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2006.08.18

「女性の脳(The Female Brain)」(ルーアン・ブリゼンディン)は翻訳されるだろうか

 先日読んだニューズウィークの記事(日本語版は8・9)に、「女性の脳(The Female Brain」(ルーアン・ブリゼンディン)の話があった。英語のオリジナル記事は”Why Girls Will Be Girls”(参照)にある。リードはこんな感じ。


In a controversial new book, this psychiatrist argues that differences between men and women start with their brains.
(物議を醸す新刊書で、この精神科医は男性と女性の違いをその脳から解き明かそうとしている。)

 つまり、男性と女性は脳が違うから違うのだというのだが、そんなの当たり前じゃないかという人は……困るなぁ。話はその逆が当たり前という前提にしとかないと。
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The Female Brain
 精神科医ルーアン・ブリゼンディン(Louann Brizendine)による、リードのような主張の本"The Female Brain"(参照)がこの二十二日に出版の予定。

 その成果をまとめた初の著書『女性の脳』がもうすぐ出版される。著者自身が「女性の心の健康マニュアル」と位置づける本だ。
 この本が一部で反発を招くのは必至だ。脳の性差を論じれば、フェミニストの批判を浴びることはわかっていると、ブリゼンディンも言う。「私自身、政治的な立場と研究結果の間で苦しんできた。でも女性のものの見方は男性とは違うと確信している。その違いを認識すれば、人生のさまざまな局面でよりよい判断ができる」

 というわけで、出版されると米国ではなにかと議論になるのだろう。
 日本ではどうなんだろうか。すでに「話を聞かない男、地図が読めない女(Why Men Don't Listen and Women Can't Read Maps)」(参照)がトンデモ本ということもなく、なんなく出版されているので問題なくこれも翻訳とか出るのだろうか。
 こういう問題をどう扱っていいのかわからないが、心理学的には別の結果が定説だしその方法論による科学的な研究も多い。

著名な心理学者のジャネット・ハイドは昨年、男女の感情と行動を比較した過去数十年分の論文を検証して、大半の性差は統計学的に「ゼロに近い」と結論づけた。「性差」と呼べるほどの違いはないとハイドは言う。

 性差は文化的に形成されたものだという定説だが、感情表出や行動に現れる性差のなさも文化的に形成されたものに等しいという解釈が成り立つだろうか。無理過ぎるか。
 まずはこの本が日本語に翻訳されるかなというあたりを気に掛けておこう。

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2006.08.17

二日以内においしいタンドリーチキンを作る方法

 GIGZINEに”30分以内においしいタンドリーチキンを作る方法”(参照)というエントリがあって、ほぉ三十分以内かぁと思った。私なら二日以内だな……ダメじゃん。いやいや、これは仕込みを含めてということで、実際には二〇分でできる。
 作り方。
 鶏もも肉一ブロックにヨーグルト大さじ一、カレー粉小さじ一、塩小さじ一をビニール袋みたいなのに入れて、ぴっちりさせ一日おき、取り出して、そのまま、オーブンで焼くだけ。焼くときパプリカをかけると赤くなる。そんだけ。
 もうちょっと補足。
 鶏肉はもも肉が柔らかくていい。
 ヨーグルトはナチュラル系がいいけど、おやつヨーグルトの食べ残しでもOK。ちなみに、ナチュラル系のヨーグルトというのは腐らないので賞味期限を二週間くらい過ぎても大丈夫なもの(ただし自己責任でね)。
 カレー粉はありがちなS&Bでもいい。私はカレー粉を自分で調合しているのでそれを使う。カレー粉は基本的にはターメリック、クミン、カルダモンを混ぜるとできる。タンドリチキンの場合、ターメリックはなくてもいいかも。
 塩はもうちょっと多めでもいいかも。
 これらをビニール袋に入れて、鶏肉全体にまぶすように、もみもみ。そして、冷蔵庫に入れておく。一日でも二日でも三日でもOK。逆に十二時間くらいでもいい。朝用意しておくと、ディナーになる。
 焼き方は私は「極東ブログ: コンベクションオーブンとスロークッカー」(参照)のコンベクションオーブンを使う。二百度で二十分。
 コンベクションオーブンなんてないです、という人は、少しヨーグルトのタレを落として、フライパンか中華鍋で焼く。このとき、皮を下にして弱火でじっくり、皮の油が溶けるように焼く。二十分くらいか。そしてひっくり返して五分くらい。っていうか中まで火が通るまで。火が通ってねーというときは後から電子レンジで。

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2006.08.16

時代小説 黄宝全

 手すさびに時代小説を書いてみた。もちろん、文学的価値なんかないけど。

「時代小説 黄宝全」
 盧溝橋事件の知らせを電報で聞いた時、蒋介石はそっけなく私に視線を向けて戻した。部下たちは気が付かなかったようだが、私にはその意味はわかった。その後、彼は私を呼んで「なるほど、日本と戦うことになったわけだ」と言った。
 私は「そのために閣下の軍事顧問としてドイツから派遣されています」と答えた。蒋介石はわかっているという表情をした。西安事件の翌年にこうなった。これが抗日を飲むということなのだ、選択の余地はない、飲まなければ消されるだけのことだ、蒋介石の無言の思いは伝わってきた。
 「日本人と戦うのはいやですか」私はあえて訊いてみた。彼は私のそういう外国人らしい率直さが気に入っていたからだ。蒋介石は答えなかった。ややうつろな表情は東京のことを思い返しているかのようだった。彼は士官学校予備校振武学校を終え高田の陸軍歩兵聯隊で見習い士官をしていた時に辛亥革命が起き、中国に戻った。
 「宝全」とドイツ名でなく彼の名付けた中国名で私を呼び「私が日本と戦えば誰が得をするか日本人はわからないのか」と言った。私の答えを求めているわけではなかった。一九三七年七月。盧溝橋事件は日本の対支一撃という暴発に過ぎなかったが、幕は上がった。
 八月、日本軍は上海に及んだ。予想していたことであった。蒋介石はドイツが用意させた塹壕戦で勝てると強気なそぶりを崩さず平然と事態を受けれているかに見えた。が、心中には疑念もあり、ふとした折りに私を信頼してか問いかけた。「日本人はなにを求めているのか。満州国の承認を求めているのではなかったのか。」
 二年前、蒋介石は大使を通じてまだ外相だった広田弘毅と会談していた。日本は、日中提携三原則として、排日停止・満州国承認・赤化防止を持ち出した。会談の席の後、蒋介石は広田に伝えた、「広田さん、排日停止と赤化防止はいいでしょう。しかし、日本が中国に対して満州国を承認しろというのはどういう了見なんですか。満州が日本の傀儡国家だと世界に向けて日本が主張しているのと同じですよ。満州についてはすでに通郵協定も設関協定も結んでいるというのに。」
 広田は苦笑するだけだった。中国にしてみればこれを受け入れる意味のないことを広田は了解しているようだった。
 上海戦は予想外に崩れた。蒋介石は私に「ドイツ人ならこの事態をどう見えるかね」と訊いた。軍事顧問としての私には皮肉な響きもあった。
 私は蒋介石にこの事態への見方を変えるべく答えた。「ドイツの東部にシュレージエンという土地があります。オーストリア継承戦争の結果、ハプスブルク領のシュレージエンはプロイセンへ帰属することになりましたが、他国はこれを認めません。その時代を連想します。欧米人から見れば、日本は満州と中国の国境を明確にしたいのだと理解するでしょう。」
 蒋介石はぼんやりと聞いていたが、もう少し話を聞きたいようだったので、提案を切り出してみた。「よろしければ私たちから和平交渉を切り出しましょうか。第三国が和平の証人になれば日本も考え直すでしょう。」
 蒋介石は許諾した。私は早速駐中ドイツ大使トラウトマンに和平交渉にあたるように本国経由で打診した。
 ドイツ本国はすぐに承諾した。ドイツにとって重要なことは、蒋介石の軍隊が強まり、ソ連国境に緊張をもたらすことだ。ソ連軍がドイツに対して手薄になることが好ましい。ドイツでは日本の軍事活動に対する官製デモまで実施された。少しでも日本を中国から引かせておくのが得策である。
 トラウトマンは広田外相に接触し、広田は駐日ドイツ大使ディルクセンに和平斡旋を要請した。日本側が提示した内容は大筋で以前の日中提携三原則と大して変わりのないしろものだった。
 十一月。日本軍が南京に迫りつつあった。
 十二月一日。よくない情報が密かに私のもとに入った。日本の大本営は南京総攻撃の認可を現地軍に与えたというのだ。命令ではないのかと確認させたが、攻撃命令ではない。
 トラウトマンによる交渉は難航したものの、十二月二日、蒋介石は日本案を受諾し、さらに和平会議を提案した。
 十二月八日、日本は受諾の確認をした。広田外相は中国受諾の旨、天皇に上奏した。これで、盧溝橋事件から始まる一連の騒動は終わることになった……
 しかし、二日後、十二月十日、日本軍による南京総攻撃が開始された。
 なぜだ。日本から提示された条件をすべて飲み、和平交渉が終了したのに攻撃が始まるのか。
 蒋介石は疲労の色を深めながら私に静かに言った。「私は君やトラウトマンに騙されたということかね。」
 私は即座に否定した。

【参考】
「日本人と中国人」(参照
「現代中国と日本」(参照

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2006.08.15

終戦メモ

 今朝の読売新聞社説”[終戦の日]「『昭和戦争』の責任を問う」”(参照)を読んで困ったもんだなと思い、いやいやそんなものさと明るく笑って忘れることにするか苦笑に抑えるべきかちと迷ったのだが、考えてみれば憲法私案の読売新聞なんだからどうでもいいやということにしたものの、さすがにこの一点はどうなんでしょと思ったことがあったので、簡単にメモ書きしておきたい。


 また、同じく「A級戦犯」で、終身刑の判決を受けた賀屋興宣蔵相には、日米開戦時の閣僚だったという以外の戦争責任は見当たらない。しかも、開戦には反対していた。
 逆に、戦争を終結に導いた“功績”がしばしば語られてきた鈴木貫太郎首相にも、「終戦」の時期を先送りして原爆投下とソ連の参戦を招いたという意味での戦争責任があった。

 読売様によると、開戦に反対した賀屋興宣は無罪で、終戦に尽力された鈴木貫太郎が有罪ですか。私は天を仰ぐ。まあ、男の人生というのはそんなものかいう一般論でもあるが、さすがに隔世の感はあるな。
 ウィキペディアにも面白いことが書いてあるかなと覗くと懸念した方向とは別だった(参照)。

その後の天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)で、鈴木は従来の多数決にせず、いきなり起立した。陸軍大臣・阿南惟幾が鈴木の行動の裏にあるものを直感して止めようとした。鈴木が御前会議の慣例を破って、天皇の和平を望む発言を引き出そうとしている、と悟ったのだ。鈴木は阿南の制止を無視し、「陛下の思召をもってこの会議の結論にしたいと存じます。」という言葉を搾り出した。天皇は涙ながらに、ポツダム宣言受諾の心情を吐露した。鈴木は天皇の口から直接意見を言わせることで、大戦争を終わらせた。

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昭和史の
謎を追う〈下〉
 「その後の天皇臨席」の日時がこの項目から読み取れないが八月九日深夜である。「昭和史の謎を追う〈下〉」(参照)の終戦史再開(上)で補足すると次のようだった。

 八月九日深夜の最高戦争指導会議構成員(六巨頭に平沼枢密院議長を加えた)による御前会議は、無条件降伏を要求しているポツダム宣言の受諾をめぐり、国体護持(天皇制の保全)だけを条件とする東郷外相と、四条件(自発的武装解除、連合軍の進駐拒否、戦犯を処罰しない、を加えたもの)付きを主張する阿南陸相の意見が対立し、東郷を支持する米内、平沼と、阿南を支持する梅津参謀総長、豊田軍令部総長が三対三で分かれた。
 多数決なら鈴木が票を投じて四対三となるところだが、首相は進み出て聖断を仰ぎ、天皇は外相案に賛成すると述べ、ひきつづき開いた閣議も、この結論を承認した。

 阿南派を巧妙に排除する鈴木貫太郎の機転のように思われるがそうではなかった。

 さて、ここで登場した「聖断」は、前年夏頃から木戸内大臣を含む重臣の間でひそかに検討されていた秘策で、鈴木のとっさの思いつきではなかった。ただし、聖断には憲法上の根拠はなく、御前会議も法制的裏付けのない懇談の場にすぎないという弱点があった。

 平沼の去就には後日譚があるが省略するとして、これを機に阿南陸相夫人実弟竹下正彦中佐らはこの動向を覆すべく十四日午前十時にクーデターを計画するが不発に終わった。梅津参謀総長が同意しなかったためである。不穏な動きは他にもあるが省略。
 が、直後梅津に動きがあったという流れが出た。

 その梅津が変心してやる気になった、との情報が原中佐から竹下の耳に入ったのは、十四日の十一時ごろである。意気消沈していた竹下は気を取り直し、「兵力使用第二案」を急ぎ起案して、御前会議のため宮中に入っていた阿南陸相のもとにかけつける。

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日本のいちばん長い日
 結果は有名な「阿南を斬ってからやれ」ということで阿南がその場を収めた。ちなみにこの夜、阿南はポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で「一死、大罪を謝す」(参照)として自刃。絶命したのは翌十五日。三島由紀夫のように介錯があれば切腹は短時間で死ねるものだが、そうでないととても痛いし苦しい。よい子はまねしないように。
 鈴木を断罪した読売新聞様は阿南については疑問もなく断罪で済むかもしれないが、歴史を考える者にしてみると阿南の評価は難しい。
 「昭和史の謎を追う〈下〉」では面白い視点を出している。

 ところが数年前、親泊朝省大佐(大本営報道部員)が九月三日の自決に際して上司の報道部長あてた遺書が、茶園義男によって発見された。この遺書には「国体護持ができぬ事を明瞭知りつつ奸賊をさえ斬る機会を有たなかった憾み――天なり命なり……聖将阿南閣下の後を慕わせていただき度いと存じます」とあり、今も健在の上田少将はこの「奸賊」が米内海省を指すと認めた(『増刊歴史と人物』一九六八年、の茶園稿)。

 阿南は米内を斬れとも口走っていたらしいが、阿南に立ちふさがったのは米内光政であったか。

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2006.08.13

統帥権についてささやかなメモ

 今朝の朝日新聞社説”「侵略」と「責任」見据えて 親子で戦争を考える”(参照)は私には新味のないつまらないお話に過ぎなかったのだが、文中唐突に現れる「統帥」という言葉にひっかかった。この言葉は現代日本においては日常語ではない。大衆紙の社説に使うのであれば、もう少しくだいた表現になるべきではないかと思うのだが、そうできない、あるいはそうしたくない含みを感じた。


 実質的な権限はともあれ、昭和天皇は陸海軍を統帥し、「皇軍」の兵士を戦場に送り出した。終戦直後、何らかの責任を問う声があったのは当然だが、東京裁判には出廷さえ求められなかった。その権威が戦後の統治に必要だと米国が考えたからである。

 戦後のGHQ統治に天皇の権威が必要ゆえに免責されたというのが歴史の解釈を超えて歴史の事実のように書かれているが、そんなことに目くじらを立てるものでもない。気になったのは、「昭和天皇は陸海軍を統帥し」という文言が何を意味しているかという点だ。
 「統帥」について字引を引くと意味は明瞭である。大辞林より(参照)。

とうすい 0 【統帥】
(名)スル
軍隊を支配下におき率いること。
「天皇は陸海軍を―す/大日本帝国憲法」

 親切に用例までついている。だが、朝日新聞社説は「昭和天皇は陸海軍を支配下におき率い」と書き換えることはできただろうか。たぶんできないだろう。この問題はれいのやっかいな統帥権問題に関係するからである。
 統帥権問題の中心たる「統帥権」だがウィキペディアをひくと存外に微妙な説明が掲載されている(参照)。

 統帥権(とうすいけん)とは、軍を統括する権能をいう。大日本帝国憲法(以下明治憲法)下では第11条により天皇が持ち、戦後では自衛隊法第7条により内閣総理大臣が持つ。
 明治憲法下では、天皇の権能(大権)は、特に規定がなければ、国務大臣が補弼することとなっていたが、憲法に明記されていなかったが、慣習的に軍令については、国務大臣が輔弼せず、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補弼することとなっていた。

 話を先回りしていうと、この「とは」論が間違っているのではないかとも思うが、さしあたって気になるのは第二段落である。素直に読めば、戦前・戦中の天皇には軍を統括していないことになる……と書いて、少し勇み足だった。ここで問題になるのは、「国務大臣が補弼すること」というのが何を意味しているかだ。
 これに関連してたまたま社会学者の宮台慎司の解説を”YouTube - 左翼はずっと嘘をついてきた”(参照)で聞いたのだが、彼は統帥権を「軍令部の補弼」としていた。
 そこで補弼とはなにかだが、先と同様に大辞林を引くと明快であるとともに一貫している(参照)。

ほひつ 0 【▼輔▼弼/補▼弼】
(名)スル
(1)天子の政治をたすけること。また、その人。
(2)旧憲法で、天皇の権能行使に対し、助言を与えること。
「国務各大臣は天皇を―し其の責に任ず/大日本帝国憲法」

 単純に読み取れば、大日本帝国憲法下では、補弼とは大臣の助言に過ぎず、天皇は助言を勝手に判断できるかのように読める。さすがだな、三省堂、とも思うが字義のレベルでの一貫性はあるのだろう。
 問題は、では、補弼が歴史的にどうようなものであったかということになり、この先は辞書の議論ではないかのようだが、広辞苑はもうちょっと踏み込んでいる。

ほ‐ひつ【輔弼】
①天子の政治をたすけること。また、その役。
②明治憲法の観念で、天皇の行為としてなされ或いはなされざるべきことについて進言し、採納を奏請し、その全責任を負うこと。国務上の輔弼は国務大臣、宮務上の輔弼は宮内大臣および内大臣、統帥上の輔弼は参謀総長・軍令部総長の職責であった。「―の任」

 重要なことは、その助言・進言者が全責任を負うとしている点で、つまりは、天皇には責任を追わないことになっている。統帥上の輔弼についても、大日本帝国憲法のロジックでは同じことになる。しかし、この問題についてはやはり歴史学・憲法学に立ち入ることになるのでここではそれ以上踏み込まない。
 ウィキペディアの解説に戻ると、やや奇妙に読める解説がある。「憲法に明記されていなかったが、慣習的に軍令については、国務大臣が輔弼せず、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補弼することとなっていた」ということで、ここの解釈が難しい。ウィキペディアの解説というか、特定の立場の見解だと私は考えるのだが、この問題の根幹を大日本帝国憲法の「缺陥」としている。余談だが、この項目の英語の対応は"Chain of command"だがなにかの間違いであろうか。
 この統帥権問題についての議論にはテクニカルな問題が多いのだが、私のような素人がいつも疑問に思うのは、統帥権のコアとなる意味の了解である。ちょっと刺激的な言い方をすると、このコアの部分が理解されていないのにテクニカルな議論が盛んになっているように見える。
 ではそのコアとはなにかなのだが、私の理解は小室直樹と山本七平の対談集「日本教の社会学」にべたに寄っている。なお、同書は復刻されているのだろうか?
 小室直樹は日本の軍というものに触れて、こう続ける。

小室 ですからそういう意識があればこそ「統帥権の独立」というものは徹底的に誤解されたんですよ。「統帥権の独立」とは、まず、軍隊を国民から隔離することであると。それからさらに、軍部が勝手なことをしてもよろしと、そこまで誤解したんだから、どうしようもないんですね。「統帥権の独立」ということが意味をもつための第一の必要条件は、政府と軍部とのあいだの密接な協同(コーディネーション)にあるのです。

 ちょっと聞くと違和感があるかと思うが。これを小室は詳しく解説している。

小室 歴史的にいいますと、統帥権の独立とは、ビスマルクとモルトケとウイルヘルム一世の関係から出てきたのです。ビスマルクは鼻っ端が強いから、用兵の内容までもいちいちくちばしを出すんだそうですよ。ところがモルトケは、「おまえは外交の天才かもかもしれないけど、戦争のほうはおれにまかせとけ」と。いっさい作戦内容には容喙させなかった。しかしながら、国家的見地に立った大国策、大戦略に関しては、モルトケはビスマルクに絶対服従。

 対談で山本七平が日華事変について触れたのに対して。

小室 近代戦というのはそういうものじゃなくて、クラウゼヴィッツもいっているように、軍事は政治外交の延長であるという理解から出発します。ゆえに軍部は統帥権が独立していようがなかろうが、総理大臣の命令には絶対服従するというのでなければ意味がないわけです。だから、内閣の方針として「戦争やめろ」といったら、ピタッとやめる。ただし、統帥権が独立している場合は、総理大臣といえども、軍隊の動かし方の内容に関してはひと言も発言できない。そういう意味なんですよ、本来。

 繰り返しになるが、軍事は政府(総理大臣)下の外交の延長であるが、軍事活動内容は政府から独立しているということで、だからこそ、統帥権の独立が意味をもつための第一の必要条件が政府と軍部とのあいだの密接な協同(コーディネーション)となる。
 そして、小室の指摘によれば、日本における「統帥権の独立」問題は、そのコア概念の誤解から始まっていた。あるいは意図的な曲解であり、それを「統帥権の独立」というふう一般的な概念で捉えていいのか、疑問を促す。

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