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2006.02.04

日本人が日本語など学ぶ必要はない

 ブログとかに向いたくだらないテーマに「英語を学ぶ前にしっかりとした日本語を学べ」とかいうのがある。あまりのくだらなさに即終了でもいいように思うのだが、当方もくだらないブログなんでそんな雑談を。
 英語はできたら勉強したほうがいいと思う。語学というのは向いている人間とそうでない人間があるので、私みたいに向いてないのはいくら勉強してもダメ。それでも語学というか他国語というのはそれに触れてないとますますダメになるというか、システムの保守みたいなのが必要になる。イーデス・ハンソンだったか米国に行くとしばらく言葉が出ないと言っていた。ネイティブでも使ってないとうまくいかない。ある種のバイリンガルというかバイリンガル的な他国語修得者は脳のスイッチみたいなをカチっとやる必要があるように思う云々。
 ほいで日本語とやらの重要性。これが皆目わからん、とまでは言わないが、人は置かれた環境のなかで十分に言語活動をするものではないか。それだけのことではないか。敬語が廃れるのはそれが不要な人間関係の社会になったからというだけで、言葉の側の問題ではない。
 しっかりとした日本語とやらには、なんとなくだか書き言葉の含みがあるようにも思う。いわく、ちゃんとした日本語を書けとか、文章をうまく書くにはとか云々。それはたしかに技能というべきものかもしれないが、普通人間は文章などを書く必要はない。というか必要な文章は書けるものだし、そういう文章というのは形式が決まっているのだから、必要に応じて慣れればいい。ブログの文章術とか……そんなもの必要があるのかよくわからないが、書いてれば結果がブログというだけのことだ。
 話がかく続かない。
 論理的で音の響きのよい日本語の名文を繰り返し音読・暗誦・筆写せいとか、無意味だと思う。言葉というのは、まず誰かの言葉だからだ。言葉を愛するのではない。その誰かを愛することだ。愛というのは単純に言えば抱きしめることだから身体というものが要るのだが、不思議なことに愛というのはそこを少し超える。少し超えたところに肉声があり、その人の魂の声というものがある。
 私は親鸞の身体も肉声も知らないが、「誠に知りぬ。悲しきかな、愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥ずべし、傷むべし」というつぶやきに親鸞という人を感じる。親鸞を愛する。親鸞という人の生き様の経験に自分の思いを重ねる……愛のなかでその言葉がある。
 言葉があるのではなく言葉の先に人がある。肉声がある。「其の謦咳を承くるが如く、其の肺腑を視るが如く、真に、手の舞ひ、足の踏むところを知らず」とダンス・ダンス・ダンス。
 そういう愛に巡り会うかどうかは運命が決めるものだし、運命の過酷さは時を超えた人の言葉を誘い込むものだ。だが、それが幸せというものでもない。そんな言葉など不要な人生のほうがどれほどましかわからない。
 と、ここで少し矛盾したことを言うのだが、そういう誰という人を失った人の思いというか、魂となった言葉に、まさに魂のようななにかが残る。読み人知らずという歌の言葉がそうだ。「青柳の張らろ川門に汝を待つと清水は汲まず立ちどならすも」……歌謡であろう。歌われているような純情ではなく、酒席のような戯れで歌われたものであろう。しかし酒の上の戯れであれ「あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む」という旅人のような屈曲はない。誰もが純情だった。若い日に恋をした。地団駄を踏んだ。誰とも知れぬ歌謡が残った。梁塵秘抄の、遊びをせむとや生まれけむ、の言葉は遊女の魂だ。どの遊女とも知らぬが遊女らの思いの肉声のようなものが言葉に残った。
 誰の言葉でもない、ただの言葉のなかに、名もない人の喜びや悲しみが込められて、そうして日本語が残る。そういう日本語のただ中で日本人は生きている。そりゃそうだ、恋があり喜びがあり哀しみがあるのだから言葉が紡がれるほかはない。言葉を尊ぶのではなく、生きる経験が言葉のなかに溶かされていくだけなのだ。
 私はいわゆる美しい日本語とやらが嫌いだ。経験を離れた言葉などない。言葉に収斂されない経験などもない。
 私は「すてき」という言葉の不思議を思う。今の日本人も「すてき」という。今の若い子も言うのではないか。まさに愛の営みのさだなかで言うではないか。すてき、と。
 だが、私はその言葉の由来を知らない。気になっていろいろなおりに語源を探って皆目わからない。でもこの言葉が日本人に継がれそこに命が宿っていることは知っている。それだけでいいのだが……私は思う、これは現代の2ちゃん語のようなものではなかったか。
 江戸時代に中国かぶれした知識人をせせら笑ったねらーみたいなやつらが、すばらし的、して、す的、すてき、となった希ガス。
 あるいは、「す的」ではなく「素敵」かもしれない。そう敵だ。敵というのは現代の日本語ではエネミーの意味しかなくなったが、字引には残っている。大辞林を引く。


 3)遊里で、客が遊女を、また遊女が客をさす語。相方。「重ねて逢ふ迄の日をいづれの―にも待ちかねさせ/浮世草子・一代男{六}」

 恋の相方が敵である。
 いや、恋というのとは違うのかもしれない。でも、あの男が敵であり、あの女が敵だ。その間には恋のようなものがあり、その恋のようなものが「敵」から「素敵」に残ったのかもしれない。わからない。
 まあ、わからんでもいいことだろう、恋があるなら、恋の相手があるなら。日本語など学ばなくても、そのときいささかのくるいもなく、日本人は恋の相手に、すてき、と言える。

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2006.02.03

骨付き牛肉のこと

 誤解されるかもしれないけど、これは黙っているのもなんだし、簡単にだけ書いておこう。れいの骨付き牛肉のこと。
 まず、米国産牛肉の輸入再開前に米国の食肉処理施設へ農水・厚労両省係官を派遣して査察を行う方針を決めていた件についてだが、私はこれは変な話だなと思った。
 いくつか含みがあるのだが、一つは「さるさる日記 - 泥酔論説委員の日経の読み方 2006/01/31 (火) 08:13:32 BSE、農相の説明責任は重い 2」(参照)の指摘に共感した点だ。


 よく考えてみれば分かることですが、解禁前に対日輸出の処理ラインをいくら調査しようが、対象となる日本向けの食肉がまだラインに乗ってないのですから、「一体、何を調べるの?」という全く無意味な出張になるわけです。
 川内議員の「誘導質問」に気がつかず、うっかり「輸入再開以前に」と回答してしまった農水省は、後で辻褄を合わせるため実質上の輸入直前に担当官を現地入りさせたのではないでしょうか。
 こう言った事情が予め判明していたならば、手順を経て答弁の修正を川内氏に告げるのが筋だったわけで、これが農水省のポカであり、これらの経緯を説明せずいきなり自らの責任云々と言い出した農水相の粗雑な答弁もポカであると言わざるを得ません。

 厳密に言うと調査できる点はいくつかあった。この点は後で触れる。問題なのは、むしろ次の点。

 しかも、この「調査」なるものがどのような権限に基づき、どのような法的責任があるものか根拠もよく分からない代物なんですね。
 そもそも、輸出品を監督・管理するのは米側であって、もしそれに瑕疵があればその責任はアメリカにあります。
 日本には輸入品を検査する権限はありますが、相手国まで行って輸出のお手伝いをする必要は全くありません。
 「調査」したにも関わらずそれに瑕疵があった場合、日本も責任の一端を担わなければならず、これは貿易の原則として如何なものかと思います。

 このあたり農水・厚労省はどうするつもりだったのかよくわからない。
 わからないことはまだあるので話をサクっと進める。
 今回の査察ではどうも奇妙な感じがつきまとう。一月三十一日日経社説”BSE、農相の説明責任は重い”(参照)にこうあるのだが。

 ところが、実際に係官が米国へ出向いたのは、輸入再開を決めた昨年12月12日の翌日、13日であった。後に特定危険部位の背骨をつけたまま日本に牛肉を出荷した施設は査察の対象外だった。

 この施設について日本のメディアはあまり報道しない印象を受けるが、Atlantic Veal & Lamb, incである。ここは厚労省がマークしていたはずなのだ。平成十六年六月四日”国内に流通する米国産牛肉等に係る調査結果について(最終報告)”(参照)より。

 検疫所及び都道府県等を通じて米国から既に輸入された牛肉及び牛由来原材料を用いた加工品について個別に調査を行った結果、特定部位である子牛の脳約40キログラムのほか、せき柱の混入又はそのおそれのあるTボーンステーキ、一次加工品のスープ原料、牛脂及び牛骨粉、二次加工品のカプセルに入れられた食品等が確認され、回収又は販売自粛を指導した。

 この「2 Tボーンステーキ」の特定部位混入有りでトップ・トレーディング(株)輸入、ATLANTIC VEAL & LAMB INC. CATELLI BROTHERS, INC. MARCHO FARMS INC. で三四一キログラムとある。
 そうでなくても、同社は米国大手のヴィール加工メーカーでもあり、ヴィール加工には骨が入ることを農水・厚労両省は知っていたはずだ。
 別に陰謀論でなくても、なんでAtlantic Veal & Lamb, incを査察対象から外していたのか疑問に思うのが当然だろう。
 で、外した理由は両省から明示されていないが、恐らくヴィール(Veal)だからでしょということではないか。
 このあたり日本の報道に疑問を持つのだが、Vealについての解説がなされていないように思われる。
 Vealは子牛の肉であり、米国では月齢三十か月未満の子牛の肉では脊柱除去処理をしない。だから米国はいかんと思い込む日本人は多いのではないかと思うが、この対処はグローバル・スタンダードであり、日本ルールは過剰な検疫などで輸入を妨げる世界貿易機関(WTO)のルール違反とされてもしかたがない。
 もちろん、日本側では月齢二十か月でBSEが検出されているとし、私の判断でもそれは認めるべきだとは思うが、これも国際的にはこの検査は標準とされていない。であれば、日本は貿易で独自ルールを主張するのではなくそれがグローバルのルールなのだと主張していかなくてはならないはずなのだが、その気配はまるでない。
 今回違反とされたヴィールだが、月齢四ヵ月半であり、現状の国際的な食肉処理から見てBSEの疑惑はありえない。安全性という点では問題にしようもないのだが、話はもちろんそういうことではなく、ルール違反だということだ。米国および欧米は社会契約が重視されるのでルール(契約)違反とされれば反論はできなくなる。ちょっと陰謀論的に言えば、日本もうまく立ち回ったなということであり、実際のところ米国は内心はそう見ていることを日本も心得ておいたほうがいい。
 問題はまだある。
 以上の話からも理解されると思うが、対日という枠組みでは食肉処理という点では問題ではあるのだが、食肉加工の点では別になる。そのあたりが日本の報道は故意に混同させているのだろうかという印象を持つ。例えば、一月二十二日毎日新聞社説”米国産牛肉 日本の消費者が見放すぞ”(参照)より。

 そして今回、リスク管理の段階で、特定危険部位が混入した米国産牛肉が確認された。つまり、食品安全委員会によるリスク評価の問題ではなく、米国と日本で適正なリスク管理が行われているか否かが問われている。

 こうした記述を読むと、米国では食肉処理がまずいがゆえに特定危険部位が混入したといった印象を受ける。だが、今回写真などで見るブツは、混入というより誰が見てもあまりのあっけらかんとした背骨がどーんと入っているというもので、およそ処理ミスというにはありえないジョークのレベルに近い。
 米国報道を見るとそういう文脈ではなく、Veal hotel rackの配送ミスとして受け止められている(参照)。

Japan suspended imports of U.S. beef Jan. 20 after finding a veal shipment containing backbone, which Asian countries consider at risk for mad cow disease.

The cut, veal hotel rack, is consumed in the U.S. but not allowed in Japan.

The mistake has endangered millions of dollars in potential sales to Japan, which reopened its market to U.S. beef only weeks ago


 こうした言い分をそのまま是とするわけではないが、問題は骨付きは当然のヴィールなんだから配送ミスでしょと考えるのが食肉に慣れた米国人の受け止め方だろう。
 私もこれは配送ミスではないかと思う。もちろん、そうした配送ミスが許されるものではない。
 話を進める。これが配送ミスかどうかという点について多少判断を保留したとして、最後に残る疑問はいったいこれはどういうカット肉として送られたのか?
 そう思うのも、私はオーストラリア・ワインが好きで以前ケースで輸入していたのだが、ケースともなると個人輸入とはいえちょっとした輸入業者みたいな手続きをする。で、こうした貿易には税の問題とそれ以前に何を送ったかを示すためにinvoiceが必ず付く。それを見ると何が送付されているかがわかる。余談だがオーストラリアでは当時ワインの輸出促進をしているので関税の払い戻し分があった。
 今回問題のヴィールがVeal hotel rackなのかそれ以外なのか、いずれにせよ、invoiceになんと記されていたのか。この話の関連は某サイトに不確か情報があるのだが不確かなのでリンクしない。
 また、それ以前に、日本側としては月齢四歳半のヴィールのカットに際して脊柱除去処理を義務づけていたのだろうか。
 別の言い方をしよう、脊柱除去処理をしたVeal hotel rackなんてありえたのか?
 骨を除去したTボーンとか想定できますか?

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2006.02.02

中国様のちょっとした小ネタかな

 ちょっとした小ネタといったニュースなのだろう。なので、国内の新聞社・通信社の報道を私は見落としているのだろう。いや、もしかして、そこは大人の都合というので報道はなしとか。いや、全然ないわけではなく、話は、中国情報局”中国銀行:元幹部ら4億$横領、ラスベガスで資金洗浄”(参照)にさらっと掲載されている。


中国銀行の元支店長ら5人が、4.85億ドルを着服した上で、ラスベガスのカジノを通して、マネーロンダリング(資金洗浄)を行っていたなどとして、31日に米国で起訴された。2月1日付でボイス・オブ・アメリカ(中国語版)などが伝えた。

 日本円にすると五七〇億円くらいか。中国様にしてみるとふーんなくらいのはしたガネなのだろうか。事件の規模というか重要性がよくわからないのだが、不正開始が一九九一年というから十五年。年間だと三八億円……金利を設定するならどの程度かもよくわからない。
 この犯罪では奥さん同伴ということなのだが、同記事では四人は移民法違反などの疑いですでに当局に身柄を拘束されているとこのこと。ちょっとこれだけではニュースがいまいちわからないこともあるが、なにしろネタ元は一日付のボイス・オブ・アメリカ中国語版なのだそうだ。え?
 ちなみに英語版のVOAの中国関連のニュースを見たが該当ニュースは見かけなかった。とはいえ、このニュース、別段それほどマイナーというわけではなく、BBC”China bankers in US scam charge ”(参照)とかCNN”Chinese bankers, wives indicted”(参照)、ヘラルド・トリビューン(ブルームバーグ)”Ex-China bank managers indicted ”(参照)とごくありふれたニュースである。というか、そろそろ日本国内でも報道が出るころかなと思っているのだが……。
 CNNのニュースを見ると奥さん同伴というより偽装結婚のようだ。

They allegedly planned to immigrate to the United States with their wives and gain citizenship through schemes involving phony documents and sham marriages.

 よくわからないのだが、カネもって米国にトンヅラということだったのだろうか。そのわりには長期にわたり組織的だし、なんで今頃事件化するのかよくわからない。いやワタシ的には、「オリエンタルカジノ」とか「ギャラクシーカジノ」とか「サンズカジノ」とかの名前がマスコミに登場するようになってから、ゆっくりと中国金銭洗浄の続報を書こうかと思う今日この頃なのだが……なんてフカせるほど事情は知らない。いくつか英文のニュースを読んでもこのニュースの裏というのもよくわからない。
 裏なんてないのかもしれない……が、それでもなんでラスベガスなんだろうか。何となく思い当たるのはマカオのカジノに投入される米国資本の増大だ。すでに中国のカジノ用の資本を上回っているようでもある。というあたりで、カネ……金……といえば隣の金さんのことも連想するのだが、そこまで愉快な話をふかしてもなんだし、このエントリはおしまい。

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2006.02.01

官製談合について

 東京地検特捜部がライブドアにつづき防衛施設庁を落とした。なんでこの時期にとか、また額賀かよといったささやきも、防衛庁を防衛省に格上げなんて百年早いわはっはとかいう笑い声も聞かれないほど鮮やかな仕事である。
 こんな官製談合なんて道路公団副総裁の橋梁談合とか成田国際空港重機メーカー談合とかその気になれば恣意的にいくらでもほっくりかえせると誤解している人もいるかもしれないが、けしてそんなことはない。耐震偽装問題に関連した、民間検査機関イーホムズの審査担当者十人が全員市役所などで建築確認業務に携わった公務員OBだったとかいう天下り構造にこの問題の一端があるのだと考えることは昨今のアルファーブロガーでもしないことだ。
 こうした官製談合疑惑のタネというのはあちこちにあるかのようにも思えるものだが、いざその実態を詳しく見ていくと真実が明らかになるものなのだ。一例を挙げよう。
 昨年八月のことだが、東京警察病院の移転・新築工事の入札に談合があるのではないかという噂が飛び交った。工事の発注元は警視庁職員の福利厚生を目的とする財団法人「自警会」である。常識的に考えてもこれは警視庁職員OBの組織と見てよく、すわ官製談合ではないかという疑惑の目が向けられたのもしかたがない面はあるだろう。ちなみに工事は、東京都中野区中野四丁目約二万平方メートルの敷地に新たに病院棟と宿舎棟を建設するというもので、当初の予定価格は約一二〇億円。総額として見ればたいした額ではない。自警会は六月時点で業者を公正に公募し資格審査を行い、四共同企業体(JV)を入札参加業者に選定していた。
 しかしそこは社会正義を担う警察である。こうした疑惑そのものに社会的に配慮しなくてはならないものだ。即座に自警会は予定入札をとりあえず延期することを決め、入札参加予定の業者を招集し詳しく事情を聴くことにした。
 結果はどうかといえば、談合の事実は確認できなかった。根も葉もない風説に過ぎず、しかも国策との関係すらない。そもそも社会正義を担う警察の関連に官製談合などありうるはずもない。それでも、こうした風説自体もさらに考慮する姿勢を示すために、入札に当たっては「慎重に対応する必要がある」と明言した。中断された入札も仕切り直しとなり、約百億円で共同企業体(JV)が落札した。落札率も約九〇%であった。
 朝日新聞や読売新聞など一部の新聞はこうした風説を新聞社に寄せられた情報としてニュースに流していたが、真実が明らかになるに従い、その後の報道というものはなくなった。当然の結果である。官製談合などどこでもやっているというのは大きな間違いであり、まして警察に疑惑の目を向けるというのはジャーナリズムにもブログ界にもあってはならないことだ。諸悪の根源や黒幕ということに庶民は正義の関心を向けるべきなのである。
 それでも、警察病院の建設にはなにかと例外が多いのではないか(参照)といった声もネットで見かけることがあるがこうした指摘を正しく理解するにはマスメディアの報道とは異なったネットリテラシーというものが求められるのは当然だろう。もっとも、ネットの情報にはネタが多過ぎるというのであれば、それはそれでなにかと困るのではないか。

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2006.01.31

文化戦争かな

 問題はカブトムシとクワガタムシにとっては里山の存続にあることは確かだし、いわゆる四点セットは疑似問題臭いのだが、まようするに世相を覆うこのもわっとした感じは何か。と沈んでいて思うことをなんとなく書く。
 先日なんかのニュースで英国イングランドのシンボルを決めようという話を聞いた。英国というのは正式名はUnited Kingdom of Great Britain and Northern Irelandだから略してUK、というように国の集まり。国旗もね、三レイヤーズ。実際スコットランドやウェールズは財政とか言語の面でもかなり自治性が高い云々だが、さてイングランドはというと案外文化的な中心的なイメージはないらしい。クイーンがいるじゃないかと日本人などは思うが彼女こそまさにUnitedでありCommonな象徴だから一に除外。つうとロンドン塔かな。れいの二階建てバスは廃止になるらしい。現在そういうシンボルを公募中らしくそしてモンティパイソンの国らしく阿呆なシンボルも集まっているようでもある。
 この話が波及したかわからないのだが、先日二十六日のオーストラリアデーにちなみオーストラリアでも文化的な同一性をどう見るかという話題が多少あったそうだ。そりゃそうかもしれない。キャプテン・ウルトラがバンデル星人から逃れてオーストラリアを発見したというのを建国記念日にされてもなというのが多文化主義の様相を深めつつある現状では異論もあるかもしれない……スターウォーズじゃないカルチャーウォーズということかも。
 というあたりで昨今のもわっとした世相なんだが、これって日本におけるカルチャーウォーズということなのではないかとなんとなく思った。
 ネットを引くとカルチャーウォーズ=文化戦争というのは米国の現代史の文脈で語られることが多い。じゃというわけで、英語のWikipediaを引くとある(参照)。六〇年代あたりからの背景をほのめかしつつあるが、実際は九〇年代の問題という印象も伺える。


The expression gained wide use with the 1991 publication of Culture Wars: The Struggle to Define America by James Davison Hunter. In that book, Hunter described what he saw as a dramatic re-alignment and polarization that had transformed American politics and culture.

He argued that on an increasing number of "hot-button" defining issues - abortion, gun politics, separation of church and state, privacy, homosexuality, censorship - there had come to be two definable polarities. Furthermore it was not just that there were a number of divisive issues, but that society had divided along essentially the same lines on each of these issues, so as to constitute two warring groups, primarily defined not by nominal religion, ethnicity, social class or even political affiliation, but rather by ideological world views.

Hunter characterised this polarity as stemming from opposite impulses, toward what he refers to as Progressivism and Orthodoxy.


 ふーんという感じだが、ここで言うCultureっていわゆる日本語の「文化」というのとはちょっと語感が違っていそうだ。日本人の感覚からすると、ここでは否定されているがむしろ「イデオロギー」に近いかもしれない。いわゆる多生活様式のCultureの広義があって、そこに国ごとの差異やイデオロギーの差異がごそっと放り込まれるようだ。ふと思うのだが、日本ではこうした文化戦争が常に左翼的な文脈で出てくるのは、米国が表面的にはマルクス主義を払拭したための別の表出なのかもしれない。
 文化戦争で興味深いのは同ページのBattleground issues in the "culture wars"のほう。つまり、バトルの土俵というか形式はすでに決まっていると見ていいようだ。なるほどな。そこではもう思想なりというものは無化されて後はただバトルだヘイガニみたいな世界になっているのか、米国は。
 というのが、実は、昨今の日本も同じことなんじゃないか。なんとなく世間の政治話題に見えるもは日本の文化戦争の形式として定着してきたということなのでは。
 ちょっと話がずれるのだが、ネットというのはそういう文化戦争の場としてはある意味でそれまで戦後知識人のタブーを顕在化する方向で進み、それゆえにさらに日本における文化戦争を増長させてきたのでは。
 そういえばくだらないネタなのだが某ハーフ女子アナの母親が在日ではないかというのがあったが、そういうネタが出てきたりネタにリアクトしたりというところで、日本対特定アジア的ないわゆる対外文化としての文化戦争の枠があるのかも……と思いきや、これは実は特定アジアというものが本質的・内在的に日本化してきたことの相互的な問題なのではないか。
 くだらないネタついでにボケネタなのだが、朝鮮日報に”韓国で流通する「日本産コシヒカリ」、85%が偽物 ”(参照)という記事があり、首をかしげた。

 韓国で販売されている「日本産コシヒカリ米」のほとんどが偽物であることが分かった。
 農村振興庁は今月30日、「コシヒカリ」と表示され流通している27のブランドのコメを調査した結果、コシヒカリが一粒も入らない、国内品種米だけのブランドが13種にも及ぶと明らかにした。
 また、国内品種米の占める割合が5つのブランドで98%以上、2つのブランドで95%以上、3つのブランドで75%以上となっており、調査対象の27のブランドのうち85%の23のブランドが、事実上韓国産のコメを日本産のコシヒカリと偽って包装販売していることがわかった。残りの4つのブランドも国産のコメが少量混入しており、100%のコシヒカリ製品は国内に存在しないことがわかった。

 日本語で書かれているので「国産」をつい「日本国産」と勘違いしそうだがこれは韓国産のことなのだろう。で素朴な疑問。コシヒカリを誰が食いたいのか? 在韓日本人? 実態がよくわからないのだが、韓国人には日本産コシヒカリ食べたいなというという層がはっきりと存在するのではないか。そういえば、岡田英弘先生の講義に出ていたとき先生が雑談で、トルコの文化とギリシアの文化は同じですよと言っていたのを思い出す。ラクとウゾだ。ラクとウゾの違いが文化戦争でもあるのだろう。もっとも現在両国は現在はそういう次元にはいない。
 文化戦争というのは極めて特定な同質性の文化の内部に起きる擬似的な問題ではないだろうか。靖国問題にしても騒ぐだれもが戦士の霊魂というオカルト的な実在を信じているかフィクションを共有している。しかし、キリスト教徒やイスラム教徒にしてみればそんな異教徒の霊魂なんかありっこないだろゴルァだろう。そこまで文化が違えば文化戦争も起こりえない。
 というかヴェーバーのいう魔術(呪術)から解放された世界が近代ならそういう問題が起こりえないだろういうところに、実は各種の文化戦争とは魔術からの最後の復讐なのではないかな。

追記(2004.2.5)
 イングランドをブリテンとした誤記を修正した。

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2006.01.30

プロライフ・プロチョイス

 日本人には関心ない話題だろうと思うし、関係ない話題とすら言ってもいいのかもしれないが、二十四日米上院司法委員会は、最高裁判事に現サミュエル・アリート連邦高裁判事の就任を承認した。子供ニュース的に言うと米国の司法で一番偉い人が決まったということ。ブログ的に言うと、これまでのオコーナー最高裁判事は中道と見られていたので、やったぜ共和党、司法も保守陣営が取った、ということか。民主党の議員の多くはその承認に反対しているものの、強行に議事進行妨害をする気配もない。より正確に言うと、これで最高裁の構成は、保守四名、リベラル四名、中道一名ということなので、一気に保守化というわけでもないし、アリート連邦高裁判事も極めつけ保守というほどでもない。太平洋の対岸から見ると、そう変わった風景でもないかという印象はある。
 具体的にこの保守対リベラルの対立というのはどういうことかというと、一つには死刑制度の問題もあるがわいのわいの騒いでいるのは中絶の是非、というかその法規制をどうすべきかということ。簡単な図柄でいうと、中絶規制が保守でプロライフ(命に賛成)(参照)、中絶規制するながリベラルでプロチョイス(選択権に賛成)(参照)ということ。
 普通の英語だと、賛成がproで反対がconなのだが、否定のconは看板には出てこないのが、米国っぽいか。というか、この話題まるごと米国っぽい。米民主党の代理店的水母著作権無視翻訳ブログでもこの話題はほとんど触れてないし……。
 この分野の米国での議論は、中絶権利を初めて認めた一九七三年のロー対ウェイド判決が起点になるのだがと日本語版のウィッキ先生を見ると、説明がねーよ。いや全然ないわけでもなく、アメリカ合衆国憲法の項目のおまけみたいにある(参照)。英語のほうは、Roe v. Wade(参照)に当然ある。日本のネット・リソースとしてまとまってないのも不思議な感じがするが、”2002/11/28アメリカ社会概論 7.生命・生殖・性をめぐる論争と政治”(参照)というサイトにこうまとまっている。


1973年 「ロー対ウェイド事件」判決-妊婦の生命を救う場合以外の中絶を禁止したテキサス州法は、修正14条で保護される「プライバシーの権利」の侵害であり、違憲であると判断。より具体的には、各州政府は、①妊娠3ヶ月以内の中絶は「医学的判断に任せねばならない」(事実上の合法化)、②4ヶ月から6ヶ月については、母体の保護を理由に制限できるが、禁止してはならない。③7ヶ月から9ヶ月は、母親の生命維持に必要な場合以外、制限ないし禁止できる、とした(日本の現行の「母体保護法」では、「妊娠の継続が女性の精神的・身体的健康を害する」などの要件がある場合にのみ中絶を認めている(22週まで)-事実上は請求通り認められる、フランスは10-12週なら無条件に認められる)。
 この「ロー対ウェイド判決」以後、キリスト教保守派を中心に活発な中絶反対運動を起こし、またレーガン・ブッシュ政権も中絶反対の姿勢をとった→レーガンはロー判決を支持したリベラルな判事のうち3人を保守派に入れ替えた。しかしその後のクリントン民主党政権を経て、現在、首席判事のレーンキストと、スカリア、トーマスがプロライフ派、ブライアー、ギンズバーグ、オコーナー、スーター、ケネディ、スティーブンズの6判事がプロチョイス派→2004年の大統領選挙でブッシュが再選されると、プロライフ派の判事が任命され、「ロー判決」が覆される可能性もある。

 プロチョイス的な視点で書かれている印象を受けるが大筋では、最高裁判事の問題というのは、こういう構図の問題でもある。
 この先話がやっかいで詳細に議論すべきことも多いのだが、世事として見ていくと、このころの傾向としてはプロライフ派の活動がめざましいと言ってよさそうだ、というのは、州レベルでの規制が増えつつある。
 こうした動向がいわゆる保守的な動向とイコールと見られるかについては、簡単には言えない。この問題に大きく関わっているのは、アクティビスト写真を見てもわかるように中産階級の白人女性が多いようだ(参照)。
 余談めくが、日本の場合宗教という背景もあるのだろうが、こうした中産階級の女性層では中絶はコントラバーシャルな問題はでなく、代わりにあるかのようないわゆるジェンダーフリー問題も旧来の左翼勢力に収束してしまうように見える。

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2006.01.29

小田和正、小林よしのり、川上弘美

 春節。しかし、その話も今年は書かない。世事についてもいろいろ思うが思いがまとまらない。というかある種うんざり感がある。世界情勢の主要な話題についてはあらためて言及することもないかなと思ったり、私が言及すべきことでもないかと思ったり。かくもネタのないときはブログなんて書かなくてもいいじゃないかとも思うが、もうしばらく日々なんか書いてみよう。そういうのもログ(記録)ではあるのだろうし。
 このところぼんやり考えている三人のこと。
 小田和正。先日DVRの録画リストを見ているとの彼のドキュメンタリーみたいなものがあった。いつ予約したのかしかと覚えていない。私はNHKが好きで雑誌「ステラ」が配送されるとその場で気になる番組の予約をDVRにつっこんでおき後で適当に見る。
 ドキュメンタリーは五十七歳になる小田和正のツアー。テーマはある意味で「老い」ということ。それと団塊の世代としての彼の人生の今といったものだ。久しぶりに映像で見る小田和正は、なんだか江戸切り子職人の老人みたいな印象だった。つまり、老人だった。彼が歌っている映像というのは案外初めて見るのかもしれないが、随分と身体を絞るように声を出しているのがちょっと痛ましい感じだったし、なによりそこかしこの仕草に老人のそれがあった。
 彼は昭和二十二年生まれ。私とちょうど十年の差。私は今思うと背伸びしていのかフォークルとか岡林信康とか高田渡とかとかとか聞いていた世代に属する。オフコースはよく知らない。その後、なんとなくユーミンのファンとなり、そしてユーミンが紅雀あたりでドツボっていたころ、その旦那が彼女に小田和正のようにやればいいじゃんとアドバイスしたとかで、ふーんと思って、それを機にいくつか小田和正のアルバムを買って聞いた。心に残らない。そういえば年末二度ほどユーミンの映像を見た。一つは浜崎あゆみとの対談。そしてなぜか紅白歌合戦の彼女の場面だけ見た。紅白では演歌歌手みたいだったし対談では荒井のおばさまといった雰囲気だった。あまり老いとは感じなかったが。そこにはおばさまがいた。
 小田和正が老人に見えたというのは揶揄ではない。私はあと十年生きているのだろうかと思うし、神のお慈悲あるとてその頃の老人さ具合は彼の比ではあるまいなと素直に思う。三十八歳がついこないだのような感じからすれば、五十八歳の時はすぐに訪れるだろう。
 小田和正は昔のラブソングに合わせ、この十年の作でもある新しい歌を走りながら歌ったのだが、その歌は番組の言葉を借りれば団塊の仲間に伝えるというものでもあった。私は知らなかったのだが、彼は東北大学工学部建築学科卒業でその仲間たちとの交流を今も大切にしているということだ。年末の会合では耐震偽装問題も話題になったとのこと。その仲間たちは、そう退職の時期を迎える。
 ウィッキペディアを見たらけっこう詳しい話がある(参照)。


近所の保育園を出(現在もある)関東学院六浦小学校-市立八景小-聖光学院中学校・高等学校-東北大学 工学部 建築学科卒業。早稲田大学大学院 理工学研究科修士課程修了。生粋のインテリミュージシャンである。建築家で東大教授の藤森照信とは学部時代からの友人。1982年9月3日、新井恵子と結婚。子供はない。

 ふーんと思うのと、へぇ結婚したのは三十五歳の時かとも思った。子供がないというのは、晩婚とかの理由よりもある種偶然なのではないかという感じがする。が、結果的に子供はない。あれば青年であろうに。
 小林よしのり。彼についてはいつからかとんと関心がなくなった。ワシズムが出たころは数巻買っていたような記憶があるので、そのころ関心が薄れたのだろう。SAPIOの連載も読まない。戦争論は二巻読んだが、率直にいうと凡庸だった。沖縄論については気取るわけではないが凡庸だった。彼の政治的な立場にあまり共感できなくなったというのもあるが、それ以前に彼が問題視している問題に問題性というのを感じられなくなってしまった。もうちょっと下品にいうと、反米のバックラッシュで普通の左翼と同じポジションにいるような感じがする。
 が、たまたま今週号かなSAPIOの連載を読んだ。彼の父の死と葬儀の話だ。今までご存命でよかったんじゃないかちょっとうらやましいなというふうに私などは思う。いずれにせよ、父親の死というのは男の人生にあるくっきりとした限界を描く。彼も漫画のなかで自身の死の線を引いて見せていた。満足に仕事ができるのは十年だろうと言う。そして彼も子がなく、残るカネがあれば寄付して終わるというものだった。
 ウィッキペディアをみると(参照)、「本名:小林善範、1953年8月31日-)は日本の漫画家、社会評論家。福岡県福岡市出身」とあり、台湾で販売されている台湾論の著者名小林善範は本名だったのか。私より五歳年上だったのか。すごい仕事量だな、偉いものだなと思う。と同時に、非難する意図はまるでないのだが、彼の政治漫画のあるマンネリ感のようなものは「老い」の一つの陰影なのかもしれない。老いていくということは他者の老いに実はあまり関心を持たなくなることでもあろう。
 川上弘美。彼女については私は最初からまるで関心がない。いや「蛇を踏む」(参照)を読んだことはある。その程度。なのに、今月の文藝春秋に「天にまします吾らが父ヨ、世界人類ガ、幸福デ、ありますヨウニ」というショートショートのちょっと長目みたいな短編があり、広告でも眺めるように読むともなく読んで奇妙な後味に苦しんだ。
 話の仕掛けは、川上を彷彿させる四十七歳の女性作家の独白というもので、ネタは二十年前の恋人と再会するというもの。主人公も昔の恋人も離婚していてという設定になっているが、川上弘美ってそうだったけとふと思う。ま、そんなことは作品とは直接関係ないだろうし、いやむしろ、それもネット用語でいう「釣り」ってやつかな。文藝春秋を読む世代も私(四十八歳)になってきたので、そのあたりが釣れるかなと。「センセイの鞄」(参照)で爺さんが釣れたように。
 昭和五十年ころの恋愛っていうのは……という話で、それなりにほいとおセックスというものではなかったみたいな話があり、では二十年後の再会でそのあたりは、ほいとおセックスとあいなるかというのがネタなのだが、なんつうか、四十七歳の男女のおセックスがむふふというのありかよというあたりで、はてな世代にドン引きとかタグられそうだ。でも、率直に言って、そのあたりの私の世代の幻想をうまく突いているなという感じがした。私のように五十歳を前にした男でも……むふふ……みたいなすげえ勘違い。
 小説で面白かったのは、四十七歳の女性の心情として、若い日の淡い恋心でマスターベーションするととても気持ちいいというあたりだ。そうか? 思わず、そうかそうかと電話でもしまくりたくなる感じだが。しかしそうしたことを含めて、これもまた「老い」というものの兆候なのだろう。
 天人五衰(参照)が象徴するようにこの世から三島由紀夫が消えたのは四十五歳のとき。彼はかすかな老いに耐え難いというのはあったのだろうが、普通の人はそこをやすやすと超え、そして気づかずあるいは再定義しつつ老いを生きていくことになる。

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