社会システムとルール社会を越えていくもの
世界と「私」はどのような関係にあるのか。その関係はどのように変遷し、今、どう変わろうとしているのか、といった、青臭いネタを書く。話を簡素にするために、叩き台的に哲学者竹田青嗣「『自分』を生きるための思想入門」(参照)を使うが、話の本筋は竹田の議論にそれほど依存しなくてもいい。ただ、その場合は議論が煩瑣になるというくらいだろうと思う。
![]() 「自分」を生きるための 思想入門 竹田青嗣 |
まず古典的な世界象は未だ国会の馬鹿騒ぎや各種のブログなどもよく見られるが、次のようなものだ。仮にフェーズ1としておく。
ひと昔前多くの人が抱いていた社会像は、大きな権力がまずあって、その権力が一般の民衆を支配し抑圧している、というものでした。民衆はそれぞれの生活の欲望を持っているけれど、この民衆の生活の欲望を、大きな権力が抑圧し、支配しているという図式が基本的にあったわけです。
したがって、このときには、この大権力をどうすればひっくり返すことができるかということが思想の中心問題だった。マルクス主義は基本的にこういう問題の立て方をして、それなりの支持を得ていたわけです。
ところが、最近では、大きな権力ということは推定できなくなった。たとえば、かつての強力な天皇制権力といったものは今では見当たらないし、日本の政治権力がさほど強力な一枚岩ではないことは誰でも知っています。諸悪の根源としての大権力があってそれを倒せばいいという図式は、人々の生活実感からひどくかけ離れたものにならざるをえない。するとマルクス主義の図式では、現代社会を批判したり、攻撃する目標が成り立たないのです。
本書が書かれた十五年前に比べれば、そうした世界認識はごくあたりまえのことではあるが、それでも、日本社会には歯止めのない恣意的な検察正義が存在したり、この古典的な洒落にもならない「諸悪の根源」をかき立てるレトロな人々がいる。露骨な大衆扇動でもなければこんなバックラッシュは捨て置いていいだろう。
これに対して「社会システム」論が登場する。これをフェーズ2としよう。
日本に輸入されたポスト・モダンの「社会システム」の考え方は、要するに、新しい批判の「目標」を設定する理論として受け入れられたわけです。
つまり、今や批判の対象は目に見える大権力ではなく、高度消費社会という「社会システム」そのものだ、ということになります。(中略)ある権力という中心があって、それがピラミッド的に人々のさまざまな欲望を支配しようとしてるのではなく、むしろ民衆の欲望そのものがルールの網の目を通して延び広がっていって、全体として大きなシステムを作っているととらえるのです。
網の目がネットワークと同義であることに留意したい。さて、社会システムにおいて権力とは、「欲望の網の目の流れの中の要所要所」に作られ、多様な欲望を調整する機能を持つとされる。これがフェーズ2の特徴でもある。
この「社会システム」の考え方では、個々の人間の欲望とシステムを支える小さな権力は「互いに支え合っている」ことになります。システムは人々の欲望(消費欲望)をうまくあやつって決して不満が出ないようにシステムに加担させている、ということになるわけです。
ここで、竹田は(あるいは竹田と限らず)、欲望が「消費の欲望」に無前提に結びつけれている。ここに現代人はある違和感を感じるかもしれない。なぜなら、ネット社会おける欲望はそのような形態から逸脱しつつあり、しかもその逸脱性がシステムによるカネの統制に結びつかないからだ。
では、なぜこのポストモダン的な世界論において、欲望が「消費の欲望」に無前提に結び付けられたのか。私はこう考える。つまり、「社会システム」の考えは、高度消費社会、つまり、高度資本主義批判という構図を取りたいからだ。その意味で、フェーズ2の大枠にあるのは、リヴァイズドなマルクス主義そのものであるし、実際にこの議論はうっすらとした社会主義的な倫理の脅迫性を伴っている。
さらに言えば、生産性として議論されているネタは、実は高度資本主義社会においては、それが消費によって逆に規定されていることにも、現代の視点では気づくことができるだろう。生産性向上といった議論は現実には消費の関数に過ぎない。では、「消費とは、欲望とは何か」というとき、その消費される対象は物ではなく、使役快楽としてのサービスになっている。ネタとして言えば、おそらく経済学の根幹に誤りがあるのだろう。一個のリンゴの価値は、もやは、それを取るための労働に依存するのではなく、美少女が取りに行くか、オッサンが取りに行くか、機械で採集するか、の差異である。
竹田の議論の時代ではまだ社会システムの考えが意味を持っていた。しかし、現時点では、単純に言えば、このフェーズ2もフェーズ1同様、すでにナンセンスだとしていいだろう。では、何が現代の意識を変えているのか。あるいは、欲望の方向性を変えているのか。
竹田は社会システム論を批判し、これに対して「ルール社会」を提起する。あるいは、人と社会の根源的な関わりはルールだとする。
欲望論の考え方では、社会とはいつのまにか人間が作ったルールの体系です。このルールを変える力は人間の集合的な「エロス原理」です。どんな社会制度も、この欲望の本性と原理を変えることはできません。資本制そのものがルールを作っているという考え方はあの抑圧感や不全感を説明するための”神話”にすぎません。
そもそも資本制は、人間の欲望の本性が経済的な領域で表現されたものであって、資本制は欲望の形を変えますが、欲望の本性を作るのではありません。ほんとうはその逆で、欲望の本性が資本制を作り出しているのです。
ではルール社会はどのような世界象を描くのだろうか。
その理想像の要件を彼はこうまとめる。ここから描けるルール社会論がフェーズ3だとしよう。
これを実現するために考えられる前提は、まず、すべての人間があらゆるルールの下に対等であること、次に、ルールを変更するルール(またはこれを変更するルール……)に対してやはりすべての人間が対等な権利を持っていることです。社会が、「エロス原理」に基づくゲームであるとすると、このことが、社会とルールの関係において目指されるべき唯一の公準なのです。
近代国家(社会)がこの公準をなかなか実現できない根本の理由は、国家間対立による国家権力の集中という要請によります。
このあたりは現在の竹田思想に繋がってくるのだが、こうしたルール社会は可能なのだろうか。その障害は国家権力なのだろうか。もちろんそれは明確にあるし、それ以上の極めて困難な問題の萌芽もある。
私は、このルール社会、フェーズ3の可能性は、歴史段階の可能性としてもう終わっているのではないかと考える。理由は単純だ。竹田のいうエロス原理は「集合的」な特質に拘束されているのだが、現在、個がエロス原理から隔絶するほどに抑圧されていくと見るからだ。現在において個人はその非匿名性によって売買される商品のような存在ではありえても、エロスの単位とはなりえない。
この辺りの議論は、もう少し丹念にすべきなのだが端折る。
我々は、個人としてのスタンスでその人生の目的たるエロスを開花することはもはやできない。ネタ的に言うと、非モテは美少女を欲望することなく、ヤラせてくれそうな評価の経済学に嵌って行動するしかない。そしてそのエロスはその個人であることの特性を越えて幻想に辿り着く他はない。
ここで新しい世界像を得るために、人間の欲望というものの基本像を竹田から借りてみる。
つまりわたしの言いたいことは、日常の愉しみは美やロマンを消費する愉しみですが、同じ美やロマンを味わう欲望でも、恋愛の場合は日常という境界線を越えて出て「超越」へ踏み出すような性格を持つということです。
人間の欲望は煎じ詰めると、自我を維持保存し、拡大しようとする欲望と、逆に自我の枠を解き放って自我に掛かっている緊張を解き放ちたいという欲望の二つに分かれる。後者の欲望はまた追い詰めると、「超越」への欲望に近づいていくと言えます。
この欲望の現象学的な認識は時代性に拘束されない。
現在の私たちは、個人、あるいは実存たる個の原理性を奪われている。あるいは、その個とは非匿名の名前という商品のようにしか存在しえない。個が名前を持つということは、社会という形態の市場において交換可能な価値を得ることだ。それは、おそらく超越の欲望を買うための基本的な貨幣のような役割を持つ。
同時にそうした超越を買い取る社会という市場も解体されつつある。あからさまな非匿名あるいは名を貨幣的にするより、ネットを前提として個を解き放つ空間にエロスを見いだすようになる。つまり、私たちは「私」であることを棄てて無名のエロスを希求するようになっている。そうした相互の無名の使役と隷属が快感のパーツになっていく社会が出現している。これが私が考えるフェーズ4である。
フェーズ4を支えているのは、いわゆるネットの匿名性ではない。そんなものはちょっとネット技術を囓った人間ならありえないことがわかるだろう。というのはその匿名性の議論は常にフェーズ1的な国家権力の相関のなかにあるからだ。匿名性は、「私」の解体の超越的なエロス性のなかにある。
ではなにがその解体を進めたのか。私は理性の最終的な志向からだと考える。そして、私は理性が非個性の欲望の本源的なエンジンだと考える。
ここで議論が粗くなるのだが、竹田のカント理解を援用する(ただしこのカント理解は怪しい)。
カントの考え方をひとことで言うと、人間の理性は、必ず、「世界像」を作り上げ、また「全体性」とか「完全性」といった理念を作るような本性を持つということです。カントはここから彼にとって重要な問題を引き出します。つまり、人間がこの「全体性」や「完全性」という理念を持つことが、人間的な「自由」の根源だというのです。
この「自由」にエロスの臭いかぎ分けることは容易だろう。竹田はこれを現象学的にこうパラフレーズする。
つまり現象学的に考えれば、理性の能力が人間に「全体」や「完全」を求めさせるからというより、この世界を生きることが幻想的なゲームであるからこそ、人間はどうしても大きな自由を必要とするのだ、ということになります。目標のないゲームなど面白くも何ともないわけです。人間は言葉によって共通のルールを立て、このルールを複雑にすることで生というゲームに幻想的なエロス(面白さ)を付け加えているのです。
竹田はカントのいう理性の原則としての自由への希求を、個のエロスの条件として理解していく。
しかし、2点、そうではないだろう。カントのいう自由はそのままにエロスであり、むしろ超越のエロスだということ。もう一つは、この理性なりエロスなりが想定される個は、理性の運動とエロスの希求のなかに解体されること(完全は個において達成されない)。
こう言い換えるといい。我々は何かの経緯で、理性を完全とするために、あちら側に信頼し売り渡したのだ。およそ「私」という「個」が不可能である状況のなかで、エロスが最適化されるためには、私というこちら側の個があちら側に移転した。
そして当然ながら、あちら側に移された人類の理性は、個を失った人間にただエロスだけを授乳のように与えるのである。
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コメント
一山ナンボの有象無象はごった煮にしとけと。そういうことで。
投稿: モッサアアア | 2007.02.09 12:24
たしか日本のムラ社会には、乱交を容認する風習があったのでは?祭りの時とか。そこで好き勝手やって結果(笑)出して、出来るもんが出来たら諦めろ、みたいな。誰が誰の子なんだか分からない時は皆の子だと思え、みたいな。それがいい手法だとは思わないけど、そういうやり方で社会性に目覚めさせるっつうか。そんな古人の智恵を彷彿とさせますな。いやまったく。
投稿: モッサアアア | 2007.02.09 12:32
今日の花言葉は水仙ですか。
投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.02.09 15:14
「個」が奪われてるとは思いません。
「個」を解体することも出来ません。
それは、人間の奥深くに根付いているものであるし、表面上「個」を奪われたようであっても、自分自身の中で、「個」はいくらでも拡張を続けます。
「個」が本質から奪われるとしたら、名前を持つことを許されなくなり、番号か何かで呼ばれ、「個」であることに意味がなくなる時であると思います。
これだけははっきり言えます。
私は自分の「個」や「理性」がどこにも移されていない、と。
表面だけなら攫っていけるだろうけど、心の奥底に隠し持っている「個」は、誰も知りませんし、知りようもない。「エロス」も同じくです。
ネットでは匿名でブログを書いたり、掲示板でやり取りしていますが、そこにも私の「個」の一部がしっかり反映されている。
匿名ごときで「個」は消えませんし、解き放たれたりしません。
もちろん、自分が望めばいくらでも可能だろうけど。
そして、どんなルール社会であろうと、「個」の心の中まで変えることは出来ません。
欲望に支配されることもありません。欲望を解き放てば、それはどんどん拡張し、広がっていき、きりがなくなります。
そんなものを持てあますのはごめんだから、欲望による支配を受けるのは、鬱陶しいだけです。
以上は、私自身のことがほとんどですが。
この記事は、私から見れば、「???」が多すぎます。
簡単に言えば、「個」を支配、あるいは売り渡したり出来ても、「個」の中の「心」は、人に知られない限り、誰にも操作することは出来ません。
自分の中に、確固たる「個・心」があることを、はっきり感じます。
それは間違えようもなく、私だけのものです。
・・・・・やっぱり誤読?(汗)
投稿: みほ@もっさり | 2007.02.09 16:41
でも、超越のエロス、とかかっこいい!
投稿: | 2007.02.09 17:20
弁当オヤジvsもっさり姉ちゃんですか?
投稿: モッサアアア | 2007.02.09 17:35
>>みほ丼
ツッコみますね。ごめんなさいね。
>そして、どんなルール社会であろうと、「個」の心の中まで変えることは出来ません。
私のツッコミで心境に若干の変化があったのでは? 「変える」までには至らないかもしれませんけど。名が、何かを物語ろうとしておりますなあ。@の後ろは、何? そんで、変える? のきっかけであるところの「私(モッサアアア)」は、(あなたにとって)少なくとも「ブログという名のルール社会(笑)」の内でしか存在しませんよ? とか言って。
>欲望に支配されることもありません。欲望を解き放てば、それはどんどん拡張し、広がっていき、きりがなくなります。
それ即ち人生ですがな。きりの無いのが人生だから、面白くも恐ろしくもあるわけで。
>そんなものを持てあますのはごめんだから、欲望による支配を受けるのは、鬱陶しいだけです。
現在持て余しとりますがな。「自分ひとりの欲望ですら持て余しているのだから他者の介在を許す余地が無い」と解釈して宜しいですか?
話すは「放つ」ですから。何がしかの言葉を千切って投げた瞬間、投げただけの量が自分の中から何処かへ飛んでいくわけですし。
>「個」が奪われてるとは思いません。
>「個」を解体することも出来ません。
↑ここに関しては「別にいいじゃん? 奪われても解体されても私とか生きてるだけで超快復しちゃうから奪われてないのも同然だし解体されてないのも同然だョ?」くらいに割り切っちゃったほうがいいのでわ?
って、そういう割り切り方すると弁当おじちゃんの言い分に沿う形になるから、軽く「心奪われる」んですけどね。はっはっは。
いいんじゃないの? 欲しけりゃやるよ頃したければ氏ぬよ、くらいに割り切って、そっから何度でも復活すると吉だと思います。思うだけ。そういうのを「人生釣り頃釣られ頃」とでも言うんですかね?
よく分かりませんけど。いかがでしょう?
投稿: モッサアアア | 2007.02.09 18:47
生きるって素晴らしいですよね
投稿: モッサアアア | 2007.02.09 18:49
超えなくても、ほっとけば脱落してゆく哉。
投稿: 都市に棲む山姥 | 2007.02.09 19:30
>モッサアアアさん
つっこみ、ありがとうございます。勉強になります。
>>私のツッコミで心境に若干の変化があったのでは?
書き方がまずかったです。もちろん変化はありました。
ただ、心の有り様や、心底の部分は変わりません。
「人は変われるけど、本質は変わらない」といったところでしょうか。
「もっさり」は、正に自分にぴったりだと思ったので(笑)。
>>「私(モッサアアア)」は、(あなたにとって)少なくとも「ブログという名のルール社会(笑)」の内でしか存在しませんよ?
私の中には「ブログの中のモッサアアアさん」という「個」がちゃんと存在してます。ネット上では、私にとってモッサアアアさんはあなた一人です。そして、それを名乗ってる人間の「個」をちゃんと感じます。
まあ、名前変えちゃえば、分からなくなるけど。
それでもきっと「モッサアアアさん」らしき個性を放ってるはずです。
もちろん、私の知らない「モッサアアアさん」も存在してるでしょう。
ネット上の「モッサアアアさん」、名前を変えた「モッサアアアさん」、職場での、家族での、実生活での友人の、「モッサアアアさん」が。
>>それ即ち人生ですがな。きりの無いのが人生だから、面白くも恐ろしくもあるわけで。
物欲が強いので、きりがなくなると、つらくなるんです。
だから、欲望を自分で支配するほうが楽なんです。
それは巧く行ってるつもりですけど。
>>現在持て余しとりますがな。「自分ひとりの欲望ですら持て余しているのだから他者の介在を許す余地が無い」と解釈して宜しいですか?
いえ、これでも持て余してないほうなのです。以前に比べれば。
「他者の介在を許す余地がない」のは、また別の問題でして。
>>奪われても解体されても私とか生きてるだけで超快復しちゃうから奪われてないのも同然だし解体されてないのも同然だョ?」くらいに割り切っちゃったほうがいいのでわ?
はい、これは仰るとおりだと思います!
これ以後のお言葉、これも全くそのとおりで(^^;
「七転び八起き」で、何を奪われようと、されようと、何度でも復活しますわ(笑)。
投稿: みほ@もっさり | 2007.02.09 19:43
TekeTekeさんと同じように感じてしまう・・・
投稿: | 2007.02.09 19:50
なんか人ん地の庭で勝手に人生相談コーナー開設している件について
投稿: モッサアアア | 2007.02.09 20:05
申し訳ありませんでした。
投稿: みほ@恐縮 | 2007.02.09 20:59
しかし、「私」が「私」であるための「経験」は、ネットや「消費」が上位にある現在の中で確実に均質化しちゃってるよね。
何を感覚するにも外側が必要で、そしてそれは確かにみんな違う、けど視点は一緒。
適当にいうと本も都市も、そしてパソコンも身体の外部への拡張としてつくられたけど、ついに選択もGoogleとして外部化されちゃったから、個ってどうなるんでしょーね
ってことについての話じゃないの?
投稿: とおりすがり | 2007.02.09 21:15
エロスとかカントは難しいです。
よく意味がわからなかった人のために簡単な例を挙げたいと思います。
まず人間の体の細胞を想像してください。ある一つの学説では人間は昔はたった一つの細胞であった時期があったと言います。
例えばあなたの心臓の細胞をイメージします。心臓は絶えず人の体に血液を送り込む、一つの機能として働いています。しかし細かく見てみると、それは何億もの細胞からできています。そしてその一つ一つを単体で見ると時間に対して明らかに志向性を持って動いています。(細胞分裂したり、ランダムに動いたり)にもかかわらず「心臓」と言う大きな臓器を見ると、一つの細胞の「個」は全く意識されません。
人間の社会もこれをモデルに考えるとイメージしやすいですね。
人間を細胞に例えて考えをめぐらせて見てください。
ごくごく狭いレンジで考えると、「言葉」が生まれた瞬間から、人々の理性の統合は始まっています。
究極の理性を手に入れるために、言葉が生まれた。といっても言いすぎではないでしょう。(そしてそれは個性をなくす、ということと同じ意味です)
ただ、私はそれを「言葉」にも「ネット」にも限定はしません。
もう少しレイヤーを広げて考えてもいいかもしれませんが、
そんなことを考えすぎてもこの世で「変わった人」扱いされるので、お勧めしません。
ちょうど「ネット」の未来、などを考えているのが、この世で一番友達を作りやすいのです。
投稿: る | 2007.02.09 21:43
取り敢えず何度も読み返さないと自分には理解できない難しいエントリーだけど、モッサアアアさんに関して言えば、リアルに聡明で明るいボケ役の相方(女・多分アンカー)が出現するか手に入るかしない事には、2-3ヶ月に一度の遠距離「エロスの授乳」ではどうにもならん、緩慢な絶望みたいなものでジメジメが続くような気がする。
まぁ相方と嫁はんは別でも良いか。
男30前後は一番モテるらしいから、何も知らない地元女子高大生がちゃんと口説ければ長期戦略的には一番良いような気もする。
一人一人の飢餓感だけならば、ネットは満たすより煽るんじゃないかな?
新書「自爆テロリストの正体」を読んでそう思った。
投稿: トリル | 2007.02.09 21:51
最近文庫化されたドゥルーズ/ガタリのアンチ・オイディプスを読み返しているのですが、欲望が「消費の欲望」に無前提に結びつけられるのはそもそもドゥルーズ/ガタリ的な(=ポストモダン的)文脈では、無限低で多様な創造性を持つ欲望を貨幣によって量的に測定可能なものとして規定するのが資本主義というシステムであり、その規定自体が問題であるということのように思えます。おっしゃるように現実的には、貨幣の欲望に対する規定は意味をなさなくなりつつあるようにも思えますし、個が解体されているようにも思えますが私は「個」を人間に読み替えてしまいました。つまり失われたのは個ではなく古典的な概念としての「人間」であり、その人間によって超越性にたどりつくことはできなくなってしまったのだと。ドゥルーズ/ガタリ的に欲望が機械なのだとしたら、そもそもそれは個=人間に従属するものではなく、欲望の上に人間が被せられていたのだけれども超越性を希求するには(それを無限低の創造性への回帰ととらえるなら)被せられていたものを取っ払うことになるのかと。ただ現在引き起こされているのは、東浩紀のいうような動物化といった形での人間の解体だと思っています。
投稿: moonlighttree | 2007.02.09 22:11
ううむ・・・・。
>とおりすがりさん
>>しかし、「私」が「私」であるための「経験」は、ネットや「消費」が上位にある現在の中で確実に均質化しちゃってるよね。
何を感覚するにも外側が必要で、そしてそれは確かにみんな違う、けど視点は一緒。
それは、一部の人、あるいは大部分の人にとってはそうかもしれません。
でも、それらからはみ出している人も確かに存在してます。
>るさん
>>人間の社会もこれをモデルに考えるとイメージしやすいですね。
人間を細胞に例えて考えをめぐらせて見てください。
人間と細胞は違うと思うのだけど、それは置いておいて、と。
社会から見ると、人間の「個」は意識されない、という事でしょうか?
理論上どうであれ、現実に、私は他人に「個性」を感じてますし、それはネット上でもどこでも同じです。
人間の「個性」なしで、システムやルールを考えるのは不可能ではないでしょうか?
もし可能なら、それはとんでもないシステムやルールになることでしょう。
・・・・もしかしたら、この記事やコメントされてる皆さんが言うところの「個」と、私が考えてる「個」は、別物なのでしょうか。
それなら納得いくんだけど。
鈍な頭で考えてたら、余計に鈍になったようだ。
投稿: みほ@もっさり | 2007.02.09 22:15
あれじゃない、男と女の差
女な生の連続の中で特別な個を想定できるけど男は他者とか外部との間でしか想定できない
あぁ、不安定
だから、残そうとする。変化の因子を
投稿: とおりすがり | 2007.02.10 01:26
外人さんなら誰でもいい。じゃなかったら聡明日本人で妥協。
投稿: モッサアアア | 2007.02.10 01:36
みほさんのおっしゃる「個」の定義は、私の思っている「個」の定義と同じです。
ただ視点がちがうので、話している内容に相違があるようです。
みほさんのおっしゃっている「個」というものがあります。それは志向性をもっています(近似で個性とい言い換えることもできます)
例えばイメージとして先ほどの細胞を例えに出させてください。
細胞は一つ一つが志向性があって、自由度があるにもかかわらず、それ単体では機能しません。
それが集合することによって一つの臓器として機能します。
しかし、ただ集まっただけでは臓器にはならないです。臓器になるには志向性が必要です。
たとえば
細胞+(個々の志向性)→ 臓器
という具合にです。
それを人間に当てはめると
人間+(個々の志向性) → 社会
となります。
この志向性の中で「言葉」を一つ例に上げます。
先ほど言葉は「究極の理性を手に入れつつ個性をなくす」物だといいました。
それが言葉が生まれた理由だからです。
二人の人がいました。Aさんはみかんが好きでみかんしか食べたことがありません。Bさんは納豆が大好きです。
で、BさんはAさんに「納豆はめっちゃうまいから食べな」と言います。
Aさんは「そんなおいしいのか、じゃあ今度食べてみよ。」と思います。
ここで一つの変化がおきました。
最初は
A「みかんおいしい」、B「納豆おいしい」
だったのが
会話の後は
A「みかんおいしいし納豆もおいしい」、 B「納豆おいしい」
に変わっています。AさんとBさんに共通項ができました。こんな風に一見個性のぶつかり合いの様に見えて、実はどんどん人間の個性をなくしていくもの、それが言葉です。
ネットに限らず、言葉にも限らず、社会は個々が志向性を持ち自由度があるにもかかわらず、一つの究極の理性に向かって進んでいくもの、何ではないかと思いました。
投稿: う | 2007.02.10 03:09
皆していい歳こいたもっさり生命体をいじっている件について
投稿: モッサアアア | 2007.02.10 03:17
無責任ついでに正直言うと、モッサアアアさん自身は体力無さそうだから外人正室は止めといた方が良いと思うよ。
砂漠よりも人混みで孤独を感じるという事があって、だったら変な期待せず最初からそれで良いという選択戦略だと思うけど、乗り越える前に潰れる。一人で抱え込むのとは異なる大きな魂の孤独・叫びに襲われて、もう失踪したくなっちゃうよ。
まぁ、もう20年ほども歳を取ってしまえば失踪する気さえ失せてしまうだろうけど、ソコまで待つ気はないでしょ?50歳で30歳年下の綺麗な子を貰うとか(笑)
そんな絵が拡がったよ。
ところで「個」というけど、そういう概念が生まれたのは人類の長い歴史上ではごく最近らしいですね、というか随分特異なケースと捉えた方がよさげという見解もあるみたいですね。
確かに持て余し気味でウザく感じる局面は多いすね。
投稿: トリル | 2007.02.10 03:28
・欲望を支配するルールに支配される
・全体にとっての完全性とは何か、むしろ目的がわからないからよいのか
・個であることの快感を忘れていないか
・幼年期の終わりを読め
投稿: | 2007.02.10 06:40
>モッサアアアさん
「いい歳こいた」を言わないでー!
ホントのことだけど言わないでー!(汗)
バレるやん、いい歳こいたアホなおばはんて(涙)
投稿: みほ@もっさり | 2007.02.10 07:50
みんな、
クダクダ言ってないで、
俺の心配しろ。
投稿: 野茂 | 2007.02.10 08:00
自分サイトで正直にプロフィール曝しといて今更何言うてますのん?
投稿: モッサアアア | 2007.02.10 10:06
>モッサアアアさん
よそ様のブログでバラされたあないわい!!
>野茂さん
大丈夫、うちの旦那が心配してますから、野茂英雄さんのことなら。
>コメントくださった方々
ありがとうございます。出来る限りよく読んで、考えてみました。
でも、やはり納得できず。
多分、私の思考に柔軟性がないためと思われます。
頑張って、柔軟性をつけるよう、努力します。
投稿: みほ@もっさり | 2007.02.10 10:43
なんか5週ぐらい遅れてる感じ。
社会システムを語るならせめてルーマンぐらいは参照してほしかった。
投稿: | 2007.02.10 13:12
>よそ様のブログでバラされたあないわい!!
あ、元気出た。良かったね。
投稿: モッサアアア | 2007.02.10 19:29
内容がとても興味深かったです
そもそも完全は可変的な変数のように思います
投稿: mame | 2007.02.11 16:05
メルヴィルの『ピエール』とか。
投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.02.13 17:51
《ところが、最近では、大きな権力ということは推定できなくなった》って本当かなぁ??
投稿: h-nishinomaru | 2007.04.30 13:08