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2006.10.21

サハリン2は何がなんだかわからない

 専門ではないので何がなんだかわからないのだが、専門家でもそうなんじゃないかというのがエントリの主旨になる予定なので、そう、別にどうという話でもない。この間ずっと気になっていたし、潮目のような感じもするのでちょっと書いておこう。
 話はサハリン2プロジェクト、略してサハ2、じゃ略しすぎ。ではサハリン2・0、ってこともなし。サハリン2は、ロイヤル・ダッチ・シェルと三井物産、三菱商事、三社が出資するサハリン・エナジーによるロシア・サハリン沖の資源開発事業だ。開発契約開始は新ロシア黎明・混沌の九四年。出資比率は順に五五パーセント、二五パーセント、二〇パーセント。というわけで、かつての日本領土近くだから日本の比率が多いというわけではないが、対露投資として見れば大きい。来年から原油の通年生産(日量一八バレル)、再来年から液化天然ガスの生産(九六〇トン)開始の予定、だった。が、そう行かないかもしれないというのが事の発端かのような。
 話は先月五日。ロシア天然資源監督局がサハリン・エナジーは環境保全措置を怠っているとして事業許可の取り消しをモスクワ市の裁判所に求めた。一八日これを受けて、露天然資源省は事業第二段階の許可承認を取り消す決定を下し当面開発は停止となった。環境問題があったかなかったかというと、サハリン・エナジーもまったくないとは言えないわけで、そう不当な決定ということでもない。
 停止ということもあるんじゃないのかくらいに私は思っていた。が、日本の報道と限らないのだが、これはロシア政府が仕掛けたものでロシア企業ガスプロムを開発事業に加えろというメッセージではないかという話がふくらんできた。なぜ?
 そこが私にはわからない。誰がそんなこと言っているのかというのが気になってこの間ニュースを見聞きしてきたのだがわからない。専門家は口を揃えてロシアの国策だろうと言うのだが、いったいどこにそんなソースがあるか。プーチン皇帝は、エネルギーを国家支配下に置き国際戦略に使いたいのだろうという観測から、なーんとなく出てきたお話ではないのか。
 二一日、アレクサンドル・ロシュコフ駐日ロシア大使は、プロジェクト全体を中止するつもりはないと明言。どういう権限でそう言えるのかわからないが、中止しないというメッセージをはっきり出したた。さらに二六日、トルトネフ天然資源相はサハリン2について、約一か月は環境調査を行うが、その間は工事継続を容認すると記者会見で述べた。
 ロシアを敵視しているかのようなメディアの思惑とロシアから公式に出てくるメッセージが噛み合わない。
 今月に入り、ロシア会計検査院はサハリン2について、投資額が増大になればロシアの収益化が遅れて不利になると発表したが、それとても環境問題とは直接リンクしない。別の話に思える。ロシア会計検査院の言っていることはただの正確な予想というだけで、問題はむしろサハリン・エナジーの投資増大にある。
 もともとこの開発は生産物分与協定(PSA)によるもので、これは企業の投資分の回収を優先し、ロシアへの収益配分はその投資回収後になる。ロシアがカネのない時代に開発を進めるためにしかたなしに酔っぱらったエリツィンが打ち出したものだが、当然投資が増えればその回収は遅れてしまい、ロシアは手を拱いていなければならない。しかも、現在のロシアは原油価格高騰でカネがだぶだぶ。
 ロイヤル・ダッチ・シェルもロシアというかプーチンのご不満はわかっていたわけで、昨年、サハリン・エナジーの株式を二六パーセントロシアのガスプロムに譲渡することになっていたし、その後、三井物産・三菱商事がその株をシェルに回すことになっていた。
 が、シェルはこれと併行して、事業経費を当初の百億ドルから二百億ドルに増やすと言い出した。ロシア皇帝もそりゃむっときて当然だろう。なので、環境問題はその反撃かと読まれたわけだが、そういう読みの裏付けは私の見る限りだが何もない。
 今日になって共同からこんなお話が流れた。”ロシア大統領がサハリン2批判 日本に影響か”(参照)より。


ロシアのプーチン大統領は20日、日本商社などが出資する極東サハリン州沖の石油・天然ガス開発計画「サハリン2」について、現行の契約形態である生産物分与協定(PSA)や、事業主体が打ち出した事業費倍増計画はロシアの利益にならないと厳しく批判した。大統領がサハリン2について自ら考えを表明したのは初めて。

 初めてプーチン皇帝のお言葉が出てきたわけだが、なんかおかしい。と思っているうちにこの問題にけっこうきちんと取材しているNHKから”ロ サハリン2で対話の構えも”(参照)が出た。ちと長いが重要なので引用する。

これについて、トルトネフ天然資源相は20日、上院の公聴会で、事業主体のサハリンエナジーがロシア政府に歩み寄り、環境対策の不備を認め、改善に取り組む意思がみられるとして、「建設的な対話を行いたい」と述べ、事態打開に向けた協議に応じる構えを示しました。また、プーチン大統領も20日、EU・ヨーロッパ連合との首脳会談後の記者会見で、「双方が交渉のテーブルについて合意することが必要だ」と述べました。その一方で、「環境問題以外に事業費の増加が問題だ」とも指摘し、サハリン2の経費が予定の2倍にふくれあがることによって、ロシア側の利益の取り分が少なくなることに不満を示しました。

 こっちのHKニュースのほうが真相に近いように思える。プーチンとしてはなんとか日本ともめたくないという心情が優先的なのではないか。
 昨年の話だが、シュレーダー元ドイツ首相がロシア・ガスプロムの共同事業NEGPの締役会長に就任した(参照)。ドイツ国内ではすごいブーイングの声が上がった(参照)がプーチンとしては信頼できる国外の仲間を要所に据えたかったことは間違いない。
 たぶん、プーチン皇帝は日本でもそういう信頼できる人が欲しいのではないかと思う。でも候補者は早々に潰されていたということか。

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2006.10.20

セイタカアワダチソウ

 セイタカアワダチソウ(参照)は漢字で書けば、たぶん「背高泡立草」となるのであろう。でも、子供のころから見慣れたこの植物について、私は、ヨウシュヤマゴボウ(参照)と同じように、カタカナの名でしか受け付けない。多分に気分的なものだが、北米からの帰化植物だからという印象が強かったからかもしれないし、「背高泡立草」なら「セダカ」となりそうなものを「セイタカ」と呼ぶのにも、なにか懐かしい響きがある。そういえば、みんなの歌だったか、宇多田ヒカルがクマクマクマと歌っていたが……違う違う、十朱幸代だ。歌っていた。まだ七〇年代だったか。ベトナム戦争の歌だったのか。
 セイタカアワダチソウが好きかと自問するといつも微妙な気分になる。明らかにある種の嫌悪感がある。にょきにょきと生えていたり川辺に群生していたりすると、およそ日本の美観にそぐわないように思えるのだ。が反面、そう嫌いとばかりも言えない。昨年たまたまとある場所で、四メートルは超えようかというセイタカアワダチソウを見かけて、驚嘆した。奇妙なものであり、それゆになにか私に問いかけてくるようにも思えた。セイタカアワダチソウの黄が目立つこの季節が巡ってきたので、あいつのことが気になって、足を伸ばして今年のようすをわざわざ見に行った。二メートルくらいのがしょぼっと生えているくらいだった。みすぼらしい感じでもあった。この一年の気候か、あるいは何者かにいじめられていたのかもしれない。案外、自業自得っていうことかなとも思った。
 セイタカアワダチソウが繁茂する理由の一つでもあるのだが、その根から植物の成長を阻害する物質を出して、他の植物を圧倒する。物質の正確な名前はなんだったっけかなとど忘れするが、ネットを見ると出てくる。シス-デヒドロマトリカリアエステル(cis-DME:cis-dehydromatricaria ester)。特定の物質を使った植物間の争いはアレロパシー(allelopathy)と呼ばれていて、なにもセイタカアワダチソウだけの得意芸というわけではないし、こうした物質の研究は農薬にも活かされているらしい。
 セイタカアワダチソウの自業自得というのは、自分の根が出すこの物質で自家中毒のようにもなるからだ。川辺などに繁茂しているのは、土壌中にこの物質が残留しにくいからなのだろう。昨年の見事なセイタカアワダチソウも自業自得であったかとも思ったのはそんなわけだ。
 文句なしにセイタカアワダチソウが美しいと思ったことが一度だけある。もう随分昔のことだが、斑鳩のあたりをこの季節とぼとぼと歩いて旅していたら、川の向こうが金色に輝いていた。なんだあの金色は。浄土に辿り着いたか。それとも懐かしのケンタッキー。セイタカアワダチソウだった。あまりの群生を遠くで見ると不思議な光景になっていた。
 セイタカアワダチソウは英語ではゴールデンロッド(Goldenrod)になる。黄金の枝ではあるな。ただ、正確にゴールデンロッドというならアキノキリンソウであり、セイタカアワダチソウがその一種であっても、見た目はちと違う。ケンタッキー州の花だそうだが、これも群生しているのだろう(参照JPEG)。
 日本中で見かけるセイタカアワダチソウ(Solidago altissima)は北米からの帰化植物ということだが、本家の北米でも繁茂しているのだろうか。そういえば、日本の葛は北米に帰化して繁茂していると聞く。葛は私には美しい植物だが、北米の人にはそうでもないのかもしれない。
 セイタカアワダチソウは花粉症の元のように言われてもいるが、ウィキペディアを見ると日本語版も英語版もそうじゃないという話がある。悪いのはブタクサ(参照)ともある。そうなのだろうか。セイタカアワダチソウもキク科(Asteraceae)なのでアルゲンにはなりそうにも思えるのだが。
 季節はこれからセイタカアワダチソウを枯らしていく。冬にはあいつらもその枯姿を晒すだけかのようだがそうではない。ロゼットで冬越しをする。霜に当たったセイタカアワダチソウのロゼットは美しく、これには愛着がある。地べたにへばり付いたおまえさんが、セイタカだっていうのを俺はよくわかっているよと、冬の朝にはときおり思うのである。

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2006.10.19

乞食と米に外道な私

 現代日本では乞食を「こじき」と読んで卑しむ。働かないで物を貰うというのはよくないという倫理が歴史的に形成されてきた。が、世界を見渡すというそういう国ばかりではない。逆に働くことが卑しむべきこととされる文化もある。そういう宗教もある。仏教がそうだ。乞食を「こつじき」と読む。托鉢と同じ意味。頭陀(ずだ)とも言う。食住に対する貪欲をはらいのける修行で十二種あり、十二頭陀行という。厳しい。最近ではiPodしながら托鉢するのはいけないことになった。
 田畑を耕して食物を得るのも欲の部類だろうか。日本の仏教者にはそういう感性はあるまいなと思うかもしれないが、正法眼蔵随聞記(参照)の道元は乞食として生きた。徹底していた。食い物のことなど心配するなと言っていた。イエス・キリストの生まれ変わりかもしれない。


 昔一人の僧ありき。死して冥界に行きしに、閻王の云く、「この人、命分未だ尽きず。帰すべし」と云しに、ある冥官の云く、「命分ありといへども、食分既に尽きぬ。」王の云く、「荷葉を食せしむべし」と。然しより蘇りて後は、人中食物を食することをえず、ただ荷葉を食して残命を保つ。
 然れば出家人は、学仏の力によりて食分も尽くべからず。

 話はこうだ。ある僧が死んで閻魔大王の裁判所。検察が言うに「こいつの命はまだ尽きてないぞ、とはいえ一生分の食い物は食い尽くしたようだ」。閻魔大王は判決を下す。「ほいじゃ、娑婆に戻って蓮の葉でも食って生きるがよかろう」。
 このアネクドートをもって禅師は諭す。仏道にあるものは、食分(一生の食い物)は尽きない。心配するな、というのである。
 ブログも仏道のうちなれば、食分も尽くべからず。お米をもろた。ありがたい。
 炊いて食ってみた。研ぎながら炊きなら、そのにおいに農家の米だなと思う。私の母は農家の娘である。私が子供のころは田舎からときたま米が送られてきた。そんなことを思い出した。飯にする。米に甘みがある。こしひかりであろうか。私には米の味はわからない。
 恥ずべきかな、私はお米に対して外道極まった野郎なのである。もう十年前だったか、なにやら日本国が発狂しておめーらタイ米を食えということがあった。が、我、狂気乱舞、嬉しいったらない。長米、ちょー旨い、ってなものである。知人友人からタイ米頂戴頂戴と乞食して回った。
 外道というのは外道だから外道なのである。米の味などさっぱりわからん。わかるのは、てめーにとって旨い米か不味い米かそんだけ。乞食したタイ米も、実は、あまり旨くなかった。っていうか、めっちゃ味付けて食っちまったぜい。しかし、タイ米には香り米というのがあって、あれなら、なんもいらないぞ。そんだけでもうまいぞと思う。
 ジャポニカへもその流儀である。たぶんあとからげっそり後悔するだろうからすっと惚けて言うと、私は普段、もちっとしたのを食っている。雁谷哲の好みと同じ。だから外道。いや弁解させてくれ。一度飯を炊いたら二、三食分にはするのだ。つまり、レンジで珍、とはいえ、半分以上は冷や飯なのである。だったら、冷や飯に特化すべきじゃないか……ってな具合に最適化してみたのだった。
 反省することしきり。もろた米食いながら、いつもと違う食感に、舎利だ、と思った。百毫の一相、二十年の遺恩である。

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2006.10.18

祖母が娘の代理出産というニュースの雑感

 祖母が娘の代理出産というニュースをなんとなく耳にしたとき、「ああ、それができるのは根津八紘医師しかいないだろう」と脊髄反射的に思った。そして、それはいつもの根津八紘医師の言動の一環でもあり、考えなくていけない課題だが、時事的な枠組みで考えることでもないだろうと、そのまま関心を失っていた。
 昨日、大手紙の社説がこの問題を扱っていた。一読して、どれも違和感を覚えたが、うまく考えがまとまらないまま、気が付くとエントリも書かず過ぎた。それはそれでいいのだが、さらに一日経過してみると、新聞社説への違和感は強くなっていた。そのあたりの、なんというか自分の気持ちみたいなものからちょっと書いてみたい。
 朝日新聞社説”代理出産 法整備は待ったなしだ ”(参照)はこんな切り出しだった。


 祖母が孫の生みの母。生殖医療の進歩が、こんなややこしい親子関係を作った。違和感を持つ人は少なくないだろう。
 50代後半の女性が、がんで子宮を失った娘とその夫の受精卵を自らの子宮に入れて妊娠し、出産したのだ。祖母による代理出産である。手がけた長野県の産科医が明らかにした。

 一般の人は違和感を持つだろうというところで気を引き、そして「長野県の産科医」とした。その名前は社説には出てこない。確かに違和感はある。だが、その違和感はこの問題の考察の基盤になるのだろうか。
 結論は、代理母の命を危険にさらすな、法的枠組みが必要だ、原則なく現実の追認はいけないというものだった。だが、その三点こそ、根津八紘医師が答えたことでもあった。
 命を生むという人の根源的な意志に対して「命懸けの行為を承知で産んでくれる人がいるなら、他人がとやかく言う問題ではない」(一五日会見より)ということ。
 法的な枠組みは必要だろう。だが、現状は「学会の会告はあくまで内規。目の前の患者を忘れていては、何のために医者になったか分からない」(同日読売インタビューより)ということ。
 原則なく現実の追認にという点については、「医療法人登誠会諏訪マタニティークリニック」(参照)の「扶助生殖医療(非配偶者間体外受精・代理出産)を推進する会」(参照)が対応していると思う。

 私、根津八紘は、此の度、別紙のごとき、扶助生殖医療(非配偶者間体外受精・代理出産)を推進する会を結成し、より多くの恵まれぬ人々のために、残された人生を捧げることを決心致しました。
 生まれながらにして、又、その後、何らかの理由で配偶子(精子や卵子)や子宮が無いがために、子供さんを欲しくても子供さんが授からない方達が居ます。私達の住むこの日本国には、憲法によって幸福追求権が保障されており、何人たりともそれを侵してはならないことになっています。しかし、本来悩みや苦しみを持った患者さんのためにあるべき日本産科婦人科学会は、ガイドラインでしかあり得ない会告をもって、日本の法律であるかのごとき態度により、ひとの助けを借りれば子供を持つことのできる前述した方達から、その幸福追求権を奪っております。その上、国も新しい法律を作り、代理出産に関しては罰則まで付け禁止しようとしています。戦後、やっと勝ち得た自由、即ち、様々な生き方を選択できるそのような権利を放棄し、再度統制社会を作ることなど断じて許すことはできません。

 もちろん、この問いかけは難しい。朝日新聞の社説は根津八紘医師の名を伏すことでこうした問いから身を隠しているように私は思った。
 読売新聞社説”「孫」代理出産]「現実的なルール作りを急ぎたい」”(参照)は、朝日新聞同様根津八紘医師の名を伏した一般論だが、フランスでは禁止しているが英国では政府監視下で実施しているとの中立的な話にまとめた。毎日新聞社説”生殖技術 包括的な法整備の検討を”(参照)は論旨が破綻しているように思えた。

 50代後半の女性が無理に妊娠・出産することは、明らかに命にかかわる。本人が望んでいても、出産の手段として人を利用していることは間違いない。親なら許されるというものではないだろう。
 「子供がほしいという気持ちにこたえるべきだ」という意見もある。家族がみな納得しているなら問題はないという考えもあるだろう。だが、これらは親の願望に重きを置いた見方だ。
 本来、重視すべきなのは生まれてくる子供の福祉ではないか。誰が産むにしても、代理出産は子供の家族関係を複雑にする。子供の心理やアイデンティティーの形成にも影響しかねない。その点では、米国人女性に代理出産を依頼して子供をもうけた向井亜紀さんのケースも同様だ。

 細かいツッコミは省略するとして、論旨破綻のような印象には宗教的な価値観が伴っているように思えた。
 論旨破綻というより、これはどうしたんだと驚いたのが産経新聞社説”「孫」代理出産 やはり法整備急ぐべきだ”(参照)だ。冒頭から他紙とは異なり根津八紘医師を名指して挑んでいる。

 医師の独走ではないか。根津八紘(ねつやひろ)院長による娘の代わりに祖母が孫を産んだ「代理出産」のことである。
 がんで子宮を摘出した女性の卵子とその夫の精子とを体外で受精させ、受精卵を女性の母親の子宮に移植して育て出産させた。母親は50代後半で、閉経し、子宮も萎縮(いしゅく)していた。女性ホルモンを投与し、人工的に生殖機能を回復させてカバーしたとはいうものの、出産後に一時的な更年期障害に陥った。今後、健康問題は深刻化しないだろうか。初めてのケースだけに心配だ。

 二段落目は論旨が破綻しているか、この祖母が主体的に命を懸けてしたことを他人の健康問題にしているのは、やはり健康は命より大切というブラックユーモアなのだろうか。

 代理出産を一部の州で合法化しているアメリカでは、代理母が子供を引き渡すのを拒んだりするトラブルや、代理母に報酬を支払う斡旋(あっせん)業者まで出ている。

 それは別の問題だろ。
 この社説は文体も変だった。

  • 初めてのケースだけに心配だ。
  • 将来、問題は起こらないのだろうか。
  • やはり違和感はぬぐえない。
  • とも語っているが、説得力に乏しい。

 最初に代理出産はイカン、法的に禁止せよ、ということで、この社説にも私は特定の宗教的な主張を感じた。
 各紙社説が総じて結論とするのは、法的に決めてしまえということだ。
 私はこのエントリを書き出すとき、この問題はあまりに難しいから、社説を皮肉っても自分の意見は曖昧にしておこうと思った。
 しかし、書き進めていくうち、自分の考えは少しクリアになった。医療が可能性を示していて、そこに命をかけて希望を見いだそうとする人がいるかぎり、つまり、今とは違った未来を人が構想しえるとき、それを禁じて終わりの緞帳を降ろすことはできないだろう。つまり、この問題はどう考えても、どのような条件下でOKを出すのかというその条件が問われなくてはならないのではないか。

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2006.10.15

魚のこと、雑談

 このところNHKのラジオやテレビで漁業の話を何度か聞いた。概ね、世界の人々(っていうか中国人)の魚食が増加してきているため魚の市場価格が上がってきたから日本人も気楽に魚が食べられる時代ではない、というのと、マグロなど魚の乱獲がはげしく今後は規制が強化されるので、日本人も気楽に魚が食べられる時代ではないと、まあ、どんな話でもオチはそういうこと。ニュースを見ると、スポニチ”“高級トロ”漁獲量削減を勧告”(参照)は後者の話。


 最高級トロの材料として日本で大量に消費される東部大西洋と地中海のクロマグロの資源量が急激に減少、資源維持のためには現在の漁獲枠を半分以下にすべきだとする資源管理機関「大西洋まぐろ類保存国際委員会(ICCAT)」の科学委員会の報告書案が14日、明らかになった。11月にクロアチアで開くICCATの特別会合に提出される。同会合で国ごとの漁獲枠を定め、各国がこの範囲内でマグロを漁獲することになっている。

 個人的にはトロはそれほど好きでもないのでふーんという感じ、というか、ああいう魚は欧米人でも食べやすいのだろうなと思う。
cover
築地市場の
さかなかな?
平野文
 個人的な話だが三十台から四十台にかけて沖縄の海辺を八年間転々としたのだが、海辺というのは漁村なもので、漁師をよく見かけた。捕れた魚を見ると、イラブチャーやミーバイなど、熱帯魚かよこの色彩、食欲湧かねぇ、と当初は思ったが、食い慣れた。皮を剥けば同じだよと漁師は言ったがそのとおりだった。そのうち、魚に旨い(ミーバイとかマクブとかタマン)のとそうでもない(イジキンとかグルクンとかオジサン)とか見ればわかるようにはなかった。というか、けっこうどうでもいい魚などは分けてもらったりもしたし、できるだけ買いもした。暮らした界隈によっては三輪車にオバーが乗ってきてマグロやカジキの切り身を売りに来た。いおこーらーんがーである。
 沖縄は海に囲まれているから魚も豊富なのだろうと思っていたが、中部とか那覇とか街に出るとようすは違う。どうやら普通のうちなーんちゅは沖縄の魚をほとんど食べてないというか、そもそもスーパーにもあまり売ってない。もちろん牧志にはあるが、っていうか、つまり観光とか料亭のニーズなのだろう、地方魚は。
 代わりに沖縄のスーパーで売っている魚は本土と変わらない。しいていうと本土よりまずい。東京に戻ってからデパ地下などで魚を買うが、ようするにカネさえだせば旨い魚は買えるのだけど、沖縄だとそうでもなかった。もっとも経験が狭いのでそうでもないのかもしれないが。
 当たり前といえばそうだが沖縄の漁師たちはできるだけ旨い魚を捕ってこようとしている(高く売れるからでもあるが)。沖縄の漁師たちというのはけっこうオジーの漁師たちである。いかにもうみんちゅという人々。言語はほとんど外国語なのでもうぜんぜんわかんないのだが、それはそれ私もまだ若気の残っているころでもあるのでいろいろ訊いてみた。いくつか驚いたことの一つに秋刀魚のことがある。漁師たちの捕ってくる魚に秋刀魚とか鰯とか鰺とかない。鰯が無いのはよくわからない。鰺はもともとこの海にいなさそうだというか代わりにガーラがいる。秋刀魚もここでは捕れないのだろうと思ったが、なにかのおり、うみんちゅのオジーに聞くと「あれは魚の餌である」と言う。捕れるのだそうだ。そして魚の餌にするのだそうだ。あんなものは魚ではないのだそうだ、である。
 考えてみるとナイチでも昔はというか江戸時代以前というか、魚というのは鯛みたいのが魚であって、鰯だの鰺だの秋刀魚だのは魚ではあっても魚の部類ではなかったのではないか。そういう事情は朝鮮でも同じようだし(イシモチとか)。そういえば以前「極東ブログ: [書評]「築地市場のさかなかな?」平野文」(参照)を書いた。
 っていうか、魚を食うっていうのはそういう、なんというか下魚を食うということではないのだろうなとなんかわかった。自分も歳とってきたので、おりに触れてできるだけ、カネのあるぶんだけ、人生もこれから残り少なくなるのだから、ジョートーな魚を食べよう、とも思った。もちろん日々そういうわけにもいかない。たいていは普通の魚を食う。普通の魚?
 日本人にとって普通の魚ってなんだろと思い、ネットを眺めてみた。購入量の多い魚という話が「ジュニア食料・農業・農村白書」(参照)にあった。鮭がだんとつに多い。年間五キロ。たしかに、なにかと鮭は食うな。次いで烏賊三キロ。私はあまり烏賊が好きではないのでそんなに食わない。同量くらいが鮪と鰺。鰺は好きだな。ちゃんと釣ってきた鰺とかちとカネ出して食うとうまいよな。秋刀魚は二キロくらい。同じく海老。私は海老があまり好きではない。そして鰤。鰤は好きだな。そして鰯。鰯って実はあまり食えなくなったような気がする。リストはこれにアサリと鯖と続いて終わり。
 ふーんという感じだが、鯛とか鰈とかはもっと少ないのだろうか。私はけっこうカジキを食べるがな、鱈とかも、などなど。
 同資料にはその輸入元の国の比率があるが、海老を除けばけっこうまだ日本でよく捕っている。スーパーとか見ていると各国の魚ばかりという気もするが、グロスで見るとそれほどの量ではないのだろうか。
 ついでに漁業生産量の推移とか見ると現在の日本は九〇年代の半分くらいに減っている。ピークが八四年で一二八二万トン。〇五年は五七二万トン。イラストのお船が「魚がへったことや国際規制などで生産量はへっているんだ」と言っているが、単にコストの問題ではないのか。海外から調達したほうが安くなったというだけでは。
 ついでに漁業従事者も年々減っているのだが、推移を見るに四割がたは六〇歳以上。漁師って老人の仕事っていうことなんだろうか。沖縄のうみんちゅうも老人が多かったが。

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