[書評]アフターダーク(村上春樹)
もう少し間をおいてから読むつもりだったのだが、なんとなく夜というものにつられて「アフターダーク(村上春樹)」(参照)読んでしまった。日本では長編という扱いになっているのだろうか。しかし長編というほどの重さはなく、さらっと数時間で読める。私は朝を迎える前に読み終えてしまったのだが、できたら、そのまま渋谷の深夜でぶらぶらと彷徨して読みたかったようにも思う。街の深夜が、いとおしいというのでもないが、とてもキーンに感じられた。
![]() アフターダーク |
作品の統一性を与えているのは、眠りのなかの、そして眠りのなかで目覚めたように隔離された空間に置かれた浅井エリという女性の存在だ。この女性がこの作品にとって、なんと言うべきか、ラカンの言うファルスをマイナスにしたような象徴として、物語の、暴虐とFlavor of Lifeとでもいうような人の香りの二極を統合している。あるいは、みみずくんとかえるくんを統合したように深く存在している。「私たち」という視線は都市と闇を作り出すことで、このマイナスのファルスに魅了されている……そのことが仮面の男として導出されているのだろう。私たちは都市の闇のなかにあって仮面を剥ぐときに、白川でもあり高橋でもある。あるいはその関係性において郭冬莉であり浅井マリでありうる。
この両義的な奇妙な構造のなかで、かろうじて世界を分節しているのが、おそらくエリを閉じこめるテレビ映像に象徴される「情報」と、無名の視線としての「私たち」による「逃げろ」と叫ぶ「ルール違反」だ。おそらく後者の「ルール違反」のなかにこの時期の村上春樹のぎりぎりのコミットメントがあるのかもしれないが、おそらくそのコミットメントは、中国人売春組織の「わたしたち」とひらがなで書かれる存在の、携帯電話という情報装置を介した脅迫のコミットメントとバランスしている。あるいは、そうさせているところが、村上春樹が凡百の文学者と異なるところだろう。別の言い方をすれば、彼は文学の中に逃げてはいないし、薄っぺらな倫理のなかにも逃げていない。
作品のディテールも非常に面白いものだった。村上春樹は国際的な作家であり、高橋の、まるで翻訳を想定したようなぎこちない会話の不自然さは際だつ。しかし反面、現代日本人でしか理解しえない、日本都市の屈曲した、あるいは倒錯した細部が多彩に描かれている。例えば、なぜ「タカナシのローファット牛乳」なのか。私は高橋のようにコンビニで牛乳を選ぶ人なのでそこに込められた細部を読み取ることができる。また、私はイヴォ・ポゴレリチのファンなので白川のようすの細部を読み取る。
こうした細部は作品を単純に豊かなものしているかというとそうではない。逆説がある。その一番顕著な例がライアン・オニール主演の「ある愛の詩」についての断片だ。
「貧乏もさ、ライアン・オニールがやっているとそれなりに優雅なんだ。白い厚編みのセーターを着て、アリ・マッグロウと雪投げなんかして、バックにフランシス・レイの感傷的な音楽が流れる。
「で、そのあとはどうなるの?」とマリが尋ねる。
高橋は少し見上げて筋を思い出す。「ハッピーエンド。二人で末永く幸福に健康に暮らすんだ。愛の勝利。昔は大変だったけど、今はサイコー、みたいな感じで。ぴかぴかのジャガーに乗って、スカッシュして、冬にはときどき雪投げして。一方、勘当した父親の方は糖尿病と肝硬変とメニエール病に苦しみながら、孤独のうちに死んでしまうんだ」
「よくわかんないけど、その話のいったいどこが面白いの?」
村上春樹は高橋に話をよく覚えてないと一応言わせるのだが、作為である。ここで語られる「ある愛の詩」はまったくでたらめであり、「アフターダーク」という作品の「いったいどこが面白いの?」という批評性を逆手に取っているのだ。言うまでもなくこの冗談のようなゆがみが村上春樹にとって意図されていたことはライアン・オニールが強調されていることでもわかるだろうし、おそらく、英米圏の批評家の視線を読み込んでいる。余談だが、最近ライアン・オニールはロサンゼルス近郊の自宅で息子のグリフィン・オニールに拳銃で発砲したとして地元警察に逮捕された。彼ならやりそうなことであり、それゆえに「アフターダーク」に選ばれている。
| 固定リンク
「書評」カテゴリの記事
- [書評] ポリアモリー 恋愛革命(デボラ・アナポール)(2018.04.02)
- [書評] フランス人 この奇妙な人たち(ポリー・プラット)(2018.03.29)
- [書評] ストーリー式記憶法(山口真由)(2018.03.26)
- [書評] ポリアモリー 複数の愛を生きる(深海菊絵)(2018.03.28)
- [書評] 回避性愛着障害(岡田尊司)(2018.03.27)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
この流れで言うと、オチには村上春樹訳「ロング・グッドバイ」が来るのではないかしら。
清水俊二訳は本来、映画畑の人だから、文章の刈り込み自体がスタイルとなっていて、もとは演劇関連の出版社だった早川書房からの出版される事で、純血種ではないハイブリッド(雑種)の煌きが「長いお別れ」をして特別な1冊にしているのではないかと考えます。
よって村上春樹訳「ロング・グッドバイ」は私的にはナシ。(でも、買っちゃったんだよなぁ。)
投稿: パットン保安官 | 2007.03.16 15:29
的外れなコメントだったらごめんなさい。
ラカン風の物言いを真似れば、「出会い損ねの外側」が無いことの葛藤を都市(≒仮面)がどう補完しているか、もしくは補完できていないのかを、叙事半分、叙情半分で描いた作品と言ったところでしょうか。
>作品の統一性を与えているのは、眠りのなかの、そして眠りのなかで目覚めたように隔離された空間に置かれた浅井エリという女性の存在だ。この女性がこの作品にとって、なんと言うべきか、ラカンの言うファルスをマイナスにしたような象徴として、物語の、暴虐とFlavor of Lifeとでもいうような人の香りの二極を統合している。
以上の印象を端的に人称とすれば、それはファム・ファタルであり、
私などは、初めて読んだ折はフィルム・ノワール的作品と感想を持ったのですが、春樹氏自身はファム・ファタルに出会ったことがあるのでしょうか? 彼の来歴はよく知らないのですけど。
しかし、ライアン・オニールの近況に擬えて悪の裡に焼かれる心地を顕すなんて……流石です。
投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.03.16 16:15