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2006.06.10

電子レンジで作るえびせん(ってかパパダム)

 ビールの季節だ。つまみは?と考えて、知人からもらったインドネシア土産のえびせんを電子レンジでチンと作ってみた。うめー。ヘルシー。

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 酒はもう飲めなくなっていたのだが、昨年あたりから少しくらいならワインとかビールが飲めるようになった。といってももともとビールとか好きではないのだが、キリンの豊潤(参照)とゴールデンホップ(参照)ならなんとか。
 えびせんの作り方だが、パパダム一枚を電子レンジ強(五〇〇Wくらい)で一分、チン。ほいでできあがり。マジそんだけ。ついでに中国版の小さいえびせんチップを四枚を同じく一分、チン。これもできる。

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 それではあんまりなので、吉田よし子先生の「マメな豆の話―世界の豆食文化をたずねて(平凡社新書)」(参照)より。


 インドネシアの食卓には、油でパリッと揚げたえびえせんが欠かせないが、インドの食卓にも油で揚げた豆せんべい、パパダムが欠かせない。薄焼きせんべい状のパパダムはパパア、パパドなどとも呼ばれる。スパイシーで香ばしい食欲増進剤としてそのまま食べたり、もんでカレーの上からご飯にかけて食べたりするが、これも基本的にはウラドダルやムーンダルと米粉、そしてアサフォティダ、コショウなどのスパイスと塩で作られている。

 基本は揚げるのだが。

ただほんの数枚を揚げるのに油を熱するのが面倒で、家庭では作りにくかった。
 ところが最近、電子レンジに二〇秒から三〇秒入れるだけで、パリパリのパパダムができることがわかり、簡単でしかもカロリーが低いのが受け、急激に普及している。イギリスあたりでもインド人の野菜カレー屋などに行くと、カレーに添えられているのは、どこでも電子レンジで焼いたパパダムになった。

 というわけ。実際には、物にもよるけど一分くらいがよい。ま、最初は三〇秒とかでやってみて、調節すると勘がわかるだろう。
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マメな豆の話
世界の豆食文化を
たずねて
 あ、で、パパダムなんだが楽天とかにないわけではない。パパダムプレーン(参照)やプレーンパパド(参照)。ただ、エスニック食材屋とか覗けば見つかると思う。

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2006.06.09

カレーについての断章

 私はカレーについて思うのだが、その社会的な存在について、特にその様式についてと言うべきかもしれないが、私が自身を人間的存在であると捉え、同様に他の人間(他者)について思うことと同じく、特に好悪というものはないのだが、いろいろと思惟を促す何かをもっていると確信するのだが、まとまった散文をもってまとめることができない。以下は、カレーについての断章である。


  • カレーが好きだと公言する日本人が多いのはなぜか。この現象は日本の政治制度など制度、さらに歴史に関連しているのだろうか。
  • 私が半世紀にわたる観察の結果知り得たのは、日本の官僚とはカレーを主食とする人間的存在である。だが、彼らが、その職務に対するのと同様、それを好んでいる風はない。
  • カレーを主食とする類似の存在に、政治家がいる。だが彼らはただカレー食っているだけで、カレーを食ったという記憶ももっていない。カレーと政治家の脳にはなにか関連があるのだろうか。
  • カレーを主食とする第三の存在が弁護士である。いや日本の司法の大原則はカレーを食うことであるかもしれない。憲法にカレー・コードとして記載されている。
  • 本格カレーはインドには存在しない。シャングリラに存在するという説もあるが、にわかには信じられない。
  • 日本人はカレーをカレールーから作る。カレールーは日本にしか存在しない。
  • カレールーの主要成分は油脂である。牛脂なのか水素添加硬化植物油なのか不明。
  • 私は海軍式カレーを二度ほど作り失敗した。レシピに本質的な欠陥があるのではないか。
  • 私はカレーをブラウンソースにカレー粉を入れて作る。
  • カレー粉は、クミン、コリアンダーを等量、ターメリックはその半分を混ぜるとできる。これに辛みとしてカイエンヌを適当に加える。
  • 私がおいしいと思った唯一のカレーはキクヤ(参照)のカツ・カレーである。
  • 私はコルカタの中産階級の家にステイして本格インド料理を食べたことがある。カレーは出てこないというか全部カレーというか、微妙。
  • ベンガル地方ではナンを食べない。日本のインド料理屋にナンが出てくるのはナンでなの?とか言ってみるテスト。
  • タイカレーはヤマモリのレトルト(参照)がうまいと思う。
  • カレーライスかライスカレーかを論じることに興味を持つ世代があり、うんこ味のカレーかカレー味のうんこかを論じる世代がある。
  • 沖縄暮らしが長かった私はオリエンタル・マース・カレー(参照)をよく食べた。別段おいしいわけではない(まーさこーねーん)。
  • 沖縄暮らしが長かった私はボンカレー(参照)をよく食べた。これははっきり言って、まずい。
  • 意外だが、ボンカレーパン(参照)はうまい。激辛がよい。
  • ボンカレーといえば松山容子(参照)である。松山容子と言えば品川隆ニである。品川隆ニといえば近衛十四郎である(涙)。
  • 松山容子と松坂慶子を正規表現で表すと 松\.+?子 であろうかって、カレーとは関係ないな。
  • カレーチャーハンをやたら簡単に作る方法は、市販カレールーを一かけフライパンに入れ、熱してとろっととけたところに卵と飯を入れてまぜることだが、別段うまくはない。
  • インド式のカレーを作るにはタマネギをよく炒めろというのだが、インドで実際の現場を見てわかったことは、これができるのは雇い人がたくさんいる家庭でないと難しいかもということ。
  • 椎名麟三は中村屋のカレーが好きだったと知って食べに行ったことがある。青春の思い出。味はまあおいしいの部類。
  • 私はほうれん草カレーをときたま作る。若いとき、赤坂のタージで食べたのが最初。タージのインド料理は日本人の口によく合う
  • インドでダールのカレーっていうかカレーっぽい味のダールを好んで食っていると、インド人が、それはよいそれは健康によいといって褒めてくれた。ちなみに、トルコでルコラをしこたま食っていたら、トルコ人が、それはよいそれは健康によいといって褒めてくれた。
  • 五色納豆は好きだが、納豆入りカレーについては考えたくもない。ってか、書きたくもないのだが、書けというオブセッションを覚えるのは私が疲れているからか。
  • 人と松屋のカレーを食ったことがある。あとで、ちょっと気持ち悪くなった。一緒に食った人もそうだった。なぜだろう?
  • カレーうどんを時たま食う。またしてもヤマモリのカレーうどん(参照)がうまい。いい醤油使っているからであろうか。
  • カレーに添えるものはチャツネより福神漬けであるが、先日買った福神漬けは真っ赤ではなかった。赤くないとまずい感じがするのはなぜだろう。
  • 内村鑑三はカレーに砂糖をかけて食ったという話を聞いたことがある。本当だろうか。カレーに砂糖をかけるとどんな味になるのだろう。甘い?
  • カレーの木というのがある。木にカレーが実るのだ。嘘ぴょん。
  • 一三四七年イギリス王工ドワード三世はフランス北部の港町を包囲し、市民にカレーを食うことを強要した。市民は特にカレーが嫌いそうな六名を選んでカレーを食わせることで攻撃の中止を提案したという。これがきっかけになってフランスにもカレーが普及した。

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2006.06.08

日本憲法は会社の定款と同じ

 シリーズでお届けする民主主義と憲法、第四回は……ない。まったくないわけでもなくて、「日本国憲法はそれ自体が市民革命である」という命題が成り立つか時折考えるので、この間似たようなテーマのエントリが続く中、これも考え直したのだが、よくわからない。一番よくわからないのは、大日本帝国憲法下の日本もそれほどデモクラシーに反していないことだ。
 大日本帝国憲法において天皇は明白に国家の機関であったし(中野学校でもそう教えていた)、その憲法下でそのまま日本を民主主義国家としてなにがいけないのか。つきつめるとわからない。いわゆる戦前の日本は軍国主義とか言われるが、別段そうでもない。統帥権問題も誤解ではないかと思えることもある。その意味で敗戦によって憲法を変える必要があったのかと、これもあらためて考えると、まあそれが敗戦ということだ。変わってしまったのは歴史の事実であり、しかたがない。どう変えたのかについ関心が向く。
 憲法とはなにか? 私はこの問いにこう答えるといいのではないかと思う。憲法とは、日本を会社に見立てるとその会社定款である、と。そう思うのは、よく会社定款についてそれが「会社の憲法」のようなものですと説明されるからだ。これは、逆に憲法を会社定款で説明したほうがわかりやすい。
 会社は誰のものか。村上欽ちゃんが言うように、株主のものだ。というのと同じように、日本という国家は、その株主に相当する国民の所有物だ。では、配当というのはあるのか。ある。日本国家も利益を国民に配分するためにある。もっとも日本国も運営しないと利益を生まないから、その経営者が必要になる。それが政府だ。
 冗談のように聞こえるなら、日本国憲法がよく読まれていないからだ。「極東ブログ: 試訳憲法前文、ただし直訳風」(参照)をまた引用する。


【第2文】
Government is a sacred trust of the people,
 政府は国民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。

the authority for which is derived from the people,
 その(政府の)権威は国民に由来する。

the powers of which are exercised by the representatives of the people,
 その権力は国民の代表によって行使される、

and the benefits of which are enjoyed by the people.
 だから、それで得られた利益は国民が喜んで受け取るものなのだ。


 政府というのは、株主が会社の経営を経営陣に委託したようなもの。日本国の所有権は株主に当たる国民にある。ほいで、そのベネフィット(利益)は国民に配当される。日本国という国家は、株式会社と基本的に同じようにできている。
 ライブドア事件では多くの株主が株価下落によって不利益を被った。では、日本国のオーナーである日本人にとって株券に相当するのは何か? それは私たちひとりひとりのリソース(財産など)だ。これも憲法にちゃんと書いてある。

【第9文】
We, the Japanese people, pledge our national honor
 私たち日本人は以下のことに国家の威信を掛ける

to accomplish these high ideals and purposes
 そのことは、このような高い理想と目的だ、

with all our resources.
 そのために私たちの全財産と制度を担保としてもよい。


 つまり日本国民は身銭を切って日本国の理想という株券を買ったというのだ。これが転けたら、株価が下落するように、担保の身銭がなくなるのである。
 最悪の事態はひどいもんだとも言えるが、日本国憲法ができる前は、株主たる日本人がまるで日本国の経営にタッチできないどころか、経営陣にひどい目に遭わされたという認識が、日本国憲法には書かれている。第一文の終わりのほうだ。

and resolved that
 またこう決意した、

never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government,
 その決意は、政府の活動が引き起こす戦争の脅威に二度と私たちが見舞われないようにしようということだ、


 ここでの歴史認識は、太平洋戦争(大東亜戦争)というのは政府が勝手に起こしたもので、そのために、日本人は被害にあったというのだ。
 ここの含みは、日本国憲法が成立する前は、国家のオーナーが十分に日本国民ではなかったということなのだろう。
 すると、日本国憲法成立を挟んで、歴史は、国民がオーナーではない国家から、国民がオーナーの国家に変わったということになる。これは、そのままべたに考えれば「日本国憲法はそれ自体が市民革命である」ということになる。
 ただ、リアルな歴史を見ていると、戦前の日本も民主主義でなかったわけでもないのだから、日本国憲法が市民革命で、米国様のおかげで市民革命ができました、というのは、普通の日本人の感覚としては、いかがなものでしょう的ではある。
 いずれにせよ、日本国憲法では、日本国のオーナーは国民であるし、民主主義というのはそういうものだということで、government of the peopleは、国民が日本国に含めて政府を所有しているというふう読まないと、その配当益がなぜ生じるのかもうまく説明できない。
 さて、この憲法を日本人は今後も継続するべきか。個人的には、それでええんでないのと思う。帳簿に記載漏れした裏金みたいな軍隊を維持するために現行の九条をこのまま放置せよという物騒な勢力も多いが。それでも、読売新聞のように憲法を根本から勘違いしているよりは、このままのほうがマシだろう。
 憲法のルールとしての目的は政府の権力を限定することにある。なぜそうなるかというと、くどいが、日本国の所有者(国民)と施政者(政府)が本質的に分離されているからだ。この分離があるから、権力委譲について厳格な取り決めが必要になる。
 日本国憲法は、文書としてはもはや歴史文書に過ぎず、直接的な法源としては半ば死んでいると言ってもいいだろう。実質上の憲法はこの六十年間のログの追加分もあれば十分だ。プログラムと同じで最新仕様書がなくてもバージョン改変履歴があれば事足りる。憲法はべたに成文法である必要はない。

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2006.06.07

スキナー(Burrhus Frederic Skinner)と日本国憲法

 池沼とかブレーンストーミングとか言われているし。どさくさ紛れに今回はかなりトンデモかもしれないがこの間考えていた日本国憲法の謎について書いておこう。結論を先にいうと、日本国憲法にはスキナー(Burrhus Frederic Skinner)(参照)の思想が込められているというもの。仮説だ、もちろん。誰か他にこのことを研究している人がいたら教えてくださいませ(井の中の蛙?)。
 バラス・フレデリック・スキナー(Burrhus Frederic Skinner)は一九〇四年生まれの米国の心理学者。その立場は行動主義心理学(参照)と呼ばれている。日本版のウィッキペディアには行動主義心理学についてごく簡単な解説がある。


行動主義心理学(こうどうしゅぎしんりがく)は、意識は客観的に観察することができないので、刺激や反応といった観察可能な概念によって人間の行動を研究していこうとした心理学の一派である。

 とりあえずそういうことだが、スキナーと言えば日本ではオペラント条件づけ(参照)が有名なので、スキナーの思想というのは、もし彼に政治思想があるなら、そういうものの延長であるかと考える人が多いのではないか。あるいはスキナー箱の忌まわしいエピソードなどを思い描くかもしれない(チョムスキアンとか)。そういう連想もあながち間違いとも言えないかもしれないが、むしろスキナーにとっては人間の行動の基礎原理自体が前提としてオペラント条件づけのように捉えられていた。
 スキナーの政治思想については、英語版のウィキペディアのPolitical Views(参照)が簡素にまとめている。

Political Views
Skinner's political writings emphasized his hopes that an effective and humane science of behavioral control - a behavioral technology - could solve human problems which were not solved by earlier approaches or were actively aggravated by advances in physical technology such as the atomic bomb. One of Skinner's stated goals was to prevent humanity from destroying itself.

 人間と人間の間の諸問題を解決する行動技術としてのコントロールという考え方に着目してほしい。このやや珍妙な考え方こそ、日本国憲法の前文に該当するとしか私には思えない。「極東ブログ: 試訳憲法前文、ただし直訳風」(参照)からあえて引用しよう。コントロールというキータームが目立つようにした。

【第5文】
We, the Japanese people, desire peace for all time
 私たち日本人は常時平和を望み、

and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship,
 人間関係を制御(コントロール)する高い理想というものを深く意識して、

and we have determined
 以下のことを決定事項とした、

to preserve our security and existence,
 私たちの安全と生存の保持は、

trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.
 平和を愛する世界の国民の正義と信頼に委託しよう、と。


 日本国憲法は、人間と人間の間の諸問題を解決する行動技術としてのコントロールが強く意識されている。コントロール(制御)という技術的な視点が一般的な法学的な文章とは異なり、非常に奇妙な印象を与えている。
 ここで、先のスキナーの政治思想についてだが、人間の諸問題を解決するのは技術であるという発想に加え、原子爆弾のような技術では人間の諸問題は解決されないのだとされていることに留意してほしい。スキナーは、威嚇を人間のコントロール原理としては捉えていない。彼が理想というか究極の目的としたのは、人類が人類を滅ぼさないためにはどうしたらいいのかという実践的、具体的な課題=理念だった。当然、この理念こそが人間と人間の間のコントロールの究極にあると延長して考えられ、まさにそこが日本国憲法のこの第五文と同じになっている。
 先の英文の先ではこうなる。

Skinner saw the problems of political control not as a battle of domination versus freedom, but as choices of what kinds of control were used for what purposes. Skinner opposed the use of coercion, punishment and fear and supported the use of positive reinforcement.

 人間と人間が滅ぼし合わないようにするには、自由のために生死をかけるのではなく、コントロール技術を用いるべきだというのだ。そして、そのコントロールというのは威嚇や恐怖でなく「ポジティブなリインフォースメント(positive reinforcement)」というのだが、これは人間と人間との関係性の文脈にあるのだから「善意と相手の信義の確認と再確認」と言ってもいいだろう。ここでも、日本国憲法の第五文の理念がそのまま浮き出ている。
 私はトンデモなことを言っているのだろうか。嘲笑するのはブログのご自由にだが、その前に日本国憲法の原文・英文とスキナーの思想を照合してからにしていただきたい。
 私にはスキナー思想と日本国憲法のコントロール原則は、偶然の一致だとはとうてい思えない。この思想は、一般に言われる平和思想ではなく、人間行動をいかに外在的にコントロールするかという技術的な思索の一つの結果である。
 この一致がもし偶然でないならば、前提として日本国憲法が成立した時代とスキナー思想の時代が合致する可能性を見ていかなくてはならない。
 スキナーの生涯で目立つのが、彼による理想世界の小説的Walden Two(参照)だがその出版は一九四八年。なので、これは日本国憲法が公布された一九四六年より後となる。Walden Twoが単純に日本国憲法に影響したということはありえない。むしろWalden Twoは日本の戦後教育的な気味の悪さを持っている。
 Walden Twoがべたに日本国憲法へ影響ということはありえないが、それでも日本国憲法とスキナー思想には同時代的な近接性があるとは言える。当時の最先端的な科学思想・軍事思想として、スキナーの思想がなんらかの経路で日本国憲法に取り込まれているという可能性はある。

Additionally Skinner felt behavioral technology would offer alternatives to coercion, good science applied right would help society, and we would all be better off if we cooperated with each other peacefully. Skinner's novel has been described by Skinner as "my New Atlantis" referring to Bacon's utopia.

 戦後の日本国とはそうしたNew Atlantisとなるように仕組まれていたのではないか。そしてその失敗はまさにスキナー思想の末路という点でもほぼ同型になっている。

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2006.06.06

人気、人形、人情、人数、人間、人民(にんみん)

 昨日のエントリ”極東ブログ: 国民による国民のための国民の政府”(参照)でいろいろ愉快なコメントをいただいた。歴史認識についてはゆるりと議論すればいいし、他の意見の相違の類は面々のおんはからいにするがよろしかろう、多事争論ではあるが、にしても基本的な部分でテキストが読まれてないっていうか、昨今の人は言葉の持つ歴史の感覚っていうのはなくなっているのかなと思うことはあった。特にこれ。


どうせ「人民はアカっぽい」とかいう意図を込めてるんだろうが、ミエミエ。finalventなんてミラーワールドでモンスターに喰われちゃえ。

 妄想メソッドやんとか言わない。左翼って私の知らない本心とか批判してくださるのがテンプレだし、その土俵は野暮過ぎ。そんなことはどうでもいいのだけど、”どうせ「人民はアカっぽい」”という発言にちとびっくりこいた。エントリを読んで貰えばわかると思うけど、「これは近代日本の造語ではないのか?」という近代の歴史時間の感覚が伝わらないのだろうか。「革命」が易姓革命の「革命」から来ているわけではないと補足までしたように、こうした近代造語は明治期のものでしょうっていうのが伝わらないのだな。
 「人民」という造語・訳語が明治期に創造されたとすると、山路愛山(参照)とかを思うに、明治時代であっても後期だろう。しかし、「人民の人民による人民のための政治」はリンカーンだし、福沢諭吉なんかに近い時代の地層に属しているだろう。
 いずれにせよ、左翼用語だから批判しているのだろうというありえない妄想ミラーワールドのfinalventはモンスターに食われるが吉。
 なんだかなと思ってみたものの、あ、そーかと思い至った。いやいや妄想メソッドでもなんでも多事争論で喚起されるものはあるもんだ。「人民」って「じんみん」じゃないな、「にんみん」だな。日本語の「にんみん(人民)」が西洋文化訳語的に利用され、音変化し「じんみん」となったのだろう。こういうのはよくある。「人身(にんしん)」「人畜(にんちく)」「人事(にんじ)」「人道(にんどう)」「人徳(にんとく)」「人馬(にんば)」「人面(にんめん)」。余談だが私の子供のころはまだ万葉集を「まんにょうしゅう」と読んでいる人がいたもんだ。
 宣長先生秘本玉くしげに曰く。

むかしより外国共のやうを考ふるに、広き国は、大抵人民も多くて強く、狭き国は、人民すくなくて弱ければ、勢におされて、狭き国は、広き国に従ひつくから、おのづから広きは尊く、狭きは卑きやうなれども、実の尊卑美悪は、広狭にはよらざることなり、そのうへすべて外国は、土地は広大にても、いづれも其広大なるに応じては、田地人民はなはだ稀少なり、唐土などは、諸戎の中にては、よき国と聞えたれども、それすら皇国にくらぶれば、なほ田地人民は、はなはだ少くまばらにして、たゞいたづらに土地の広きのみなり、

 「人民」という言葉は、「田地人民(でんちにんみん)」というふうに日本語としては使われてきた言葉で、むしろそう考えると、定訳「人民の人民による人民のための政治」がおそらく明治時代に与えたインパクトが想像できる。
 宣長先生は実際はけっこう近代人だが、「人民(にんみん)」の語はいつからあり、どのような意味の変遷をしていたのかと見るに、いずれ呉音だから仏教だろう。法蓮華経安楽行品には「王、兵衆の戦ふに功ある者を見て即ち大に歓喜し、功に随つて賞賜し、(中略)を與へ、或は種々の珍寶(中略)瑪瑙、珊瑚、琥珀、象馬、車乗、奴婢、人民を與ふ。」とあり、奴婢に対する王の所属の概念ではありそうだ。儒学・儒教の線はなかろうというのも論語では「民人」としている。
 さらに見ていくに、神皇正統記にこうある。神皇正統記というのは昨今のウヨサヨ誤解しまくっているがかなり面白い本である。

他人の田種をさへうばひぬすむ者出て互にうちあらそふ。是を決する人なかりしかば、衆共にはからひて一人の平等王を立、名て刹帝利といふ(田主と云心なり)。其始の王を民主王と号しき。十善の正法をおこなひて国をおさめしかば、人民是を敬愛す。閻浮提の天下、豊楽安穏にして病患及び大寒熱あることなし。寿命も極て久无量歳なりき。民主の子孫相続して久しく君たりしが、漸正法も衰しより寿命も減じて八万四千歳にいたる。

 これって「民主」という言葉にも大きく関わるわけなのだな。つうか、日本の民主主義というのが天皇主義と調和するというのは依然べたに神皇正統記の世界つうことか。がびーん。

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2006.06.05

国民による国民のための国民の政府

 明け方ぼんやりしていていて、ふと、"government of the people, by the people, for the people"の定訳、「人民の人民による人民のための政治」(参照)が誤訳なんじゃないか。なんで「人民」なんだ?と思った。the peopleは、単純な話、「国民」でしょ。
 日本だと、日本国があって、国民がいて、政府がある。で、この、"government of the people, by the people, for the people"というのは、政府というもの性質が、"of the people"国民に所属する、"by the people"国民が運営する(たぶん委託する)、"for the people"受益者は国民である、ということなんじゃないか。
 もう随分前になるが、「極東ブログ: 試訳憲法前文、ただし直訳風」(参照)を書いたことがあるのだが、あれは意味の違和感を浮き上がらせるためにわざとらな直訳にしたのだけど、あの前文のここ。


【第2文】
Government is a sacred trust of the people,
 政府は国民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。

the authority for which is derived from the people,
 その(政府の)権威は国民に由来する。

the powers of which are exercised by the representatives of the people,
 その権力は国民の代表によって行使される、

and the benefits of which are enjoyed by the people.
 だから、それで得られた利益は国民が喜んで受け取るものなのだ。


 は、実は、べたに"government of the people, by the people, for the people"なんですな。つまり。
 "of the people"国民に所属する、が、「その(政府の)権威は国民に由来する」で、この権威というのは所有権。
 "by the people"国民が運営する(たぶん委託する)、が、「その権力は国民の代表によって行使される」。
 "for the people"受益者は国民である、が、「それで得られた利益は国民が喜んで受け取るもの」
 で、この"government of the people, by the people, for the people"の根幹にあるのは、government=政府、っていうのは、国民=the peopleの、委託物(トラスト)ということ。
 委託というのは、所有権は国民が持つが、施政権は政府が持つということ。このあたりのからくりは、「極東ブログ: 領有権=財産権、施政権=信託」(参照)に書いたことがある。このときの要点の一つがこれ。

つまり、元来、領民と領土は王のものであったが、市民革命によって、領民と領土は国民の主権に収奪された。しかし、国民=主権というのは、概念的なものなので、実際に国家の経営は、信託としてつまり施政権として、政府に貸与されているのだ。

 話を戻して、"government of the people, by the people, for the people"のthe peopleをなんで「人民」と訳したのだろう? 誰がこんな訳を付けたのだろう。ネットを調べてみたがよくわからない。
 そういえば、先日、胡錦涛訪米の際、米政府がナイスジョークで、Republic of Chinaと言ったが、それは中華民国=台湾。中華人民共和国は、People's Republic of China。で、ここに poepleが入っているのは、中華人民共和国をベタに訳してみましたというより、poepleの語感にsovereign が kingではないという含みがあるのだろう。語感としては、このPeople's Republic of Chinaのpoepleはやはり国民=民族であり、漢民族ってやつなのだろう。なので、諸民族は一応文化的には諸民族に認めるけど、国家に所属する国民=漢民族化を進めてしまう。
 この「人民」という一風変わった訳語がなにに由来するのかわからないが、これは近代日本の造語ではないのか? とすると、「中华人民共和国」の「人民」というのは日本語に由来するのではないか。このあたりもよくわからんところだ。ちなみに、「革命」というのは明確に近代日本語。近代中国の「革命」は易姓革命の「革命」から来ているわけではない。
 調べているついでに、"government of the people, by the people, for the people"の元ネタ、ゲティスバーグ演説の岡田晃久+山形浩生訳というのをめっけた(参照)。で、こうなっている。

It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us -- that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion -- that we here highly resolve that these dead shall not have died in vain -- that this nation, under God, shall have a new birth of freedom -- and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.
 
ここにいるわれわれの使命とはむしろ、かれらが最後の完全な献身を捧げた理念に対し、この名誉ある死者たちから一層の熱意を持って、われわれの前に残された偉大な任務に専念することなのです。その任務とは、あの死者たちの死を無駄にはしないとわれわれがここに固く決意し、この国が神のもとで新しい自由を生み出すことを決意し、そして人々を、人々自身の手によって、人々自身の利害のために統治することを、この地上から消え去さらせはしない、と決意することなのです(*2)。

 でこの(*2)が面白い。

(*2) government of the people, by the people, for the people. 「人民の、人民による、人民のための政府」と訳すのがふつうなんだが、なんとなく耳あたりはよいのでみんな流してきいてしまう一方で、これがどういう意味かをきちんと考え、説明できる人は少ない。特にいちばん最初の「of the people」の部分。ふつうはみんな、「人民の」というので、「人民が所有する」という意味だと思っている場合がほとんど。そうではなく、これは統治される対象が人民であることを指しているのだ。

 アメリカ建国以前の政府というのは、人民(という統治される対象)を、官僚や貴族たち(という統治する主体なり実体)が、王さまや教会(という統治の旗印なりなんなり)の利害のために支配する、という形態だったわけだ。それとの対比で考えてもらうと理解しやすいかと。


 というわけで、岡田晃久+山形浩生訳でも、the peopleは国民と訳されていない。「人々」とかになっているが、私の日本語の語感では「多様なる各人」みたいなもんというか「面々のおんはからいなり」の「面々」に近い。the peopleの語感とはけっこう違う。ま、これは日本語の感性の問題かも。
 で、ほぉと思ったのは、この注釈、of the peopleを、「統治される対象が人民であることを指しているのだ」としている点だ。そういう考えがあるのかいなとちょっと考えたけど、日本国憲法とかのべた性を見ても、西洋国家論のスキームを見ても、これは国民の所有ということでしょ。
 え、山形浩生訳にケチをつけると恐いってか。いえ、ケチなんか付けてませんてば。お好きなかたはお好きな解釈でどうぞ。面々のおんはからいなり。

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2006.06.04

出生率向上は米国にも学んだら

 少子化の議論はもうおなか一杯です的腹膨るる業だが、先日発表された今年の合計特殊出生率一・二五関連の話をメディアとかで読んでいて、あまりに物言わざるもなと思いちょっと書く。わかりやすく書くとどっと非難を浴びそうだが、それほど物騒なネタでもないし、亀甲様には及びもせぬが馬鹿呼ばわりされるもブログの芸の内。
 話の枕は毎日新聞社説”1.25ショック サバ読み年金設計は出直せ”(参照)。社説としてはどうでもいいような内容だが、次の部分にカチンと。


 日本の出生率は世界の先進国ではドイツ(1.34)イタリア(1.30)と並んで最低レベルだ。米国は97年に1.97で底を打ってから上昇傾向に転じている。最大の要因は移民のヒスパニック系住民が原動力になっていることだ。フランス(1.89)は先進国の中で米国に次いで高い。手厚い家族給付と行き届いた育児サポートに起因すると言われる。

 どう読むかね、これ。出生率向上に成功しているのは米国だが、米国に学ぶのやめましょってことか。
 米国の出生率向上は、移民のヒスパニック系住民が原動力だから、日本の鏡にはならん、とか言う。ここで私がOKOK牧場とか言うと、移民受け入れはいかーんという毎度のパターンをやる? やらないよ。
 まず、事実として、米国は出生率向上に成功している。ガチ。で、じゃ、それは移民のせいか?
 敬愛するローバート・サミュエルソンのコラム「アメリカだけが少子化しない理由」(日本版ニューズウィーク5・31)ではこう。

 アメリカの出生率は2・1と、ほぼ人口を維持できるレベル。ヒスパニック系の出生率が高いからだという声もあるが、アメリカン・エンタープライズ研究所のニコラス・エバースタットによれば、非ヒスパニック系の白人で1・9、アフリカ系アメリカ人で2だ。

 一応留保するのだが、この報告が統計学的に正しければ、米国出生率を支えているのは移民だ論はぽしゃる。私も米国人口増加はヒスパニック系だと思っていたのだが、確かに人口全体から見ればそうなのかもしれないが、出生率という点でみるなら、所謂白人でもそう低くないようだ。
 その前提でサミュエルソンに沿って話を進めるのだが、じゃ、なぜ米国の出生率が高い? というか、どうもそのあたりで、現代日本人というか、ブログとかジャーナリズムでタブー化してやんな的なものがうっすら見えてくる。
 それを見ないでやる議論の典型はさっきの毎日新聞社説も同じだが、こんな感じ。

 出生率の急落の原因は、ある程度わかってきている。よく指摘されるのは、所得の増加、健康と平均寿命の延び(子供の生存率向上による少子化)、都市化の拡大(農作業に必要な子供の数が減少)、女性の教育や雇用機会の拡大、避妊、晩婚化、非婚化、それに離婚の増加がある。

 ともう食えない的に列挙されるのだが、これにこう続く。

 しかし、それだけでは説明できない。アメリカという重要な例外があるからだ。

 例外といっても、重要な例外としての米国の出生率だ。そして、それは移民というだけではなさそう。では、何か?
 サミュエルソンはエバースタットをひいて、それは愛国心だと言う。げっ!
 でも、そうなのではないのか。

 それを裏づける証拠もある。シカゴ大学全国世論調査センターが33カ国で実施した調査では、「他のどんな国よりも自国の国民でありたい」と「強く思う」と答えた割合がアメリカでは75%、ドイツ、フランス、スペインではそれぞれ21%、34%、21%だった。

 なんだか悪い冗談を書いているような気持ちもちょっとするが、案外そういうことなんじゃないのか。昨今の教育基本法で愛国心がどうたらとくだらねー議論をしているのは、当為としての愛国心であって、事実としての愛国心ではない。先進国の出生率は事実としての愛国心に支えられているのではないか。
 引用が多くてなんだが、サミュエルソン・ザ・オサーンはこう言う。

 産まないという選択は、自国の、そしておそらくは自分自身の未来を否定することになる。

 自分自身の未来にというのはディスカウントしてもいいのだろうが(誰が世話してくるかわらないほどボケたいもんだし)、自国の未来を否定するというのはざっくり言えばそうなんじゃないか。未来の日本国民は基本的に今の日本国民が産むのだから。もちろん、世間には子供を産めない人もいる。わかってる。
 私はもう一〇年前だったが、マルタ島の街角で子供がたちがわーっとベビーカーを囲んでいた光景を思い出す。沖縄でもそうだった。赤ちゃんがいるーとかいうだけで子供が集まってくる光景。あの光景のないところに出生率向上はないと思う(とか言ってマルタは少子化だったりして、知らんが)。

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