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2006.05.20

オウム事件のころをまた思い出す

 オウム事件とその余波についてはこれまでも書いてきたし、あらためて書くこともないような気がしていたが、このところまた多少気になることがあり、その無意識のひっかかりにぼんやりと思いに沈んでいた。うまく書けることではないし、黙っているほうが賢いのだろうが、この問題のとてもタッチーな部分で書くことを促すものがある。いや、促されるものがあるというべきだろう。あるブロガーの力でもあるが。
 ひっかかりは、こういう言い方も誤解を招くだろうが、とりあえず島田裕巳問題としよう。もう古い話になるのかと思うが、宗教学者島田裕巳が当時上九一色村のオウム施設を見てその陰謀を看破できず結果としてオウムは安全だとお墨付きを与えたかのようなできごとがあった。このため彼は社会的なバッシングを受けることになった。私はこのバッシングに与するものではない。また、率直に言って島田裕巳を宗教学者としてはそれほど評価はしていない。が、この数年の彼のオウムに向き合う活動はもっと傾聴されるべきだと思う。例えば、”島田裕巳official blog:『オウム』3刷とオウム元幹部の責任(1)”(参照)には私もこのブログでも触れた重要な問題が提起されている。

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オウム
なぜ宗教は
テロリズムを生んだのか
 島田裕巳問題は私のなかでは、こういう問いになっている。なぜ宗教学者がオウムの欺瞞・詐術を見抜くことができなかったのか? それは、そういうものだという答えもある。私が彼の場にいても見抜くことはできなかっただろうという思いもある。だが、私は、あまり正確に思い出したくもないが、オウムの欺瞞・詐術を見抜いたことが二度ある。一つはある人生を考えるといったふうな会合でしだいにある男が説得力を持ち、その場の空気を掴みだした……、その流れのなかでその会合で誰も気が付かなかったのだが、私は彼はオウムであろうと確信した。私は彼との対決に立ち上がった。もちろんいい思い出ではない。黙って立ち去ればそれはそれで大人らしい振る舞いであったかもしれない。もう一つはネットでの場だった。ここでは対決はしなかったが、彼は私を取り込もうとしたのを私は公然と拒絶した。それはうまく言えないが単純に切り捨てるというものでもなかった。その契機は後味の悪いものだった。私は結果として彼を追い詰めたし、私も嫌な思いを残した。この二つの経験のなかで、私が思ったのは、そうした重要性が浮かび上がるのは自分の痛みの場であるのはなぜなのかということだった。
 ここで誤解されるかもしれない懸念を少しだけ減らすことができればと補足するのだが、私は宗教学的に見ても教義的にもオウムには社会との協調の点で間違いがあると考えている、そういう言い方は拙いのだが。また当然間違いとはなんだという議論にもなるがそれは宗教学的にまた歴史学的に問えるものだ。めんどくさいので展開しないしそうした契機がなければ展開する気もない。それでも、私はオウムというのが宗教ならそれは彼らの信仰の問題でしょ、私の知ったことではない、ご勝手にと思う。先日、ポリティカル・コンパス日本版バージョン3というのやったが、質問項目には私の感性からすればそれはプライベートの問題であって私は答えるべきではないというのが目立った。私は靖国問題でも信者の問題でしょというくらいにしか思わない。私は個人の領域の問題に言及することに嫌悪が先立つ。
 しかし、オウムの問題とは、少なくともこの文脈ではだが、それが私たちの公共の場に立ち寄る、手を伸ばすのそのありかたに対するある別種の嫌悪であり、その嫌悪の公開と自分の立ち居振る舞いと、それがもたらす先のある種の痛みの関連にある。
 と書くことで話を複雑にしてしまったかもしれない。抽象的過ぎる。あえて傲慢だろうと思うがという前提で言えば、私があの時の島田裕巳の立場にいたら私は彼らを見抜いたのではないかという思いがどうしてもぬぐえない。私ならできるが島田にはできなかったと架空の設定で自己を誇っているのではなく、私に問われているのは、見抜くことよりも公と私的な傷の関係である。オウムが、あるいはオウムのようなものが公の場に手を伸ばすときそれを本質的に察知するのは、ある私人の傷の感覚ではないかと思うのだ。
 東京サリン事件によってオウムの危険性が暴露された後、ある若い思想家が、あんな科学のイロハもわかってない教義を信じているのは馬鹿なだけで関心ないというふうに発言した、そんなふうに私は記憶に残ってる。彼を特定しないのはネットで不要な刺激をしたくないからで、またその個別の思想家の問題ではないからである。いずれにせよ、オウム信者をそれがどれほど高学歴だろうが馬鹿で切り捨てることは可能だ。私もそうしたい欲望のようなものに駆られる。だが、それは、たぶん、あのもっとも重要な傷の感性から逃げることではないのか?
 当時の上九一色村の欺瞞を暴いたのはたしかフランス人のカメラマンだった。彼は日本の報道規制を屁とも思わずやってのけた。私はちょっと物騒な発言だが、ジャーナリスト、プロの水準というのは法を破ってもいいと考えている。それだけの痛みを当然覚悟するだけの仕事だと考えている。こういうジャーナリズムのプロが日本にいるなら、あの程度の欺瞞・詐術は暴露されるのだと、当時考えた。問題はその水準のジャーナリストがいただろうか? いまいるだろうか? もしネットのなかの公の部分にあるオウムのような勢力がそっと欺瞞・詐術の手を伸ばしたとき、ネットはそれにどう対応するのか。プロの水準のジャーナリズムがあればそれを暴露できるだろうが、そういう問題なのだろうか。
 ブログというものに未来があるなら、たぶん、へたれジャーナリズムをよりプロに特化した場であるというより、私的な心が傷のような部分を見せることである連帯の感性を喚起することではないか、私は、そう考えている。
 もちろん、それが正しいとは思わないし、私はどうやら自分でも思いがけず心まで老いてしまって、今なら、たぶん、いろいろな場で黙って立ち去る人間になりつつある、誰かが、きちんと公というものを「私」の部分で正直に痛む勇気の姿を見ることができるのでなければ、あるいは、その痛みのなかでしか、「公」のもっとも本質的なものが見えないのかもしれない。

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2006.05.19

再現コンチキ号

 ブログのネタとしては古過ぎだが、先月二十八日、ヘイエルダールの孫たちがコンチキ号航海を再現するというニュースがあった。国内ニュース・サイトの情報はもう消えているようだが、ノルウェーの公式サイトには情報が残っていた。”コンチキ号航海に再挑戦-タンガロア号4月28日に出航”(参照)である。


トール・ヘイエルダールが、バルサ材で作ったいかだコンチキ号で太平洋を渡ったのは1947年。このコンチキ号の冒険を再現しようと、ちょうど59年目にあたる今年の4月28日、一艘のいかだ舟がペルーの港を出港しました。ヘイエルダールの孫ら6人のクルーを乗せたタンガロア号が、コンチキ号の航路を辿り太平洋を横断する長旅に挑戦しています。

 BBCにはその模様の写真が”In pictures: Kon-Tiki voyage recreation”(参照)にあって面白い。
 先のノルウェーのサイトの話では、タンガロア号の航海レポートはオスロにあるコンチキ号博物館に配信され、博物館で公開されるとのことで、もしかしたらインターネットでもモニターできるのではないかといろいろ探してみたがなかった。グーグル・アースとか使えば面白いのにと思うのだが、と少し調べるとコンチキ号が座礁したラロイア環礁のグーグル・マップの情報があった(参照)。追記:コメント欄にてタンガロア号の航海ブログを押してもらった(http://tangaroa.nettblogg.no/)。ネットはすごいなというのと英語以外の情報は探しづらいなと思った。
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コンチキ号漂流記
 そういえば、「コンチキ号漂流記(偕成社文庫)」(参照)は映画の影響もあってか私の世代の子供の読書の定番だが(教科書にも載っていたような気がするが)、冒険譚はさておき、柳田国男の「海上の道(岩波文庫)」(参照)と同じで、学術的な意味はあまりないのではないか。そのあたりは最近はどうかなととりあえずウィッキペディアを見たら、まあ、そのようだ(参照)。

この航海によって、南米からポリネシアへの移住が技術的に不可能ではなかったことが実証されたと一般には思われている。しかしながらほとんどの研究者(人類学者・考古学者・歴史学者など)は、考古学・言語学・自然人類学・文化人類学的知見を根拠に、ポリネシアへの植民は東南アジア島嶼部からメラネシア、西ポリネシア、東ポリネシアという順序で行われたと考えている。

 今回のタンガロア号は、じゃ、孫によるリベンジかというとそうでもない。ノルウェーのサイトにあるように、海洋汚染による海中生物や植物の生産能力への影響を調査するものらしい。イベントとしては面白いし、それはそれでいいのだろう。個人的にはスンダランドとか「海を渡ったモンゴロイド―太平洋と日本への道(講談社選書メチエ)」(参照)とか、そういう話のほうが好きではあるが。

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2006.05.18

植田重雄、逝く

 朝のラジオで田村高廣が亡くなったと聞いてネットで確認したところ、併せて植田重雄の死を知った(参照)。十四日のことであったそうだ。
 直に学んだこともなくお会いしたこともないのだが、いつも心のなかで植田重雄先生とお呼びしていた。お別れ会は日本キリスト教団早稲田教会でとのことだが、やはりカトリックではなかったのかなと少し思った。そうした面についてはあまり知らない。
 死因は胃がんとのことだが、八十三歳、天寿に近いと言ってもそう間違いではないように思う。年号年齢早見表 極東ブログ・リソース 2006年版(参照)を見るに、大正十二年か十三年の生まれ。吉本隆明とほぼ同じ世代の人になる。
 とすれば、昭和三十五年には三十七歳ということになる。書架にある植田重雄「旧約の宗教精神」をお書きになったのは、三十六歳ころであったか。しばし感慨に打たれる。
 早稲田大学出版部から出た同書はすでに古書店にもないか、あるいは意外と今だに販売されているか。先日、銀座の教文館に寄ったところ古書かと思われる良書が当時の値段のままに販売されていて、カネとスペースがあったらいくつか全集を買い占めたい世俗の欲望に駆られた。
 ネットをひくと、ビーケーワンに情報があり(参照)それを見ると、発行年月が一九七二年である。私の所蔵の三版と同じだというところで、しばし植田とある検印を見つめた。と同時にしおりにしていた第121回紀伊國屋ホール名画鑑賞会のチケットに青春時代を思った。
 同書をめくって熱い思いがこみ上げてくる。


 イスラエル人の場合、「認識する」「知る」を表す語は、「ダアアート」(da'at)とか、「ヤーダー」(yada')などで示している。しかし、この認識はけっして、事物の本質の認識ということではなく、そこには体験的な内容を持っている。ヤーダーの場合、直感する、体験する、場合によっては出合うという意味をもつ。この語のニュファール形では「啓示する」という意味がある。旧約聖書においてはもともと「知る」ことは、自己の体験をはなれて成り立つものではない。彼らの目ざしているのは、存在の本質とか、存在の普遍化にあるのではなく、自己と他の存在が関係を結ぶことによって生ずる出来事が問題になる。体験することは、ある一定の距離を保って客観的認識を獲ることではない。少なくとも自己が動揺させられ、精神的な感動を与えられることによって生ずる実存的な内容を問題にする。実存にたいし窮局に働きかけるものは、人間の意志である。

 私は少し古典ヘブライ語を学んだことがある。ほとんど忘れて些細なことを覚えている。間違いかもしれない。ヤーダーには男女の交わりの意味があるはずだった。やまと言葉の、相見ての後の心にくらぶればの見るにやや近いかもしれない。やまと人にとって見ることは今の日本人のように視覚において見ることではなかった。観想とも違うものだった。古代イスラエル人にとってのヤーダーの知とは情熱的な男女の交わりのなかに置かれる知のありようだった。そのなかで相互に意志としての存在を確認するような、そんななにかだ。
 イスラエル最大のラビと呼ばれるアキバの伝説を思い出す。アキバは無知な羊飼いであったという。が、ある娘に惚れた。結婚したかったが、その娘の父の約束だったか、立派なラビとなって戻れと言われた。アキバはラビとなり弟子を連れて娘に再会するとき、娘はアキバを抱き寄せ弟子は眉をひそめたというが、アキバは弟子をいさめたという。私の記憶違いかもしれない。また、いわゆる旧約聖書となる聖書の編纂にアキバが関わったのだが、その折り、雅歌を聖典に含めるか議論があったという。偉大なラビ・アキバが決めることになり、彼がこれを聖典とした。雅歌は聖書の神髄であることをアキバは知っていた。あるいはアキバによって私たちはそれを知ることになる。

あなたの口の口づけをもって、
わたしに口づけしてください。
あなたの愛はぶどう酒にまさり、
あなたのにおい油はかんばしく
あなたの名は注がれたにおい油のようです。
それゆえ、おとめたちはあなたを愛するのです。

 ソロモンに擬された歌謡のなかに神と人のヤーダーの知の原型があり、それがのちにキリスト教では教会と信者の関係の比喩となる。余談だが、エーコの「薔薇の名前」(参照)の主人公の愛欲のテキストは雅歌のパロディで書かれている。
 こんな話をすれば、植田重雄先生は眉を顰まれるであろうか。
 先の引用はこう続く。

 意志の主体は自己であり、人格存在にほかならない。人格(προσωπον)は顔を意味し、ローマにおいて人格(Persona)は、俳優の面を指したものらしく、やがて人間の全存在のもつ価値をあらあわす概念となった。これに反しイスラエル人の場合、顔といった視覚的、造形的な意味はなく、つねに向けている面すなわち何ものかに向かっている存在としての行為の主体を表現しているのである。

 こうした実存観は、マルティン・ブーバーの哲学を連想させることだろう。しかり、その「我と汝・対話(岩波文庫)」(参照)の卓越した翻訳は植田重雄によるものだ。
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リーメンシュナイダー
の世界
 植田重雄先生には、会津八一の研究家の側面もあった。現在入手できるものでは「秋艸道人 会津八一の学芸」(参照)がある。その石仏への洞察には、言うまでもなく「聖母マリヤ(岩波新書)」(参照)に通じるものがある。
 しかし、私はその先生の精神の探求と慰めに背いて生きてきたと思い返す。ヤーダーの本質は情交であるとほざく、下品でデーモニッシュな私は、先生の静謐なる世界には住めもしない。

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2006.05.16

Shave and a Haircut, Two Bits

 書架の整理をしていると、The Joy of Sexの昭和五十年の訳本が出てきて、おおっと我ながら、ひいた。何歳だった、俺? 十八? まったく無用な物を読んでいたというか。時代というか、「かもめのジョナサン」(参照)も読んだしな、である。もう絶版でしょと思ったら、河出新社から出ているようだ(参照)。アメリカ文化に関心ある人と栗先生は読んでおくといいかも。
 内容についてはちと触れないのだが、その後書きにこうあって、面白かった。


 本書の「まえがき」には、「軽快な文体」と書いてありますが、本書は英語としてはたいへん難解でした。そこで、英米文学者の青木日出夫君が、訳したものを、私、安田一郎が、奥沢四郎の援助を受けて大幅に手を加えました。

 そして。

 なお本書一九五ページ「ひげ剃りと散髪、二十五セント」shave and a haircut, two bits.という文は、無線を専攻している友人に聞きましたが、わかりませんでした。ご教示いただければ幸いです。

 え? それって、ほんとか。その後の訳本では反映されているか。いずれにしろネイティブに聞けば、HAHAHAHAでわかると思うのだが(でもないのか)。というわけで、些細な話なのでブログのネタにしよう。
 該当書一九五ページはちょっとなぁの項目なんだが、その短いコンテクストはこう。

モールス信号のツートン「ひげ剃りと散髪、二十五セント」は安全のための手です。

 とあり、だもんで訳者は無線専攻の友人に聞いたのだろうが、わかんなかったそうだ。これは、アレ、です。トントトトンのトン・トン(参照MIDI)。
 で、終わり。と書いたものの。なんでそうなのかというとちとわからない。ネットを見ると”Where did "shave and a haircut, two bits" come from?”(参照)という話がある。

Interesting question. Vague, vague answers. Have checked with lots of sources that claim to know lots of stuff about lots of subjects. The best I could do was that it might come from International Morse Code. If you translate the knocking pattern as "dash dot dot dash dot, dot dash," that's /a (slash-a), which I'm told can mean "attention" at the beginning of a code message. If you send and receive code all day and you want to wake up your buddy who also sends and receives code, to be funny, you might tap out "attention." Code folks recognize letters, words, phrases by the rhythmic pattern they form, not letter by letter.

 まあ、これ自体はモールス信号ではないんだろうな。
 というところで、小学生アマチュア無線技士だった私の頭に「路頭迷う」という言葉が思い浮かぶ。子供ながらに、ロ、路頭迷う、ってなんだ?と思ったものだ。今ではモールスなんかやる子供はないか。ということろで、ふと、よもや……。
 ”Codelength of Morse code”(参照)というページにこうある。

モールス符号の暗記法
モールス符号を暗記するときに暗記法があった。長点を長音に対応させて覚えるのである。一例を示せば、 カナ 符号 覚え方 発音
イ ・- 伊藤 イトー
ロ ・-・- 路上歩行 ロジョーホコー
ハ -・・・ ハーモニカ ハーモニカ
全50文字についてあった筈だが、電信をやっていないから覚えてはいない。 ( 「ロ」は「路頭に迷う」と覚えていたが、それでは長短に合わない。記憶違いか、それとも「路頭迷う」だったのか。 )

 「路頭迷う」を現代日本人は、ろ・とー・ま・よ・う、と読むのではないか。これは、ろ・とー・ま・よーと読むのですよ。「また合う日までぇ♪」は、また、「おーおーおーひまでぇ♪」と歌うわけです。とか言っても、日本語が変わってしまったのだからしかたないか。
 ネットを見ていると、海軍式だと、ロ、「路上歩行」らしい。そうなのか。では、なぜ私は、「路頭迷う」で学んだのだろうか。
 私が生まれる前にインパールで戦死した若い伯父は、父の話ではモール信号の達人だったそうだ。どう学んだのだろうか。

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2006.05.15

コシヒカリHG

 米というかコメ。コメの話は複雑でよくわからないが、なんだかすごいことやってんなという印象を持ったので、簡単にブログる。ニュースは朝日新聞”新潟コシヒカリ、品種変更したのに表示そのまま”(参照)。話は標題からもわかりやすい。


 「米の王者」新潟コシヒカリにちょっとした「銘柄騒動」が起きている。昨年産米から、新潟県とJAが産地偽装の防止などを目的に県内のコシヒカリを一斉に新品種に切り替えたが、品種変更を知らない消費者から「味が違う」との声が出始めたからだ。品種の切り替えには、消費者の試食も重ね、農水省から同じブランド名で売るお墨付きも得ているが、一部の農家や業者の中には、消費者の声を意識して従来品種を流通させる動きも出ている。

 つまり名前が同じでも品種を入れ替えちゃったわけ。新品種名は「コシヒカリBL」。入れ替えた理由は、病害に弱いコシヒカリの欠点を克服すべく新潟県が15年かけて開発したからだそうだ。この路線で現在開発中なのがもちろん「コシヒカリHG」。
 すでにBL種が新潟県内のコシヒカリの作付面積の九八%がになっているらしい。で、まずい、と。いや、そこまではいろいろあって露骨には言えないのだが、これは違うねというのが市場の声だったようだ。国とか新潟県としては同じだと思うんだけとなというわけで、ブログのコメント欄だったらよかったけど、市場は厳しい。
 というところで、市場? コメに市場なんてあったっけ? そういえばと思い出したのがこれ。日経”コメ入札、安値基調続く”(参照)。

公設市場のコメ価格センターは24日、2005年産米の第11回入札(20、21日に実施)の結果を発表した。3月の前回入札に続き新潟・魚沼産コシヒカリが値下がりするなど、全体としては安値基調が続いている。当面の必要量を確保した卸売業者の買い意欲が鈍く、落札率は31.9%と05年産として最低になった。

 今朝の「コシヒカリBL」のニュースで思ったのは、「新潟・魚沼産コシヒカリが値下がり」の理由はまずかったからではないかということだった。やっぱ、ここは「コシヒカリRG」か。もっとも同記事にもあるように、オリジナル・コシヒカリは他産地でも値下がりしているわけで、そうとも言えないか。なお、この価格っていうのは指標価格、いじり甲斐のある指標だ。
 話はここでBLから、HG、RGとずれていくわけだが、「公設市場のコメ価格センター」ってなんだ? っていうか公設市場って牧志? そうじゃない。
 短い解説ということなので、Web東奥/ニュース百科の該当記事を全文引用する(参照)。

コメ価格センター
 正式名称は財団法人全国米穀取引・価格形成センターで、原則月1回、産地、主要銘柄別のコメの入札を実施し、落札価格はセンター外の取引の指標にもなる。2004年4月に改正食糧法が施行、コメ流通が自由化したことに伴い、入札参加者の拡大など組織を改正した。05年には全農秋田県本部のコメ不正取引などを受け、再発防止と適正な価格形成を目指して監視機能を強化したほか、04年に廃止した売り手に一定量の上場を課す「義務上場」を自主ルールとして事実上復活。しかし、05年産米で毎回落札率が低迷し、再び入札改革をすることになった。

 月一回で市場ですかいな、ほいほい。しかも、なんかきな臭い仕組みもある。 コメ価格形成センターのサイト(参照)の「入札取引の仕組み」(参照)からは販売奨励金の仕組みとかよくわからない。
 改革は多少進み現在は毎週になった。三月二六日の共同”コメ入札毎週開催へ 価格センターの改革案決定”(参照)より。

 センターでの基本取引は、売り手がコメの販売計画数量の3分の1以上を入札に出さなければならない「義務上場」があるが、改革案では上場量を緩和。3分の1未満の上場も認めた。
 落札の下限となる希望価格(指し値)が提示できる現行ルールは残した上で、3分の1未満の場合は、売り手が希望価格を提示できるのは、収穫後から年末までなど一定の時期に限定。その後は値幅制限(ストップ高・安)に移行する条件を付けた。

 よくわからないが基本的なところで変化はないんでしょう、たぶん、きっと、フォー。

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