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2007.04.29

「自然」という言葉を愚考する

 世の中は連休である。私も泳ぎ終えた午後のけだるさに新緑の木陰でぼうっとしながら「自然」という言葉を考え、そして奇妙に考え込んでしまった。というわけで、その愚考をネタに。
 「自然」という字面の言葉は恐らく仏教用語として日本語に定着したのだろう。親鸞の教えにも自然法爾(じねんほうに)があり「じねん」と呉音で読ませる。してみると平安時代には定着していたのかと字引を見ると、源氏物語の用例もあるが、「自然にそのけはひこよなかるべし」のように副詞で用いるらしい、というところでうかつにも今頃気がついたのだが、自然法爾とは自然に法爾ということかもしれず、「自然(じねん)」自体が平安初期までに客体的な概念であったかはわからない。
 が、後期の親鸞にとっては、阿弥陀は自然(じねん)を知らしむる料なりというように、阿弥陀と自然は同義であるか、むしろその思想においては自然が本体であり、阿弥陀はその表象でしかなかったことだろう。親鸞思想においては「自然(じねん)」は客体化している。
 「自然(じねん)」に対して、現代日本人が使う「自然(しぜん)」だが、これは恐らく明治時代にnature(ネイチャー)の訳語として創造されたものではないかと推測するが、私の手元の字引などからはわからない。
 ただ、「しぜん」という読みまでもが訳語としてできたかわからないなというところで、そういえば、脳裏に「自然の事候はば」という句が浮かぶ。ご先祖様のDNAが語るものであろうか、これは「しぜんのこと」と読むべきではないのだろうが、なんとなくそう読んできたな。そして、うかつにもこれも今頃気がつくのだが、言うまでもなく「自然の事」とは「相果て候はば」である。単純に言えば、死ということなのだが、どうも、ご先祖様たちの声の陰影の「自然の事」や「相果て候はば」の言はただ死というものとは違う。私の個人的な感覚の問題かもしれないが、死という言葉と、自然の事や相果つ事には何か語感が違い、生き方に問い掛けてくる独自の心情がある。
 訳語としての自然(しぜん)に話を戻し、これはnature(ネイチャー)が原義だろうがと字引を逍遙するに、φυσις の訳語でもあるらしい。なるほど、考えるまでもなく、natureはラテン語のnaturaによるものだし、ラテン語は事実上ギリシア語をベースにした古代の人造語なので、naturaの語感はそのままφυσις の訳語であったことだろう。
 このあたりで、「極東ブログ: ハイデガー「技術論」から考える新しいゲシュテル」(参照)を連想するが、ハイデガーにとっては、すでにnatureとφμειζは異なるものであったに違いない。もっともハイデガーは自身が言うように古代ギリシア的なものかはちとわかりかねるが。
 なにやら衒学的な話になりつつあるが、natureの訳語としての「自然」について、ウィキペディアでやや奇妙にお節介な解説(参照)を見かけた。


(注)ヨーロッパ諸語では、自然は本性(ほんせい)と同じ単語を用い「その存在に固有の性質」をあらわす。(例えば、英語・フランス語の「nature」がそれである)。外国語文献の翻訳を読む際には「本性」の含みがないか常に留意すべきである。例えば「自然と人為」などという対比にぶつかった時、そこでの人為には単に「自然物に対して手が加えられた」という意味だけでなく「人為によって本性が捻じ曲げられた」というニュアンスが含まれているかもしれない。西洋では自然と人間を完全に分離した考えを持つが、日本では人間は自然の一部と考える。また、日本には江戸時代まで「自然」という言葉はなく、開国後に「nature」等の外国語を訳する際にできた言葉だと思われる。

 「西洋では」以下の下りが眉唾ものだが、前半の指摘は失当とも言えない。というあたりで、実は、私の愛読書でもある Nature and Human Nature という書題はどう訳すべきかと悩んだ。べたに訳すなら「自然と人間性」ということになるが、まさにそれこそこのウィキペディアさんの忠告に反しているようでもある。
 悩みが深まったのは、Human Natureが人間の本性であるのはよいとして、ではそれに対句となるNature自体はいったい何の本性なのだろうか? 「その存在に固有の性質」というメタクラスって何なのだろう?
 なんとなくだが、これはスピノザ風味ウルトラ・グローバル・オブジェクトみたいな存在というものそれ自体の、その存在の固有の性質ということで、被造物の対立概念なのではないか、というあたりで、社会学の古典であるホッブズ、ロック、ルソーだのの自然状態(State of nature)を連想した。ちなみにマルクスの思想というのはヘーゲルとこの自然状態の思想のアマルガムかもしれないなともちらと思った。
 ウィキペディアのState of natureを見ると意外にも日本語の解説がある(参照)と驚くようではいけない。この古風っぽい自然概念は依然、自然法や自然権など法学のべたな基礎概念になっているはずだし。

 「自然状態」は、17~18世紀のヨーロッパにおいて、社会契約説を成り立たせるための理論的架空として政治哲学者達が案出した。代表的な論者にトマス・ホッブズ、ジョン・ロック、ジャン=ジャック・ルソー等がある。社会契約説は今ある政治体が人民を支配する根拠付けとして、人民自らが契約して政治体を作ったからとするもので、必ずしも政治体の発生史を正確に跡付けている保証はないが、政治体の存在を当たり前のこととせず、人民が省察して良いのだと転換したことに大きな意義がある。この社会契約説が当代または後代、ヨーロッパの市民革命の理論的基礎となったのである。
 自然状態をどう見るかによって次節のように以後の議論が分かれるが、いずれも自然状態を、それだけで完全に自足的かつ持続可能な状態とは考え得ないことで共通している。であればこそ、わざわざ無限の自由を捨てて、人間は社会契約を結び、政治に縛られる社会状態へと入るという選択を余儀なくされるのである。
 政治体の存在根拠を求めて自然状態論に行き着いた彼らは、思想史的に考えれば、当時猛威を振るっていた「王権神授説」に対抗するために、極めて慎重な議論の歩みを進めたと評価できる。王権神授説が聖書を根拠にする以上、それを凌駕する緻密さが必要とされたのである。

 これも前半はよいのだが、後半になるにつれ、あれまという展開になってくる。いや間違いとも言えないのだろうが、「王権神授説」に対抗するというより、時代精神に関連したものだろう。というあたりで、それって啓蒙主義だよなと、ウィキペディアを見るとこれも解説があり(参照)、この解説にはなかなか味わいがある。

啓蒙主義は科学者の理神論的あるいは無神論的傾向を深めさせた。イギリスにおいては自然神学が流行したが、これは自然科学的な方法において聖書に基づくキリスト教神学を再評価しようという考え方である。この神学は神の計画は合理的であるという意味で既存の聖書的神学とは異なり、啓蒙主義的なものである。自然神学の具体例としてはイギリスのバーネットをあげることができる。バーネットは聖書にある(ノアの方舟物語における)「大洪水」を自然科学的な法則によって起こったものであると考え、デカルトの地質学説に基づいて熱心に研究した。また啓蒙主義の時代には聖書を聖典としてではなく歴史的資料としての文献として研究することもおこなわれた。キリスト教的な歴史的地球観とは異なった定常的地球観が主張され、自然神学などでも支持された。

 ポイントは、自然神学である。というか、「自然科学的な方法において聖書に基づくキリスト教神学を再評価しようという考え方」は逆なのではないかと少し思った。
cover
ケプラーの憂鬱
 少し推測を入れて書くと、べたにパスカルのパンセを読んだ人ならこれがアンチ・イスラム神学として企図されたことがわかるように、当時はイスラム神学の理神論が西洋を浸していた。その理神論的な動向からいわゆる自然科学と自然神学が形成され、そこから、逆に自然概念が、いわゆる被造物と対立したのではないだろうか。このあたりは、まさにトーマス・バーネット(Thomas Burnet、1635年? - 1715年)あたりを研究しないとあまり踏み込んで言ってはいけないのだろうが。が、ケプラーとか読むとその中間的なアレゲ性が絶妙に微笑ましい。
 推測はある程度控えても、自然神学がイギリスにおける自然概念に関わり、そこから自然状態の考え方が出てきたとは言ってもよいだろう。背理的に言うなら、べたなキリスト教であれば自然状態とは楽園の追放そのままであるだろうから。
 かくして自然状態という方法論が科学的に設定されることで、諸学が起源論を、キリスト教から独立して展開するようになる、どころか、学がイコール起源論になってしまった。現在に至る法学の元の社会哲学がそうだし、マルクス主義にも混入している(べたなところで貨幣の起源論とか)。
 ルソーの言語起源論は今も読み継がれるが、言語起源なども言語学としてよく議論された。進化論も人間起源論の亜流なのだろう。
 というあたりで、ふと起源論とはくだらないものだなと歎息し、近代合理主義やそこで形成される国家というものも起源論に呪縛された悪しき一例なのだろうなと呟く。が、さて、このあたりはちと話が勇みすぎたか。

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コメント

こちらの方を見て、ちょっとおどろきました、出だしまさしくそこと感じ、自然についてなげかれるのはしかりのようで、わたしにできることはおぼつかないものの、手元の古い辞書に
「自然に...思はるる思はれぬがあるぞ、いとわびしきや」(枕)、それから太平記などにも少し災めいた思いがけぬ事として書かれていると。
言葉って生き物は、読めば活きかえるから不思議です。
ずっと、目にかこつけて読んでいないところを、足元すくわれたような、でも、なんだか自分の嘆かわしく思うところへやはりゆかねばと感じました。(いたづら書きばかりしてるのですが。)
風の翁の流儀で、契沖、宣長ずーーっときて、小林秀雄のなげきのあと、まがぬけているところをいつか、、、どこからか科学などともとそうてくるのではと。

投稿: やまふば゙ | 2007.04.29 21:10

トリビアルで恐縮ですが、φμειζ phmeiz でなくてφυσις physis ですね。

投稿: prasinos | 2007.04.30 01:47

prasinosさん、ご指摘ありがとう。恥ずかしいミスでした。修正しました。

投稿: finalvent | 2007.04.30 07:11

ラテン語にギリシア語からの借用語彙が多いのは事実ですが、人造語は言い過ぎかと。
ギリシア語とは言語のグループも異なる歴とした一言語ですよ。
日本語は事実上中国語をベースにした人造語というのなら別ですが。

投稿: drp | 2007.05.01 11:54

人間が自然を対象として観察するとき、規則を見つけようとするんだけども(別に規則を見つけようとしなくても良い、ただ自然について考えるだけでも同じこと、後自然の女神のベールをめくるとか。)そしてそれは正しいんだけども、ねじれちゃって、制約を課す事によって、自由(自然)を自分のものにしようとする(例えば革命権とかね、まあ何でも良いけど、例えば何か始める時に、意味もなくストイックになったりするのもそう、あれ何だろうね・・・)。制約に何の根拠もない。自然「について」考えた時点でもう制約なわけだから、制約から出発しようと。・・・そして制約さえあれば良いと。自然を神と置き換えても自由と置き換えても真理と置き換えても良い。制約を必ず人間は持ってくるそりゃ持って来ざるを得ないわけだから、持って来る。別にいいよ、持ってきても(傲慢だよな、人間)。ただ慎重にね。後、良くあるのが、まぁいろいろ考えたけどよくわからねーや、と言うもの。これも尤も。人間なんてちっぽけなもんでさ、とか言うやつ。ただこれも慎重に。でも、みんなこれをやる。誰かに命令でもされたのか、みんなこれをやる。これが嫌なんですね、規則がないはずなのに規則があるのが。神の見えざる手なのが。もう書くことは決まってるわけです。自然、自由、神・・・もう語られつくしたと言う事か。嫌なオチだ。

投稿: nakamuramiu | 2007.05.05 22:13

自然という言葉自体、人間が作り出した言葉に過ぎないと思います。概念だけで考えるならば自然とは全てであり、全ては結局必然的に自然となる。つまり人工も不自然もなく、自然だけなのです。だが認識的に考えれば人工も不自然も自然の一部になります。この世の全ては相対して成り立っているので、それだけに人は考える動物として無情な物質や低知能な動物と区別したいが為に自然と人工としたのでしょう。芸術品を精神的な物として捉えたい様に。

投稿: | 2010.03.17 15:51

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