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2007.03.14

[書評]アルジャーノンに花束を(ダニエル・キイス)

 え、読んでなかったのとか言われそうだが、この本との関わりもいろいろ因縁のようなものがあった。先日「極東ブログ: [書評]海辺のカフカ(村上春樹)」(参照)を読み返し、その登場人物のナカタになにか心がひっかかるなと思って書架を見ると、「アルジャーノンに花束を(ダニエル・キイス)」(参照)がおあつらえ向きにあった。今なら読めるかと読んだ。読めた。

cover
アルジャーノンに
花束を
 この本は考えようによっては随分昔から私の元にある。七〇年代からあったかもしれない。この間何度も引っ越ししても蘇生してくる、といって同じ本ではない。今回読んだのは九九年版の文庫だ。購入した記憶がない。貰い物かもしれないが誰に貰ったかの記憶もない。以前の本も、お前これ読めみたいなことだったと思う、というか、なんかよくわからないが私の回りの人が私にこれを読ませようとしてきた。長年書架にあるので、たまたま書架を見た人が、これいいんですよねとか私に共感を求めるのだが、その都度困惑する。読めてないのだ、私。チャーリーが知能アップするあたりで、くだらねとかいつも放り出してしまう。
 今回読んでみて、いろいろとわかった。その理解にちょっと泣けるものがいろいろあるし、あまりディテールには書きたくないので、アバウトに言える点だけ言うと、私という人間は知能アップしたチャーリーのように人を傷つけまくっていたのだろうなというのはある。ごめんな。
 そういえばキイスと宇多田ヒカルが文藝春秋で対談をしていたのはいつだっただろうか。なぜ対談してたんだっけと、調べてみてなんとなくわかったのだが、この物語の本案か何かがテレビドラマだったのだな。へぇである。ちなみにあの対談はと調べると、00年一月か。とすると宇多田ヒカルが一六歳くらいか。「アルジャーノンに花束を」読後に先日NHKの対談番組に出た彼女とその歳の彼女のことを考えるといろいろ思うことはある。Blueという曲からもその思いが察せられるが、さておき。
 「アルジャーノンに花束を」の基本的な解説は不要だろう。あるいは、ウィキペディアの項目にあらすじがあるにはある(参照)ので、未読の人は参考にするといいかもしれない。私としてはちょっと違和感があるが。
 というのも、この物語、ようやく読めて、面白かったのだが、これまで読めなかった理由、頓挫していた理由、もなんとなくわかった。今回読めたのは、頓挫地点を越えて、私なりにこの物語の主題がわかったからだ。「私なりに」という大きな限定を謙遜の意味でつけておくのだが、この物語は母子の物語なのである。ウィキペディアとかのあらすじにある仕掛けとか、知性によって思いやりが云々とかそういうのは、たぶん、それほどどうという話でもない。
 普通の若い夫婦がいた。普通に生きられるはずだった。ところが知的障害児の男の子が生まれた。その悲劇に翻弄されるようすがこの本でよく描かれている。若い妻は自分に問題があるのではないかと思いつつ次の子供を産む。健常児の娘である。そしてその娘と知的障害の兄と母との関係は複雑になる。この複雑さが刃傷沙汰に及ぶのだが、こうした悲惨な展開は実はそう不思議でもない。偽悪的に言いたいわけではないが、同じような境遇にある人にとってこんな悲劇はよくあることなのだ。そして一生その悲劇を負って生きていく。こうしたことはあまり世間では語られない。語れない領域だ。世の中にはこんな悲惨があっていいのかと思いながら世間では語れないことがいろいろあるものだが。
 「アルジャーノンに花束を」はそうしたとてつもない世間の悲劇というのを暴露するのにチャーリーという仮構を使った、と私は読んだ。その意味で、チャーリーが知的障害児であるという設定は装置としては面白いし、おなじ装置がキイスお得意の多重人格的なフレームに流れ込むのはそうした点から当然のことでもあったのだろう。
 この物語が基本的に母子の物語であるというのは、チャーリーに付きそうアリス・キニアンとフェイという二人の女性との性関係にも強く陰影を落としている。恋愛というものの中に病理として現れる母子関係についてもかなり洞察が込められている、が、そこには救いはない。いや、知能を失ったチャーリーがキニアンに最後の思いを残しているがそれは、彼という母子関係の中の不幸の、いや、ある救済であるかもしれない。
 チャーリーが、老いて他人のような父母と再会するシーンは、なんというのか、人間五十年も生きていると、いろいろじんわりくる。ぶっ殺したいほど憎んでいた肉親もこんなに弱い人間にすぎなかったのかと知ることは、つらい。
 アマゾンの素人評にはこの書籍の感想が百を越えて掲載されていた。私は私のような読み方をする人がいるのか全部読んでみた。作品というのは、多様に読まれうる。正しい読みがあるわけではない。ただ、私のような読みの人はいなかったようだ。でも、それはそれでいいのだろうと思う。

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コメント

書評というのはさまざまであっていいし、どうせ一方通行なのだから平行線が並んでいるよりも 斜めの線 が交錯している方が本来楽しいと思います。
文学作品はたまにしか読みませんが、自分でも違った読み方ができたらいいなと思っています。
京極夏彦氏 「邪魅の雫」の中に書評に関する興味深い 文章がありました。

投稿: りん! | 2007.03.14 13:45

>作品というのは、多様に読まれうる。正しい読みがあるわけではない。ただ、私のような読みの人はいなかったようだ。でも、それはそれでいいのだろうと思う。

私は『洗礼』と併せて読みますよ、自省の意味も込めて。
ただ、念頭には置いているものの、中々ままならないなあと青筋を立てることしきり。

投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.03.15 14:03

かつて中編版を読んでまして、その後読んだ長編版ですが私も途中で挫折してます。曖昧な記憶なんで間違ってるかもしれませんが、中編版には親との関係性が書かれていなかったように思います。

投稿: Sundaland | 2007.03.15 14:18

>Sundalandさん
>中編版には親との関係性が書かれていなかったように思います

 私もそのように記憶しています。少し書かれていたかもしれませんが、ほとんどなかったと思います。
 もともと、中編版が売れたので長編版が新たに出た、という経緯だったとどこかで読みました(確認してみます)。
 中編版はハヤカワSFだったでしょうか。その後しばらく見かけなかったのですが、今は中短編集『心の鏡』に収録されていますね。Amazonで見たら『心の鏡』の文庫版が出ていましたが、そこにも「代表的な長篇『アルジャーノンに花束を』の原型である中篇版のほか」と書かれていました。

 中編版を書いた後にキイスの中で、何か内的な促しがあったのかもしれませんね。

投稿: 左近 | 2007.03.16 14:50

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