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2007.04.30

シュニッツェル(schnitzel)っていうか牛カツっていうか

 たまにシュニッツェル(schnitzel)っていうか牛カツが食べたくなる。安くて固そうなステーキ肉を見ると、こりゃいいとか思う。子牛の肉ではない、私の場合、たいてい。
 脂身のところを切り落とし、肉叩きでたんたんと叩いて平べったくする。小麦粉をつけ溶き卵を潜らせてパン粉をつける。普通のカツと同じ要領。これをフライパンのオリーブ油で揚げる。カツの色になったら取り出して、黒こしょうと塩をぱらぱらとかける。これでお終い。食べるときにレモンを搾ってかけてもいい。
 簡単料理とも言えないこともないが、揚げ物っていうかフライは慣れないと難しいかも。もちろん、トンカツを揚げることができるなら簡単な料理の部類になる。

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 添え物は……そりゃ、ポテト? ライス? ノンノン、そりゃもうヌードルに決まっているでしょ。


Cream coloured ponies and crisp apple strudel,
Door bells and sleigh bells and schnitzel with noodles
Wild geese that fly with the moon on their wings,
These are a few of my favorite things.

 というわけで、ヌードルは手打ち。パスタマシンがあれば簡単にできる。バターで味付け。

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 ところで私って関西人? いや、シュニッツェルっていうか牛カツを食べるようになったのは、もう二十年以上も前になるのかと歎息するけど、村上春樹のエッセイで知ってから。実際に関西風の牛カツというか肉厚の牛カツは、率直に言うとあんまり好きでもない。好きなのは、ウィンナー・シュニッツェル的なやつ。
 たまに行くスイス料理屋のメニューにあるので、作るのがめんどくさいときは行って食べる。さっきの歌ではないが、オーストリアの料理なんだろうか。
 逸話としては、ラデツキー元帥(Johann Joseph Wenzel Graf Radetzky von Radetz)がオーストリアにもたらしたものという話がある(参照)。


According to another theory, it was introduced by Field Marshal Radetzky in 1857. The term "Wiener schnitzel" itself dates to at least 1862.

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サウンド・オブ・
ミュージック
DVD
ジュリー・アンドリュース
 その説だと日本でいうと明治維新の少し前の頃になるが、そんな時代を映すほどの料理でもないような気もする。

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2007.04.29

「自然」という言葉を愚考する

 世の中は連休である。私も泳ぎ終えた午後のけだるさに新緑の木陰でぼうっとしながら「自然」という言葉を考え、そして奇妙に考え込んでしまった。というわけで、その愚考をネタに。
 「自然」という字面の言葉は恐らく仏教用語として日本語に定着したのだろう。親鸞の教えにも自然法爾(じねんほうに)があり「じねん」と呉音で読ませる。してみると平安時代には定着していたのかと字引を見ると、源氏物語の用例もあるが、「自然にそのけはひこよなかるべし」のように副詞で用いるらしい、というところでうかつにも今頃気がついたのだが、自然法爾とは自然に法爾ということかもしれず、「自然(じねん)」自体が平安初期までに客体的な概念であったかはわからない。
 が、後期の親鸞にとっては、阿弥陀は自然(じねん)を知らしむる料なりというように、阿弥陀と自然は同義であるか、むしろその思想においては自然が本体であり、阿弥陀はその表象でしかなかったことだろう。親鸞思想においては「自然(じねん)」は客体化している。
 「自然(じねん)」に対して、現代日本人が使う「自然(しぜん)」だが、これは恐らく明治時代にnature(ネイチャー)の訳語として創造されたものではないかと推測するが、私の手元の字引などからはわからない。
 ただ、「しぜん」という読みまでもが訳語としてできたかわからないなというところで、そういえば、脳裏に「自然の事候はば」という句が浮かぶ。ご先祖様のDNAが語るものであろうか、これは「しぜんのこと」と読むべきではないのだろうが、なんとなくそう読んできたな。そして、うかつにもこれも今頃気がつくのだが、言うまでもなく「自然の事」とは「相果て候はば」である。単純に言えば、死ということなのだが、どうも、ご先祖様たちの声の陰影の「自然の事」や「相果て候はば」の言はただ死というものとは違う。私の個人的な感覚の問題かもしれないが、死という言葉と、自然の事や相果つ事には何か語感が違い、生き方に問い掛けてくる独自の心情がある。
 訳語としての自然(しぜん)に話を戻し、これはnature(ネイチャー)が原義だろうがと字引を逍遙するに、φυσις の訳語でもあるらしい。なるほど、考えるまでもなく、natureはラテン語のnaturaによるものだし、ラテン語は事実上ギリシア語をベースにした古代の人造語なので、naturaの語感はそのままφυσις の訳語であったことだろう。
 このあたりで、「極東ブログ: ハイデガー「技術論」から考える新しいゲシュテル」(参照)を連想するが、ハイデガーにとっては、すでにnatureとφμειζは異なるものであったに違いない。もっともハイデガーは自身が言うように古代ギリシア的なものかはちとわかりかねるが。
 なにやら衒学的な話になりつつあるが、natureの訳語としての「自然」について、ウィキペディアでやや奇妙にお節介な解説(参照)を見かけた。


(注)ヨーロッパ諸語では、自然は本性(ほんせい)と同じ単語を用い「その存在に固有の性質」をあらわす。(例えば、英語・フランス語の「nature」がそれである)。外国語文献の翻訳を読む際には「本性」の含みがないか常に留意すべきである。例えば「自然と人為」などという対比にぶつかった時、そこでの人為には単に「自然物に対して手が加えられた」という意味だけでなく「人為によって本性が捻じ曲げられた」というニュアンスが含まれているかもしれない。西洋では自然と人間を完全に分離した考えを持つが、日本では人間は自然の一部と考える。また、日本には江戸時代まで「自然」という言葉はなく、開国後に「nature」等の外国語を訳する際にできた言葉だと思われる。

 「西洋では」以下の下りが眉唾ものだが、前半の指摘は失当とも言えない。というあたりで、実は、私の愛読書でもある Nature and Human Nature という書題はどう訳すべきかと悩んだ。べたに訳すなら「自然と人間性」ということになるが、まさにそれこそこのウィキペディアさんの忠告に反しているようでもある。
 悩みが深まったのは、Human Natureが人間の本性であるのはよいとして、ではそれに対句となるNature自体はいったい何の本性なのだろうか? 「その存在に固有の性質」というメタクラスって何なのだろう?
 なんとなくだが、これはスピノザ風味ウルトラ・グローバル・オブジェクトみたいな存在というものそれ自体の、その存在の固有の性質ということで、被造物の対立概念なのではないか、というあたりで、社会学の古典であるホッブズ、ロック、ルソーだのの自然状態(State of nature)を連想した。ちなみにマルクスの思想というのはヘーゲルとこの自然状態の思想のアマルガムかもしれないなともちらと思った。
 ウィキペディアのState of natureを見ると意外にも日本語の解説がある(参照)と驚くようではいけない。この古風っぽい自然概念は依然、自然法や自然権など法学のべたな基礎概念になっているはずだし。

 「自然状態」は、17~18世紀のヨーロッパにおいて、社会契約説を成り立たせるための理論的架空として政治哲学者達が案出した。代表的な論者にトマス・ホッブズ、ジョン・ロック、ジャン=ジャック・ルソー等がある。社会契約説は今ある政治体が人民を支配する根拠付けとして、人民自らが契約して政治体を作ったからとするもので、必ずしも政治体の発生史を正確に跡付けている保証はないが、政治体の存在を当たり前のこととせず、人民が省察して良いのだと転換したことに大きな意義がある。この社会契約説が当代または後代、ヨーロッパの市民革命の理論的基礎となったのである。
 自然状態をどう見るかによって次節のように以後の議論が分かれるが、いずれも自然状態を、それだけで完全に自足的かつ持続可能な状態とは考え得ないことで共通している。であればこそ、わざわざ無限の自由を捨てて、人間は社会契約を結び、政治に縛られる社会状態へと入るという選択を余儀なくされるのである。
 政治体の存在根拠を求めて自然状態論に行き着いた彼らは、思想史的に考えれば、当時猛威を振るっていた「王権神授説」に対抗するために、極めて慎重な議論の歩みを進めたと評価できる。王権神授説が聖書を根拠にする以上、それを凌駕する緻密さが必要とされたのである。

 これも前半はよいのだが、後半になるにつれ、あれまという展開になってくる。いや間違いとも言えないのだろうが、「王権神授説」に対抗するというより、時代精神に関連したものだろう。というあたりで、それって啓蒙主義だよなと、ウィキペディアを見るとこれも解説があり(参照)、この解説にはなかなか味わいがある。

啓蒙主義は科学者の理神論的あるいは無神論的傾向を深めさせた。イギリスにおいては自然神学が流行したが、これは自然科学的な方法において聖書に基づくキリスト教神学を再評価しようという考え方である。この神学は神の計画は合理的であるという意味で既存の聖書的神学とは異なり、啓蒙主義的なものである。自然神学の具体例としてはイギリスのバーネットをあげることができる。バーネットは聖書にある(ノアの方舟物語における)「大洪水」を自然科学的な法則によって起こったものであると考え、デカルトの地質学説に基づいて熱心に研究した。また啓蒙主義の時代には聖書を聖典としてではなく歴史的資料としての文献として研究することもおこなわれた。キリスト教的な歴史的地球観とは異なった定常的地球観が主張され、自然神学などでも支持された。

 ポイントは、自然神学である。というか、「自然科学的な方法において聖書に基づくキリスト教神学を再評価しようという考え方」は逆なのではないかと少し思った。
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ケプラーの憂鬱
 少し推測を入れて書くと、べたにパスカルのパンセを読んだ人ならこれがアンチ・イスラム神学として企図されたことがわかるように、当時はイスラム神学の理神論が西洋を浸していた。その理神論的な動向からいわゆる自然科学と自然神学が形成され、そこから、逆に自然概念が、いわゆる被造物と対立したのではないだろうか。このあたりは、まさにトーマス・バーネット(Thomas Burnet、1635年? - 1715年)あたりを研究しないとあまり踏み込んで言ってはいけないのだろうが。が、ケプラーとか読むとその中間的なアレゲ性が絶妙に微笑ましい。
 推測はある程度控えても、自然神学がイギリスにおける自然概念に関わり、そこから自然状態の考え方が出てきたとは言ってもよいだろう。背理的に言うなら、べたなキリスト教であれば自然状態とは楽園の追放そのままであるだろうから。
 かくして自然状態という方法論が科学的に設定されることで、諸学が起源論を、キリスト教から独立して展開するようになる、どころか、学がイコール起源論になってしまった。現在に至る法学の元の社会哲学がそうだし、マルクス主義にも混入している(べたなところで貨幣の起源論とか)。
 ルソーの言語起源論は今も読み継がれるが、言語起源なども言語学としてよく議論された。進化論も人間起源論の亜流なのだろう。
 というあたりで、ふと起源論とはくだらないものだなと歎息し、近代合理主義やそこで形成される国家というものも起源論に呪縛された悪しき一例なのだろうなと呟く。が、さて、このあたりはちと話が勇みすぎたか。

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2007.04.28

イラク情勢と米国の関わり現況メモ

 イラク情勢と米国の関わりについてだが、さて、どういうタイトルにしたものか悩む。なので適当に付けておく。とりあえず話のきっかけは、米国でイラク撤退法案が上・下院で可決したことだ。一応ニュースだが、下院については、二六日付け読売新聞”イラク撤退法案、米下院で可決”(参照)より。


米下院は25日夜(日本時間26日午前)、イラク駐留米軍の撤収を10月1日までに開始し、来年3月末までに戦闘部隊の撤収を完了するとの条項を盛り込んだ総額1240億ドルの補正予算案を、218対208の賛成多数で可決した。

 上院については、二七日付け日経新聞”イラク撤退法案、米上院も可決・大統領、拒否権行使へ”(参照)より。

米上院は26日の本会議で、イラク駐留米軍を来年3月末までに撤退させる条項を盛り込んだ補正予算案を51対46の賛成多数で可決した。

 今後はどうなるかだが、民主党はこの法案を五月一日にホワイトハウスへ送付し、四年前の空母エーブラハム・リンカーン艦上「勝利宣言」をくさす、と、しかし。

 大統領が拒否権を行使した後、3分の2以上の多数で法案を再び可決すれば、拒否権は覆る。ただ両院での票差はほぼ民主党、共和党の勢力図と同じ構図となっており、撤退期限付きの法案が廃案となるのは確実とみられる。

 ということで、廃案になるのは確実。
 単純に民主党側の大統領選挙を睨んでのパフォーマンスとも言えるのだろうだが、私は、けっこうこのニュースをふーんという感じで聞いた。というのは、こうした切り口で伝えられると民主党はいかにもイラク撤退を急いでいるようだしそれに間違いはないのだが、今回の米議会のドタバタは実際のところ、ここまでの戦費は是認するということなんだな、と。国家の戦争を正当な手順で静止させることができるのは国会による予算の否認だが、日本も太平洋戦争ではそれができなかったものだった。
 問題の核心は戦費ということなのではないか。先の読売新聞ではこうもある。

大統領が拒否権を行使した場合、民主党などは、イラクとアフガニスタンの戦費が不足し始めるとされる6月か7月までに、新たな予算案の採択をめざすと見られる。民主党が再び撤収時期などの条件を盛り込むかどうかは不明。

 民主党としても戦費については微妙に見ているようだし、その行き先はべたな政局や米国民の意識動向にかかっているので、いろいろとメディアもまた騒がしくなるのだろう。
 でだ。
 日本だと特ににネットというかブログとから見るとブッシュや共和党は戦争がやりたくてしかたのない○○扱いされていることが多いのだが、実際のところ米行政側はどうなのか。つまり、民主党フカシやがって、と、いうことでスルーなのか。ということだが、どうも、実際のところ共和党やブッシュの本音もそれほど民主党の考えと変わってないような印象を受ける。つまり、実際上来年の春には全面ということではないにせよ撤退の道を進み始めるのではないか。
 そういう印象を持ったのは、一九日のゲーツ米国防長官のイラク訪問に関連してだが、この報道について、少し首をひねることがあった。一例として一九日付け時事”米国防長官、イラク訪問”(参照)だが、事実の記述の後、こう締めている。

 イラクでは18日にバグダッドで200人近くが死亡するなど、大規模テロが多発している。こうした状況を踏まえ、2月に開始された武装勢力掃討作戦の進ちょく状況などを検討したとみられる。

 ただのクリシェなのか。比較に二〇日付け朝日新聞”ゲーツ米国防長官、イラク訪問”(参照)はAPをべたに引いている。

 AP通信によると、ゲーツ長官はイラク訪問に先立ち、記者団に対して、米国の軍事介入が無期限ではないことをイラクの指導者に改めて警告する、と言明。政治的和解と石油収入の分配を巡る法整備を加速させれば、指導者が協力し合っている姿を国民に示すことができる、とも述べた。

 時事と比べると報道のトーンが違う。が、朝日新聞が独自の見解を出しているわけではない。この点二十日付けCNN”米国防長官がイラク訪問、自助努力を求める”(参照)がより詳しい。

 ゲーツ長官はイラク指導者らへの警告として、米軍の関与が無期限に続くわけではないことを強調。「時間は押し迫っている」と述べ、イスラム教シーア派、スンニ派とクルド人の間の和解や石油収入の分配を定めた法の整備を「できるだけ速く」進めるべきだと語った。また「法が成立しても状況が即座に変化するわけではないが、やり遂げることによって、協力しようとする姿勢が伝わる。その結果として、暴力を抑える環境が作り出されるはずだ」と述べた。
 ゲーツ長官がこれまでになく強い口調でイラク側の努力を促した背景には、駐留期限設定の是非をめぐる米議会での攻防がある。

 読みようによっては、戦争を引き起こしておきながら米国はもう知らんからなと、さすがのご意見無用、という印象もある。が、好意的に見ると、イラク人に対して、やる気になれば君たちで出来るんでないの、ということでもある。そして、その背景にはやはり米軍のかなりの規模の撤退が含まれているのではないか。
 日本では何かと内戦として報道されるイラク情勢だが、ゲーツがほのめかしているように、イラク内部協調でなんとかなるのだろうか?
 このあたりが微妙な状態になっているようだ。補助線的にはイラク現政権のシーア閣僚辞任をどう見るかということがある。ニュースとしては一六日付け産経新聞”サドル師、6閣僚に辞任指示 米軍撤退日程めぐり反発 ”(参照)があり、ここではサドル・フカシ説をフォローしている。

ただ、これでマリキ政権が崩壊する可能性はなく、サドル師は米軍撤退開始後をにらみ、シーア派世論の主導権を握るためのパフォーマンスに出たとの見方もある。

 ニュースでは触れてないが閣僚は辞任しても議員は辞任していないことからも、サドル側のパフォーマンスだろうし、米軍撤退後を睨んだ計画的行動と見てよさそうだ。加えて、次の指摘は重要だろう。

一方、首相はシーア派少数会派やクルド人勢力を集めれば国会の過半数を維持できるうえ、サドル師派の政権離脱という“揺さぶり”を、米国からいっそうの支援を引き出すテコにできるとのうがった見方がある。

 これらは各見解に過ぎないのだが、ちょっと強引にまとめれば、いろいろ言われているほどにはシーア派側の反発は強くなく、であれば、あとはマリキ政権としてはクルド人とスンニ派をどうまとめるかにかかっている。クルド人の問題にも根深いものがあるが、当面の問題は「内戦」とされるスンニ派とシーア派であるとすると、大筋で妥協の線がどう見えるかということになる。
 サドルのフカシからシーア派についてはある限界があるとすれば、後はスンニ派の問題になるのだろう、となんとなく想定していたのだが、ゲーツのイラク訪問先ファルージャについて、安定しているという話を先日ラジオで聞いて、え?と思った。
 日本語のウィキペディアにはファルージャの項目があるが、〇四年までの話しかない。英語版を見るとその後の推移の記述もあり、特にCurrent situation(現状)について興味深い指摘があった(参照)。

By Summer 2006, it was reported that Fallujah had become relatively peaceful, by contrast to the rapidly deteriorating situation in the rest of the volatile Al-Anbar province.[8] The security measures that had been introduced to prevent mass re-infiltration by Sunni rebels or Al-Qaeda elements had proven effective[citation needed], though a significant fraction of the population of the city was lost as refugees fled from the activities of Operation Vigilant Resolve and Operation Phantom Fury.[citation needed]

 [citation needed]が多いので不確か情報ともいえるのだが、これによるとファルージャは relatively peaceful とある。もちろん、異論が多いのだろうし、異論を煽りたいわけではないのだが、全体の流れを見ても、意外と単純に受け止めてよいようにも思える。であれば、スンニ側でも妥協のラインが見え始めているのではないか。

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2007.04.27

北朝鮮核施設封印合意を頓挫させた「送金」問題って何?

 北朝鮮の核施設封印合意が現状いったいどこに進んでいるのか私はさっぱりわからない。もともとこんな合意そんなに意味がないということかもしれないが、わからないのは私ばかりってこともあるかもしれないし、誰か教えてくれるかもしれないので、何がわかんないのか、少し書いてみよう。ただ、たらっと書くのでご関心のあるかたはお読みください的な話になる。
 話の切り出しは一五日付け朝日新聞社説”北朝鮮の核 早く合意の実行に戻れ”がよいだろう、というか、この時点までは私もふーん、そうなるのかねと思っていたからだ。


 本来なら昨日までに、北朝鮮の核施設は封印されているはずだった。2月の6者協議でそう合意されていたのに、第一歩からつまずいたのは残念である。
 ただ、幸いにも基本的な合意は崩れていないようだ。北朝鮮は核施設を停止・封印するという約束を実行すべきだし、日本や米国など関係国は忍耐強く働きかけを続けなければならない。

 それが一五日のことであった。それから何か?
 朝日新聞社説が「つまづき」としているのは次のことである。

 このつまずきの原因となったのは、北朝鮮がマカオの銀行に持つ口座の凍結解除問題だ。米国と北朝鮮の間で話がつき、口座にある2500万ドルは北朝鮮に戻されることになったが、技術的な問題から凍結解除の作業が滞った。

 「技術的な問題」って何だ?というのは後で触れるかもだが、要するに中国のことか。

 そうではありながらも、米国は凍結の全面解除を認めた。ここは金融面で北朝鮮に譲ってでも、核問題で何とか前に踏み出したい。そういう政治判断があってのことに違いない。私たちもそれが現実的な選択だと思う。

 このように中国様、違った、朝日新聞社説も米国の態度に賛同している。なにせ朝日新聞にしてみると何かと悪いのは米国だし。

 05年9月の口座凍結以来、反発した北朝鮮はミサイル発射や核実験にまで突き進んでしまった。偽ドル札などを取り締まるための「法執行の問題」という米国の立場は理解できるにせよ、あまりに大きな代償だった。

 あれです、犬が噛みついたら噛みつかれたほうに非があるものなのである。
 いずれにせよ、マカオの銀行バンンコ・デルタ・アジアにある北朝鮮口座の凍結というのは、北朝鮮にとってミサイル発射や核実験をさせてしまうほどの逆鱗だったわけである。
 というのだが、さて、そのカネの合計はというと、2500万ドルだよ。日本円にして三〇億円。ホリエモンのポケットマネーくらいじゃないの。なんでそんな額に大騒ぎするというかそんな額だったらまたまた中略で手に入るはず。
 そのあたりがよくわからんだった。
 のだが、今日付産経新聞黒田御大御署名記事”BDA 金総書記直結 権力中枢名義32口座判明”(参照)によると。

 北朝鮮問題で関心を集めているマカオの金融機関バンコ・デルタ・アジア(BDA)をめぐって、北朝鮮が同行に開設している口座52のうち32の名義が初めて明らかになった。銀行9行と貿易会社23社で、ほとんどが金正日総書記の資金管理をしている「39号室」や人民武力省、国家保衛省、党軍需工業部、党統一戦線部など権力中枢につながっている。
 これは韓国の有力ジャーナリスト、趙甲済・前「月刊朝鮮」編集長が亡命者情報から判明したとして26日、自らのホームページで伝えている。
 BDAは北朝鮮関係の取引額が全体の22%を占めていたとされるが、今回明らかになった北朝鮮の口座名からして、「BDAは実質的に北朝鮮の体制維持のための対外金融窓口だったことを示している」というのが趙氏の分析だ。

 その分析が正しいのかなんとも言いようがないのだが、仮にそうだとすると、北朝鮮の口座というより、金さんとその仲間たちのポケットマネーのプライベートな口座ということではないのか。約五〇口座に三〇億円というのもそう驚くほどでもない。
 話を少し戻す。いずれにせよ、バンコ・デルタ・アジアの凍結は朝日新聞が賛同するように解除されたはず。一一日付け朝日新聞”北朝鮮口座の凍結、マカオ当局解除 米が全面譲歩”(参照)のように標題通り、米国が全面譲歩したはずだ。

 マカオ金融当局者は10日、「口座保有者やその代理人が法に沿った署名を持参すれば、いつでも資金の引き出しや送金をすることができる」と述べ、実質的に凍結資金の全面解除に踏み切ったことを明らかにした。
 米政府はBDAを北朝鮮との関連で資金洗浄の疑いが強いとする処分を確定させている。だが、「表向きは資金を合法、非合法に分けない」(マコーマック報道官)として、凍結した北朝鮮関連の52口座計約2500万ドル(約30億円)のすべての解除を受け入れた。

 なのに核施設封印合意はその後もまるで進展がない。なぜか?
 北朝鮮にしてみるとこれでは解除になっていないと言いたいようだ。送金ができないのは困るというのだ。二五日付け時事”資金問題解決には「送金」必要=北朝鮮公使”(参照)より。

25日の韓国の通信社・聯合ニュースによると、北朝鮮の金明吉国連代表部公使は同ニュースとの電話インタビューで、マカオの金融機関での凍結資金問題を解決するためには、凍結解除に加えてほかの金融機関などに資金が送金されることが必要との認識を示した。

 この「送金」というのが私などにはまずよくわからない。たぶん、朝日新聞も先の社説やニュースを見るについ最近までわかってなかったんじゃないか。というのも、この送金話は急に降って湧いたわけではないので想定不可能ではなかったはずだ。一一日付け産経新聞”マカオの北朝鮮口座、凍結解除 名義人に直接返還”(参照)より。

マコーマック米国務省報道官は10日、記者団に対し、マカオの金融機関バンコ・デルタ・アジア(BDA)の北朝鮮関連口座の凍結が全面解除され、口座保有者は資金を引き出せる状態になったと語った。先月19日に米朝で合意した北朝鮮名義の口座への送金ではなく、口座保有者に直接返還する形となった。

 つまり、今回の合意では、当初から送金は想定されていない。
 で、この送金というのはどういうことなのだろう。同記事ではこうある。

 ただ、北京の中国銀行にある北朝鮮の朝鮮貿易銀行名義の口座に一括して送金するのではなく、口座保有者がそれぞれ預金引き出しをできるようにすることになったことで、使途の監視がさらに困難になった。

 いくつかわからないのだが、北朝鮮が送金したい先は中国国内の銀行だったのか、ということ。もう一つは、送金されるカネというのはドルなんでしょ?
 ようするに送金問題というのは、中国がこの問題に絡むのがイヤ、というのと、北の金さんはドルが欲しいということではないのか。
 ラジオで聞いた話では、バンゴ・デルタ・アジアからは実際に北朝鮮は現金は引き出せるが、この現金は事実上香港ドルに限定されているとのこと。このあたりで、ちらと「極東ブログ: 中国様のちょっとした小ネタかな」(参照)を連想する。
 さらにこの背景に、米国は一八日バンゴ・デルタ・アジアと米国の金融機関の取引を禁止したことがある。バンゴ・デルタ・アジアは米ドル決済が一切不能になっている。
 そこでまた疑問が湧く。だったら別の国へ送金するという手はないのか。二七日付け朝鮮日報”BDA:来週中に送金問題解決の可能性も”(参照)では可能なようでもある。

北朝鮮は来週中にも、マカオの銀行バンコ・デルタ・アジア(BDA)にある、凍結措置を解除された北朝鮮口座の資金を2つの口座にまとめ、第3国の銀行に送金する方針であることが26日分かった。韓国政府関係者らによると、北朝鮮の代表団はBDA側と送金問題について協議を行っており、米国は送金手続きを支援するための準備を進めている。

 また、二五日付けのYONHAPNEWS”送金確認後に合意履行、関連国が意見まとめる”(参照)ではこうある。

 現在北朝鮮とBDAは、東南アジアの銀行などと凍結解除された北朝鮮資金2500万ドルの送金方法を協議している。ある銀行と送金合意を目前にしているとみられるが、この銀行は北朝鮮資金を扱っても不利益を受けないという米財政当局の署名覚書を求めているもようだ。米国はこれに対し、北朝鮮資金の送金を受ける外国銀行に対しては問題を提起しないという立場を示している。米銀行とBDAの取引禁止措置は維持するとしている。

 よくわからないが、当初朝日新聞が楽観視したように、送金手続きの問題ということでこのどたばたは終わるのだろうか。
 もう一点、米国は今回の北朝鮮による送金ドタバタ騒ぎを事前に想定したのか?だが、これもよくわからない。ニューズウィーク日本語版(5・2/9)”割れ窓だらけの米朝合意”によると、今回の合意を推進していたのは国務省だが、一八日のバンゴ・デルタ・アジア制裁を発動したのは財務省だった。しかも、その根拠は愛国法によっている。
 国務省と財務省の足並みの悪さについてはその背景を考えるとさして不思議でもないのだが、制裁根拠が愛国法だったのかというのは、ちょっとへぇと思った。米国の愛国法って北朝鮮にとってこういう面でまずい存在だったのか。
 以上、話がもわっとしているのだが、この関連のニュースがどうもわからない。特に日本のニュースからは見えてこないように思える。

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2007.04.26

[書評]脳が冴える15の習慣 記憶・集中・思考力を高める(築山節)

 特に気になる時事話題もないようなので、なんとなく昨日の続きっぽくマインド・ハック系の本の感想など。そうだな、「脳が冴える15の習慣 記憶・集中・思考力を高める(築山節)」(参照)が面白かったか。ところでNHK出版って新書も出していたのか。

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脳が冴える15の習慣
記憶・集中・思考力を高める
築山節
 脳が冴えない私としては「脳が冴える15の習慣」を身に付けたいと思うのだが、ざっと小飼弾さん風に目次的にリストするとこんな感じでチョーチョーチューショー的。

  • 習慣1 生活の原点を作る
  • 習慣2 集中力を高める
  • 習慣3 睡眠の意義
  • 習慣4 脳の持続力を高める
  • 習慣5 問題解決能力を高める
  • 習慣6 思考の整理
  • 習慣7 注意力を高める
  • 習慣8 記憶力を高める
  • 習慣9 話す力を高める
  • 習慣10 表現を豊かにする
  • 習慣11 脳を健康に保つ食事
  • 習慣12 脳の健康診断
  • 習慣13 脳の自己管理
  • 習慣14 創造力を高める
  • 習慣15 意欲を高める

 リストからはなんだかさっぱりわからないが、各習慣についてはわかりやすいリードと、章毎に太字にした数行のまとめがあるので、気になる人はそのあたりを立ち読みして、へぇと思ったら買って読んでみてはどうだろうか、という感じかな。
 この手の本は誰か書評をブログに書いているだろうなと思ったら、意外に、と言ったらアカンか、JANJAN”今週の本棚・『脳が冴える15の習慣』を読んで”(参照)があった。いわく。

 私も、毎日パソコンを使って仕事をしています。PCのディスプレイ見つめ続けると、頭がぼうっとしたり思考が堂々巡りに陥ったりすることがあります。脳を元気に働かせるために提案されている「15の良い習慣」は、難しいことではなく、すぐにでも実行できそうな事柄です。自分に足りない部分を強化するためにも、手離せない1冊になりそうです。

 とのこと。そっかぁ?
 いやね、私はこの本を途中で放り投げようかと思ったのですよ。こりゃ、無理だわ、と。習慣6思考の整理、とのところなのだが、リードは、忙しいときほど「机の片付け」を優先させようだ。それができたらいいのになである。これはあれです、奥さんが高橋陽子先生か、近藤典子先生か、というくらいの違いがあります(もちろん解説するまでもなくそれはギャグですし詳細な説明は不要でしょう)。
 しかし新書だし適当に読み進めるとして読んでいくと、なかなかオツなご指摘がある。

 ところが、世の中にはうらやましいほど要領の良い人たちがいて、比較的初歩的な仕事であれば、そんな整理をしなくても、直感力と応用力の高さで何となくできてしまう。学生時代で言えば、計画的に勉強しなくても試験では結果を出せるようなタイプです。そういう人たちは、整理しない分仕事が速いので、若い頃には優秀に見える場合があると思います。
 しかし、そういうやり方が通用するのは、はっきり言えば、若いうちだけです。

 うっ、これは痛いところを突かれたな。
 というわけで、脳が冴える15の習慣というより、これから老いる脳が対処すべき15の習慣ということかと納得。というか納得する年齢になってしまったしなオレ。
 なので、若くて切れる人にはあまり用のない本か、というと、後半、え?と思うエピソードがあった。若い人にも重要かもである。
 著者の外来に一流の大学院を出て有名企業に就職した三〇歳の独身女性が来たというのだ。英語も堪能らしい、というあたりで、私はれれ?と思った。脳神経外科専門医にして臨床医になぜ? そのあたりが読者の私にはよくわからない。脳機能障害があるとして回されたのだろうか。本の話を読む限りでは彼女はビジネスでとても大きなミスをしたことがきっかけだというのだが、それで脳神経外科?
 まあ、それはいいとしても、確かにこの女性はエピソードを読む限り変。

 しかし、私は彼女の話を聞いていて、問題があると感じました。
 あまりにも完璧主義な上、愚痴が多いのです。
 たとえば、仕事のことについて尋ねると、自分がいかに向上心を持って働き、同僚にはできない仕事をしてきてか、それなのに会社はわかってくれない、そもそも上司は英語を話せないから……という話が続きます。脳機能検査で、日本語で思考する能力にやや問題があると感じたので、新聞のコラムの書き写しをお願いしたところ、
「そんなことをしても意味がありません。英語でやっていいですか?」
という答えが返ってきました。

 私はこーゆー人をこれまで数人いやもっとかな、会ったことがある。仕事もしたことがる。ある種の典型的な社会適応の失敗例ではないかなというくらいにしか思わない。
 それはそれとして、臨床医でもある著者は彼女に、写真教室に通うことを勧め、これが功を奏する、という話になる。なぜ写真教室? 写真教室なら目を使う、体を使う、いろいろなタイプの人に接するというメリットがあるらしいのだが。

 そして何より大事なのは、写真教室では、一流大学を出ていてようと、有名企業に勤めていようと、彼女はいちばんの初心者で、周りには先生や先輩ばかりがいるということです。こういう環境に身を置いていれば、できない自分を人に見せることになりますし、彼女の小さな成長を周りの人が積極的に評価してくれることでしょう。その中で良い人間関係の在り方を体得し、人を誉める機会も増えることを私は期待していました。

 なるほどね。というか、これを読んで私はけっこうそういう異分野の学習をやってきたことを思い出した。というか今年も二、三チャレンジしてみるつもり。こういう新しい分野の学習とその人間関係は確かに良い面が多い。悪い面もあるんだけどね。
 自分が得意ではないものを学んでいくと、自分の学習ストラテジーというかメタ学習のパターンが見えてくるので、これはけっこう面白いものだ。
 ところでこの話だが意外なオチがあった。彼女は写真教室がきっかけで結婚したそうである。ああ、そういうのあるかもねというか、そういうのっていうのは……以下略。

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2007.04.25

[書評]脳は意外とおバカである(コーデリア・ファイン )

 「脳は意外とおバカである(コーデリア・ファイン )」(参照)をなんとなく読んだ。翻訳がこなれていないとも思わないのだが、この手の日本語の類書は改行が多く日本人ライターによる甘口で通常読んでいるせいか、多少読みづらい感じがした。英国風のウィットとかもふふと微笑むにディレイがかかったりする。

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脳は意外とおバカである
コーデリア・ファイン
 話は日本語の標題がある意味よく表現しているように、脳というのは意外とおバカなものだなということだが、つまり、自分の脳というのはそれほど賢いものではない、というか、人間の脳は人間が想定しているほど賢くないということを、主に心理学的なファクツを元に叙述している。
 訳者後書きがなかなか上手な釣りになっていて、つまり本書を読むとこういうことがわかるのだそうだ。まあ、そうかな。

  • 病気のリスクがこれほど喧伝されているのに、なぜ禁煙できない人が多いのか。
  • なぜ不幸な被害者を責め、批判してしまうのか。
  • 別れたくない相手に「もう私を愛してないの?」と聞いてはいけない理由。
  • ある人が自分に対して敵対的な行動を取る本当の理由。
  • ダイエットが続かないのはなぜか。
  • どうすれば意志の力は鍛えられるか。
  • 性差別的広告は、本当に悪い影響を及ぼすのか。
  • 人種偏見がなくならないのはなぜか。

 うーむ、一読後、きちんと正解ができそうにないので、もう一度読み直してみるかなという感じもするし、これってなんとなく、「ダメな議論 論理思考で見抜く(飯田泰之)」(参照)と似てる感じもするが、論理思考のマシンである脳がこの程度のものだ、よって、ダメな議論は無くならないということを納得するのにもよいかも。
 本書はプレゼンテーターとかマーマーケッターとかマーライオンとかその手の人とっては使えるネタがいろいろあるかと思う。ちょっと補足すると、エピソードとしてのネタもそうだが、ドクター・トマベチ的にもなれそうな絢爛な用語も使えるったらない。レトロアクティブ・ペシミズムとかセルフ・ハンディキャッパーとかテラー・マネージメント・セオリーとかフェイディングアフエクトとかディパーソナリゼーションとかオニオンスープとかプライミングとかポジティブ・テスト・ストラテジーとかカプグラ・シンドームとかビリーフ・ポラリゼーションとかメンタル・バトラーとかアイロニカル・プロセス・セオリーとかハンドメイド・マトリョーシカとかシークレット・ディレクターとかとか。
 ただ、この手のマインド・ハック好きの人にとってはそれほどはっとするような話はない。基本的に実験心理学をベースにしているせいか理論の枠組みにそれほどバラエティもないのだから結論もそれほど新規ではありえず、どちらかというとどのくらい常識とコントラディクトリーでありコントロヴァーシャルであるかという、フツーの日本語話せってばみたいなものである。
 いや、一つだけ、考えさせる実験があった。「第7章 脳は意志薄弱」にあるのだが。ちょっと設定がややこしいのでよく読んでほしい。対照群は二つあり、まず一方には、あなたの性格では将来の孤独(絶望)が待ち受けると思い込ませる。

 ある実験では、人の気分を害する新しいテクニックを用いた。性格検査を学生に受けさせ、嘘の分析結果を本人に伝える。ある被験者には、将来、人から嫌われ、貧しく孤独な生活をおくるタイプの性格であると告げる。「今は友人や恋人がいるかもしれないけど、二〇歳代半ばには、みんな離れていきます。結婚も一回、ないしは何回かするかもしれませんが、短期間で終わります。結婚生活が三〇代まで続く可能性は低いでしょう」被験者からすると、一人寂しく暮らすアパートで、死後一週間たって腐りかけたところを家主に発見される言われたに等しい。

 これって言うまでもなく、現代日本の若い人、というよりいわゆる失われた世代の人々に対して、日本社会やメディアが説いていることに似ている。しかも、結婚一回できたらいいじゃんくらいな言い方が日本ではされる。
 さて、もう一群はこう。同じく、将来不運や事故が来ると信じ込ませる。

他の被験者には、違ったタイプの不幸に見舞われることを匂わせる。将来、非常に事故にあいやすく、手足をよく折ったり、何度も車に轢かれたりするだろうと予測する。言ってみれば、笑えないドタバタ人生が待っているということだ。

 かくして、二群に暗い将来を信じ込ませる。一方は将来孤独、一方はそれ以外の不幸がやってくると科学的を装って信じ込ませるわけだ。このエントリでは、前者を将来孤独群、後者を将来不幸群としておこう。
 実験は次の段階に進む。詳細は省略するが、ヘッドフォンによる聞き取り作業で注意力がどのくらいあるかという単純なテストだ。結果はどうかというと、将来不幸群のほうは注意力が維持されるのに対して、将来孤独群のほうは注意力が失われた。

孤独な人生をおくると予想を聞かされた被験者の出来はさんざんなものだった。

 著者は疑問を投げかける。

 将来、社会的に疎外される可能性があるという予測によって、なぜ注意力をコントロールできなくなるのか(そして違ったタイプの不幸ではそうならないのか)不思議に思った研究者たちは、孤独な将来を予測されて悲しい気分になったことで、意志の力が乱されたのではないかと考えた。ところが気分の評価をするための質問表(すべての被験者が、ヘッドホンをつける前に答えている)への回答では、将来の孤独に脅かされている被験者の気分は、他の被験者とそれほど変わらないことが示された。ということは、人から愛されない人生をおくると告げられたことで聴き取り作業に集中できなかったのは、気分が落ち込んだからだという理論は成立しない。

 気分が落ち込むと注力がなくなるというのではなく、将来孤独になるという意識が注意力を散失させるというのだ。むしろ、ある種の思考の合理的な結論なのだろうし、これが脳の正常な機能なのだろう。
 この本ではこの先、私にしてみると奇妙なチープトリックのような解決策を実験している。フーコー思想などを連想させるものがあり興味深いのだが、ここでは省略。
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A Mind of Its Own
Cordelia Fine
 基本的に本書は実験心理学をべースにしているのだが、「どうすれば意志の力は鍛えられるか」については、女性の著者の父親のエピソードが書かれているだけだ。たぶん、そこは洒落なんだろう。哲学者でもある彼女の父親は世俗のことや雑事に関心を持たないからその分意志をセーブして哲学を推進できたというのだ。
 あれ? ファインという有名な哲学者っていたか? その娘さん? というあたりで、コーデリア・ファイン(Cordelia Fine)という名前をあらためて見て、うひゃ、実の娘にCordeliaって付けるのは、さすが英国風の哲学者だなとうなった。

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2007.04.24

マインドフルネスとしての仏教

 先日のエントリ、「極東ブログ: 仏教の考え方の難しいところ」(参照)関連の補足というか余談のような話だが、きっかけはこのエントリにコメントしていただいた、dankogaiさんの404 Blog Not Found”書評 - 仏教は心の科学”(参照)である。私の該当エントリの問い掛けについて、こう答えられていた(余談だが、実は私が想定していたのは輪廻に関連したことであったのだが)。


本書はこういう疑問を抱く人のために書かれたのだから。

本書「仏教は心の科学」は、スマナサーラ長老の法話集。と書くと、最近とみに増えてきた「Yet Another 仏教本」という印象を受けるかも知れないが、「元祖仏教」、いやブッダの言葉は実に

404 Blog Not Found:ブッダ―大人になる道

実に単純で明快で痛快
なのである。


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心ひとつで
人生は変えられる
ダニエル・ゴールマン
 として、スマナサーラの著作を「仏教」ないし「元祖仏教」として紹介されている。まあ、その点やこのエントリについて仏教論を展開する必要はないと思うが(参考:極東ブログでの「仏教」関連エントリー検索)、おそらくdankogaiさんは、先のエントリで引いた「心ひとつで人生は変えられる(ダニエル ゴールマン)」(参照)をお読みになっていないだろうと思ったので、この機会に少しマインドフルネスとヴィパッサナー瞑想について触れておいてもいいかもしれない。このところのエントリでなんとなく重なる部分もあったからだ。
 まず、「心ひとつで人生は変えられる(ダニエル ゴールマン)」だが、この第六章「マインドフルネスが生き方を変える」で、マインドフルネスないしマインドフルネス瞑想について触れられている。これは、スマナサーラ長老らが提唱というか指導しているヴィパッサナー瞑想から展開されたものだ。なので、とりあえずこの部分までの補足をすると、「心ひとつで人生は変えられる(ダニエル ゴールマン)」についてはもっと総合的に理解されてもいいし、ヴィパッサナー瞑想についてダライ・ラマがどのような関心を持っているかも興味深いものがある。
 なお、同書第六章「マインドフルネスが生き方を変える」だが、私が知る限りだが、マインドフルネス・ベースト・ストレス・リダクション(MBSR:Mindfulness-Based Stress Reduction)について日本語で読めるもっとも詳しい解説になっている。
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ヘルシーエイジング
アンドルー・ワイル
 MBSRについては「極東ブログ: 五十歳かあ」(参照)で触れたワイル「ヘルシーエイジング」(参照)にこのように紹介されている。

 仏教心理学もまた、われわれの注意を選択の可能性にむけてくれる。古い習慣を捨て去り、新しい習慣を身につけるべく訓練することでによって、それは生起するできごとの意味を変え、大いなる自由を経験するための手助けとなるものだ。仏教の伝統に学んだ瞑想法のひとつ、「マインドフルネスベースト・ストレスリダクション」(MBSR)を医療に導入して、慢性疾患の改善、生の質の向上、現代医学では治療できなかった症状の解消などに成功してきた例を、わたしは目撃してきた。
 MBSRは原因はなんであれ、慢性疼痛にたいしてとくに有効である。その瞑想法を学び、実践していくほどに、患者は身体的感覚の解釈における自由度が高まってくるのを実際に経験する。

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ブッダの瞑想法
ヴィパッサナー瞑想の
理論と実践
 ヴィパッサナー瞑想については、ネット上にもリソースが多いが、スマナサーラ長老によるもの以外では「ブッダの瞑想法 ヴィパッサナー瞑想の理論と実践(地橋秀雄)」(参照)が実践的な指針としてはわかりやすい。
 実際上西洋人化している日本人にとっては、元のヴィパッサナー瞑想よりMBSRのほうが有効かもしれないが、なかなかそうした指導を受ける機会はないだろう。

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2007.04.23

nanacoな世界

 朝飯とチョコレートをセブンイレブンに買いに行って、そうだ、今日はnanacoだったなと思い出し、受け取った。nanacoについては、と下手な解説を書く前にウィキペディアを覗いたらあった(参照)。


nanaco(ナナコ)は、株式会社セブン&アイ・ホールディングス(以下「セブン&アイHLDGS.」)が2007年4月23日に導入する予定の非接触型のICチップを搭載したプリペイド方式の電子マネーである。 非接触 ICカードに、前払い(プリペイド)方式と後払い(ポストペイ)方式の 2つの電子マネーを同時搭載するのは世界初となる。

 ちょっとわかりづらい。
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新しいお金
電子マネー・ポイント
仮想通貨の
大混戦が始まる
 ようするに電子マネーだ。ちょっくらセブンイレブンに朝飯買いにいくべというとき、「えっと千円札はあるかな、小銭は?」みたいに心配しなくてもいいということだろう、たぶん、きっと。
 先日のPASMO(参照)なんかと似た感じの昨今の非接触型決済っていうのだろうか、技術的にはFeliCaらしい。ただ、ちょっと実感としてはnanacoとPASMOは感度が違うような印象はもった。PASMOはすでに売れ切れというか在庫ない状態になってしまっているそうで、これもけっこうへぇ~ものだった。消費が低迷しているとかいうけど、それってもしかして電子マネー化の遅れかもという印象すらもった。ちなみに、PASMOってSuicaとコンパチで、PASMOとまったく同様にチャージできんのな。
 で、nanacoなんだが、へぇ、これかと思っているうちに不安になった。チャージしてあるカネがどのくらいか外から見てわからない。「これってここで勝手に残量がチェックできるんすか(タメ口)」とお姉さんに聞いてみると、そうではないみたいだ。このあたりよくわかんないけど、ようするに何か買ったときに残量をある程度覚えておけよかもしれない。ちょっと不便だな、というか、すでに脳裏に「お客さん、このnanaco空っすよ」とか言われそうだ。いや、そんなタメ口はないな。タメ口が似合いそうなお兄さんもけっこう丁寧な言葉でしゃべっているし、セブンイレブン。
 便利なんかコレと再考してボケっとしていると、店員がポイントが貯まってお得ですよとツッコミ。百円で一円分のポイントでしょ、んなものと、へへへとか微笑んで、ロッテ贅沢ストロベリー・チョコレートを買って帰りつつ、いや、このポイントっていうのはあれだな、マイナス消費税的だよなと思った。
 そういえば消費税話題が減った。選挙前だからか。いや読売新聞社説だったか毎日新聞社説だったかその双方だったか数日前ぶちあげていたみたいだが、いずれにせよこの雲行きで消費税アップはないっしょ。あって今の五%から七%と二%。つうことは、こうしたnanacoみたいなので囲い込めば、実質消費税は総体で一%は下がることになるんじゃないか、っていうか、民活が事実上、消費税を下げているような感じがした。そういえば、最近デニーズでよく飯を食うけど、コレ、nanaco使えんのか?と調べると、秋頃にはそうなるらしい。ほいで、その前に、クレジットと連動するらしい。ほぉっていうかほぇというか。
 話がずるずると連想モードになるのだが、沖縄で暮らしているとき、米兵と買い物に出るとなんか財布のようものにクーポン券みたいのをごっそり持っていて、なんだそれ(英語)と聞いてみて、クーポン券だと知り(クーポン券とは言わなかったような)、いろいろ話を聞いてみた。基地内のショップだとクーポン券の威力がかなりあるらしい。そういえば米国のショップで通販すると今のうちにポイントを使えとかうるさい。いや、楽天もそうか。
 つうあたりで、このポイントだのクーポンだのってなんなんだと考えたが、よくわからない。アマゾンでも最近付いていることを知った。これ、あれです、アフィリエイトで買っても付きます。
 アマゾンのポイントっていうのは、商品によって一律かなと見て回るとそうでもない。どういうからくりなっているのかよくわからないが、これって、つまり、アマゾン的には再販制度なんかプチ壊し(petite destruction)か。
 よくわかんないが、なんか自分の生活が比較的少ない系列のショップで囲まれている感じはあって、でもそれがとても快適で、なんかもう自由なんて小銭勘定みたいなことどうでもいいやって感じになってきてとても幸せ、っていうのなんだろうか。

追記
 残金状態については、昨日分までということなら、Webで確認できるみたいだ。

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2007.04.22

仏教の考え方の難しいところ

 「仏教と大量殺人」というタイトルにしようかと思ったが、不用意に刺激的なのでいい加減なタイトルに変えた。たぶん普通の日本人は仏教は不殺生の宗教なので、大量殺人を教義的に許容することなどありえないと考えるのではないか。実際夏安居などはジャイナ教かと思えるほどだ。あるいは多少日本史を知っている人なら僧兵や本願寺戦なども連想するかもしれないが、それでも仏教の教理において殺生を是とする考えがあるとは思わないだろう。しかし、子細に仏教を検討していくとそうとばかりもいえない。
 歴史的に興味深いのは北魏における大乗の乱だろう。なぜかウィキペディアに項目がある(参照)。


大乗の乱(だいじょうのらん)とは、中国北魏の宗教反乱であるが、人を殺せば殺す程、教団内での位が上がるという教説に従った殺人集団であり、その背景には弥勒下生信仰があるとされる。


515年(延昌4年)6月、沙門の法慶が冀州(山東省)で反乱を起こし、渤海郡を破り、阜城県の県令を殺し、官吏を殺害した。法慶は自らを「大乗」と称した。 それより先に、法慶は幻術をよくし、渤海郡の人であった李帰伯の一族を信徒とし、法慶が李帰伯に対して「十住菩薩・平魔軍司・定漢王」という称号を与えた。その教えでは、一人を殺すものは一住菩薩、十人を殺すものは十住菩薩であるという。また狂薬を調合し、肉親も認知できない状態にして、ただ殺害のみに当たるようにさせた。

 殺人者をもって菩薩とするなど日本人の仏教観からすればありえないだろうし、そのような観点からこの宗教はそもそも仏教なのかという疑念すら持つだろう。確かにその疑念の余地はあるのだが、この事件は必ずしも後の仏教徒にとって忘れ去られたわけでもなさそうだ。
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性と呪殺の密教
怪僧ドルジェタクの
闇と光
正木晃
 またチベット密教では、敵対者を呪法によって殺害することで、文殊の仏国土に往生させるという技法が存在した。この問題については「性と呪殺の密教 怪僧ドルジェタクの闇と光(正木晃)」(参照)に詳しい。日本史なども子細に検討すればある種の仏教徒が呪殺の技術集団であったこともわかる。
 呪殺とはいえ、殺人技法を含んだチベット密教、つまり、チベット仏教とは、どういう仏教なのだろうか。
 チベット仏教とは何かというストレートな問いも立てられるだろうが、その前にそれがいくつかの派に分かれていることを確認しておきたい。「チベット密教の神秘 快楽の空・智慧の海 世界初公開!!謎の寺「コンカルドルジェデン」が語る(正木晃、立川 武蔵)」(参照)などを読むとわかるように大きく四大宗派に分かれている。

 現在チベットには四つの大宗派が存在している。ニンマ派、カギュー派、サキャ派、そしてゲルク派である。
 チベット仏教の歴史は、古代チベット(吐蕃)王国による仏教庇護の中断および王国滅亡を境に、前後二期に分かれて考えるのが常識となってきた。九世紀中頃以前を「前伝期」、十世紀後半以降を「後伝期」と呼んでいる。
 前伝期にインドの公式言語であったサンスクリット語からチベット語に翻訳された密教経典を「古訳」、後伝期になって翻訳された密教経典を「新訳」と分ける。「古訳」を奉ずる宗派をニンマ派(古派)、「新訳」を奉ずる宗派をサルマは(新派)と称して区別している。したがって、四大宗派は、まずニンマ派とそれ以外のサルマ派とにわけることができる。

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チベット密教の神秘
快楽の空・智慧の海
世界初公開!!謎の寺
「コンカルドルジェデン」
が語る
正木 晃、立川 武蔵
 同書では、各は次のように特徴付けている。

  1. 庶民支持が強いニンマ派(派としての統一性はあまりなく、一人一派ないし一寺院一派的な傾向が強い。
  2. 密教色の強いカギュー派。(カギュー派の修行法は多岐にわたる。その中心にすえられているのは「大印契(マハームドラ)と呼ばれる観相法。しかし、これもまたその内容については諸説ある。
  3. 戒律の厳しいゲルク派(全チベットの代表者として有名なダライラマは、このゲルク派の法主であり、ゲルク派が現在チベット最大の宗派なのである。
  4. 中世チベットに君臨 サキャ派(現在でもインドの首都ニューデリーの北に位置するデラドゥンに、コン氏本家の末裔がチベットから亡命し、サキャ派を率いている。

 ここで「極東ブログ: [書評]中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて(島田裕巳)」(参照)を連想する。同エントリで扱った同書で、著者島田は「虹の階梯―チベット密教の瞑想修行(ケツン・サンポ、中沢新一)」(参照)がオウム真理教からアレフ、さらにその後の継承集団に影響を与えていると見ているが、この中沢の言うチベット密教はそこに描かれる彼のチベットで修行からニンマ派を指しているとしてもよいだろう。中沢がどの程度ニンマ派の教説を習得したかについて、島田は興味深い、中沢からの私信を明かし、こう述べている。

 手紙のなかで中沢は、はじまったばかりのチベット密教の修行について嬉々として語っていた。もちろん、文面からもわかるように、この段階では、師から教えられた説明をそのままくり返しているだけで、中沢自身も括弧のなかに記しているように、自らの体験にもとづいて修行の体験をつづっているわけではなかった。ただそこには、新しい世界を敬虔していることからくる喜びが素直につづられていた。
 ところが、次の第四信が、最後の手紙となってしまった。そこでは、ニンマ派チベット仏教の最高段階である「ゾクチェン」の戸口に立つまでには少なくとも十数年はかかるということが記されていた。

 「ゾクチェン」の戸口に立つまでに十数年かかるというのはただの事実だろうし、そこに中沢が立つことがなかったことも事実だろう。碩学山口瑞鳳が中沢新一について「実践できたのは、内容的にも掛け出しのニンマの坊さんがやる程度のことだったのではないでしょうか」とコメントしているがそのたりのコメントも妥当のように思われる。
 では、「虹の階梯」とはどのように書かれたのだろうか。島田は考察している。

 ケツン・サンポの講義は、すべてチベット語でなされたという。けれども、チベット語を学びはじめてそれほど年月が経っていない中沢に『虹の階梯』に記されたかなり複雑な事柄がそのまま理解できたのだろうか。実際、彼は、本の「まえがき」で、自らのことを「チベット語の初学者」と呼んでいる。しかも彼は、その間、ずっとネパールにいたわけではなく、日本に戻ったりしていた。そう考えると「弟子の日本語に移しかえたものである」という言い方が気になる。チベット語からの翻訳に携わったのは、実は中沢本人ではないのではないか。当然、そうした疑問がわいてくる。

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Tantric Practice
in Nying-Ma
Khetsun Sangpo Rinbochay
 島田はあるいはこれは翻訳ではなく中沢の著作かとも疑問を呈している。が、ケツン・サンポの講義には英訳本「Tantric Practice in Nying-Ma(Khetsun Sangpo Rinbochay)」(参照)もありその対比も目次レベルだが島田は行っている。
 いずれにせよ島田の指摘を追っていくと中沢からオウム真理教への文脈におけるチベット仏教はニンマ派、ゾクチェンを指すようにも思える。「終末と救済の幻想―オウム真理教とは何か(ロバート・J.リフトン)」(参照)を著したリフトンもオウム真理教にニンマ派の影響を見ている。
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終末と救済の幻想
オウム真理教とは何か
ロバート・J.リフトン
 しかし、オウム真理教はニンマ派を模していたのだろうか? 疑念の筆頭にあるキーワードは麻原彰晃の主題が「マハームドラー」であったことであり、これは先にも触れたようにカギュー派に由来する。単純に考えるなら、オウム真理教はカギュー派の教義からもっとも影響を受けていたと推測できるし、一九八八年に開設された富士山総本部道場のセレモニーにカギュー派カール・リンポチェが参加していることからも、麻原やその系統の教義はカギュー派に直接依っていたのではないだろうか。
 以上実は前振りであって、エントリで触れたかったのは、オウム真理教に影響したかもしれないニンマ派やカギュー派と、現在世界でチベット仏教の権威的な代弁者とされるダライ・ラマのゲルク派の分明である。私の理解が至らないかもしれないが、ゲルク派は、カギュー派から活仏思想を継いでいるものの、ニンマ派やカギュー派的なタントリスムを整理し(事実上棄却し)、より呪術性少なくかつ倫理性の高いチベット仏教となっている。このことは、欧米や日本でも有名な「死者の書」(参照)のニンマ派版とゲルク派「ゲルク派版 チベット死者の書」(参照)の差異にも現れていると言えるだろう。
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心ひとつで人生は
変えられる
ダニエル・ゴールマン編
 さて、チベット仏教という仏教の権威者ダライ・ラマは大量殺人についてどのように考えているだろうか。日本人にも関連するのだが、ダライ・ラマを含めた対談集「心ひとつで人生は変えられる」(参照)で、原爆についてこう言及している。

ロバート・リビングストン 日本への原爆投下のケースはどうなんですか。あの行為をした人たちは、それで一〇〇万人の命が救えるからっていわれてやったんですよ。
ダニエル・ゴールマン あれは菩薩の行為と言えるのですか。
ダライ・ラマ むずかしい判断だが、理論的にはありうる。もしそれが大勢の人の命を救うための行為だったとすればだがね。

 ダライ・ラマは仏教の理論からして、原爆投下が菩薩行たり得ることを可能性として認めている。
 では、観音菩薩の化身とされるダライ・ラマは原爆を肯定しているのだろうか。そうではないのだが、その説明が非常に理解しづらい。

ダライ・ラマ(中略)ボブ、あなたの提起した長崎と広島の原爆投下の問題に戻ると、その行為の善し悪しは、歴史上の一時期ではなく、長期的な結果をみて判断すべきでしょうね。今日世界じゅうに核兵器が拡散している事態をみれば、原爆投下は反倫理的な行為だったと断言できるんじゃないかな。そのときにはよい動機があったかもしれないが、それ以来、さまざまな悪い結果が生まれたことはまちがいないし、恐怖も増大しましたから。

 私はここで困惑する。恐らく日本人の大半も、また仏教徒と呼ばれている日本人も困惑するのではないだろうか。原爆の是非は、その投下時にはわからないというのだ。
 ここには微妙な形で大量殺人の肯定が含まれていると理解せざるをえない、あるいは命の尊厳を算数的に比較する考えがある。
 ダライ・ラマは突然の問い掛けでその場しのぎにそう答えたのではない。彼は、原則をこう説く。強調は本文ママ。

ダライ・ラマ 二つのことを天秤にかけて考えるのです。いっぽうには殺人のようなよくない行為、もういっぽうには状況をのせます。つまり、その状況ではどっちが重要なのをつねに考えるということですね。状況によっては、たとえよくない行為でも、その行為をすれば大きな利益が得られ、行為を避ければ害が生じる場合があります。このバランスの原理は、もっとも基本的な仏教の倫理を解いている律蔵にも説かれているし、菩薩の倫理にも貫かれている。一般原理と状況の二つを天秤にかけて、特定の状況を判断するわけです。(後略)

 そして次の教えは私にはある意味で驚きだったし、仏教を深く考えさせる契機になった。強調は本文ママ。

ダライ・ラマ あなたのみつけた悪い性質や悪徳が、さらにもっと大きな害をもたらす恐れがあるときは、それを抹殺してもいいのです。しかし、ここが重要な点なんですが、それには、大きな害を避けたいという慈悲心が動機になっていなければならないということです。悪徳を消すには暴力に訴えるしかないと悟った場合は、その悪徳をもっている人間の命を奪ってもよいのですが、その人間にたいして慈悲心をもって、その任務を受けることが条件になります。

 日本の仏教者はダライ・ラマの教説を否定するだろうか。そしてその否定のしかたは、「それは仏教ではない」という否定になるのだろうか。もしそうなら、では、ダライ・ラマの仏教を否定する日本人の仏教とは何に依拠しているのだろうか。

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2007.04.21

[書評]中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて(島田裕巳)

 大変な労作だと思うし、この一作をもって私は島田裕巳への評価を変えることした。粗方は想定していたことでもあり、驚きは少なかったとも言えるが、いくつかかねて疑問に思っていたことやミッシング・ピースをつなげる指摘もあり、貴重な読書体験でもあった。
 ただ、読後自分なりの結論を言えば、あの時代島田裕巳を批判していた人々と同じ地平に島田裕巳が立ってしまっているのではないか、そうすることで暗黙の大衆的な免罪の位置に立とうしているのではないかとも思えた。もっとも、彼の意識の表出としてはこれ以上はないというくらいきちんとした反省の思索の跡が見られるので、それは批判ということではない。

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中沢新一批判、
あるいは宗教的
テロリズムについて
島田裕巳
 
 本書がどのような本であるかについては帯書きがわかりやすいと言えばわかりやすい。

初期著作でオウムに影響を与え、麻原彰晃を高く評価し、サリン事件以後もテロを容認する発言をやめない中沢新一。グル思想、政治性、霊的革命、殺人の恍惚などの分析を通して、人気学者の"悪"をえぐる!

 帯書きなのでしかたがないといえばしかたがないのだが、本書が描くところは実際にはこの帯書きとは異なる。中沢新一が「初期著作でオウムに影響を与え、麻原彰晃を高く評価し」たということは概ね事実としていいし、本書はその経緯をよくまとめている。これだけの資料を読み込むのは大変なことだっただろうし、渦中にあった島田裕巳にもつらいできごとだっただろう。幸いにして島田にはこの手の思索家にありがちなどろっとしたルサンチマンの感性が欠落しており(それが欠点でもあるが)、中沢への批判の叙述にもそうした党派制は感じさせない(人によってその印象は違うかもしれないが)。しかし、本書の大半が中沢新一個人と古いタイプのコミュニズムにフォーカスし過ぎているきらいはある。恐らく、中沢の問題はそうしたイデオロギーと個性の問題より、島田が回想的に語る中沢の院生時代の生活にむしろ中沢という人間の本質的な問題がありそうに思える。
 帯書きに戻る。ここで難しいのは、「サリン事件以後もテロを容認する発言をやめない」というときの時間経緯のスコープである。本書に詳細に追跡されているが、サリン事件から世の中がヒステリックなバッシングに沸騰するまでの間、意外なほど中沢新一は語っていたが、その後表向きの語りは見えなくなる。問題はまずこの時点での中沢のメッセージというのがある。だが、島田が執拗に追ったように、さらにその後中沢は表向きの沈黙の背後でピア・グループ的な語りを継続しており、しかもそれが後のアレフにもつながっているらしい。このあたりが、現在的な視点で言えばかなり重要だろう。オウムの下っ端残党をネットで(目眩まし的に)バッシングしていることより、ネットから見えない部分の、中沢新一の、間接的であろうと思われるが、その影響をどう考えればよいのか。島田はその危険性を強調しているし、その強調の語りは、通常なら控えるべき想定まで踏み出している。
 もう一点、あえて出版者側のコメントを引用する。

「サリンでもっと死者が出ていたら、どうだっただろう?」と非公式の場で発言し続ける中沢新一。その真意はどこにあるのか? いまだにオウムに影響力のある彼の著作や言動から、テロを煽り続ける理由は何なのか、宗教的テロリズムとの関連で解き明かす。

 出版社の意図を知る上ではよいとして、「非公式の場で発言し続ける中沢新一」という書き方・表現方法は言論のありかたとしてはルール違反にも思える。この発言は島田が指摘しているように、単一のものではないがその核にあるのは、高橋英利への中沢新一への「指導」だ。
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オウムからの帰還
高橋英利
 ここで非常に微妙な問題が浮かび上がってくる。本書で島田が中沢を追求するときの、かなり大きな軸足となっているのが、元オウム信者の高橋英利の証言によることだ。だが、彼の「オウムからの帰還(高橋英利)」(参照)にはこの発言が含まれていない。ここまで私が言えるか自信はないのだが、島田のこの本が上梓されたのだから、高橋の手記にもそれを含めての増補版なり続編があってしかるべきではないだろうか。同手記は、事実の追求としては冷静に書かれており、今回の島田の作品の読後読み直すと随分印象が変わり真相への推測を深めることができるのだが、それでもこちらの作品全体は、「オウムと私(林郁夫)」(参照)同様、ある種大衆の意識迎合的な安全弁になっている。
 この関連で非常に微妙なのだが、島田の指摘に私にははっとさせられるものがあった。まずその前段として「憲法九条を世界遺産に(太田光、中沢 新一)」(参照)に関連して。

 憲法についての議論のなかに、恍惚という概念が登場するのは奇妙である。そこが、『憲法九条を世界遺産に』のユニークな特徴なのであろう。だが、殺人や自殺の魅力が語られ、そこに恍惚感が伴うことが強調されている点は無視できない。
 大田は、「幕間、桜の冒険」を書くにあたって、中沢の強い影響を受けただけではなく、彼の巧みなリードに導かれているようにも見える。


 しかも中沢は、すでに指摘したように、自分が直接発言した形になるとあまりに直裁すぎる部分にかんしては、太田に代弁させている。

 はっとさせられたのはこの先だ。

 こうした中沢のやり方は、彼がオウム真理教の元信者、高橋英利に、サリン事件の被害者が、一万人、あるいは二万人だったら別の意味合いが出てくるのではないかと問い掛けをしたときのやり方に似ている。中沢は、別の意味合いがある可能性を示唆しているだけで、その別の意味が何なのかを説明していない。その意味合いが何なのかを高橋に考えさせ、彼からことばを引き出そうとしている。高橋は、太田とは異なり、中沢に反発し、中沢の意図通りに導かれることはなかった。だが、高橋が反発しなかったとしたら、彼は、中沢の代弁者に仕立て上げられ、霊的磁場の劇的な変化といったサリン事件の意味を語っていたことであろう。

 高橋が反発したのは、二つの背景があるだろう。一つは先の手記でも明らかだが、当初から彼は疑念の(やや混乱した)認識をオウムに持っていたこと、もう一つは彼が安全弁の役を過剰に引き受けたことだ。中沢と高橋の関係は、あたかも杜子春の物語のように大衆に受け入れられている。
 本書は、宗教学的な文脈では、平河版「虹の階梯―チベット密教の瞑想修行(ケツン・サンポ、中沢新一)」(参照)と「改稿 虹の階梯―チベット密教の瞑想修行(中沢新一、ラマケツンサンポ)」(参照)が、オウム教団とどのような関わりを持ったかが詳細に議論されたことが貴重だろう。私もかなり納得できるものだった。特に、同書で中沢がターゲット・ビジョンを提示し、麻原がメソッドを提示したという島田の説明はかなり説得力がある。ただ、島田は麻原のメソッドの側のロジックは追っていない(たぶんそれは単一的に麻原に帰着する形では存在しないのではないか)。
 まとまりのないエントリになったのだが、私自身にこの問題について書くことにためらいがある。特に「ヴァジラヤーナ決意」に関連した部分について、島田はよく追求したなと思うし、私の印象ではまだこの部分について控えている思索があるとも思える。この問題は十年以上も考え続けてきた。私がブログの世界から消えていないのなら、島田の次考、あるいは島田を継ぐ人の考察を待ってみたい。あるいは、この問題について語りうる能力のある人が、消されることなく、事実と印象の系列よりも深いレベルにおいて、語り出すのを待ってみたい。

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2007.04.20

[書評]男は3語であやつれる(伊東明)

 男にとってこれほど楽しめる自虐系エンタ本ないのではないか。「男は3語であやつれる(伊東明)」(参照)を読みながら、おっ、これはイタイ、かなりイタイ、これはちょっと回復に一服必要系のダメージ、一晩ヤケ酒系のダメージとか、わくわくしながら読んだ。もっとも書籍としてはどうよなんだけど、エンタ本は笑ってなんぼでしょ。

cover
男は3語で
あやつれる
伊東明
 読みながら、これはブログ男の心理そのものではないかという感じもしてきて、ヒリヒリとイタイ。

「眠れる獅子」「身を潜める龍」「在野の大賢人」。男性が好きなイメージです。
 ほとんどの男は心のどこかで「オレはこう見えても眠れる獅子だぜ、ほんとうはタダ者じゃないんだぜ」という妄想を抱いて生きています。

 おお、そうそう (はい、そこのヤローさんたち合唱で、はい、「そうそう」ご一緒に)。特に、ブログなんて「眠れる獅子」「身を潜める龍」「在野の大賢人」が絢爛豪華じゃないですか。自傷じゃないや自称しているイタイのから、はてブに「この指摘はするどい」とか書いてもらいたいが一心でダイアリーもといエントリーに小難しいこと書いてみたり、オレはただの引き籠もりじゃないんだ以下略。

 ただ、眠れる獅子も、ときどき起きてその姿を見せたくなるときがあるようです。「タダ者じゃないオレ」を見せたくてたまらないときがあるのです。「よくいるタイプ」と思われるのは大変な屈辱。「血液型、いかにもB型って感じするよね」などと、枠にくくられるとガックリきてしまいます。「オレはあえて眠れる獅子でいるんだ、でもそれを見抜けない世間のやつらがバカなんだ」ぐらいに思っているのです。

 というわけで、これは恰好のお魚くんなんで、2ちゃんとかその他の雑魚メディア、もとい匿名メディアもとい釣りメディアの恰好の釣り対象となってしまうわけで、そこはもう「在野の大賢人」ブロガーなら、釣られると見せかけて釣るくらいの構えをもってないといけないものだなんて、ああ、なんてイタ過ぎ。
 本書はおじさん世代攻略にバッチグー(死語)。ちなみにおじさん世代というのは、だいたい三十五歳から四十五歳か。これもイタイぞお前ら。イタがってないで現代幇間の技術と心得るべし。

 おじさん世代には「諸葛孔明」も効きます。部長が会議でいい発言をしたり、知的なことを言ったら、「○○部長って孔明タイプですよね」。これで勝ちです。男で諸葛孔明みたいと言われてうれしくならない人は絶対にいません。お世辞とわかっていても、ちょっとニヤけてしまうでしょう。

 そりゃもう(例外ブロガーを一名知っているが)。
 このイタサはある程度実証できる。gooランキング”好きな「三国志」の武将ランキング”(参照)を見よである。ランキングを見ていると、劉備(玄徳)みたいなのも使えるかもだが、関羽(雲長)はちと中華街ぽいか。

 これが効くのは、プライドをくすぐられた喜びプラス、『三国志』という男の領域をこの女性は理解してくれている、といううれしさがあるからです。「信長」「家康」「秀吉」あたりは人によって好みが分かれるので、ちょっとリスクがあるでしょう。坂本龍馬、武田信玄あたりなら、ほぼ大丈夫だと思います。

 あと、ガンダムネタとか加えるときっとあのブロガーとあのブロガーとあのブロガーだって釣れますよ。
 つうわけでヤローやオッサン・ブログを俯瞰するにも使える書籍だということはご理解いただけたかと思いますというのはネタなんで、読者マーケット的に見ると、これっていわゆる女性が社会性のために知るべき基礎知識とかでありながら、読みつつ、いやちょっと違うかな。男が女につらく当たったというケースで。

 かといって、単純に「ごめん」と謝られるよりも、「ほんとはやさしいから言ってくれているんだよね」「私のためを思って厳しく言ってくれているんだよね」と言われたほうが、「そうだよ、わかってくれたな」と、思わず抱きしめたくなるほどグッとくるのが男性なのです。

 これね。著者心理学者なので、たぶん、ここには校正上のヌケがあると思うのだけど、つまり、「男性なのです」の前に、「DVの」がヌケ。そして、こんなふうに言う女あるいはそう思いこんで自己催眠的に○ナっちゃう女、オメー一生不幸から抜け出せないって。それってば傍から見ていると好きで自虐やってるだけだってば、というか、そこまでして何かを支配したい女の欲望って何?という文学的な領域になる。
 似たようなネタとしては。

男性が自分のワルぶりを披露し始めたら、笑ってはいけません。ここでうっとり尊敬のまなざしで見つめてあげてください。そして、「○○さんってかっこいい」とつけ加えられたら上級です。
 じつはみんな心のどこかで、自分は単なる群れのなかの子羊じゃないかと不安に思っているのです。だからこそ、「ワルなオレ」を認めてくれる女性には、とても好感を持ちます。きっと、堅実に仕事をがんばっている独身男性や、家庭を持って落ち着いている人ほど、「ワルなんでしょ」と言われたら大喜びです。

 ネタバレもなんだが、ちょいワルオヤジには二種類あって、一つはこの実は小心者というのと、もう一つはただのスケベというの。で、賢い女性としては後者はけっこう後腐れなくていいかなと前者と後者をTPO(死語)で選り分けているだけ。というか、あまりそういう賢さもどうかと思うが。むしろ。

普通に会話ができる男性がいたら、そのれだけで貴重品と思ってください。そういう人はつかまえておいて損はありませんよ

 ということになる。普通に会話っていうのは、コミュとか非コミュとかじゃなくて、もっとべたなものでしょう。問題解決型会話というか。
 以上、上目目線で書いてみたが、個人的には、これはイタイなこれをくらったら、オレもやられるながある(とか妄想しているあたりのイタさはさておき)。世代的な嗜好かもと思うけど。現代版雨世の品定めにて。

 それから、「大事なのは透明感」だねという話で盛り上がりました。もちろん、男は小悪魔っぽい女性とか、セクシーな女性にくらっときます。しかし、「口説きたい」じゃなくて「いつもそばにいてほしい」、「ちやほやしたい」でなくて「大切にしたい」。簡単に言えば、一晩を一緒に過ごす相手としてではなく、彼女にしたい・結婚したいと本気で思えるのは透明感のある女性です。

 というくだりでしょうかね。気になるかたはそのあたりのテクも載っているけど。
 本書の締めは、いずれ松下幸之助かというマジックワード、仕入先も道行く人もみなお得意先、じゃなくて、「ありがとう」。

「ありがとう」
ここまで読んできて、最後にに出てきたのがこのあまりにも平凡な言葉なので、拍子抜けしている人も多いかもしれません。でも、これだけ大事な言葉だと誰もがわかっていながら、実際は言えてない言葉が「ありがとう」ではないでしょうか。

 違うね。その言葉のせつなさから恋が始まる。

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2007.04.19

銃に関わる二つの事件に思う

 伊藤一長長崎市市長の暗殺事件と米バージニア工科大学の銃乱射事件について、あまりに心に重い事件でもありブログで触れる気もしなかったのだが、ブログは時代のログ(記録)だなと思い直し、半世紀を生きた一人の民衆の思いをメモしておこう。
 伊藤一長長崎市市長の暗殺だが、十七日の十一時過ぎだったか私はいつものようにハードディスク・レコーダーに貯まっている番組を見ようとし、その操作の途中にこの事件を知った。ざっと概要を聞くに助からないのではないかと思い、そして九〇年一月一八日の本島等元長崎市長の狙撃事件を連想し、また右翼がらみのテロリズムかもしれないと懸念した。その後の事件の推移を見ていると、以前の事件とは質が異なり、暴力団による計画的な暗殺のようだ。そこで、私は暴力団がそこまで(つまり政治的なテロリズムまで)するのだろうかという疑問を持った。彼らは、ある意味で社会の利害の上で合理的に行動する。今回のような事態はたいていは威嚇で終わるものではないか。世の中はそのあたりで何か変わったのか、私のこうした感覚が時代遅れとなったのか。もやっとした気持ちでいる。
 一つ気になったのは、城尾哲弥容疑の年齢だ。五九歳とのこと。ざっくり六〇歳と見ていいだろう。現状のニュースからは彼は殺人を企図していたらしいので、当然それに対応するムショ暮らしも想定しただろう。私はそのあたりの相場の感性はないが、一〇年はオツトメということではないか。だとすれば、娑婆に出てくるのは七〇歳。それで元の仕事に戻れるわけもないだろう。こうした場合、人生最後の賭けだったか、人生自体への一種の自暴自棄か、あるいは自暴自棄的な自我の肥大だったか(暴力団も社会が結果的に必要とする仕事に過ぎないのに)。私は、なにかしら、奇っ怪な老いの形を思った。
 加藤紘一・元自民党幹事長の実家が右翼団体幹部によって放火された事件でも堀米正広被告は六六歳で、一花咲かすには遅過ぎる。ここにも老いの奇妙な形があるように思えた。
 米バージニア工科大学の銃乱射事件についてだが、銃規制との関連ではここでは触れない。なお、銃規制については、このブログでは過去に「極東ブログ: 米国の銃規制法が失効したことの意味」(参照)や「極東ブログ: ブラジル銃規制国民投票失敗の雑感」(参照)で触れた。また微妙な関連としては、「極東ブログ: [書評]ウェブ人間論(梅田望夫、平野啓一郎)」(参照)もある。
 事件のその後の経緯を見ていると、チョ・スンヒ容疑者が韓国人であることにも、日韓では関心が寄せられているようだ。そのあたりの米国はどうだろうかといくつかざっと英文報道に目を通してみた範囲では、チョ・スンヒ容疑者の両親が移民で貧苦に悩んだというものがあり、境遇に対する同情もあった。
 現状のニュースからすると事件は周到に計画されていたようだ。そのあたりの心性はなんだろうかとも思うが、私は、七二年五月三〇日のテルアビブ空港乱射事件も連想した。奥平剛士、安田安之、岡本公三の三人がテルアビブ、ロッド国際空港(現ベン・グリオン国際空港)で民間人二四人をチェコ製自動小銃と手榴弾で殺害し、奥平と安田は自殺した。
 あの事件と今回の事件は、まったく異質な事件であるといえば言えるだろう。今回の事件は私的な怨恨がおそらく元であるのに対して、岡本らの事件には彼らなりの大義を持った戦いであった、と。しかし、私の心の中には、奇っ怪に欧米人には映るだろう東洋人という以外に何か重なるものがあり、そのあたりがもやっとしている。
 この感覚は、民間人死者十二人を出した九五年地下鉄サリン事件と、民間人死者八人を出した七四年の連続企業爆破事件への思いと重なる。質の違う事件だとも言えるが、類似性もある。
 今回の伊藤一長長崎市市長の暗殺事件と、本島等元長崎市長暗殺未遂事件の類似性と差異性。また、今回の米バージニア工科大学の銃乱射事件と、テルアビブ空港乱射事件の類似性と差異性。さらには、地下鉄サリン事件と、連続企業爆破事件の類似性と差異性。
 そのような類似性と差異性において考えられるべき課題ではないのかもしれない。また、それらを通底させるような世界の動的な把握というのは間違った問いかけなのかもしれない。だが、何かを連想したり、忘却している私や、歴史の中に生かされている私たちには、やはり何か深い思索を強いるものがあるように思える。つまり、個々の問題や、個々の正義の主張を越えた何かについて。

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2007.04.18

鬱とやさしい植物油

 一応裏はあるけど、まあ、ネタと言っていいだろう、鬱とやさしい植物油。植物油を摂ると鬱が緩和されるというのじゃなくて、逆。鬱がひどくなる、ら・し・い。
 話の出所はきちんとした医学誌Psychosomatic Medicine”Depressive Symptoms, omega-6:omega-3 Fatty Acids, and Inflammation in Older Adults”(参照)なので、気になる方はそちらを読んでおいて。
 話はロイター”Fatty acid tied to depression and inflammation”(参照)のほうが読みやすい。


The imbalance of fatty acids in the typical American diet could be associated with the sharp increase in heart disease and depression seen over the past century, a new study suggests.
(最新研究によると、この一世紀間でみて、典型的な米国人の食事における脂肪酸のアンバランスが心疾患と鬱を強く増加させているようだ。)

Specifically, the more omega-6 fatty acids people had in their blood compared with omega-3 fatty acid levels, the more likely they were to suffer from symptoms of depression and have higher blood levels of inflammation-promoting compounds, report Dr. Janice K. Kiecolt-Glaser and her colleagues from Ohio State University College of Medicine in Columbus.
(とくに血中でn-6系脂肪酸がn-3系脂肪酸より多い比率の人に、鬱に悩む人や血中炎症物質レベルの高い人が多い、とDr. Janice K. Kiecolt-Glaserらオハイオ医大学のグループが発表した。)


 で、n-6とかn-3ってなんだだが。

Omega-3 fatty acids are found in foods such as fish, flax seed oil and walnuts, while omega-6 fatty acids are found in refined vegetable oils used to make everything from margarine to baked goods and snack foods. The amount of omega-6 fatty acids in the Western diet increased sharply once refined vegetable oils became part of the average diet in the early 20th century.
(n-3系脂肪酸は魚、亜麻仁油、クルミに含まれるのに対して、n-6系脂肪酸は、植物油を使う全食品、マーガリンや焼き菓子、スナックに含まれている。欧米の食生活では、n-6系脂肪酸は二〇世紀初期に精製植物油が平均的な食生活に組み入れられてから増加している。)

 簡単に言うと、植物油の取りすぎで鬱が悪化している、と。鬱とやさしい植物油というわけだ。納豆とか豆腐とか豆乳とか、n-6系の脂肪酸が多いので、健康にいいと思いこんで食っていると……どうなんでしょね。
 では動物性の油脂のほうがいいのかというと、今回の発表には含まれていない。含みとしては、ええんでないのというのはある。しかし、今回の方向がどうニュースになったかというと、だから、西洋人、魚食えよ、ジャパニーズ寿司食えよ、という展開になっていそうだ。”Eating the right kinds of Fat can reduce risk for Depression and Inflammation”(参照)とか寿司の写真が掲載されているし。

Eating a diet with more omega-3 includes certain types of fish, such as salmon, trout. You can also get smaller amounts in white tuna fish. Because of potential mercury poisoning you should eat up to two servings each week. If you are pregnant you should ask your doctor first, and if you have children ask your pediatrician.
(n-3系脂肪酸を多くとるための食生活には、サーモンやトラウトなどの魚が含まれる。少量ではあるがマグロからも摂取できる。というのは、水銀中毒のおそれがあるため、週二皿以内に抑えるべきだからだ。あなたが妊娠中なら医者に相談し、子供がいるなら小児科と相談しなさい。)

 というわけで、魚はいいけどマグロなど水銀を多く含むのはだめよ、と。
 じゃ、どうしたらいいのか。欧米の報道では、植物油でも、正確にいうと、全植物油がダメというわけではなく亜麻仁油はよいとかいう話になっていく。
 なので、日本でもマジで亜麻仁油が健康食品とかで売られるようになって、びつくーりなのだが、日本の場合は荏胡麻油でしょ。
 とま、この手の話はこのくらいで、ふーん、てなリアクションがよろしいようで。

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2007.04.17

五十歳かあ

 ブログでは生年は公開しているが生年月日までは公開していないので、四月二日になったら五十歳ということにしている。なので現実の誕生日まではまだ日があるし、その当日はそれなりに愕然とするだろうなと思っている。

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J・S・バッハ
礒山雅
 昔、と言って十一年前だが、西洋音楽史家礒山雅が学生たちの交流のベースで気さくなホームページを持っていて、そこに彼が五十歳になったときヒューモラスな嘆きを書いて印象深かった。が、四十歳手前の沖縄のプーには五十歳はまだまだ遠い気がしていて、ただあははと笑うくらいだった。今になると、あの嘆きをもう一度読んでみたいとネットを探したのだが、無かった。無い理由もなんとなくわかった。一部残っていた部分を引用してもそれほど失礼にはなるまいと思う。

 これが悪夢なら覚めてほしいのですが、今年50歳になってしまいました。痛恨のきわみで、口にするのもはばかられます。誕生日の午後、失意を胸にあたりを散歩すると、気候はことのほかうららかで、半世紀前の今日私が生まれたなんて、まるで夢のようでした。人生、これからどうなるんでしょうか。

 ああ、まったくそんな感じです、五十歳になるなんて。
 希望となるのは、「人生、これからどうなるんでしょうか」と嘆かれた先生は昨年還暦を祝われていたことだ。私も、運よく、六十歳なんてものになるんでしょうかね。
 私は日本がネットを解禁した84年からのネットユーザーでアスキー以前にJADAというに参加していた。あれはアマチュア無線愛好家ベースだったようだが、よく覚えていない。同年くらいの京王線の運転手のかたとなんどか対話したが、その後彼は今でも運転手をされているだろうか。彼も五十歳か。あのころ、まだ二十代だったんだな、というあたりで、人生の半分近くがネット漬けか。いやはや。
 さすがに五十歳というのは若い人からは老人に近く見える。というかべたに老人に見えるかもしれない。まあ、そのノリで儂も爺さんじゃでみたいな話もするが、これが内面となると実際のところ二十五歳以上に成熟してきたわけでもないし(たぶん現在三十半ばの人でもあと二十年くらい気性というのは変わらないよ)、身体的にもあちこちがたついてもそれほど老人というわけでもない。この先はちょっとお下品になりそうなんだが、まあそっちもな。
 昨日だったか、NHKスペシャルで「“鉄人”にきけ あなたの老化を防ぐ」 (参照)というのをやっていた。途中見逃したところもあるが、ところどころへぇと思いつつ見た。

43歳で時速140㎞の速球を投げる横浜・工藤投手。39歳で連続イニング出場の世界記録を更新し続ける阪神・金本選手。女子マラソンの弘山選手は38歳。60歳になるレーシングドライバー・寺田陽次郎さんはル・マン24時間レースに連続出場中…。スポーツ界で、中高年になっても活躍を続ける鉄人アスリートが増えている。こうした中、彼らの肉体の秘密を科学的に解析し、一般人の老化防止に生かそうという試みが始まった。

 へぇとは思うこともあったが、基本的にスポーツ選手で四十歳ベースの話というのは、五十歳の肉体の感覚とは違う。そのあたりは、もうちょっとなんとかならないかな、番組制作側で思うことはなかったものかな、とは思った。言葉を足すと、五十歳というのは六十歳とは違って、まだちょっと肉体的に現役っぽいところがあるので、そのあたりの、じれったいような感じがうまく出てこないものか。
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ヘルシーエイジング
アンドルー・ワイル
 それから老化と健康を扱った「ヘルシーエイジング」(参照)という本を書架から取り出して、気になるところをぱらぱらと再読してみた。歳を取ることも自然の成り行きだみたいな慰めに富んでいるともいえるし、あらためてワイルの遺書(歳を取ったら書いておけということで書かれている)を読むと、こういう考えそのものが歳というものだなとは思う。老化というのがそれ自体が抗癌的な機構かもというあたりも示唆には富む。
 それでも率直に言えば、私は老化というものをうまく受け入れられない。ワイルは「肉体を衰弱させる力を利用して、精神的・感情的・霊的な側面を強化する」とか言うけど、身体が活動するときの精神的・感情的・霊的な側面というものがあり、その魅惑のようなものからうまく抜けられない。なんとなくだが、こりゃもう身体はダメだわというまで奇妙なあがきが続くのだろう。

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2007.04.16

最終炒飯

 火力は出ない?
   出ないわけね。わかったよ。平和でよろし。
 鉄製の中華鍋もない?
   あるのは小さなテフロンフライパンだけか。わかった。
 具は?
   冷や飯一人分と長ネギの端切れと卵一個。それだけあればいい。
 塩と油はある?
   ある。
 よろしい、最後の望みはある、最終炒飯だ。

 用意は簡単。長ネギを適当にみじん切りする。普通なら捨てちゃう緑の先っぽのほうだっていい。できれば円柱形の部分が8センチくらいあるといいのだけど。そしてみじん切りはその断面の丸に十字に切り込みを入れておいてから、横からからざくざくと切っていくといいのだけど、まあ、どうでもいいよ。
 卵はよく溶いておく。
 ご飯は常温ならよい。冷凍でかちこちだとダメだけど、ほかほかに温める必要はない。
 じゃ、始めるか。
 フライパンに油を入れる。大さじ2。慣れたら1でもいいけど。
 これに長ネギのみじん切りを入れ、飯の量を見て塩味が適当になるように塩をひとつまみ入れる。小さじ1/3くらい。塩は油に溶かすようにする。
 弱火でこれをじっくりローストする。
 焦げないように、慌てず、ここだけは時間を掛けて。

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 長ネギのみじん切りがほどよくローストできたら(茶色部分が少しできるくらい)、溶いた卵を入れ、その上に冷や飯を入れる。
 ただ入れればいい。タイミングとか何もない。

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 フライパンの温度が下がる? 気にするなよ。
 これをぐちゃぐちゃによくまぜる。ご飯がこの時点でほぐれるようにするとよい。
 うへーこんなの食えるのかよと思うが、とにかくよく混ぜろや。
 そして火力を中火にする。強火にしない。
 てろてろと、ちんたらちんたらと炒める。ふんふん♪
 しだいにぱらぱらとしてくる。
 そのうち、なんだかこれって見方によっては炒飯かもという気がしてくる。
 そして、これなら食ってもいいかという感じになったらおしまい。

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 ゲーテも言っている、涙とともに最終炒飯を食ったものでなければ、人生の妙味はわからない。

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2007.04.15

おつりのあったころ

 尾籠な話なので、場合によっては読まないほうがよいかも、と警告。
 話は昨日の「極東ブログ: 手水といえばバケツのようにぶら下がっていたアレ、ぶら下げ手水」(参照)の続きのようなこと。
 ところでアレの呼称は「吊り手洗器(つりてあらいき)」としてもよさそうだ。他にもいろいろ呼称があり、私の記憶だった「手水」でもよさそうだが、呼称の一つに「衛生洗浄器」がある。ふと考え込んでしまったのだが、あれで衛生なのか。というのはあれは基本的に掌を洗うのだが、衛生という観点では流水で甲も洗うべきだし、もっと衛生というのならアルコールを使うべきではないか……また、手拭いやハンカチも菌の滞留にならないのか……まあ、どうでもいいといえばどうでもいいのだが、吊り手洗器というのはそれほど効果的なものでもないかもしれない。
 効果的ではないとしても、水の節約にはなるだろう、と思いが移っていくなかで、そういえば水洗便所というのは私が子供の頃に切り替わったという印象がある。学校の帰りにバキュームカーをよく見かけたのは小学生くらいまでか。汲み取りとバキュームカーの風景は昭和四〇年くらいまでだろうか。もちろん、地域によっては違うのだが。
 そんなわけで私は自宅を含め、世間の便所が汲み取りから水洗に変わっていくのを子供ながらに見ていたのだが、あのころですら子供心でも、これって水の無駄だな、と思っていた。どうやらその思いは今も抜けない。エコロジーとかよく言われているが、水洗便所というのはかなりの水の無駄ではないのか。あれはなんとかならないのだろうか。あるいは日本は水が豊富な国だから、あれでもいいのか。日本はよくてもなあ……いろいろ思う。なにか安全なジェルとか使うほうがよいのではないか。
 ついでに思うのだが、誰か指摘しているか知らないが、日本人は抗生物質を大量に消費するのだがあれって、人糞として排出されるのではないか。とすると、日本は抗生物質を自然界にかなり膨大に廃棄していることにならないのだろうか。そのあたり、よくわからない。自然に分解されるのだろうか?
 汲み取り便所のことを思い出し、そしてそれが、本当に恐かったことを思い出した。今でもトイレにまつわる怪奇話は子供たちに流布されているだろうが、あの臭いアビスの怖さの比ではない。すべてを飲み込み消していく……いや、おつりが来た。
 あの、おつりというのがほんといやだった。怪談の怖さとは違った怖さだった。というあたりで、「おつり」の意味が辞書に載っているかいろいろ調べてみたが、ない。「釣り」を丁寧に言うとかある。文明が逆転でもしないかぎり、こういう言葉というのは忘れていくというか消えていくのだろう。まあ、ここで詳しく解説するのも尾籠なんで省略だけど、あれを知らない日本人が多いんだろうな。
 そういえば自分の記憶だけなんだけど、ゲバゲバ90分(参照)でも、おつりの話は多かった。シモネタはギャグの定番だしね。と、ウィキペディアを見ると、69年から71年の作品だった。あまり詳しく書いてないが、最後のほうはもうダメになっていた。ざっくりと70年の作品だし、あの70年かあと思う。もう四〇年も昔のことになるのか。「おつり」のギャグとか今見るとどうなんだろ。
 いろいろ思い出す。あの時代の国鉄のトイレというのもものすごいものだった。いや、これはものすごいとしかちょっと言えない。ビジュアルで思い出してPTSDになりそうだ。よくあんな時代に生きていたなと思う。

cover
陰翳礼讃: 谷崎 潤一郎
 そういえば池上季実子の爺さん八代目坂東三津五郎がフグ食って死んだのが75年。あの時代、けっこうな人がフグ食って死んでいた。統計がわからないが年間二〇人以上死んでたんじゃないか。すごい時代だったなぁ。なぜそこまでしてフグ食いたい?
 八代目坂東三津五郎は谷崎潤一郎と懇意だったが、彼の「陰翳礼讃」(参照)で美とされている便所も当然汲み取り式だ。原理的にはおつりがありそうだが。

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2007.04.14

手水といえばバケツのようにぶら下がっていたアレ、ぶら下げ手水

 高校三年生を対象とした〇五年一一月の全国一斉学力テスト(教育課程実施状況調査)の結果が公表された。いろいろな見方があるだろうが、率直に言って、見方によっていろいろ言えば言えるというくらいの結果だったように思う。というか、私は関心を持たなかったのだが、国語の問題の話を読んでいて、アレっと思ったことがあった。一三日付け時事通信出版局”4分の3が「拝啓」書けず=学力テスト”(参照)より。


【国語】手紙の書き出しの「拝啓」が漢字で書けたのは全体の4分の1。「手水(てうづ)」を現代仮名遣いで書かせる問題も、正解の「ちょうず」が想定正答率65%の半分に満たなかった。「しつど」の漢字書き取りや「未読」のように「未」で始まる熟語を2つ書かせる問いでは、想定を10ポイント以上上回った。

 「拝啓」の漢字が書けても「敬具」との対応を知らなかったら意味ないし、そんな決まりは社会人になって要があれば何かを真似すればいい。これは社会儀礼の問題であって学力とは関係ないだろう。まあ、それはどうでもいいのだが、「手水(てうづ)」を現代仮名遣いで書かせるというのは、へぇと思った。「ちょうず」が正答だとして、さて、この問題と解答に、高校生に何の意味があるのだろう。
 手水を「ちょうず」と読むという知識は社会人にとってどういう意味があるのだろうか。神社参拝や茶の作法くらいなものか。と思いつつ、歌がクチをつく。

梅が枝の手水鉢
叩いてお金が出るならば
若しも御金が出た時は
その時や身請をそれたのむ

 野暮な解説はしないとして、そういえばこの手水鉢というのはいわゆる手水鉢なのだが、というところで、アレを思い出した。アレアレ。遊女の連想で幇間を思い出し、そういえば悠玄亭玉介「幇間の遺言」(参照)にもあった。

 さっき、ご不浄の話が出たろ。お客様もご不浄に行くよな。その時、あたしたち、たいこもちもついていく。どうしてか、わかる? おしっこしたいからじゃないよ。お客様はご不浄に立つと、不思議とふと我に返るんだ。前を出しながら、小便をジャーッとしてる時に、「ああ、明日はあの仕事をしなけりゃいけないな」とか「いま頃、子供は寝たかな?」とか、必ず仕事のこととか、家庭のこととかの思いがよぎるんだ。
 そうなると、座敷に戻っても、なんだかそれまでのようには騒げない。「じゃ、ぼちぼち引き上げるとするか」ってことになりやすい。
 そうなったらおしまいだから、あたしたちがついていくんだよ。で、外で手拭いなんかを持ちながら、声をかけるんだ。え、手拭い? 昔はね、ご不浄の外に水の入った「手洗い」がぶるさがっててね。それを下から押すと水が垂れてくるんだ。その水で手を洗う。その手を拭くために、手拭いが必要なんだよ。いまでいうおしぼりだね。

 アレというのは、この手洗いの器具なのだが、玉介はその機能でただ「手洗い」と呼んでいるがアレもたしか、私の記憶では手水と呼んでいた。ただ、ちょっと確かではない。
cover
幇間の遺言
悠玄亭玉介
小田豊二
 アレに手水以外の呼び名があったか。アレもまた機能として手水と呼ばれていたのか。さて、どうだったか。
 こういうときネットで「アレ」とか検索できない。手水で検索しても、高校生の学力テストみたいな無粋な答えしか出てこない。でもいろいろ検索したところ、面白かった。
 ”佛大通信Vol.490 鷹陵の栞”(参照)でもアレの正式名が気になっている話があった。

 お風呂のお湯も、沸かしてしまえばそれっきりで、今のようにじゃあじゃあと湯口から出てくることもなかった。沸かしたお湯を大切に水で割って体を洗っていたのである。もちろん、シャワーなんかありはしない。銭湯にだってなかった。便所もぽっちゃん便所であるから、水は大切にされていた。手水(ちょうず)にも、バケツの底に突起をつけたようなものが吊るされているだけだった。(あれは、何という名前なのだろう? ご存知の方、教えてください)その突起を押すと、中のパッキンがずれて水がチョロチョロ出てくる仕掛けになっているのである。多分、バケツいっぱいで家族が一日は手を洗えたことだろう。いったい今は、一日に昔の何倍、ひょっとしたら何十倍水を使っているのだろう?

 ”落語書き帳面”という掲示板(参照)でも、アレが気になっている話があった。

3312 定吉とん **** 2003/03/28(FRI)16:13:14
なっつかし~~ ^o^
そうそう、忘れてましたわ。
ほんで手ぬぐい(タオルとちゃうのんよ)がそばにかかってるねん。
この手洗い用バケツ、よう考えてありますね。自動的に一定の水が出るんですから。

218.42.24.239/Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; MSIE 5.5; Windows ME) Opera 7.03 [ja]

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3311 仮隠居 HOME 2003/03/28(FRI)14:50:12
言い換え
お便所に関しては言い換えの言葉ホント多いですね。思いつくまま、雪隠、閑所、ご不浄、厠、高野、はばかり、お手洗い、おちょうず、WC、ウォーター・クロゼット、ダブル・シー、化粧室、洗面所、トイレ、TOTO……

手水鉢のある家ってのはかなり豪邸でしょう、瓢箪山で住んでいた家では便所は庭に面した廊下の突き当たりにあって、用を足したあと縁側のガラス戸を開けて軒下に吊ってある水入れの下のポッチリを押して手を洗ってました。手拭も一緒に吊ったぁったなぁ。あの水入れの正式名称なんて言うんでしょうね? もちろん便所は雪隠(せんち)壷を埋め込んだ汲み取り式でした。

懐かしい水入れの写真↓
http://hasu.ojiji.net/sonota/tanku.jpg
http://hasu.ojiji.net/sonota/tanku2.jpg

220.38.192.26/Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 6.0; Windows 98; Win 9x 4.90; Q312461)


 リンク先にすでに写真はない。
 探していくと、え?という情報があった。レトロおじ散歩”第5回 青梅商店街<その2>の巻”(参照)より。

 さて最後は、ちょっと博物館を通り越した反対側にある金物店だ。もともと鍛冶屋さんの販売所だったせいか、時が止まったような店だ。30年前までは鍛冶場もここにあったが、マンションなどが立ち並び始めると、朝早くからトンテンカンと槌打つ音が響くので別のところに移した。売っているものを広い店内から探して挙げてみようか。「豆炒り」「ねずみとり」「花柄の柄のおたま」「荒神ぼーき(小学校の時にげた箱掃除で使ったやつ)」「じょうご」「ひしゃく」「火箸」「桐製の蠅帳(風通しの良い食器保管庫)」「ハエたたき」「兵式飯蓋」「ぎんなん割り」「カルメラ焼き」など懐かしいものがズラリ。昔、物干し竿が竹だったときに、ビニールのカバーをして、お湯で収縮させたが、そのカバーもまだ売っている。一番懐かしいのは「手水」だ。和式便所から出たときに手を洗う道具で、バケツを逆さまにしたような容器の下部に蛇口があり、そこを手で押すと水がチョロチョロでてくるもの。いまはプラスチック製で1800円。

 「いま」とあるが〇七年四月の今でもあるのだろうか。一八〇〇円というのはちと高いような気がするが、考えてみると、水が貴重な生活文化ではアレはけっこう便利なものである。
 いろいろアレのことを考えつつ、自分のなかでは「ぶら下げ手水」ってことに暫定的にしたい気もするが、アレ、案外世界のあちこちで使っているってことはないだろうか。


追記
 エントリを書いてから関連情報がわかってきたので追記。

まるで美術工芸品のような吊り手水(手洗器)参照


 名称は「衛生手洗器」「自動手洗器」「中治(ちゅうじ)式自洗器」「完全衛生生活栓(せん)」などがあります。


 この手洗器なるものが手水鉢(ちょうずばち)の代用品として初めて登場したのは明治の終わりごろで、金属製の桶(おけ)型が主流でした。明治40年3月15日付けの「東京金物新報」に「本器は前に汚れたる手の触れたる処(ところ)へ清めたる手の触るる如(ごと)きことなき実に不潔を清むるの主意に背かざる特色を有せり」とうたい、特許476号というイラスト付きの宣伝が掲載されています。
 さらに面白いことには売り出したのが「旭組電気」という電話機や電鈴ボタンを扱っていた会社で、その仕掛けのノウハウが生かされてのアイデア商品になったようです。

これは、なに? 手水器(ちょうずき)?(参照PDF

手洗器、吊り手洗器ともいう。手水器の言い方は少数派。『日本国語大辞典第二版』には、「てみずき」「てあらいき」ともに掲載していない。林丈二著『型録・ちょっと昔の生活雑貨』(晶文社、1998)に「手洗器」の解説がある。


 さて、この手水鉢の代用品として明治末年頃から普及していくのが、「手洗器」である。明治40 年ごろの新聞広告には、「改良洗器」とか、「自動手洗器」、「中治式自洗器」、「燈火兼用温水手洗器」、「完全衛生生活栓(一名衛生洗浄器)」などがみえる。旭組電気商店が特許を持っている画期的商品として広告が打たれている。ただし、他の新聞にも「寺田商会」や「アサヒ屋」なども同様に特許を持っていると広告しているので事情は定かではない。


 1933 年から3年半日本に滞在し、桂離宮を世界に紹介したことで知られるドイツの建築家ブルノー・タウトはその著書『日本の家屋と生活』(雄鶏社)のスケッチのなかにも吊り手洗器が描かれており、戦前から戦後の昭和30 年代まで一般的に使用されていた。

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2007.04.13

米国次期大統領選挙運動、雑感

 米国ではイースターに子供をホワイトハウスに招く習慣がある。子供のおもてなしはファーストレディのローラ夫人だった。小学校教師だった経験もある彼女には懐かしい仕事だろう。子供に絵本を読んで聞かせた。絵本は Duck for President(参照)。あはは。いろいろ叩かれることの多いご夫妻だが、なかなかのユーモアをお持ちのようだ。ストーリーの結末は、お疲れダックの大統領がおクニに帰るという。

cover
Duck for President
(New York Times
Best Illustrated Books
Doreen Cronin
Betsy Lewin
 ブッシュ大統領の任期もあと二年。何ができるのか、メディアを通して見ているとよくわからない。これまで幸運だったとも言える米国景気もこの先一年くらいはしょぼくなりそうだ。反面、すでに次期の選挙活動は盛んで、趨勢を見ていると民主党がめざましい。
 一番手はクリントンである。ヒラリーと言うべきか。CNN”ヒラリー議員、3600万ドルの選挙資金獲得”(参照)によると、標題通り三六〇〇万ドルをゲットした。さらに、目標値を上げて七五〇〇万ドルとのこと。すごいもんだなと思う。ニューズウィーク日本語版のマンガに、将来大統領候補になりたいという少女にヒラリーが「そろそろ資金集めを始めたほうがいいわよ」と答えているが、洒落になってない。
 金額もすごいのだが私が気になったのはネットを通じた集金だった(ちなみに総額については中間選挙資金からの一〇〇〇万ドル上乗せがある)。

ヒラリー陣営は銀行口座残高を公表していない。民主党予備選への割り当て金額や、ヒラリー議員が同党の指名を獲得した場合の本選挙向け資金額は、今月15日前後に発表される。集めた2600万ドルのうち、420万ドルはインターネットによる献金。

 ネットで五億万円くらい集めるということだろうか。仮に米国というのを日本の規模の二倍強とみると、日本の政治活動でネットを使って二億万円くらい集められるものだろうか。よっしゃよっしゃと言っても無理だな(このネタは若い人には通じない)とか夢想し、そして、忘れた。が、次のオバマの件で思い出した。彼もまた膨大な選挙資金を獲得した。産経新聞”米大統領選資金集め オバマ氏、驚異の30億円 ヒラリー氏に肉薄、脅威”(参照)によると、総額についても驚きだが、ネットによる集金がすごい。

 オバマ氏の選挙事務所によると、これまで10万人以上の個人が献金し、うち5万人以上の計約690万ドル分がインターネットを通じたものだった。ヒラリー氏は5万人から献金を集めたが、ネットを通じた献金は420万ドルにとどまっていた。

 それって八億円か。総額でびっくりするが、十万人というから一人頭だと八千円。ざっくり、選挙に一万円をほいと出す人が十万人いるのか。さっき米国を日本の規模の二倍としたから、日本だとそのくらいの人が五万人いるか。うーむ、いそうな感じもするな。かく言う私もこの人ならという人がいるなら、そのくらい出すだろうな。
 とぼんやり考えながら、米国の選挙と日本の選挙の違いを思った。日本の場合、制度が違うので建前はいろいろあるだろうが、先日の選挙なんかでも事実上の集金があったのだろうか。ま、わからないし、見えない。
 米国の次期大統領選挙だが、流れ的に見ていくとヒラリーが圧倒的な資金力で、どーんと押していくだろうし、女性大統領がようやく出現しました、ということになり、エレン・サーリーフと女性大統領対談なんてことがあるかもしれない(ちょっと願望を込めてみた)。
 他方、黒人大統領というのも不思議でもない。たぶん米国という国はいずれ女性の大統領と黒人の大統領を産まなければならない強迫観念のようなものを持っている。
 しかし実際に未来の米国のイメージすると、それよりラティーノの大統領もあってよさそうだが、というあたりで、そういえばブッシュ・ジュニアはあれで、あれでというのも失礼だが、スペイン語が普通に話せる最初の大統領だったな、とかつい過去にしてしまうのもなんだな。

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2007.04.12

[書評]水泳初心者本三冊

 若い頃からなにかとプールには縁があったものだが、沖縄暮らしで遠ざかっていた。海辺に暮らしていても、泳げないのである。いや、泳げって言われれば泳げるけど、泳ぐところじゃないんだね、沖縄の海。実際、けっこうな数のうちなーんちゅが泳げない。海に囲まれて、海辺でビーチパーリーして、夕べになればTシャツ着て海にじゃぼじゃぼ入って遊んでんのに、泳げない。なぜ? プールがないから。復帰後はそうでもないかもしれないが。その話はさておき。
 東京に帰って四十肩やって、俺もうダメだわと思ったがなんとか戻る。次は五十肩でしょ。っつうわけでもないが、そういえばとぽそぽそ泳ぎ始める。昔と違って息が上がるのでマジな泳ぎはできない。っていうか、マジで泳げるのはきちんとフォームを習った平泳ぎくらい。
 のんびりゆっくり平泳ぎ、ケロッケロッケロッいざ進めーである。それでもいいでしょと思っていたが、飽きるのでクロール。やるとそれなりにできないこともない。でも息上がる。というあたりで、クロールもゆっくりやればいいんじゃないの?と思った。けっこうゆったりクロールで泳いでいる人もいるし、そういえば父も若い頃けっこう優雅にクロールを泳いでいたものだった。
 あれ(ゆったりクロール)ってどうやるんだろう? と思って、水泳初心者本を結局三冊買った。読んでみて、へぇである。何かとうなずきまくりんぐ。若い頃教わったクロールとけっこう違うでやんの。


cover
クロールが速く
きれいに泳げる
ようになる!
 最初に買ったのが、「クロールが速くきれいに泳げるようになる!(高橋雄介)」(参照)。買った理由は、映像解説のDVDが付いているから。泳ぎなんて言葉で説明するもんでもないでしょ、と、本を読む前に、DVD DELUXのようにDVDから見始めた。映像はたしかに見ればわかる。だけど解説がさっぱりわからない。専門用語が多すぎ。そこで本を読む。読むと、しょっぱなからオリンピックレベルの話があって、それはそれで面白いのだけど、うひゃ、これは初心者向けじゃないんじゃないかということで、この本の前著にあたるのを購入。ちなみに、今このDVDを見ると、用語にも慣れたので、よくわかる。これはこれでよく出来ていると今ならわかるようになった。


cover
クロールが
きれいに泳げる
ようになる!
 その前著が「クロールがきれいに泳げるようになる!(高橋雄介)」(参照)。これはわかりやすい。図も写真も見やすいし、解説もわかりやすい。今まで泳いでいてけっこう初歩的なことわかってなかったなと、へぇへぇ言いながら読んだ。普通に最近のスイミング・スクールとかで学ぶ人はこういうのから入るのだろうか。この本はまだまだ読み尽くせない、っていうかいわゆる読書と違うし。というあたりで、なんか初心者水泳本に興味を持ちついでもう一冊買った。



cover
ゼロからの
快適スイミング
ゆっくり長く
泳ぎたい!
もっと基本編
 それが「ゼロからの快適スイミング ゆっくり長く泳ぎたい! もっと基本編(趙靖芳)」(参照)。これが、目から鱗が落ちまくりんぐ。そんなのありかという話がこてこて書いてある。図と写真は多いが単色で上二つに比べると、ちょっと見劣りする感じがするのと、文章というか解説に癖がある。読んでいて、これは初心者にありがちなんだけど、二種類の指導法に戸惑うっていうドツボ。先の「クロールがきれいに泳げるようになる!」と違うところがある。そこでどっちがいいのだろうかと悩んでしまった。どうせ、五〇歳男が競泳するわけでもないし、私にはどっちがよいのか。


 一番まいったのは「ゼロからの快適スイミング」は2ビート。「クロールがきれいに泳げるようになる!」は6ビート。私は普通に6ビート。昔習っていたときは、速く泳ぐために2ビートもやったが、これはもう無理。というか、体が覚えていない。え?2ビートを初心者ができるのかよと思ったが、あれこれやってやってるうちに、そう無理でもない。というか実際に水のなかでいろいろ試してみると、当初は「ゼロからの快適スイミング」と「クロールがきれいに泳げるようになる!」はけっこう違うなと思ったが、そうでもなくなってくる。6ビートでも2ビートが基本だし、どうやら2ビートの練習をしたほうがよさそうだ、というあたりが現状。
 ついでにゴーグルも買った(参照)。のんびり平泳ぎでは必要なかったが、クロールだとそうもいかないし、塩素が目に痛い痛い。さらに耳栓まで買ってみた。最近の耳栓ってこういうものかと使ってみるとこれも便利。ふーんである。
 ケロッケロッケロッいざ進めー、水泳再挑戦!である。キビシーとかなったらなんとなく中断してしまうだろうか。

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2007.04.11

[書評]ヤクザの恋愛術(石原伸司)

 先日ちょっと時間つぶし用の文庫として見知らぬ書店で買い、そのまま読み捨てのつもりだったが、少し心にひっかかることもあるし、この機に石原伸司という人にも関心をもったので少し書いておきたい。

cover
ヤクザは女を
どう口説くのか
石原伸司
 文庫は「ヤクザの恋愛術(石原伸司)」(参照)だが後で調べたら、〇四年刊行「ヤクザは女をどう口説くのか(石原伸司)」(参照)の文庫版らしい。こちらはアマゾンで見たら古書で百円なんぼで売っている。
 文庫を読み出して最初に思ったのは、「あ、古いな」という感じだった。爺さんが書いているから古いなというのではなく、本の編集のスタンスや企画が古い感じがした。なので奥付をみて〇四年の文庫版かと気が付いたのだが、この間、三年。それくらいで時代ずれ感があるものだろうか。もちろん、私の感性がたいしたことないというのもあるだろうが。
 話はまさに、ヤクザがどう女を口説くかということだった。いろいろお前さんたちカタギの人間にはわかるまいみたいな口調で書かれているのだが、普通のカタギさんの想像を絶する話はない。いや、一点ある。石原伸司自身の、たぶん最後でかつ本当の恋愛だがそれはこの本の範囲で触れることではないだろう。
 ヤクザがいい女をつれているのはという理由がいろいろ語られているが、私の理解ではこれはいざというときカネになるからだ。しかし、そのことは書かれていない。えぐいというのもあるが、石原伸司という人はけっこうなロマンチストというか文学志向の人なんじゃないか。つまり、たまたまこんな人生を歩んだけど、境遇によってはインテリな青年から老年を迎えたかもしれない……と想像しながら、逆に私なんぞも境遇ではどんな人生の可能性があったかなと思った。
cover
ヤクザの恋愛術
石原伸司
 女の口説きかたについて、おお、これは学んで得したという点もない。一点くらいあればいいのにと思うのだが、いやいや、一点あったな。すごい一点があった。買って読めとか言わないで私の言葉で書けば、「家事をフォローしろ」である。炊事・洗濯・掃除を豆にやれ、と、ついでに豆の下品な連想だが小一時間くらいは必死になめ続けろ、と。
 いやあ豆でなくちゃというのはわかるし、昔は豆だったんだけど今じゃ豆腐だとか寒い話はさておき、へぇと思ったのだが、ヤクザが豆なのは、つまり、家事がきちんとしているのは、ムショ暮らしの生活行動パターンなのだな。ムショ暮らしていると掃除を徹底的にするというのはわかるというか、奇妙に懐かしい感じがして、なんだろと記憶をたどったら、私の父もそうだった。父にムショ暮らしはないのにと、とすぐにわかった。彼は少年時代満鉄の寄宿舎で暮らしていた。あれはきっとムショ暮らしみたいなものだったのだろう。
 ムショ暮らしについて、先日のホリエモンの、あれはムショじゃないが、いっぱい読書したでもわかったが、つい読書して教養人になっちまうというのは知っていた。知らなかったのは、ヤクザがムショに入って手紙マニアになるということだ。それはあるかもしれないな、いやあるんだろうな。私もムショに入ったらいっぱい手紙を書くだろうな……誰に? ……ああ、それで女が必要か、納得の、な。しかし、考えてみると私も別の意味でムショ暮らしみたいな人生になったからブログなんぞ書いているのだろう。
 カタギな爺さんになった石原伸司という元ヤクザさんだが、一九三八年生まれ。現代だと一九三五年生まれの筑紫哲也と同じで、すごい古い人みたいだが、彼らですらもう戦地の経験はない。子供ころの戦争の印象を戦後の情報で埋め尽くした、どちらかという新しいタイプの日本人だし、ある意味で日本の伝統からは隔絶している。むしろ、自立して女を大切にして手紙を書いて、という近代日本人なのだろう。
 

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2007.04.10

営業力かぁ

 今の若い人に足りないのは営業力という話を先日ネットで見かけ、営業力かぁ……と考えることがあった。SEとかも事実上営業だしなとか。営業の仕事って今どうなっているんだろ。
 私は営業の修羅場にいたことはないが、若造だったころ短期間というか不定期にその端くれにいたことがある。年配のおっさんとペアだったこともあり、これは実地で学ぶ技術だなと思った。
 営業の技術は体系的な知識にまとめられる部分もあるのだろうが、なんともうまく言葉にならない部分もある。人柄が勝負ということも多い。あるいは、そういう人柄のようなインターフェースを作る技術かもしれない。
 ペアだったおっさんはそうした「人柄」を顧客には見せたが、私にはビジネスライクでそれほど見せなかった。私がとっつきにくい若造だったからだろうが、あるとき、ぼそっと「やる気があるなら君には営業の才能があるよ」と呟いた。自分がそのころのおっさんの歳になりなんとなく思い返す。
 営業力とは何か? 私に答える経験も能力もないのだが、それでも一言で言えというなら、「納期に対する責任」と答えるだろう。これは売る対象によっても違うので、まったく無意味な答えにもなるのだろう。私が置かれた場所で痛感したのはそれだったが。
 売ることは難しいと言えば難しい。とてもじゃないが簡単とか言えない。だが、売ったらアフターケアに入るんではなく、商談と納入には時間差が生じるビジネスが多い。納期の問題が起きる。この間、会社の内部と顧客を繋ぐのは、営業ただ一人。その一人に立たされてみて、営業っていうこういう仕事なのかと思った。
 営業が会社の内部と顧客を繋ぐということは、その両面に配慮しないといけないということで、どちらの面が難しいか。顧客の側面は、ひどい言い方だが、言葉で騙すことも出来そうに思える。が、内部の側、つまり生産工程や在庫の問題は、一見すると営業の範囲ではないと思えるので、私の責任じゃないと、つい毒付きたくなる。しかし、そうしたとき最悪の状態。
 営業力がもし「納期に対する責任」なら、それを上手にこなす技術やコツはあるだろうか。正直に言うとこれは今でもわからない。ただ、その問いかけの過程でわかったことがある。物やサービスを売るというとき、価格・品質・納期の三要素でもっとも大切なのは、納期だと得心したことだ。
 価格と品質は営業という仕事がなくても独自の訴求力を持つ。ある意味でそれこそ営業がタッチできない。それに対して、納期は一種の約束であり、約束というのは、どんなに無能であれ人の顔をしていないといけない。それが営業の顔だ。まずい顔でも人の顔をして「お約束しました」と言えることと、納期について配慮できること。前者はけっこう生き方の問題があるし、後者については、サービスや商品の特性、社内の状況についての理解が必要だし、ある意味で、会社を業界や流通のなかで覚めて見ている必要がある。
 この覚めた視点というのは、「納期に対する責任」を支える技術的な部分になるのだろう。「我が社は生産過程のここに大きなロスがある」と見抜いておかなくてはいけない。もっとも、それでどう対処するかは営業の範囲を超えてしまう。
 あと、在庫の問題がある。なんか話がうざったくなったが、セブンイレブンとかアマゾンとか見ていると、情報化が産業に関与した部分というのは、在庫に関わる流通だったのだろうなと思う。そこは今後も改善できるのだろうが、そうなるほど、営業というのは、納期に関連してますます人間的な部分に関わっていくのだろうな。

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2007.04.09

2007年都知事選雑感

 都知事選には関心がなかったが蓋を開けてみて、へぇと思ったことがまったくなかったわけでもないし、その、自分にとっての小さな新規性の感覚は、案外これからの日本を考えていくときの軸になるかもしれないのでメモ書きしておこう。
 まず結果だが、読売新聞東京都知事選 : 開票結果 : 統一地方選2007””(参照)より。


得票数(得票率) 氏名 年齢 党派(推薦等) 新旧 当選回数 代表的肩書
2,811,486(51.1%) 石原 慎太郎 74 無所属 現 3 知事
1,693,323(30.8%) 浅野 史郎 59 無所属 新(元)宮城県知事
629,549(11.4%) 吉田 万三 59 無所属(共) 新 (元)足立区長

 四月一日時点でした私の予想はこんな感じ。

 都民の票が1000万くらいか。投票率は40%。全体は400万。
 前回石原は300万だがそこまではいくまい。てえと、石原200なら浅野にも目。
 石原250はいけるか。前回左系動員でせいぜい150万。これに浅野で50万上乗せするか つまり、浮動票がそっちに動くか。
 あまり動かないんでないの。っていうか、浮動票は黒川紀章とかにブラックホールする。すると、石原200万。浅野150万。のこり50万。かな?
 勘だと、石原200万、浅野100万。残り100万。か?

 大差で浅野が負けるというのは予想通り。比率で見て、石原50%、浅野が30%くらいとすればこの予想も当たりではある。
 が、投票率が54・35%と高い点は大きく外した。日経”知事選投票率2ポイント増の54.85%”(参照)より。

 統一地方選前半戦の平均投票率は、13都道県知事選で54.85%となり、前回(2003年)から2.22ポイント上昇した。知事選のうち投票率が前回を上回ったのは北海道、東京都、福岡県だけだが、東京都知事選が54.35%と、前回より9.41ポイントも高いため、全体を押し上げた。

 前回の石原が300万票で今回は280万票。前回より投票率が高くても票が減ったわけだし、前回の比率は70%だったのが今回は50%と見ると、石原支持もだいぶ減ったと朝日新聞社説のようにくさしたくもなる(参照)。だが、前回はまだまだ世界もかなり右傾化した空気だったし、石原の対立候補がいたなんで誰も覚えてすらいないだろう。なので、特殊な選挙だったと見たほうがいい。
 とすると、石原支持層はほとんど変わってもいないし、きちんと選挙にも行きましたということのなのだろう。都民っていうか、東京という疑似国家の国民の政治意識というか活動はけっこう、こりゃすごいわと私は思った。ネットなどではいわゆる左派的リベラル系の発言が目立ち、右傾な発言は2ちゃんねる的なアングラないしサブカルチャー的な発言と見られがちだが、現実世界とネットの言論の差のディスプレースメントというか補正の感覚を養うにはよい結果となった。でも、たぶん左派的なリベラルな人たちには通じてないんじゃないか(あー、非難ではないの糞コメントしないように)。
 浅野170万票については、左派的なリベラルな人たちの現時点の総勢力か、あるいは、民主党がブレているからもうちょっと潜在的な力があるか、なのだが、たぶん逆でむしろ、今回の浅野票は左派的なリベラルな人たちの現時点の総勢力に下駄を履かせているだろう。石原非難の層はけっこうあったし。ということで、左派的なリベラルな層は、東京疑似国家では20~25%くらいの比率はあり、依然強い勢力を持つのではないかと思う。
 というあたりで、ぼんやりと私は小沢の心中を思った。民主党の今回のブレはかなりひどいもので、ひどさにはいろいろ反省点があるが、一つには菅直人を出さなかったのはというあたりの議論をネグってしまうのはまずいのではないか。私は彼をわけあって全然支持しないのだが、民主党がマジで選挙するなら彼くらいの看板しかないのではないか。ところが菅はきちんと今回の負けを読んで動いているわけで、しかも小沢もその動きを是認しつつこらえていたのだろう。そして、私のような従来からの小沢支持者にしてみると、昨今の社民党や共産党とも共闘しようする政治指針に多少異和感がある。もう後がないので民主党の左派勢力に日和っているともとられるのだが、たぶん、そうではなく、反自民の勢力の礎石をなんとか作りたいという一心なのではないか。彼は自民党がどう変わろうかまったく微動だに自民党を信じていないと思う。むしろ、小泉はノイズにしか見えなかったのではないか。この読みが正しければ小沢のビジョンは小沢の政治生命の続く範囲で実現することはないのかもしれない。
 話を地べたにもってくるとと言うか自分なりの庶民感覚でこの都知事選を見ると、石原が自分が勝つと信じたというか浅野に負けるわけないじゃないかと思えた理由は、彼がオモテ向きよく語っているような都政の実績が認められたではなく、浅野なんてあいつ江戸っ子じゃないよ、そんなもの東京の人が支持するわけないじゃないか、ということだったと思う。
 石原が江戸っ子かというとめんどくさい議論になってしまうかもしれないし、むしろ彼は戦後のハイカラボーイの部類だ。だが、今回ぼんやりメディアで久しぶりに石原の言葉を聞いてみると、アプレゲールも爺さんになったのか、とても懐かしい東京人の言葉遣いがある。とても微妙なんだけど。そして言葉遣いというのはただ言葉の表面だけじゃなくて、東京人らしい心のころころっとした動かしかたがある。このあたりうまく表現できないのだが、江戸弁とか古典落語とかなにか擬古的な江戸や東京というのが語られるのでうまく伝えづらいのだが、むしろ石原の言葉の感性はとても東京っぽい。そのあたりは、けっこうなるほどなと思ったし、東京というのはとてもローカルなカルチャーを持っているとも思った。
 地方選全体ということでの雑感を一つだけ加えておくと、島根県知事選で溝口善兵衛(参照)の当選ってなんなんだよ、しかも大差。

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2007.04.08

消費って楽しいのかっていうか

 日本に必要なのは内需拡大、つまり日本国民がもっと消費しようよ、ということだが抽象的過ぎる。もっと具体的に自分の消費行動を省みて最近何か変わってきているだろうか。少し変わってきているみたいだ。以前の自分ならしなかった浪費の傾向もあるなと思えてきた。
 私はちょっと食いしん坊というくらいで他にはあまり生活にテイストというのはない。失笑を買うかもしれないが、物事にこだわりというのはない。生活は合理的なほうがいい。そういう本筋は変わらないのだが、実際の自分の消費行動を見ていると、このところ以前よりスタンダードなものを避けることがある。単純な話、食材とかお菓子とか、ちょっとよいものを買ってしまう。ワンランク上のものというより、これがスタンダードであるべきだというスタンダード感覚で買っているようだ。
 製造や流通、マーケティングといったところで妥当な商品というのがそれなりに優れているのはわかるのだけど、そういう合理性や意匠を避けてしまっている。なぜなんだろうと思うのだが、魚なら魚の仕入れ手や、お菓子ならパティシエといった個々の人が見えるような、その人たちがこれは薦めたいなと沈黙に出しているメッセージを聞き取りたいという感じがする。もっと具体的に言うと、たとえば春なんだから駄洒落みたいだけど、鰆のいいのが食べたい。マナガツオも食べたい。と思って、魚屋の店先で生きのいいマナガツオを見かけると、ちょっと高くても買ってしまう。
 もう一面、最近変わったかなと自分でも思う消費行動だが、ややお高い家電品とか数点入れ替えた。私は機械や道具は使える内は壊れるまで使うタイプの人なのだが、まだ使える内でも、そろそろいいかと思えるようになり、その機に最新機能の家電などを買ってみた。へぇと思うことがある。いやけっこうあると言ってもいい。このへぇなのだが次第に生活様式を変え始める。便利なると言ってもいいのだが、この便利さがどうにも馴染めない。たぶん私がメイドさんとか雇ったら同じようにその便利さが馴染めないんじゃないかというか、そんな感じだ。

cover
フィリップス
センセオ(Senseo)
コーヒーポッド式
コーヒーメーカー
 個人的な感覚の問題かもしれない。どうでもいいことだが、私はもてなしということでもなければ、人にお茶を入れてもらうのが好きではない。なんかすごいこと言っちゃうけど、私よりお茶をうまく入れられる人に私は会ったことがない。自分で入れたいのである。ま、それは放言でもいいのだけど、自分でやるべきことを人に任せるとどうも居心地が悪い。魚屋で魚をおろしてもらって買うのも、いかんなぁと内心いつも思っているけど、血を見るのがすごく恐くてさ。
 そういえば、先日日本でもようやく欧米で人気の高い簡易コーヒーメーカー、Senseo(参照アフィリエイト)が発売されるようになって、さてと考えてしまう。当面要らないと言えば要らない。それにコーヒーとかは気晴らしに喫茶店とかで飲むというのもあるし。Senseoがよくてもコーヒー豆まで定型というのはなとか……考えてしまう。でも、これ買えば確実にまた生活感覚が変わってくるに違いない……とか書いていてまた買うか悩み出してしまった。
cover
凡人が最強営業マンに
変わる魔法の
セールストーク
 買おうか買うまいかとか悩む機会が多くなったということ自体、消費傾向の変化だ。これも連想だが、先日「凡人が最強営業マンに変わる魔法のセールストーク」(参照)というちょっとアレげな本を読んだ。内容はさしてないのでさらっと小一時間で読めるのだが、いやあ、なんか珍本でした。私は珍本好きなんでコレクションにしようかなと思うくらい。この本、標題のように、魔法のセールストークを教えてくれるわけですよ。私みたいに、買おうか買うまいかとしている凡夫の背中をずんと押してくれるわけですが……これがなかなか。
 初っぱなから、セールスの秘訣は「お客が欲しいと思っているものを売ってはいけない」とくる。なぜかというと、お客は欲しいものがわかってないから、だと続く。具体例がわかりやすい。

お客「すみません、電気ドリルが欲しいんですけど」
あなた「はい。いらっしゃいませ。電気ドリルのことですね。ちょっとお伺いしていいですか? 何か困っていることでもおありなんですか?」
お客「困っているわけではないんですが、ベニヤ板に穴を開けて、子供の工作を手伝ってやらないと。それで電気ドリルを――」
あなた「具体的には、どんなベニヤ板なんです? 何枚?」

 ということで、お客が欲しいのは電気ドリルじゃないよということで、うまく穴あきのベニヤ板を売る、と。なるほど、と。
 それはそれでいいのだが、この本、なんというのか一種のカウンセリングになっていて、セールスがセラピーになっている。

 セラピストは、根源的な60の欲求に対して、言葉を駆使してそれを満たしてあげようとします。
 セールスは、根源的な60の欲求に対して、商品・サービスを提供してそれを満たしてあげようとするのかもしれません。

 思わず、ずんと引いてしまいそうだ。だって、セラピストの対象となる欲求というのは、孤独とか喪失の悲しみとか劣等感とか嫉妬とかそういう心理的なものだが、消費行動というのは、豆腐が欲しいとか納豆が食いたいとかテンペを使ったインドネシア料理が食べたいとかそういう具体的な物や具体的なサービスなはずだ。が、この本では、そういう消費の背後に心理的な根源的な欲求があるのだとして、かくしてセラピーと同じになってしまう。
 んなまさかと思いつつも、案外、いやあ、そうかもしれんとかけっこう思い直してしまった。
 少しずつ消費動向が変わるというのは、何か心理的な要求の変化の派生かもしれないと考えると、なんだかそんな感じもしないではない。ついでに言うと、この根源的な60の欲求のリストも本書に掲載されているのだが、なかなか含蓄が深いものがありましたよ。

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2007.04.07

[書評]10倍売る人の文章術(ジョセフ・シュガーマン)

アフィリエイト・ブログの文章術

 山ほどあるアフィリエイト・ブログで商品を買う気も起きなかったのには、なるほどこんなわけがあったのか。

 アフィリエイト・ブログの文章がダメだからです。読ませません。買う気も起こさせません。世の中儲けたいと思っても文章が下手な人が多いからなのだろうと思っていました。違いました。文章が上手とか下手とかの問題ではなかったようです。重要なのは、売るための文章技術なのです。

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全米NO.1の
セールス・ライターが
教える
10倍売る人の
文章術
 そう気が付いたのは、本書「全米NO.1のセールス・ライターが教える 10倍売る人の文章術」(参照)を読んだからです。全米ナンバーワンと言われるセールス・ライターでも、ただ書いただけの文章では売れないと謙虚に言っています。重要なのは本書のポイントを理解し、見直し、編集していくことです。

なるほどそうだったのか

 アフィリエイト・ブログを読む人の立場になってみることが重要だと思っても、実際にはなかなか難しいものです。売る立場にいると、購入者の気持ちがわからなくなります。でも本書の著者シュガーマンはそこをうまく言い当てています。


 読者が宣伝文を読みながら考えることのひとつは「本当にこれを買ってもよいのだろうか?」です。繰り返します。必ず出るその疑問を解決しなければなりません。そうしないと見込み客のあらゆる質問に答えることができず、結局は「いや待て」と考え直す口実を与えてしまいます。そうなれば買ってもらえないのはもちろんです。
 宣伝文のどこかで買い手に購入の大義名分を提供することにより、いかなる異論・反論にも対処しなければなりません。

 購入者は賢いものです。例えば、ブログに不味そうなキャベツ炒めの写真が載っていても、これって不味そうなんじゃないとコメントをくれたりトラックバックをくれるような親切さはそう持ち合わせていないのです。不味そうと思ったら最後読み逃げしてしまいます。
 でも実際、写真は見るからに不味そうです。どうにかならないのでしょうか。うまく購入者に、大丈夫これでもいいんだよと大義名分を与えるのにはどうしたらいいのでしょう。
 そこからブログ文章術の第一歩が始まります。いろいろな対処があるでしょう。私は正直に謙虚な立場を取ります。私は料理が下手だけど、みなさんならきっとうまく行きますよ、そこがうまく伝えられるならどんなに不味そうな写真を掲載しても大丈夫です。

………ギャグはここでおしまい。

 以下はいつもブログのノリで。
 本書は、一九九八年に米国で刊行された”Advertising Secrets of the Written Word: The Ultimate Resource on How to Write Powerful Advertising Copy from One of America's Top Copywriters and Mail Order Entrepreneurs ”(参照)の翻訳で、オリジナルの標題を読むとわかるように、メールオーダー(通信販売)でビジネスする人が雑誌などにどう広告文を書くかということを解説した書籍だ。セミナーもベースの一つになっているせいか、とても実践的な臨場感もある。この分野の書籍の古典でもあるようだ。
 今でもこうした通信販売向けの文章術が必要かというと、必要ともいえる。ウェブが発達した現代でも米国の雑誌には、いまだに昔ながらのメールオーダー的な広告文が多い。(私の場合、ネットが興隆する以前から米国の雑誌などが好きなので、この手の文章主体の広告をよく見てきたから、本書は読んでいてとても懐かしい感じがした。)
 すでにインターネット時代になるとメールオーダーよりもウェブを経由した販売やアフィリエイトのほうが主流になっていると思うし、本書の訳本が直接的に価値を持つのもそのあたりかなと思って、上のギャグを書いてみた。
 日本の場合、従来は、読ませるタイプの広告や、メールオーダー的なビジネスというのは盛んではないが、ウェブが興隆してからは多少流れは変わって、むしろ今でこそ、この手のB級コピーライティング文章術が注目されるようになってくるだろう。考えようによっては、団塊世代向けの通販の広告文ってこんな、昔の米国の通販広告文みたいななものになるかもしれない。
 本書を購入してマジでこのセオリーで広告文を書こうとする人は少ないだろうが、B級広告文の出来方や、B級カルチャーの文章がどのように形成されるかという背景を知るにはとても面白い。読みながら、「な、なるほど」とか頷く箇所がけっこうあったし、単純に笑えて面白い話もいろいろあった。アメリカ人にはなりたくないもんだと、しみじみ思える点も秀逸である。
 もっともただのギャグ本ではない。多少なりともこうしたB級広告的な世界を覗いた経験のある人なら、本書のなかに、けっこうマジな販売促進のヒントが溢れているのも見つけるだろう。たとえば、「解決策を売る、予防策を売らない」といったあたりの説明は参考になる人も多いに違いない。
 本書の価値をもっとマジに考える人もいるのだろう。本当かどうかわからないが、本書の広告にはこうある。


この本の英語版が日本で5万円もの高値で売買。幻の名書が初めて日本語で読める!

 本当にこの本の翻訳書が五万円くらいで販売されていたのか私は知らないが、この手のノウハウ本が数万から数十万するというのはよくある話だった。今でもそうなのだろうか。
 さて、本書のセオリーどおりなら、エントリーの末には、今すぐ購入を促すようなプッシュの一言が必要になる。でも、私のブログはそれだけが目的ではないので、気取るわけではないが、そこまで真似しないことにするが、1400円分の損はないですよ。いやいやつまんないとお感じなら3ヶ月後に代金を返却しますっていかないのでその点はよろしく。(べたなアフィリエイト・トラバも洒落にならないんで、すぐ消すからね。)

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2007.04.06

非回鍋肉、そは回鍋肉に非ずして、「豚肉とキャベツの味噌炒め」

 回鍋肉の作り方は簡単といえば簡単で、ロース肉の塊を小一時間煮て、一旦鍋から取り出し、冷やして薄切りにしたものを、葱とかニンニクの茎とか椎茸とかと合わせて炒める。

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単純がうれしい
北京のおかず
ウー ウェン
 ナマのキュウリで炒めるのもある。味付けは甜麺醤・豆板醤が多いけど、決まっているわけではない。あれです、煮肉を用意しておけば、適当な旬の野菜で炒めて味を付ければいいだけのもので、ポイントは煮肉の固まり備蓄にあるのだけど、その本格的な作り方についてはウー・ウェン先生の「単純がうれしい北京のおかず」(参照)に各種レシピがあるし、まあ、機会があったらここでもご紹介。
 ウィキペディアの説明に(参照)。

豚肉の塊をゆで、冷ましてから薄切りにしたものをラードで炒め、いったん鍋から取り出す。

 とあり、語源に触れていないが、「いったん鍋から取り出す」というのは、当然調理のときに鍋に戻すわけで、戻す=回す、というとこから、鍋に回し戻す肉料理で、回鍋肉(ホイグゥオロゥ)と呼ばれる。ついでに。

尚、元々の回鍋肉はキャベツではなく葉ニンニクを使う。肉も皮付きの豚肉の塊を茹でるか蒸してから使うのだが、陳建民が回鍋肉を日本に広めた際にキャベツが材料に含まれ、それが日本で標準となった。

 それはそうかな。現代では先に触れたように、葉ニンニクとは限らない。
 それはそれとして。
 今日紹介する非回鍋肉は回鍋肉じゃない。もっともっとべたに「豚肉ときゃべつの味噌炒め」のけっこう誰でもできる版である。すごい簡単。すごい貧乏臭い。でも味はたぶん、美味しいと思いますよ。じゃ。
 必要な素材は、バラ肉100g、キャベツ半分くらい、味噌大さじ1、砂糖大さじ1/2。油少々。
 用具は、鍋(テフロン鍋でもいい)。包丁不要だが、そのときはキッチン鋏があるとよい。
 下拵えだが、バラ肉は食べやすい大きさにキッチン鋏で切る(包丁より切りやすい)。キャベツは食べやすい大きさに手でちぎる(芯は取り除く、というかそのまま囓ると甘くて美味しいよ)。味噌と砂糖は合わせて大さじ一杯の水で溶いておく。

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 調理だが、まずフライパンに油を引き、そこにバラ肉をできるだけ広げて並べ、とろ火で加熱する。丁寧に慌てず。

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 なにをしているかというと、バラ肉から脂を引き出しているのだ(脂を引き出すのに呼び用の油が必要になるから最初に油をひいておく)。この料理、この脂が青菜であるキャベツに行き渡るところにうまさのポイントがある。
 豚肉をかりかりにする必要はないので(かりかりもまた美味しいが)、適当に脂が出たらキャベツを入れて、よく混ぜる。
 ここで強火。
 てきぱきと炒める。キャベツが、脂でつやっとして少ししなっとして、うまそうじゃんのツラになったら、味噌と砂糖をまぜた調味料を加え、ちゃっと混ぜて火を止める。この間、ばたばたしそうな人は火を止めてから混ぜてもいい。

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 盛りつけて終わり。

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 味噌の種類にもよるけど、ちょっと甘いかなと思ったら、醤油を一回しする。
 甜麺醤を使えよという人は、どうぞ、使ったら、というか、調味はご自由に。オイスターソースとか混ぜてもいい。私はしないけど。
 野菜もキャベツだけじゃなくて、葱も入れたいというなら、どうぞどうぞ。肉を加熱するとき、ニンニクのみじん切りをいれてもいい。
 ところで、ニンニク系の香りのある食べ物を食べるときの注意。それは、一人で食べるか、愛する人と一緒に二人で食べること。

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2007.04.05

[書評]西遊記(斉藤洋・広瀬弦)

 ちょっと西遊記を読み直してみるかと思い、念頭には中野美代子訳の「西遊記」(参照)があった。が、自分の心のなかの西遊記は手塚版や夏目雅子とカトちゃんのとか、なにか心ワクワクする物語の回想が先立ち、知的な読み方より、楽しく読みたくなった。
 すると昭和懐かし邱永漢・西遊記(参照)かとも思った。たしかこれは……これこれ、”毎日読む小説「西遊記」 : ほぼ日刊イトイ新聞”(参照)にある。復刻とどう違うのだろうか。
 そういえば、手塚治虫の西遊記、つまり私とってはテレビ・アニメ版だが、あれには手塚自身の作品そのままではなかったようにも聞いたことがある、ジャングル大帝と同じように。アマゾンを見ると、元になったはずの「ぼくの孫悟空」(参照)がこれも復刻というのだろうか、あるにはある。調べてみると、私が子供の頃見たアニメは「悟空の大冒険」(参照)のようだ。ウィキペディアにも解説があった(参照)。


劇中の各キャラクターの"大げさな表現"は現在も評価が高いが、時代を先取りしすぎた部分もあり、4年間続いた「アトム」の後番組にもかかわらず、9ヶ月(39話)で放映を終了した。

 一種の打ち切りだったのかと思い起こす。しかし、エンディングに向かって妖怪が合体していく感じは無性に面白かった。
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西遊記
〈1〉天の巻
斉藤洋
広瀬弦
 とかしてうちに、斉藤洋版「西遊記」(参照)に遭遇した。まあ、読んでみるかと読んでみて、ずぼっと嵌った。おもしろい。
 これはお子様向け作品なのだろうか。それはそうだ。なので子供向けにそれなりの配慮もある。だが、物語の緻密な計算や文章のうまさが実に際だつ。挿絵も美しい。これはちょっとすごいんじゃないかと、結局、今で出ているところまで、「〈1〉天の巻」(参照)、「〈2〉地の巻」(参照)、「〈3〉水の巻」(参照)、「〈4〉仙の巻」(参照)、「〈5〉宝の巻」(参照)と読み進め、新刊はまだかぁ、とか思うようになった。
 たぶん、この本は一巻読んだら最後系の面白さだと思う。そして、ちょっとお勧めだけど、できたら最初の「〈1〉天の巻」をよく読んでおくといい。つまり、繰り返して読んでおくと、後の巻の含蓄が深まる。
 とはいえ、最初、おもすれーとか読んでいながら、しかし、こういうのが昨今のファンタジー小説の手法のお手本みたいな応用なんだろうなと高をくくっていた。キャラとか戦闘シーンとか、話の連続性とか。私はこの分野に詳しくないので、読む人が読んだらテンプレとか思うのではないかと。
 しかし、「〈4〉仙の巻」から「〈5〉宝の巻」に読み進むにつれ、私は考えを変えてきた。この作者、斉藤洋という人は、マジで西遊記の本質を描こうとしているんじゃないか、と思えてきたのだ。というのは、ある種の物語の理不尽さと作者の思索の展開が見られる。固い言い方になるのだが、私は、西遊記なんてゲテモノというかお好きな方のアレ、みたいに思え、まして仏教なんかとまるで関係ないと思っていた。せいぜいシンクレティズム(syncretism)と言ったところか、と。だから、むしろ世俗的な道教思想くらいに考えていたのだが、この斉藤洋・西遊記を読みながら、それは違うのかもしれない。まじで仏教なのかもしれない、と思えてきた。
 そもそもが「斉天大聖」ということが道教の否定であり、この物語は道教がなぜ仏教の傾倒を持ったのかという道教批判の意味をもっているのかもしれない。というあたりで、この小説の主人公は観音菩薩なのかと思えた。
 現代日本だと仏教についてはあーだこーだいろんなエロい人が五月蠅いほどいるのだが、そうした喧噪とは別に、中華世界の伝統的な仏教というものもある。斉天大聖と観音菩薩の弁証法のなかには確実にある種の仏教というものがあるのだ。
 とはいえ、そんな私の印象などお構いなしに、これは、かなり面白いですよ。今の小学生で読めるとしたら、日本の小学生の学力はばっちりですよ。

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2007.04.04

伝えたいことが伝わるわけじゃないとか

 NHKの番組情報誌ステラの来週号をめくっていたら、八日の番組枠が変なので、ああ、そういえばこの日に選挙があるんだと思い出した。すっかり忘れていた。そういえば先日、街を歩いていたら駅前になにやら人混みというか適度な群衆があって、何か事件でもあったのかと思ったら、石原慎太郎がこれから来るということらしい。桑原桑原。その場を立ち去って買い物。小一時間ほどして戻ると、ご本尊とかその他有名人はもういないみたいだけど、人がまだなんとなく集まっていた。どれほどの人が集まっていたのか、後になって少し気になったが、それほどたいしたことはなかったんじゃないか。選挙期間なんだなと思ったのはこの一例だけで他には無風という感じ。静かなもんだ。
 ネットも統一地方選について静かな感じだけど、と思い直して、静かそうじゃないブログとか覗いてみたら静かそうじゃないどころかあまりの過激さに、引いた。桑原桑原。
 そんな感じでいたので、今日のはてなブックマークの人気のエントリーにはてなダイアリー「kmizusawaの日記 - なぜ石原を支持しちゃうオバサンがいるのか(もしくは左派に関する考察)」(参照)という話に共感した。


左派(右派にもいるが)のダメなところのひとつは、自分と同じ考えを持たない人たち、自分と違う価値観にしたがっている人たちの「センス」を馬鹿にしまくる(自覚はないのかもしれないが)ことだと思う。「石原を支持するやつはダメだ」ってなことをすぐに言っちゃう。時には石原本人を批判するより楽しげにそう言っちゃう。

 そういうのって内容以前に引くんだよなと思う。しかし、私もそうしたうきうき罵倒組と同じようなものかしらねとしばし自省した。
 話を一般論にすると、何かを一生懸命、啓蒙するというか、他者の考えを変えようとしてプレゼンテーションされたものって、しばしば、まーったく逆の結果を生むもんだよな、と。そんな話をそういえば見かけた。思い出した。これこれ。ちょっと古いのだけど、三月九日付けのロイターのニュース。日本では報道されただろうか。”Eating-disorder education shows unintended effects”(参照)。標題は、「摂食障害教育は意図せざる結果をもたらす」とか。

Teaching teenagers about eating disorders can make them more knowledgeable about the problem, but it may also have some inadvertent effects, a new study suggests.
十代の子供たちに摂食障害を教えることでその問題についての知識を増やすことができるものだが、同時に逆の結果をもたらすことがあると、最新研究が示唆した。

Yale University researchers found that when they presented female high school students with videos on eating disorders, it met the intended goal of boosting their knowledge about anorexia and bulimia.
イェール大学の研究者が明らかにしたところでは、摂食障害についてのビデオを女子高校生に見せることで、食欲不振や病的飢餓感について所定の知識を付けさせることができる。

However, the team saw that the students didn't necessarily find the results of eating disorders unappealing. Teens who watched a video featuring a woman recovering from an eating disorder became more likely to view girls with eating disorders as "very pretty," and some thought it would be "nice to look like" the woman in the video.
しかし、研究者たちは、学生たちが必ずしも摂食障害の結果が魅了的ではないと理解しているわけではないこともわかった。摂食障害から回復する女性を描いたビデオを見た十代の子供たちは、摂食障害の少女に対して、「とてもかわいい」と見がちであり、子供によっては、ビデオに描かれた女性に対して「あんなふうになれたらすてき」と考えるかもしれない。


 言い古されたことだけど、映像的なメディアとかは、言語的に意図されたものとまったく違うメッセージを送ることがある。だからこそ、むしろ映像的な無意識のメッセージを凝らすことになるのだろう。
 とか適当に書いらココログ終日メンテナンス中だもんで、舞い落ちる桜のなかを散歩に出る。街中の都知事選の写真をぼんやり見ながら、この顔写真の無意識的なメッセージってなんだろなと思った。
 そういえば、今日のニュースの”選挙ポスターにヒゲ…70男逮捕「一度書いてみたかった」 ”(参照)が面白かった。

調べでは、河内容疑者は3日午前3時半ごろ、江戸川区の都知事選の公設掲示板に張られた候補者のポスターにマジックでひげなどを書き込んだ。河内容疑者は「一度書いてみたかった」と供述しているという。

 容疑者は七〇歳だったそうで、人生終わりにちかいと思ったか、写真の老人たちをライバルと思ったか、やっぱし、ひげくらいないとねと思ったか。しかし、ひげの落書きで逮捕かぁ。眼鏡もダメだろうな。鼻毛なんか論外だろうな。

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2007.04.03

[書評]マンガ音楽家ストーリー

 すでに五〇歳にもなって懐古するのもなんだが、大人になったなと思う機会はいろいろあるが、それでも一様に感慨にふけることがあるとすれば、大人買いをした後の自己嫌悪みたいなものだろう。そうひどい自己嫌悪っていうこともないことも多いのだけど。ってな前振りで、先日の大人買い報告。「マンガ音楽家ストーリー」全八巻。上達もしないが、ときおりキーボードを叩きつつ、お子様向け名曲もええもんだわいと思っていくうちに、意外と名作曲家の人生とか知らないことに気が付き……それにあの怖わーい音楽室の肖像画が懐かしく……てな次第。


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バッハ
 「 バッハ(岸田恋)」は無難に面白い。マンガがマンガっぽくてよい面もあるし。読んでいて、バッハって若いころもあったし、マンガだからそう思えたのか、けっこう過激な人だったなと思うようになった。インヴェンションとか聞いているとあるバッハのイメージを持つけど、実際にはけっこう諧謔精神もありまた柔軟な精神もあったのだろうと思う。この本はけっこうマジで学校の副読本にしていいのではないか。



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モーツァルト
 「モーツァルト(岸田恋)」は二巻目ということでバッハの延長みたいなのだろうけど、モーツアルト自身がどう描いていいのか研究がありすぎてちょっと難しい。コンスタンツェは当然出てくるが、アロイジアへの言及はなかった。お子様向けにはそう悪くはないのだろうけど。特に勧めない。




cover
ベートーベン
 「ベートーベン(加藤礼次朗)」もモーツアルトに似たところがある。なので、という感じ。作画が岸田恋から加藤礼次朗という人になったのだが、これが、なんつうか、ケロロ軍曹に出てくる宇宙刑事556みたいでなかなか面白かったっていうか、べたに子供時代のマンガを思い起こして、ワロタ。




cover
ショパン
 「ショパン(岸田恋)」だが、お子様向けにショパンの人生なんて説明できるのかと思ったが、サンドとかの話も含めて、おやっというくらい踏み込んでいた。まあ、現実の現代の中学生が読んでいるマンガはもうもうすごーいレベルなんでそれに比べれば微笑んでしまうかもだが。あと、ショパンという人は時代のなかにいたのだなというのがよくわかる。これは意外に佳作。



cover
シューベルト
 「シューベルト(朝舟里樹)」はへぇ、だった。シューベルトの生涯というのは早世くらいしか知らなかったので、なにかとへぇへぇと思って読んでしまった。今でいったらオタとか非モテとかいう感じの人だったのではないか。それといやはや知らなかったのだが死因は梅毒とのこと。この時代ってそうだったのだろうなといろいろ時代感覚を思ったのだが、ウィキペディアを見たら、「死因は後期梅毒であるともいわれているが、記録から見るとシューベルトは梅毒の第2期(発疹、脱毛など)止まりであったことがわかっており、症状(発熱、吐き気など)の記録から腸チフスと見るのが妥当であろう。シューベルト生誕200年の1997年には、改めて生涯の再確認が行われ、彼の梅毒罹患をテーマにした映画も公表された」とあった。


cover
シューマン
 「シューマン(志生野みゆき)」は印象薄い。シューマンというと、音楽を離れるならどうしてもクララのほうに関心が向くのだが、これも知らなかったのだが、梅毒でしたか、はぁ。当然、物語として見ていくとブラームスと混じってしまうのだが、そのあたりは、お子様っぽくまとめてある。




cover
ブラームス
 「ブラームス(葛城まどか)」の表紙があれですが、これはけっこう面白かったですよっていうか、ブラームスはマンガとして読むべき。若い美男子のブラームスというのはよいです。どうしてもブラームスというとあの怖い爺さん顔しか浮かばないのだけど、あれって生涯においてはほんのちょっとのことだったらしい。まずい写真ってことはないんだろうが、あれでイメージを固定されていたとは。



cover
バイエル
 「バイエル(加藤礼次朗)」はすごい珍本だった。実はこの大人買いで一番期待していたのはバイエルの生涯だった。これだけ馴染まれた音楽家なのに、ほぼなーんの情報もない。いったいどういう人だったのだろう。で、読んで唖然。この一冊だけは全部フィクションなのでした。創作というか。で、読んでいてもちろん、爆笑してしまうのだけど、芦塚陽二原作の思い入れと加藤礼次朗作画の暑苦しさが、ここれは!という絶妙のハーモニーを醸し出していて、これは竹熊先生も一読のことみたいな雰囲気ですよ。お子様に読ませてどうかわからないですが。


 大人買いで、馬鹿なことしちゃったかと思ったけど、マジで考えさせれたのは、こうした西洋近代の音楽家というのは西洋近代の歴史のなかにきちんと埋め込まれていたのだなということ。そして今回は触れないけど、同時代の科学者というのもこの音楽家と似たような位相にあった、というか、芸人だったのか、と。市民社会とブルジョワジーがどのように芸人的なものを産みだし、そしてその音楽や科学という知識がどう、近代人というのをでっちあげていったのか……とか考えさせられた。

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2007.04.02

昭和三〇年代生まれには理系爺さんが懐かしい

 雑談。話は標題通りで、昭和三〇年代生まれには理系爺さんが懐かしい、ということ。雑談にありがちで、自分がそうだから他の昭和三〇年代もそうでしょという、論理も糞もない話だが、そうはいっても昭和三二年生まれの私が子供だったころ、学校やメディアにも理系爺さんはけっこういた。とかいう以前に私の父親がそうだった。小学校五年生のときに「電気磁気」を教えてもった。共振回路の設計にルート計算が必要なので解き方を教わった。で、よかったか? 学校が退屈になった。理系の学習が暇なのと思春期特有のなんたらで高校生のころ詩とか書き出して、吉本隆明がいうところの文学の毒で瀕死。まあ、それはどうでもいいんだけど。
 実家の書棚を整理すると、小学生のころや中学生のころの理科・科学・数学関係の、子供向け啓蒙書とか、ブルーバックスの都筑卓司の本とかごそっと出てくる。電気や化学の実験器具とかも出てくる。あはは。っていうか懐かしい。初等になるほど懐かしさがこみ上げてきて、なんというか、ららら科学のぉ子ぉ♪みたいなもので、世界に希望もって生きていたなと思う。そして、あのころの理科系爺さんたちは、今思うとわかるけど、戦争っていう難儀な世間から解放されてとても未来に生き生きとしていた。
 現代でこういうとなんだけど、私のデフォっていうか原点では、原子力ってのは自然に対する科学の勝利なんで原発によって人類は無限のエネルギーを持つ可能性ができた、あとはシズマドライブだけだみたいなそんな感じで、滅法明るい。原発事故とあっても、セキュリティの科学というのはしっかりしているからだけっこう大丈夫だよ、もっと人類の明るい未来を見ようよ、みたいなランラン少年だった。
 自分が世代的に取り残されたかなとなんとなく思ったのは、ノストラダムスの大予言あたりだろうか。あれね、私には、く、くだらねー、非科学ぅ、みたいなものでしたよ。ありえないじゃんで終わり。でも、それをけっこうマジ信じている若い子たちが一群いて、へぇと思ったことがある。二〇代に入ってからか。ああ、こいつら自分と世代というか、科学的世界っていうもの基本的な感性が違うなと。科学が身近じゃないんだ、こいつらとも思った。私たちの世代は科学爺たちのせいだけど、科学っていうのがもう身近極まるんですよ。お風呂のなかのおならがプーでも、アルキメデスの原理とかパスカルの原理とかそういう世界。もっとも、こういう科学好き好きというのはどの世代にも一定数はいるのかもしれないので、単純に世代論では切れないのだろうけど。
 そういうレトロな科学少年の世界にはそれなりのロマンもあって、手塚治虫とかそうかなと思う。特に生化学とか医学的な部分とか、もっとべたに言うと、生殖関連の科学知識と倒錯したといってもいいかと思うがそのあたりのロマンというか。サイボーグ009とかもそうで、私なんかの感じだとけっこうサイバーパンクっていうか生臭い感じがある。で、そういうなかで倫理的な問いというのは神話的なもので、後のガンダムとかエヴァンゲリオン的な言葉が際だつ倫理でもない。スターウォーズとかはレンズマンとかの、あれっぽいSF伝統の感じもあるけど。
 そういう自分が今年は五〇歳。若い人からは老人に見えるだろうし、自分の上の団塊世代は自身をうまく老人と認識してないから五〇代なんか見えてない。世代論はどうでもいいけど、団塊世代もまた、きちんとした科学知識がない人が多い。もっとも反面べたに科学的な人たちがいて面白いけど。

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算数おもしろ大事典 IQ
 とかたらたらと書いたものの、最初思っていたのは「算数おもしろ大事典 IQ」(参照)。これをたまたま発見して中をめくってみたらもうもうこの雰囲気が懐かしくて泣けそうで買ってしまったよ。話は、算数をベースにして科学を面白くまとめたコラムみたいなもの。
 アマゾンの素人評にこうあるけど、復刻らしい。

長らく絶版でしたが、プレジデントファミリーで紹介されて中古市場で大ブレイクし、再版されたようです。類書があまりなく、いずれまた絶版になるおそれがあるので、書店にあるうちに買っておくべきでしょう。

 プレジデントファミリーというのはよくわからないが、雑誌らしく、その06年12月号の「頭のいい子の勉強部屋」という特集記事に、国際数学オリンピックで金メダルを受賞した高校生が小学生のときに愛読した本として紹介されていたらしい。それで親たちが、我が子も国際数学オリンピックのセンスをと思ったのかもしれない。あほかね。国際数学オリンピックっていうのは、まじな数学のセンスが問われるのにね。つうか、秋山仁とかピーター・フランクルとか荻野暢也とかまあ、変人になってしまいますよ。
cover
ふしぎふしぎ200
ふしぎ新聞社
 そういえばこの手の本で最近面白かったのは、「ふしぎふしぎ200(ふしぎ新聞社)」(参照)だ。もうタイトルからしてレトロなのだが、中身ももう昔の子供ワクワクの話ばかり。

「ヒエログリフで自分の名前を書いてみる」「トノサマバッタを上手に釣る方法」「大きなシャボン玉をつくる方法」など、一度はやって、誰かに自慢してみたくなることがいっぱい。人間もゾウもネズミも一生の間に心臓が打つ回数は同じくらいなんだという話や、アラスカの大地を撮り続けた星野道夫さんのエピソードなど、興味深いテーマも多く掲載されている。また、こだわりや誇りをもって自分の仕事をしている人たちの話なども多彩に盛り込まれている。
 本書は月刊「たくさんのふしぎ」通巻200号を記念して出版された。これまでの「たくさんのふしぎ」1冊1冊のメインとなっている「ふしぎ」があらためて取り上げられ、ぎゅっと詰め込まれている。クイズ、なぞなぞ、パズル、一筆書きをはじめ、本をぱらぱらとめくると動いて見える絵まで、いろいろな楽しい遊びが満載だ。

 そういえば、先日ってか昨年の夏の終わりだったか、公園でぼけっとしていたら、草むらで小学生とかがぎゃーぎゃーわめいているので、なんか事件でもあったのかと、オッサン28号は起きあがって見に行ったのだが、なんのことはない、カマキリだよ。カマキリが怖ーいとかぬかしてやんの。もう、あれですよ、スイッチ入っちゃいましたよ。「大丈夫、こんなの怖くない。やられても手にちょっと傷ができて血が出るくらい」……やば、そういうのが今の子はダメなのかもしれんな……「あのね、かまきりというのは持ち方があるんだよ。こうやって」……と背と腹の接点をちょいと摘む。「ほらね、こうすると、大丈夫。ははは、がんばれ、あばれろカマキリ」とか、つぶやく私はすっかり変なオッサンでしたよ。「おい、帽子持っているか。もっていたら、こいつにかぶせて、二〇分くらい暗いところに置くと、目の色が黒くなるんだぞ……」
 とか思い出すと、こういう時はけっこう幸福感がある。私が子供の頃のあの理科系爺さんたちもほんと幸せそうだったよなと思い出す。

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2007.04.01

三角合併攻防戦の背後にある動き

 日本国民が汗水垂らして貯めた財産を組織的に巻き上げるグローバリズム経済の魔の手がまた伸びてきたようだ。だが、日本にはそれを迎え撃つ民族の知恵がある。

cover
黒字亡国
対米黒字が
日本経済を殺す
三國陽夫
 日本を愛するという一点で従来右派と左派に分かれていた政治勢力が連帯し、過激ともいえるノーモア小泉運動によってグローバリズムの手先小泉純一郎と竹中平蔵を日本政治の表舞台から手段も選ばず引き下ろし、危険な一手「三角合併」をかろうじて一年間凍結した。日本国経済を支える諸団体も、「三角合併」の実質的な手続きを完膚無きまでに骨抜きすることに専念し、さらに小泉支持勢力による王子製紙によるTOBもなんとか阻止し、製紙業界の株価も国内的に妥当な水準に安定させた。なのに、その善戦の陰で次なる恐るべき一手が進められていたのかもしれない。
 三月二八日付け日経新聞”三角合併の課税繰り延べ、外資の「準備会社」容認・財務省方針”(参照)で報道されたように、封じておいた悪魔の三角合併封印である課税繰り延べ禁止措置があろうことか外されることになりそうなのだ。

 財務省は、5月に解禁になる外国企業が自社株を対価に日本企業を買収する三角合併で、外国企業が日本に設立し広告宣伝などを手掛ける「事業準備会社」には、課税繰り延べ措置を認める方針を固めた。

 事態がどれほど深刻であるかについては、三國陽夫「黒字亡国 ― 対米黒字が日本経済を殺す」(参照)が詳しい。諸悪の根源はやはり小泉行政である。

 小泉内閣は二〇〇四年、日本経済を活性化させることを目指し、対内直接投資を倍増させる方策として会社法の改正を打ち出した。
 二〇〇七年から株式公開買い付け(TOB)制度を利用して、海外の企業が自らの株式を日本企業の株式と交換することで買収できるようになる。これが実現すると、アメリカ企業による日本買収は、従来に比べてはるかに容易になる。

 日本買いが容易になるのは、株式時価のからくりを使うからだ。日本は米国の巧妙な策略により長期デフレに沈み、その間、日米間の企業の時価総額に大きな開きが出てしまった。この差分を使い、グローバル勢力が日本の主要企業をすべて支配する日が迫っている。

 一九八〇年代後半のバブル経済全盛期、日本の上場企業ベースの株式時価総額は約六〇0兆円とアメリカのそれを若干ながら上回るほど膨らんだ。それがいまや、日本の株式時価総額はアメリカの五分の一程度まで差が広がってしまった。追い打ちをかけるように株式交換による日本企業買収の道が開かれるとすれば、もはや日本企業はバーゲンセールに出されたようなものではないか。アメリカの主要企業がそろって自社の発行株数の二〇%分の株式を発行すれば、日本の産業の主要企業を支配することは計算上、可能となる。

 この野望に日銀バッシャーと見られるリフレ派も加担していた。なんとなれば、リフレ派が支持する低金利とそれがもたらす対外金利差の是認はグローバル経済にホットマネーを供給していたからだ。三國は言う。

アメリカ企業は日本から低い金利で大量に流入する資本を借り入れて日本の優良企業の実物資産を購入できる。

 この国難に対処すべく、三角合併を実質的に不可能にする諸案が目論まれた。なかでも譲渡益課税の繰り延べ禁止は重要だったのだ。この点も三國は的確だ。

また、買収企業の株式を取得した時、株主に生じる譲渡益課税を繰り延べる税改正がされていないため、株主はTOBに応じにくい。

 ニューズウィーク日本語版(4・4)でも指摘されている。なお、同誌はグローバリズムのプロパガンダとも言えるので敵の手の内を知るのに役立つ情報が多い。

 このままいけば、三角合併は誰にも使えないしろものになりそうだ。日本経団連は、さまざまな骨抜き策を求めてきた。いくつかは政府・与党が退けたが、最大の焦点である外国株を対価として受け取った場合の課税繰り延べの扱いは不透明なままだ。フタを開けてみるまで課税されるかどうかわからない状態では、「怖くて使えない」と在日米国商工会議所(ACCJ)のニコラス・ペネシュ対日直接投資委員会委員長は言う。

 だが、最大の防衛でもあり日本の伝統的な美学にも通じる曖昧で不透明な権力の行使を、こともあろうか官僚の大本営財務省が取り崩す決定に傾いているかに思えるニュースが流れたのはなぜだろうか。ヒントはやはり同ニュースの中に隠されている。

ペーパーカンパニーには繰り延べを認めない方針は変えないが、準備会社は容認することで、日本に製造拠点や販売網を持たない外国企業にも三角合併による買収の道を開く。

 一読すると緩和の方向のように向かっているかのようだが、財務省の発表はその裏まで読む必要がある。なかでも留保条件にどれだけの恣意性が込められているかが官庁の意向を読むポイントだ。今回のケースでは、日本国に楯突くような買収が出た時点で難癖をつけて「お前らはペーパーカンパニーではないか」と判定すればよいということのようだ。ホリエモンを豚箱に入れ日興の不正見逃すのに比べれば、あからさまに検察を動かすまでもない簡単な行政手段で三角合併を無効にすることができるのだ。まだ、日本には希望がある。
 同論点については三月二九日付け読売新聞”日本での事業実体、条件…三角合併の課税繰り延べ”(参照)のほうが詳しい。

買収側が三角合併のために日本で子会社を設立する場合は、事業実体のないペーパー会社に終わらないことを明確にするため、日本に事業所を持ち、従業員を雇用したり、関係省庁への許認可申請や広告・宣伝を始めているなど具体的な活動の開始を求める。同省は4月中旬に省令を公表する。

 三角合併を推進するための代理店にはペーパーカンパニーではない証明が求められるのだが、その三点を解説するとこうなる。
 (1)「日本に事業所を持ち」というのは、「事業税をたんまり納めろ」ということ。(2)「関係省庁への許認可申請や広告・宣伝を始めている」というのは「官僚や業界の掟に従え」ということだ。
 しかし、こうした日本の美しい慣例はすでに欧米でも知られているのでそれほど新味はない。重要なのは、(3)「従業員を雇用したり」という点にある。未公表の段階だが、財務省は、日本に増え続けるニートの雇用促進を想定しているらしい。つまり、ニートの雇用と外国企業による日本企業買収はバーターになるというのが新しい日本国の国策なのだ。
 ニート問題プラス三角合併問題解消のために、メディア情報もこれから統制されることになる。従来のように「ニートは使えない」とか「ニートは国内問題である」といったマスメディアのキャンペーンは今後沈静される。代わりに、「ニートや失われた世代と呼ばれる若者は、実はグローバルでチャレンジ精神溢れている」というキャンペーンに取って代わることになる。
 このようにして見ると、グローバリズム問題の本質は情報戦またはイメージ戦でもあることがわかるだろう。
 もっとも、日本支配を目論むグローバリズム側も日本の固有の文化や言語についてより深い理解を得るべく研究を進めていることに注意を促したい。この点で、顕著な例を挙げよう。米系投資ファンドのスティール・パートナーズ・ジャパン・ストラテジック・ファンドによるアデランスの買収工作がそれだ。三月二九日付けFujiSankei Business i”アデランス防衛策 スティールが反対”(参照)より。

 米系投資ファンドのスティール・パートナーズ・ジャパン・ストラテジック・ファンドは28日、投資先のアデランスに対し、昨年12月に導入した買収防衛策の廃止を求める株主提案を行ったと発表した。

 不思議に思う人もいるかもしれない。なぜハゲタカ・ファンドがアデランスを求めるのか? なぜハゲタカが、カツラのアデランスを?
 繰り返して呟いてみるとよい。なぜハゲタカが、ハゲタカが、ハゲタカハハゲタカ……すると気が付くだろう。ハゲタカ・ファンドは、日本人から、ハゲタカ、ハゲタか、禿たか? と言われ続けてハッと頭髪の必要性を理解したのである。まさかと思うような駄洒落のなかに、つまり日本文化や日本語の本質に、グローバリズムがまるで四月馬鹿みたいにすでに忍び寄っているのだ。

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