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2006.08.26

松任谷由実と「A GIRL IN SUMMER」

 先日プレゼントを貰った。その前に「何がいい?」というから「そうだなユーミンの最新アルバムがいい」と答えた。「ほんとにそれでいいの?」とか「ユーミンなんか聞くの?」とか言われたような気がする。自分がなんて答えたか忘れたし、なんでユーミンの最新アルバムなんて言い出したのか自分でも不可解な感じがした。何が最新アルバムかも知らなかった。

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A GIRL IN SUMMER
松任谷由実
 「A GIRL IN SUMMER」を貰った。iPodに入れて聞いてみた。ピンとこない。というか、これって最新アルバムなのか? 音のつくりがベタに初期の作品なんだが、発表されていない昔の曲ってことはないのか。れれれ?という感じがして、これが最新なのかなとネットで見たら、そうっぽい。ウィキペディアの「A GIRL IN SUMMER」(参照)より。っていうかこんな項目があるのか。

A GIRL IN SUMMER (ア ガール イン サマー)は松任谷由実 (ユーミン) の34枚目のオリジナルアルバム。2006年5月24日に東芝EMIよりリリースされた。


 前作から約1年半ぶりのオリジナルアルバム発売である。
 発売に先駆けてiTunes Music Storeで一部楽曲が先行販売されるという画期的な試みもなされた。『A GIRL IN SUMMER iTMS edition』として6曲を先行配信(『Forgiveness』のビデオクリップとデジタルブックレット付き)、残りの6曲は6月21日から配信が開始された。

 そういえば、iTMSで見かけたから記憶に残っていたのか? そういえば、NHK「探検ロマン世界遺産」のユーミンの曲をこれって何時の時代だろうとか疑問に思ってもいた。
 このブログに書いただろうか。私はユーミンのファンだった。ある時期までは全曲持っていたし、けっこうディープに好きだった。ある時から、ぷっつりそれが途絶えた。沖縄出奔前だと思う。ウィキペディアの「松任谷由実」(参照)を見ると、どこで切れたかわかった。「天国のドア(THE GATES OF HEAVEN)(1990年11月23日) 」までだ。このころから街中を流れる彼女の曲に違和感をちょっと感じてもいた。「TEARS AND REASONS (1992年11月27日)」という標題に、Rhymes and Reasonsの洒落かなとちょっと思ったことがあった。私のなかでユーミンが終わったのは一九九〇年だから、十五年くらい経つのだろうか。自分が三十三歳のころだ。
 NHKの番組で標題は「ユーミンを聴いた男たち」だったか、八〇年代の若い男たちがどうユーミンを聞いていたかみたいな番組があって、宮台真司なんかも出てきてなんかありげなことを宣っていた。番組の記憶があるのは、自分もそういう男たちの一人だっただろうかと少し思ったからだ。八〇年代私は二〇代だったわけだ。ただ、ちょっと違うなという感がしていた。
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紅雀
松任谷由実
 私にとってユーミンというのは七〇年代であり、七〇年代を引きずるある生き方みたいなものだった。私にとってユーミンのベストアルバムは「紅雀」であり、ベストの曲は「ハルジョオン・ヒメジョオン」である。浅川の土手の暮れていく風景は私の原形的な風景でもある。この曲をユーミンが歌うのを見たことはないし、歌わないのではないかと思っていたら、近年のコンサートで歌っていた。大人のユーミンが大人の情感で歌っていて、泣けた。
 セカンドは「昨晩お会いしましょう」である。「タワー・サイド・メモリー」とか街中で聞いたら号泣してしまうかもしれない。「夕闇をひとり」のぐちゃぐちゃどろどろした女心が好きだ。そういう女が好きというわけじゃないのに。「カンナ8号線」はこれも自分の風景だ。
 ユーミンの歌にある五〇年代からの米軍の匂いと昭和の風景とそこから青春に破れていく男の子や女の子のやりきれないような死にたくなるなんて言えないような「埠頭を渡る風」の心情とメロディが好きだった。
 今思うと、あの三十三歳のころ、私は青春とともにそれに終わりを言い渡したというかその引き替えだったのか、あるいはそれを大切にしたから、九〇年代に変わっていくユーミンがわからなくなったのか。
 ウィキペディアの情報を見ていたら、売り上げの記録があり。「A GIRL IN SUMMER」は最高順位3位、112151枚売り上げ、登場週数5週(オリコン、2006年7月3日号現在)」とのことだ。十一万枚ってことか。え?と思った。前作は知らないのだが、「VIVA! 6×7」らしく、こちらもその程度。私がユーミンを聞かなくなった「天国のドア」は「最高順位1位、累計売上197.5万枚(オリコン)」ということで、二百万枚代のシンガーだったと思っていたので、これは凋落と言っていいのか考え込んだ。
 そういえば、二〇〇〇年ころから私は宇多田ヒカルのファンになった。なんというのか私にもこんな歳の娘さんがいてもおかしくねーよの時代になったというか、藤圭子も好きだったので、吉田司の「あなたは男でしょ。強く生きなきゃ、ダメなの」(参照)じゃないけど、なんか女というのは転生してくるような奇妙な感じした。「宇多田ヒカルの作り方」(参照)で縮緬ビブラートといっていたが私もそう感じた。ビブラート以外にも。で、「First Love」が「累計出荷枚数976万枚(全世界・東芝EMI) 」だけど、「ULTRA BLUE」は「初動50万枚(オリコン)」となるのだが、これも凋落と言っていいのではないか。
 単にCDの売り上げっていうのがなくなったということなのか。iPodで聞くっていうことなのか。話がばらけるのだけど、最近、iPodで音楽を聴くのがけっこうつらい。最高音質にしてもぜんぜんダメだという感じ。しかし、むかしはカセットテープで聞いていてそれなりに満足していたのにどうしたことなんだろう。

追記
 「哀しみのルート16」は国道16号線か思ってなにげなく聞いているうちに、この曲のものすごい哀しみのようなものが響いてきた。「海に来て」「もうここには何もない」は関連の歌だろうと思った。

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2006.08.24

若月俊一と佐久病院についてほんのわずか

 若月俊一が二十二日に死んだ。九十六歳だった。死因は肺炎とのことだが、このお歳での肺炎は寿命に近いかもしれない。すでに伝説の人というべきか。ウィキペディアには簡潔な説明がある(参照)。二十世紀医学そのものの人生といってもよいだろう。医学的にはどう評価されているのかわからないが、長野県の長寿の一端は彼が開始した巡回診療の影響もあるのではないか。

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プロジェクトX
挑戦者たち〈12〉
起死回生の突破口
 私の祖父は佐久病院で死んだ。単に地域医療というだけのことだが、見舞いに行ったおり、なんとなくだがこれはよい病院だなという印象を持った。彼が入院するころはもう佐久病院への信頼は揺るぎないものになっていた。もちろん、大衆は警戒的な噂をときおりしたがどうというものでもない。このあたりの大衆と医療の歴史の機微というのはなかなか言葉にならないものがある。
 佐久病院といえば、司馬遼太郎の「ひとびとの跫音(参照〈上〉〈下〉)では、正岡子規の養子忠三郎の友人西沢隆二(同書ではタカジ)の晩年をこう描いていた。

 タカジと忠三郎さんの生涯にとって最後の年(一九七六年)になった晩春、タカジは、ひどく無邪気な顔つきをして、信州まで検査を受けに行ってみるといって、大阪から信州にゆくのはどうすればいいのか、と私の家内にきいた。家内も知らず、私も知らなかった。そのことは、すでにふれた。
 タカジは、東京に住んでいる。
 (東京の病院で検査をうければいいのに)
 と思ったが、そういう忠告は彼にはむだであった。彼は信州の佐久の病院を信じきっていた。
 結果は、手遅れの食道癌だった。そのまま居つくようにして、佐久の病院に入院した。

 「すでにふれた」の箇所の前には同じような記述がある。

 信州の佐久の盆地に、土地の農協がたてた総合病院がある。屋上にのぼると、磧石と浅瀬の多い川が盆地を銀色に掻き切るように流れていて、ところどころの黒い杉の森によく映えている。
 院長のWさんは半生を農村医療につくした人で、臨床家としても研究者としてもよく知られている。医師というよりも病者の友というほうが、その人柄にふさわしい。
 タカジは、この病院を信用していた。

 司馬の書き方は簡素でこれだけ書けばわかるでしょという含みがある。だが、もうそうした理解の基礎たる戦後史の常識は消えてしまっているかもしれない。
 今この箇所を読み返すと、なぜ司馬が若月俊一をWと略したのか少し疑問に思うとともに、当時は思わなかったが、若月と直接ではなくても佐久病院での活動と西沢にはなんらかの交流があったのではないかとも少し思えた。ウィキペディアの佐久総合病院の項目(参照)にはこんな記述がある。

 「農民とともに」をスローガンに地域のニーズから出発して第一線の医療を担いながら発展を続け、農村部に特有のの健康問題を解決しようというところから農村医学という学問もうまれた。また農村部の医療を担える人材を地域で育てようと農村医科大学の設立を目指した。その過程は創成期を支えた若月俊一の「村で病気とたたかう」、や南木佳士の「信州に上医あり」などに詳しい。演劇班や吹奏楽団、コーラス部、野球部など文化活動も盛ん。病院の屋上から響く応援団の練習の声は臼田の夏の風物詩となっている。

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ひとびとの跫音
 西沢隆二については、「ひとびとの跫音」で十分過ぎるほど描かれていると思っていたが、そうでもないのかもしれない。高倉輝(参照)とかも関係しているのだろうな。

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2006.08.22

栃ノ華はどうしているだろうかと思っていた

 十九日から始まった大相撲台湾巡業が昨日終わった。成功裏に終わったようだ。興業としては七十年ぶり。言うまでもなく前回は日本統治下のこと。そのころからの相撲好きもいるだろうが、台湾ではNHK(ワールドプレミアム)を通して相撲が見られるので戦後のファンも多いだろう。そういえば、引退した栃ノ華はどうしているだろうかと思っていた。
 六月七日の毎日新聞夕刊に”人模様:70年ぶり台湾巡業「楽しみ」--元十両・栃ノ華の劉朝恵さん”という記事があり、元気なようすが少し報道されていた。


 劉さんは、相撲ファンの父親の勧めで春日野部屋に入門し、80年5月に初土俵を踏んだ。しこ名は、台湾の正式名称「中華民国」にちなんで名付けられた。最近は外国人力士の活躍が目覚ましく、今年の夏場所では三役以上を5人が占めるほどだが、当時はまだ、外国人力士は珍しい時代だった。85年5月に十両に昇進した。

 その後についてはごく簡単に触れられていた。

 十両を通算13場所務め、けがのため87年の9月場所を最後に引退。その後も日本に在住し、今年1月に台北に戻ってきたばかり。「巡業を機会に台湾でも相撲ファンが広がれば」と期待している。

 記事には日本に在住とあるのだがそうなんだろうか。昨日のNHKのラジオで聞いた現地の日本人会の人の話では、現在はビジネスマンとして友人の会社の副社長をされているとのこと。現在でも一五〇キロの巨漢らしい。今回の巡業ではいろいろと解説役としてメディアにも登場したそうだ。
 毎日新聞の記事では当然GHQ漢字で「劉朝恵」とあるが簡略漢字でなければ「劉朝惠」であり、グーグルニューズの台湾版・香港版でこの名称で検索すると、いくつか関連のニュースが出てくる。聯合新聞網”台灣力士第1人》劉朝惠 塊頭猶在”(参照)には近影と最近のインタビューがあった。ヤフーの翻訳をベタに引用する。

劉朝恵は、今年、やっと妻が台へ帰って定住することを持って、差し当たって台中に1個の生物科学技術会社は副社長を担当して、差し当たって仕事はすでに相撲とかかわりがなくて、ただ「体の型」からやっとぼんやりと昔風貌を見つける。

 奥さんは日本人なのだろうか。いずれにせよ、台湾に定住するということ、仕事はバイオテクノロジー関連なのだろうなと察する。

しかし劉朝恵は行き来を笑いながら雑談して、ただ実は「長く作ることを学ぶ」が厳格である相撲生活はともに過ごしにくくて、いままで到達したことがある日本が相撲を学ぶことの台湾人の8、9人、大半は因が耐えることができないことであり先輩は「卒業」をしつけてそれで早めて、劉朝恵は「意志の力」に依っていて、台湾の「相撲の第1人」になる。

 栃ノ華以外にも台湾出身力士がいたようで、この話はいわゆる辛抱が大切といった話だろう。
 今回の巡業を機会に台湾でもいっそう日本の相撲人気が高まるように思う。
 そういえば、韓国で相撲巡業があったのは二〇〇四年。一九四三年の「中国・満州・朝鮮巡業」以来で六十一年ぶりということであった。この巡業も現地では歓迎されたが、韓国には韓国の伝統競技「シルム」があるといった話題もあった。関連の記事は、「極東ブログ: 韓国の大相撲興行にふれて」(参照)で書いたことがある。今読み返すと、今ならこういう書き方はしないかな。

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2006.08.21

国連レバノン暫定軍(UNIFIL)へのイスラム教国の参加意志

 レバノン紛争停戦後の動きについて、この時点で気になることを簡単にメモしておきたい。国連レバノン暫定軍(UNIFIL)へのイスラム教国の参加意志についてだ。
 停戦以前からインドネシアおよびマレーシアはイスラエルによるレバノンへの空爆に反対しており、そのために和平活動への意欲を見せていた。こうした動向は、CNN”OIC緊急首脳会議、マレーシア首相が安保理批判”(参照)などで垣間見ることができた。
 ここに来て、国連レバノン暫定軍(UNIFIL)へのイスラム教国の参加という形を取るようになった。産経新聞”イスラエル、「国交のない国」は拒否 国連増強部隊”(参照)より。


イスラエルのオルメルト首相は20日の定例閣議で、レバノン南部に展開する国連レバノン暫定軍(UNIFIL)の増強部隊について、「(イスラエルと)国交のない国」の参加に反対するとの考えを示した。
 イスラム教国のバングラディシュやマレーシア、イスラム教徒が多いインドネシアが参加の意向を示しており、イスラエルがこうした国々を念頭に置いて参加を拒否する姿勢を鮮明にしたことで、増派部隊の展開がさらに遅れる可能性が強まってきた。

 とはいえ停戦維持は、バングラディシュ、マレーシア、インドネシアなどアジアのイスラム教国によるUNIFILへの参加がないと難しいのではないのだろうか。人民網”Indonesia reaffirms support to Lebanese and Palestinian people ”(参照)によるとインドネシアでは千人規模のようだ。

The Indonesian Military has made 850 personnel ready to be deployed to Lebanon and Defense Minister Juwono Sudarsono said the number of the personnel might be increased to 1,000 people.

 先の記事と話が被るが、イスラエルはこの動向に反発している。東京新聞”伊に国連軍指揮要請”(参照)より。

ロイター通信によると、イスラエルのオルメルト首相は二十日、イタリアのプローディ首相と電話で会談し、レバノン南部で停戦監視に当たる国連レバノン暫定軍(UNIFIL)の指揮をイタリアが執るよう要請した。
 当初、UNIFILの主力と期待されたフランスが工兵隊二百人の派遣にとどまっており、イスラム圏からも複数の国の参加が予想される中、指揮権を非イスラム国に担ってもらいたいとの考えがあるとみられる。

 建前上イスラエルにはこの要請の権限はないが、国連側は中立性ということで考慮中のようだ。
 私にはやや意外だったのは、東京新聞に記事にもあるようにフランスの関与が当初の予想より薄くなりそうなことだ。
 また、ドイツは派兵すらしないことになりそうだ。理由はドイツの歴史問題とのこと。朝日新聞”ドイツ、レバノン派兵に二の足 ユダヤ人虐殺の過去連想”(参照)より。

 だが、イスラエル周辺は特別だ。戦闘に巻き込まれればユダヤ人に銃を向ける可能性が生じるためだ。
 メルケル首相はこれまで「最大限の慎重さがいる」と繰り返してきた。16日の連立与党党首会談でも「何らかの形で貢献する」としたが具体策はまとまらなかった。シュトイバー・キリスト教社会同盟党首が「歴史的な背景から軍の投入は難しい」などと強い反発を示している。

 そういう議論を日本に当てはめるとどうなるのだろうと少し考えたがよくわからない。
 いずれにせよ、停戦維持にはアジアのイスラム教国の関与を深める方向で進むしかないのではないか。”OIC Countries' Participation In UN Peacekeeping Force Vital”(参照)といったマレーシアの報道を見ていると、イスラム諸国会議機構(OIC)はイスラム教国という枠組みを超えて国際平和への寄与が読み取れる。
 こうした動向に対して、日本はもとより、米国、中国、ロシアといった国がどう対応していくのかが見えてこない。

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2006.08.20

イスラエル兵に志願した移民の若者

 こんな話を書くと「おまえの本心は?」批判とか印象操作とかとか言われるのだろうか。しかたないか。それでも私は今回のイスラエルの軍事行動がよいとは思わないととりあえず断り書きしてから、心に引っかかっているこの話をちょこっとだけ書いておこう。
 先日ラジオでオーストラリアのユダヤ系移民の青年がイスラエル兵となり今回のイスラエル・レバノン紛争で戦死したというニュースを聞き、心に重くひっかかっていた。
 戦死したオーストラリアのユダヤ系移民の青年、エイザフ・ネイマー(Asaf Namer)君のニュースは、ネットを通して見るとそのガールフレンドと一緒の写真と報道されていて、いっそう痛ましさを覚える。ジ・エイジ”'Perfect son' dies at war in Lebanon”(参照)の冒頭を引用する。試訳を添えておく。


"THE moment he said he was going to Lebanon I knew I would not be seeing my boy any more."
(息子がレバノンに行くと言ったとき、この子をもう見ることがないかもしれないと思った。)

So spoke Tzahi Namer yesterday after learning that his son Assaf was the first Australian to die in the conflict in Lebanon.
(ザヒ・ネイマーは昨日、息子のエイザフがレバノンでの紛争で死んだ最初のオーストラリア人であると聞いて、そう語った。)

Assaf Namer, 26, a volunteer with the Israeli army, was killed in a battle with Hezbollah. He was a month short of finishing his army service.
(エイザフ・ネイマー二十六歳は、イスラエル志願兵となり、ヒズボラとの戦闘で戦死した。軍隊勤務終了を1か月余すばかりだった。)


 エイザフ青年はイスラエルに生まれ、十二歳のおり母とシドニー郊外に移住したが、二年前イスラエルに戻り志願兵となっていた。
 米国やオーストラリアなど各国にいるユダヤ人移民の子供がイスラエル兵となるというのはそう珍しいことでもない。
 恐らく話はトリビアの類だろうが、米国関連でも類似のニュースがあった。”Local Jews feel called to serve as Israeli army battles Hezbollah”(参照)。若者の名前はヨーニー・ゲラー(Yoni Geller)。

Yoni Geller told his parents in January of his decision. Over time, they came to accept it. But Israel was at peace.
(ヨーニー・ゲラーは一月に自分の決心を両親に話した。しばらくして、両親はそれを認めた。イスラエルはまだ平和な時期であった。)

The plane carrying their 19-year-old son toward his goal was in flight July 13 when Eddie Geller and Esti Gumpertz watched the first explosions of war flash across the television in their Beachwood home.
(十九歳の若者を乗せた飛行機が目的についたのは七月十三日。その日、エディー・ゲラーとエスティ・ガンパーツはビーチウッドの自宅で最初の戦火をテレビで見た。)

Their son called two days later from Haifa, a city in panic. Air-raid sirens had shut down the recruiting office before he could sign up, he said. That's when his mom pitched her plea. Come home, Gumpertz said. Don't do it. This is a war.
(二日後騒動のあったハイファから彼らの息子は電話をかけてきた。なんとか志願登録したら、空襲警報で徴兵事務所が閉鎖したんだと息子は言った。母親のガンパーツは息子に、家に帰りないさい、そんなことしてはだめ、戦争なの、と懇願した。)


 ヨーニー君がイスラエルの志願兵となったのは平時だが、両親も戦争に加わることを望んでいなかった。
 各国にいるユダヤ人移民の子供がイスラエル兵となるのは、その経験を通して移民の若者が学ぶことや、同胞という連帯感や友情を培う機会となるからでもあるようだ。

With its strong ties to Israel, Greater Cleveland's Jewish community has always sent a handful of young men and women each year into Israel's armed forces. But most enlisted when the Jewish state was at peace - or at least not in the throes of war.
(イスラエルとの強い連帯感から、グレーター・クリーブランド・ジューイッシュ・コミュニティは毎年イスラエル軍に男女若者を数名送っている。しかし、たいていはイスラエルの平時に限定される。テロと戦いの時期ではけしてない。)

 ヨーニー・ゲラー(Yoni Geller)という名前が気になったが、両親は別姓でEddie GellerとEsti Gumpertz。ゲラーは父系の名前だ。母系の名前を継ぐわけでもないのかと、以前書いたエントリ「極東ブログ: ユダヤ人」(参照)のことを感慨深く思い出した。

Gumpertz, a soft-spoken dermatologist, understands why her son went.
(穏やかな声の皮膚科医でもある母カンパーツは息子がイスラエルに行った理由を理解していた。)

His grandparents are Holocaust survivors. One of his grandfathers fought in Israel's 1948 war of independence. A bit ruefully, she says she raised him to know when to stand and fight.
(彼の祖父母はホロコーストの生き残りである。祖父の一人は一九四八年のイスラエル独立戦争で戦った。彼女は少し悲しげにではあったが息子に立つべきときと戦うべきとき知るように育てた。)


 第二次世界大戦後日本に生まれた私としてはこうした話を聞くと複雑な気持ちになる。

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