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2007.03.11

[書評]海辺のカフカ(村上春樹)

 ようやく読めたということに個人的な感慨がある。長いこと読めなかった。私事めくが私は村上春樹の熱心な読者で十年前までは初期の作品のほぼコンプリートなライブラリーを持っていた。後に「回転木馬のデッド・ヒート」(参照)にほぼ収録された『IN・POCKET』も全巻持っていた。が、ごく僅かを残して捨てた。彼が国分寺で経営していた喫茶店ピーターキャットにも行ったことがある(もっともそのときの店主の記憶はない)し、その他、彼が住んでいた地域や「遠い太鼓」(参照)の異国の町まで見聞したこともある。それほど好きだった村上春樹の文学がぱったりと読めなくなった。

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海辺のカフカ (上)
 私に二つの事件が起きた。一つは期待していたというかあまりに期待していた「ねじまき鳥クロニクル」(参照)の第三部「鳥刺し男編」(参照)にぶっち切れしてしまったことだ。私はこの作品は二部までの力量で最低でも五部まで続くと信じていた。ひどく裏切られた。その後、読み返してこの三部完結もありかなとは思ったが、先日読んだジェイ・ルービンの「ハルキ・ムラカミと言葉の音楽」(参照)でこの「ねじまき鳥クロニクル」第三部の英訳のいきさつを知り、当然だろうなとは思った。あのころちょうど私が沖縄に出奔した時期でとにかく荷物を減らそうとしていたのに当時出ばかりの大部二冊をこれだけは別だと宝物のように扱っていた。思い入れが強くて裏切られたというかありがちな馬鹿な恋愛みたいな感情だった。
 その後東京(地下鉄)サリン事件が発生し、ある意味で「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」(参照)の予言のようなものが的中した。神戸の震災といいサリン事件といいそれが春樹の文学に決定的な意味を持つことはわかった。だが、「アンダーグラウンド」(参照)と 「約束された場所で」(参照)に奇妙な違和感は残った。他方震災の影響作である「神の子どもたちはみな踊る」(参照)は春樹への期待を復活させるすばらしい作品だった。
cover
海辺のカフカ (下)
 もう一つの事件はまさに「海辺のカフカ」に関係する。これが出たとき体調を崩してというか主観的には死にかけていたこともあり、特定のジャンルの読書ができなくなった。特に、「海辺のカフカ」がまったく読めないことに愕然とした。もちろん、文字面はなんとか読むことができる。だがまったくと言っていいほど意味をなさない。くだらないファンタジー小説を無理矢理読まされているような感じだった。当時を思うと、自分にとって春樹文学はこれで終わった、少なくとも自分にとっては消えたと思った。その後はなんとなくエッセイなどは他の作家のように読むことがあっても、彼の読者であることはないだろうと思った。ライブラリーを破壊した。それは今もそれほど後悔してない。
 ところが先日、自分が今年は五十歳になるということで漱石の「明暗」を読み返したのと同じ理由で、春樹さんはどうやって五十歳に成りえたのだろうかということが奇妙に気になりだした。私が追っていた彼の文学はだいたい四十代までである。そんなことから今なら「海辺のカフカ」が読めるかもしれないと思い直した。
 呪いが解けるように読めた。
 もともとこの作品は「ハードボイルド・ワンダーランド」の後続的な位置づけの作品だからなのだろうからある程度読書のノリができれば、以前愛読者だった心が蘇る部分がある。ただ、読後、率直にいって、この文体と、あまりに悪ふざけ的な超自然的な展開のご都合主義、メタ批評的な知性主義、その三点はいただけないなと思った。
 ディテール的には、佐伯さんの描き方が薄すぎるのが残念だった。しかし、春樹の長い読者からすれば佐伯さんの消された過去が、おそらく春樹自身の結婚生活の関連もあっていつかテーマになるのだろうという予感はもった。ナカタさんは単的に羊男であろう。そしてクロニクルの間宮中尉の陰影も多少持っている。そうしたスジでいうのなら「僕」は初期三部作の「鼠」であろうし、佐伯さんは「鼠」を空しく待っていたその恋人だろう(描写のディテールが呼応している)。しかし、こうした解読はそれほどどうというものでもない。
 作品系列的には「ハードボイルド・ワンダーランド」の後続としてどう読むかで、具体的には「影」と失われた「私」としてのナカタさんの関連がある。佐伯さんが同じく影が薄いことも「ハードボイルド・ワンダーランド」との関連があるのだろう。が、たぶんその後続的な主題は失敗したと見てよいのではないか。「ねじまき鳥クロニクル」で象徴をとっちらかしておきながらそれを批評というか出版界というか特に海外の批評が甘くしすぎていることの悪いツケが「海辺のカフカ」に集約されたようにも思える。
 作品中出色なのが星野青年で、「海辺のカフカ」のビルドゥングスロマンは「僕」よりも星野青年にある。このあたりからまた次の文学が生まれるのだろう。大島さんについてはちょっと間違ったキャラクターだろう。彼または彼女の闇のような部分はうまく表現されていないし、使いこなせていない(例えば大島さんにとって佐伯さんの死・喪失の意味)。
 全体としてオイデプス神話のパロディのフレームを持っているのだが、父を殺し母を犯すという点までは、ある意味でありがちなべたな展開なのだが、文学的にはむしろ「姉と交わる」という点であり、「さくら」との関係が重要になると思う。単純に言えば、「海辺のカフカ」という作品は謎解きをしたくなるようなだまし絵でありながら、その表象の構造的な部分というのは、ただのがらくたなのだ。なんの意味もない。およそ文学者に良心というものがあれば、このがらくたは廃棄されるべきものであり、その廃棄の倫理性のなかで「姉と交わる」という予言と「さくら」への近親相姦幻想が置かれている。この点はかろうじて春樹が倫理的な作家だということになる。誤解されやすいのだが、近親相姦を幻想に返したことが倫理性なのではなく、その幻想性が作品の幻想性より強く描かれている点が倫理的なのだ。
 そして各種象徴が象徴の戯れを越える臨界にあることを示す指標が「血」であり、この小説のテーマは「血」であると言ってもいいだろうし、もし各象徴を解くなら「血」から解かれるだろ。
 シンプルな読者として個人的な思い入れには、「世界の縁」がある。

 比重のある時間が、多義的な古い夢のように君にのしかかってくる。君はその時間をくぐり抜けるように移動を続ける。たとえ世界の縁までいっても、君はそんな時間から逃れることはできないだろう。でも、もしそうだとしても、君はやり世界の縁まで行かないわけにはいかない。世界の縁まで行かないことにはできないことだってあるのだから。

 この予言のような言葉は単純な真理だと私は思う。私は思春期ではないが「僕」のように出奔する前に「世界の縁」のような異国の断崖の海岸に立ってみたことがある。それから沖縄では糸満の断崖をよく見に行った。もちろん、ごく小さな私のとってということだが、世界の縁のようなものがそこにあった。「海辺のカフカ」という作品は、ようやくパーソナルに受容できる。

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コメント

> ただ、読後、率直にいって、この文体と、
> あまりに悪ふざけ的な超自然的な展開のご都合主義、
> メタ批評的な知性主義、その三点はいただけないなと思った。
 
> 「ねじまき鳥クロニクル」で象徴をとっちらかしておきながら
> それを批評というか出版界というか特に海外の批評が甘くしす
> ぎていることの悪いツケが「海辺のカフカ」に集約されたよう
> にも思える。

 まったく同感です。そう考えると「小説家」というのは大変
な商売ですね。自殺する人がいるのも仕方ない感じがします。

投稿: tom-kuri | 2007.03.11 20:31

まっていたら読める時期が来るし、あきらめたところにはいってゆけるものだと、この数日こちらを見ていてつくづく思いました。
生きているとこういう味わいが。

投稿: 都市に棲む山姥 | 2007.03.12 03:32

> あまりに悪ふざけ的な超自然的な展開のご都合主義

おそらく村上氏は、<コロス>のようなつもりで作中へ持ち込んだのだと想像をします。

ちょっとハズシかもしれませんが、私の読後感は
これはフレディ=マーキュリーにおける『Bohemian Rhapsody』みたいなもので
真面目なロック&ロールを期待している人たち(や、過去のアルバム作品群からの延長線上で曲目を読み解きたがるファンたち)からすれば
当時だって「いただけない」と受け止められたのだろうな
と、このエントリとの絡みで思いました。

投稿: てけてけ | 2007.03.12 15:42

で、

物語を書くつもりは満々だったけれども、小説(≒近代小説という意味での)を書くつもりは彼には作家として更々無かったのだと
思いますよ。

投稿: てけてけ | 2007.03.12 20:19

「漱石」『ねじまき鳥~』『世界の終わり~』に囚われて読み過ぎている印象を
このエントリでは感じます。

「ようやく読め」るようには未だ為っていないのではありませんか?

15歳の少年が主人公という偽装にミス=リードをされて、この作品がまるで
(教養小説という訳語で輸入されているところの)ビルドゥングスロマーンの延長線上にあるかのように
あたかも錯覚をしている疑いを、このエントリからすこし受けました。

投稿: てけてけ | 2007.03.12 20:49

私は現在、春樹中断中といったところです。残念なことに「海辺のカフカ」は未だに読めておりません。

しかし、村上春樹という作家については、たぶん人生のある時期から「世界の縁」に立つことを自ら選び取った人間なのだろうとそう思ったりはするわけです。「1973年のピンボール」では「歩哨」として、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」では「キャッチャー」として、いつもどこかの縁に立ち続けることで、誰かが底なしの闇に滑り落ちていかぬよう、「邪悪なるもの」と対峙し続けてきたのでしょう、きっと。そうしてそれは、生活に根付いたささやかな仕事を黙々と積み重ねることによってのみ成し遂げられる行為であり、誰かがひとたび言葉で絡めとろうとするとあっという間に制度化し、こちらの手をするりとすり抜けていってしまう、そんな種類の仕事であるのだろうと感じています。

投稿: phenaphen | 2007.03.13 21:27

喫茶店ピーターラビット→ピーターキャットとのことです。

投稿: kesetty | 2007.03.13 22:22

kesettyさん、ご指摘ありがとうございました。

投稿: finalvent | 2007.03.14 16:34

叙述する限界の認識を最初に持った作家は誰だったのか?

投げっぱなしの風景が、存外普遍の作法なのかもしれませんね。

投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.03.15 13:41

海辺のカフカは・・・下巻の喫茶店の件で全てが許されてる気がします。

良くも悪くも星野青年の物語である。
彼が彼の世界から次の世界へ足を踏み出す過程。
彼だけが現実世界で生きてるからこそ共有できる感覚。

まさに自分が子供の頃に新しい世界に触れて、その広がりに興奮し成長したと実感した青い記憶。

その件が大公トリオと喫茶店のマスターとのやり取りに集約されてるかと。

私事ながら、香川には何度も立ち寄っています。
だからこそあの星野青年の見聞録は実際の歓楽街の匂いが伝わってきます。
中途半端だけど妙に閉鎖的に快楽主義を追求してる不思議な町です^^

投稿: 用心棒 | 2009.01.23 04:41

> あまりに悪ふざけ的な超自然的な展開のご都合主義、

このアイデアは、映画「マグノリア」から影響を受けているものと思われます。
映画公開以後、村上春樹さんだけではなく、他にも色々な作家が借用している(名前は失念!)のですが、作家さんにとって何か共通するインスピレーション源なのでしょうか。

私もまったく超自然的な展開のご都合主義、という感想なので、作家さん達がこぞって借用していることが不思議でなりません。

ちなみにマグノリアの監督ポール・トーマス・アンダーソンは、好き嫌いがはっきり分かれるでしょうが、無視できない映画作家のひとりではあります。

投稿: bakaman | 2009.02.15 21:30

海辺のカフカを曲にしました。「海辺のカフカ 曲」で検索すればユーチューブで出て来ます。コメント頂けたら嬉しいです。

投稿: 吉田 | 2011.06.08 03:15

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