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2007.03.30

健全なる精神は健全なる肉体に宿る、ってか

 今週号の日本語版ニューズウィークの記事「運動に励んで脳力アップ」、副題「スポーツで脳も鍛えられる? 運動と知力の意外な関係を解明」を読んでいて、あれ?と思ったことがあった。記事の内容は標題どおり、運動すると脳機能が活性化するという最近の健康情報ではある。まあ、それはそれほど驚くほどの知見ではない。
 あれ?と思ったのは、次の箇所だ。強調部分は私のタグ付けによるもの。


 精力的に運動することで、神経細胞の結びつきが強化され、脳の働きが活発になるという研究結果もある。運動は、アルツハイマー病やADHD(注意欠陥・多動性障害)といった、認知障害を伴う病気の予防などに役立つ可能性もあるという。
 健全なる知力は健全なる体に宿るという考え方は、年齢を問わずあてはまる真実のようだ。

 この強調部分だが、たしか私の英米文化の理解では、彼らは「健全なる知力は健全なる体に宿る」といった発想はしない。キリスト教的に理解してもいいが、肉体というは罪の連想が伴うものだ。
 とはいうものの、最近は欧米でも健康志向だし、そもそも私が何か勘違いしていたかなと原文を読み直すと、こうだった(参照)。

Other scientists have found that vigorous exercise can cause older nerve cells to form dense, interconnected webs that make the brain run faster and more efficiently. And there are clues that physical activity can stave off the beginnings of Alzheimer's disease, ADHD and other cognitive disorders. No matter your age, it seems, a strong, active body is crucial for building a strong, active mind.

 該当部分はこうだ。

  • 健全なる知力は健全なる体に宿る
  • a strong, active body is crucial for building a strong, active mind.

 直訳すると「強く活発な肉体が強く活発な知的能力の形成にとって決定的である」となる。であれば、「健全なる知力は健全なる体に宿る」というのは誤訳とは言いかねるだろうか。
 もっとも、訳文では「健全なる知力は健全なる体に宿るという考え方」としているので、あたかもそういう考え方が既存であるかのような前提で書かれている。
 そういう考え方が英米圏にあるんだろうか。
 当然ながらこの句はれいの「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」という諺を連想させるし、この諺は英語の諺「A sound mind in a sound body」の訳だとされている。
 私にとっては常識だと思っていたのだが、この諺は誤訳で、どちらかというと、「健全な精神が健全な肉体に宿ればいいのに、明日晴れればいいな♪」みたいな願望であって、現実はそうじゃないよね、という意味だと理解していた。
 ネットを見渡すと”「健全な精神は健全な肉体に宿る」とは言わなかったユウェナリス”(参照)というページがあり、詳しく解説されていた。

 先日、といっても大分前(1988年2月2日)になるが、産経新聞に連載されている『戲論』 (全文) で「健全な精神は健全な肉体に宿る」という格言の間違いを指摘した玉木正之氏が「ユウェナリス( Juvenalis 60-136 )は若者が体を鍛えるだけで勉強しないことを嘆き、『健全な肉体には健全な精神も!』(肉体だけ鍛えてもダメ!)といった」のだと書いているのを見て、なるほどそうだったのかと、久しぶりに手もとにある原文をひもといてみたが、どうもそうでもなさそうなのでここで報告したい。

 ただ、この解説も読んでいて、あれ?と思った。確かに元々はユウェナリスの詩でいいのだが、英米圏でのこの成句は、ジョン・ロックに由来する。ネットで確かめてみると(というかその程度で確かめてみる)。

"A sound mind in a sound body is a short but full description of a happy state in this world."
-- John Locke

 ロックの場合は、「健全なる精神が健全な肉体に宿るというのが、手短だが、この世にあって幸福な状態を十分に説明している」というで、つまり、幸せっていうのは、その両方を手に入れることだ、という意味になる。だいたい英米圏でもそうした理解が成り立っているはずだ。なので、先のユウェナリスを考察したページでスタートレックのエピソードが次のように解釈されているのだが、それも若干だが違うように思う。

 ところで、日本の知識人に槍玉に挙げられている健全な精神は健全な肉体に宿るということわざは、どうも日本だけのものではないようだ。最近、スタートレックを見ていたら、バーベルを握って筋肉トレーニングに励んでいる若者(ノーグ!)が、友達のジェイクに筋肉トレーニングの良さを勧めながら「『健全な肉体に健全な心』(多分、Health in body,health in mind)と言うじゃないかと言うシーンに出くわした。
 このことから、格言というものは一人歩きするものであること、欧米においても、もうずっと昔からユウェナリスの詩は読まれなくなっているということが分かる。

 話が重箱の隅を突くようになってしまったが、それにしても日本語版ニューズウィークの翻訳者はこうした英米圏文化の背景を知らなかったか、知っていても日本人の理解に合わせて意訳(超訳)したのだろうか。そう考えづらいのは、訳者も当然この記事の全体を読んでいるはずだということ。この記事は、英米圏ではスポーツマンは知的に見られていないという偏見をベースにしている。つまり、肉体が健全だと知力はたいしたことないと見られがち、というのがこの記事の前提になっている。
 話が逸れていくのだが、「健全なる精神が健全な肉体に宿る」という日本近代の諺だが、「健全なる精神が健全な身体に宿る」というバージョンがけっこうあり、「肉体」と「身体」というのはどういう関係、あるいは理解になっているのか気になった。なんとなくだが、肉体というのは生理活動でありぶっちゃけ日本近代の青年の悩みというかいまでも増田の悩みというのは性欲なので、たぶん、「肉体」バージョンは性欲との関連にあるのだろうと推測する。余談だが、新渡戸稲造の人生論とか読むと性欲の問題は青年男性だけではなかったようだが、この話は今日は突っ込まない。ただ、このあたり研究されないもんだなとは思う。猫猫先生もご存じないかもしれない。(いやいや私のただの勘違いかもしれない。)
 これに対して、「身体」のほうは、運動やスポーツの含みがあるのではないか。つまり、スポ根である。甲子園球児みたいなあれである。スポーツすると精神もよくなるぞぉみたいな。このあたりの「肉体」と「身体」の転換、あるいは棲み分けは、けっこうマジに大衆文化として研究してもいいような気がするというのは、これがけっこうマジで「権力」の問題であることはフーコーとかに関心がある人なら理解するだろう。
 そして、もう一点。「精神」が気になるのだ。単純に言って、spiritではない。mindが英米圏の句のキーワードなのだが、日本バージョンでは巧妙にspirit的な「精神」になっている。
 たぶん、この「精神」という訳語は明治時代のもので、あのころは「精神」がmindの語感を持っていただろう。もともとmindというのは、ニューズウィーク日本語版の訳語のように「知力」に近く、いわば論理能力・計算能力のことだ。ロゴスの能力といってもいい。このあたりのmindという考えはあまり日本人の文化には馴染まないようだ。

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コメント

健全な夫婦は子供を3人以上持つべきだ!とどっかの誰かがいうように健全という概念は曖昧なわけですが、肉体がある程度の状態でないと、なかなか 平常の精神状態を保つのは難しいと思います。その意味で 痛みや苦しみを肉体に抱えている人が前向きであったりすると感動しますね。
健全なんてなどうでもいいわけですが、心も体もやはり切っても切れなくてどちらかが(ある程度)満足しなければどちらかが癇癪を起こす。その程度の意味ではないでしょうか?精神や心が さも分離独立してあるような気がしているのは人間のみでしょう。どちらもテキトーに満たせてやる必要がありますね。

投稿: りん! | 2007.03.30 10:30

マインドの問題は難しいですね。例えば連中がチンパンジーマインドという場合、日本人には理解しがたい人間中心主義の裏返しがあるのかもしれません。

投稿: ホンヤラ堂 | 2007.03.30 10:59

「健全なる精神が健全な身体に宿る」という言い回しは初めて知りましたが、何と言うか「気持ち悪い」という印象を受けます。

finalventさんは性欲との関連を指摘していますが、私は「身体」はイデアで「肉体」は個物だと捉えています。私たちが普段それらをどう使っているかを考えると、そんな気がします。

「身体障害者」とは言いますが、「肉体障害者」とは言いません。イデアの「からだ」と個物の「からだ」を比較し、欠損や不具合が見つかると「障害」とされます。

一方で肉体という言葉はもっと即物的で、「肉体改造」の様に目の前にあるものをどうするのかと言った文脈で用いることが多いように思います。なので生活を営んだりする際に問題にならなければ、身体障害者だって肉体的には「健全」と言えると思います。一方で「身体改造」なんて言葉が存在する余地はありません。

なので「~身体に宿る」という言葉はパラリンピックで言えば差別発言になるけれど、「~肉体に宿る」と言えば、意味的には差別発言にはならないと思います(身体障害者でも肉体的には健全たり得る)。「意味的には」と回りくどく言ったのは、「身体」バージョンと比較せずに聞いた場合は、「感覚的に」差別に聞こえる部分があると思うからです。

ちなみに「身体障害者は肉体的に健全ではない」という人は、イデアと現実を同一視する(若しくは現実がイデアと異なると批判・否定しまくる)ような左に傾いた人では無いかと思います。ま、これは余談ですが。

で、冒頭で「気持ち悪い」と書いたのは、個別の精神がイデアに宿るというのに馴染めなかったためです。

投稿: kwskf | 2007.03.30 14:21

今でこそ学問的な認識論が深まっております。単なる時代性であり、深刻な事ではないと思います。因みに昔は障害者は神として存在感もあります。近現代が病なのですがね

投稿: アカギ | 2007.03.30 19:43

なるほどつまらないからいろいろ気になります。

sound,health,active, 健全に全うしないとややこしいけれど、はたらきの違う言葉でもありますね。
英語で考えるひとは、crucialを用いた時どんな感覚なのでしょうか。十字架の作法がわからないだけに、ふと、このように現れると、不気味。
あらためて mind を見ると外に出てゆくことができる out of mind のあれ、動詞ではたらく時、気にすると訳すと気になりすぎるので、ついつい言葉を変えてしまうあれは、 mine に近い。

明治に、いきなり「精神」が登場したのかもしれず、「肉体」やら「身体」やらも、その流れにのるものだろうか。
肉体労働とか、戦後の肉体文学とか、「肉体」をよく使った時期もあった。ある時期から「身体」としきりに言いだしたのは、訳語として増えたからと思われます。素人が使うのは、身体測定、検査の「身体」だったりするから、学校とか徴兵哉。

子供の頃、文盲の婆さまがいた事を思っていたら、しかしだからこそ「からだ」という言葉が疑わしくなってきました。
「み」と「こころ」、加えて「気」あたりで、それまでは、おおかた過ごしてきたのではないかというか、「から」という言葉が「からだ」と言いきられたあたりに怪しさが。

投稿: 都市に棲む山姥 | 2007.03.31 04:15

気になりついでに、貝原翁を読んでみたら、「身体」「精神」、「体」がありましたが、「目に精神のある人は寿し」、「一身体の内にあまねく」とか、「体をやしなう」は「てい」か「たい」と読む筈で。

投稿: 都市に棲む山姥 | 2007.03.31 06:04

性(肉体)を時代(空間の閉塞感)に沿ってパラフレーズ(リライトでもよいでしょうか?)する為の「知」は、一己の様式美の形態(身体)が収まりがいい。

具体的な感触が伴う概念(範図)だから、営為に成長という価値を信じられる。
最近例では、ジャンプ黄金時代における三本柱(努力・友情・勝利)の影響(それこそスポーツによる人格形成の功利)とかに顕著ですか。

投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.04.01 14:45

アレですよね。・・・例えば、性犯罪者が、不特定多数を狙うリスキーなやり方を改めて、風俗通いを決意したとします。そういう状態を、まさに、「健全なる肉体に健全たる精神は宿る」と言っていいのではないかと。彼はもう、肉体的にも満たされてるし、合法的存在である事で、精神的にも犯罪者で無い訳ですから。・・・ちょっと皮肉な例えになりましたが、そういう事でしょ。
社会に適応するって、そういう事だと。。。最近なんか、友人を見てて思いました。「健全な市民」って、こんなものかと。

投稿: ジュリア | 2010.05.05 01:24

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