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2006.12.16

教育基本法改正雑感

 教育基本法が改正された。すでに別エントリ「極東ブログ: 教育基本法の改定に関心がない」(参照)で書いていたように私はこの問題に関心がない。なぜこんなことがメディアで話題になるのか不思議に思うし、率直に言って根幹はべたな利害対立だろう睨んでいた。
 だが、どことどこの対立なのかが私にはわかりづらかった。極めて単純な構図にすれば、祭り騒ぎの旧左翼的勢力と国側の対立に見える。が、国側というのが曲者で官僚は別の意味で左翼(国家主義者)に近い。他方の祭り気分の右派勢力は張り子のごときもの。こんなものもどうでもいい。具体的な局面でどういう利害対立があるかだけが重要になる。が、私は現場にいないせいもあり、よくわからなかった。恐らく教育委員会に関わる利害対立なのだろう。
 こうした過程で未履修問題だのタウンミーティング問題だのNHKの国際放送問題だのけたたましくどうでもいいネタが沸き上がってくるのだが、誰が仕掛けているのやら。多少気になって追ってみるとタウンミーティング問題は共産党、でも電通バッシングはなし、とかいま一つわからない。他も錯綜している部分もある。いずれにせよどうでもいいやという気分になる。こんなことを言うとまた元気な一言居士様たちがお出ましになるのだろうが、表向きの愛国心批判とかは左翼版木口小平のラッパに過ぎず、動いたのはその配下くらいで国民の大勢は動かず……いやここはちと微妙なものがあるな。
 ちなみに愛国心問題については、ちょっと確認してみるとこんな感じだ。


民主党案参照
 同時に、日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い、子孫に想いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び、学術の振興に努め、他国や他文化を理解し、新たな文明の創造を希求することである。


改正案第二条五
 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 この二つの差を論じる意味があるとは私には思えない。
 教育委員会に関わるどのような利害対立があるのか? そもそもそれがなぜ教育基本法の改定に関係するのか。そのあたりが愛国心だののボーガスを除いたあとの焦点なのだろうが、およそ教育基本法なんていう教育勅語みたいなものがべたな教育行政に関わるわけはない。そこは何らかのフックのみで実体は後続の関連法の改定と現場の力学になるだろう。とすれば取り敢えずフックはどこか。おそらく司法的には全く無意味とはいえないフックだろうが。
 その前に、成立した改正法の文面は「第164回国会における文部科学省成立法律案 教育基本法案」(参照)でいいのか。ざっと見るに「極東ブログ: 教育基本法の改定に関心がない」(参照)にも関連するが、およそ教育の根幹たる私学については以下のごとく薄い。

(私立学校)
第八条  私立学校の有する公の性質及び学校教育において果たす重要な役割にかんがみ、国及び地方公共団体は、その自主性を尊重しつつ、助成その他の適当な方法によって私立学校教育の振興に努めなければならない。

 私学の国家からの独立に干渉する部分はないように思える。やはり教育基本法というのは基本的に国家セクターというか義務教育をスコープとしていると見てよい。自由主義国家の国民には些末な問題である(というか国家が教育に関わるなよ)。すでに「極東ブログ: 東京の私立中学受験が厳しいのだそうだ」(参照)でふれたように中学校ですら私学にシフトしているのだから問題は小学校かということだが、実際には高等学校が問題なのではないか。というのは事実上日本では高校が義務教育化しており、しかもこの部分での私学シフトが今ひとつ弱い。というか公立高校が頑張り過ぎ(高校を民営化しろてば)。とはいえ、この高校問題については今回はこれ以上立ち入らない。
 フックに戻る。フックは次の部分であろう。教育行政つまり機構上の問題だ。

(教育行政)
第十六条  教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
2  国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。
3  地方公共団体は、その地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない。
4  国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。

 この新規定がどのような含みを持ち、教育委員会のレベルでどのように利害対立を起こすのか? そこだけが事実上の争点なのだろう。そこが知りたい。
 そうした問題意識を持っていたせいか、先日偶然聞いた八日付けの宮台慎司のポッドキャスティング(参照)の話が興味深かった。正確に言うと話自体はそれほど興味深いわけではなく、その関連から描かれるところが興味深いのだが。
 宮台の話でもさっさと愛国心問題ボーガスは捨てられ、争点は教育の分権化・権限委譲が問題なのだとしていくのだが、やや奇妙な展開に思えた。彼は問題は地方教育行政法だとし、この改正においては自民党も民社党もある種合意があったはずだとしている。そうなのか?
 現状の教育に関わる権限の構図についてだが、彼は、箱物は地方自治体、人事権は都道府県が握る、と説明する。このあたりで私はよくわからない。地方自治体と都道府県が分離されるわけもないので、とすれば市町村対都道府県なのか。そういうふうな話のようだ。彼は、都道府県レベルでのトップの教育長というのは、かつては文部省(文科省)天下り役人だったというのを前提としている。もちろん天下り状態は解消されたが文科省は復活を望んでいると彼は見ている。
 宮台はこの先気になる言及をしていく。人事権についてはやる気になれば地域が決められるとして荒川区と杉並区を実現例としている。東京都の人事権を区レベルが取得できたわけだ。現状の教育行政では学校の上に教育委員会という事務方の教育長が人事権を握るが、荒川区・杉並区モデルでは、区長が校長選出の人事権を持つことができた。あるいは区長が委託した理事会が学校の経営を担うことになる。
 で、教育基本法改正はその分権化にとって是か非か?
cover
人生の教科書
よのなかのルール
藤原和博
宮台真司
 そこが話からはわからなかった。というか毎度の人生論みたいな宮台節になっていく。しいて言えば、彼は今回の改正に反対し、民主党案に肩入れしているふうでもある。
 そもそも論でいえば、都道府県と市町村は地方自治体としては対等の存在なのでそういう区切りかなとも私は疑問に思えた。もっとも、実態については宮台が示したスキームでよいというか……。私がひっかかったのは是非の問題よりも、杉並区立和田中学校校長藤原和博のことだ。教育分野についてのディテールについて宮台は藤原から情報や指針を得ているだろう。この話は、ビジネススタイル”「教育委員会」とは”(参照)が詳しい。とても重要なことが書かれている。

 自治体には5人程度の「教育委員」がいて会をなし、その「教育委員会」の代表が「教育委員長」である。表面的にはこの人たちが、その自治体の教育政策のすべてを決めることになっているから、ひとたび教育問題が起これば、責任者はこの「教育委員会」だということになる。
 しかし、実態はいささか異なる。
 教育委員は学識経験者ではあっても、教育行政の専門家ではない。実際の教育行政は自治体の1、2フロアは占めるほどの人員を擁した「教育委員会事務局」が担う。そのヘッドが教育委員の1人でもある「教育長」だ。この「教育委員会事務局」のことも教育委員会と呼ぶから混乱が起きるわけだ。

 つまりGHQが想定した教育委員会と、我々市民がふれている教育委員会とは別で、実態は「教育委員会事務局」であり、その事務局長の権限が問題なのだ。

 会社で言えば、自治体の首長(区役所なら区長、市役所なら市長)は社長に例えられる。会社でいう「役員会」のメンバーは、自治体の場合、通常、4人で構成される。首長の他に、助役(副社長)と収入役(専務取締役財務担当、昔の出納長)、そして教育長(さしずめ常務取締役教育事業担当)である。ほとんどの政策は、実際にはラインの長である教育長に率いられた教育委員会事務局が文科省や都道府県教委の顔色を見ながらつくってしまうから、教育委員の活躍の余地は極めて少ない。

 単純な話にすると、この教育長が文科省の出先機関として国家管理しているというのが公教育の問題の根幹だということになる。
 それが現状だ。
 では、教育基本法改正案はこの状態を変えるのか?
 藤原の話でもそこがよくわからない。
 下手の理詰めで考えるなら、現状そのようにして文科省が教育現場のファーム化に成功しているならルールの変更は不要だろう。
 旧左翼の祭り騒ぎを見れば、この改正は文科省による権力強化を狙ったかのように見えるが、実際杉並区教科書選定問題での旧左翼の祭り騒ぎを見ると、彼らは分権化を望んでいるとは思えない。
 話は尻切れになるが、現実ではなんだこりゃ的な”シュタイナー教育実践の小学校、承認 千葉・長南”(参照)のようなことが実現される。

 芸術の要素を採り入れたシュタイナー教育で、文部科学省の学校設置基準や学習指導要領に沿った小学校が初めて承認された。千葉県長南町の「あしたの国ルドルフ・シュタイナー学園小学校」(仮称)。設立代表を務め、シュタイナー教育の研究で知られる早稲田大名誉教授の子安美知子さん(73)は「公教育の一翼を担っていきたい」と話す。
 開校は08年4月の予定で、当初は1、2年生各1学級(定員32人)で発足する。07年度は1年生だけのフリースクールを運営し、開校時に編入する。
 学校の特徴として、子安さんは(1)同じ学級担任が6年間持ち上がる(2)児童は教科書を使わず、教科書に沿って指導する教師の話をノートにまとめる(3)テストはせず学力を点数化しない、などを挙げる。子安さんは「思春期を迎えるまでの子どもに大切なのは、大人との間で安定した精神と豊かな感情を養い、他人の話に耳を傾けられる力をつけること。それを土台に学力をつけ、人間力を育むのが理想」と話す。

 こんなのもアリというなら、教育に国家管理が今後強化されるということもないようには思える。

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2006.12.14

漱石のこと

 先日十二月九日は漱石の忌日であった。新聞のコラムにも漱石忌にちなんだ話があり、そういえば漱石の胃潰瘍の原因は飯の食い過ぎかなどと先達に諭されもした。その晩だったか、妙に気鬱で寝付かれず、寝間着のまま閑散とした食卓でグリューワインを飲みながら、よもやと虚空を睨んだ。黴菌マンのような微細な悪魔がはひふへほ~と不吉に笑うのを聞いたようでもあった。十万ボルトを浴びたように事典を引くと案の定。夏目漱石、一八六七~一九一六。引き算をする。一九一六マイナス一八六七イコール四九。え? 四九? 享年五〇とばかり思っていた。我ながら自分の愚かさに泣き俯した。享年というのは満年齢だ。漱石先生は一月五日生まれ(新暦二月九日)。やはり四九。この無精髭の眠れぬ愚物よ、お前は何歳だ。四九。外天に飽満したか、餡パンマン。お顔が濡れて力が出ない。
 己はついに漱石先生の今生の日数を超えるのか。そんな日が来るのか。冷え切った身体からさらに冷や汗が滲む。三島由紀夫や太宰治の享年を超えたときも奇妙に心に引っかかる物があったが、超えてみると彼らが奇妙に若い文学者のように思えてきたものだし、実際に彼らの文学は若かった。漱石先生の文学はそうは行くまい。
 「こころ」(参照)が描かれたのは一九一四年というから、漱石四七くらいであろうか。物語の先生は何歳に設定されていたか。明治大帝に殉じるとしていたのだから、四七の漱石よりそう年上の設定でもないだろう。先生の心の動きはまさに漱石四七歳の心の動きでもあったことだろう。妙に鋭敏な心の動きだ。
 そう書きながら、漱石の千六百七十七万七千二百十六分の一にも及ばぬ自分でも、昨今さてここまで身体が老いてきても心というのもそう老いないものだという珍妙な感じがしていたのだが、漱石先生四七の感性には及びもしないな。「こころ」はかつて「私」の視点から読んだ。今度は「先生」の視点から読まなくてならないだろう。


『こころ』は漱石文学の入門書であるという。ただその構成と描写があまりに明晰で図式的であり、従ってその印象は強烈だが、主題が先にあってそれに従って作品が人為的に作られたという印象を与えるがゆえに、漱石の最高作とは言いかねる、というのが多くの文芸批評家の意見と思われる。私はこの意見に賛成しかねる考え方をもっているが、今はただ私にとっては、もしそうならその方が好都合であり、それなるが故にこの作品は、私にとって最も興味深いとだけのべておこう。

 そうイザヤ・ベンダサンは言った(「ベンダサン氏の日本歴史」・参照)が、彼は山本七平より二歳ほど年上であったから四九歳くらいであっただろうか。
 私にとって漱石が人生のなかで決定的な意味を持つようになってしまったのは、「それから」に描かれる代助とよく似た境遇に置かれたことがあったからだ。二五歳だった。この物語のなかで、三千代はある些細なそれでいて決定的な素振りを何げなく代助に見せるのだが、代助はそれに圧倒された。女というのはこういうことをする。こういうことをされたら男はもう進むか自滅するしかあるまい。代助や私のような人間は自滅しかない。あるいは自滅クラスから何げない資質負ったインスタンス。方式としては人生ここまで。デッドポイント。ランズエンド。
 その後、「行人」は避け「門」(参照)を読み、「道草」(参照)で呻いた。人生というのはこういうものなのであろう。健三のように大学教師とはなれもしなかったが人生の重荷は迫るように思えた。何もかもよく分からなくなったが……自分語りはもうよかろう。このまま「明暗」を読むには自分の経験というものが足りないように思えた。
 しくじったものだな。のうのうとそのままやり過ごしたとはな。もう四九か。
cover
思い出す事など
他七篇
 なぜか二年前、私は携帯電話のなかに「思い出す事など」(参照)入れた。私は目が悪くなったせいもあるが、外出先に本を持つことが嫌になった。もちろん何でもいいから活字さえ読んでいればいいという狂気というか恐怖も未だあるのだが、そんな時ほど週刊誌などが読めるものではない。携帯電話の中の「思い出す事など」は一種のお守りのようなものだった。
 漱石先生四三歳。修善寺の大患のこと。

 ジェームス教授の訃に接したのは長与院長の死を耳にした明日の朝である。新着の外国雑誌を手にして、五六頁繰って行くうちに、ふと教授の名前が眼にとまったので、また新らしい著書でも公けにしたのか知らんと思いながら読んで見ると、意外にもそれが永眠の報道であった。その雑誌は九月初めのもので、項中には去る日曜日に六十九歳をもって逝かるとあるから、指を折って勘定して見ると、ちょうど院長の容体がしだいに悪い方へ傾いて、傍のものが昼夜眉を顰めている頃である。また余が多量の血を一度に失って、死生の境に彷徨していた頃である。思うに教授の呼息を引き取ったのは、おそらく余の命が、瘠せこけた手頸に、有るとも無いとも片付かない脈を打たして、看護の人をはらはらさせていた日であろう。

 ジェームス教授はウィリアム・ジェームズである(言うまでもなく弟はヘンリー・ジェームズである)。漱石のジェームズの死への思いには、奇妙な含みがある。

 多元的宇宙は約半分ほど残っていたのを、三日ばかりで面白く読み了った。ことに文学者たる自分の立場から見て、教授が何事によらず具体的の事実を土台として、類推で哲学の領分に切り込んで行く所を面白く読み了った。余はあながちに弁証法(ダイアレクチック)を嫌うものではない。また妄りに理知主義(インテレクチュアリズム)を厭いもしない。ただ自分の平生文学上に抱いている意見と、教授の哲学について主張するところの考とが、親しい気脈を通じて彼此相倚るような心持がしたのを愉快に思ったのである。ことに教授が仏蘭西の学者ベルグソンの説を紹介する辺りを、坂に車を転がすような勢で馳け抜けたのは、まだ血液の充分に通いもせぬ余の頭に取って、どのくらい嬉しかったか分らない。余が教授の文章にいたく推服したのはこの時である。

 ジェームスはプラグマティズムとして今日紹介されることが多い。漱石も「教授が何事によらず具体的の事実を土台として」と述べているのもそれに関連するのだが、他方「仏蘭西の学者ベルグソンの説を紹介する」とあるようにベルクソン哲学にも近いものがあり、漱石はそこに「自分の平生文学上に抱いている意見」を重ねていた。

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2006.12.13

美しい日本に賢い若者出現の期待

 雑談。先日NHKクローズアップ現代で雇用問題をシリーズで扱っていた。ぼんやりと見ていたのであまり記憶にないのだが、来年度は新卒採用が大幅に増えるという話と、この失われた十年で本来なら新卒採用されてもよいはずったのに非正規雇用となった若者の、明暗とでもいうのだろうか、取り上げていた。
 番組でもまったく無自覚というわけではないのだが、というか識者に語らせてもいるのだが、なぜ企業はそんなに新卒にこだわるのかというのが、よくわからなかった。もちろん、私も日本社会にずっぽり沈んでいるので日本の企業が新卒にこだわる理由がわかりませんみたいなことは言えないのだが、もうちょっと、なんか社会学的な説明みたいなものはないものかと思った。まあ、ないのだろう。
 三十代の、新卒なんてどうでもいいでしょという人と食事時そんな話をして、まったく日本の企業ってなんでそこまで新卒にこだわるのかとちと問われて、当方、つい、あれだな、結婚相手には処女を求むって……とかギャグのつもりが言い切る間もなく、またやっちまったぜ、ドン引き、された。
 話の向きを変えて、しかし今の二五歳から三十歳ちょいくらいの人々の非正規雇用が正規雇用化してくると日本の経済も本格的に復活と言えるかもねとか、つぶやきつつその場を立ち去る、と。
 そんなふうに流れは変わるのか? マジ、変わると思ってんの俺?とか自問するが、まったくそういうふうな自信がない。日本企業の新卒好みは変わらないでしょ。だって官庁がそうなんだし、できたら若者は、やっぱし公務員になりたいもんだしな……とか思い、またぼんやりと沖縄暮らしを思い出した。
 沖縄の若い子たちは意外なほど人の話をよく聞く。もちろん聞かないときは聞かない。実は沖縄の大人の人もそういう傾向がある。なんだろと当初疑問に思ったのだが、どうも、聞く・聞かないがスイッチ構造みたいになっているような感じがしたからだ。しばらくしてわかったのだが、内地言葉をつい聞いてしまうという癖があるようだ。英語を勉強しているとつい英語を聞き取ろうとしているみたいな。もちろん、聞いているというのは字義通り聞いているだけで、了解とか、理解とかでもないし、そうのうちこっちも沖縄に慣れてきて、あんまし言わなくなった。なんの話だったっけ、公務員志向だ。沖縄の若い子は公務員志向が多かった。男の子に多い。これは地方の一般的な傾向なのだろうか。
 公務員とか大企業とか若者だって新卒で入りたいもんだし、実際にそれに最適化した行動を取る。
 それってなんだろとか、ぼんやりと、つらつらと若いころなど思い出しながら、そしてNHKの番組に出てくる新卒の若い人たちの姿を見ながら、あれだな、なんであれ、若い人はきちんとやっていけるだろうなと思った。そしてきちんとやっていくということは、二五歳から三十歳ちょいくらいの人々の非正規雇用の人々と、あまりよからぬ世代差を描いてしまうだろうなとも思った。
 歳を取ると若者が愚かしく見えるものだが(その失われた肉体の美しさへの羨望もあいまって)、実際に自分が若いころを思い出すと、尊大と怯懦、愚昧と狡賢さが混ざり合っていたが、狡賢さというのは確実にあった。大人なんてちょろいもんすよのあれだ。おらおらそう思ってんだろ、オメー。
 その狡賢さというのはそれほど上っ面なものではなく、なんというか若者は彼ら自身がそう思っているより世の中にうまく流されている。私は何が言いたいのか? 年寄りは若者は愚かだと思っているが、社会が利口な若者を欲しているなら若者はちゃんと流されて利口になるのである。新卒採用が利益だとなれば、若者は会社社会にきちんと迎合した賢さを短期間に実現するものなのだ。あと数年もすれば正しい日本語をくっちゃべるきちんとした若者が目立ってくるようになる。
 ぞっとするな。
 もちろん、来年新卒の若い人だってそのころには内面、ぞっとするな、こんな自分なんて死にたくなるなとか少しは思うだろうが、社会がきちんと機能して、そんな内省なんかするような余裕無く型に嵌めてやればいいのだ。そうなるだろうか? 景気がよくなればそうなるだろう。
 話が少しずれる。今週のニューズウィーク日本版に面白い話が載っていた。「10代の暴走の意外な理由」という記事だ。内容は表題が暗示するとおり、なぜティーンネージャーは暴走するのかという理由。これが傑作。いやまったくそのとおり。科学的な研究というのは結論で笑いを取ってナンボ。


ティーンエージャーが愚かな行動をするのは、目の前のことしか考えられず、将来に待つ危険や死を理解できないせいだと思われていた。
 しかし実際には、若者たちは逆に飲酒運転や無防備なセックスなどのリスクを過大に評価していると、レイナとファーリーは言う。それなのに無謀な行為に走ってしまうのは、損得を冷静に計算したうえで、その行為のもたらす快楽や連帯感と比べて割に合うリスクだと結論つけているからだ。
 つまり、10代の若者は思慮が足りないわけではないのだ。むしろ大人のほうが直感的・自動的に、言い換えれば「非理性的」に判断を下すと、レイナーとファーリーは言う。

 若者はきちんとリスクを考えるから馬鹿な結論を享受することがあるというわけだ。その計算はたぶん正しいから、実際は多くの場合、彼らはベネフィットも得ている。快感とか連帯感とか。
 私も、若い頃を顧みて、ああそうだなと思う。若者は狡賢いものなのだから。
 社会学者の宮台真司だったか、大人からみて危険な行動をする子供に対して、リスクとベネフィットを両方教えるべきで、そこから自己選択できるようにすればいい、みたいなことを言っていたようだったが、どうもそれは科学的には間違いのようだ。
 あるいは、結局なんであれ、若者も遠からず脊髄反射で生きる大人になっていくのだから、若いときにリスクを回避しちゃったら勝ちってことか。
 このエントリのオチをどうしたものか。
 なんとく思うのだが、今の二五歳から三十歳ちょいくらいの人々の非正規雇用の人々が、社会からはじかれたように置かれることで、このしょうもない社会というのを客体化し、人の生き様の愚かであることの賢さみたいな逆説を実現していけたらいいような気がする。もうちょっと言うと愚かに生きたほうがいいようにも思うのだが、そう言葉で言えるものでもないか。

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2006.12.12

[書評]ウェブ人間論(梅田望夫、平野啓一郎)

 対談書「ウェブ人間論」は、表題の類似性から「ウェブ進化論」の続編として読まれるかもしれない。確かにそうした文脈もあり、特に「第三章 本、iPod、グーグル、ユーチューブ」に詳しい話が展開されている。いわゆるネット業界的にはこの三章の情報が有益だろうし、出版界にとっても非常にわかりやすく示唆的な内容に富んでいる。
 単純な話、未来の書籍はどうなるのか。平野啓一郎はある危機感を感じているがこれは現在出版に関わる人にとって共感されることだろう。これに対して梅田望夫は大きな変化はないだろうとしている。
 文学者と情報技術の先端にいるコンサルタントとの、時代の変化に対する嗅覚の差もあるが、ここで梅田の判断の軸になっているのは「情報の構造化」という考え方だ。確かにネットには多くの情報がある。だがそれは構造化されていない。梅田の著作に表現されているアイデアの大半はすでにネットで公開されているが、それらは書籍「ウェブ進化論」ほどには構造化されていない。書籍は「情報の構造化」に適している。また現状では、社会に幅広く影響を与える媒体として書籍の位置付けは依然変わらない。「ウェブ進化論」の読者はウェブの世界で進行していることに開眼させられたが、梅田は逆に書籍という存在の重要性を再確認した。

cover
ウェブ人間論
梅田望夫
平野啓一郎
 書籍とは、それを古典と言い換えるなら了解しやすいように、人間の精神である。山本夏彦風に言えば魂が籠もりうるやっかいな代物だ。そこに再度直面した梅田は、精神性を生み出す人間という存在についてもう少し踏み込んで思考しなくてはならないと思ったのだろう。うまい言い方ではないが、彼の起点となる疑問は、ウェブ2・0と呼ばれている世界を創出しているのは奇妙な狂気とも言えるものだとして、ではそれを生み出した人間とはなにか? 人間の専門家でもある文学者に問うてもみたかったのだろう。だが、それが問える文学者は残念ながら数少ない。平野はむしろ例外的な適任者に近い。
 対談の主軸は、ウェブ2・0という情報様式が強いる「人間の変容」である。この主題は「第一章 ウェブ世界で生きる」「第二章 匿名社会のサバイバル」で平野の執拗ともいる思考力と対話力によって維持されている。この執拗さこそが彼の文学的な素質を形成するものでもあり、同時にこの作家の興味深い資質でもあるのだろうが、実際に語られる背景に潜む矛盾に関心の核があるようだ。そしてそれは、思索のための方法的な疑念ではなく、この情報化の潮流のなかで人間という存在が明確に変わってしまうだろうという確信を伴っている。

平野 テクノロジーの進歩は人間の本質を変えることはできない、人の「心」は変わらない、という考え方を表明する人が、特に保守的な思想の持ち主の中に見受けられますが、やっぱり、変わるでしょう。どう考えても、狩猟時代の人間と今の人間の精神構造とがまったく同じだとは考えられない。テクノロジーが進歩すれば人間の生活の条件は大いに変わるし、人間自体も劇的に変容するでしょうね。

 梅田は対談者として沈黙しているわけではないのだが、こうした平野の疑念の最初の形をできるだけ損なわないように、自己の考えの表明を抑え、若い平野に傾聴している。一章二章において平野がよく語っているかに見えるのは、梅田の傾聴の精神的な耐久力でもある。
 そうした忍耐を欠く私は結論を急ぐようだが、梅田は七五年世代の代表にも見えるはてな創業者近藤淳也と同じものを平野から聞き取ろうとしているのだろう。私はむしろ、この対談書で梅田の職業的な精神の構えのようなものを知り、驚かされる。
 梅田の巧妙な傾聴のもとに、読者は対談を読み続けながら平野が提起する人間の変容という着想を聞き込むことになる。平野は、ネットやウェブが可能にする人間の匿名性を重視している。これは名前を隠しているというだけの、いわゆる匿名性とは異なる。むしろ、性的な身体の欲望性を可能にする匿名性ということで、隠されているのは名前であるより、欲望をむき出した身体なのだという直感が平野にはある。そして同時に平野はその匿名性の身体の持つ可能性に両義性も感じている。
 ここで対談の枠をそれてしまうのだが、そうした匿名性は、ウェブの可能性のなかで人間の変容を問うための新しい課題なのだろうか。私が想起したのは、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」である。この物語は、冒頭、名前を隠した女が主人公の男に性的な欲望をメディアを介在して語りかけるところから始まり、そして性的な情熱を持って結ばれるべき他者との断絶と統合が織りなしていく。ここでも匿名的な身体性(痛みのない身体、時空をすり抜ける身体など)が問われているが、物語は現代的なウェブ的な対話に収斂する。リアルな身体性には帰着しない。あたかも人間は情報と性的な身体とに分断された状態が必然であり、そこに特異な精神性が強調されざるを得ないような予言的なエンディングが置かれる。
 平野が見つめている人間の変容は村上が九〇年代に問いかけたことを超えた地点にあるのか、あるいは一つ後退した地点にあるのか。いずれ平野の文学に展開されてくるのだろうが、私としてはその道程にミシェル・フーコーやハンナ・アーレントの言説が置かれていることにある古さを感じている。この感性はウェブの世界がもたらしたものだろうが。
 平野が性的な身体という発想から、ウェブ世界の欺瞞性を照射しようとする場は、彼自身も自覚的なのだが、きわめて政治的な場である。単的に言おう、ブログなどでいくら政治を語ってもそれが匿名であり身体をもたないのであれば、それは欺瞞なのではないか? こうした感覚は西欧人にとっては自明な前提になっている。彼らにとって国家とは作為の契機によるものであり、国会が決したことでも実際の身体的な関与による革命的な活動によって転換しうるものだ。それは自明なことだ。ウェブが人間を変容させるというとき、その自明性は、再獲得になりうるし、退化ともなりうるかもしれない、そう平野は見ているようだ。
 私の上の世代に当たる全共闘世代にとって、政治的であることに身体的な関与を外すことはありえなかった。さらに突き詰めれば、市民の銃口なくして最終的な政治の変革はありえないことだった。が、歴史の何かがそれを変えた。私や梅田の世代はその蹉跌感が原点にあり、つねに重苦しい空気の中に存在した。
 平野の世代になってその重苦しさが抜けていくのだが、そこには史的な蹉跌の感性は継承されておらず、むしろ普遍的な疑念から人間や国家というものが問えるようになってきている。梅田も私も、そのような新しい人間を驚きをもって見る。そしてそこに情報技術のある必然的な関与も感じ取っている。
 人間の変容について、平野が提起する性的ともいえる匿名の身体性については、梅田は、対談のなかでうまく受け止めてないかに見える。だが逆に第四章に移ると局面は変わる。梅田はなんとか平野に情報技術を推進する人間のある種の狂気について伝えようとする。

梅田(前略)
 ただグーグルの連中は、歴史とか政治とか、そういう人文系の深いところは何も考えていないんですよ。熱中しているのは数学とITとプログラミング、そして『スター・ウォーズ』が大好き、という感じの若者たちが多いですから。
平野 ほんとうですか(笑)? 『ブレードランナー』や『マトリックス』じゃなくて、『スター・ウォーズ』っていうところがミソですね。
梅田 そうです。まさに恐るべき子供たちですよ。大好きな数学とプログラミング技術を駆使した凄いサービスを開発して、『スター・ウォーズ』の世界をイメージしたりしながら、世界中の情報をあまねくみんなに行き渡らせたいと思っている。

 対談者二人に私はここで少し皮肉を言う。平野が『ブレードランナー』や『マトリックス』を持ち出すあたりは坂本龍一などを連想させる古臭い教養主義でしかない。梅田は『スター・ウォーズ』をよく見ていない。
 誰か語ったことがあるだろうか。『スター・ウォーズ』とは民主主義を否定する物語なのである。特に、後から作成されたエピソード1から3の主要なテーマは、正統な民主主義が悪を生み出すことであり、この映画は、悪を暗殺する集団を是とするとんでもないサブリミナル効果を持つ。この悪に明確に歴史のイメージが背負わされているのは悪とされる人々のゲルマン的なコスチュームからも容易に推察できる。もっと簡素に言おう、この映画は、民主主義を含め、現在世界の体制を生み出す全ての機構はある絶対的な正義によって転倒しうるという強い情念を植え付ける。それは仕組まれたサブリミナルのメッセージというより歴史の限界性が自然に生み出したものかもしれないのだが。その感性がヒューマンな快感として、そして技術と結合して語られる。ハイデガーよ永遠に眠れ(参考)。
 梅田にとってはその狂気の由来が自己からは少し離れたものとして知覚されている。

梅田 僕には欠けている資質ですが、時代の最先端を走る彼らには、さっきのジョブズやベゾスと同様に、やっぱり何か狂気みたいなものがあるんです。それがないと時代を大きく変えるようなことはできない。


平野 ハッカー・エシックというのは、どういうものでしょうか。ハッカーの倫理ですか?
梅田 プログラマーという新しい職業に携わる人たちが共有する倫理観とでもいうべきものですね。プログラマーとしての創造性に誇りを持ち、好きなことへの没頭を是とし、報酬より称賛を大切にし、情報の共有をものすごく重要なことと考える。そしてやや反権威的、というような考え方の組み合わせというか、ある種の気概のようなものです。

 この部分の対話はエンディング近くに置かれている。ここで平野は逆に彼の精神の忍耐性を少しかいま見せる。彼はたぶんそうした狂気の実在を予感しながら、梅田がそれに圧倒されている具体性(身体性)を当面の未知の思索課題として認めたからなのだろう。
 対談の結語近く、梅田はこの「狂気」を社会でサポートしていかなくてはならないと語っているが、それは圧倒的な狂気に向き合ってしまった、ある変容後の人間の姿なのかもしれない。

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2006.12.11

官製談合事件雑感

 官製談合事件についてはあまり関心が向かない。地方の首長なんてものは叩けば埃が出てくるのは地方に暮らした人間なら別段どってことのないことだし、談合とかも一種の富の再配分というか、談合している側の配分や雇用ためのコストくらいなものではないか。いったいこのところのマスコミというか国政は何やってんだか。そこまでして地方をつぶしたいのか。
 また、この事態に対して、国への反感が地方の市民レベルから上がってこないものなのかと疑問にも思うが、私がぼんやり世間を見ている限りではそんなふうではない。福島県、和歌山県、宮崎県と首長を引っ捕まえて皆さん正義に喝采という図柄はどうもいただけないのだが。

cover
ハイエク
自由のラディカ
リズムと現代
 何が問題なのか。私は地方の議会だと思う。民主主義の小学校である地方自治が機能していないか、あるいは機能してこんなものだということだ。つまりその行政の一番の主体がそれでいいとしている状態なのだから、改善するなら、その地域の市民が意識を高め、斬新的に改革に着手していくしかないんじゃないか。ハイエクではないが、社会をゼロから作り直そうとする政治思想はそのものが危険であり、不合理でもそれなりに機能している諸制度というものにはそれなりの知恵を含んでいるものである。
 大手紙社説はこの問題について、なにやってんだ国政という批判はない。それでいて地方の議会を責めているふうでもない。ではどのあたりで正義を吹いているかというと、入札制度を変えよ、一般入札化を推進せよという感じだ。なんだかなと私は思うがこれについては後で触れる。
 談合なんてものは常態であり民主主義のコストだくらいにしか思わない私だが、今回なんで、福島県、和歌山県、宮崎県が狙われたのかはちょっと気になっていた。陰謀論を練りたいわけではないが、国側というかバッシャー側の構図はどうなっているのだろうか。なぜこの三県が入賞したのか。
 各県の談合疑惑の状態は全国市民オンブズマン連絡会議(参照)が毎年公開している公共事業落札率調査でわかる。このところ見ていなかったので昨年の「05年度公共事業落札率調査06年9月発表」(参照・PDF)を読んでみた。単純な話、入賞に輝く三県について、「ありゃまこれは誰が見てもベタにひどすぎますな」という状況なのか。
 この問題に関心を持たれるかたは資料をご覧あれ。宮崎県ついては談合疑惑一位なので、こりゃま三下をしょっぴいたら親玉もしょっ引かないといけないなというものだ。イエス・キリストだって悪の三下を捕まえたらボスだって捕まえるもんだろというジョークを飛ばしているじゃないか。
 むしろ問題は、福島県と和歌山県がこの資料から、ばればれという感じで浮かび上がっているかなのだが、難しい。福島県をしょっ引くなら他にあれとこれはどうなんだという印象が強い。ちなみに、あれとこれについてはちょっと言うのさけようかとためらったが隠されていることでもないので言うと北海道ね、やっぱし。それと鹿児島県、熊本県。熊本県ってなんか疑惑の話題があったような気がするが、最近とんと記憶力がないことにしているのでこの話は突っ込まない。
 談合というのはボスがいるもので、ボスというのは県庁所在地に権力を構えるものなので各県の県庁所在地の市についての談合疑惑ランキングを見ると、あはは、宮崎市二位じゃん。ほいで福島市四位。ちなみに一位は富山市、三位は鹿児島市、五位は松江市。松江市ってなんか有名な政治家がいたような記憶があるが薄れ。
 入賞者への講評として残る和歌山市がなんでヒットされたかだが、全国市民オンブズマン連絡会議からは見えない。なんか個別の理由があるのしょう。ありそうじゃないですか。しょっぴかれたのだからなんか悪をやっているんですよ、きっと。
 冗談はさておき、リストを見ていると言うまでもなく官製談合なんてものは空気のようなものというか空気に含まれている窒素のようなもので、叩く気になれば他からも出てくるので、「この祭、いつまでやるんですか、アベ内閣」と書いたらバカなブログみたいだな。書かなくてもここはバカなブログですか。
 NHKの解説番組時論・公論を見ていたら、全国市民オンブズマン連絡会議とは別の数値が上げられていたが、それでも立派な県として長野県と宮城県が上げられ、入札方式を一般入札に切り替えたことで落札率が七〇パーセント台になりましたとか言っている。そのあたりが先にふれた全国紙の社説の議論と似ているわけだ。
 ところが全国市民オンブズマン連絡会議の資料を見るとわかるが、そういうのっていうのはこの二県と富山県だけで、続く神奈川県、京都府、沖縄県はがくんと一〇ポイントあがって八〇パーセント台。現状では、一般入札に切り替えろソリューションは特例的な状況にあるのだろう。
 というところでワシタウチナーだが、談合疑惑ないよ上位八五・五パーセントっていうのはどういうことなんだと統計を見ると、昨年は九六・四五パーセント。そうでなくちゃね。というわけで、国もずいぶん鞭と飴を沖縄に振るったものだし、ようするに犯罪でしょみたいなベタな談合でなければくさい臭いの元を絶つ(古いなぁ表現が)方式だと自然に下がるわけだ。というか、八〇パーセント台の談合というのは、けっこうウェルフォームドなXMLとまではいかなくてもヴァリッドで必死な再配分システムなんだろう。つまり、ボスの上納金分を減らしても再配分が増える均衡点がこのあたりにあるだろう。まあ、こうした仕組みが全体的に見られるとしたら、なんのことはない、今回のバカ騒ぎというか祭は、国が地方に回すカネを減らしますからね様の赤絨毯なのだろう。
 それにしてもなんでこの時期に祭なのか。全国市民オンブズマン連絡会議を見ていると微笑んでしまうのだけど、優等生の県はオラガ信州ですよ。ヤッシーあっぱれみたいのがぷんぷんしてくるわけで、祭の御輿に変なの乗せるじゃないよってことでこの時期なのかとちと勘ぐる。
 マジな部分では九日の産経新聞社説”宮崎県前知事逮捕 「談合根絶」は看板だけか”(参照)がわかりやすい。っていうか手品のタネはこれだ。

 まさに、日本列島は談合の“ドミノ現象”である。なぜ、これほど談合の摘発が続発するのか。
 その大きな要因の一つに検察・警察の捜査当局が、今年に入って談合事件を積極的に捜査するようになったことが指摘できる。
 改正独占禁止法が、今年1月から施行され、主に談合を取り締まる公正取引委員会の調査権限が、国税当局並みに強化された点が大きい。
 これまで、公取委は、談合を摘発すると、東京高検にしか告発できなかった。これが、改正独禁法により全国の各地検に告発することが可能となり、検察当局との連携が強化された。

 地方も東京高検をマネしたいということか、東京高検的に恣意な必殺仕置き人が全国に撒き散らされたか。ちなみに、福島県と和歌山県の談合事件の背景はこう。

 福島と和歌山県の両談合事件は東京地検と大阪地検の特捜部が捜査にあたった。和歌山県前知事、木村良樹容疑者の逮捕のきっかけは、公取委が今年5月、汚水処理施設工事発注をめぐる談合を大阪地検に告発したのが端緒とされている。

 私はなんか絶句するね。というところでこの話はおしまい。

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