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2007.04.24

マインドフルネスとしての仏教

 先日のエントリ、「極東ブログ: 仏教の考え方の難しいところ」(参照)関連の補足というか余談のような話だが、きっかけはこのエントリにコメントしていただいた、dankogaiさんの404 Blog Not Found”書評 - 仏教は心の科学”(参照)である。私の該当エントリの問い掛けについて、こう答えられていた(余談だが、実は私が想定していたのは輪廻に関連したことであったのだが)。


本書はこういう疑問を抱く人のために書かれたのだから。

本書「仏教は心の科学」は、スマナサーラ長老の法話集。と書くと、最近とみに増えてきた「Yet Another 仏教本」という印象を受けるかも知れないが、「元祖仏教」、いやブッダの言葉は実に

404 Blog Not Found:ブッダ―大人になる道

実に単純で明快で痛快
なのである。


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心ひとつで
人生は変えられる
ダニエル・ゴールマン
 として、スマナサーラの著作を「仏教」ないし「元祖仏教」として紹介されている。まあ、その点やこのエントリについて仏教論を展開する必要はないと思うが(参考:極東ブログでの「仏教」関連エントリー検索)、おそらくdankogaiさんは、先のエントリで引いた「心ひとつで人生は変えられる(ダニエル ゴールマン)」(参照)をお読みになっていないだろうと思ったので、この機会に少しマインドフルネスとヴィパッサナー瞑想について触れておいてもいいかもしれない。このところのエントリでなんとなく重なる部分もあったからだ。
 まず、「心ひとつで人生は変えられる(ダニエル ゴールマン)」だが、この第六章「マインドフルネスが生き方を変える」で、マインドフルネスないしマインドフルネス瞑想について触れられている。これは、スマナサーラ長老らが提唱というか指導しているヴィパッサナー瞑想から展開されたものだ。なので、とりあえずこの部分までの補足をすると、「心ひとつで人生は変えられる(ダニエル ゴールマン)」についてはもっと総合的に理解されてもいいし、ヴィパッサナー瞑想についてダライ・ラマがどのような関心を持っているかも興味深いものがある。
 なお、同書第六章「マインドフルネスが生き方を変える」だが、私が知る限りだが、マインドフルネス・ベースト・ストレス・リダクション(MBSR:Mindfulness-Based Stress Reduction)について日本語で読めるもっとも詳しい解説になっている。
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ヘルシーエイジング
アンドルー・ワイル
 MBSRについては「極東ブログ: 五十歳かあ」(参照)で触れたワイル「ヘルシーエイジング」(参照)にこのように紹介されている。

 仏教心理学もまた、われわれの注意を選択の可能性にむけてくれる。古い習慣を捨て去り、新しい習慣を身につけるべく訓練することでによって、それは生起するできごとの意味を変え、大いなる自由を経験するための手助けとなるものだ。仏教の伝統に学んだ瞑想法のひとつ、「マインドフルネスベースト・ストレスリダクション」(MBSR)を医療に導入して、慢性疾患の改善、生の質の向上、現代医学では治療できなかった症状の解消などに成功してきた例を、わたしは目撃してきた。
 MBSRは原因はなんであれ、慢性疼痛にたいしてとくに有効である。その瞑想法を学び、実践していくほどに、患者は身体的感覚の解釈における自由度が高まってくるのを実際に経験する。

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ブッダの瞑想法
ヴィパッサナー瞑想の
理論と実践
 ヴィパッサナー瞑想については、ネット上にもリソースが多いが、スマナサーラ長老によるもの以外では「ブッダの瞑想法 ヴィパッサナー瞑想の理論と実践(地橋秀雄)」(参照)が実践的な指針としてはわかりやすい。
 実際上西洋人化している日本人にとっては、元のヴィパッサナー瞑想よりMBSRのほうが有効かもしれないが、なかなかそうした指導を受ける機会はないだろう。

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コメント

宗教というものの捉え方は、極めて人文主義的であり、それをつきつめていったところで、せいぜい心理学的な分析にすぎぬのではないでしょうか。

瞑想を神秘的に捉える方も多いようですが、所詮、「怠け者の修行」に過ぎぬ。

極めて伝統的な修験の修行に思いをいたせば、人文主義的世界の限界、言語の限界というものも見えてくるのではないかと考えています。

そもそも、知などという頭脳限定で、仏の道が見えるはずもなし…。

まずは肉体を使い、そして肉体を越える。

オウムは、肉体をご都合主義的に使おうとしたから、肉体を越える世界に到達できなかった。

そんなことを考えています。

ありがとうございました。

投稿: スポンタ | 2007.04.24 19:00

ふと、文盲になって「あ ふあ れ」に生きて逝くことを思いました。老眼の気づきかも。
ごめんなさい。 

投稿: 都市に棲む山姥 | 2007.04.25 01:34

オウムは、肉体をご都合主義的に使おうとした?
肉体を越える世界に到達できなかった?
言語の限界??

とてもご都合主義的な論理で恐れ入ります。
限界だとか越えるとか、どうしてそんな言い方をするのでしょう。
人の業の深さを感じる発言でしたよ。

投稿: 通りすがり | 2007.04.25 02:50

オウムのアレは身体を酷使し過ぎた結果だよ。
やりすぎはなんでもよくないってか。
ほどほどにしとけば健康にいい、ってな話で。

投稿: cyberbob:-) | 2007.04.25 07:10

たびたびすみません。

ここに書き込むのは私の業(カルマ)という指摘、ごもっともです。

「越える」とは、空(くう)のことを分かりやすく書いたまでです。

すべての言論はご都合主義。

私とて、生きるためのご都合主義を生きているという批判から逃れられるものではありません。日々、凡夫としての泥まみれの道を歩んでいる思いです。

ご批判。ありがとうございました。

そして、若槻嬢がブログのコメント欄を閉めて話題になる昨今、このような発言の場をあたえてくださっている管理人さんに感謝いたします。

ありがとうございました。

投稿: スポンタ | 2007.04.25 09:59

オウムの話になるといじめだの差別だのといったつまらない話に矮小化させてしおうとする勢力は常に存在しますね。
http://www.ohmynews.co.jp/news/20070423/10399
なかなかこのエントリのような形で深まっていかない。
そういった雑音に遮られて、結局は危険な組織がそのまま存続してしまうわけですね。
>教団内には事件の反省をしていないものがいる

投稿: MARBLE | 2007.04.26 00:08

スポンタ様:

>瞑想を神秘的に捉える方も多いようですが、所詮、「怠け者の修行」
>に過ぎぬ。
いえいえそんなことないです。正確な方法で瞑想を行うと雑念は綺麗に消えていきます。
むかつくことがあったときに、トイレの鏡の前で行うと、それなりに効果的であったりします。

確かに殊更に神秘的に扱うのもどうかと思いますが。。。


投稿: キングフラダンス | 2007.04.26 08:08

キングフラダンス様

言及ありがとうございます。

瞑想を否定しているのではありません。

しかし、瞑想が目的にしているのは、個の消滅であり、そのように個に捉われないということも、もうひとつの意味で、個に捉われている…。

*

私は、NHKの「こころの時代」で、1000日44キロの山行修行と、9日間の飲まず食わず寝ず伏せずの修行をした修験者の話を見たことによる感想をコメントにしてしまいました。
この四無の業の9日間では、なんと4日目ごろに死臭が修行者から漂うそうです。

昨日も、仕事の最中にお客さんと話たのですが…、

お客さん「やっぱり山で修行をしなきゃだめでしょうかねぇ」。
私、「いやぁ、山で修行をしたにしても、何かを得ようとして、修行をしても、結局のところ価値ある修行になどなりはしないでしょう」。

そのお客さんは、私にシュタイナーを紹介してくれた人。彼は、父親の早世で感じたさまざまな悩みの先にシュタイナーに出合ったそうです。

*

番組に出ていた修験者は、衆生救済のために荒行をなされたという。
妻子さえ、まともに救済できぬ私に到達できるような境地ではもともとないのです。
(^^;)

ありがとうございました。

そして、この場を与えていただきました管理人さんに感謝もうしあげます。

投稿: スポンタ | 2007.04.26 09:28

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