わった恋には残照があり、森有正という存在は六十歳を越えて精神の老醜を巻き込む、と書いて私は森有正を貶めているのではない。ドラゴンのような精神の怪物が絶命する声をヴァーグナーの歌劇を聴くように味わっているだけだ。私には与えられない強い人生に対して隔絶されたような羨望感もある。

それでも、私は森有正という人を見続けたいと思っていた。書かれたものだけ読んでいたのでは、私には想像もできなかったような非常識、自分勝手、言動の矛盾、金銭感覚、何もかもひっくるめて見て行きたい。老いていくなら、どのように老いてくのかを見て行きたい。正直なところ、この人のために自分が壊れたくはない。壊れずにいられるなら何とか引き換えにしても、見続けて行くだけの価値のある人、私はそう思っていた。

 栃折久美子がこの物語を書いたのは二〇〇三年、七十四歳。かつて十七歳年上の男に恋した三十路の女に半世紀近い年月が流れた。森有正が死んだのは六十五歳だから、今となっては女の脳裏に十歳も年下の男になってしまった。いくら歳を取っても越えられない精神性というものはあるが肉体に付随した思想・情感というものは、それなりに年齢に従って越えていく。老いた彼女の目には森有正が若い人間にも見えるのだろう、そのような両義的な視線が、実は本書のそこここに忍び込んでいる。

 私は先生といっしょに、歩き、食事し、話していた。だから時には、自分が女の身体をもっていることに気付くこともあった。同時に、あの時私が自分からタイミングをはずしたのも、タイミングを計り損なって時を失ったのも、自然のなりゆきだったと思う私がいた。森有正という人を、本気で見はじめた時から、心も身体も合わせて自分を意識していたわけだし、ずっと見続けていたかったのだから、それはどうでもいいことだった。
 ただ「自分が壊れるはいやですから」と言ったことについては、若さが言わせた生意気、と今は思う。先生の健康状態が良く、「フロ台所つき三室のアパート」の計画が実現していたら、私は壊れていたかもしれない。

 森有正の晩年は、皮肉で言うのではないが彼自身が時折自省したように、罪に烙印されたあまりに人間らしい怪物だった。私はこの怪物に屈しているのであって非難しているのではない。怪物は若い女たちを食いたかったし、母として支えて欲しくもあった。だが、その願望がきちんと女に届くことはなかったし、その不可能性こそは怪物の宿命でもあった。女は、だが結局、さらに上回る怪物である。栃折久美子の現在は十歳も年若い森有正に、突き詰めれば死の曳航がもたらすような身体を得ている。そうした果ての女の肉体の中で壮年の性を持った男もまた可愛い人として、身体の感触として僅かに映し出されるのだろう。

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2007.05.04

ザビエルが見た四五〇年前の日本人

 連休が続く。今日は世田谷あたりで二七度にもなるという。ブログに書く話もないような日だがなんとなくエントリを埋めておく。ネタはザビエルが見た四五〇年前の日本人。どんな日本人だったのでしょうかねと、前振りなのですっとぼけてみる。ネタ元は「海から見た戦国日本 列島史から世界史へ」(参照)である。

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海から見た戦国日本
列島史から世界史へ
村井章介
 ザビエルは一五四九年彼の上司がいるのだろうインドのゴア宛に鹿児島から書簡を送った。以下は同書の引用であって、べたな書簡翻訳ではないと思う。それと、引用部での「私」とはザビエルのことである。

 私には、日本人より優れた不信者国民はいないと思われる。日本人は、総じて良い素質をもち、悪意がなく、交わってすこぶる感じがよい。かれらの名誉心は特別強烈で、かれらにとっては名誉がすべてである。

 このあたりは現代日本人にもまだ通じるところだろう。根っから日本嫌いやイデオロギー的な意図のある外国人とかオオニシとかを別とすれば、私が知り合った外国人も日本人について概ねそんな印象を持っていた。というか、悪意がないというあたりで騙されているんじゃないかと疑念に思っている外国人も数人いた(その後、やっぱり騙されていたんだと嘆く外国人もいたが日本人女性の強さに無知過ぎ)。名誉心については現代日本人はどうだろう。あるんじゃないかな。ちなみに、ザビエルが触れた日本人は特定の階級だけではなかった。というのと彼にとってその気風が「名誉心」に見えたということだ。

日本人はたいてい貧乏である。しかし、武士であれ平民であれ、貧乏を恥辱だと思っている者はひとりもいない。……武士がいかに貧困であろうと、平民がいかに富裕であろうと、その貧乏な武士が、富裕な平民から、富豪と同じように尊敬されている。

 「日本人はたいてい貧乏である」「貧乏を恥辱だと思っている者はひとりもいない」この二点において、断言していいが、日本に五〇〇年間進歩も退歩もなかった。それが普通だと思っているのだ。なぜ日本人はそう思っているんだろうと、異国の人にとっては奇っ怪極まることなのだ。ちなみにグローバルに言えば、「世の中には貧乏人に芥子粒ほど関心をもたないすげー富裕者がいる」「貧乏は貧乏人とっても恥辱だし、富裕者にとっては嫌悪」ってなものだろう。

また貧困の武士は、いかなることがあろうと、まだどのような財宝が眼前に積まれようと、平民とけっして結婚しない。

 ここは江戸時代後期から崩れていったようだ。勝海舟もたしかその祖父あたりから武士階級を買ったのではなかった。武士階級は買えたが、富裕な商人は買う気もなかった。勝小吉の父は彼に徹底的に武士と平民の倫理を叩き込んだ。「夢酔独言」(参照)を読むと勝海舟の作り方がわかる。
 で、この婚姻制度における階級制なのだが、明治時代で崩れ、戦後にさらに崩れた。崩れるだけならいいのだが、別種の閨閥となり日本の支配装置になった。私も武家なんでいろいろ思うことがあるが今日は書かない。
 さて、教育はどうだったか。

 住民の大部分は読み書きができる。

 これが実に不思議。未だに日本のスケールの国家で文盲率がゼロなんて国はない。それどころか近代科学知識を欧米語を知らずにそれなりに身につけられる国もない。GHQが漢字をめちゃくちゃにする前は中国人も朝鮮人も日本の翻訳書を読んだ。テニヲハさえ覚えれば日本語の書き言葉なんてアジア人なら普通に読めるんだもの。しかし、その危険性を察した諸外国の権力者は日本語がアジアに普及しないようにしたなーんて陰謀論はいかかが、ダメダメ。

日本人は妻をひとりしかもっていない。窃盗はきわめて稀である。死刑をもって処罰されるからである。かれらは盗みの悪を非常に憎んでいる。たいへん心の善い国民で、交わり学ぶことを好む。神のことを聞くとき、とくにそれがわかるごとに大いに喜ぶ。

 これもまた日本人があいもかわらず不思議なところだ。なぜ「妻がひとり」なんだろ。いやそんなことねーべさという人もいるかもしれないが、概ねそうだし、そのあたりは日本を他国と区別するところではないか。というのと窃盗のなさについても、現代では異論はあるにせよ、やはり概ねそう。
 どうしてなんだろと思うに、私は、先の階級間の婚姻のなさも関連して、実質女が(つまり娘が)私有財産を持つ制度だったことが根幹にあるのではないかと思う。現代日本では、戦前は家父長制度だったとかいうことになっているが、自分の家系をざっくりサーチしても、表向きはそうだけど、実態は女が家を介して事実上の財産権を持っている。そのあたりに諸悪の、もとい、諸現象の根源があるのではないか、とか言ってみるテスト。
 ザビエルはもう一通一五五二年、ヨーロッパに書簡を送っている。その間特に日本人観を変えたふうでもない、というか相変わらずおもろいこと言っている。

私はこれほどまでに武器を尊重する国民に出会ったことがない。日本人は実に弓術に優れている。国には馬がいるけれども、彼らはたいてい徒歩で戦う。……すこぶる戦闘的で闘争ばかりやっている。一番大きな闘争力をもっている者が、もっとも強い支配者になる。かれらは一人の国王をもっているが、もう一五〇年以上もその国王に臣従していない。

 当たり前のようでたらっと書かれているし、戦術が未熟なのだと言えないこともない。が、ようするにそのような戦闘を必要とし、そのような戦闘というプロトコルで国家内の諸権力を均衡させようとする現象、つまり、平和な国民なんじゃないかと思う。武器の筆頭が弓というのも面白い。相手から見えないところで矢を放つ、まるで名無しでブログに嫌がらせコメントを書くように。
 ザビエルは宣教師ということもあって日本の宗教状況にも関心をもち、仏教について言及しているのだが、これがまたまた。

たがいに異なる教義を持つ宗派が九つある。男も女も自分らのもっとも要求する宗派を、その好みに応じて選んでいる。他の宗旨に走ったからといって、これに圧迫を加えるような日本人はひとりもいない。従って一家族のうち、主人はこの宗旨に属し、主婦はあの宗旨を奉じ、子供がそれぞれ他の宗派に帰依しているような家庭がある。日本人にとって、これはきわめて当然のことで、各人は自分の好む宗派を選ぶことがまったく自由だからである。

 このあたり江戸レジームによって日本人の宗教活動は大きく変更させられたかに見える。つまり檀家制度が成立し家に宗教が縛られたかに。ところがドスブイパラダイス。その江戸時代も子細に見ていると、みなさんけっこう御勝手な宗教活動をやっている。というか、かなりめっちゃくちゃ。「歴史探索の手法 岩船地蔵を追って」(参照)とかを読むと、なんつうか苦笑っていうか。いわゆる明治以降のこの手の学問領域って抜本的に疑ってもよさげな空気がありそう。
 日本の近代史では、そうこうしているうちに、ご維新や敗戦があって宗教は再びめちゃくちゃなエネルギーを吹き返して現代に至るわけだ。つまり、五〇〇年前の状況に戻ってしまった。ちなみに、ザビエルの書簡における宗派というのは現代日本では占い師や「霊能力者」とかにするとぴったりかもね。お母さんには細木数子、娘さんは江原啓之、お父さんは……。
 さて、エントリ書くのも飽きた。いい天気だ、ショッピングしておされなカフェにでも行ってくべ。

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2007.05.03

国家と首相の給料

 国家と首相の給料とか言っても大した話ではない。シンガポールのリー・シェンロン首相の給料が、日本の安倍晋三首相の六倍の二億四千四〇〇万円という些細なネタ。そんだけの話。あはは、って笑えるくらい軽い話だ。ちなみに主要国の首相の給料っていうのはこんな感じ。


  • 日本 安倍晋三首相 三千九五六万円
  • ドイツ メルケル首相 四千二〇〇万円
  • 英国 ブレア首相 四千四〇〇万円
  • 米国 ブッシュ大統領 四千七〇〇万円。

 日本の首相なんて質素なものじゃんと思ったら、韓国は二千六〇〇万円くらい。国力の比率でいうとそんなものかというか、そうしてみるとブッシュ大統領が格安か。
 メディアでの話としては産経新聞”シンガポール首相の給与、主要国で突出”(参照)が詳しい。

 発端は4月9日のシンガポール政府発表だった。首相だけではない。閣僚級の年間給与も前年比約33%アップの160万シンガポールドル(約1億2500万円)にするという。メディア管理が行き届いていて、デモも集会も許可制という同国内でもさすがにインターネットに批判が寄せられた。
 パリ発行の国際紙、インターナショナル・ヘラルド・トリビューン(電子版)は「これは給与ではない、腐敗だ」との激越な見出しを付けて、この件を報道。米ホワイトハウスは「ブッシュ大統領の給与は40万ドル(約4700万円)だ」と大統領の給与額を改めて確認し、ブッシュ政権高官が「私もシンガポールに移住する」と匿名で皮肉った。

 産経新聞もまた暢気に皮肉な記事を書いているのだが、この問題に対する国際社会の視線というか温度差というのがなんとも微妙。呆れているというか、強権国家への皮肉なのか。私としてはなんとなく華僑資本や中国への脅威論も隠れているような印象も持つ。べたな話、米国匿名高官の皮肉なコメントだが、皮肉じゃなくてマジでシンガポールには今ぞくぞくと世界のインテリジェンスがおカネにつられてやってきているようだ。その意味で、ちゃんとした政策で機能しているじゃんか、とも言えそうだ。
 同記事にもあるが、シンガポール首相の給与が高いのは突然ではなく「建国の父のリー・クアンユー氏が1994年に、弁護士や銀行家など6つの職業の収入に閣僚の給与を連動させる制度を導入した」ということによる。問題はむしろ首相というより閣僚の問題であって、そのくらいのカネださないと人材を政治に向けさせるに忍びないというご事情がある。
 というご事情ってなんだ? なのだが、このあたりがなんとも微妙。実際のところ、リー・シェンロンはそんなにカネが欲しいわけでもなし、これだけ貰っていても、首相というのをビジネスで見るなら割に合わないし、「極東ブログ: 李下に龍を顕す」(参照)でも少し触れたが、病気もしたから人生の終わりも見据えている人だろう。ということで、この大金というのは、リー・クアンユー爺さんの思惑ということでもあるのだが、その思惑っていうのはなんなのだろう。
 日本ではというか日本のブログの世界ではブッシュはアホとか言わないとコメント欄にネガコメ旅団の通りすがりさんがデデデ大王のように必ずやってくるみたいだが、ブッシュ大統領とかも国力に比してみれば質素なものではないのか。もっとも彼の場合は、ユナイデッド・ステーツ・オブ・テキサスの諸事情もあるにはあるのだろう。それでも、主要国からは突出しているわけでもない。

米紙ボストン・グローブ(電子版)によると、米トップ350企業の最高経営責任者(CEO)の平均年収は、1160万ドルにまで上昇しており、ブッシュ大統領の給与のざっと30倍である。

 米国の場合、大統領ということの名誉がそれ自体の価値だろうし、たぶん、日本でもそういう類型の国家なのだろう。という対比で見るなら、シンガポールには政治家そのものが名誉という価値がないということでもあるのだろう。このあたり、それって中国人的な発想なのかわかりかねる部分がある。
 ネタはその程度なのだが、この件で、矢面に立っているのは、このカネ釣り機構を創出したリー・クアンユー爺さんその人であるようだ。日経”シンガポール首相、年収が米大統領の5倍”(参照)によるとこんなことを言っているらしい、っていうか、なぜ爺が前面に出てくる?

リー顧問相は引き上げについて、優秀な人材を集めるのに有効とした上で「(指導者が)くるくる入れ替わるような政府になれば、国民の資産は消え、住宅の価値も数分の1になる」と強調した。

 爺さんご活発なのはカネだけではない。ロイター”Singapore's Lee Kuan Yew questions homosexuality ban”(参照)とかだともっと微妙な緩和も打ち出している、っていうか、それも人材を寄せるためだろうかとか思ってしまうが。

April 22, 2007
SINGAPORE (Reuters) - Singapore's powerful former prime minister Lee Kuan Yew, acknowledging the view that some people are genetically destined to be homosexual, has questioned the city-state's ban on sex between men.

 これもまたグローバル化ってことでしょうかね。
 ただ、たぶん、どんなに賢人が粉骨してがんばってもシンガポールはいつか歴史の彼方に消えるんじゃないかなという感じはする。

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2007.05.02

誰が「赤ちゃんポスト」という名前を付けたのだろう? そしてマスコミはなぜこの名称を続けているのだろう?

 誰が「赤ちゃんポスト」という名前を付けたのだろう? そしてマスコミはなぜこの名称を続けているのだろう? すごく単純な問題かもしれないが、ざっと調べた範囲では名称の由来はわからなかったし、なぜマスコミがこの名称をそのまま使い続けているのかもわからなかった。どうにも変な気分がするので、些細なブログだけど問題提起しておこう。あるいは単純明快な答えがコメントでいただけたら幸い。
 ネットを見ると同様な疑問を持っている人が多数いる。新聞などにも投書があったらしい。三月一〇日付け産経新聞”【風】「赤ちゃんポスト」の名称に反対”(参照キャッシュ参照)ではこう。


 「赤ちゃんポスト」の名称について、大阪府阪南市の70代の男性から意見が寄せられた。
 《貴紙では「ポスト」の表記は中止していただけませんか。命の誕生を経験した親御さんが、赤ちゃんを手放す悲しみを思いますと、「ポスト」の文字を見るたびに「命の尊厳とは何だろう」と思わず涙が出てまいります》
 別の方から届いたはがきにも《「ポスト」と紙上で言われると、軽薄な感じで嫌な気がします》とあった。赤ちゃんを「荷物」のように連想させてしまうのかもしれない。
 設置を計画している熊本市の慈恵病院は「こうのとりのゆりかご」と呼んでいる。子供を運んでくる鳥、という西洋の言い伝えにちなみ、大切な命を守りたいという願いをこめている。
 理事長の蓮田太二さんによると、発祥の地であるドイツでは、ベビー・クラッペ(Baby Klappe)と呼ばれていた。クラッペとは、扉を開閉するときの擬音語なので「赤ちゃんの扉」といった訳語になる。ほかに「赤ちゃんの巣」の意味でベビー・ネスト(Baby Nest)なども使われていたが、「ポスト」という呼び方は聞かなかったという。

 ちなみに産経の結論はこう。

 名称を再考する余地はあるように思える。だが、「ゆりかご」では親がわが子を手放すという本質を隠してしまうだろうし、親が赤ちゃんを引き取ることもできる仕組みなのだから「捨て子箱」でも違う気がする。
 賛成にしても反対にしても、ここまで反響を呼ぶのは「赤ちゃんポスト」という名称があったからだと思う。もう少し、みなさんとこの問題を考えていきたいので、当面は「赤ちゃんポスト」と呼ばせてほしい。(康)

 率直に言いますね、これ、すげー不愉快です、私。何が「本質を隠してしまう」だよ。本質は社会が育児を引き受けるということだよ。「捨て子箱」の発想ってどうよ、と。しかし、それはさておくとして、反響を呼んだからこれで使っていきましょうっていうのが、そもそもまるで納得できないのだが。
 話戻って。
 慈恵病院が当初「赤ちゃんポスト」と呼んでいたのだろうか。そのあたりも少し調べてみたがわからなかった。市保健所申請時の名称だろうか。だとしてそれは申請側の名称だったのだろうか。
 また「こうのとりのゆりかご」という正式名称があるのになぜマスコミは使わないのだろう。記事では固有名詞ではなく一般名詞だからということか。しかし、他に類例はないのだし、そのままでいいのではないか。
 あるいは、ドイツとかすでに実施している国で、「赤ちゃんポスト」と呼ばれていたのか? これも少し調べてみたのだが、上の投書にあるように、類例はなさそうだ。
 ウィキペディアを見ると、「赤ちゃんポスト」(参照)でべたに項目がある。私のウィキペディアへの感覚からいうとこういうとき、項目見出しに使うのであればなんらかの由来の説明があるべきなのだが、読むに、それがない。微妙にずれた話がある。

慈恵病院での名称は「こうのとりのゆりかご」。同病院が参考にしたドイツではBabyklappe と呼ばれている。英語の Baby とドイツ語の Klappe を合わせた単語である。Klappe とは“パッチと音がして閉まる扉蓋”を意味している。もう一つの呼び名として Babywiege がある。Wiege とはゆりかごを指す。共にドイツ語本来の赤ちゃんを意味する Saugling を用いないで、英語であるところに微妙な心理が伺える。

 英語とドイツ語の項目も見たが、ポストに相当する説明はなく、どうも日本独自の表現臭い感じがする。
 わからない。いつから、「赤ちゃんポスト」という言葉があるのだろう。疑問が元に戻るだけだ。
 新聞のアーカイブをサーチしてみると、少しだけ手がかりっぽい情報があった。〇三年七月一五日付け読売新聞”[世界の社会保障]ドイツ 増える「捨て子箱」に賛否”にすでに「赤ちゃんポスト」という言葉がある。

ベルリン南西部の閑静な住宅街。ウァルトフリーデ病院の入り口脇にある「ゆりかご」の矢印に従って、裏庭を抜けると、やがて産婦人科棟の外壁に埋め込まれた郵便ポストのようなものが現れる。
 ふたを開けると、〈困った母親たちへ〉と書かれた紙片が訴える。〈開閉は一度きり。でも、自分で育てようと思い直せば、いいえ、親だと名乗り出たくない場合でも、一度、我々に連絡をください〉
 それは、「赤ちゃんポスト」とか「ゆりかご」と呼ばれる“捨て子箱”。箱に入れられた赤ちゃんは病院で育てられ、八週間以内に親が引き取りに来なければ、養子縁組の手続きがとられる。
 フランスやオーストリアと異なり、ドイツでは、生みの親が子供の出生を届け出ない「匿名出産」は違法だ。捨て子箱には違法行為を支援する側面がある。だが、ハンブルクやベルリンなど大都市で数年前に誕生した捨て子箱は、今やほぼ全ドイツに広がり、確認できるだけで六十を超えた。

 率直に言いますね、この文章、すげー不気味です、私。なぜ、「それは、「赤ちゃんポスト」とか「ゆりかご」と呼ばれる“捨て子箱”」なんて表現ができちゃったのだろう? そして、「ハンブルクやベルリンなど大都市で数年前に誕生した捨て子箱は」と、文脈の次の登場では”捨て子箱”の引用符が消えてしまうのはなぜなんだろう。
 この文章さらに最初に戻って「郵便ポストのようなものが現れる」とあるのだが、これって、そう思ったから「赤ちゃんポスト」という造語にしたのか、あるいは、「赤ちゃんポスト」という言葉があったから、「郵便ポストのようなものが現れる」という文章の切り出しにしたのか。たぶん、後者なんだろうと思うが(それは日本人の感覚からは郵便ポストには見えないはず)。
 もう一か所引用する。

 ウァルトフリーデ病院では、捨て子箱を設置した二〇〇〇年九月以来、こっそり置かれた赤ん坊をはじめ、計三十四人が匿名出産でこの世に生を受けた。
 同病院で匿名出産の相談を受けるガブリエレ・シュタングルさんによると、産んだ赤ちゃんを殺したり捨てたりする動機は、本人の一時的精神錯乱や貧困、未成熟だけではない。そこにはレイプや近親相姦(そうかん)といった社会の病的現象が暗い影を落としている。ベルリン市の推計では、娘の四人に一人、息子の十人に一人が家庭内で何らかの性的虐待を受けているという。
 「乳児殺しは年間四十件以上報告されているが、それは氷山の一角。病んだ社会で何ができるのかを考えた末に、私たちは匿名出産に応じ、『ゆりかご』も設けたのです」と、シュタングルさん。「産んだ赤ちゃんを切り刻んでトイレに流した母親を私は何人も知っている。そのように葬り去られる可能性のある命を助けることが、どうして悪いのですか?」

 シュタングルさんは、「私たちは匿名出産に応じ、『ゆりかご』も設けたのです」と「ゆりかご」と言っているのに、なぜそれを考察できなかったのだろう。
 しかし、そう記者に詰問できる立場に私もないのだろうとは思う。〇三年時点ではこうした文章が新聞に掲載されて、特に問題も起きていないし、その時点では私も異和感を感じなかったかもしれない。
 とはいえ、最初の疑問に戻って、誰が「赤ちゃんポスト」という名前を付けたのだろう? そしてマスコミはなぜこの名称を続けているのだろう? それがまるでわからない。なぜそれが簡単にわからないのかも奇っ怪だし、その経緯が知りたい。それと、私の意見としてはその名称を止めるべきだ。当面「こうのとりのゆりかご」のままでよいと思う。あるいは、「ベイビーハッチ」としてもよいと思う。それは私たちの社会にとって新しい存在なのだから、しばらくは新しい呼び名でもよいだろうという意味だ。

追記
 捨て犬のための「わんわんポスト」の連想かもしれないという指摘があった。
 ⇒幸せの鐘が鳴り響き僕(r - 赤ちゃんポストの恐怖


最近ではこんなのがわんわんポストと称されているのでひょっとしたら最近の人は知らないかもしれないので、一応解説しておくとかつて有ったわんわんポストとは決して上記のような「かわいい犬の形をした郵便受け」ではなく、飼えなくなった、あるいは飼いきれない程産まれた仔犬を捨てる為の「犬捨て箱」の事である。

 さらに連想だが、白ポストがこうした命名センスの起源かもしれない。
 ⇒白ポスト - Wikipedia

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2007.05.01

エチオピアにおける中国系油田襲撃事件

 エチオピアで中国系油田が襲撃される事件があった。このニュースは日本で報道されなかったわけではないけど、ダルフール危機問題と同じで中国様が絡むとなると、なんとなくその問題はできるだけ触れないでおこうオーラが漂ってくるのかなと感じた。まあ、なんとなく感じたくらいの主観にすぎない。が、少し私が知るくらいのことはブログに書いておこうか。
 まず共同の報道の手口はこう。標題がちょっとわかりやすすぎなのに、背景がわかりずらいのが絶妙。四月二五日付け”「非道で残虐」と非難 油田襲撃でエチオピア首相”(参照)。


エチオピアからの報道によると、同国のメレス首相は24日、同国東部の油田施設が武装グループに襲撃され、中国人9人を含む計74人の作業員が殺害された事件について「非道で残虐な行為」と非難、警備を強化するとともに事件の調査に全力を挙げると述べた。

 たしかに「非道で残虐な行為」だが、それにしても「同国東部の油田施設」っていう表現は心配りがナイス。とはいえ、前日の共同”中国人ら74人殺害 エチオピアで油田襲撃”(参照)ではそうでもなく中国資本とあった、というかAPの引き写しだからか。

東アフリカのエチオピア東部で24日、武装グループが中国資本の油田を襲撃し、敷地内の施設を破壊した上、中国人作業員9人とエチオピア人作業員65人の計74人を殺害した。AP通信などが伝えた。

 朝日新聞は仲良しの国営新華社通信を引き、エチオピア政府報道官による「オガデン民族解放戦線(ONLF)と関連のある勢力のテロ攻撃だ」とする見解を載せ、コメントを加えた。四月二四日付け”エチオピアの中国系油田で74人殺害 武装集団襲撃”(参照)より。

 現場周辺は、エチオピアでは少数民族のソマリ人が多い地域。ONLFはソマリの分離独立などを求める反政府勢力。06年4月にはエチオピア東部で石油やガスの探査を行う外国企業に対し「エチオピアの現体制と外国企業の利益のための行動で、許しがたい」と警告する声明を出している。
 経済の急成長で石油需要が増えている中国は、エチオピアやスーダンなど、治安上の懸念や国際政治上の問題で欧米や日本が手を出しにくい国々で、活発に石油開発を進めている。

 これでこの辺りの状況がわかるだろうか。ざっと読めるのは、ソマリアに関係があるらしい、中国を敵視する勢力があるらしい、スーダンもキーワードになっているな、というくらいか。
 事件はその後、中国人七人の拉致事件となる。二五日付けCNN”中国系の油田を襲撃、多数死亡、拉致も エチオピア”(参照)より。

アフリカ東部のエチオピア政府などは24日、分離独立を求める反政府勢力の武装闘争が続く同国東部にある中国の石油関連企業の油田開発施設で24日朝、武装した約200人の襲撃があり、少なくとも9人の中国人とエチオピア人65人の計74人が殺され、中国人7人が拉致されたと述べた。

 その後、反政府勢力は「オガデン民族解放戦線」と特定され、七人は仲介に当たった赤十字国際委員会を介して解放された。昨日、四月三〇日付け読売新聞”エチオピアの石油関連会社襲撃、拉致の中国人7人全員解放”(参照)より。

同戦線は、エチオピア東部オガデン地方の独立を目指しており、「中国を標的にした訳ではない」と人質の解放に応じた。ただ、中国政府に対し、同地方でエチオピア政府と協力して石油開発するのはやめるよう求めている。

 拉致された中国人が無事でよかったし、とりあえずうまくまとまったというか、ちとうますぎねかみたいな印象もわずかにあり、やはり「同地方でエチオピア政府と協力して石油開発するのはやめるよう求めている」というところまでは中国様のご意向でも丸めるわけにはいかなかったのではないか。
 で、この事件ってなんだったの?
 全体像が示されないので、ある種の偶発事件のようにも見えないこともないが、どう見ても石油利権に関連してアフリカに入り込む中国の問題がまず明確にあり、次にソマリアの問題がある。その辺りをざっくり説明できないものかと思案していたが、フィナンシャル・タイムズにずばり「アフリカにおける中国」問題として、”China in Africa”(参照)取り上げられていた。

Much as China's - and indeed America's - ally Meles Zenawi, the Ethiopian prime minister, might like to be on top of security across the Horn, he is not always able to deliver. His army is the region's most powerful conventional force. But under his rule, Ethiopia is fraying again around the edges. Armed separatist groups are now changing tactics. Unable to match the army on the battlefield, the Ogaden National Liberation Front has chosen the spectacular to draw attention to its cause.
(中国と米国の同盟にあるメレス・ゼナウィ首相は角地域の保全の頂点を極めようとしているが、常に対処する能力があるわけではない。彼の軍隊はこの地域の最大の常備軍ではある。しかし、彼の支配下でも、エチオピアにはほころびがある。武装分離グループはそこで戦略を変えつつある。戦場での武力が均衡しないので、オガデン民族解放戦線は衆目を集めるための劇を選択してきている。)

 単純に言えば、中国と米国が現エチオピア政権に肩入れしたため、エチオピア内の対立派が、目立つテロ活動をするしかなくなった、ということだろう。さらに。

Both horrific events can be attributed partly to fallout from Ethiopia's messy intervention in neighbouring Somalia.
(この二つの悲惨な事件は部分的にだが、エチオピアによる乱雑な隣国ソマリア侵攻の副産物でもある。)

 このあとフィナンシャル・タイムズはイラクにおける米国と同様に、エチオピアは中途半端な侵攻活動によって逆に反乱勢力を活気づけてしまったと続けている。
 中国についてはさらに手厳しい。

China itself has played no overt role. As the Beijing government often insists, it prefers not to meddle in the internal affairs of other states. It does, however - for example by blocking international efforts to rein in Sudan. In Ethiopia, China's commercial activities, which are buttressed by soft loans to Mr Meles's government, inevitably have political implications too. While foreign governments might want to be apolitical, in practice in Africa they never can be.
(中国自身は明確な関与をしてない。中国政府がしばしば主張するように他国の内政干渉を好みはしない。が、実際には国際社会によるスーダン制裁の努力を阻害している実例もあり、実際には内政干渉をしている。エチオピアでも、中国の商業活動はメレス・ゼナウィ首相への長期低利貸付で支援することで、必然的に政治的な意味合いが生じる。アフリカにあっては、対外国がいかに非政治的であろうとしても、現実には実現しない。)

 アフリカにおいて非政治的な経済活動の関与はありえないとする、フィナンシャル・タイムズの割り切り方はやや極端かもしれないが、現実的な認識だろう。
 フィナンシャル・タイムズはこの文章で締めにして、その先をあえて語らない。が、もう一度今回の事件を眺めて見ると、その含みもわかるだろう。

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