« 2006年7月16日 - 2006年7月22日 | トップページ | 2006年7月30日 - 2006年8月5日 »

2006.07.29

レバノン危機の難しさ

 イスラエルとレバノン内ヒズボラの紛争が激化している。前回「極東ブログ: 軍服もどき」(参照)を書いたときは私としてはガザ地域の紛争に力点を置き、ヒズボラとの紛争についてはここまで悪化するとはあまり想定していなかった。ただ、産経新聞の記事を引用しヒズボラの背後にシリアとイランが動いているとなると話は全然違うだろうなと思っていた。
 その後の経緯のなかで、私の関心はシリアとイランが今回どのようにヒズボラの行動に関わっているかに向いたのだが、エントリに書けるほど確たるソースなり分析というのは見かけなかった。むしろ、そんなの当たり前でしょという感じの議論も多いのだが、慎重を期したいというのと、シリアと米国の関係について「極東ブログ: シリア制裁発動」(参照)でも触れたがそう簡単に割り切れないものがある。
 世界の平和を希求する日本国国民としてはとにかく停戦あるべしということだろうし、国内報道もそうした流れをまず錦として掲げる。そして現状を見ればまずイスラエルが空爆を止めるべきだというテーマになり、そこからお話ができあがる。そしてそれはお誂え向きにイスラエルを擁護する米国批判ということになり、諸悪の根源はブッシュということで、FAとか。
 まあそんなものだろうと思って新聞社説やNHKでの解説などを見ていたのだが、今回は多少トーンが違い、イスラエルの心情なりや米国の戦略を読み取ろうとする解説も目に付いた。日本での中近東報道も成熟しつつある。
 大手新聞社説で一番冷静に見ていると思えたのは昨日の日経新聞”米欧不一致で遅れるレバノン停戦”(参照)だった。標題は米欧批判のように見えるが内容はリアリズムに近い。


 イスラエルの作戦の目的は可能な限りのヒズボラの軍事的な弱体化であり、最低限の目標はイスラエル領内へのロケット弾攻撃を不可能にさせるようレバノン南部国境地域を緩衝地帯にすることだろう。
 主要国首脳会議(サンクトペテルブルク・サミット)が軍事行動の自制を求め国際部隊派遣構想が浮上した後、米国はすぐに仲介外交に動かなかった。ヒズボラがイスラエル攻撃能力を保持したまま停戦するのでは将来に禍根を残すとする米国は、イスラエルに作戦遂行の時間をある程度与えたものと解釈できる。
 イスラエルは緩衝地帯を確保すれば、自ら占領せず後は盾としての国際部隊に委ねる計算だ。その点で今後のシナリオはかなり明白だろう。即時停戦を求め、国際部隊派遣に積極的な欧州諸国も、ヒズボラと自ら対決するリスクは避けたいから、派遣時期はイスラエルの作戦遂行が進んでからという本音がうかがえる。

 このシナリオについて日経は直接批判を加えているわけではない。むしろ、これで「シナリオは見えてきたが、問題は時間だ」として被害を最小限に抑えるしかないというまとめにしている。
 確かに子供まで巻き込む目下の被害に目をつむれと言えるわけもないが、ここでイスラエルを暴発させない仕組み作りが重要だろう(イスラエルの暴発がなにをもたらすかは言うまでもない)。
 ただ「緩衝地帯」なりが実現してもヒズボラは射程六〇~一〇〇キロのミサイルを保有すると見られるので、現実的には何か別ものが想定されているのだろう。たぶん、過去の失敗も顧みずイスラエルは大規模な地上戦に踏み出すのではないか。
 この間私がもう一つ読み違えていたなというのは、イスラエルによる国連レバノン暫定軍監視所への空爆だ。当初誤爆だろうと思っていたし、イスラエルもそう主張するのだが、いくつか状況を見ると(標識もあり連絡も取っていた)、これはアナン国連事務総長の見解が正しい。読売新聞”「計画的に標的にした」アナン国連事務総長が非難声明”(参照)より。

 アナン国連事務総長は25日、レバノン南部ヒアムで国連レバノン暫定軍(UNIFIL)の施設がイスラエル軍の攻撃を受け、停戦監視要員が死亡したことについて「衝撃と深い悲嘆」を表す声明を発表した。
 声明は、攻撃が国連施設を「明らかに計画的に標的にした」と非難。イスラエル政府による徹底調査と、国連の施設や人員に対する攻撃の中止を要求した。

 イスラエルはばっくれるのだろうが、ここまで国連を脅す必要がなにかあったと考えるべきだし、その部分がよく読めない。”レバノン危機:イスラエル空爆、国連の中国人死亡”(参照)でも伝えるが今回の死者には中国人が含まれてたので、中国としても強い不快感を示している。
 話が散漫になるが、全体の遠い背景としては、シーア派イランの孤立があるように思う。アラブ世界の多数は穏健なスンニ派なのでそうした穏健勢力の育成を計っていくことが構造的な問題の緩和になるのではないか、遠回り過ぎるかもだが。

| | コメント (9) | トラックバック (1)

2006.07.27

[書評]「昭和東京ものがたり2」(山本七平)

 時折戦前の天皇機関説について考えることがある。いろいろ議論はされているし史学的な研究もないわけではない。ただあまりしっくりきたことはない。
 ウィキペディアにもこの項目があった(参照)。そう悪い解説でもないし、重要な天皇機関説事件(参照)についても比較的詳しいと言ってもよさそうだ。が、つまりは後代からは歴史というものはこう書かれるということでもある。
 山本七平の「昭和東京ものがたり2」(参照参照)では、彼がその時代を生き、そして後年またその時代を振り返って、なんというか不思議な考察を加えている。


つくづく不思議だなと思うのが、実は「天皇機関説」なのである。この問題の経過を私が知ったのは、実は戦後のことで、攻撃の対象となった一木喜徳郎とその高弟美濃部達吉の説、いわゆる「天皇機関説」がG・イェリネックの国家法人説を帝国憲法に応用して成立した説だなどとは、当時、知るわけがない。この点では庶民同様「機関説」と「機関車」の区別がつかない一人であった。
 ただ、貴族院でこの説を菊池武夫が激しく攻撃した背後には政争があった。簡単にいえば、だれかが、だれかを、引きずり下ろして失脚させ、自分がその地位に昇りたいと思っていたという点は、庶民は相当に正確に嗅ぎわけていたことを、資料を調べたときに知ったのである。私は驚いて、正直にいってなぜ庶民が、おそらく当時のエリートが蔑視していた庶民が、これほど鋭くその実態を見抜いたのかわからなかった。
 私は国会図書館に行って、庶民が「嗅ぎわけ」のヒントとした記事がどこかに無いかかと探したみたが無い。なくて当然であろう。それはその人が心底に秘めていることで、取材に応じて語るようなことではない。もちろん推測した記者はいるかも知れないが、「彼の心底を探ればかくかくしかじかである」などと書くことは、昔も今も、できるわけがない。何の証拠もないし、何のうらもとれないからである。
 ではなぜ庶民のカンはそれをつかみ得たのか。それは非常に単純な原理、人間には権力欲があり、権力が目の前にちらつけばどんなあさましいことでもする。昨日までの主張も平気で捨てられる動物だということを知っていたからであろう。これは現在でも変わらない。そのことを昔の庶民は、「情報無知」であるがゆえに、今よりはっきりと意識していたということである。

 歴史学的にはこうした問題は扱えない。だが、歴史というのは人間が生きているなかで進行しその思いは人への信頼のなかで嗣がれる。
 具体的にこの事件について山本はこう解説する。

 ではだれが「天皇機関説問題」を「演出」しているのか。庶民はそれが平沼だと思っていた。もっとも庶民のカンによる「流言蜚語」が果たして正しかったのかどうか。これは今ではわからない。というのは表向きには何の資料もないからである。ただ斎藤内閣が平沼の「空中楼閣」で倒れ、その後で後継総理を天皇に奏請するとき、慣例に基づいて、元老西園寺公望、牧野内大臣、一木枢密院議長、前・元首相による重臣会議により岡田啓介と決定していたことはわかっている。そして元首相といっても、田中・浜口・犬養はすでにこの世にはなく、若槻前首相がいるだけで、彼はすでに民政党総裁を辞任しようとしていた。こうなると実際の決定権は西園寺・牧野・一木・斎藤の四人である。
 この中で平沼を推す者は一人もいなかったらしい。と言ってもだれも会議の内容は知らないのだが、その顔ぶれはみな「司法ファッショ嫌い」である。そのため彼は総理になれず、そこでまず美濃部機関説を攻撃し、彼の師でその説の「根元」ともいえる一木喜徳郎にゆさぶりをかけようとしていた。これはうまい手で、この手で一木喜徳郎を追い落とせば彼は枢密院議長になれる。そして追い落とすぞと威嚇するだけなら一木喜徳郎は彼を枢密院から追い出すために総理に推すであろう。庶民はこれを「平沼の王手飛車取り」と思っていた。彼は最終的に目的を達し、枢密院議長にも総理大臣にもなった。

 もちろん、歴史というのは流れを持っている。後代からすれば関係ない問題に見えるものでも渦中では繋がりの空気を強く感じることができる。「天皇機関説問題」の前には帝人事件(参照)があった。「司法ファッショ」である。事件は検察のでっちあげで最終的には全員無罪となった。これを引き起こしたのは平沼騏一郎であろうというのは今日歴史の通説と言っていいだろう。彼は司法官僚出身でもあった。もちろん庶民は平沼の野望を知っていた。ウィキペディアの同項目にはこうある。

平沼は自分が枢密院議長になることを期待していたが、元老、西園寺公望の反対で副議長のまま置かれたことを恨み、倒閣を図ったという。

 おそらく山本が驚嘆をもって指摘するまでもなく、当時の庶民にしてみれば、「天皇機関説問題」とやらなんであれ、なにか政争の問題があればそれを仕掛けたやつがおり、それは達成してない野望を持つやつだという察しはあったことだろう。
 庶民の知恵が活かされ、司法ファッショを嫌う立憲政治が維持できれば、平沼騏一郎の登場を阻止できたかもしれないというのは歴史のイフにすぎないが、同じような歴史が繰り返されるときそれは鏡となる。
 当時議会は美濃部達吉の「天皇機関説」を圧倒的に支持した。しかし、それでも歴史は混迷に向かって動いた。
 引用が長いがもう一カ所同書を引用しよう。菊池武夫の攻撃の話に続く。

 そしてこれに対して弁明および反駁を行った美濃部達吉の演説は、貴族院はじまって以来の名演説といわれ、大拍手で終わっている。いわば論戦では美濃部の勝ちなのだが、実は、勝ち負けが問題っではなかった。ついで衆議院の代議士で陸軍予備少将の近藤源九郎が美濃部を不敬罪で告発した。いわば資料で追う限り平沼は全く表面に出ていないのである。だが、庶民の受け取り方は違っていた。そしてこういう庶民のカンは今ではなくなってしまっているらしい。

 そして、なくなって久しい。

| | コメント (7) | トラックバック (1)

2006.07.25

ゲド戦記の謎

 ゲド戦記の映画化というかアニメ化ということもあって、この物語の話題を耳にすることが多くなった。ゲド戦記については、どうしても気になることがあり、ある種難問に直面して行き詰まる。その心のひっかかりを率直にちょっとメモ書きしておこう。以下、この物語を読んでないかたにはスポイラーがあるのでご注意。
 ゲド戦記は私のような読者にしてみると、三巻「さいはての島へ」で終わった物語であった。しかしそれで本当に終わったのかというと、「極東ブログ: こわれた腕環(ゲド戦記2)アーシュラ・K・ル=グウィン」(参照)で触れた二巻の意味合いが難しい。ストーリーテリングとしては二巻は三巻と不整合ではないのだが、テーマとして見るなら三巻で一巻と二巻のテーマが統合されてはいるとは思えない。特に二巻に提出された大きな問題がある(女の本質について)。なので、その部分だけこのブログであの特定の時期を背景として書いた。
 ところがゲド戦記はその後十六年後に「最後の巻」が書かれた。これはなんと言っていいのか言葉に詰まるが、とりあえずは驚くべき展開だった。三巻の栄光として暗示されたゲドは四巻では実際には半死半生の無力な人間になってしまっていた。それでいてストーリーの時間では三巻はなめらかに四巻に接続し、そしてある意味で見事に二巻を統合した。
 ここで突然変なことを言うのだが、私の人生の自分にとって謎はゲド戦記の一巻、ゲドと呼びかける影の出現に象徴されている。あの影の出現が私の人生の原点に起こった。ゲドの物語は私の人生の暗喩になってしまったし、私にはゲド戦記をそう読むしかできない奇っ怪な物語になった。人生においてなぜこんな物語に出会うことになったのか。さらに四巻の無力なゲドは四十歳過ぎた私の無力と絶望にきれいに重なることにもなった(もっとも私は大賢人たることはなかったので遙かに些細な存在であるが)。
 四巻の謎、私にとっての謎の一つだが、カレシンがゲドをゴンドに連れてきた理由は、標題のように「帰還」ということもだが、おそらくテハヌーのためであったということだ。四巻の終わりは暗示深い。


ゲドはコケばばの家の戸口にさっきから腰をおろしていた。彼は朝日のあたるなか、ドアの柱に頭をもたせかけて、目をつむった。「なぜ、わたしたちはこんなことをするのだろう?」ゲドはつぶやいた。
 テナーはポンプからきれいな水を洗面器に汲んできて、顔や手を洗っていたが、終わるとあたりを見まわした。ゲドはすっかり疲れきって、朝日のなかば仰ぐようなかっこうで眠り込んでいた。テナーは戸口ゲドの傍らに腰をおろすと、その肩に頭をもたせかけた。わたしたちは余備の人間なのだろうか、とテナーは思った。余備の人間であるというのは、どういうことなのだろう?

 ここで「余備の人間」という奇妙な問いかけが出てくる。意味がよくわからない。
 予備ということかもしれないが、何かに備えた、そういう定めのような存在ということだろうか。そして、その何かはカレシンとテハヌーに関係していることは疑いないので、「最後の巻」がこれで終われるわけもなかった。
 さらに十一年後「アースシーの風」が書かれる。
 ゲドの存在感はこの物語に重たいトーンを投げかけているのだが、ゲドは最後に少し登場する程度だ。が、そこでゲドはこう呟く。

「わたしたちは世界を全きものにしようとして、こわしてしまったんだ。」ゲドは言った。

 これはテナーの次の問いかけの答えだった。

「みんな行ってしまった。もうハブナーにも西方の島々にも竜は一匹も残っていないわ。オニキスは、あの暗がりもそこにいた影たちもみんな光の世界とまたひとつになったので、今こそ彼らは自分の真の国を手に入れたんだって言ってる。」

 ゲドの答えにある、世界を壊してしまったということは、三巻のゲドの達成を指すとしていいだろう。とすれば、五巻において、三巻のゲドの達成は根底から否定されるためのものだったということになる。
 そんなことがあるのだろうか。うがった見方だろうか。
 しかし、三巻においては、ゲドの力は魔法の力でもあった。しかし、四巻から五巻へのダイナミズムは、竜(カレシンとテハヌー)の力と、魔法を超える力の出現だった。その意味で、五巻までの物語の全体構造において三巻のゲドの達成は根底から否定されているという整合はある。あるにはある、とりあえず、としていいだろう。
 ただ、どうも自分にはっきりとそこが自覚はできない。
 テハヌーが竜となるという暗示もよくわからない。四巻の印象ではテハヌーは女の大賢人になるという暗示がしくまれているようにも読める。
 五巻の「影たちもみんな光の世界とまたひとつになったので」はゲドの出現である一巻の再起的な話のようでもある。
 この物語を一つの大きな全体として受容するとき、三巻までの完成は単純に否定されるのだろうか。三巻の、つまり、ゲドという存在の意味が、五巻において見直したとき、私には正直に言ってよくわからない。

| | コメント (9) | トラックバック (8)

2006.07.24

「者」の点はいつ消えたのだろう

 書棚の奥の本を取ろうとしてぼろっと「日本の漢字・中国の漢字」(参照)が落ちてきた。戻す前にぱらとめくったが運の尽き。そういえば、と少し考え込んでしまった。「者」という漢字について。


 現在の漢和字典は、字解のあとに熟語を掲げて解説するとき、その字が語頭にある語だけ並べる。このやりかたで行くと、例えば「者」という字のように、それが語頭に立つ熟語例を見ないものについては、説明が一字の説明だけに終わることになる。その結果、この字の説明は、とかくむずかしく、中国語や漢文訓読によほど通じた人でなければ理解がむずかしいものになる。

 というわけで、あるべき説明の試みが続く。一読、なるほどねとも思うし、これは違うんでないのとも思う。いずれにせよ、こういう解説はスポラディックにやってもなとは思う。
 gooの辞書で「者」を検索すると、わけわかんないにはなる。

しゃ 【者】
〔「其者(それしや)」の略〕その道の者。玄人(くろうと)、特に芸者・遊女。


もの 2 【者】
〔「もの(物)」と同源〕人。古来、単独で用いられることはごくまれで、多く連体修飾語を伴って用いられる。
「家の―を迎えにやる」「若い―」「おまえのような―は勘当だ」「だれか試してみる―はいないか」「―は極(いみじ)き臆病の―よ/今昔 28」
〔「人」に比べて卑下したり軽視したりするような場合に用いられることが多い〕

 学校ではどう教えているのだろう。漢文を学べばそれなりに知識の補充にはなるか。
 などと思いつつ、なにか心にひっかかるなというのがあって、ふと思い出した。点だ。あの点は何処へ?
 私が何歳のころだろう。小学生の頃だろう。父に宛てた葉書を見ると「者」には必ず点が打ってあった。けっこうな大人がみんな「者」に点を打っていた。なんでこんなところに点が打ってあるのかと、随分疑問に思ったものだった。
 私の父母は信州人なのだが、「小諸」の地名の「諸」にも点があった。
 あの点は何処へ?
 もちろん、GHQ漢字で書体を整理したとき、この点は要らないでしょ、みたく取ったのではないか。まったくGHQのやることはひどいもので、おかげで現代日本人は、大と犬と太の区別も付かなくなったし、氷と水の区別も付かなくなってしまった……。
 戦後教育から「者」の点が消えたのだろう。とすると、点の無い者は、昭和十五年生まれくらいからか。だとすると「年号年齢早見表 極東ブログ・リソース」(参照)を見るに今年六十六歳くらいか。まだ七十歳の人は「者」に点を打っているだろうか?
 あの点は、何時打つのかも子供心に疑問だった。最後だろうか。百隠曰く、太神宮の太の字に点を打つのが神道の秘訣というが、仏法の点はどう打つぞ、ではないが、「者」の点はどう打つぞ。
 わかんない。台湾では打っていたはず。関係ないけど台南では檳榔も売っていた。そういえば儂のことを「弁当」と呼ぶ者があるが、弁当とはな。台湾では「便當」であった。
 台湾のサイトを覗くと者に点を打っているのではないか?
 覗いて見て、びっくりした。いや、ちゃんと打っているのだよ。ほれ。

 まあ、そうでしょと思ったのだが、ユニコードだと点が消えるみたいだ。ビッグ5だと点が出てくる。いつたいだういうことなのでせふ。野嵜さんにでも尋いてみませふか。
 ユニコードで旧字体と自動的に入れ替えちゃうことがあるのは、Google先生とか使っていて知っていたが、こんなことがあるのか。というか、星港あたりでは点は消えているのだろうか。
 点の由来はなんだろと、金文(参照)を見ると、点がくっきりと見える。篆文を見ると点はない。
 もしかしてこの点は「おいかんむり」の一部かと……そんなわけはない。考・孝の金文を見てもなんだか由来が違う。
 わからん。しかし、これを機に機のように私は者にもこっそり点を打とうかな。

| | コメント (8) | トラックバック (1)

« 2006年7月16日 - 2006年7月22日 | トップページ | 2006年7月30日 - 2006年8月5日 »