[書評]その夜の終りに(三枝和子)
「その夜の終りに(三枝和子)」(参照)は、平成元年「群像」九月号に発表された後、単行本となった。私の手元にある翌年刊行された初版奥付を見ると一九九〇年二月二三日とある。版を重ねたかどうかは知らない。
その夜の終りに 三枝和子 |
彼らの結婚がいつだったか手元の資料ではわからない。三枝和子は、兵庫師範学校本科を経て、関西学院大学文学部哲学科を卒業し、同大学院文学研究科修士課程を中退。神戸と京都で十三年間中学教師をしたの後、作家生活に入る。一九六九年(昭和四四年)「処刑が行われている」で第一〇回田村俊子賞を受賞。四〇歳で作家となったと見てよいだろう。森川達也と知り合ったのは兵庫県西脇市で発行していた同人誌によるらしい。森川は京都大学文学部哲学科卒業後、一九六五年(昭和四〇年)に「島尾敏雄論」を刊行し文芸評論家となる。論壇・文壇へのデビューとして見れば森川が四年ほど早い。推測にすぎないのでご存じのかたがあれば教えていただきたいのだが、彼らが知り知り合ったのが同人誌であれば、すでに名を成した森川に対して三枝からのアプローチではなかったか。それと彼女の京都転居は関係があるのではないか。結婚時、三枝は三五歳を越えていたのでなったか。
「その夜の終りに」が書かれたのは三枝が六十歳のときで、すでに文壇では大御所の扱いになっていた。この作品は、他の「その日の夏」(参照)、「その冬の死」(参照)に続く、戦争と女性を扱った三部作の最終部にあたる。本書後書きで彼女は述懐している。
『その日の夏』、『その冬の死』、『その夜の終りに』と書きついで、女と敗戦をテーマにした一連の物語が終った。
書きつぐ、と言い、一連の物語、と述べることに、ある異和の感じを持たれる方があるかもしれない。これは主人公を同じくする長編小説ではないからである。また、『その日の夏』は敗戦直後十日ばかりの出来ごと、『その冬の死』は敗戦四ヵ月後、『その夜の終りに』は敗戦二十年後、というふうに時の流れとして捉えるにも甚だしく不統一である。
しかし、同一の主人公、あるいは登場人物にたちによって、編年体ふうに書くことを、私はこの小説を構想した最初から避けた。理由を、ここで短く説明する力は私にはないが、たとえば一人の女性に背負わすにはあまりに過大な問題を抱えていたので、人物を変え、時の流れをずらすことによってリアリティを確保したいと思った。
「その夜の終りに」は敗戦二十年後と筆者三枝自らが語っているので、この物語は昭和四〇年あたりの設定だととりあえず受け止めてよいだろう。彼女が作家として立つ四年ほど前のことであり、この物語にもし三枝を登場させるとすれば、三五歳としてもよいだろう。登場人物でいえば、まさ子に相当する。
主人公、染代は昭和十八年に十八歳というから大正十四年(一九二五年)の生まれということになる。私の父と同年だ。物語では四二歳ということだろう。そして、もう一人の主人公、銀座「花散里」のママ、縁子は四十歳である。
物語の今、昭和四〇年(一九六五年)は、米国がベトナム北爆を開始した年で小田実たちがべ平連を創設した年でもある。私は八歳だった。記憶に残っているのは吉展ちゃん事件(参照)と朝永振一郎がノーベル賞を取ったことだ。
前年は東京オリンピックがあった。が、本書にはオリンピックで激変した東京のことについては触れられていないようだ。翌年はビートルズが来日した年である。彼らに群がる若い女性たちを想起すれば、その年代として描かれる、本書の令子やカオルがイメージしやすいだろう。令子は大学生で七〇年代安保の学生のイメージで先駆的に捉えられている。カオルは、エリザベス・サンダースホーム(参照)という名前は出てこないもののあきらかにその孤児として描かれている。本書を読み返すとエリザベス・サンダースホームの陰影がより深く感じられる。若いホステスのもう一人、有以子は特攻隊の落種として登場するので二人より五歳ほど歳上の設定だろう。
物語は、戦時中シンガポールで慰安婦をし、戦後パンパンからオンリーとなり、三十代は銀座「花散里」のホステスとなるもそこを離れ、当時の千住に暮らし、新宿二丁目の街娼となった染代が、ふと「花散里」を再訪するところから始まる。
染代を銀座のホステスに紹介したのは、六十歳にもなる幇間(ほうかん)の捨だった。彼はこう彼女を説得した。
それから、「姐さんほどの美人なら、芸者として落籍(ひか)された。切れた旦那のことはいえない。それで立派に通るよ」
と付け加えた。
そして染代の過去が物語りの導入でこのように語られる。
しかし染代は恐かった。芸者をしていたのは本当だが、いい旦那に落籍されたのではない。昭和十八年、十八歳のときに、軍の「特殊看護婦募集」に応募して南方へ行ったのである。特殊看護婦、つまり慰安婦である。軍が借金を肩代わりしてくれる、とすすめられた。
「お前さんは美人だから、高級将校用になる。高級将校用というのは、何だ彼だと言っては客をとらされる芸者の生活とあまり変りはないよ」
派遣されたところは昭南島、シンガポールで、海軍省に直属していた。応募させた人が言ったように「士官用」になった。
敗戦で帰国すると、今度はまっていたように「R・A・A」だった。「リクリィエーション・アンド・アミューズメント・アソシエーション」
「舌を噛みそうだね」
染代は笑った。「何なのさ、それ」
話を持って来た捨さんによれば、アメリカ軍用の慰安施設で、進駐してきた兵隊の暴行から一般婦女子を護るために、売春婦たちを募集してこしらえる「防波堤」だそうだ。
「防波堤?」
「ああ、みんなそう言っている。今度も、お上が大変な肝入りなんだって」
「どうしてお上が肝入りで、敵さん用の売春所をつくるんだよ」
「だって、そうしなきゃ……」
「素人さんがやられちゃうと言うのだろう。いいじゃないか、やられたって。日本軍だって勝ってるときは、中国や南方で向こうの素人さんを暴行、したい放題やって来たんだから、あいこじゃないか」
染代はむかむかして来た。
「戦争で、お国のために兵隊さんを慰さめて帰って来たと思ったら、今度は、その兵隊さんの奥さんや娘さんを護るために、何だって、防波堤? 自分たちが戦争でせきとめられなかったものを、あたしたちの身体でせきとめろ、って言うのかい」
昭和二十年代にそうしたことがあったのか、私はわからない。この物語が語られた「今」という時点は昭和の終わりだ。つまり、その二十年後である。そして、私の今はさらにそこから二十年後にいる。
事実と物語と人の思いが時代に錯綜していくなかで、私はこの小説に鏤められ滲んでいく歴史の言葉が、こう言っては何んだが、愛おしい。これらの言葉の歴史の感触を知ることで、かろうじて四十年前や六十年前の時間とつながり、日本人として生きているのだと思う。
だが、昭南島をこの小説のようにシンガポールと四十年後に言い換えて済むうちはまだよい。その言葉と人の感覚とのつながりも消えたとき、歴史の感触も失われる。あるいは変質し別の意味を持ち始める。
染代がシンガポールに派遣されたのは、昭和十八年三月のことだった。到着するとすぐ士官用を言い渡された。染代が属していた海軍省直轄の慰安所の他に、現地では業者の経営する売春宿もあった。業者の経営するところは兵隊用が多く、安くあげるために朝鮮人の女性を徴集したりしていた。
慰安婦は大変だ。一日に、三十人、いや、五十人はこなさなければならない、とか、粗末なむしろで壁掛の仕切りをこしたらえた部屋の前に、兵隊たちがずらりと並んで順番を待っている、とか。予備知識でかなり覚悟をきめて来たのだが、士官用は様子が違っていた。おまけに染代はそのとき十八だったので、年配者に廻された。若い者を若い者にあてがうと身体に無茶をされるということで、二十歳代前半の若い士官にはベテランの慰安婦が当たった。年配者というのは、佐官から将官クラスになるので、染代は内地にいたときの芸者暮しの延長のような生活を送った。身体を売る、というよりも、お座敷の延長にそれがある、といったふうな感じだった。
染代にとって、あの戦争の一時期は輝いていた。後方の病院に行って従軍看護婦にでも会わないかぎり、女は慰安婦だけだ。誰にも蔑まれなかった。染代のように将官、佐官相手で得意満面でなくても、水兵を一日に三十人、四十人とこなしている女たちでも、生き生きしていた。一週間に一枚とか、十日に一枚とかの割当切符を握りしめて列をつくって待っている男たちから見れば、慰安婦は天女だったに違いない。
もちろん、なかには嫌な男もいた。
「並んでやって来たくせに、内地で女郎買いでもしているような気分になって威張り返る奴、これが一番下等ね」
「そっくり返りたきゃ、軍票なしで買いにおいでよ、と喚いておやりよ」
「金を積まれたって、嫌だけどさ」
「こっちは忙しいんだから」
「そうよ、配給の飴玉なんか溜めて持って来て、お願いします、と頭を下げられると可愛いくて、ついサービスするけどねえ」
あの時代に「サービス」という言葉があっただろうか。語感が私にはわからない。だが、先日漱石の「明暗」を読みながら「プログラム」という言葉が二度ほど出てくるのに驚いたので、和風英語の時代的語感には自信がない。
染代は進駐軍時代については豆太郎という女性で懐古する。
足下の薄暗い道を国電の駅へ向かって歩きながら、染代は、ふと豆太郎のことを思い出した。――蒲田の産業戦士慰安所と言っていたなあ。先っきのような男の子を相手にしていたのかなあ。
豆太郎と一緒にいた期間は、実際には合計しても一年半くらいだのに、ひどく懐かしい。「進駐部隊専用慰安施設」の慰安婦たちをお上では「特別挺身隊員」と呼んだんだって。
そして二人でげらげら笑った。笑いながら、ふと真面目な顔になった。
「染ちゃんはいつも高級将校用で楽していたからいいけど、私は工員用で数をこなしてたときがあるからなあ。五、六年経つとと梅毒が頭にのぼって、気が変になるんじゃないかなあ」
「蒲田の産業戦士慰安所」という呼称が歴史的にあったのかも私はわからない。ただ、三枝は戦後復興の産業振興に駆り出された若い男の子の工員たちを産業戦士と見て、そこに慰安所を語り、その慰安婦として豆太郎という女性を描き出している。
物語は、染代から年僅かしか違いないものの戦後の世界から女であることを自覚させられた縁子に移る。縁子は特攻隊で死ぬ定めの従兄から、出征前に「コイトスしたい」という言葉を聞いてその場では意味もわからず反応したことが二十年経っても強い心のひっかかりとなっている。その思いが、作者三枝の思いの中で慰安婦の視線と不思議な反響をもたらしていく。
男は、その生命が間もなく終ると思うと、自分の生命を維持するために、女の身体のなかにその生命の種を是が非でも植えつけたい気持ちになるものだろうか。相手の女が結婚もできないで子供も生むことの苦しみや、自分の子供の正当な父親を持たずに生まれて来ることの不幸を考えないのだろうか。しかし、だからと言って、自制した従兄に対して、一種の割り切れなさを覚える縁子でもある。
「そのとき、男は矛盾しているのよ」
いつだったか、令子が断罪するように言った。「男は結婚制度をつくって女を縛っておきながら、戦争というアナーキーな状況をしばしばこしらえて、男自身がつくった結婚制度を、自分で潰して、その矛盾に気がついていないのよ」
縁子は頷くことができなかった。令子の意見はあくまで令子の意見だ。縁子の心に滲み入て来るのは、あのときの従兄の接吻を受けた若い自分の意識と特攻隊の兵隊に身体を開いた有以子の死んだ母親の気持ちとのあいだに共通して流れているにちがいない、奇妙な心の昂まりだ。男が死んで行く運命にあるからこそ受け入れる、受け入れたいと、気持ちが次第にほとびて来る、あの、よくわからないが不思議な力に支配されていた一刻一刻……。
「ねえ、有以子、あなたのお母さんは、特攻隊の兵隊さんが、明日死ぬから一緒に寝たのよ。ひょっとしたら、女は、明日死ぬ人でなければ欲情しないのかもしれないわよ」
有以子は黙っている。縁子の言葉が届いたのか、届かないのか。
有以子の世代は団塊の世代の少し上になるが、まだ老女と言える歳でもない。戦争の時代を生きた縁子の言葉が昭和四十年代に届いたか、そしてそれが今なお届いているのか、私にはわからない。だが、私は悲観的になりたいわけではないのだが、三枝がかろうじて歴史に寄り添おうとして語ったぎりぎりの部分は、たぶん、もう届かない歴史の彼方に消えたのだろう。
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