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2006.05.27

ダーウィン空爆戦死日本兵銘板除幕式

 朝日新聞や読売新聞にも掲載されているのかもしれないが、昨日カウラで開催されたダーウィン空爆戦死日本兵の銘板除幕式について、ネットで見られる記事は共同”豪で日本兵18人の銘板除幕 空爆の死亡、公式確認”(参照)と日経”豪で元日本兵18人の墓銘碑を除幕”(参照)の二点だった。話は共同のほうがわかりやすい。


第2次世界大戦中にオーストラリア北部のダーウィンへの空爆で死亡し、無名戦士として埋葬されていた旧日本軍兵士18人の名前がオーストラリア政府により公式に確認され、26日、東部カウラの日本人戦没者墓地で遺族らが出席し18人の名前が刻まれた銘板の除幕式が行われた。

 同記事では「キャンベラ在住の歴史家ロバート・パイパーさん(59)」が戦死者の名称確認作業に尽力されたことも簡単に伝えている。
 日経の記事では銘板に記された兵士の関係者の話が中心になっていた。

広島市から参列した山崎光子さん(91)は「戦後60年を経てようやく弟の遺骨の所在がわかり、ほっとしています」と語った。
 山崎さんは今回墓碑に名が刻まれた赤松清・一等飛行兵曹(当時25)の姉。赤松さんは1942年11月の豪北部の都市ダーウィン空爆の際、搭乗機が撃墜され7人の搭乗員とともに戦死した。山崎さんは「弟がどこに眠っているのかわからず、ずっと心にわだかまりがあった」という。

 九十一歳という年齢に歴史を重みを感じる。
 戦死者名についてはすでに四年前に判明していた。当時は十九人となっていた。無名戦士は三十一人おり、残りもある程度絞り込みされている。
 判明に尽力されたパイパーさんについては、読売新聞”豪に眠る無名日本兵19人の名、近く墓碑銘に 歴史家の調査で判明”(2002.09.03)に詳しい。なお、記事に記載はないが墓碑銘の起案もハイパーさんによる。費用はオーストラリア政府が担った。パイパーさんはパイロットの経験もある。

 パイパー氏によると、十九人は一九四二年十一月二十二日から二十三日にかけて豪州北部のダーウィンを爆撃した海軍第七五三航空隊の赤松清・一等飛行兵曹や高橋三郎・飛行兵長ら。パイパー氏は元豪国防省職員で空軍史の研究部署に十五年間在職。妻の美佐子さん(49)の父親が元日本陸軍のパイロットだったこともあり、九四年に国防省を退職後は大戦中の日豪関係や戦史などを調べている。
 カウラにダーウィンから移転した日本人無名戦士の墓があることは知られていたが、二、三年前、日本の防衛庁防衛研究所に日本軍の爆撃出動記録があることが明らかになり、ダーウィン方面の偵察機に乗務していた元日本軍兵士(故人)や防衛庁の協力を得て、豪州側の撃墜記録と照合することで十九人の名前を突き止めたという。

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カウラの風
 記事中「カウラにダーウィンから移転した日本人無名戦士の墓」とあるように、オーストラリアで亡くなった日本兵は当初オーストラリア各地に埋葬されていたが、一九六五年にカウラにまとめられた。今日のエントリではカウラについては触れない。「オーストラリアで亡くなった」のは戦死とイコールではない。
 ダーウィン空爆ではオーストラリアに約九百人の死者を出したことなどもあり、オーストラリアは長く反日の空気もあった。今もそれがないわけではない。しかし、今回の除幕式はオーストラリアの退役軍人会が主催したことは、友好の強いメッセージでもある。

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2006.05.26

牛乳の生産過剰問題

 話としてはやや古いのだがこの間なんとなく牛乳の生産過剰問題を考えていた。なんとなくというのは、私は個人的に牛乳が好きで愛着があるからだ。ラジオ少年である私にとって秋葉原駅のミルク・スタンドは記憶の初源的光景である。
 ニュース的な部分については三月十七日読売新聞”JA道中央会など 生乳減産方針決める ホクレン、1000トン廃棄も=北海道”を引用する。


JA道中央会やホクレンなどは16日、生乳が生産過剰になっているとして、2006年度から減産する方針を決めた。生産量は前年比97%程度になる見込みで、減産は13年ぶり。同会によると、05年度の生産見通しは約377万トンで、減産量は11万トン程度になる。また、ホクレンは3月中に生乳1000トンを廃棄することも決めた。ホクレンが生乳を産業廃棄物として処理するのは初めてで、費用は約2000万円という。

 千トン、牛乳パック百万パックというと、うぁもったいないと思う。二十五メートルプールだと三杯分というと圧倒感は少し減るか。しかし補償価格は二千万円ということなら農政としてはちょっとした失敗ということだろうか。なお、実際には九百トンの廃棄となった。廃棄は九州でも発生している。
 つまり、単純に言えば、需要予測ミスということになる。これが予測できないものだったかというと、そうではないらしい。「産業廃棄物として処理するのは初めて」というのは嘘ではないが、すでに生産過剰を乳製品に回すということを近年繰り返しており、その面で言うなら、乳製品加工工場のキャパを超えたというだけのようだ。
 なので、一部でもっと牛乳を飲みましょう論が上がっているのはちょっと違う感じがする。日本の牛乳飲料が減っているのは確かで、それを押しているのは他の清涼飲料だ的な議論もある。私としては、それはちと嘘くさいと思う。
 ラジオで聞いたのだが、トン数で見るなら、日本人の米の消費量は八百五十万トンで、牛乳は千二百三十万トン。その側面で見るなら、日本人の主食は牛乳である。
 いずれにせよ、いわゆる牛乳を飲みましょうは頭打ちだろう。
 関連してほぉと思ったのだが、平成十六年度の牛乳の国内総生産は八百二十八万トンで、内、北海道が三百八十二万トンと約半分を占める。さすが北海道だと思ったのだが、これはどうやら飲用にはそれほど回ってないらしい。都府県の生産が四百四十六万トンでそちらが飲用の九割になっている。ということは、基本的に北海道の牛乳生産は乳製品用であり、都府県の飲用の欠落のバックアップとして位置づけられていたようだ。ここでも、需要構造、つまり情報産業的なミスのようでもある。
 ついでにもうひとつほぉなんだが、需要予測が難しいなか、需要の鉄板化しているのがどうやら学校給食らしい。なるほどねぇである。
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カルピスバター
 農政としてみると、酪農家は、全国の農家三百万戸に対して二・八万戸。内北海道が0・九万戸。北海道にも人が住めるようにする国策といった印象もあるが、だからやめれとは私はまるで思わない。っていうか、カルピスバター好き・チーズも好きだぁの私はもっと上質な乳製品が出てほしい。
 また酪農は米とは違い、補助もそれほどすげーことになっているというふうではなさそうだ。WTOなどで関税を無理目に維持しなくても価格は国際競争に耐えそう。ありがたい。ブログとかで米国牛乳の話をずるっと日本にもってきて牛乳はホルモン漬けだとかそのホルモンで巨乳が出来るといったネタが上がって馬鹿だなと思うが、日本の牛乳はそんなことはないよ。ってうか、その面でも日本の牛乳を守ったほうがいい。
 あとは、脱脂粉乳を作る工場を増やして、アフリカとかに送ってほしい。

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2006.05.25

李鍾郁WHO事務局長の死を悼む

 李鍾郁WHO事務局長について私がよく知っているわけではないし、このブログもいつまで残るかわからないが、記しておきたい。彼は国連傘下の国際機構を率いる長としては韓国人として初の人であった(加盟国選出)。スイス・ジュネーブのカントン病院で二十二日、死去。享年、六十一。
 国内ニュースとしては産経新聞”「ワクチンの皇帝」、WHOの李事務局長が死去”(参照)が詳しい。


世界保健機関(WHO)の李鍾郁事務局長が22日、ジュネーブ市内の病院で死去した。61歳。WHO総会に参加中の韓国代表団関係者らが明らかにした。李氏は21日、脳出血の手術を受けたが、意識が戻らなかった。李事務局長は感染症対策に尽力したことで知られ、「ワクチンの皇帝」との異名をとった。最近は世界的な蔓延(まんえん)が危惧(きぐ)される鳥インフルエンザ対策にも精力的に取り組んでいた。

 過労もあったと言われる。
 夫人は東京都出身の日本人鏑木玲子さん。同記事にもあるが、なれそめは「慶州ナザレ園」である。

李氏が大学在学中、「慶州ナザレ園」(日本統治時代、韓国人に嫁いだ日本人の施設)をハンセン病治療のため訪れた際、そこで奉仕活動をしていた玲子さんと知り合った。

 大学在学中の大学はどこだろうと思い、他のニュースにあたる。毎日新聞”訃報:李鍾郁さん61歳=世界保健機関事務局長”(参照)によればソウル大学のようだが、この記事で夫人名と「慶州ナザレ園」が伏されているのはなぜだろう。

ソウル大医学部在学中からハンセン病患者の治療奉仕に携わった。83年に南太平洋ハンセン病対策チーム主任としてWHO入り。感染症の専門家でジュネーブの本部では結核対策部長などを歴任。妻は日本人。

 生い立ちについては03年の朝鮮日報記事”「地球村の疾病退治」総責任者となった李鍾郁博士”(参照)が詳しい。引用が少し長くなるが、事実のなかに心打たれる人柄が感じられる。

 28日、WHO事務総長に当選した李鍾郁(イ・ジョンウク/58/世界保健機構事務総長特別代表兼結核管理局長)博士は60年代末、ソウル大学医大生だった当時、暇さえ見つければ、京畿(キョンギ)道・安養(アンヤン)のナサロ村で、ハンセン病患者の診療活動を行った情の深い若者だった。
 日本人で同じ歳の夫人 レイコ女史と出会ったのもナサロ村だった。カトリック信者のレイコ女史は当時、ボランティアのため韓国を訪れていた。李博士は「ナサロ村で医者としての社会的奉仕に目覚めた」と話した。
 李博士は1945年、ソウルで四男一女中、4番目に生まれた。麻浦(マポ)、龍山(ヨンサン)、西大門(ソデムン)、鐘路(チョンロ)区庁長を歴任した父のおかげで、これといった苦労もなく幼年時代を送ったが、4.19の直後、父が公職を辞任し、1年後に突然死去すると、家の事情が急激に悪化した。
 カネを借りて高校を終えてから、家庭教師などをしながら大学の授業料を補った。李博士は「当時、苦労というのがどんなものかを知った」とした。
 ナサロ村でのボランティア活動を経て、彼は平凡な医師としての道を歩まないことを決心した。大学卒業後、ハンセン病を研究するため、ハワイ州立大に留学し、公衆保健学の修士号を取得した。卒業後は米国領サモアのリンドン・B・ジョンソン熱帯医療院で、ハンセン病の診療を始めた。

 李総長の人生には結果として玲子夫人の強い影響力があるように思える。彼は生前はカトリック教徒だったのだろうかと思ったが、そうではないようだ。東亜日報”「真実な友を失った」…世界が故李鍾郁総長を追悼 ”(参照)が興味深い。

 夫人のカブラキ・レイコ女史をはじめ、遺族たちは22日、WHO側と協議を経て、カトリック儀式で葬式を行うことにした。葬式は24日、ジュネーブ中央駅近くのノートルダム聖堂で行われる予定だ。
 李総長は21日、意識不明の状態で、カトリック信者であるレイコ女史の希望によって、カトリックの洗礼を受けた。遺族たちは葬式を終えた後、故人の遺体を火葬し、遺体をソウルに奉送することに意見を集めたと、チェ・ヒョク・ジュネーブ代表部大使が伝えた。

 「洗礼」とあるがこれは終油の秘跡と呼ばれるものではないか。
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慶州ナザレ園
 ラジオで聞いた話なのだが、李総長はその地位にありながら専用車を使わず、おそらく健康のためであろうがジュネーブの街中を移動の際は闊歩されたとのことだ。また、NHKの記者ということで韓国語でインタビューしても、回答はざっくばらんに日本語であったとのことだ。

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2006.05.24

中国企業を外資が買って制御できるか

 今日発売のニューズウィーク日本版のPeriscopeに「株式市場改革で外資流入歓迎」という短い話があった。この四年間低迷していた上海総合指数が昨年末から四〇%上昇したのは、株式市場改革が完了したからだというのだ。
 改革というのは、記事によれば、中国企業の大半を占める中国国有企業の非流通株が流通するようになったこと。先週は新規株式公開(IPO)も再開したという。再開理由は、大企業が香港やニューヨークの市場に逃げることに、中国当局が危機感を抱いたとしている。
 そうなのだろうか? よくわからないが、先日ラジオで聞いた評論家田中直毅の話を思い出した。
 田中の話では、私の記憶違いかもしれないが、上海株ではなく香港株が上昇しているのは、中国が自国内の企業統治(コーポレートガバナンス)をいっそ外資に任せた方いいと中国当局が判断したからだというのだ。
 なぜ香港でかというと、上海では自由にできないからとかいうことだったように話を記憶している。が、このニューズウィークの話によれば、上海でも大筋ではそうなるということなのだろう。
 中国政府が企業統治のために外資をあえて呼び込んだというのは、面白い話かもしれないが、いずれ外資が入れば結果論的にそうなるし、現状の世界の仕組みからしてそうなる以外の選択もないのだから、あらためて考えてみるとどうということでもない。
 だがなんとなく、そうか中国国営企業が外資に買われ、経営されるようになるのか、それって昔のマルクス・レーニン主義的には帝国主義とか言われるようなものではないか……とつらつら考えるのだが、どうも悪い洒落でも練っているようでもある。
 マスメディアでもネットでも何かと理由があって、嫌中・親中の議論があるようだが、実際のところ、もはや中国というのは外資を導入することでその企業の形態を外部的に制御するしかどうしようもないのだろう。ただ、中国共産党とか人民解放軍とかがその上澄みを吸い込むために外国勢力を利用しているように扱っているなら、どっかで立ち行かなくなる地点があるだろうし、いずれ生産力が上がり民衆に富が配分されていけば民主化というのは必然的な流れになるだろう。すると、現状のような政治体制は必然的に自壊していくのだろう。西洋のような革命という形で壊れることもないような気はするが。
 国家という単位で見ていくと、外資というと国の富が外国に奪われる的な発想を取りがちだが、日本の自動車産業はもうすぐ米国のそのセクターを食うだろうし、日本板硝子がピルキントンを買うみたいな展開もある。というわけで、日本も傾向とすれば同じと言えないこともないようだ。
 ただ、なんか違うな。文化・歴史のしがらみを捨象した経済学的なお利口さんの理想論のようには行かないような感じがする。というか、最終的な国富を形成する鍵は結果としての経済学的な図柄になっても起因とはならないんじゃないか。

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2006.05.23

ライブドア事件・個人投資家は救済されるのかな

 ざっと見た後いつもどおりVDRから消してしまったのだが、昨日のクローズアップ現代「ライブドア事件 個人投資家は救済されるのか」(参照)はメモとっておけばよかったか。後から悪夢のように心をひっぱり続けるものがある。話題は、二十二万人ともいわれるライブドア個人株主の被害についてなのだが、再考するに、焦点は微妙。


 結成された被害者グループの調査では、超低金利の中、老後の資金を増やそうと初めて株の運用に手を出した中高年が目立ち、リスクの高い信用取引で莫大な損失を抱えた事例も多いと言う。賠償請求を求める訴えが相次いで起こされる予定だが、損失と粉飾決算の因果関係をどう立証するか?など様々な課題がある。

 後から気が付いたのだが、クロ現のこのネタがNHKニュース「ライブドア被害 60代が深刻」(参照)でもあったのだろう。

「被害者の会」は、詳しい被害の実態を把握しようと会員を対象にアンケートを行い、およそ800人から回答を得ました。その結果、年代別で最も被害者の人数が多いのは60代で、全体の4分の1を超え、1人あたりの被害額も653万円と各年代の中でもっとも大きくなっています。退職金を使って老後の蓄えをしようとライブドア株を購入した人もおり、深刻な被害の実態がうかがえます。

 ニュースの見出しのとおり「ライブドア被害 60代が深刻」ということで、当初私はなぜ六十代がと疑問と驚きを持った。よく読むと統計の元は被害者の会に限定されるので全貌はわからない。クロ現で見た棒グラフの記憶だと、六十代以外にも被害は分散されており、四十代にも多かった。基本的に、キャッシュポジションのある世代でないと鉄火場のとば口にも入れない。
 それでも六十代に被害は多かったようだし、クロ現でもそうした映像を出していた。妻が癌で入院し、退職金を切り崩して生活していたのに、という感じのナレーションに、六十代の男がインスタントラーメンを作り啜っているのだが、ネタ? こういう映像はやめとけってばNHK。
 別の映像では、三十代だろうか、マイホーム資金を突っ込んで焦がした主婦の話。彼女の場合は信用取引でさらに焦げが一千万円強にまで広がったということだった。今後パートをしながら返していくというのだが、家族的にはつらい出来事だろう。
 もう一つ印象に残っていた映像は、集団訴訟に加わるカネもないという若い男だった。訴訟に七十万円ほどかかるらしい。ということは訴訟やれる人間にはまだそのくらいのキャッシュポジションがあるということかもしれない。
 父親譲りの二十年物塩鮭を抱えた木彫りの黒熊さんである私が、こうした被害者を自己責任ですよとか言える立場にはない。が、映像例では、株の分散投資はしてないような印象を受けた。なにより奇妙だったのは信用取引なんて私の世代では庶民にはありえなかったのだが、私も古い人間だな。安田二郎とか読んでいたクチだ。最近の人は「株の道しるべ ころばぬ先の投資バイブル」(参照)とか読まれないのだろうか、というのとそんな読んでいたら儲けにはならないか。
 クロ現でも株の素人が被害にあってという基調だったのだが、素人がどうしてそんなことができたのか、怪物スプーの幻想が脳内に充満してきたので、人に聞いてみた。なんでこんなことがあるわけ? クチこみでしょ。そうなのか? 儲け話ってたいていクチこみだよ。ほぉ。
 話をシフトして。クロ現では賠償請求訴訟についても解説していただのが、私はうかつにも知らなかったし、例えば”ライブドア株主、個人でも提訴簡単”(参照)にもはっきり書いてないが、「購入額と暴落後の売却額の差額を損害額として、その分を請求する内容になる。ただし、違法行為をした時期より後に同社株を購入したことが条件」というとき、違法行為がなにに相当するかが今回の事件では微妙。というか、相当するのは粉飾決算なのだが、暴落の引き金となった強制捜査のときは粉飾決算が対象ではなかった。というわけで、「訴訟は単純に、購入額と暴落後の売却額の差額を損害額として、その分を請求する内容になる」とはいえ、そのピヴォットが後ろにずれ込むと差額は微々たる額となり、この訴訟は有意義に成立するとはいえなくなりそうでもある。というあたり、訴訟は別の文脈の話かなとも思うのだがよくわからない。
 話にオチはないのだが、みなさんよくキャッシュポジションを持っているなと思った、特に年寄り。カネ余りは庶民でも同じだったのかというのと、こうした影の反面、けっこう儲けた人も多いのだろう。
 世捨て人たる私はブログとか書いて少し世界を覗いているつもりでいるが、知らないことがたくさんあるんだなと思った。

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2006.05.21

ワッフル

 そういえば最近食べてないなと思って、ワッフルを焼いてみた。ついでに写真も撮ったのでこんな感じ。つまり、リエージュ・ワッフルである。ついでにお皿はスヌーピー。お聖さんや年配のニューヨーク・タイムズ読者と同じく私はスヌーピーが好きだ。セブン・イレブンで貰った。

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リエージュ・ワッフル by finalvent

 ワッフルについて私はあまりこだわりがない。一時期日本でもブームみたいだったが、最近はどうだろう。この手の食い物に本格ベルギーがどうとかあまり考えたことがない。気になるのは、せいぜいベーキング・パウダーを使うアメリカン・タイプっていうのか、あれが嫌いだなというくらい。ワッフルはブリュッセルもリエージュもイーストを使うので、パンを作るのと基本的には同じ要領でできる。私は、パン作り歴三十年の強者である、ってか、ただなんとなく年月が経っただけだけど。
 リエージュ・ワッフルの作り方も我流。スイートパンのドゥーを作って、それを丸めて、ワッフル器で潰して焼く、とそれだけ。普通のバターロールのドゥーでもいいのだろうけど。
 ワッフル器は、最近は Vitantonio PWS-1000 (参照)を使っている。以前はクリップのでかいのみたいのを使っていた。火加減が難しい。というか、いまいちうまくできない。ワッフルなんてうまく出来なくてもいいやと思っていたが、Vitantonio PWS-1000は操作が簡単でうまくできるので驚いた。べーカリーマシンもそうだが、機械にはかなわない。ついでに PWS-1000 だと鯛焼きもできる。なぜ鯛焼きと思うのだけど、これもうまくできる。ホットサンドも……これじゃアフィリエイトブログだな。
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Vitantonio
バラエティサンドベーカー
PWS-1000
 リエージュ・ワッフルだとドゥーの下ごしらえに一時間前から用意しないといけない。ピザとかナンとかバターロールとかと同じ。朝飯でそんな時間はないだろフツーっていう人は、ブリュッセル・ワッフルのほうがいい。ネタを作って鍋に入れて冷蔵庫に入れとく。朝取り出してふにょふにょとかき回してなんとなく常温になるとすぐに焼ける。
 ところで、あまり考えたこともないのだが、ワッフルというとイメージ的にはベルギーだが、ベルギーの人ってほんとにこんなもの食っているのか。私は知らないので、ネットを覗いたら、へぇ、そうなんだという話が、パティシエっ記というブログのエントリ”ベルギーワッフルなしに語れない国”(参照)にあった。

 でも私はワッフルって浅草の人形焼みたいに「ちょっと観光っぽい食べ物」かな、って思ってたんですよ。
 でも今、スーパーに行ったり、「暮らし」を始めてみて、結構日常的にみんな食べてます。
パンの代わりとゆうか、パンの一種のような扱いですかね?
 焼き立てを買って歩きながらおやじも子供もかじったり、スーパーにはワッフルの棚があったり・・・

 そうそう私にとってワッフルっていうのはパンの一種です。イースト使うし、強力粉使うし。
 ついでにこのブログを読ませてもらっていたら、え?みたいな話が”ベルギーといえば・・・”(参照)。

 ついでにベルギーと言えばワッフルですが、こないだの授業で同じクラスのドイツ人のおっさんが知らないって言ったので「変わった人だなあ・・」って思ってて、今日、いつも家で朝食べてるワッフルを一つ持っていってあげたんですね、
 そしたら「ゴーフルって言うから知らなかったけどこれは知ってるよ!!」って。
 フランス語ではワッフルよりゴーフルってよく使うんですよ。

 もしかして、ゴーフルって、あのゴーフルって……神戸土産のゴーフル(参照)って……。”銘菓「ゴーフル」の誕生”(参照)によると。

 このゴーフルのヨーロッパにおける歴史は古く、12~13世紀にはすでに知られており、詩や絵画などにも何度も出てくるという。18世紀頃には、ウーブリの生地に凸凹模様をつけて焼くことが考案され、この模様が蜜蜂の巣に似ているため、フランス語で蜜蜂の巣を意味する「ゴーフル」と呼ばれるようになった。

 知らなかった。ワッフルとゴーフルが同じものだなんて! もしかして、鯛焼きもワッフルが原型ってことはないよね。
 ちなみに日本のゴーフルの歴史は先のサイトによるとこう。

 この関東大震災は風月堂にも多大な被害をもたらした。しかし、南伝馬町風月堂総本店と米津風月堂は共同でただちに工場を再建、さらに米津風月堂は店舗も改修し、営業を続けることになった。
 風月堂の看板菓子となり、永遠のベストセラーとなった「ゴーフル」は、この大震災が起きた大正12年頃、南鍋町米津風月堂において考案され、製造販売がはじめられた。

 うーむ、「極東ブログ: 夢のリヤカー」(参照)と同じ時代か。
 パンから餡パンが出来たように、ワッフルから鯛焼きが出来たんじゃないだろうか。

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