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2007.02.28

[書評]ぶってよ、マゼット 47歳の音大生日記(池田理代子)

 先日なにげなく見たテレビで池田理代子の対談をやっていた。見るつもりもなかったのだが、あまりの面白さに見てしまった。話は四十歳を過ぎての更年期のことと四七で結婚した旦那とののろけみたいなことなのだが、そういえば彼女、結婚生活一二年かと思った。たしか、私よりちょうど一〇歳年上だったはずだと確認するとそうだ(参照)。

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ぶってよ、マゼット
47歳の音大生日記
 そのあたりが気になって、彼女が四七歳で音大生になった時代のエッセイ「ぶってよ、マゼット 47歳の音大生日記」(参照)を読んだのだが、これがもうめっちゃくちゃ面白かった。面白い上に、ちょうど私は今四九歳なのだが、この年代の人間が思い感じるであろう心のありかたが痛いほどわかる。読書というのはこういう面白さもあるものだなと思う。私も学生を長いことしたしちょっとやり直しもしたりしたが、さすがにこの歳になるとやり直せない感はあるし、やるとして青年期の学問ではないだろう……といった夢想がわくが、気力はない。でも……夢はあるか。池田のこのエッセイを読むと夢に呼びかけられるような気持ちになる。
 エッセイはまさに彼女の音大入学から卒業までの期間を描いているのだが、その間に彼女の結婚が入る。結婚のいきさつについてはこの本にはあまり書かれていないが、新婚が同時進行しているようすも面白い。というか、四七歳の恋というものもよく描かれていて、ある意味で、これもまた恋の物語でもある。旦那もすてきな人だ。はてな日記などでよくオタクの非モテが議論されるがこれはよい参考書になると思うよ。

 この人を失ったら、もうこれ以上の相手は現れることがないのではないか、その相手なしには、自分はとうていその先生きていけないのではないか、という怖れに、人はしばしば正常な判断力を見失う。
 事実失ってみれば、それでも結構人は生きていくものだし、運がよければ前以上の相手に巡り合う可能性も十分にあるというのが人生だ。
 だいたい恋や愛のために死ぬのは、性欲が旺盛で思慮の足りない若いうちか、人生の残りの時間や可能性の少なくなった老年が圧倒的である(統計を取ったわけではないから、そのような印象がある、と言ったほうがいいかもしれない)。

 括弧内は編集メモに応答かな。さらっと書いてあるし、生きていればいいこともあるわよ的にも読まれるが、なかなか。これはいっぺん死にかけてみないと言えない部分もあるしそうしてみて初めて彼女のような中年の恋もあるのかもしれない……と思うが、そういう思いは読み手が勝手に思うだけ。
cover
47歳の音大生日記
(文庫版)
 本書の面白さのもう一つの確実な側面は、まさに音大生の日記という点だ。音楽家、声楽家がどのように勉強していくのかというプロセスがわかることで、いま以上にクラッシックが楽しくなる。あるいはまわりにクラッシックやオペラ好きの人がいるなら、そういう人たちの思いがよく理解できるようになる。
 こういう変化も歳と少し関係あるのかもしれない。私は若いころロマン派が嫌いだったが、今では好きだ。ブラームスなんてなにがいいのだろうと思ったけど、いいのかもしれないと思うようになった。オペラなんてアホかとも思ったが、なにげなく聞いている。
 池田はまさに団塊世代のクイーンだし、その生き方はそのまま団塊世代に受け入れられたりもするのだろう。そのあたりの浮かれた感じは一巡下の世代の私などには相当に抵抗感がある。あるにはあるというべきか。でも、ここまで突き抜けた人生というか、中年以降の生き方というのは、明らかに戦後日本というものの正しさというか豊かな成果なのだろうなと思う。ま、理屈はどうでもよくて、五〇過ぎても楽しく生きられる、そう生きている人を見るというのはよいものだ。

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2007.02.27

恋という映像

 たまたまNHKで、三回シリーズで終わりなのだろうと思うのだが、「ドキュメント”恋”」というのを見た(参照)。世界の街の市井の人の恋愛を描いたドキュメントということなのだが、映像には奇妙な感触があり、心に不思議な印象を残す。ネットには何か情報があるかと思って探してみたのだが、当のNHKですらあまり情報がない。なぜだろ。


ドキュメント“恋” ~男と女 一週間の真実の物語~<全3回>
登場するのは男と女。世界各地の街角で出会った、今恋のさなかの市井の2人です。取材期間は一週間、2人それぞれにカメラは密着。現在進行で繰り広げられる男と女の物語を綴り、恋の本質に迫っていきます。

第1回 パリ 2月12日(月)午後10時~
第2回 上海 2月19日(月)午後10時~
第3回 ブエノスアイレス 2月26日(月)午後10時~


 三回分を連続するとちょっとした映画になるかと思う。パリ、上海、ブエノスアイレスの三つの街である程度普通な人の普通っぽい恋の一週間を描いているのだが、特にストーリーというものはない。その映像の感触がなんとも興味深く、恋の関係の中をうまく覗かせてくれるという意味では、ちょっとスケベな趣味でもあるのだが、奇妙な陰影がある。うまく表現できるといいのだが難しい。恋というのは語るに難しい。
 第一回目には「アニーとヤンの場合」という副題がついていた。二回目、三回目の副題は忘れた。副題はなかったかもしれない。
 パリ編では、男がヤン。最初もしかしてと思ったがチャイニーズではない。二二歳。美容師で六年のキャリアを持つというから日本で言えば中卒たたき上げだろう。番組では彼が支店長を任されるにあたり、その評判を得るためのヘアカットのショーをするというイベントがある。そのイベントが多少映像に物語的な要素を与えていた。
 アニーはリヨン出身の二二歳。映像編集者ということで自室でプレミアみたいので何か編集しているようだが、それだけでは食っていけず、街頭のビラ配りなどもしているとのこと。冬の寒さは身に応えるとも言っていたあたりに若さへの親近感がある。ヤンとの出会いはヘアーカット・ショーのモデルとして知り合ったということで、モデルもバイト仕事のようだ。確かにモデルという風貌ではあったが、映像中、パリ街頭の物売りの中年男が彼女に外国人かと聞き彼女はパリジャンと答えていたのだが、あのシーンはなんだったのだろう。パリの人からはリヨンの人が異人のように感じられるのだろうか。
 二人は同棲していない。どちらも一人暮らし。アニーのほうは一年前に一年間ほど同棲していた男がいたらしく、そんな話を彼女の友人としているシーンがあった。いずれにせよ彼女も高卒くらいなのだろう。以前の男と別れた理由は亭主関白面していやだったということのようだった。そういえば、今の男ヤンもアニーは家事をしないので、それだと夫婦生活は難しいかもといったふうなことをぼそっと言っていた。
 二人の関係はどうか。印象というのはいろいろあるだろうが私の見た印象では、これはダメだろうな。男がたたき上げで、また職の関係から若い女に事欠かないふうでもあるのでそのあたりから無理が出そうだ。
 女は、男が親族に紹介をしてくれないとぼやいていたが、結婚対象として見られてないという不満の表明ではなかったか。
 スケベ心としては一週間の生活で、どのタイミングでどんなふうにおセックスをするのかワクテカだったのだが、この回では最終日、ショーの後の晩という感じだった。その翌朝ベッドの二人をカメラが捉えるのだが、ベッドのなかの二人はTシャツを着ていた。まあ、それはそれでいいでしょ。
 二人の一週間は街で数時間くらい会ったり離れたりという感じで、そう恋人同士で過ごす時間があるわけでもない。そういえば冒頭アンが携帯メールを受け取っていたのが印象的だった。というのも私は携帯電話というの恋愛がどう結びつくのかわからない世代の一人だ。
 二人はパリという街の風景にもよく溶け込んでいたし、よくキスばっかやってんなとか私なんぞも自身の若いころを忘れて見ていた。二人は会食後その場で別れるのだが、その背の姿がいかにも西洋人らしく未練という情感はなかった。
 現代人には別れ際の未練のような情感はないのかと思ったが、第二回上海編の女にはそうした情感があった。未練というのはアジア的な恋愛の情感なのだろうか。
 上海編は、四川省出身の、コズメティック・アーティストというのだろうか、化粧直し専門の女性が出てくる。名前は忘れた。二七歳だったと思う。彼女が上海で一人暮らしていると、そこに天津から男がやってきて一週間滞在するという。男は三七歳。けっこう歳だがなかなかの若作りでそう老けた感じはない。二人は上海で知り合ったらしいが、男の仕事の都合で天津にいるという設定だった。上海での一週間は男がそこで新しい仕事を得られないか探すという展開だった。
 この二人の関係がよくわからない。女の二七というのもけっこうな歳のようでもあるが、中国の、晩婚を進める政策とも関係があるのだろうか。どうして四川から上海に出られたのだろうか。言葉の違和感はなかったのだろうか。こうしたことが一切わからない。男のほうはさらにわからない。大学は出ていて、いい職にも就いていたらしい。いい車も乗り回しているのだが、これは女のものなのだろうか。話の展開で、どこかの支店長になれるかという面接があるのだが、ヘッドハンティングによるビッグビジネスの機会を狙っているようでもある。
 上海編では女はよくすねていた。男に辛辣な言葉もかけた。上海というこもあってか、なにかと食べるシーンが出てくるのだが、煮詰まった若夫婦みたいな雰囲気だ。この二人の関係はどうなんだろう。一番気になったのは、女がすねてカードを全部を遣ってやるとか言うシーンだ。あれは男が女にカードを持たせていたということなのだろうか。というあたりで、華僑にありがちな現地妻ということなのだろうかとも思ったが、よくわからない。ワクテカのおセックスシーンを連想させるものは露骨にはないのだが、こりゃ今週は四回くらいやりましたね感はあった。
 まったくどうでもいいことなのだが、私は若いころある種の中国人女性にもてるかもしれないとなんとなく思ったことがあった。まあ、もてたというほどではないのだが、どうも若い頃は彼女らのある好みのタイプの相貌だったのかもしれない。いずれにせよ、私は中国人女性と結婚したらどうだっただろうと想像してみたのだが、まるでわからなかったし、想像することすら怖かった。中国人といってもいろいろあるので一概には言えないのだが、どうも日本人から中国人を見ていると何かもっとも基本的なことが理解できない。そのなかで国際結婚している人はどうしているのだろうか。余談に逸れすぎ。
 上海編の二人はうまく行くだろうか。私の印象ではダメだと思う。では別れていくだろうかと考えて、それもよくわからない。
 ブエノスアイレス編は、冒頭いきなりプール。しかも水着で乳繰り合うシーンが出てきた。シティホテルというのかホテルでゆったりと恋の時間を過ごすという一週間の始まりである。おおっ最終回はそうきたかとワクテカだったが、そうではない。というのも、男は二十歳。サルサダンサー。女は三十歳カメラマン。スタイルはかなりものだが、夏場で肌を露出するシーンが多く、肌のシミは中年女らしさを露骨に出している。
 いずれにせよ、その歳差でうまく行くのかよと、誰だって思うし、女の家で女とその母親と二人きりで食事するシーンがあるのだが、母親からの、あんたたちがうまく行くわけじゃないのという感じの会話がじとーっと暗く進展していた。前の十五歳上の男のほうがわたしゃよかったね、とも。暗すぎる。母親は金髪に近いが、娘の毛は黒っぽい。父親はいないのかと疑問に思ったが、そのあとのシーンで、女が男にスペインの父親に合いに一緒に行こうみたいな誘いをしていたので、女の両親は別れているのだろう。
 この回の恋愛は、女必死だな、ふうのシーンが多く、痛ましい。男のほうはサルサダンサーということもあり、レッスンで十八歳の娘とべったりという感じ。こりゃどうみても、二十歳男と三十歳女の関係は続かないだろうと思うし、それが女の意識に反映してもいる。最後のシーンで、女は彼の子供が産みたいのと言った。これは引く。ずん、と。
 いささかこじれた喧嘩があったあと、男のほうがいらいらと女に電話をかけるシーンが後半にあるのだが、あのあたりの男の心の動きも、同じ男として痛いくらいわかるものがある。男も、俺は彼女を本当に好きなんだろうかと自問しているようでもある。しかし、女の強い関係の求めに引きながらも、女から離れてもいられない。そういえば、この回にはおセックスらしいシーンは冒頭の事後のシーンくらいなものだった。
 三回見終えて、奇妙な違和感があり、なんだろとしばらく考えていて、先ほど小便をしながらふと思いついた。どの回もどっちかというと女が痛ましいのだ。これって演歌の世界じゃねーのというくらいだ。もちろん見方にはよるだろうが、この三人の女は男と別れる恐怖みたいなものをじわっと滲ませている。
 女はこんなに弱いか? そーじゃないだろ、女というのは男を棄てるときに、ぽいっと切りよく棄てるぜ、と呟いてみて、しかし女というものがよくわからないとも思う。本質は弱いのかもしれない、沙翁の語るごとく。
 一般論は成り立たないのだろうが、恋というものには本質的に強者と弱者の関係のようなものが滲むなぁ。恋かぁ。恋とはどんなものかしら♪

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2007.02.25

中国化する世界?

 先日のラジオ深夜便で春節のラスベガスの話を聞いた。街のデコレーションが豚だらけという感じだったそうだ。ことさら春節に中国人がラスベガスに集うというものでもないにせよ、中国本土や世界各地、米国の華僑たちは上客であろうから、そういう風景もあるのかもしれないなと思い、ネットでフリッカーの写真を見ると、なるほどそうした印象が伺えるものがあった。

photo
Pig
by Las Vegas Bill
 ラスベガス全域が春節ムードというわけでもないのだろうが、こうした風景は数年前からの傾向でもあるようだ。それにしても豚年で豚かと感慨深い。日本人なら亥年なので猪でも飾りたいところだが、猪とはそのまま中華圏では豚である。こうした中国化の風景がラスベガスを覆っているのは考えようによっては違和感もないのだが、イスラム圏でこの光景はありえないだろうな。もちろん、亥年は十二年に一度だからこのデコレーションを毎年繰り返すわけはない。が、華僑あるところ豚は食われ続ける。それがイスラム圏、特にアフリカ系のイスラム圏でどのように見えるかは、少し想像してみて何も書く気にならない。
 このラスベガスのカジノ資本だがアジアではがんがんとマカオに進出している。そのようすをNHK地球特派員2007「アジアを席巻するチャイナマネー ~マカオがラスベガスを超える~」(参照)で見た。かつてののんびりとしたしたマカオの風景を知っている私としてはすごいもの見ちゃったなという感じがした。

中国に返還されて8年となる"老舗"マカオでは、ついにカジノの売上高がラスベガスを抜きました。本場ラスベガスの資本も参入し、金余り中国人目当ての熾烈な顧客獲得戦争が繰り広げられています。東京ドーム17個分の敷地に2兆円を投資するアメリカ資本も登場、カジノブームに拍車がかかっています。

 話は中国マネーの受け皿としてのマカオということで進めていたが、ちょっと考えたって博打だけじゃないだろと想像は付く。嫡子正男ゴールデン(参照)が常駐しているのだってチョイ悪オヤジというわけではない。しかし、そこにNHKにつっこめというのも野暮な話だし、番組を子細に見るとなかなか大人の仕上がりになっていて微笑ましかった。がんばれNHKである。
 それにしてもこんなところに巨額の投資をすること自体博打じゃないかと日本人とかならすぐ思うのだが、一年ほどで回収できてしまうのだそうだ。ありかよ。とはいえ、次第に米国のラスベガスのようにファミリーな雰囲気に軟着陸させるようにはするのだろう。
 番組ではアジアのカジノ地図というのも出てきたのだが、これがまた、え゛?とうなる代物だった。この話題だとシンガポールとか出てくるのかな(参照)となんとなく思ったのだが、そうではない。上位から見ると、一位カンボジア24。いきなりなんだそれ。

一方、"新興国"カンボジアでは、ここ数年で24ものカジノがオープン。国をあげてカジノビジネスを推進しています。資本は、中国系。地の利を生かして、東南アジアの経済に深く食い込み始めた中国の大きな影響が見て取れます。

 番組ではタイ国境に近いポイペトを取材していた。番組に出てくるジャーナリスト莫邦富は、どこに行っても中国語で取材ができると呆れていたが、いやはや。というころで、アジアのカジノ地図を見ていて隣国タイはどうよ?と、それがない。タイにカジノはないのか、日本みたいにないのか、と冗談を言っているのか俺。ミャンマーだってマレーシーアだってラオスだって一つはあるぞ。北朝鮮にだってシンガポールと同じで二つはあるぞ。タイにないのか……というかそれがカンボジアということなのか。考えさせられる中国化の浸透である。ついでに他の国のカジノだが、フィリピンに14、ベトナムに8、韓国に17とふーんというところだが、意外なのはスリランカに5、インドに5、ネパールに5ってただのホテルの付属ということか?
 話は少し逸れるのだが、NHK「シリーズ 欧米が見た中国 ドイツ買いの現場では」(参照)もたまたま見た。

 ドイツの高い工業技術を入手しようと、中国の大企業がルール工業地帯にある最新鋭のコークス工場を買収した。中国側の目的は、工場を解体して、この工場の設計図を手に入れること。この設計図で中国各地に最新鋭のコークス工場を作り、ドイツその他の先進国にコークスを輸出するのが狙いだ。

 日本人などからすると多数の中国人というのはそれほど違和感はないのだが、ドイツ人にはかなりの違和感があるようすが伺えて面白い。

ドイツ人は、早朝から夜遅くまでの作業を黙々とこなす中国人の集団主義と勤勉ぶりを揶揄し、自分たちの誇りであるコークス工場を、“蟻のようにわいてきた”ような連中に渡すことに後ろ髪を引かれる思いを募らせていく。

 番組は06年ドイツの制作でオリジナルタイトルは”Winners and Losers”つまり、勝利者と敗北者ということ。勝ったのは中国である。というのは、コークス工場が採算に合わないからと中国に売却し、それが中国に移転されてから、コークス価格は高騰した。つまり、ドイツはこの工場を手放すべきではなかった。
 中国は工場自体を手に入れたこともだが、そのノウハウも手に入れ、このコピー工場も中国東北部にどんどん作るのだそうだ。
 まあ、産業面での中国脅威論を言いたいわけではないが、こうした中国人の世界での活躍はなんであれ今後も高まり、それにつれてごくごく自然に世界は中国化するのだろう。

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2007.02.22

日本版ニューズウィークのコラムで思ったことなど

 雑記。昨日届いた日本版ニューズウィークにデジタル版の話があり少し興味をもったのだが、該当サイトを覗くと閲覧には専用ソフトが必要らしく、引いた。デジタル化によって紙媒体より格段に安価になるのかもよくわからなかった。総じて雑誌というのは新聞と同じように実質は広告媒体なので、その効率性というかリーチャビリィティで最適化されるものだろうと思うので、デジタル化というのはペイするのだろうか。
 ニューズウィークには時折まったくの素人というかあるいはローカル新聞くらいのコラムニストが書いた、なにげない一ページもののコラムが掲載される。日本版の創刊頃から読み続けた読者である私は、その手のコラムがなんとなく心に残る。そんななかで最近三つほど心に残るコラムがあった。記憶によるのであまり正確ではないのだろうけど簡単に。
 一つめは、身体障害者の親族の思いというものだ。重症で長年看病した親族がいざ死なれてみるとほっとしたという感想だった。看病から解放されて自由になって単純によかったというのではない。ただ、そういう奇妙な解放の思いに向き合った話だった。こうした情感というのは、人間を五十年もやっていると誰でも遭遇するし、少なからずは親というものがそういう存在になる。そしていろいろと思うものだ。が、ブログも含めて公開的な場所でそういう情感が語れることは少ない。逆にブログなどではより語れない領域になりつつあるのかもしれない。「これはひどい」とかブックマークされたりすると想定されれば増田とかに書くしかない(参照)。と考えながら、そうした微妙な情感は以前は小説などで語られていたものだろうか。小説というのは時代のメディアとしての意味もあったのだろうかとついでに少し考えたが、現代の小説ではどうなのかよくわからない。いずれにしても愛していた人でも死なれてみたら悲しくても解放されたような情感がある、というものは人の世とともにありつづけるだろう。
 二つめは自身をリベラル派と思っていた中年女性が銃を購入して、家に被害をもたらす野鳥を撃ち殺したという話で、銃を持ってしまったら人生観が変わったというものだ。コラムではどう変わったのかということがくっきりと描かれていないので、翻訳の際にぼかしたのかもしれない。原文に当たって調べるのも難儀に思って過ごしてしまった。そのコラムでは銃で撃ち殺した対象は鳥だった。生活の場によってはそういう必要性もあるかもしれない。つまり、なにか生物を銃殺しないと生存しづらいということもあるのかもしれない。日本の状況に置き換えれば熊だろうか。日本では熊を銃殺することにそれほど違和感もなく報道されるが、おそらく銃がそれほどの意味を日常生活に持っていないからだろう。逆にこの自称リベラル女性は銃と社会の関係において銃を支持してしまう感性の変化について何か発言したかったに違いない。そのあたりの微妙な感覚がわかるようでわからないとも言える。話は少しそれるのだが、以前NHKのドキュメンタリーで米国のキリスト教右派がその主義のみで固めた全寮制の大学を作り、その信念のエリートを養成して政界に送るという話をやっていた。私はこの手のクリスチャンというのはあまり違和感が少ないほうだが、その学生のインタビューで銃については解禁するのが当然だという主張があり、少しばかりへぇと思った。日本の場合クリスチャンは銃に対して違和感を持つほうが多数ではないだろうか。学生が言うには、現状の民主主義というのは独裁者を産みえるのだから、その抵抗の権利として銃を持つべきだというものだった。そういう理屈も成り立つのかとも思ったが、むしろそういう理屈のほうが米国という国の原理に近いものがある。このあたりは私もブログでスターウォーズに関連して少し触れたことがあるが変てこなコメントを貰ったな。
 三つ目は今週号のコラムで、何年も前に死んだ息子に未だにダイレクトメールが届くという話だった。私も父に死なれてもう随分経つのだが、実家に父宛のダイレクトメールが届くことがあり、母がことさらに騒いで大切なものであるかのように私に見せるので困惑する。死者宛の手紙とは不思議なものだなとは思う。ダイレクトメールのアドレスは個人情報の漏出なのかわからないが、ご本人が死んだという情報だけは項目化されないのだろう。というか、死亡フラグというのは個人情報においてそもそも属性なんだろうか。そういえば、と話がずっこける。時たまでもなく電話によるセールス勧誘を受けて困るのだが、話者が中年女性の場合よく「お母さんはいらっしゃいますか」と聞かれることがある。私の応答を聞いて二十代くらいの青年だと思っているのだろうか。この手のことにも慣れてきたので、いませーん、とか答えて終わりにする。

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2007.02.21

若い女性の自傷行為はめずらしいものではないらしい

 若い女性の自傷行為はめずらしいものではない、とするニュースを先日ロイターで見かけた。日本で報道があったかどうかわからない。どうだったのだろうか。
 ロイターの記事”Self-harming behavior common among young women”(参照)はネット上の各所でまだ読むことができる。調査はイタリア、パドヴァ大学で行われた。オリジナルの調査は”Self-injurious behavior in a community sample of young women: relationship with childhood abuse and other types of self-damaging behaviors.”(J Clin Psychiatry. 2007 Jan;68(1):122-31.)であり、PubMedで概要を読むこともができるし、オリジナルへもアクセスできる。
 ロイター・ニュースの強調点は、意外に多数(二四パーセント)の若い女性が自傷行為を行うこと、こうした自傷行為が、アルコール中毒、薬物乱用、自殺試行、摂食障害と強い関連があるということだった。こうした問題行動は自傷行為の一環と見てよいという示唆があるようだ。
 自傷行為について調査者は、強迫性(compulsive)と衝動性(impulsive )に分け、前者が二一・三パーセント、後者が五・二パーセントと報告している。
 こうした自傷行為を行う若い女性は自身の身体性への親近感が欠落しているとも示唆されているが、各個人の生育史における問題も大きな要因ようだ。
 調査者たちは、若い女性の自傷行為について、動物行動の"pathological grooming behavior"との関連も見ている。この用語は、直訳すると「病的な身づくろい行為」となるのだろうか。
 私にはこのあたりの動物行動学の背景よくわからないが。いずれにせよ、若い女性特有の自傷行為は動物行動学的な説明も可能な領域のようだ。
 こうした問題は日本では、青少年問題として、社会的、あるいは心理的な問題として扱われがちだし、そうした扱い方が間違いでもないのだが、このニュースを読みながら、これだけ広範囲な行動形式には、なんらかの霊長類の行動上の意味が強いのではないかという印象を持った。それはなんだろうとも少し考えてみたが、ちょっとブログのエントリに書くには熟していないので、以上メモ程度に書いて終わりにする。

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2007.02.20

家計って株式投資で儲かってんの?

 十三日の朝のラジオで評論家内橋克人が、株式を保有している世帯と銀行・郵貯などに貯金している世帯とでは家計の収入に大きな差が出てきて困ったものだという話をしていた。ぼんやりと寝惚けた頭で話を聞き流していたのだが、え?と思って目が覚める。そうなのか? というかどのくらい差があるのか。話を聞いているとけっこうな差がありそうだ。まあ、差があっても別によいわけで、それを格差問題だとも思わないのだが、気にはなっていた。その後、十七日付けの日経新聞に同じ話が載っていたので、ざっくり確認し、あらためて、へぇと思った。
 話は内閣府発表〇五年度の国民経済計算(SNA)によるらしい。ソースは”17年度国民経済計算(93SNA)”(参照)ではないかと思う。が、データばっかりで私のような素人からは内橋の話は読み取れない。というわけで、ざっくり聞いた話をまとめるのだが、二〇〇五年度の国民所得の内、家計に回った所得(賃金+財産)の分配率は七五・三%で前年度比で〇・四ポイント上昇。七年ぶりのことらしい。ただ、上昇の率を見ると大した変化でもないとは思う。
 内橋の話では、家計収入を構成する賃金、財産、賃料・利子所得のうち、賃金は伸び悩み利子所得は減少傾向にあるなか、財産に含まれる配当所得が五一%増と急増したとのこと。配当所得は金額で七兆四千億円。つまり、家計は資金を銀行・郵貯の貯金から株式投資に振り替えて成功している、ということだ。内橋の意見は、これではいけない、賃金が上がるべきだし、投資をしない庶民にも預貯金金利のメリットがなくてはならない、といったものだったかと思う。
 しかし、ちょっと考えればわかるように、銀行・郵貯の貯金というのは結果的に投資と別物ではないのだから、むしろ庶民はもっと直接的に企業から投資の利益を得られるようになってめでたしめでたしということになるはずだ。まあでも、それはけっこうどうもでいい。
 ラジオでは突っ込み役のアナウンサーも「私も株式投資してないんですが、日本の家計の実態はそう変化しているのですか」と訝しげであった。私も同感。なんか変だなと。なんかからくりがありそうだがよくわからない。
 そういえばそもそも家計が約千五百兆円金融資産を持っているというのも、よく言われるわりに実感できない。ちなみに、日銀の資金循環統計ではこの内、株式・出資金の占める比率は、〇四年度末の八・八%から〇五年度末には一一・六%に上昇したとのこと。すごいなと思うがやはり実感はない。
 そういえば昨日の日経新聞記事”サラリーマン世帯の貯蓄率、06年に8年ぶり上昇”(参照)だと、サラリーマンは貯蓄に励みだしたようだ。


 総務省の家計調査ベースの貯蓄率は、毎月の収入から税金や社会保険料を差し引いた可処分所得のうち消費に充てず、手元に残したお金(貯蓄)の比率。06年の平均貯蓄率は27.5%と前年比で2.2ポイント上昇した。1カ月あたりの可処分所得は44万円と前年比0.1%増えたが、消費は2.8%減らし、貯蓄は8.6%増やした。

 簡単に言って、消費を減らしている、と。読売新聞記事”06年の家計調査、月平均消費支出は2年連続減少”(参照)はもっと実感がある。

総務省が13日発表した2006年の総世帯の家計調査(速報)によると、一世帯当たりの月平均消費支出額は25万8086円で、物価変動の影響を除いた実質で前年比3・5%減と2年連続で減少した。

 同記事では少子化の影響などにも言及があるが、消費の減少はそれが大きな原因でもないのだろう。
 現状の日本のGDPだが産経の記事”経済成長率示す「GDP」 求められる速報値の精度向上 ”(参照)によるとこう。

 計算のベースとなるのは家計調査や法人企業統計といった政府のさまざまな統計で、17年度のGDPは物価変動の影響を除いた実質で540兆円。項目別には個人消費が302兆円と最大で、公共投資などの公的需要が119兆円、民間企業の設備投資も82兆円と大きい。名目だと503兆円に減るが、それでも世界のGDP総額の約10%を占める。

 ざっくりした感じだけど、日本人が消費を促進しないとこのまま日本はじんわりとしたデフレスパイラルが継続していくのでしょう。で、その実態というと、賃金所得に依存している若い世代の世帯は貯金をし、おそらく株式投資もできてるほどおカネに余裕のある年配の世帯ではさらに株式投資の利益を得ていく、という構図なのだろうか。あまりしっくりしないのだが。

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2007.02.18

[書評]〈つまずき〉のなかの哲学(山内志朗)

 以前は人に勧められた本をよく読んだし、そうしたことで自分の視野の狭さを知るきっかけとなったものだが、いつからかそういうことが減ってきた。本書「〈つまずき〉のなかの哲学」(参照)は、久しぶりにそうした契機で読んだものだ。一読して、なるほどな、私に勧めたくなる本だな、ということがよくわかった(ありがとう)。「私」とは何か、人生とは何か、そういうものに私は今四十九歳までぶつかり続けた。これからもそうだろうが。

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〈つまずき〉のなかの哲学
山内志朗
 筆者山内志朗については私は知らなかったが一九五七年生まれとのことで私と同年である。もしかしたら過去のネット世界のどこかでハンドルとハンドルで遭遇していたかもしれないと思った。
 本書は率直に言うと私には読みにくい本だった。理由は私にある。私が思考の柔軟性を失いつつあり、哲学書に対してまず哲学史的な特定の枠組みを求めてしまうことと、また、本書で多く言及されているヴィトゲンシュタインについて顕著なのだが、かなり類似した見解を持ちつつも異なるがゆえに、そうした部分について、あちこち留保して読むことになるからだ。その留保作業は朱註ではないが鉛筆で書き入れつつ読み進めた。とはいえ、私の読解力が弱いのか、あるいは少し批判めいた評価になるのかもしれないのだが、読後、留保部分を再考すると本書の本筋にはそれほど関連していないようにも思えた。
 そういう私の読みに自信はない。ウィキペディアの山内志朗の項目(参照)を見ると、「彼の講義の聴講者は必然的に人文学部の学生が多いが、彼の講義は学生の興味関心を引くものが多く、口コミなどで知る者もおり、彼の話を聞きたい為に他学部の学生も多く集まることで知られている。」とあり、むしろこうした叙述のスタイルは、現代の若い人にフィットしているのかもしれない。
 本書の前半、筆者が「謎」とする部分には私は基本的な共感を持って読み進めた。文献学的な部分を除けばひっかかりはない。その分、軽い大衆向け哲学入門書かなと思っていたが、後半の「つまづき」とする部分は、知的なチャレンジを受けた。私は自身の哲学的な考えを系統立って開陳したことはないが、関心領域はほぼ重なるように思えた(ちなみに私なりの結論を先に言うと、山内が「私性」を欲望の契機としているのに対して、私は欲望は匿名性のいわば暴虐なエネルギーであり「非私性」を志向し、現代科学はそれを解放してしまうというふうに現代性の危機としてとらえている)。
 山内の視点で一番チャレンジングだったのは、「ハビトゥス」という考え方だ。彼はこれを日本語的に言えば「立居振舞」だとする。そして「私」というものを「ハビトゥス」として捉えていく。強調部分は同書のママ。

 「私」ということは、もしそれを霊的な実体として捉えたいのであれば話は別だが、ハビトゥスであると言い得るであろう。反復学習によって沈殿し、表に現れ続けているもの、人となりとしてそこに常に現前化し、現実化しているもの、〈体〉によって覆われ隠されている「私」ではなくて、肉体を座としてそこに現在化し、安定した行動の「型」のなかで、穏やかな同一性を保ち続け、反復されるものが「私」であるとすれば、それが「ハビトゥス」の一種であることは当然であろう。ヤマウチは「私」とは、精神でも肉体でも脳でも関係でもなく、「ハビトゥス」であると考えたい。

 ここで「私」とは、精神・肉体・脳・関係といったものから否定される。が、その総合故に否定されると読んでもよいだろう。私の誤読の可能性はあるが、身体行為において他者との関係性におかれる主体を救出したいがための措定ではないかと思えた。つまり、この措定には極めて倫理的な要請があるのだろう、と。
 現実問題として恋愛関係や夫婦関係、職場の関係などにおける、「私」と「他者」はこのような「ハビトゥス」(立居振舞)の相互的な了解(予測)の上にのみ成り立っていると言えるだろう。
 ここに本書の優れた点が同時に見られる。起点において倫理性を問うている姿勢だ。特に、若い時代の悩み・躓きといったものを現実において人は抱えて生きなくてならないのだから、そのような存在を、取り敢えずという言い方は拙いが、前提的に肯定する倫理の光が求められる。極めて倫理的な人間哲学であるとも言えるだろう。
 このような肯定の措定は現代哲学的にはやや拙いものでもあるかとも思う。が、実際的であるし、まさに現代は倫理が問われる、という問題性をうまく浮かび上がらせる意味で、山内の考え方は極めてポスト・ポストモダンかもしれない。
 私の知的な関心としては、「ハビトゥス」という考えの起源が山内の独自の思索にのみ帰着するのかそれとも別の哲学史の根を持っているのか気になり、雑駁にサーチしてみた。どうやらこれは「天使の記号学」(参照)で提起され、スコラ哲学中でもヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(参照)における「存在」と「本質」の生成によっているらしい。同書を私が吟味していないのだが、この生成の概念は私の読書圏ではイスラム神学に類縁のユダヤ哲学に近いのではないだろうか。
 話を本書の実践的な流れに戻すと、そのような立居振舞としてのハビトゥスとして「私」が捉えられるなら、その「私」の人生の意味とは、山内が言うように「目的は後から徐々に付け加わる」ということになる。これは確かに若い人にとっては、簡明な希望になるだろう。摸索や躓きの過程において「私」のハビトゥスが明確になることは、まさに「私」の人生の目的でもあるわけだからだ。そして、さらにこのハビトゥスの延長により肯定的にかつ実際的に「希望」が打ち立てられる可能性も確保する。
 蛇足だが、山内のハビトゥス論の流れにおいて私の考えの差異を少し述べてみたい。批判というわけではなく、私はほぼ同じ枠組みでこう考えるということだ。
 まず山内のハビトゥス論だが、彼はこれを存在と本質の生成として捉えながらも、欲望論との関係においてジラール的な他者論に接合する。強調部ママ。

ハビトゥスとしての「私」を実質的に構成するのは、「私」が無から構築されたものではなく、他者から移入したものだ。それは隠蔽されなければならない。フロイトが、無意識について、抑圧され、隠蔽され、顕在意識に昇り得ないようになったものだけをそう呼んだように、意識にとって隠されたままであり続けるものが、「無意識」と呼ばれ、意識を突き動かす原動力となり得たのと同じように、〈謎〉として隠れ続けるものだけが、「私」の核となり得る。

 ジラールの三角図式とユンクの悪の個性化を合わせたような思想に私には受け取れるし、それゆえに否定されえない説得力もあるのだが、私はそうした「私」への暴力的とも言える個性化への情動は、「私」の核ではなく、個性化の契機としてしてのみ存在すると私は考える(森有正の言う「内的な促し」に近い)。むしろ、人の生き様に現れるハビトゥスは、ジラール流の他者でなく、本居宣長が考えたように、言葉の姿に人の情動を整えていくところにあると私は考える。山内の思索では、本書が簡明叙述するという当たり前の限界性もあるのだろうが、言葉=民族語の歴史が、人の人生の振る舞いから経験の意味性(荻生徂徠の言う「道」)を開示していくあり方を明らかにしていない。あるいは、人と民族語の歴史という課題は、本書の延長にまったく新しく切り開かれるのかもしれない。

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2007.02.17

ダルフール危機からチャドにおけるジェノサイドの危険性

 国内報道をあまり見かけないのだが、ダルフール危機についてブログしておく時期かもしれないと思うのでごく簡単に。
 前段の話としては「極東ブログ: ダルフール危機がチャドに及ぶ」(参照)を参照されたい。あるいはカワセミさんの「カワセミの世界情勢ブログ: スーダン情勢に関する観察(4)及び中央アフリカへの波及」(参照)のほうが的確だろう。エントリ中「この問題に持続的に関心を寄せている人がむしろ疲れ果てていて、それを感じ取れないという事もままある話だ」との指摘は痛切に感じられる。
 現状だが、ダルフール危機がチャドに及び、ルワンダ・ジェノサイド(genocide)と同類の危険性があるとの警告がUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)から出された。UNHCRのサイトではわかりづらいのでBBC"Chad may face genocide, UN warns"(参照)より。


Chad may face genocide, UN warns
 The violence in Chad could turn into a genocide similar to that in Rwanda in 1994, the UN refugee agency has warned.

チャドはジェノサイドに直面するかもしれないと国連が警告
チャドの暴力は1994年のルワンダに類似のジェノサイドになりうると国連難民高等弁務官事務所が警告している。



"We are seeing elements that closely resemble what we saw in Rwanda in the genocide in 1994 and I think we have an opportunity here to avoid such a tragedy from occurring again," UNHCR's Matthew Conway said.

私たちは1994年のルワンダ・ジェノサイドと非常によく似た要素を見ており、私はあのような悲劇の再現を避けるための機会をここで持っていると思う、とUNHCRのマシュー・コーンウェイは語った。


 状況はすでにダルフール域を超えて他国が関連してきたという意味で複雑なものになりつつある。関連する紛争の勢力についてBBCはこう説明している。"Darfur conflict zones map"(参照)も参照のこと。

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  1. チャド政府によれば、スーダン政府が支援する民兵がチャドの村を攻撃している。20万人ほどのダルフール住民がチャドに避難している。
  2. スーダン政府は、チャド政府がダルフールの反抗勢力を支援しているとして非難している。
  3. チャド政府は、中央アフリカがスーダン政府支援の勢力と戦うために派兵する予定があると言っている。
  4. 中央アフリカ政府は、スーダン政府が中央アフリカの村を制圧したUFDR(Democratic Forces for Unity )を支援していると言っている。

 双方の言い分があるだろうが、私は、スーダン政府が傀儡的な勢力を使い組織的にチャドと中央アフリカに侵攻している印象を受ける。
 問題が深刻になってきたのは、多国間であれ関連国に閉じない点だ。フランスは中央アフリカに侵攻する勢力に対抗すべく派兵している。特に昨年末ミラージュ戦闘機でスーダン側と見られる勢力に攻撃した。この件については、英国Independentの"France admits air raids on Darfur neighbours"(参照)を参照のこと。単純に言えば、チャドと中央アフリカにおいてフランスはすでに軍事介入を開始していることになる。この状況は、「極東ブログ: コートジボワールへフランスが軍事介入」(参照)を連想させる。
 こうした背景もあり、フランスは、南部のカンヌで一五日から二日間の日程で開催された仏・アフリカ首脳会議では、問題の根となるダルフール危機について、スーダン政府を非難し平和維持軍の受け入れを強く提言した(参照)。

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2007.02.16

金時豆フェジョアーダ(Feijoada)

 先日フェジョアーダ(Feijoada)を作る機会があったので、ついでにブログ。
 フェジョアーダ(feijoada)は、豆と豚肉または牛肉を煮込んだブラジル料理。ブラジル人してみると故郷の味ということじゃないかと思う。私は沖縄暮らしとき近所にいたブラジル人が調理したを食べてとても気に入った。基本的に大量にできるのでそう頻繁には作らない。ちなみに私はフェジョアーダを食っているときはヴェジタリアンではないです。
 彼にどうやって作るのと聞いたら、豆と肉を煮るだけだよと言っていた。味付けは? 塩だけ。そ、そうかぁ? いずれにせよ、こんなのレシピないよ的な印象だったけど、美味しく作るにはなにか経験というか感性が必要な印象だった。
 というわけで、ある意味似たような食い物であるポークビーンとかの想像で私流のレシピというかすごく大雑把ななんだけど。
 本当は豆はフェイジョンというのを使う。色が濃い。最初食べたとき、これってワイン煮?とか思った。フェイジョンはたぶんネットとかで購入できるんじゃないだろうか。私は金時豆を使う。どちらも隠元豆の系統なので食感は似ていると思う、というか、白インゲンとバラ肉を煮込むのはフランス料理とかにもよくあるし、私のレシピもほとんどそれに近い。
 簡単かと問われると微妙。いろんな作り方があるとは思うし、もともと素朴な料理なので簡単と言えば簡単。ポイントはスロークッカー。スロークッカーについては以前「極東ブログ: コンベクションオーブンとスロークッカー」(参照)で紹介した。とろ火で長時間煮込む調理器具だ。なくても、二時間くらい煮たらできると思う。豆が柔らかく煮えればいい。
 仕込みは前日から。豚バラ肉のブロックにたっぷり塩を塗してビニール袋に入れ、しっかり封をする。金時豆を水に浸しておく。半日くらいおいておけばいいと思う。肉からは水が出る。豆は膨らむ。豆と肉の量は適当。6人分だと豆三〇〇g、肉五〇〇gぐらいか。
 肉は下拵えする、というか、塩抜きとアク抜きを兼ねて簡単に下ゆでし、大きめなブロックに切る。大きめというのは、おっ肉の塊だ感があるくらい。
 中華鍋でタマネギのみじん切りを適当の油でじっくり茶色がかるくらいまで炒めて、塩とクミンを加える。これも適量。
 あ、そうだ、これにサラミのスライスを一本分くらい入れるといい。
 これに肉と豆を加えて、沸騰するくらいまで加熱する。
 

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 沸騰したら、これをスロークッカーにぶち込む。肉と豆がひたるくらいにする。ので、水気が足りないときは湯を足す。このとき、塩味をちょっとみて調節する。サーブするときライスに添えるのでカレーくらいの塩味にする。辛みはつけても付けなくてもいいのでお好みで。
 煮ること四時間。
 

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 豆が柔らかくクリーミーに潰れる感じになるとよい。これが食べるときに肉からまって絶妙に旨い。
 これを普通カレーライスみたいにライスに添えるけど、バゲットと食べてもいい。

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2007.02.15

ゴシップ的な米国発の女性ニュース二つ

 NASA女性宇宙飛行士のリサ・ノワク(43)とモデルのアンナ・ニコル・スミス(39)のニュースについて、常識人なら無視すべきゴシップ的な話かなと思っていたし、日本人にはそれほど関心ないでしょとも思っていた。後者については概ねそうなんだが、今月のニューズウィーク日本版にこの話題が掲載されていて、困惑というのか奇妙な印象を受けた。困惑感はPCな世界にあって女性のこういう話題を取り上げてはいけないんじゃないかという感じがしているからだ。思いがまとまるわけではないが簡単メモしておきたい。
 もちろん国内報道もあった。産経新聞”女性宇宙飛行士 “恋敵”襲撃に波紋 燃え尽きた?「英雄」”(参照)より。事件はこう。


 女性飛行士リサ・ノワク被告が2月5日、思いを寄せる職場の男性操縦士と恋仲にあるとみた女性に、フロリダ州オーランドの空港でつめ寄りスプレーを噴射、誘拐しようとして逮捕された事件。6日、同被告は第1級殺人未遂罪で追起訴されたが、総額2万5500ドル(約307万円)で保釈された。同被告は、行動確認のため、衛星利用測位システム(GPS)の着用を義務付けられた。

 「殺人未遂」とのことだが起訴としてはそうだということで事件の全貌が分かっているわけではない。また、チェイスの際彼女が襁褓をしていたのも話題になったが、宇宙飛行士らしい発想ということのようだ。
 日本人からするとなんでこれがそんな話題にという話題の広がり、それ自体も興味深い。

 「現役宇宙飛行士のおそらく初めての犯罪」(オーランド・センチネル紙)を米3大ネットはトップニュースで報道。英ガーディアン紙も「地に落ちた女性飛行士」と書き立てた。

 大ニュースであった。ニューズウィークではこういうポジションにある現代女性の内面を探るという感じの記事にしている。おそらく、ニューズウィークの読者層、多分にインテリの内面に同様の狂気があり、そこで共感を得ることを想定しているのだろう。
 もう一つのニュースだがこれも国内報道はあった。CNN”アンナ・ニコル・スミスさん急死 ホテルで倒れる”(参照)が紹介としてはわかりやすいだろう。事件はこう。

元プレイメイトのアンナ・ニコル・スミスさんが8日、米フロリダ州のホテルで倒れ、病院へ運ばれたが死亡した。39歳だった。死因は不明で、9日中にも司法解剖が行われる。

 背景はこうだ。

スミスさんは米誌プレイボーイの表紙を飾るなど、モデルとして活躍。一方で、1994年にテキサス州の石油王ハワード・マーシャル氏(当時89歳)と結婚し、翌年に同氏が亡くなってから、遺産相続をめぐって同氏の息子と10年以上争って話題を集めた。マーシャル氏との結婚前、最初の夫との間に生まれた長男は、昨年9月に20歳で急死。この数日前にスミスさんが出産した女児について、スターンさんと元交際相手が互いに「自分が父親だ」と主張し、法廷闘争が続いていた。

 その後、「父親」と名乗り出る男が都合三名という展開にもなっている。ニューズウィークでは「M・モンローになれなかった彼女」としているがオリジナルの標題は"Anna Nicoles's Tabloid Odyssey"としゃれている。でもま日本人的には「M・モンローになれなかった」というふうに見るだろうし、本人もM・モンローを目指してはいた。
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プレイメイト・オブ
ザ・イヤー
THE’90s
 ざっくり言えば、ゴシップの総合百科のような人生であり、近年はそれを売りにしていた。ニューズウィークには若い頃の写真や太り過ぎ時代の写真などもあり、え?というインパクトは大きい。と同時に、こういう米国的な世界って引くなぁとも思うが、かくいう私などは日本版プレーボーイ創刊ワクテカ世代であり、当然、それ以前の米版のあれにマーガリンを塗ってみた世代でもある。なんか僅かだが奇妙な罪障感のようなものもある。
 どうでもいい事件じゃないかと思いつつ、奇妙に心に陰影を残すのは、私より一回り下の世代とはいえ、なんというか近代人になってしまった日本人の人生の陰画のように思うからだ。リサ・ノワクの痴情というのはインテリ吹かした現代日本人にも無縁でありえないし、アンナ・ニコルのような突飛な生き方も現代日本人に違和感のあるものでもない。
 と……思いつつ、別段昔の日本人ならそうでもなかったというものでもないなと、いくつかの反例なども思い浮かべる。
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ふぞろいな秘密
石原真理子
 現代の陰影としてこうした問題が女性のニュースとして吹き寄せられるかのようなありかたというのはどうなんだろうと思う。日本ではと、かつて自分も少しファンだった石原真理子の昨今の暴露話なども、なんというのか地雷女と困惑する男みたいな構図で語られるが、そうじゃないんじゃないか男のほうがおかしいだろとなんとなく思う。まあ、よくわからない問題なのだが。

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2007.02.14

普通に人が知っていることで私が知らなかった三つのこと

 私は普通に人が知っているのに知らないことが多い。そういうことがしょっちゅうあるので時たま街のなかでなにげなく他人の行動を見ていたり、お店とかだと店員の人にすごくファンダメンタルな疑問を投げかける。そういえば以前、JRのスイカを熱っぽく宣伝しているお兄さんがいたので、「スイカって何ですか?」と聞いて無視された。そういえば、コンビニのコピー機にデジカメをつなげている若い女性がいたので何をしているのか横目で何気なく見ていて、後から了解した。そんな感じ。私はあまり現代文明に合ってないような気がする。そんなことで、最近の、普通に人が知っていることで私が知らなかった三つのことについて。あー、もちろん雑記である。

1 コーヒーの簡易ドリップが意外に美味しい
 私はコーヒーはいちいち豆を挽いて煎れる。インスタントコーヒーは飲まない、のだが、菓子作りの材料に買ってはある。ところが、昨年後半から、歳のせいなのか気分のせいなのか、なんとなくインスタントコーヒーに手を出している自分があって、なんだかなと思っていた。そんなところにお歳暮で簡易ドリップ式のコーヒーパックというのかを貰った。たいていはそういうのは他の人にあげてしまうのだが、インスタントコーヒー代わりに使ってみたら、え? これ美味しいんじゃないのと驚いた。そのうち無くなってしまって、なんか困った感じになった。
 

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ドリップ徳用
ブルーマウンテン
ブレンド80袋
 あれである。コーヒーカップの淵に厚紙でセットして一杯分のコーヒーを煎れるという仕掛けだ。こういう商品があることは知っているというか、以前沖縄にいた頃、ブルックスというショップでギリシア・ワインを購入する際、カタログで見たことがあった。なので、ブルックスで注文してみた(アフィリエイト・リンク)。ついでにギリシア・ワインを購入しようかと思ったら、もう無かった。とても残念。
 通販でやってきたのを使ってみた。やはり美味しい。それどころか、コーヒー豆ごとの個性なんかも味わえる。世の中なにがどうなっているのだろう。いや私の味覚がアウチということも可能性としては高いだろうな。でも独我論的に言えば、この簡易ドリップコーヒーのほうが普通の喫茶店のコーヒーより旨い。スタバより旨いかというと微妙だけど、スタバのコーヒーは量が多くて私は最近は気晴らし以外には使わなくなってしまった。
 ところで話のネタはそれではない。そんなふうに思ってこの手の物は通販で買うかなと考えていたら、スーパーマーケットでもあれこれ売っていたのだ。またか。普通に人が知っていることで私が知らなかったことだな。なんかちょっと気分が落ち込んだのだが、ブルックス通販のほうが総合コストでは安そうだなとか自分を慰めた。

2 CSチャネルに特別設備は不要
 テレビ録画機をいじっていたら、突然CS番組が出てきた。なんでだ? CS用にアンテナもチューナーも入れてないのに、何がどうしてしまったのか。NHKがスカパー!と提携したのだろうか。あるいはこれってWOWWOWってやつ?
 というわけで驚いたので調べてみたのだが、よくわからない。事実としては見られるらしい。もちろん、有料放送だから契約しないときちんと見られるわけもないのだが、未契約者の注意書きが画面の三分の一くらい覆った状態で見られた。
 ということは、私は、スカパー!と契約すると現状の装置でCSチャンネルが享受できるということなのか。何か見たいCSチャンネルって私にあったっけと、散歩がてらに電気屋さんに行ってみた。
 店員の話を聞くのだがわからない。雰囲気としては、普通に人が知っていることで私が知らなかったこと、のようだ。とりあえず、チャンネルの解説書をもらってきたのだが、特に見たいチャンネルもない。それと、どういう料金システムになっているかも依然理解できない。

3 ハイビジョン・ディスプレイのサイズの仕組み
 電気屋さんに行ったついでに最近のテレビを見ていたのだが、もうブラウン管というのはなさげだった。液晶とかプラズマというか、平べったいのばっかりでしかも、けっこうお値段が高い。何が値段差なのか皆目わからない。やはり漆塗りが良いのだろうか。
 かくして店員に根源的な質問をしたのだが、店員はギリシア哲学における弁証法について詳しくないらしく、私と話が通じない。それでも多少私も事態を理解して驚いたのだが、どいつもこいつも同じハイビジョン用かと思ったら、フルハイビジョンのディスプレイはまだ少ないのだそうだ。へぇ。
 店員がホッと私から解放されたのは、私が横長の画面に映る四十歳の斉藤由貴に関心を移したからだ。そして、かく思った。横長のディスプレイなので表示は縦方向に潰れているのだろう。とするとイデアにおいて斉藤由貴は面長であったか。
 どうもそうではないらしい。なにか私は根源的な誤解をしているようだ。が、店員に再度ディオゲネス・ラエルティオスの生き方について理解してもらうわけにもいかないので、とにかく世界はそうなっているのだと暫定的に考えることにした。世界を支える巨大象の下には巨大な亀がいてその下には不確実性原理を象徴した古代的なスライムがいるのだろう。そんなふうな。
 とりあえず自分なりに納得したものの、またダイモンはささやく。どうもサイズが変だ。ハイビジョン・ディスプレイのサイズが、ブラウン管のそれと違うようだ。
 帰宅してネットで調べてみた。解説によると、29型ブラウン管テレビの縦のサイズは32V型のハイビジョン・ディスプレイのサイズより短いらしい。とにかく、そうらしい。なので40V型を買えとのことだ。これも普通に人が知っていることで私が知らなかったことみたいだ。
 ついでに。でかいディスプレイを買っても解像度が高いのでそう遠く離れて見なくていいそうだ。なじめないぞ。昭和三十二年生まれの私は青年期に至るまでテレビを近くで見ちゃいけませんといわれトラウマになっている。
 しかし、そういうビンボ・トラウマのない世代の日本人はこういうでかいディスプレイを小さい部屋に配置するようになるのだろう。っていうか、こういう消費が広まっていくのは日本全体にとってはいいことなんじゃないか。

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2007.02.11

地方公社や第三セクターの債務が十六兆円

 七日の日経新聞一面記事に、地方自治体出資が過半数を超える地方公社や第三セクターについて、その債務が〇五年度末で約十六兆円になる、という話があった。ネットでは”自治体「子会社」、借金16兆円・05年度末”(参照)である。集計は日経によるのか、他紙での報道は見かけなかったように思うがどうだろうか。


これは地方税収の約4割に当たる。出資対象を50%未満まで広げると17兆円強に膨らむ。総務省はこうした「隠れ借金」が自治体の財政破綻を招きかねないと判断。このほど05年度決算分から公社・3セクを含む債務を一括開示するよう各自治体に指示した。

 ニュースの背景がわからない。このニュースの集計が日経によるとすると日経の示唆を受けて総務省が動いたことになりそうだが、そんなことはないだろう。総務省の判断はいつどの時点で出たのだろうか。また、総務省は事態をどのように認識しているのだろうか。そのあたりが気になった。
 なお集計の元になる情報は、”第三セクター等の状況に関する調査結果の概要 : 総務省(報道資料)”(参照)らしく、これは年末の公開のものだ。
 債務十六兆円の内訳も興味深い。

約16兆円のうち11兆8000億円が金融機関などからの借入金と社債で、残りは自治体からの融資。

 金融機関とのみあるが、地方の金融機関ではないだろうか。
 この問題についてブログで扱ったところがないか探した。「税理士chika-chanのお気楽なひとり言」”第3セクター、借金16兆円 ”(参照)が示唆的に思えた。

 自治体の財政の悪化度合いを測る「実質収支比率」や「実質公債比率」には、公社や3セク分は含まれていません。
 したがって自治体財政は、公表分よりさらに悪化する可能性が高いのです。

 地方財政健全化法案が今国会に提出されますが、それによる新しい連結財務指標が導入されますと、自治体の債務が膨らみ財政悪化の要因になります。
 今後一気に公社・3セクの淘汰が進む可能性があります。


 地方財政健全化法案は仮称のせいかネットからの情報収集は少し難しい。
 関連ニュースとしては五日付け日経”財政悪化時、市町村も外部監査・総務省08年度から”(参照)がある。

総務省は2008年度にすべての地方自治体に4種類の財政指標の公表を求め、そのうち1つの指標でも基準を超えて悪化すれば、財政健全化計画の策定や公認会計士などによる外部監査を義務付ける。第三者が財務内容を点検し、改善に向けた意見を表明することで、自治体に早期の立て直しを促す。

 ところで最初の日経の記事に戻るのだが、記事によると、この債務がもっとも大きかったのが東京都で約一兆四千億円。また、福岡県や横浜市では債務が税収を上回るとしている。
 その含みから察するに、東京都は債務が大きくても税収とのバランスは取れているということなのだろうか。こうした問題は債務の総量で決められるものでもない。
 いずれにせよ、地方の隠れ債務が公開され、さらに地方公社や第三セクターの急速な整理が進むことになるだろうし、その抵抗勢力とかも出てきそうに思えるが、ざっと日々のニュースを見ている感じでは穏やかなものだ。というか、どうでもいいニュースのほうが沸き立っている春めいた今日この頃である。

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2007.02.10

鯵のバジル風味ホイル焼き

 先日GIGAZINEに”ふわふわの鯖の味噌煮を30分で簡単に作るレシピ”(参照)が掲載され、Web2.0世界の人気エントリ藁メーターであるはてなブックマークは200を越えた。いや300を越えたのか、よくわからんが(参照)。この状況をいち早く察知したネット界の情報韋駄天・出会い界伊達男栗先生が”GIGAZINE予報ならぬ「finalvent予報」”(参照)を立てた。


こういう料理レシピ物には必ず彼は食いつくよ。ネタでくるか本気で来るか。明日の極東ブログで食いついてくれば面白いんだけど。でも極東メソッド的にはこう指摘されると食いつけないところ。さて、どう出る?

 つうわけで、ネタに食いつくことにしたよ。とはいえ昨日のエントリは、このところ考えていることの最終部でもあるのでそっちを優先した。
 でだ、鯖味噌かよ。
cover
魚料理いろは
野口日出子
 GIGAZINEのネタ見ましたよ、と。いやはやなんつうか、私だって鯖味噌くらい作れますよ。しかし、これが料理ネタなのかと小一時間ってほどではないけど、元ネタのAll About男の料理「簡単! フライパンで作る 鯖味噌煮」(参照)もな。だいたいが鯖味噌喜んでいるようじゃオッサンじゃないですか、ってかオッサンか俺。
 鯖味噌のコツ? 鯖を選ぶことですよ。他に何か?
 ってことで、当方では、鯖味噌の話はしない。あるいは別の機会に。
 ワタシ的には、料理というのは、シンプルで、エレガントで、え?と驚くようなのを紹介したいんですよ。でないとネタにならないじゃないですか。日本人が普通それはしないでしょみたいのだったら特にイイ。で、シンプルな調理のなかに、finalventさんの感性がきらりと光るような光るような光るよう……光り物だな、じゃ、鯵だ。ちと旬が違うが、このところよく出回っている。
 というわけで、すごくシンプルな鯵のホイル焼き、バジル風味。
 必要なのは、鯵、塩、ドライバジル、ホワイトペパー、フライパン、アルミホイル。
 難しいポイントがあるとすれば一つだけ。魚屋で鯵を買え。GIGAZINEのレシピみたいに発泡スチロールの皿に切り分けてあるような魚を買うんじゃないよ。
 魚屋で鯵を買え、というのは魚屋を選べということ。魚は魚屋さんが知っているのだ。日本男児いや御妙齢でも、旨いものが食いたければ、魚屋と懇意になるしかないてな説教はさておき、魚屋で鯵をおろしてもらう。いや恥ずかしい話、ヴェジタリアンの私は魚がおろせないのである。
 魚店さんが必死の時間でなく親切な感じだったら鯵くらいちょいとおろしてくれるものなので、「塩焼き用に」と声をかける。
 ここまでクリアできたらもうあとは簡単。
 鯵の片面にすーっと包丁を入れる(両面入れてもいいが)。塩を染ませるためだ。そして全体に塩をまぶす。一尾に小さじ一強くらいか。そして、しばらく置いておく。つまり、塩を染ませるため。二十分くらい置くのいいが十分くらいでもいい。
 染み出した水をキッチンペーパーで軽く吸い取る。そして、鯵の全面にドライバジルとホワイトペパーをかける。ぱらぱらと少量を全体に。ドライバジルはけっこう普通のスーパーでも売っているのでよい。
 これをアルミホイルできっちりくるむ。きっちり。
 フライパンに乗っけて弱火、つうか、とろ火で十分から十五分ほど焼く。このときフライパンは簡易に蓋をして熱効率を良くすること。
 オーブントースターでも普通のオーブンでもできる。200度くらい。汁がこぼれないように注意。

鯵のホイル焼き

 これで上がりでもいい。
 これにオリーブをかけてもよいが、かけないほうが鯵が味わえる。
 ホイルから取り出して皿に載せ、ホイルに残る汁にバターを溶かし、レモンかワインビネーガーを少し垂らして簡易ソースにすると、あれま、おフランス料理。
 つうことで、あとはシャルドネがあるとなおよい。QbAとかでもよい。

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2007.02.09

社会システムとルール社会を越えていくもの

 世界と「私」はどのような関係にあるのか。その関係はどのように変遷し、今、どう変わろうとしているのか、といった、青臭いネタを書く。話を簡素にするために、叩き台的に哲学者竹田青嗣「『自分』を生きるための思想入門」(参照)を使うが、話の本筋は竹田の議論にそれほど依存しなくてもいい。ただ、その場合は議論が煩瑣になるというくらいだろうと思う。

cover
「自分」を生きるための
思想入門
竹田青嗣
 同書については、ちょっと哲学志向のある高校生や大学生は読んでおくとその後人生が楽になるかもしれない。哲学プロパーな人は些細な点でいろいろひっかかえって途中で放り投げてしまうかもしれない。竹田の著作史的には、初期の現象学とこの時期特有の橋爪大三郎との交流の影響がある。それでも本書の大枠は比較的近著「人間的自由の条件―ヘーゲルとポストモダン思想」(参照)までの射程を持っている。というか、むしろ先の本書のほうが竹田思想のコアが見やすい。
 まず古典的な世界象は未だ国会の馬鹿騒ぎや各種のブログなどもよく見られるが、次のようなものだ。仮にフェーズ1としておく。

ひと昔前多くの人が抱いていた社会像は、大きな権力がまずあって、その権力が一般の民衆を支配し抑圧している、というものでした。民衆はそれぞれの生活の欲望を持っているけれど、この民衆の生活の欲望を、大きな権力が抑圧し、支配しているという図式が基本的にあったわけです。
 したがって、このときには、この大権力をどうすればひっくり返すことができるかということが思想の中心問題だった。マルクス主義は基本的にこういう問題の立て方をして、それなりの支持を得ていたわけです。
 ところが、最近では、大きな権力ということは推定できなくなった。たとえば、かつての強力な天皇制権力といったものは今では見当たらないし、日本の政治権力がさほど強力な一枚岩ではないことは誰でも知っています。諸悪の根源としての大権力があってそれを倒せばいいという図式は、人々の生活実感からひどくかけ離れたものにならざるをえない。するとマルクス主義の図式では、現代社会を批判したり、攻撃する目標が成り立たないのです。

 本書が書かれた十五年前に比べれば、そうした世界認識はごくあたりまえのことではあるが、それでも、日本社会には歯止めのない恣意的な検察正義が存在したり、この古典的な洒落にもならない「諸悪の根源」をかき立てるレトロな人々がいる。露骨な大衆扇動でもなければこんなバックラッシュは捨て置いていいだろう。
 これに対して「社会システム」論が登場する。これをフェーズ2としよう。

 日本に輸入されたポスト・モダンの「社会システム」の考え方は、要するに、新しい批判の「目標」を設定する理論として受け入れられたわけです。
 つまり、今や批判の対象は目に見える大権力ではなく、高度消費社会という「社会システム」そのものだ、ということになります。(中略)ある権力という中心があって、それがピラミッド的に人々のさまざまな欲望を支配しようとしてるのではなく、むしろ民衆の欲望そのものがルールの網の目を通して延び広がっていって、全体として大きなシステムを作っているととらえるのです。

 網の目がネットワークと同義であることに留意したい。さて、社会システムにおいて権力とは、「欲望の網の目の流れの中の要所要所」に作られ、多様な欲望を調整する機能を持つとされる。これがフェーズ2の特徴でもある。

 この「社会システム」の考え方では、個々の人間の欲望とシステムを支える小さな権力は「互いに支え合っている」ことになります。システムは人々の欲望(消費欲望)をうまくあやつって決して不満が出ないようにシステムに加担させている、ということになるわけです。

 ここで、竹田は(あるいは竹田と限らず)、欲望が「消費の欲望」に無前提に結びつけれている。ここに現代人はある違和感を感じるかもしれない。なぜなら、ネット社会おける欲望はそのような形態から逸脱しつつあり、しかもその逸脱性がシステムによるカネの統制に結びつかないからだ。
 では、なぜこのポストモダン的な世界論において、欲望が「消費の欲望」に無前提に結び付けられたのか。私はこう考える。つまり、「社会システム」の考えは、高度消費社会、つまり、高度資本主義批判という構図を取りたいからだ。その意味で、フェーズ2の大枠にあるのは、リヴァイズドなマルクス主義そのものであるし、実際にこの議論はうっすらとした社会主義的な倫理の脅迫性を伴っている。
 さらに言えば、生産性として議論されているネタは、実は高度資本主義社会においては、それが消費によって逆に規定されていることにも、現代の視点では気づくことができるだろう。生産性向上といった議論は現実には消費の関数に過ぎない。では、「消費とは、欲望とは何か」というとき、その消費される対象は物ではなく、使役快楽としてのサービスになっている。ネタとして言えば、おそらく経済学の根幹に誤りがあるのだろう。一個のリンゴの価値は、もやは、それを取るための労働に依存するのではなく、美少女が取りに行くか、オッサンが取りに行くか、機械で採集するか、の差異である。
 竹田の議論の時代ではまだ社会システムの考えが意味を持っていた。しかし、現時点では、単純に言えば、このフェーズ2もフェーズ1同様、すでにナンセンスだとしていいだろう。では、何が現代の意識を変えているのか。あるいは、欲望の方向性を変えているのか。
 竹田は社会システム論を批判し、これに対して「ルール社会」を提起する。あるいは、人と社会の根源的な関わりはルールだとする。

 欲望論の考え方では、社会とはいつのまにか人間が作ったルールの体系です。このルールを変える力は人間の集合的な「エロス原理」です。どんな社会制度も、この欲望の本性と原理を変えることはできません。資本制そのものがルールを作っているという考え方はあの抑圧感や不全感を説明するための”神話”にすぎません。
 そもそも資本制は、人間の欲望の本性が経済的な領域で表現されたものであって、資本制は欲望の形を変えますが、欲望の本性を作るのではありません。ほんとうはその逆で、欲望の本性が資本制を作り出しているのです。

 ではルール社会はどのような世界象を描くのだろうか。
 その理想像の要件を彼はこうまとめる。ここから描けるルール社会論がフェーズ3だとしよう。

 これを実現するために考えられる前提は、まず、すべての人間があらゆるルールの下に対等であること、次に、ルールを変更するルール(またはこれを変更するルール……)に対してやはりすべての人間が対等な権利を持っていることです。社会が、「エロス原理」に基づくゲームであるとすると、このことが、社会とルールの関係において目指されるべき唯一の公準なのです。
 近代国家(社会)がこの公準をなかなか実現できない根本の理由は、国家間対立による国家権力の集中という要請によります。

 このあたりは現在の竹田思想に繋がってくるのだが、こうしたルール社会は可能なのだろうか。その障害は国家権力なのだろうか。もちろんそれは明確にあるし、それ以上の極めて困難な問題の萌芽もある。
 私は、このルール社会、フェーズ3の可能性は、歴史段階の可能性としてもう終わっているのではないかと考える。理由は単純だ。竹田のいうエロス原理は「集合的」な特質に拘束されているのだが、現在、個がエロス原理から隔絶するほどに抑圧されていくと見るからだ。現在において個人はその非匿名性によって売買される商品のような存在ではありえても、エロスの単位とはなりえない。
 この辺りの議論は、もう少し丹念にすべきなのだが端折る。
 我々は、個人としてのスタンスでその人生の目的たるエロスを開花することはもはやできない。ネタ的に言うと、非モテは美少女を欲望することなく、ヤラせてくれそうな評価の経済学に嵌って行動するしかない。そしてそのエロスはその個人であることの特性を越えて幻想に辿り着く他はない。
 ここで新しい世界像を得るために、人間の欲望というものの基本像を竹田から借りてみる。

 つまりわたしの言いたいことは、日常の愉しみは美やロマンを消費する愉しみですが、同じ美やロマンを味わう欲望でも、恋愛の場合は日常という境界線を越えて出て「超越」へ踏み出すような性格を持つということです。
 人間の欲望は煎じ詰めると、自我を維持保存し、拡大しようとする欲望と、逆に自我の枠を解き放って自我に掛かっている緊張を解き放ちたいという欲望の二つに分かれる。後者の欲望はまた追い詰めると、「超越」への欲望に近づいていくと言えます。

 この欲望の現象学的な認識は時代性に拘束されない。
 現在の私たちは、個人、あるいは実存たる個の原理性を奪われている。あるいは、その個とは非匿名の名前という商品のようにしか存在しえない。個が名前を持つということは、社会という形態の市場において交換可能な価値を得ることだ。それは、おそらく超越の欲望を買うための基本的な貨幣のような役割を持つ。
 同時にそうした超越を買い取る社会という市場も解体されつつある。あからさまな非匿名あるいは名を貨幣的にするより、ネットを前提として個を解き放つ空間にエロスを見いだすようになる。つまり、私たちは「私」であることを棄てて無名のエロスを希求するようになっている。そうした相互の無名の使役と隷属が快感のパーツになっていく社会が出現している。これが私が考えるフェーズ4である。
 フェーズ4を支えているのは、いわゆるネットの匿名性ではない。そんなものはちょっとネット技術を囓った人間ならありえないことがわかるだろう。というのはその匿名性の議論は常にフェーズ1的な国家権力の相関のなかにあるからだ。匿名性は、「私」の解体の超越的なエロス性のなかにある。
 ではなにがその解体を進めたのか。私は理性の最終的な志向からだと考える。そして、私は理性が非個性の欲望の本源的なエンジンだと考える。
 ここで議論が粗くなるのだが、竹田のカント理解を援用する(ただしこのカント理解は怪しい)。

 カントの考え方をひとことで言うと、人間の理性は、必ず、「世界像」を作り上げ、また「全体性」とか「完全性」といった理念を作るような本性を持つということです。カントはここから彼にとって重要な問題を引き出します。つまり、人間がこの「全体性」や「完全性」という理念を持つことが、人間的な「自由」の根源だというのです。

 この「自由」にエロスの臭いかぎ分けることは容易だろう。竹田はこれを現象学的にこうパラフレーズする。

 つまり現象学的に考えれば、理性の能力が人間に「全体」や「完全」を求めさせるからというより、この世界を生きることが幻想的なゲームであるからこそ、人間はどうしても大きな自由を必要とするのだ、ということになります。目標のないゲームなど面白くも何ともないわけです。人間は言葉によって共通のルールを立て、このルールを複雑にすることで生というゲームに幻想的なエロス(面白さ)を付け加えているのです。

 竹田はカントのいう理性の原則としての自由への希求を、個のエロスの条件として理解していく。
 しかし、2点、そうではないだろう。カントのいう自由はそのままにエロスであり、むしろ超越のエロスだということ。もう一つは、この理性なりエロスなりが想定される個は、理性の運動とエロスの希求のなかに解体されること(完全は個において達成されない)。
 こう言い換えるといい。我々は何かの経緯で、理性を完全とするために、あちら側に信頼し売り渡したのだ。およそ「私」という「個」が不可能である状況のなかで、エロスが最適化されるためには、私というこちら側の個があちら側に移転した。
 そして当然ながら、あちら側に移された人類の理性は、個を失った人間にただエロスだけを授乳のように与えるのである。

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2007.02.08

グーグルは何かを知ろうとしている

 雑記でもないのだがちょっと散漫な話になる。ので、一応結論的みたいのを先に言っておくと標題どおり「グーグルは何かを知ろうとしている」ということだ。何かとは取り敢えず人々の欲望としておく。誤解されるかなと思うのは、私がここで「グーグル」というのはシステムのことであって、その会社の経営者とか開発者という人間を指しているわけではない。
 話の起点は先日のことだ。本田健(著)「ユダヤ人大富豪の教え」(参照)の引用が多いあるブログのエントリについて、はてなブックマークが多数付いたことに、私は奇異な感じを持った。該当のはてなブックマークは「はてなブックマーク - ユダヤ人大富豪の教え : akiyan.com」(参照)である。はてなダイアリーでの引用を含めると四百点近いブックマークとなった。
 私はこの書籍についてフィクションだと思っているしあまり関心はない。が、はてな利用者がこの書籍についてこんなに関心を持っているということに関心を持ち、「本田健」というキーワードを単純にグーグルで調べてみた。
 現時点での結果はこんな感じになる(参照)。少し長くなるが引用する。


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 先の本の著者本田健の公式サイトがトップになり、それにそのセミナーの紹介のようなリンクが続く。先日のNHKスペシャル「グーグル革命の衝撃 ~あなたの人生を“検索”が変える~」(参照)のように、まさにグーグルの結果リストがビジネスに影響するような結果となっている。しかし、NHKの番組も含めそのことはけっこうどうでもいい。私にとってあれ?と思ったのは、この結果ページの末尾にある関連検索のほうだ。

本田健 プロフィール   本田健 経歴   本田健 生年月日
本田健 セミナー   本田 健 写真   きっと よくなる! 本田 健

 なぜこんな関連検索をグーグルが呈示するのか最初は違和感を持った。まず前提となるのは、この関連検索の候補はグーグルという会社の人間の操作によるものではなく、グーグルというシステムが機械的な手順で表示したということだ。
 人々は「本田健」というキーワードについて知りたいのは、そのプロフィールであり、経歴であり、生年月日であり、写真なのだということだ。
 多少修辞のきつい言い方になるが、グーグルというシステムは、「本田健」というキーワードについて特定の関心を持っている。厳密性を期すならその関心は比喩的な意味としてもいい。
 私としてはグーグルに問いかけられたように思い、人々の意識を反映したグーグルの「意識」に関心を持った。つまり、私も、「本田健」というキーワードについてそのプロフィール、経歴、生年月日、写真に関心を持つように促された。そうしてみてわかったのだが、その情報がグーグルのデータベース、あるいは、グーグルというシステムの記憶に含まれていない。
 グーグル以外の手法で「本田健」というキーワードを頼りに情報を収集してみてわかったのだが、単著もあるというのに、書籍奥付などで公開された経歴のなかに生年、出身地、学歴、資格、公的所属といった基本要素が含まれていない。さらに探すと、写真を含めた情報は韓国東亜日報の記事に存在した(参照)。私は韓国語が読めないので自動翻訳を使って記事を眺めてみたのだが、早稲田の法学部を出ていることがわかった。たぶん、トップリストに見える「韓国語版はこちら」というテキスト断片も韓国語情報となんらかの関係があるのかもしれない。
 それにしても繰り返しになるのだが、「本田健」というキーワードについてグーグルが特定の関心を持っているというふうに私には思えるといった状態がここにある。
 ここでふと最上位の検索結果項目の参照情報が気になった。グーグルは、「本田健」というキーワードに対して、オントロジカルに結合するインターネットの情報をどのように理解(組織化)しているのだろうか。結果は私には意外というか少し驚きを伴うものだった(参照)。

「ビジネスの成功」と「人生の成功」神田昌典のサクセス ...これまで年会費6万円のゴールド会員向けに発行していた幻のファクス情報をなんと無料で、電子メールにて定期的にお届けします。業績アップの即効策が満載! さらに神田昌典の新刊情報、講演会情報、無料イベント等のご案内も差し上げます。 ...
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船井幸雄.com|TOP外反母趾のカサハラ ・ IRC株式会社 IRC株式会社 ・ 元気が出るセミナー(鹿島隆正氏) 元気が出るセミナー ・ デトックス「イオナミン」 デトックス「イオナミン」 ・ 美味しとんかつ 弥盛亭(いやしろてい) 弥盛亭(いやしろてい). 船井会長写真 ...
www.funaiyukio.com/ - 19k - 2007年2月6日 - キャッシュ - 関連ページ


 いったい何がグーグルのオントロジーを決定しているのだろうか。明らかに通常のオントロジーでモデル化される規範的な辞書を使っているのではない。インターネットという情報に加え、ウェブ2・0的な人々の参与や関心・行動のトレースをコーパスとして、グーグルのオントロジーが形成されている。
cover
オントロジー工学
 うまく説明できた感じはしないが、繰り返したい。グーグルは何かを知ろうとしている。

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2007.02.07

欲望を監視する社会の可能性

 雑記。先日出先のセブンイレブンに久しぶりに行ったのだが入り口で、おやっと思った。自動ドアになっている。セブンイレブンのドアは基本的に手動だったはずだが(しかも両方から「押す」だけで「引く」はない)、このところ自動ドア化が進んでいるのだろうか。と、気になって中に入るとなにやら明るい。改装したのか。床も滑りにくいような工夫がしてあるようでもある。
 上を見ると毎度毎度のコンビニお得意の監視カメラなのだが、気のせいか増えている。いったい何を監視しているのだろうと少し考える。監視カメラは二種類ある。いわゆるカメラと魚眼なのだろうかカプセル入りみたいなやつ。レジのところに四台くらいある。犯罪防止なのだろうが、案外店員の監視なのかもなとか意地悪い連想が働く。
 昼飯の弁当を買う。小さいカップラーメンをスープ代わりにと思ってあたりをきょろきょろ探す。いつも使っている店でないとレイアウトがわからないものだ。うろうろ見て回る。ちょっと俺って不審者みたいだなとか思う。ようやく発見。それにしても、なんで弁当とカップ麺と棚の距離が離れているのだろうと少し考える。もしかして、客層が違うのか。
 そういえばコンビニを使う客はそのタイプごとに店内巡回の行動パターンが違うはずだろうなとぼんやり思い、そのあと弁当を食いながら、もしかしてあの監視カメラっていうのは客層の行動パターンの検出に使っているのではないかと思いつく。あれだな、実験動物の行動研究みたいな感じだ。
 グーグルの検索結果リストはF字に読まれるみたいに、特定の客層のコンビニ内での行動パターンがわかれば、新製品とかその客層ターゲットの商品配置の効率を上げることができるはずだ。そんなことってあるのだろうか。さらっとネットを見て回ったがそういう情報はない。新聞の過去記事を監視カメラとコンビニであたってみると、犯罪ばっかり。というか、コンビニでこんなに頻繁に犯罪が起きているのかと考え直す。
 そういえば監視カメラが実にあちこちに増えてきた。私が沖縄から東京に戻ってきた四年前はこんなことはなかったんじゃないかと思うがどうなのだろう。犯罪の監視というより、人々の行動パターンを監視しているんじゃないかとしか思えない。

cover
1984年
ジョージ・オーウェル
 まあ、そうだという確信はまるでないのだが、仮にそうだとすると、監視者というのはいわゆる監視というより、人々の欲望の行方が知りたいのだろう。古典的な意味での監視社会というのは、ジョージ・オーウェルの「1984年」(参照)のように、人々の自由の暴発を権力者たちが恐れるが故に監視するということだった。だが、どこかで権力のあり方が変わり、自由を抑制するための監視というより、人々の欲望の行方を、システム(あるいは国家)が欲望するが故の監視になってきたのではないだろうか。なんというかジラール的な他者の欲望のように、システムあるいは国家や超国家が、人間の欲望を欲望するといった構図に変化しているのではないか。
 人間をシステムなり権力が支配した時代はいわば、特定の主体としてシステム中核に傀儡師のような「人間」が想定できた。そしてこれらは被支配の「人間」に照応していた。これが次にフーコー的なパノプティコン監視というシステムによって「人間」への内在と外部の権力が結びついた。しかし現在は、こうした「人間」つまり個の内在倫理に忍び込む権力は、「人間」を解体し、類的な匿名的な人間の欲望に馴致されるように変質しつつある、ということはないか。
 そういえばネットの世界でもブラウザーのクッキー情報などもうあちこちでしこたま蓄積されているはずだが、それがどういう結果を産出しているのかまるで聞かない。
 古典的な監視者はビッグブラザーでもあったが、未来の監視者は我々の欲望と引き換えにビジネスを行うビッグシスターみたいなものなのかもしれないと、まるでコラムの締めのようなことを書いて締めとする。

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2007.02.06

アジアにおけるイスラム教化・キリスト教化

 先日はてなの人気ブックマークのリストから、日本がなぜイスラム化しないのかということのレポート「アラブイスラム学院での講演」(参照)を読んで興味深く思った。以下、関連の雑文である。
 問題提起はこう。


調査の結果わかったことは、日本においてイスラム普及の障害になっているものは二つのタイプに分けることができるということです。―環境的な理由によるものと、ダアワ活動自体によるものです。ダアワ活動が個々の講演において扱われているため、環境的な理由を説明するためにこの講演会を開きました。

 環境にはいわゆる日本文化や日本人の民族性、歴史などが含まれているようだ。「ダアワ」は簡単には「布教」と言っていいのだろうが、イスラム教には布教がなく英訳的には「招待」とされているようだ。
 なぜ日本にイスラム教が普及しないのか。このレポートでは触れてないようだが、キリスト教が普及しないのと類似の理由だろう。あるいは、日本においてキリスト教が普及せずにイスラム教が普及するような可能性というのがあるとすればなんだろうか。まったくないわけでもないようには思えるが、想像しづらい。
 台湾でも韓国でも沖縄でもそうだがキリスト教徒の比率は日本本土より高い。あまり知られていないのだが中国本土のキリスト教人口は少なくない。もちろん正確な数値はわからないのだが、とウィキペディアを見ると興味深い指摘がある(参照)。

Estimates of Christians in China are difficult to obtain because of the numbers of Christians unwilling to reveal their beliefs, the hostility of the national government towards some Christian sects, and difficulties in obtaining accurate statistics on house churches. However, some analysts have estimated the number of adherents to be about 16% of the Chinese population, 10% of which are Roman Catholic.

 総人口の一六パーセントというのはあり得ないようにも思う。仮に一〇パーセントとすれば日本の総人口に近くなる。BBC”China's Christians suffer for their faith ”(参照)ではこう。

Getting reliable numbers about the number of Christians in China is notoriously difficult. Estimates vary between 40m to 70m Protestants, only 10 million of whom are registered members of government churches.

 最大で七千万人。ただ、これも抑制していてこの数値と見ることができるので、例えば布教に熱心な米国キリスト教派にしてみると中国はとても魅力のある布教予定地にはなるだろうし、その推察は実際の政治的な局面に今後さらに強く反映されるのではないだろうか。
 話をイスラム教に戻すと、世界最大のイスラム教国は言うまでもなくインドネシアである。総人口が二億人で、その多数がイスラム教徒である。また、バングラディシュやパキスタンなども強固なイスラム教国なので、イスラム教はアジア的な浸透力を持っているともいえる。
 ただ、実際には各ナショナリティがこれらをイスラム教のバリエーションを基底的に拘束しているのではないか。先のイスラム布教のレポートでは特に明言されていないがスンニ派であろう。これに対して同じイスラム教といってもシーア派はイラン文化というかペルシャ文化の歴史風土を強く反映しているように見える。その分、シーア的なイスラム教のアジアへの伝搬は弱いのではないだろうか。
cover
イスラーム文化
その根底にあるもの
井筒俊彦
 話が散漫になるが欧州はこのまま移民が流入していけば将来的にはイスラム圏になるという話をソースを忘れたがテレグラフか何かで読んだ。スンニ派的な穏健なイスラムが西洋近代化の枠組みと調和していけばいいように思うが、教義における柔軟性の鍵とも言えるイジュティハード(参照)においてスンニ派が一番保守的でもあるので、そうした穏和な未来世界を想定するのは難しいのかもしれない。
 この機に八一年刊行の井筒俊彦「イスラーム文化 ― その根底にあるもの」(参照)を読み直したが、ポパー説を援用しながら、この時点で文化の衝突とイスラムの重要性に触れていたことに驚いた。同書は現在のイスラム圏理解の基本的な書籍となるだろうし、講義録らしく井筒の書籍のわりには読みやすくわかりやすい。

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2007.02.05

線維筋痛症と産後鬱病のことを僅かに

 昨日知人と食事をしたおり女子アナが自殺したという話を聞いた。私はその分野に関心がなく、ふんふんと聞き過ごしていたのだが、産後というのと身体が痛む病気だということでよもやと思い、後でネットのニュースで確認した。

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線維筋痛症とたたかう
未知の病に挑む
医師と患者のメッセージ
 女子アナというので私は二十代の女性を想像していたが、四三歳のベテランとのこと。産後一年以内。病気は線維筋痛症(Fibromyalgia)とのことだ。自殺原因については子細にわからないし、あまり関心も持つべきではないだろう。ただ、産後一年以内ということと線維筋痛症という点に心は引っかかった。女性は産後一年以内に鬱になりやすいし、線維筋痛症は米国の患者数から考えると日本にも潜在的にかなり存在するだろうが、あまり日本社会では問題になっていないように以前から考えていたからだ。
 このエントリでは別段変わった見解を書くわけでもないし、現在苦しまれているかたに役立つ情報を提供するということにもならない。が、以前から気になっていたことでもあるのでこの機会に簡単に触れておきたい。
 線維筋痛だが、メルクマニュアル家庭版の情報が詳しく信頼がおける(参照)。線維筋痛には各種あるが、全身性線維筋痛については女性に多い疾患だ。

全身性線維筋痛は、女性が男性よりも約7倍多く発症し、痛みとこわばりが広がり、全身が痛む病気です。原発性線維筋痛症候群は、全身性線維筋痛のバリエーションの中では最も多く、若いまたは中年期の女性に起こり、基礎疾患がありません。

 原因はわかっていない。

全身性線維筋痛の原因は通常は不明です。原発性線維筋痛症候群も原因は不明です。全身性線維筋痛は、肉体的または精神的ストレス、睡眠不足、反復する疲労、外傷、慢性的に湿気や寒冷にさらされる気候、などによって悪化します。

 この疾患に私が関心をもったのは化学物質過敏症となんらかの関係がありそうな点だ。もっとも強い関係とは言えないし、まして原因であるというわけではない。同じくメルクマニュアル家庭版の多種類化学物質過敏症候群の項目より(参照)。

 多種類化学物質過敏症候群は、自然環境にごく普通に存在する多様な低レベルの化学物質にさらされることで誘発される病気です。
 この症候群は男性より女性に多くみられます。慢性疲労症候群患者の40%、線維筋痛患者の16%が、多種類化学物質過敏症候群を併発します。

 線維筋痛患(FM)、化学物質過敏症候群(MCS)、慢性疲労症候群(CFS)、にはなにか関係があり、さらにこれら全体に心理的な問題も関係しているように見える。ただし、心理的な原因で起きるというわけではない。あるいは心理的な症状は神経系の問題の副次的な表現なのかもしれない。また、遺伝的な要因も考えられるようだ。
 話が少し逸れるのだが、私の化学物質過敏症への関心は、嗅覚への関心に連なっている。ごく個人的な関心なのだが私は子供のころからなぜ嗅覚というのはこんなに人によって違うのだろうと疑問に思っていた。いわゆる味の感覚は嗅覚との総合でもあり、人の味覚の差異というものも不思議に思っていた。
 さらに微細な嗅覚が人間の無意識的な記憶と強く連結しているとしか思えないのに、あまり語られることがないようなのはなぜなのだろうか。嗅覚をトリガーする物質はほんの僅かなのに我々の無意識は実際にはかなり強く反応しているように思える。いわゆる恋愛といった人間関係においても嗅覚は少なくない比重を持っているように思える。だがあまり体系的に語られたことはないのではないか。
 話を少し戻して、もう一つの点、産後鬱病だが、これは一般的にはマタニティ・ブルーのように扱われることがあるが、そうした延長だけではないようだ。同じくメルクマニュアル家庭版の同項目より(参照)。

産後3日以内に生じる悲しさや惨めさなどの感情は、マタニティーブルーと呼ばれ、多くの人が経験します。こうした感情は通常は2週間以内に治まるので、あまり心配することはありません。産後うつ病はこれより重症の気分の変化をいい、数週間から数カ月間続きます。このタイプのうつ病は女性の約1%にみられます。さらに重症で、ごくまれなタイプの産後うつ病は、産後精神病と呼ばれ、精神病的な行動を伴います。

 線維筋痛症も産後鬱病も、一般的な人の生活では病気であると認識しづらい面があり、そうこうしている内にそれが深刻な人間関係の問題に波及することがある。そうした不幸にはある程度社会の側から予防が可能だろうが、私が無知なだけかもしれないが、あまりメディアで語られることがないように思える。

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2007.02.04

母に成りたい未婚女性

 先日レコーダーに貯めてある番組からNHK BS世界のドキュメンタリー「子どもがほしい」(前編) というのを見た。後編も少し見たのだが、前編のインパクトを自分が消化できないで頭が混乱している。こんなときはブログにでも書いてみるか。
 番組の制作は英国チャンネル4でちょうど一年前のものらしい。概要についてはグーグルのキャッシュに残っていた。ついでなんで前編後編部分を結合しておく。


 女性ひとりでも経済的な自立が可能となった現代、イギリスでは結婚しなくても子供はほしいと願う30代後半の女性が増えている。女性は、35歳を境に妊娠の可能性が低下するためだ。2回シリーズの前編では、夫や恋人がいない30代後半の女性4人が母親になるという希望をかなえるため、その方法を模索し、自らの決断に立ち向かう姿を追う。2回シリーズの後編は、第三者からの精子提供による人工授精で、妊娠を目指そうとする3人の女性の姿を追う。

 前半はその三十代後半の女性四人なのだが、実質的には三人。その映像の追い方がすごい。すごいリアルな感じだ。日本人の女性ならここまで見せるだろうかというくらいその存在感と主張がある。欧米人ってこうなんだよな引くなぁというのが率直な印象。
 彼女らは未婚または離婚で男性パートナーはいない。番組では妊娠可能かの検査場面が全員にある。各種の医学的な検査でその女性が妊娠可能という観点での年齢を告げる。三十代半ばで本人は若いと思っていたけど検査したら四十代という女性が泣いていた。こういう検査は日本にあるのだろうか。いずれにせよ、日本だと高齢出産もいいよみたいな雰囲気なのでこういう切迫感的なメッセージは嫌われるだろうな。
 ちょっと記憶が混乱しているが、私のまとめでは四人はこう。いい男の出会いのチャンスはないかな(これはまあだから論外でもいいか)、男を探して妊娠したい(実際番組の終わりで妊娠したがその実際の経緯がよくわからない)、人工授精にしちゃおう、養子を貰いたい、といった四ケースである。
 いずれも、母に成りたい、母に成らなくて自分の人生は完成されないというメッセージががんがん伝わってくる。そこまで母に成りたいものなのか、女というのは、というあたりで中年男の私は圧倒される。
 次に圧倒されるのは、男と精子提供者との認識の位相というか、え゛っそうなのかという驚きだ。未だにうまく言葉にならないのだが、精子への要求レベルがけっこう高い。ちょっと言い方は悪いのだが、子供をデザインしたいのかなといったような印象も受ける。この点は後編の頭に出てくるアフリカ系女性のケースでもそうなのだが、ルーツに繋がる精子が欲しいというのがあるようだ。前編ではユダヤ人女性にその傾向があった。女性によっては自分の民族の血を自分でつなげたいと思うものなのか。そういう血統的な民族意識っていうのはなんなのだろうと思った。
 人工授精のシーンも私にはけっこう衝撃的だった。映像的には別になんの衝撃的でもない。あー、今日の精子は元気いいわよぉ、ぷすっ、っていう感じだ。局所は映像には出ないけど、最中の映像はある。え、今のシーンって挿入かよ、みたいに見ている私のほうが三十センチずんと引いた。
 人工授精はけっこうお金がかかるようで、その分、効率よくうまく妊娠したいという経過も、現実にこうして映像として見れば、ビジネスとして見れば、当たり前なのだが、私などには想像もできなかった。
 この人工授精にトライしている女性は番組終わりでは恋人ができるのだが、恋人も人工授精を続けたらみたいに話していた。そういえばこの母親も、人工授精でも子供があるといいわねという感じだった。このあたりの感性と先の民族の血統を求めるというのと、そりゃ考え方の違いでどっちもあり、ということなのだが、私はけっこう頭が混乱した。
 ネットを見ると関連してこんな記事もあった。”Big Brother company's latest plan: 'sperm race'”(参照)である。あえて試訳は添えない。

Television producers were criticised yesterday over reports that they are developing a reality show in which men would compete for a chance to father a child and then take part in an on-air "sperm race".

In the show, which has been mooted by the company that makes Channel 4's Big Brother, up to 1,000 men would attempt to convince a woman to pick them as the father of her first child by impressing her with their intelligence, sex appeal and fitness.

A second sperm donor would be chosen on the basis of genetic compatibility, and the two finalists would then take part in the sperm race in which the insemination process could be filmed using new technology.


 これが今回の番組と関連しているのかよくわからない。
 番組に戻って、自分にとって何より意外だったのは、と言うこと自体本当に恥ずかしいことなのだが、養子が人工授精より難しいようにとらえている点だった。
 私は養子というのは、世界意識のはっきりしてない乳幼児が得られるのかと思っていたが、そうではない。いろいろ厳しい手順があって、彼女は六歳の女の子を貰うことになった。が、結果はダメになる。その理由が、彼女の姉の恋愛というものだった。何故それが理由?とか、当の女性も思うし私もそう思うのだが、いろいろ理由があるらしい。
 養子を受け入れる体制のなかでこれも意外だったのだが、父親像となる男性との交流が求められる点だった。未婚でも養子を得ることができるのだが、その子の父親像となる男性が生育環境に必要となるらしい。言われてみればそうだが。
 番組はNHKで放映されたため、NHKの解説員のコメントが番組の前後に入っていたのだが、ようするに日本では未婚女性は人工授精も養子も取れませんが参考になるでしょうみたいな感じだった。
 解説を責める気持ちはない。だが、番組を見ていて、後半途中で私は、どうよどうよ日本ってどうよと全員この番組見れぇとか頭がパニックになった。

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2007.02.03

機械は意識を持つか。コンピューターは意識を持つか。インターネットは意識を持つか。

 結論を先に書くと、機械は意識を持つか。イエス。コンピューターは意識を持つか。イエス。インターネットは意識を持つか。イエス。
 昨日「極東ブログ: デカルト的な考えによれば人間の身体は機械である」(参照)を書いたおり、私は意図的に機械主義についてオートマトンから始め、デカルトとその後継の機械主義を分け、「デカルト的な考えによれば人間の身体は機械である」とし、けして「デカルトの考えによれば人間は機械である」とは書かなかった。デカルト自身は人間の総体については機械とは考えなかったからだ。
 デカルトは、雑駁に言えば、人間の精神は別に存在し松果体によって身体と結びついていると考えていた。また、その精神こそが動物と人間との差異として考えた。このような人間の超越性についての考えの延長には現代ではチョムスキーの思想が存在する(彼はUGの構成性をピアジェが知性の基底を扱うような進化論的な獲得のプロセスモデルとして示さない)。また、非常に微妙なのだがベルクソンの思想もこの延長にある。が、その話は今回は触れない。

cover
意識する心
脳と精神の
根本理論を求めて
デイヴィッド・
J. チャーマーズ
 デカルトの松果体についての考えを今日支持する人はいないだろう。だが、デカルトが象徴的に端緒となった、人間をその精神を含めて機械と見る考えかた、つまり、オートマトンと見る考えかたは、現代科学の基礎にある。人間はその精神機能である脳を含めて機械として見られる。
 さてではその機械主義から、必然的に出てくる問いは機械は意識を持つかという問題だ。現代的には脳という機械は意識を持つかとしたほうがわかりやすいかもしれない。
 答えはイエスである。簡単な説明を選べばこうなる、なぜなら機械である我々は意識をすでに持っていることが前提とされるからだ。我々人間は機械である。脳も機械である。そして人間または脳には意識があるとされている。では、機械は(機械の有りようによっては)意識を持ちうると言うほかはない。そうでなければ、人間は機械ではない生気論的な要素が加わるというのだろうか。
 機械が意識を持つかという問いは、ロボットが意識を持つかという問いにしてもいい。こうすればさらに簡単に説明しやすい。ロボットは意識を持つのは、鉄腕アトムやドラえもんを想定してもいいだろう。彼らは意識を持っている。例外もある。鉄人28号はそうでもない。しかしジャイアントロボは最終的に意識を獲得したようでもある(テレビ版)。あるいは鉄人28号の意識は実は正太郎の意識のクローンであるロビーが担うことになっていた。
 ロボットの意識は、その脳であるコンピューターに問われる。その意味で、機械が意識を持つかという問題は、そのままコンピューターは意識を持つかという問題になる。この考えはソフトウェアエンジニアに問うてみるとはっきりするだろうか。コンピューターは意識を持つのは当然であり、ソフトウェアはその意識を表現したものだ、となるだろうか。いずれにせよ、意識をプログラムできるか?
 人間存在とその脳が機械であり、それらが進化の過程によって形成されたのなら、言わば発見的な手順によってプログラムされたことは自明である。であれば、意識はプログラム可能だとしかいいようがない。これを否定するには初期条件に神か何か知的存在よる意匠(デザイン)を想定するしかない。するかね?
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ウィトゲンシュタインは
こう考えた
哲学的思考の
全軌跡1912‐1951
 こうした問題領域には一定の、超越をもって解としたくなるような、陥穽的なアポリアがあるようだ。例えば、一般に話題とされる初期ヴィトゲンシュタインとは違い後期というか最晩年の彼は「私」という意識にある特権性を見ていたようだ。ゲーデルも、彼自身オートマトン理論の援用で不完全性定理を編み出したとも言えるが、後年のライプニッツへの傾倒も含め神の実在を確信しており、かなり雑駁に言えば、特殊な神秘論に傾倒したふうでもある。この問題はアポリアの回避、あるいは問題の意味の問い直しが起点になるかもしれない。
 この問題について、私は大森荘蔵の考え方を理解しようと努め、大筋彼の考え方に近いものを持つようになった。機械は意識を持つか。持つ、当然である、と。
 「物と心」(参照)で彼はこの問題の理路を振舞いから説明する。

 ロボットの意識の有無もまたこれらと同様、ロボットの振舞いがいかなる相貌で見えるかという問題であり、いかなる相貌で見るかはわれわれの知的、道徳的等々の素養に根ざし、逆にロボットに対するわれわれの知的、道徳的等々の態度の一表現なのである。


(前略)だがそのようにロボットに対してきた人が、ロボットと交渉が密接になり、ロボットのつきあいの歴史が積み重なってきた場合にはどうであろう。心のかたくなな人でないかぎり、いわば情が移るのではあるまいか。教え、教えられたり、いっしょに泳いだり、忠言を受けたり、看病をしたりされたり、危急を救われたり、同じ釜の飯を食べたり、つまり、深い「人」づきあいをした後には、彼のロボットに対する態度は変わってくるだろう。彼はロボットを傷つけようとはせず、その苦しげな振る舞いにはいたく心を動かされ、彼に対して愛情を持つだろう。このとき、彼はロボットを「無意識」の相貌では見ていないのである。少なくとも「迷い」の相貌で、あるいは「ロボット的な意識がある」相貌で、ときには「人なみの意識がある」相貌で見ているのである。

 ロボットと一緒に釜の飯を食うといった大森らしいシュールなドラえもん的な文体が愉快だが言っていることは単純で、我々の振る舞いが意識の有無を決定しているとしか言えないのであり、また人工知能はそのように発展するしかない。別の言い方をすれば意識の有無あるいは各様態を含む諸意識の存在は、リトマス紙のようなもので検出できるわけではない。蛇足ながら、繰り返しになるが、その意識の検出の志向は超越を志向する陥穽のアポリアとなるのだろう。
 大森はこうした振る舞いは彼らとの付き合いの歴史性に寄るとしている。

同じように、ある人にとっては「猫的意識」や「馬的意識」があり、虫めづる姫君にとっては「昆虫的意識」の相貌すらあっただろう。これらさまざまな派生的な相貌が、中核となる人間意識の相貌にコングロマリット的に連なってきている。ロボットの意識がこれに加わるとすれば、その連なり方は犬や猫の意識が人間意識に連なるしかたとは別系統のものとなるだろう。しかし、ロボットの振舞いがますます洗練され、ますます生き生きとしたものになるにつれ、その「意識をもつ」相貌はますます人間意識に連なるにちがいない。

 機械は意識を持つか。イエス。コンピューターは意識を持つか。イエス。コンピューターに知性の振る舞いを期待すれば人間知性を拡大した意識を持つようになるだろう。
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大森荘蔵著作集
(第4巻)「物と心」
  しかし大森の指摘で重要なことはロボットが意識を持つか持たないかという問題より、それがどのような意識を持つかという点だ。つまりこうした存在の意識のあり方は人との関わりの歴史が決定するとしている。この含蓄は興味深い。動物など諸生物の意識は人との関与の関係性や進化的な発現によって限定されており、当然ながら動物としての人間の意識のあり方もその進化過程による類縁の性格を帯びる。これに対して、ロボットやコンピューターは最初から人間がそれらに対して求める道具的な関係性、あるいは拒否されない欲望の関係性のなかでその意識が発生することになる。この示唆は最後の問い、インターネットは意識を持つかにも関連する。
 インターネットは意識を持つか。イエス。これは一面では簡単というかトートロジーだ。なぜなら、インターネットの情報性は人の意識の断片の参与を含みこんでいるからだ。むしろこう問わなくてはならない。インターネットは人の意識を総合した上位の意識を持つか、あるいは、インターネットはどのような意識を持つか。
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ようこそ地球さん
星 新一
 答えはその上位のレイヤーを自己組織化する情報システムへの創発性による。ここで創発にグーグルの進化を比喩にしてもいいかもしれない(特に学習による検索を越えて知的処理を加えたコーパスベースのオントロギーが採用されつつある)。人間がインターネットで何をしているか。それは、人がその新しい関係性の歴史として、人が求める神の意識というものを出現させようとしているのだろう。


追記
 ブログらしくおふざけも入れた議論をしたせいで不要な誤解や揶揄・罵倒のつけいる余地を与えたかもしれない。またそもそも粗雑な議論であったかもしれない。
 コメント欄にて私の考えが大森哲学とかけ離れているといった指摘を受けた。コメント欄に返信してもいいのだが無用な議論を避けることと、この問題は基本的に他我論の構図を持っているということを示す意味でも、彼の晩年思想に近い「時間と自我」(参照)の序文を引用しておきたい。昨今の流行でいえば「マリーの部屋」問題にも関連するのだろうが。


 今一つの主題である自我の概念についての探求では、それとペアになる他我概念を避けて通るわけにはゆかず、本書では自我よりも他我が主題であるかの如き観を呈している。周知のように他我については他我問題(Other Mind)という名で主として英米の分析哲学の中で公認の難問とされてきた。私はそれを難問とする原因を取り出すことから始め、つでその原因を回避する様に他我概念の意味をいわば設計し、その設計に従って他我を製作するという方法をとった。この過程で最も参考になったのは、全盲の達っちゃんという子供が青眼の子供たちと自然な交信ができたという幼稚園の報告であった。それは視覚経験を全く異にする、それゆえ極端に隔絶した他者同士の間で相互理解が可能であることを示すことで哲学者の哲学的議論を嘲笑するものだからである。それゆえ私のとった方法は、現実の日常生活の中で実用されている他者の意味をお手本にしてそれにできるだけ近い意味を意識的に制作してみせることであった。

 この文脈でという限定になるが、ここで記載されている盲児をロボットに置き換えれば、エントリ中に引用した「物と心」における大森の考えに一致することは明らかであろう。応答のメカニズムが意識の有無ないし諸意識の様相の有無を規定するのではなく、我々人間社会の経験的な歴史的な応答のありようから他者の意識が制作されるのであり、ロボットであれ変わることろはない。
 余談だが同書の大森の議論では結果的に「クオリア」を無用とすることになるのも興味深い。

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2007.02.02

デカルト的な考えによれば人間の身体は機械である

 柳沢伯夫厚生労働相が先月二七日、松江市で開かれた島根県議の会合の講演で「産む機械、装置の数は決まっている。あとは一人頭でがんばってもらうしかない」と発言し、その場で本人が失言に気が付いて「機械と言ってごめんなさい」と謝罪しさらに「産む役目の人」と訂正し、会合では特段問題もなかったものの、その後なぜだか、一度たりともは女性を「産む機械」に喩えた発言をした事実は許し難いということなのか、政局を左右する大問題になり、野党は柳沢厚労相の辞任を求めるに至っている。
 まったくもって女性を機械に喩えるといったことは人間の尊厳を踏みにじる許し難い考えかたであり、そのような思想を持った人間は政治の場から即刻取り除かなくてはならない……ということなのだろう。違うかな。
 私にはよくわからないが、まあ、そういうものだろうと思うことにしておく。ここで疑問とか抱いて、どうなんでしょね、とか書いたら、変なとばっちりとか罵倒のコメントを山のように戴くことになるかもしれない。それは嫌だな。やっぱ、黙ってよ。
 ところで、機械といえば、人間の身体は機械であると考えられる。
 私がそういう考えを持っているわけではない。西洋哲学的には、そういうもんだということで、ウィキペディアのAutomatonを読んでみよう(参照)。
 まず、Automaton(オートマトン)とは何か。


An automaton (plural: automata) is a self-operating machine.
(試訳)
オートマトンとは、自律的に動作する機械である。

 つまり、他に操作者(operator)を必要としない機械を指す。
 さて、我々近代合理主義、つまり似非科学や偽科学を否定した現代文明の人間観の基礎を築いた、あるいは表現したとされるデカルトはこう考えている。

A new attitude towards automata is to be found in Descartes when he suggested that the bodies of animals are nothing more than complex machines - the bones, muscles and organs could be replaced with cogs, pistons and cams. Thus mechanism became the standard to which Nature and the organism was compared.
(試訳)
オートマトン(自律機械)に対する新しい対応はデカルトによって見いだされた。それは彼が、動物の身体とは複雑な機械以外の何物でもないと示唆した時のことだ。つまり、骨、筋肉、諸器官は、歯車、ピストン、カムなどに置き換えることが可能である。よって、その機械としての働きは、自然と生物体が比較される標準となる。

 こうした我々の似非科学や偽科学を否定した現代文明の考えかたも哲学的には一つの立場に過ぎないのかもしれないということで、この考えかたを哲学的には機械主義(メカニズム)と呼ぶ。ウィキペディアの項目にはこうある(参照)。

In philosophy, mechanism is a theory that all natural phenomena can be explained by physical causes. It can be contrasted with vitalism, the philosophical theory that vital forces are active in living organisms, so that life cannot be explained solely by mechanism.
(試訳)
哲学において、機械主義という理論は、すべての自然現象が物理学的な原因によって説明できるとするものである。これは、生気論と対立している。生気論の哲学的な理論では、生命力は、生命器官内で活性する。それゆえ、生命というのは、単純に機械主義によっては説明できないとするのである。

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生気論の歴史と理論
ハンス・ドリーシュ
 読んですぐにわかるように生気論とは似非科学であり偽科学であり、ブログの世界にあっては許し難いものである……まあそんな雰囲気。空気を読めと。ほいで、正しい科学的な機械主義的な見地からすると、生命現象はすべて機械として扱えることになる。例外はないと思われるので、たぶん、まあ、ああしたこうしたこともすべて機械と見なされるはず。
 この考え方はデカルトよりもさらに、医学者でもあり哲学者でもあるジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリー(Julien Offray de La Mettrie)(参照)の「人間機械論」に顕著だ。

37歳の時に著した『人間機械論』は、霊魂の存在を否定し、デカルトの動物機械説を人間にも適用し機械論的な生命観を提唱した。ラ・メトリーはその著作で、足は歩く筋肉であり、脳髄は考える筋肉であるとした。100年近く前にデカルトが唱えていた人間を精神と肉体とでできた機械(デカルト的二元論)とみる発想よりも「機械論」に徹していた。

 インターネットを見ていたら、ジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリーの「人間機械論」の英訳があった(参照)。著作権ももう切れているだろうしあって不思議ではないのだけど、便利な時代になったものだ。

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