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2007.04.21

[書評]中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて(島田裕巳)

 大変な労作だと思うし、この一作をもって私は島田裕巳への評価を変えることした。粗方は想定していたことでもあり、驚きは少なかったとも言えるが、いくつかかねて疑問に思っていたことやミッシング・ピースをつなげる指摘もあり、貴重な読書体験でもあった。
 ただ、読後自分なりの結論を言えば、あの時代島田裕巳を批判していた人々と同じ地平に島田裕巳が立ってしまっているのではないか、そうすることで暗黙の大衆的な免罪の位置に立とうしているのではないかとも思えた。もっとも、彼の意識の表出としてはこれ以上はないというくらいきちんとした反省の思索の跡が見られるので、それは批判ということではない。

cover
中沢新一批判、
あるいは宗教的
テロリズムについて
島田裕巳
 
 本書がどのような本であるかについては帯書きがわかりやすいと言えばわかりやすい。

初期著作でオウムに影響を与え、麻原彰晃を高く評価し、サリン事件以後もテロを容認する発言をやめない中沢新一。グル思想、政治性、霊的革命、殺人の恍惚などの分析を通して、人気学者の"悪"をえぐる!

 帯書きなのでしかたがないといえばしかたがないのだが、本書が描くところは実際にはこの帯書きとは異なる。中沢新一が「初期著作でオウムに影響を与え、麻原彰晃を高く評価し」たということは概ね事実としていいし、本書はその経緯をよくまとめている。これだけの資料を読み込むのは大変なことだっただろうし、渦中にあった島田裕巳にもつらいできごとだっただろう。幸いにして島田にはこの手の思索家にありがちなどろっとしたルサンチマンの感性が欠落しており(それが欠点でもあるが)、中沢への批判の叙述にもそうした党派制は感じさせない(人によってその印象は違うかもしれないが)。しかし、本書の大半が中沢新一個人と古いタイプのコミュニズムにフォーカスし過ぎているきらいはある。恐らく、中沢の問題はそうしたイデオロギーと個性の問題より、島田が回想的に語る中沢の院生時代の生活にむしろ中沢という人間の本質的な問題がありそうに思える。
 帯書きに戻る。ここで難しいのは、「サリン事件以後もテロを容認する発言をやめない」というときの時間経緯のスコープである。本書に詳細に追跡されているが、サリン事件から世の中がヒステリックなバッシングに沸騰するまでの間、意外なほど中沢新一は語っていたが、その後表向きの語りは見えなくなる。問題はまずこの時点での中沢のメッセージというのがある。だが、島田が執拗に追ったように、さらにその後中沢は表向きの沈黙の背後でピア・グループ的な語りを継続しており、しかもそれが後のアレフにもつながっているらしい。このあたりが、現在的な視点で言えばかなり重要だろう。オウムの下っ端残党をネットで(目眩まし的に)バッシングしていることより、ネットから見えない部分の、中沢新一の、間接的であろうと思われるが、その影響をどう考えればよいのか。島田はその危険性を強調しているし、その強調の語りは、通常なら控えるべき想定まで踏み出している。
 もう一点、あえて出版者側のコメントを引用する。

「サリンでもっと死者が出ていたら、どうだっただろう?」と非公式の場で発言し続ける中沢新一。その真意はどこにあるのか? いまだにオウムに影響力のある彼の著作や言動から、テロを煽り続ける理由は何なのか、宗教的テロリズムとの関連で解き明かす。

 出版社の意図を知る上ではよいとして、「非公式の場で発言し続ける中沢新一」という書き方・表現方法は言論のありかたとしてはルール違反にも思える。この発言は島田が指摘しているように、単一のものではないがその核にあるのは、高橋英利への中沢新一への「指導」だ。
cover
オウムからの帰還
高橋英利
 ここで非常に微妙な問題が浮かび上がってくる。本書で島田が中沢を追求するときの、かなり大きな軸足となっているのが、元オウム信者の高橋英利の証言によることだ。だが、彼の「オウムからの帰還(高橋英利)」(参照)にはこの発言が含まれていない。ここまで私が言えるか自信はないのだが、島田のこの本が上梓されたのだから、高橋の手記にもそれを含めての増補版なり続編があってしかるべきではないだろうか。同手記は、事実の追求としては冷静に書かれており、今回の島田の作品の読後読み直すと随分印象が変わり真相への推測を深めることができるのだが、それでもこちらの作品全体は、「オウムと私(林郁夫)」(参照)同様、ある種大衆の意識迎合的な安全弁になっている。
 この関連で非常に微妙なのだが、島田の指摘に私にははっとさせられるものがあった。まずその前段として「憲法九条を世界遺産に(太田光、中沢 新一)」(参照)に関連して。

 憲法についての議論のなかに、恍惚という概念が登場するのは奇妙である。そこが、『憲法九条を世界遺産に』のユニークな特徴なのであろう。だが、殺人や自殺の魅力が語られ、そこに恍惚感が伴うことが強調されている点は無視できない。
 大田は、「幕間、桜の冒険」を書くにあたって、中沢の強い影響を受けただけではなく、彼の巧みなリードに導かれているようにも見える。


 しかも中沢は、すでに指摘したように、自分が直接発言した形になるとあまりに直裁すぎる部分にかんしては、太田に代弁させている。

 はっとさせられたのはこの先だ。

 こうした中沢のやり方は、彼がオウム真理教の元信者、高橋英利に、サリン事件の被害者が、一万人、あるいは二万人だったら別の意味合いが出てくるのではないかと問い掛けをしたときのやり方に似ている。中沢は、別の意味合いがある可能性を示唆しているだけで、その別の意味が何なのかを説明していない。その意味合いが何なのかを高橋に考えさせ、彼からことばを引き出そうとしている。高橋は、太田とは異なり、中沢に反発し、中沢の意図通りに導かれることはなかった。だが、高橋が反発しなかったとしたら、彼は、中沢の代弁者に仕立て上げられ、霊的磁場の劇的な変化といったサリン事件の意味を語っていたことであろう。

 高橋が反発したのは、二つの背景があるだろう。一つは先の手記でも明らかだが、当初から彼は疑念の(やや混乱した)認識をオウムに持っていたこと、もう一つは彼が安全弁の役を過剰に引き受けたことだ。中沢と高橋の関係は、あたかも杜子春の物語のように大衆に受け入れられている。
 本書は、宗教学的な文脈では、平河版「虹の階梯―チベット密教の瞑想修行(ケツン・サンポ、中沢新一)」(参照)と「改稿 虹の階梯―チベット密教の瞑想修行(中沢新一、ラマケツンサンポ)」(参照)が、オウム教団とどのような関わりを持ったかが詳細に議論されたことが貴重だろう。私もかなり納得できるものだった。特に、同書で中沢がターゲット・ビジョンを提示し、麻原がメソッドを提示したという島田の説明はかなり説得力がある。ただ、島田は麻原のメソッドの側のロジックは追っていない(たぶんそれは単一的に麻原に帰着する形では存在しないのではないか)。
 まとまりのないエントリになったのだが、私自身にこの問題について書くことにためらいがある。特に「ヴァジラヤーナ決意」に関連した部分について、島田はよく追求したなと思うし、私の印象ではまだこの部分について控えている思索があるとも思える。この問題は十年以上も考え続けてきた。私がブログの世界から消えていないのなら、島田の次考、あるいは島田を継ぐ人の考察を待ってみたい。あるいは、この問題について語りうる能力のある人が、消されることなく、事実と印象の系列よりも深いレベルにおいて、語り出すのを待ってみたい。

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コメント

凄みのあるエントリーです。
言葉になりません。

投稿: Applood | 2007.04.21 12:10

中沢新一流行ってるからかな、とか。
ある種の迎合主義。

投稿: cyberbob:-) | 2007.04.21 13:35

30代半ば、一人暮らしをしていたとき、ある夜、若い男のオウム信者が訪ねてきました。勧誘のために。私はその頃ちょうど、「ヘーゲル哲学史講義」のインド哲学の編を読んでいました。そのなかに、生まれ変わりが信仰されていると、書いてあったのですが、オウム信者も「自分はカエルの生まれ変わりだ」と喋ったんで、ああ、このことかと思いました。当時は坂本弁護士一家不明事件が、マスコミ、共産党系弁護士団体で騒がれ、支援運動されていたころで、私もほんの少し支援に関わっていました。私は、彼に、事件現場にプルシャのバッジが落ちていたのだから、絶対、オウムの仕業だと、詰め寄りました。5,6回ほど私の家にやってきたでしょうか。共産党の支部長と一緒に、彼をオウムから脱会させようと、説得も試みました。そのうち来なくなりました。
中沢新一の「始まりのレーニン」はおもしろかったですよ。私にとって初めての中沢作品で、まさに「始まりの中沢新一」。ドイツ哲学をもう一度勉強したいという動機になりました。もちろん、中沢の神秘主義というか、それも感じられて、そのへんは、おかしいと思いました。中沢とオウムの関係は、最近知りました。

投稿: うみおくれクラブ・ゆみ | 2007.04.21 20:33

「おまえ(=島田)なんぞ、オウムのラーメン屋で出前持やってりゃあいいんだよ!!」
「大衆の意識迎合的」なオウム糾弾論説w番組(朝生だったかな?)で、宗教学者センセから怒鳴られた島田センセがベソかいてたのを思い出すな~(遠い目

NHKで番組までもってた(今の脳内学者wとかいう天然パーマ野郎みたいに)島田センセにすれば、月刊誌新潮45のオウム本部訪問記事でサリンプラントを隠して建てられた発泡スチロール製大仏にまんまと騙されてオウムをヨイショした間抜けぶりはさておいて、世間から袋だたきにされたあげく大学までクビになった自分に比べ、ウマウマと世渡りしてる中沢を横目で見て、「中沢のヤロ~絶対許せん!」となるのは当然ではありますねwww

関東では放送してない「たかじんのそこまで…」とかいう番組に島田センセがゲストで出演したときも、中沢センセの批判をさんざんしてましたよ。
でも、中沢センセはこれからも女子大生入れ喰いで、上~手に世渡りしてくんでしょうね~
学者業界も「格差社会」ですかね?www

投稿: TT | 2007.04.22 00:29

×月刊誌新潮45
○月刊誌新潮30(廃刊

投稿: TT | 2007.04.22 00:34

オウムの真相は、一部ではすでに知られていますよ。
http://www15.ocn.ne.jp/~oyakodon/kok_website/fireworks4/oumuseiri_index
中沢新一と関係ないけど。

投稿: 追求人 | 2007.04.27 15:45

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