世界と「私」はどのような関係にあるのか。その関係はどのように変遷し、今、どう変わろうとしているのか、といった、青臭いネタを書く。話を簡素にするために、叩き台的に哲学者竹田青嗣「『自分』を生きるための思想入門」(参照)を使うが、話の本筋は竹田の議論にそれほど依存しなくてもいい。ただ、その場合は議論が煩瑣になるというくらいだろうと思う。
同書については、ちょっと哲学志向のある高校生や大学生は読んでおくとその後人生が楽になるかもしれない。哲学プロパーな人は些細な点でいろいろひっかかえって途中で放り投げてしまうかもしれない。竹田の著作史的には、初期の現象学とこの時期特有の橋爪大三郎との交流の影響がある。それでも本書の大枠は比較的近著「人間的自由の条件―ヘーゲルとポストモダン思想」(
参照)までの射程を持っている。というか、むしろ先の本書のほうが竹田思想のコアが見やすい。
まず古典的な世界象は未だ国会の馬鹿騒ぎや各種のブログなどもよく見られるが、次のようなものだ。仮にフェーズ1としておく。
ひと昔前多くの人が抱いていた社会像は、大きな権力がまずあって、その権力が一般の民衆を支配し抑圧している、というものでした。民衆はそれぞれの生活の欲望を持っているけれど、この民衆の生活の欲望を、大きな権力が抑圧し、支配しているという図式が基本的にあったわけです。
したがって、このときには、この大権力をどうすればひっくり返すことができるかということが思想の中心問題だった。マルクス主義は基本的にこういう問題の立て方をして、それなりの支持を得ていたわけです。
ところが、最近では、大きな権力ということは推定できなくなった。たとえば、かつての強力な天皇制権力といったものは今では見当たらないし、日本の政治権力がさほど強力な一枚岩ではないことは誰でも知っています。諸悪の根源としての大権力があってそれを倒せばいいという図式は、人々の生活実感からひどくかけ離れたものにならざるをえない。するとマルクス主義の図式では、現代社会を批判したり、攻撃する目標が成り立たないのです。
本書が書かれた十五年前に比べれば、そうした世界認識はごくあたりまえのことではあるが、それでも、日本社会には歯止めのない恣意的な検察正義が存在したり、この古典的な洒落にもならない「諸悪の根源」をかき立てるレトロな人々がいる。露骨な大衆扇動でもなければこんなバックラッシュは捨て置いていいだろう。
これに対して「社会システム」論が登場する。これをフェーズ2としよう。
日本に輸入されたポスト・モダンの「社会システム」の考え方は、要するに、新しい批判の「目標」を設定する理論として受け入れられたわけです。
つまり、今や批判の対象は目に見える大権力ではなく、高度消費社会という「社会システム」そのものだ、ということになります。(中略)ある権力という中心があって、それがピラミッド的に人々のさまざまな欲望を支配しようとしてるのではなく、むしろ民衆の欲望そのものがルールの網の目を通して延び広がっていって、全体として大きなシステムを作っているととらえるのです。
網の目がネットワークと同義であることに留意したい。さて、社会システムにおいて権力とは、「欲望の網の目の流れの中の要所要所」に作られ、多様な欲望を調整する機能を持つとされる。これがフェーズ2の特徴でもある。
この「社会システム」の考え方では、個々の人間の欲望とシステムを支える小さな権力は「互いに支え合っている」ことになります。システムは人々の欲望(消費欲望)をうまくあやつって決して不満が出ないようにシステムに加担させている、ということになるわけです。
ここで、竹田は(あるいは竹田と限らず)、欲望が「消費の欲望」に無前提に結びつけれている。ここに現代人はある違和感を感じるかもしれない。なぜなら、ネット社会おける欲望はそのような形態から逸脱しつつあり、しかもその逸脱性がシステムによるカネの統制に結びつかないからだ。
では、なぜこのポストモダン的な世界論において、欲望が「消費の欲望」に無前提に結び付けられたのか。私はこう考える。つまり、「社会システム」の考えは、高度消費社会、つまり、高度資本主義批判という構図を取りたいからだ。その意味で、フェーズ2の大枠にあるのは、リヴァイズドなマルクス主義そのものであるし、実際にこの議論はうっすらとした社会主義的な倫理の脅迫性を伴っている。
さらに言えば、生産性として議論されているネタは、実は高度資本主義社会においては、それが消費によって逆に規定されていることにも、現代の視点では気づくことができるだろう。生産性向上といった議論は現実には消費の関数に過ぎない。では、「消費とは、欲望とは何か」というとき、その消費される対象は物ではなく、使役快楽としてのサービスになっている。ネタとして言えば、おそらく経済学の根幹に誤りがあるのだろう。一個のリンゴの価値は、もやは、それを取るための労働に依存するのではなく、美少女が取りに行くか、オッサンが取りに行くか、機械で採集するか、の差異である。
竹田の議論の時代ではまだ社会システムの考えが意味を持っていた。しかし、現時点では、単純に言えば、このフェーズ2もフェーズ1同様、すでにナンセンスだとしていいだろう。では、何が現代の意識を変えているのか。あるいは、欲望の方向性を変えているのか。
竹田は社会システム論を批判し、これに対して「ルール社会」を提起する。あるいは、人と社会の根源的な関わりはルールだとする。
欲望論の考え方では、社会とはいつのまにか人間が作ったルールの体系です。このルールを変える力は人間の集合的な「エロス原理」です。どんな社会制度も、この欲望の本性と原理を変えることはできません。資本制そのものがルールを作っているという考え方はあの抑圧感や不全感を説明するための”神話”にすぎません。
そもそも資本制は、人間の欲望の本性が経済的な領域で表現されたものであって、資本制は欲望の形を変えますが、欲望の本性を作るのではありません。ほんとうはその逆で、欲望の本性が資本制を作り出しているのです。
ではルール社会はどのような世界象を描くのだろうか。
その理想像の要件を彼はこうまとめる。ここから描けるルール社会論がフェーズ3だとしよう。
これを実現するために考えられる前提は、まず、すべての人間があらゆるルールの下に対等であること、次に、ルールを変更するルール(またはこれを変更するルール……)に対してやはりすべての人間が対等な権利を持っていることです。社会が、「エロス原理」に基づくゲームであるとすると、このことが、社会とルールの関係において目指されるべき唯一の公準なのです。
近代国家(社会)がこの公準をなかなか実現できない根本の理由は、国家間対立による国家権力の集中という要請によります。
このあたりは現在の竹田思想に繋がってくるのだが、こうしたルール社会は可能なのだろうか。その障害は国家権力なのだろうか。もちろんそれは明確にあるし、それ以上の極めて困難な問題の萌芽もある。
私は、このルール社会、フェーズ3の可能性は、歴史段階の可能性としてもう終わっているのではないかと考える。理由は単純だ。竹田のいうエロス原理は「集合的」な特質に拘束されているのだが、現在、個がエロス原理から隔絶するほどに抑圧されていくと見るからだ。現在において個人はその非匿名性によって売買される商品のような存在ではありえても、エロスの単位とはなりえない。
この辺りの議論は、もう少し丹念にすべきなのだが端折る。
我々は、個人としてのスタンスでその人生の目的たるエロスを開花することはもはやできない。ネタ的に言うと、非モテは美少女を欲望することなく、ヤラせてくれそうな評価の経済学に嵌って行動するしかない。そしてそのエロスはその個人であることの特性を越えて幻想に辿り着く他はない。
ここで新しい世界像を得るために、人間の欲望というものの基本像を竹田から借りてみる。
つまりわたしの言いたいことは、日常の愉しみは美やロマンを消費する愉しみですが、同じ美やロマンを味わう欲望でも、恋愛の場合は日常という境界線を越えて出て「超越」へ踏み出すような性格を持つということです。
人間の欲望は煎じ詰めると、自我を維持保存し、拡大しようとする欲望と、逆に自我の枠を解き放って自我に掛かっている緊張を解き放ちたいという欲望の二つに分かれる。後者の欲望はまた追い詰めると、「超越」への欲望に近づいていくと言えます。
この欲望の現象学的な認識は時代性に拘束されない。
現在の私たちは、個人、あるいは実存たる個の原理性を奪われている。あるいは、その個とは非匿名の名前という商品のようにしか存在しえない。個が名前を持つということは、社会という形態の市場において交換可能な価値を得ることだ。それは、おそらく超越の欲望を買うための基本的な貨幣のような役割を持つ。
同時にそうした超越を買い取る社会という市場も解体されつつある。あからさまな非匿名あるいは名を貨幣的にするより、ネットを前提として個を解き放つ空間にエロスを見いだすようになる。つまり、私たちは「私」であることを棄てて無名のエロスを希求するようになっている。そうした相互の無名の使役と隷属が快感のパーツになっていく社会が出現している。これが私が考えるフェーズ4である。
フェーズ4を支えているのは、いわゆるネットの匿名性ではない。そんなものはちょっとネット技術を囓った人間ならありえないことがわかるだろう。というのはその匿名性の議論は常にフェーズ1的な国家権力の相関のなかにあるからだ。匿名性は、「私」の解体の超越的なエロス性のなかにある。
ではなにがその解体を進めたのか。私は理性の最終的な志向からだと考える。そして、私は理性が非個性の欲望の本源的なエンジンだと考える。
ここで議論が粗くなるのだが、竹田のカント理解を援用する(ただしこのカント理解は怪しい)。
カントの考え方をひとことで言うと、人間の理性は、必ず、「世界像」を作り上げ、また「全体性」とか「完全性」といった理念を作るような本性を持つということです。カントはここから彼にとって重要な問題を引き出します。つまり、人間がこの「全体性」や「完全性」という理念を持つことが、人間的な「自由」の根源だというのです。
この「自由」にエロスの臭いかぎ分けることは容易だろう。竹田はこれを現象学的にこうパラフレーズする。
つまり現象学的に考えれば、理性の能力が人間に「全体」や「完全」を求めさせるからというより、この世界を生きることが幻想的なゲームであるからこそ、人間はどうしても大きな自由を必要とするのだ、ということになります。目標のないゲームなど面白くも何ともないわけです。人間は言葉によって共通のルールを立て、このルールを複雑にすることで生というゲームに幻想的なエロス(面白さ)を付け加えているのです。
竹田はカントのいう理性の原則としての自由への希求を、個のエロスの条件として理解していく。
しかし、2点、そうではないだろう。カントのいう自由はそのままにエロスであり、むしろ超越のエロスだということ。もう一つは、この理性なりエロスなりが想定される個は、理性の運動とエロスの希求のなかに解体されること(完全は個において達成されない)。
こう言い換えるといい。我々は何かの経緯で、理性を完全とするために、あちら側に信頼し売り渡したのだ。およそ「私」という「個」が不可能である状況のなかで、エロスが最適化されるためには、私というこちら側の個があちら側に移転した。
そして当然ながら、あちら側に移された人類の理性は、個を失った人間にただエロスだけを授乳のように与えるのである。