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2006.06.17

恋は四十過ぎからの時代へかも

 はてなブックマークをたらっと見ててなにげに、はてな日記「esereal」のエントリ”でもまあなんていうか彼氏いらない”(参照)のフレーズ「ちなみに、19年の人生の中で異性もしくは同性に恋愛感情やそれらしきものを抱いたことは一度もありません。恋ってどうやってするものなんですか?」を読んで、脊髄反射で「あと20年くらい修行。」と呟いた私は今年四十九歳です。
 吉本隆明が娘さんに恋について諭して曰く、一生のうちに一人くらいは好きな人がいるもんだよ、いなきゃそんなものかと諦めな、だったか、正確には覚えてないが、そんな感じ。考えようによっては深いお言葉というか深すぎて地盤沈下デスチニー!かもだが、昨今では安珍清姫的物語はなくなったのでなんだが恋てふものはデザスター。しかたないよ。
 このところ「蜻蛉日記」をつらつら読むに、いやこれとても恋の形てふいふべきものか。右大将藤原道綱母日記を閉じるに満年齢三十九歳。一巻の終わり恋の終わりといういうべきかわからぬが、絶世の美女知性派眼鏡してたら現代でもクリステル嬢より萌え萌えの蜻蛉三十九歳の様を思う。かくありし時過ぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世にふる人ありけりというも、今の俺より十も若いしまだまだ乳だってあるかも(いやそれはないかも)。
 日記はそこで閉じられるが後の人無粋にもまとめサイトならぬ年表なるものを作る。見るに蜻蛉六十歳まで生きていて、その五年前、あはれともいうべきか、敵、兼家六十一歳の死を見る。恋の末路。見るべきものは見果つか。人生ってなんなんでしょ。加えて道綱は凡庸絵に描くがごとしのオッサーンであったようだ。人生ってなんでしょ^2。
 ってなことはある意味で現代人にはどうでもいいというか、ネオテニー進化の現代人にしてみると死は八十歳くらい、恋の現役六十歳くらいか、女でも。いずれにせよ、四十歳くらいじゃ現役バリバリじゃんてことで、ゆかりたんガンバレ。
 負け犬さんも藻男さんも、四十くらいから恋をしてみるもよいのではないか、恋をいたしましょ~♪、とおじゃる丸の歌みたいに言うのも、ニューズウィーク日本語版6・14「負け犬たちを待つ輝かしい未来」が妙に面白く、世の移ろいかくのごとしと得心した。曰く。


20年前には「40歳の女性が結婚する確率は2.6%」だが自由なスタイルでチャンスをつかむ女性が急増中

 ネタかよと思ったがアーティクルを読むに、そうでもなさげ。四十過ぎて結婚というトレンドがあるそうだ。しかも晩婚カップルのほうが破綻しづらいようでもある。
 少子化というとなんとか初婚で子供産ませろみたいな、三十代お母さんのイメージがあるが、そういう方向をすっぱり止めて、四十歳くらいで結婚して産んでみるとか、子供を産むのが難しければ養子を取るとか別のチョイスもあるのだろう。グリーンスパンから学ぶべきことは経済だけじゃない。
 とまつまらんネタエントリ書くんじゃねーみたいな話だが、マジこいても未婚者の大半は結婚願望を持っているのは確かだし、米国ではそれが少しずつ目に見えるような流れにシフトしてきているようだ。だから、日本でもあと五年くらいしたら、多少はそうなるんではないか。少子化とかの問題解決にはならんでしょうけど。

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2006.06.16

貧乏について

 雑談。このところ、時折貧乏について思う。貧乏といっても、世代によってすごく感受が異なるのではないか。私は昭和三十二年生まれなので、ある意味で上の世代のすさまじい貧乏を知らないと同時に、下の世代のように、おや?この人たちは貧乏というのを知らないかと思うこともある。もっとも貧乏は世代の問題じゃないというのもあるだろうが、世代の問題というのもある。床屋談義に向いている。
 私はたぶん最古参のネットワーカーだと思うがネットに触れたとき、ほぉ文学なんて恥ずかしいものを読んでいる人が広い世間にはやっぱりいるのだと思った。身近な周りにはいなかったし、というか世界って広いもんだ、東京には出てみるべさ的な感じがした。そうした中で十歳も上の世代の人の交流もありいろいろ伺ったが、なんというかなにかと貧乏だな、この人たちと思った。けっこう中流家庭の人でもなんか世代的な貧乏なのである。コッペパンにマーガリンを薄く塗ってジャムを塗って食うという話になんの意味があるのかとか思ったが、その意味の空間に歴史があるのだろう。吉本隆明の料理にほうれん草のおひたしに醤油をかけるというのがあるのだが、その前に味の素を振る、えっ? リキッドアミノでしょとか洒落はさておき、なんつうか貧乏臭ぇとか思った。世代的な感性でしょうね。
 じゃ、おまえさんの貧乏じゃないってどうよ、なのだが、先日、人とクリスマスケーキの話をした。私が時間待ちに料理の本を読んでいると、なによ?と言うのだ、イギリス料理と答える。イギリス料理って何よ?というので、いろいろあるがスコーンとかクリスマスケーキとかいうところで写真を見せる。不味そうなんだよねこのクリスマスケーキと私が言うと、これって本当に食べるのかしらと答える。意味がわからないので聞くと、一か月くらい熟成させるというのだ。え?みたいな話から昔の話に移るのだが、私にしてみると五十年代から六十年代のアメリカの消費生活が貧乏じゃないという無意識の象徴のようだ。つまり、私も歴史の無意識のなかにいる。
 昨今勝ち組負け組とか、格差とかよく言われるのだが、私はあまりピンとこない。ここだけの話こっそり言うのだが、日本社会というのは格差以前に家の品格というものがあって、特に縁談システムに機能していた。あの家は貧乏だが家柄は良いとかいうのである。もちろん、民主主義日本にとっていいことじゃないしおおっぴらに言えるこっちゃない。それと私が子供の頃には「世が世なら」みたいな話はよく聞いたし、曾祖父近衛兵の私もその感じはちょっとわかる。貧しても品があるみたいなものだった。それもすべて敗戦という歴史の無意識のなかにいたということなのだろう。
 私の父母たちは貯金ということが生活様式になっていた。ピギーバンクといってもいっても米国みたいなもんじゃないエースコックの貯金箱とかが子供にも普通にあった。今考えると、貯金といっても最終的に国家の投資に回っているのだから、もっと利回りのいい民間部門が使えそうなものだが、いずれそういうチョイスはなかった。で話だが、子供のころから無駄遣いはしない、貯金はするという生活様式は私にも少し浸透していたので、あるいは家の気風というのもあるのかもしれないが、世の中に出てから人の金遣いの荒いのに驚いた。カネがあって金遣いが荒い人もいれば、カネがなくても金遣いが荒い人がいた。世の中というのは面白いものだなとは思った。
 若い頃勤めていた会社で財形と社債があるのを知ってするっと買った。会社の人にえらく褒められたがピンとこない。貯金の延長の感じでいるだけ。その会社を辞めるときは、それなりの額になった。サラリーマンの収入が安定しているというのは支出も安定しているということかもしれないが、少しづつセーブしてかつ金利が高い社会なら、じっと我慢の十年くらいでお家を建てられるように世の中というのはできているものだなと思ったし、そういうことができればお嫁さんも貰えるのであろう。「おうち」とか「およめさん」とかレトロな響きがするな。
 今月の文藝春秋に橘玲の「55歳から金持ちになる方法」という面白い記事があった。いや、ごく普通のことが書いてある凡庸な記事というべきかもしれない。ま、私には面白かった。エピソードのなかに、金利がまともな社会で夫婦働きで貯蓄をすれば自然に億万長者になるという話があった。そうなのだろう。普通に億万長者にならなくても、それなりに貧乏にはならない、今のような日本であっても、と思う。
 ぼんやり考えた。二十代後半から五十に手が届きそうなくらい娑婆の空気を吸ってみて、自分の馬鹿でどれだけ損したかな。貯蓄心があるとか言ったわりに、顧みると、ところどころで大きな損をしている。総額で一千万円くらいか、もっとか。馬鹿だったな俺とか思うのだが、世間を見渡してみると、マクロ経済学的にと言うべきか(洒落ね)、普通の人でも娑婆に出て四半世紀していると一千万円くらいドジな損をしている。普通の人っていうか庶民ってそんなものなんだろう。計画通りにいかないとか、不運があるとか、騙されたりとか。もっと多いのは、小銭を垂れ流してビンボダンスか。逆に言えば、世の動きに聡い人、好機のある人、騙す人、小銭をマジで締めるられる人というのは金持ちになるだろう。
 うまくいけば、四十代後半で一千万円くらいの余剰ができそうなものだが、見渡すにそんな人は見かけないっていうか不動産化しているのだろう。「金持ち父さん貧乏父さん」(参照)のいう負債だな。あはは。起きて半畳寝て一畳。一畳も安くない。

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2006.06.15

日銀福井総裁の村上ファンド投資問題、只管傍観

 この話、近年になく私は野次馬。アルファーコメンテーター「うんこあらため私」さんくらいなスタンス。問題をすげー単純に福井総裁辞めろか辞めるなか、というと、心情的には辞めたほうがいいと思うが、そういう主張もしない。辞めるべき理はないと思う。福井総裁は無罪でしょとは思う。
 でこの騒ぎはどうよだが、ブログH-Yamaguchi.netのエントリ”いったいどうすりゃいいのさ”(参照)に同感。


いやそんなことは実際どうでもいい。それは本題ではない。私たちが必要としているのは「政権にダメージを与えるための、あるいは国民が溜飲を下げるためのつるし上げの対象」ではなく、「責任ある立場の人たちに課されるべき明快かつ公正なルール」だ。

 正論。この騒動も、ま・た・か、ではある。が、ブログの風景を見ると、あれ?という感じもする。面々が異様に熱い。
 東の大関はブログ「債券・株・為替 中年金融マン ぐっちーさんの金持ちまっしぐら」のエントリ”福井総裁・・・あなたもですか???”(参照)だろうか。ほいで、西の大関はブログbewaad institute@kasumigaseki”[BOJ]福井総裁は絶対に辞任すべきではありません”(参照)か。ぐっちーさんが心情的であるに対してbewaadさんは理詰めなので、bewaadさんの議論のほうが良いような印象は受けるのだ、が。
 がというのは、そういう枠組みで見るなら、ホリエモンも村上欽ちゃんも同じでねーのと私は思う。心情擁護・バッシング、理詰めの擁護・バッシング。庶民が見えてもはっきりしているように、そういう問題じゃなく線路は続くよぉどこまでもである。行き先がデッド・エンドでも耐震偽装問題みたいになんとなくごにょごにょにしてしまえばいいし、と。
 私としてはだからこの問題はこれからの社会ヒステリーとかそのスジの権力がどうゴリっと動くかということだけが気になる。というかもっとリアールに世界を見ると、そろそろエアバックのご用意をというか、バーナンキ耐久力テストぉというか、予言者に災いあれというか、かも。いずれ、別の要因が方向を決めるのだろうと思う。
 しいて個別の問題で見れば、日刊スポーツの”福井総裁、村上ファンド解約はなぜ2月”(参照)については若干もめるのでは。

 日銀の福井俊彦総裁が村上ファンドへ1000万円を投資していた問題で14日、解約を申し入れた時期が量的緩和解除直前の2月であったことが新たな問題点として浮上してきた。緩和解除で株式市場への資金流入が細り、ファンドの資金運用が難しくなる可能性があったためで、市場では「売り抜けようとしたと言われても仕方がない」(ヘッジファンド関係者)と、脇の甘さを問題視する声が出ている。

 それとブログ「半休眠ぶろぐ」のエントリ”福井総裁の話はさらに拡大?”(参照)に指摘されているが、これってまだ続くのかぁ?である。
 抑止があるとすればさすがに懲りた民主党も自分たちのえんがちょをめっけて、うひゃぁまじーとかですっこむか。
 野次馬的には、五味太郎「みんなうんち」(参照)みたいに、みんなえんがちょの光景を見たいと思う。どうでしょ? 今回は亀甲様もホゲているし、左翼もどうでもいいようなネタで安倍バッシングしているし。
 つうわけで、なんか貧乏人の怨念ここに炸裂みたいなワクテカ感もあるが、日本社会というかアドミニストレーターさんたちどこで抑えるか。その前に、世界経済クラッシュっていうのはやだなぁ。

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2006.06.14

Don't be evil. 邪悪になるな。

 Don't be evil. 邪悪になるな。ということだが、Googleという会社のモットーである。DO NO EVILのマントラとも言われる。英語版ウィキペディアにも項目がある(参照)。「ザ・サーチ グーグルが世界を変えた」(参照)などからよく知られているところだが、さっき届いた日本版ニューズウィーク記事”IT業界の優等生はどっちだ(Actions and Intentions)”にも簡単に由来が書かれている。


 グーグルで大事にされるのは自由な雰囲気。普通の大企業のようになることを恐れたある社員は、本社中のホワイトボードの隅に「邪悪になるな」という言葉を書きつけた。これが社訓となった。

 正確ではないかもだが、そんなところ。そのグーグルが邪悪になった。
 日本語で読める記事としてはITPro”米Google,自身が「evil」であることを認める ”(参照)がある。

 予想よりも早い展開だった。米Google共同創設者のSergey Brin氏は6月第2週,Googleが中国政府からの圧力に屈して「don't be evil(悪行にはかかわらない)」という信条を曲げ,同社の中国向けWebサイトで検閲を行った事実を認めたのだ。ところがBrin氏は過失を認めただけで,検閲をするという判断は見直さなかった。6月8日の時点で,Googleは中国向けWebサイトで検閲を続けている。ただしBrin氏は,進行方向を逆転させる可能性を示唆した。

 ブリムの言葉はテレグラフ記事”We may pull plug on our censored Chinese website, says Google”(参照)からも伺える。ITProの記事とは印象が多少違う。
 いずれせよ妥協だろという論の例はニューストレイツタイムズ記事”Just Sayin': Google and the fine art of compromise”(参照)にある。試訳を添えておく。

The question, however, is whether it's better to compromise for a greater good, which in this case is to engage with an authoritarian government to increase Internet services and usage in a rapidly developing nation, or is it better to be an absolutist and stick to one's convictions all the time.
(問題はよりよい善のために妥協するべきかということ。成長期にある威嚇的な政府に関わってネットサービスを広めるか、あるいはいかなるときであれ信念を貫き通すかということ。)

"We felt that perhaps we could compromise our principles but provide ultimately more information for the Chinese and be a more effective service and perhaps make more of a difference," Brin said.
(ブリムは言う、「私たちは原則に対して妥協していたかもしれない。でも、最終的に中国人により多く情報を提供すれば、よりサービスも向上するし、きっと今より違ってくるよ」)


 現実的にはそうであるしかないとも言える。ブログR30”世界観と経済圏”(参照)のエントリは私には理解しづらいが、おそらくそういう結果しかチョイスがないという前提で逆向きにそのビジネスを見ているのだろう。そしてあれって単に莫大なカネを巻き込むだけのものだったでしょ、ということなのだろう。
 カネがイコール、邪悪というわけではないが、邪悪になるなといってもビジネスにはビジネスのルールがあるものだ。そう見るなら、グーグルの「邪悪になるな」っていうのはご勝手にしてくれ的な宗教的な信念にすぎないということでもあるのだろう。
 で、終わりか?
 ニューズウィークの先の記事もこう最後に言い残す。

 夢想家の描く目標のようだ。いずれグーグルも、企業として成熟すれば、平凡な会社になるのではないか。自分たちが正しいという信念も薄れ、硬直的な組織への抵抗感も消えていくだろう。
 ただ、グーグルが絶対的に普通の会社にはならないという方針を守り続けたまま成熟していく姿を見たいものだが。

 そのあたりが世人の落とし所であろうし、私のように青春にケリを付けたような人間にしてみるとそういうチョイス以外ないようにも思える。
 だが、私は、違うよ、君たちは全然違うと言いたい気持ちがある。二つある。
 一つは、「Don't be evil.」は単なる宗教ではなく、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(参照)で古典的社会学者マックス・ヴェーバーが説いたようなエートスだろうということだ。これについては自分のなかで十分に言葉にはなってこないが、テクノロジーに関わる若い人間たちの独自なエートスが先進資本主義のなかで芽生えつつあると思う。
 もう一つは、「Don't be evil.」は普遍的に正しい命題ではないかということだ。このあたりもうまく言葉になってこないのだが、こちらは少し試みてみる。
 話を端折るために例を挙げるのだが、この数年、以前なら世論形成に関わるプロ市民たちの仕込みというのはなかなかバレづらかったが、グーグル的な世界の出現でそれに決定的な打撃を与えるようになった。そのため、プロ市民たちはグーグル的な世界を忌避しより強固なコミュニティに綴じ込められるという皮肉な結果になったのだが、それでも、グーグル的な世界はある邪悪を不可能にしてしまう。もっとも、この言い方は洒落であってプロ市民と限らずネット右翼でもいいだろう。ただ両者が対称性を持っているようには思えないが。
 これはグーグル的な世界が、どっかのお利口なジャーナリストが言うのとは異なった意味でフラットな情報世界を作り出しつつあるからだろう。フラットというのを手品に喩えたい。手品は観客を前に座らせてするものなのにこのフラットな世界ときたら、その後ろも同じように見せてしまう。意味というのが成立しづらい世界だし、人々は逆に意味を求め、その希求が各種のエートスへの希求を生み出す。そうしたなかで、おそらく選択可能なエートスは技術による「Don't be evil.」ではないのか。
 これに関連して思うのは、カントの「いかなるときも真実を言う」という命題だ。哲学者中島義道”「哲学実技」のすすめ―そして誰もいなくなった”(参照)が面白く説いているが、これほど徹底的にこのカントの命題が議論されているのを私は知らない。

 いや、幸福を真実と同じレベルで考えてはならない。いますぐに説明するよ。真実をいつでも貫き通すことはたいへん難しいのだ。だが、だからといって簡単に「しかたがない」と呟いていい問題ではない。このことをカントほど考え抜いた哲学者をぼくは知らない。
 ぼくは、三〇年以上カントを読んできたが、やっと最近ここに潜む恐ろしく深い根が見えるようになったよ。カントは殺人鬼に追われた友人を匿い、追手から「どこにいるんだ?」と聞かれたときでさえ、嘘を言うべきではないと断言している。友人を場合によっては殺しても嘘をついてはならないと確信している。友情よりも真理が断固優先すべきであることを確信している。
 この非常識なカントの見解は、予想通りたいへんに評判の悪いものであり、さまざまな人が「融和策」を出そうとした。しかし、ごく最近のことだが、ぼくはカントのこの嘘に関する議論は文字通り受け取っていいのではないかと思い始めた。

 カントのこの命題とグーグルの「Don't be evil.」はそのままではつながらない。別の話でしょとかツッコまれても、そーすっよね、洒落洒落とか言いそうになる。
cover
「哲学実技」のすすめ
そして誰もいなくなった
 でも、いかなるときでも「邪悪になるな」ということが人の仕事のエートスとなる可能性と、その持つ戦慄すべきかもしれない世界を見てしまった今、私はそちらのほうに賭けてみたい。なにを賭けるかはよくわかんないが(このブログかな)。
 グーグルが「Don't be evil.」を見放せば、「Don't be evil.」は新しいグーグルを生み出すだろう。

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2006.06.13

シンドラーエレベータ事故雑感

 シンドラーエレベータ事故の真相がわからないし自分の経験から思うこともあまりないが、少しだけ書いておこう。いつもにもまして有益なエントリではない。
 私は半田鏝でマイコン制御機器を作っていた世代ということもあり二十代後半世過ぎにその分野の仕事を少した。高度なメカ制御ではなく特殊なOA機器とかだったが、あの頃ついでにエレベーター制御の本なども読み、そこにオペレーションズ・リサーチが応用されているのを知って興味をそそられた。以降エレベーターで長く待たされているとどんなアルゴリズムを使っているのか考えることがある。
 今回の事件で、私が気になったのは制御系の問題ということはないだろうかということだった。私が制御機器開発をやっている頃ザイログ八〇が出てきて、割込もデージーチェーン方式というかソフト的になった。設計も変わった。これじゃハード屋は誤動作を簡単に追求できないかなと思ったものだ。もちろん設計はそんな単純ではないのだが。
 シンドラーエレベーターについて制御系に問題があれば世界中で同様の問題を起こしているはずだがと英米ニュースなどをあたってみたが見あたらない。が、JIN ビジネスニュースの「でたらめシンドラー 世界中で事故」(参照)という記事を見かけた。


 シンドラーエレベータ社製のエレベーターによる事故が、日本だけでなく海外でも多発していたことが明らかになってきた。にもかかわらず、情報開示も、徹底的な原因究明もせず、「当社の責任ではない」といわんばかりのコメントを出し逃げ回っている。あきれた体質に関係者の怒りは爆発寸前だ。

 世界中で事故というわりには数例で統計的なデータではない。その数例を読むと、これは制御系かなという印象も持つ。制御系に問題があればもっと大量の事故パターンが出るだろうと思うが、やはりよくわからない。
 最新の時事では”ブレーキ摩耗わずか=「制御盤」異常強まる-エレベーター死亡事故・警視庁”(参照)として制御が疑惑対象となっている。

 ブレーキは、アーム部分やばねにも異常がないことが分かっており、同課などは、ドアの開閉やブレーキを作動させる制御盤に何らかの不具合が生じ、事故を起こしたとの見方を強めている。

 最新の朝日新聞系のニュース”ブレーキのボルトに緩み 死亡事故エレベーター”(参照)ではメンテナンス及びメカニカルな原因説もあげられている。

 東京都港区の公共住宅で、都立高校2年の男子生徒(16)がエレベーターに挟まれ死亡した事故で、事故機のブレーキの部品を留めるボルトの締め付けが緩んでいたことが、警視庁の調べで分かった。同庁はこの緩みが事故につながった可能性もあるとみて、慎重に鑑定を進めている。

 二説出てきたのだが、朝日記事には制御系の問題の示唆もある。

 エレベーターは扉が開いていると動かない構造になっているが、事故が起きたとき扉は全開状態で、そのまま上昇。男子生徒が救出された後には、電源が切られた状態で、本来だったらその場でとどまるはずのかごが最上階を超えるまでに達したとされる。

 確かにこれはメカニックの不具合とは思えない印象がある。
 制御系に本質的な問題があるなんてことがあるのか、考えたくもないなという思いもするが、もしそうであれば問題の解明はかなり難しいだろう、そう再現可能な誤動作はしないはずだから。

追記(2005.06.14)
 十四日付け産経新聞”エレベーター圧死、ブレーキ異常が原因 ディスクに多数の傷”(参照)の情報が重要に思えた。
 制御系の問題ではなく、メンテナンスの問題と見てよいのかもしれない。


 警視庁でブレーキを分解して鑑定を進めたところ、アーム部分やバネには異常がなく、ブレーキパッドの摩耗も許容範囲内だったが、ディスクに新旧の無数の傷があることが新たに判明。これらの傷がブレーキの利きを甘くしたとみられるという。
 警視庁では管理会社がこれらの重大な傷を見落とした可能性があるとみて捜査するとともに、事故機などがトラブル続きだったことから、ブレーキ異常につながる構造的欠陥の有無について製造元の「シンドラーエレベータ」側から事情を聴いている。
 過去のトラブルについて管理会社間の引き継ぎがなかったことも明らかになっており、委託元の「港区住宅公社」の安全管理に問題がなかったかについても調べている。

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2006.06.12

中国の対外武器販売が世界の紛争を悪化させている

 BBCが十一日付けのニュース記事”China arms sales 'fuel conflicts' ”(参照)で、中国の対外武器販売が世界の紛争を悪化させているとするアムネスティ・インターナショナルの報告書を取り上げていた。国内ニュースが出ないようなら、また日本のアムネスティが例によって中国に配慮してか取り上げないようなら、少し極東ブログのほうに書こうかと思っていた。が、共同”中国の武器輸出非難 アムネスティ報告書”(参照)でベタ記事になっているようだ。


 同団体は、兵器の輸出入データを国連に提出するよう促す「国連軍備登録制度」への参加を中国が拒否していることなどを批判。武器輸出の情報公開に向け「国連安全保障理事会の常任理事国、また主要な武器輸出国としての責務を果たすべきだ」と指摘している。

 とりあえずそれだけ書いてあればマシなほうかな。ほいじゃ、今日のエントリはなし、とも思ったのだが、なんとなくだらっと書いておく。
 アムネスティ・インターナショナルによるオリジナルの記事は”China: Secretive arms exports stoking conflict and repression”(参照)である。試訳を添えておく。

China is fast emerging as one of the world’s biggest, most secretive and irresponsible arms exporters, according to a new report issued today by Amnesty International.
(アムネスティ・インターナショナルが今日発表した報告書によれば、中国は今日の世界において、秘密裏にかつ無責任に武器を輸出する最大の国家として急速に台頭してきている。)

The report shows how Chinese weapons have helped sustain brutal conflicts, criminal violence and other grave human rights violations in countries such as Sudan, Nepal, Myanmar and South Africa. It also reveals the possible involvement of Western companies in the manufacture of some of these weapons.
(この報告書によれば、中国発の武器によって、スーダン、ネパール、ミャンマー、南アでの残虐な紛争や犯罪的な暴力、人権侵害の持続が可能になっている。同報告書では西側諸国の企業が武器製造に関わっている可能性も明らかにされている。)

“China describes its approach to arms export licensing as `cautious and responsible`, yet the reality couldn‘t be further from the truth. China is the only major arms exporting power that has not signed up to any multilateral agreements with criteria to prevent arms exports likely to be used for serious human rights violations,” said Helen Hughes, Amnesty International's arms control researcher.
(「中国は武器輸出認可について注意深く責任を持って行っているとしているが、これほど事実に異なることはない。中国は、武器の輸出が深刻な人権侵害を起こさないようにするための、いかなる多国間条約も批准していない唯一の主要な武器輸出国である」とアムネスティ・インターナショナルの軍備管理研究員ヘレン・ヒューズは言う。)


 報告書”People’s Republic of China, Sustaining conflict and human rights abuses, The flow of arms accelerates”(参照)では次のように、ダルフールによる虐殺に中国輸出の武器が使われていることにも言及している。

For example, China has continued to allow military equipment to be sent to Sudan despite well-documented and widespread killings, rapes and abductions by government armed forces and allied military groups in Darfur.
(例えば中国は、スーダン政府軍や関連軍事グループがダルフールにおいて殺害、レイプ、誘拐を広げており、かつそのことが十分に文書化されているにもかかわらず、武器をスーダンに送り続けている。)

 ひどいもんだな中国はと言ってみても特にインパクトもない、またか、ということであろう。日本の左翼も経済界も仲良くこの問題には黙りを決め込んでいるし、Google様もお嫌いな話題というわけだ。
 子細に考えれば、中国も単一の国家の指導で武器商人をやっているというよりは、むしろそうした死の商人たちのコングロマリットを制御できないのだろう。

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2006.06.11

社会保険庁による国民年金保険料の不正免除問題がわからん

 社会保険庁による国民年金保険料の不正免除問題について私はよくわからないし、ブロガーにはakazawa namiさん(参照)のように専門家もいらっしゃるのだし(特に「社会保険庁改革案の成立と施行規則改正をめざせ」(参照))、特に私なんぞが言うことはないでしょ、と思っていた。今でもそう思っているのだが、ブログだしな、「わかんないよ」と言ってみてもいいかもしれない。
 わかんないのは私だけではないようだ。鳥越俊太郎もわかんないと言っていたらしい。話の枕にJANJAN記事”国会ウオッチ!・国会NOW:「偽造」は、やはり悪い 社会保険庁問題”(参照)を引く。


 社会保険庁の国民年金保険料免除「偽造」の問題は、制度が難しいと思われているためか、一般に理解が十分でないようである。というも、5月29日朝、テレビ朝日の情報番組で、コメンテーターの鳥越俊太郎氏が不正免除について「なぜ悪いのかわからない」と発言したのを当方がたまたま見て、びっくりしたからだ。
 内心、あなたはプロなんだからそんな発言をする前に自分でまず調べろよ、と思ってしまった。しかし、社会の仕組みに精通していると見られてきたはずの鳥越氏でそうなのだから、多くの人が必ずしも問題を理解していない可能性があるとも思い直した。

 この記事、鳥越さんがまるでわかってないじゃんと批判しているようだ。どうでもいいことだが、私は鳥越俊太郎という人にはまるで関心ない。なにを読んでもまるでピンと来ない。筑紫哲也だとなにを読んでも馬鹿だなぁと思うのに。
 解説が続くのだが。

 まず、「なぜ悪いのか」である。確かに、免除すれば低所得者だから払えないので助かるし、正式手続きをしておくことで将来の受給資格を失わない。免除期間分は、本来の年金受取額の3分の1と少なくなるものの、受給はできる。本人はいいかもしれない。しかし、その他の人に波及し、制度そのものがますます弱るのである。

 いや私にはまるでわからない。ビンボ人にやるカネはねーぜってこと?
 この先賦課方式の説明をわかってないでしょと話が続くのだが、おやまぁである。
 他にわかる話はないかと見ると、”国民年金の「免除」とは 暮らし「荻原博子の"がんばれ!家計"」”(参照)を見るに、私はますますわからない。

 国民年金の年金額は、79万2100円(平成18年度価格)。もし、今回の不正免除が発覚せずに、免除された10万人が3分の1の年金を受け取ると、最高で年264億円の給付額になり、そのぶん、私たちの将来の税金負担が重くなります。免除そのものは収入が少ない人のセーフテイーネットで大切な制度ですが、許せないのは、組織保全のためにこの制度を悪用したこと。社保庁など、さっさと解体し、年金は、公正な第三者機関が目減りさせないように守るべきでしょう。

 おばちゃんのおっしゃることがよくわからないのだが、ようするに、不正なやつらにわてらのカネを渡すのは許せんってこと? これが前半。
 ところが後半は別の理由がある。つまり、「組織保全のためにこの制度を悪用した」のがいけない? では、前半のほうはそれでもよいわけ?
 私の考えを書く前にこの仕組みなのだが、おばちゃんが言うように。

免除には、所得基準によって全額免除、4分の3免除、半額免除、4分の1免除があり、独身だと所得57万円以下(収入の目安は約122万円)は全額免除、あとはそれぞれ収入に応じた免除になります。

 ということで。
 ほいでだ、国民年金は、月額一万三八六〇円。年間だと、十六万六三二〇円。所得五十七万円の人が約十七万円、そもそも払えますか? 払えるわけないじゃん。そうでなくても国民の三分の一は払ってもいない。
 今回の「問題」、不正免除とか言うけど、現実的な話、「正当に免除しない」っていうチョイスなんかないでしょ? こんなの免除するしかないわけで、それを何を騒いでいるのか、私は皆目わからない。免除にあたり、本人の署名・捺印が必要なのにそれをしなかったのがいけないとも聞くが、ほんとかね。
 この問題は、荻原おばちゃんの言う「組織保全のためにこの制度を悪用した」ということが問題で、つまり、社会保険庁の政治的な問題なんじゃないか? もともと知事に属するのか国に属するのかよくわかんない組織だしなどなど。
 話の向きを個人的な思い出話にする。
 私が十年くらい前だが沖縄にぶらっと流れていったとき、また来たか貧乏ないちゃー、国民年金払えるのかという感じで地域の組長さん?区長さん?のオジーが心配してくださったことがあった。よくわかんないのだが、毎月そのお宅に行って払うようにということらしい。沖縄ってそうなってんの?と思った。年度が変わりいつもどおり私は一括支払いをしたのだが先のオジーがまた心配してくれた。ついに支払えなくなったかと思ったようだ。いや、一括支払いした、そのほうが安いでしょと答えると、オジーびっくりしていた。ないちゃーは何を考えておる、という感じ。
 あの時思ったのだが、こうして国民年金徴収は地域の末端まできちんとコミュニティが機能していたのだなと知った。ということは、払えない人たちへの配慮もその中でなされていたに違いないと私は思った。
 その後、〇二年だったか、徴収事務は市町村から国に移った。これはひどい事になるだろうなとあのころ思った。正確な数字は覚えていないが、徴収率は激減したはずだ。そりゃそうだろ。
 今回のいわゆる不正免除問題はこの徴収の切り替えのエフェクトなのではないかと思うが、そのあたりもわからないといえばわからない。

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