[書評]〈つまずき〉のなかの哲学(山内志朗)
以前は人に勧められた本をよく読んだし、そうしたことで自分の視野の狭さを知るきっかけとなったものだが、いつからかそういうことが減ってきた。本書「〈つまずき〉のなかの哲学」(参照)は、久しぶりにそうした契機で読んだものだ。一読して、なるほどな、私に勧めたくなる本だな、ということがよくわかった(ありがとう)。「私」とは何か、人生とは何か、そういうものに私は今四十九歳までぶつかり続けた。これからもそうだろうが。
![]() 〈つまずき〉のなかの哲学 山内志朗 |
本書は率直に言うと私には読みにくい本だった。理由は私にある。私が思考の柔軟性を失いつつあり、哲学書に対してまず哲学史的な特定の枠組みを求めてしまうことと、また、本書で多く言及されているヴィトゲンシュタインについて顕著なのだが、かなり類似した見解を持ちつつも異なるがゆえに、そうした部分について、あちこち留保して読むことになるからだ。その留保作業は朱註ではないが鉛筆で書き入れつつ読み進めた。とはいえ、私の読解力が弱いのか、あるいは少し批判めいた評価になるのかもしれないのだが、読後、留保部分を再考すると本書の本筋にはそれほど関連していないようにも思えた。
そういう私の読みに自信はない。ウィキペディアの山内志朗の項目(参照)を見ると、「彼の講義の聴講者は必然的に人文学部の学生が多いが、彼の講義は学生の興味関心を引くものが多く、口コミなどで知る者もおり、彼の話を聞きたい為に他学部の学生も多く集まることで知られている。」とあり、むしろこうした叙述のスタイルは、現代の若い人にフィットしているのかもしれない。
本書の前半、筆者が「謎」とする部分には私は基本的な共感を持って読み進めた。文献学的な部分を除けばひっかかりはない。その分、軽い大衆向け哲学入門書かなと思っていたが、後半の「つまづき」とする部分は、知的なチャレンジを受けた。私は自身の哲学的な考えを系統立って開陳したことはないが、関心領域はほぼ重なるように思えた(ちなみに私なりの結論を先に言うと、山内が「私性」を欲望の契機としているのに対して、私は欲望は匿名性のいわば暴虐なエネルギーであり「非私性」を志向し、現代科学はそれを解放してしまうというふうに現代性の危機としてとらえている)。
山内の視点で一番チャレンジングだったのは、「ハビトゥス」という考え方だ。彼はこれを日本語的に言えば「立居振舞」だとする。そして「私」というものを「ハビトゥス」として捉えていく。強調部分は同書のママ。
「私」ということは、もしそれを霊的な実体として捉えたいのであれば話は別だが、ハビトゥスであると言い得るであろう。反復学習によって沈殿し、表に現れ続けているもの、人となりとしてそこに常に現前化し、現実化しているもの、〈体〉によって覆われ隠されている「私」ではなくて、肉体を座としてそこに現在化し、安定した行動の「型」のなかで、穏やかな同一性を保ち続け、反復されるものが「私」であるとすれば、それが「ハビトゥス」の一種であることは当然であろう。ヤマウチは「私」とは、精神でも肉体でも脳でも関係でもなく、「ハビトゥス」であると考えたい。
ここで「私」とは、精神・肉体・脳・関係といったものから否定される。が、その総合故に否定されると読んでもよいだろう。私の誤読の可能性はあるが、身体行為において他者との関係性におかれる主体を救出したいがための措定ではないかと思えた。つまり、この措定には極めて倫理的な要請があるのだろう、と。
現実問題として恋愛関係や夫婦関係、職場の関係などにおける、「私」と「他者」はこのような「ハビトゥス」(立居振舞)の相互的な了解(予測)の上にのみ成り立っていると言えるだろう。
ここに本書の優れた点が同時に見られる。起点において倫理性を問うている姿勢だ。特に、若い時代の悩み・躓きといったものを現実において人は抱えて生きなくてならないのだから、そのような存在を、取り敢えずという言い方は拙いが、前提的に肯定する倫理の光が求められる。極めて倫理的な人間哲学であるとも言えるだろう。
このような肯定の措定は現代哲学的にはやや拙いものでもあるかとも思う。が、実際的であるし、まさに現代は倫理が問われる、という問題性をうまく浮かび上がらせる意味で、山内の考え方は極めてポスト・ポストモダンかもしれない。
私の知的な関心としては、「ハビトゥス」という考えの起源が山内の独自の思索にのみ帰着するのかそれとも別の哲学史の根を持っているのか気になり、雑駁にサーチしてみた。どうやらこれは「天使の記号学」(参照)で提起され、スコラ哲学中でもヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(参照)における「存在」と「本質」の生成によっているらしい。同書を私が吟味していないのだが、この生成の概念は私の読書圏ではイスラム神学に類縁のユダヤ哲学に近いのではないだろうか。
話を本書の実践的な流れに戻すと、そのような立居振舞としてのハビトゥスとして「私」が捉えられるなら、その「私」の人生の意味とは、山内が言うように「目的は後から徐々に付け加わる」ということになる。これは確かに若い人にとっては、簡明な希望になるだろう。摸索や躓きの過程において「私」のハビトゥスが明確になることは、まさに「私」の人生の目的でもあるわけだからだ。そして、さらにこのハビトゥスの延長により肯定的にかつ実際的に「希望」が打ち立てられる可能性も確保する。
蛇足だが、山内のハビトゥス論の流れにおいて私の考えの差異を少し述べてみたい。批判というわけではなく、私はほぼ同じ枠組みでこう考えるということだ。
まず山内のハビトゥス論だが、彼はこれを存在と本質の生成として捉えながらも、欲望論との関係においてジラール的な他者論に接合する。強調部ママ。
ハビトゥスとしての「私」を実質的に構成するのは、「私」が無から構築されたものではなく、他者から移入したものだ。それは隠蔽されなければならない。フロイトが、無意識について、抑圧され、隠蔽され、顕在意識に昇り得ないようになったものだけをそう呼んだように、意識にとって隠されたままであり続けるものが、「無意識」と呼ばれ、意識を突き動かす原動力となり得たのと同じように、〈謎〉として隠れ続けるものだけが、「私」の核となり得る。
ジラールの三角図式とユンクの悪の個性化を合わせたような思想に私には受け取れるし、それゆえに否定されえない説得力もあるのだが、私はそうした「私」への暴力的とも言える個性化への情動は、「私」の核ではなく、個性化の契機としてしてのみ存在すると私は考える(森有正の言う「内的な促し」に近い)。むしろ、人の生き様に現れるハビトゥスは、ジラール流の他者でなく、本居宣長が考えたように、言葉の姿に人の情動を整えていくところにあると私は考える。山内の思索では、本書が簡明叙述するという当たり前の限界性もあるのだろうが、言葉=民族語の歴史が、人の人生の振る舞いから経験の意味性(荻生徂徠の言う「道」)を開示していくあり方を明らかにしていない。あるいは、人と民族語の歴史という課題は、本書の延長にまったく新しく切り開かれるのかもしれない。
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コメント
「言葉の姿に人」の身と心をあわせる作法として、共同体の中の言語はできてきたと考えていたのですが、
小林秀雄の「本居宣長」を引継ぐような言葉についての言葉は、あったのか、あるいはあきらめるというふるまいの中であきらかにしておくものか。
書かれたものを前にすると、踏み迷いがふと生じる性があり、ここから
うまく書けませんが。
投稿: 都市に棲む山姥 | 2007.02.18 21:57
ハビトゥスと言えば、フランスではBourdieuのHabitus、、、
投稿: ずっこ | 2007.02.19 06:38
ハビトゥスが分からなかったんですが、もともとのhabitus、フラ語ですか。しつけられた、住み慣れたありさま的な言葉なんですね。
「たたずまい」を思い出しましたが、動く姿でもありますね。
投稿: 山姥 | 2007.02.19 11:17
職場で腰の低い人の家に用事があって電話したら、家庭内では暴君らしく、リビングにあるらしい電話口で、対応が支離滅裂だったのに笑ったことがある。
世間的には逆に、職場で偉い人が家庭で居場所が無かったりする事の方が多いみたいな気もするね。
同じ人物でも、場所が変われば立ち居振る舞いは変わって、面白いよね。
投稿: トリル | 2007.02.19 20:39
あたしゃ基本的に何処行っても同じだよ。
やんないと思ったら大間違い。やるよ。
やると思ったら大間違い。やんないよ。
そんな感じ。
投稿: 名無しさん | 2007.02.20 00:05
山内さんの提起するものは、酷く端的に「誇り」という言い方もできるのか? 未見の為、ここで何か言うのはフェアではないのでしょうが、何か終風先生のお考えと比較すると、(媒体を問わず)ハードボイルド史を推考するような心地。
投稿: 夢応の鯉魚 | 2007.02.26 14:34