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2006.08.12

[書評]日本人と中国人(イザヤ・ベンダサン)

 「日本人と中国人」(イザヤ・ベンダサン)(参照)についてこのブログで取り上げることはないだろうと思っていた。分かり切った無用な議論はしたくない。だが、昨日のエントリでいただいた「うんこ」さんのコメント「かっこつけて間違ってたことを誤魔化そうとするから何年経っても進歩がないんだよ」に触発されて、あっ違った、もとうんこさんこと現「私」さんからのコメントで、この本のことを思い出した。


 倭寇の時代の物語など考察されると、今後10~20年程度の行く末が見えるんでないかと。>最終弁当(finalvent)

 氏が倭寇の時代の物語にどう謎を掛けているのか、よくわからないので、その応えということではない。思い出したのは、同書に描かれている日本と中国と倭寇の関係である。
 先日蒋介石国民党関連の資料を見ていたら「倭寇」とあって、いつまでたっても日本人は倭寇かよ、しかし歴史上の倭寇は日本人とは言えないぜと苦笑しつつ、しかしどっちにしても中国人にしてみれば日本人はイコール倭寇か、とさらに苦笑した。確かに日本はひどいものだった、というのは、いわゆる倭寇とされる略奪のことではない。日本は当時、日本刀という武器輸出国だったことである。
 足利義満の死後、義持は中国の礼を尽くした対応を無視して日中断行を決した。微笑外交がうまくいかなければ怒ってみせるのが中国(明)というものである。しかし日本はさらに無視した。この時代、中国が困惑していたのは倭寇であった。

彼が対中断行をしたのは、当然それなりの理由があった。しかしこの問題は、日本側からだけ眺めては不公平で、日中双方の問題点を調べねばならない。問題は倭寇にあった。倭寇は本質的は商人で、いわば私貿易業者というべきものであっただろう。というのは、中国側が自由貿易を認めれば自然に消滅するからである。

 そして自由貿易ができなくなると武装化する。余談だが、このようすは琉球もからんでいて面白いのだが先を進める。

では「政教分離」で自由貿易を許可しておけばよいではないか、なぜ、中国側は自由貿易を禁ずるのか、日本側は自由放任だから、中国側も自由放任にすればよいではないか、と考えたくなるが、そうはいかない理由が中国側にはあった。

 イザヤ・ベンダサンはそれを日本刀という武器輸出の問題と見ていた。

 この日本刀がどれだけ輸出されたか明らかではないが、一四五一年から一五〇〇年までの半世紀間(足利義成<政>-義高<澄>の間)、記録に残るものの総計だけでなんと約九万本になる。


 といって貿易を禁ずれば、相手はたちまち海賊に早がわりする。といって貿易を許せば、何しろ輸出品は日本刀しかないも同様だから、ずんずんと民間や地方豪族の手元に武器が流れ込んでしまう。倭寇といってもその主体は中国人である、ということは多くの資料が証明しているが、彼らの持つ武器がメイド・イン・ジャパンであったことは想像にかたくない。従って、倭寇にとっては、武器を売って民需品を購入してもいいし、武器を沿岸中国人に与え、その代償に民需品を掠奪させてそれを日本に持ち帰ってもいいわけだから、貿易を許可すれば途端に倭寇は静まる。しかしそれでは、武器の中国への自由流入を認めることになってしまう。中国側から見れば、当時の日本とはまことに始末の悪い対象であって、中国にとって、おそらくはじめて経験した奇妙な状態であったろう。

 現代日本は武器輸出をしない国家になってので、すべては過ぎ去った歴史と見ることもできるが、同様に困った別の物をだらだら現在も輸出しづけている国家と見えないこともないかもしれない。
cover
日本人と中国人
 倭寇の歴史は前期後期に分けれらるので、倭寇は単純に中国人とは言い切れない。「中世倭人伝(村井章介)」(参照)で描かれているように、日本人とも朝鮮人ともつかない集団という側面もあった。そしてこの集団は明朝崩壊から清朝成立に関わっており、今日の東アジア世界の基本のフレームワークを形成していく。
 話を本書の「日本人と中国人」に戻す。私はこの本を月刊文藝春秋掲載時から背伸びして読み返してきた。いつか単行本にならないものかと思ったがそうなるには長い月日が経った。山本七平ライブラリーで収録されそして現在は単行本となった。三十年以上の年月が経ったが今現在読み返しても新しいなにかが読み取れるだろう。
 本書の中心的な価値の一つは、南京攻略がなぜ行われたのかという難問への一つの回答である。その不可解さを理解する試みは、現在の日本人にも難しい。ただ、この問題はこれ以上触れない。

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2006.08.11

中国の外貨準備高が日本を抜いたことへのやや妄想っぽい話

 先日書いた”極東ブログ: [書評]もう一つの鎖国―日本は世界で孤立する (カレル・ヴァン ウォルフレン)”(参照)のことがその後もなんとなく気になっているのだが、その関連で、アジア特に中国の外貨準備高について、先日ラジオで聞いた内橋克人の話がわかりやすかった。そのさわりのメモからファクツを並べてみる。
 ポイントは中国の外貨準備高だが日本を抜いたこと。日本が八千五百億ドルだが、中国は八千五百三十六億ドル(GDPの四割)。しかもその達成速度が速い。この二年間に二倍になった。毎月百八十億ドルの増加。年内に一兆ドル規模に近づく。
 中国の外貨準備高増の理由として主に対米の貿易収支による黒字が筆頭でこれが増分の半分を占める。次に対中直接投資(資本進出)が三割。投機は一割程度。
 東アジア全体の外貨準備高も増加し、世界四兆ドルの外貨準備高の六割がアジアが占める。上位七国が東アジアの国ということで、一九九七年のアジア通貨危機といったことはほぼ完全に過去のことになった。
 これらの外貨準備高だが米国債として消化されるわけで、中国の外貨準備高の六割から七割がドル建ての米国債になっている。
 当然、米国債を支える外国の比率も変わる。二〇〇四年段階で、ヨーロッパが三九・七パーセントに対して、アジアが四一・二パーセント。米国を支えているセクターとしてはアジアのほうがヨーロッパより大きい。この変化も最近のことで、二〇〇〇年ではヨーロッパが六一・四パーセントに対して、アジアは二二・八パーセントだった。
 以上がファクツ。
 これに対して内橋は、問題点として、もし中国が米債を売るようなことがあれば、ドルが暴落しアジア全体に影響するだろうし、日本は急激な円高になるだろう、ということで、そうしたことがないように中国とアジアの経済の協調体制を重視しなければならないというのだが、そのあたりが、れいによって私にはよくわからない。
 わからないポイントは、”極東ブログ: [書評]もう一つの鎖国―日本は世界で孤立する (カレル・ヴァン ウォルフレン)”(参照)でも触れたように、やはり中国が米国債を売るということがあるのかということだ。
 同エントリでは、”マクシミリアンの日記:中国は米国債を売るか”(参照)で親切にもトラバをいただいた。まず前提としてはウォルフレンも言っているのだが、そう短期的にそうした動きが出てくるわけではない。つまり差し迫った危機というほどではないとは言える。
 では、そんなことは長期的にもないのかというとよくわからない。


不良債権処理はどうか。対外的に伸して行くためには、当然BIS規制をクリアする民族資本銀行をいくつか持っておきたいところでしょうから、積極的に処理していくでしょう。そうなった場合、政府のバランスシートの悪化は免れません。これを何でファイナンスするかが問題になるでしょうね。米国債でやっちまおうという輩も出てくることでしょうが、多分その頃には中国は自力で十分ファイナンスできるようになっていることでしょう。

 私が経済オンチなこともあって、反論とかではなくその予想に妥当性を感じない。

とは言え、中国が、長期的にはユーロを交えた通貨バスケット制に移行したがっているのは周知のことですから、徐々に外貨のウチの米債の比率を少なくしていく方向にはなるんでしょうな。もしかしたらコレ、中国のエネルギー問題絡んでませんかね。アメリカは米債を売ったら「損をするのは中国」で「他にもドル債を買える国はある」と言ってますが、ユーロ圏のロシアが米債を買うことは無いでしょう。アメリカにとって悩ましいのは、インドとブラジルをどれほど頼りにできるのかということ。

 つまり、中国の米国債減少はある程度オン・スケジュールでBRICS移行があるか? そのあたりもあまりピンとこない。
 中国の米国債減少は国策と見てもいいのだろう。うさんくさい話を広げたいわけではないが、四月の”中国は米国債の保有高を徐々に引き下げるべき=全人代副委員長”(参照)のストーリーに関心が持たれるということ自体がある程度の裏付けなのだろう。

中国全国人民代表大会(全人代)の成思危副委員長は、中国は米国債の保有高を徐々に引き下げるべきで、ドル建て債の購入を中止することもできる、との考えを示した。香港の中国系新聞「文匯報」が伝えたもので、発言は3日に香港で行われた。


 中国は大量の米国債を購入して、米国の経常赤字をファイナンスする形となっているため、この発言が伝えられたことを受けてドルがユーロや円に対して下落し、米国債が売られた。
 ただ、同副委員長の発言が、中国の外貨準備政策の決定権限を持つ最高幹部の意向を反映したものかどうかは明らかになっていない。
 同副委員長は10人以上いる全人代副委員長の1人で、経済政策について発言することの多いエコノミスト。ランクは閣僚よりも高く、副首相と同等だが、経済政策について特定の権限は持っていない。

 私の認識としては、ウォルフレンの警鐘はけっこう重要なのでないかということで、そこから彼の議論を再構築すると、いわゆるネオコン的な米国の動向はその対応と見てよいのではないかという感じもする。と書きながらトンデモかもな俺感はあるが。
 どさくさっぽい言い方になるが、いわゆるテロとの戦い史というかブッシュ・レジームによるとされている米国の巨大な赤字だが、米国が赤字を垂れ流しているというより、こうした米国債を購入する中国プラスアジア諸国のお買い物として、実際上用意されていたということではないのだろうか。
 話をきな臭くもっていくという自覚を残しつつ言うのだが、日本の米軍基地は日本ではあまり語られていないが、日本を暴発させないための「ビンの蓋」という意味があり、それは東京を米軍が一気に鎮圧できる配備でもわかるものだった。これが今後、ビンの蓋から、米国の対アジア・中東の戦略基地という形で一体化されるわけだが、広く見れば、今後はアジアのビンの蓋となると見えないこともない。
 話がだいぶ杜撰になってきたが、私は中国なんていう巨大な国家はなんかの錯誤で、あの全体が南米のように分割されるのが歴史の必然というものだろうと考えていた。しかし、経済的な理由から、つまり米国を中心とした経済の世界システム的なものの必要性から、あの巨大国家は維持されなければならず、しかも、暴発しないようにかつ資金を吸い上げるように軍事フィクションという芝居を続けることになっているようにも思える。
 そんなことはあり得ないよというのがあれば、傾聴したい。

追記
 有益なコメント・トラックバックをいただいた。感謝したい。この問題に関心あるかたに示唆深いと思われる。

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2006.08.09

明石順三のこと

 中学生のころ読んだ岩波新書でその後ずっと自分の人生観の根っこのころに沈んでいるのは、今読み返したら愉快かもの「キューバ:一つの革命の解剖」ではなく、「兵役を拒否した日本人 灯台社の戦時下抵抗」(参照)だ。先日書棚を整理して中学生のころ書いた日記なんかと一緒に発見したが、その後見つからない。間違って処分してしまったのだろうか。
 アマゾンの古書で安く買えるならまた買ってもいいけど、そもそもリストなんか載ってないだろうと思ったらそうでもなかった。紹介がてらに釣り書きを引用したい。


昭和14年、ほぼ時を同じくして3人の兵士が上官に兵役拒否を申し出た。彼らが所属するキリスト教集団灯台社は、以後苛酷な弾圧にさらされる。兵役を拒否し、信仰を貫くという行為に直面して、戦争への道を疾走しはじめていた軍隊や国家は、どのような本質を露呈したか。関係者の証言や新資料により、抵抗者たちの生き方を描く。

 明石順三はその灯台社のリーダーだった。
 私はこの本を読んで良心的兵役拒否というものを知った。中学生ながらに、世の中を平和にする・戦争を無くするというなら、みんな自分の良心から兵役を拒否すればいいのではないかと単純に考えた。そして、この思想の背景からクェーカーについて関心を持った。私はクェーカーの信仰は持たないがそうしたことを思っていると、人生にはちょっとした出会いのようなことはあった。
cover
良心的兵役拒否の潮流
日本と世界の非戦の系譜
 昔の読書記憶に頼るのだが、明石順三ら灯台社の人々は、良心的兵役拒否の考えに従ったというより、ごく単純に彼らのキリスト教信仰に従ったようにしか見えなかった。そういう人の生き方というのはなんなのだろうとも思った。平和・反戦が先にあったわけではない。後に私はマザー・テレサについても関心を持ち、カルカッタにも行ったくらいだが(現地の人に阻まれたが)、彼女の人道的な立場もまるで人道の概念に寄ったものではなく、ただの彼女の信仰の延長だった。しかも、その信仰はどうやら一般に理解されているものとはかなり違うことを知って驚いたことがある。
 明石順三について、私はいわゆる平和運動の人から話を聞いたことがない。ちょっとその方面に話を向けると嫌がられるというか間違った思想であるかのような対応を受けた。今思うと、平和運動というのは平和教とでもいうべき信仰の形態に近いので宗教的な対立でもあったのか、あるいは、いわゆる戦時下の反戦運動や一般的なキリスト教徒にはなにか、突かれたくない問題があるようにも思えた。
 灯台社は現在のものみの塔だと理解されている。ウィキペディアの兵(日本軍)(参照)の項目にはこうある。

兵役拒否
 兵役拒否は兵営で、あるいは一般社会で公然と兵役に付かない意思表示をすることである。
 「兵役に付かない意思表示」と一言でいっても、実行には信念と勇気が必要とされ、ひとたび意思表示をすれば、厳しい徴兵令(後に兵役法)違反として処罰された。兵役拒否にものみの塔(エホバの証人)など信仰、宗教上の信念に基づいて行ったものなどいくつかの例があるが、日本では兵役拒否についてあまり知られていないのが実情である。
 註:戦時にものみの塔代表だった明石順三は、アメリカ合衆国のものみの塔(Watch Tower)が戦争に協力したことに異議を唱え、敗戦後にものみの塔を離れている。

 日本で兵役拒否がその歴史とともにあまり知られない理由には、明石順三の評価が関係しているようにも思うが、それはさておき、この記述だと、平和信念の人明石順三が、あたかも日共に対立した筆坂秀世のように、米国本部と対立したかのようだが……そうとも言えないこともないか……確か事情は違っていて、明石順三だけではなく彼に従った人も自然に米本部から離れていったようで、戦前・戦中の灯台社と戦後のものみの塔とは人的にはつながっていないようだ。
 明石順三については反戦運動家や一般的なキリスト教徒が触れたくないような印象を持つのはそれが平和運動でもなく、また所謂異端キリスト教だったからだろう。
 この問題は私が高校生になってからも奇妙に心を離れなかった。というのは私の記憶だが確かあのころ、ものみの塔信者の輸血拒否が問題になっていたこともあるが、どうやら自分の高校で信者による体育の武道拒否者が出たようだ。私はこのことが気になって、幾人か先生に聞いたが、そんなことに首を突っ込むんじゃねー的な対応を受けた。
 そういえば以前暮らしてていた町でよくものみの塔の信者がやってくるので明石順三のことを聞いたことがある。どういう対応だったか忘れたが、彼らは私を覚えていていろいろ内部資料を持ってきてくれた。ある意味で貴重なものなのでファイリングしていたが、これも無くしてしまった。記憶によるのだが、米国のワッチタワーの本部としては、なにかの理由で明石順三は契約を裏切ったということになっていた。もちろん、訪問の信者はそんなことにはあまり関心を持ってないようだった。
 ウィキペディアの「日本の宗教家一覧」(参照)にはその筆頭に「明石順三」があり、彼をリストに含めた人の見識を評価するが、項目は書かれていない。
 明石順三は後年万葉集など日本の古典に魂の慰みを見つけたようで、その人柄や生涯の全体から考えてみたいと思うが、それでも、これまでの私の人生に彼が投げかけた一番大きな問いかけは、「狂信者にしか見えない人が私の良心である可能性がある」ということだ。考えてみたら、パウロもそのように見られていたな。
 ただの連想なのだが、先日胡錦涛訪米のおり、オープンのプレスで王文怡女医が胡錦涛の面前で法輪功迫害を止めよと叫び騒動になったことを思い出す。
 ワシントンポスト”Overreacting to Protest”(参照)によると、彼女はその後六ヶ月の禁固刑を食らったようで、同紙はそんなに重罰なのかと疑問を投げかけていた。私もそんなものかなとは思っていた。
 だが私は問題を勘違いしていたのかもしれない。三日付けのクリスチャン・サイエンスモニター”Organ harvesting and China's openness”(参照)を読んでぞっとし、よもやと思い返した。同記事は法輪功信者が臓器提供の対象となっているもので、これまでアングラ情報とされてきたものだ。

A report from two respected Canadian human rights activists, featured in today's Monitor and widely elsewhere, charges China with putting to death "a large but unknown number of Falun Gong prisoners of conscience" since 1999 and selling their organs - hearts, kidneys, livers, corneas - at high prices to foreigners. China quickly dismissed the charges.

The report's evidence is circumstantial, but persuasive. It includes a sharp rise in transplants that parallels massive arrests of Falun Gong members, websites listing organs for sale, officials at Chinese hospitals and clinics admitting by phone that they have Falun Gong organs on hand, and a shocking secondhand account from the wife of a transplant surgeon.


 やはりそうだったのかと思ったのはその事実ではなく、王文怡女医についてだ。ソースの信用性はよくわからないだが、カンザス・シティ・インフォジーン”Public Forum: Harvesting Organs from Living Falun Gong Practitioners for Transplant in China”(参照)にこうあった。

On April 20, Dr. Wang cried out at the ceremony for Chinese leader Hu Jintao on the South Lawn of the White House. Dr. Wang called out to Mr. Hu and President Bush to stop the organ harvesting from live Falun Gong practitioners in China's labor camps and end the 7-year persecution of Falun Gong

 これが本当なら私は彼女の叫びを聞いていなかったことになる。
 彼女は法輪功信者なのではないかと思うし、私にしてみると、奇妙な宗教の狂信者の類である。だが、もしかして、「狂信者にしか見えない人が私の良心である可能性がある」ということだったのではないか。
 この問題はよくわからない。情報源があまりに不確かだし、今考えると、ワシントンポストの扱いもあえてこの問題に触れてないようだ。たしかに、あまり考えたくもない問題でもある。人は本当の良心というものにあまり向き合いたくないものだ。

追記
 エントリ執筆後、次のページを知った。この情報が確かなら、明石順三は戦後、戦前の灯台社を再興したのち、一九四七年彼の本部質問状ゆえに除名となり、ここで灯台社と戦後のものみの塔は分断した。

ものみの塔日本支部の基本財産(参照

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2006.08.08

冷麺とか

 この夏は冷麺をよく食っている。以前から冷麺は好きなのだが、今年はなんかちょっとしたマイブームである。と言いつつ、何がうまい冷麺なのかわからない。適当にスーパーとかデパチカで買ってきて湯がいて食うだけのこと。
 以前は冷麺は韓国食材の店で買っていた。歌舞伎町によく行った店があるが、以前暮らしていた町にもなぜかあった。店には昔は美人だったんじゃないかなという感じの気の強そうなおばさんがいて、私が興味深そうに商品を見ていると当初はうさんくさそうな視線を投げていた。愛想はすごく悪い。商品は高い。この近在でこの値段では売れないでしょという感じ。他に客が入ってくるのも見かけたことがない。今思い出しても謎だ。
 その店のキムチとかうまかった。あれを食うと他のキムチは論外でしょという感じだったのでよくその店に通った。そうしているうちに、おばさんも気を許してくる感じがしたし、いろいろ食材のことも聞くようになった。おばさんの日本語はちょっと変な感じがしたのでいわゆる在日ではないのかもしれない。話を聞くと食材は彼女のお手製らしい。驚いた。キムチはもちろん、ナムルなんかもうまかった。チンジャというのをその店で覚えた。コチュジャンも瓶詰めではなかった。今思うとケジャンはなかった。ポンテギもなかった。トラジは……そういえば、以前トラジのこと書いたな、「極東ブログ: トラジ、トラジ」(参照)。
 店は私が沖縄で暮らしているうちになくなっていた。そういえば別の町だがうまい朝鮮料理の店があった。近所では焼き肉屋と見られているのだが、メニューを見ているとそうではない。チゲはもう絶品だった。ケジャンもうまかった。店は朝鮮人がやっているのかわからない。娘さんらしい人が給仕をしてくれるのだが日本語がたどたどしい。大柄な美人だった。この店も今はない。というか今でもそこに焼き肉屋があるのだけど、別の店になっていた。
 昔通った店で今でもあるのは荻窪の南漢亭くらいかなとネットを見たら銀座店がある。同じ店の系列なんだろうか。南漢亭は一度だけなんかの手違いで厨房を覗いたことがある。白髪交じりの長髪の女性が調理しているのだが、なんというのか気品のオーラが漂っていた。給仕の立派そうな男性は息子さんだろうか。「なぜ貧者餅なの?」と一度聞いたら、困惑げに「昔は貧しい人が食べていたからでしょう」とのお答えだった。そういえばジョンとかメニューにあったか。最近行ってないな。
 朝鮮料理は朝鮮人が作るのがうまいもんだと思っていたが、そうでもないのかもしれない。以前職場の同僚に在日朝鮮人(韓国籍だっただろうか)がいて、なにかの飲み会のあとで、そうだ妹の店に行こうというのだ。え? こいつ妹いたの? しかも水商売? え?え?という興味につらてついていくと、こいつの妹のわけがねーという美人がいて、話も丁寧。したたかに飲んで、じゃラーメンだな、というころ、「チゲ」でも作りましょうかと彼女が言う。わー幸せとか思った。が、出てきたチゲは不味かった。
 このエントリのテーマは何だったったけ。冷麺か。どうでもいいか。
 さっき食ったのはモランボンの冷麺だが、スープに酸味がない。なぜなんだろう。冷麺のスープというのは水キムチから作るのではないかと思うのだが、わからない。そういえば、水キムチというのはスーパーとかではあまり見かけないように思う。白菜漬けとなにが違うと言われてもよくわからんというか同じものかもしれないし、こんなの簡単にできそうに思うのだが、水キムチのうまいのは至福に旨い。水茄子と水キムチが旨かったら夏もいい。
 アフィっぽい締めだが、ネットの通販では韓国食材は癒しのキムチ(参照)がうまいと思う。ページに掲載されてない商品でもアレはないのとか、あれはいつ(季節)からとか聞くと、丁寧に応答してくれた。

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2006.08.07

[書評]もう一つの鎖国―日本は世界で孤立する (カレル・ヴァン ウォルフレン)

 私はカレル・ヴァン ウォルフレンについて「日本 権力構造の謎」(参照上)以来の愛読者で考えてみればもう十五年以上にもなる。当時の空気を思い出すと、市民派の新しい理念の可能性を秘めながら、改憲や差別問題にも屈しない姿はすがすがしく思えたし、小沢一郎を明確に支持したのもスジが通っていた。彼は日本史・東洋史についての知識は乏しいものの、逆に欧米人の考え方の根幹のようなものをくっきりと見せてくれた。彼から私が学んだ最大のことは、市民と社会が敵対するとき国家が市民を守らなければならないということで、それまで私は吉本隆明風に国家という共同幻想は曲線を描きながら死滅することを理念とすべきだと思っていた。が、まさにその曲線の部分で自分なりに西洋の考えかた特にルソーの一般意志論などを考えなおした。今思うと九〇年代だなと思うし、三十代の尻尾で自分もぶいぶいしていたと思う。

cover
もう一つの鎖国
日本は世界で孤立する
 ウォルフレンについての私の違和感は、基本的なところでは、ネオコンという思想についてであった。ネオコンについてはいわゆるネオコンと政治哲学的な部分があり、ジャーナリズム的に簡単に割り切れるものではないし、この議論に突っ込むだけの知見は私にはない。だが、大筋のところで私は、フランシス・フクヤマが「歴史の終わり 歴史の「終点」に立つ最後の人間」(参照上)で言うようにヘーゲル的な歴史の終焉の最終過程ではないかと思った。なお、フクヤマは最近この考えを否定している。
 この問題はセプテンバー・イレブンからイラク戦争、いわゆる「テロとの戦い」という流れのなかで理解され、日本など非英米圏の知識人は子ブッシュとネオコンの間違いという形で議論されることが多く、日本ではそれが表層的に左翼的な言説と結びつくように思えるのだが、そのまさに表層性において根幹たる思想的な批判を形成していないように私には思えた。
 ウォルフレンもまさに非英米圏の知識人として「ブッシュ/世界を壊した権力の真実」(参照)から「アメリカからの“独立”が日本人を幸福にする」(参照)において、そうした子ブッシュ=ネオコン思想という枠組みから日本の立ち位置を論じ、そしてそれは結果的に外部的な小泉政権批判という形に結びつくのだが、「世界の明日が決する日―米(アメリカ)大統領選後の世界はどうなるのか」(参照)を注意深く読めば、ウォルフレンが子ブッシュ=ネオコンをそう表層的に見ていないことはわかるし、その決した明日についてウォルフレンがどのように語り出すかということに私は関心を持ち続けた。が、「世界が日本を認める日―もうアメリカの「属国」でいる必要はない」(参照)は私はピンボケの印象を受けた。
 ウォルフレンは私のような読み方をしてきた読者にとっては、日本の内在について西洋的な市民原理性においてどのように批判が構築されるべきかという課題が主軸にあるだが、しだいにウォルフレンはあたかも彼自身がブッシュの鏡像のように日本を外在的にどういうふうな駒として動かすかという視点を語り出してしまった。
 私は、前回の郵政民営化衆院選だが、二人の意見を聞きたいと思った。一人は吉本隆明であり、もう一人はウォルフレンだった。吉本は「家族のゆくえ」(参照)において小泉支持という明瞭な形ではないが郵政民営化の方向性だけは消極的に是認していた。私はこのブログを始める一つのモチーフとして吉本隆明とどう自分が決別していくかといことがあったのだが、この三年間、方向は逆で吉本の巨大さが別の形で理解できるようになりつつある。ウォルフレンについては新聞などで口頭で語ってるものを見たが、ようするにあの選挙は自民党内部の権力シャッフルで意味はないとしているだけだった。私はおかしいと思った。自民党の権力シャッフルという見方は取りえないことはないが、問題はそこではない。まさに日本の経済体制の大きな変化をどう見るべきかという点だった。という以前に、日本を内在的に語らないウォルフレンを訝しく思うようになった。
 この訝しさは今回の「もう一つの鎖国―日本は世界で孤立する」(参照)という口述のような小冊子でかなり明瞭になった。
 本書は明瞭な中国擁護論であり、子ブッシュ=ネオコンが世界の危険であるという主張になっている。ただ、子細に読むと非常に曖昧な著作にも思えた。
 本書に対する個別の突っ込みや批判はいくらでもできる。私にとっての最大の問題点は、中国の内在的な人権で問題でも軍拡でもない。まさにウォルフレンがある程度頼ろうとしている国連を使って中国が国際的に結果的な非人道的な行為をまき散らしている点にある。端的に言う。中国が拒否権を使わなければダルフール危機はもっとましな対応が取れたのではないか。あるいは常任理事国としてもっと積極的にこの問題に関わることができたのではないかということだ。この問題を私が深刻だと思うのは、それはルワンダ・ジェノサイドについて人類が依然対応できないこと、様々な見解があるが20から40万人という無辜の人間が国家権力によって虐殺されたことだ。私はこの間の世界上の問題という点で、イラク戦争よりダルフール危機のほうが重要だと考えている。
 この問題に本書のウォルフレンはまったく口をぬぐっている。そう私が言えば、人道面した子ブッシュ派ネオコンとでも非難されるのだろうか。
 しかし、本書を全体として読み終えたとき、その価値は依然大きいし、ウォルフレンのこの著作は私にとって今だ愛読書となるだろうと思った。というのは日本の将来においてもっとも重要な問題についてはきちんと指摘しているからだ。
 問題は彼が言うところの「新ブレトンウッズ体制」の崩壊である。日本はすでに事実上米国の属国さらに傭兵国家と化していくだろうから、米国債を売ることはありえない。だが、中国はいつか売るだろう。現在の巧緻にも見える中国の経済運営を見ていると韓国のような間抜けなことをしないせよ、長期的に対米プレザンスを取り始めるだろう。ウォルフレンは米国の軍産共同体の自律的な動向を問題としているが、私にはそれ自体が中国のこの対応への布石に見える。
 ウォルフレンは本書で日本の左翼が言いそうな薄っぺらな小泉靖国参拝批判を述べているようだが、私は最大限ウォルフレンを好意的に見たい。というか、そこに本質的な問題はない。また、子ブッシュ=ネオコンもこの大きな経済の潮流の連鎖現象ですらあるだろう。
 自分にはわからないことであるが、経済通の方から見れば、中国が米国債を売るということはありえないトンデモですよアハハということだろうか。そうであればそうした議論を読んでみたいと思う。その一点がクリアなら、ウォルフレンを私はもう読み続けることはないだろう。

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