« 2006年4月30日 - 2006年5月6日 | トップページ | 2006年5月14日 - 2006年5月20日 »

2006.05.13

[書評]中原中也との愛 ゆきてかへらぬ(長谷川泰子・村上護)

 昭和文壇の三角関係恋愛劇、中原中也、長谷川泰子、小林秀雄。そのピヴォット、長谷川泰子自身の語りによる一冊。私は小林秀雄の愛読者で、この劇にも強い関心をもっていたが、この本は読み落としていた。一読、村上護の仕事がすばらしい。

cover
中原中也との愛
ゆきてかへらぬ
 今回読んだのは文庫本による復刻。初版は一九七四年。オリジナル・タイトルは「ゆきてかへらぬ 中原中也との愛」、とこの文庫版の逆。そのまま愛がかへらぬという洒落に読める。なぜ今頃復刊といぶかしく思ったが、文庫の最終ページに新編中原中也全集の広告、「生誕90年・没後60年を期して30年ぶりに全面改訂の全集!」とあり、その祭の一環なのだろう。
 一読して面白かった。なぜ今まで読まなかったのか悔やまれたかというと、そうでもない。五十歳にも近い自分にしてみると、もう彼らの二十代の惨劇は、「ああそういふものか」と見える部分もあるし、今の自分にしてみると三十歳くらいの女はかわゆく見える。本書で長谷川泰子を別に性的な対象ということもなく養っている初老の男の象がいろいろ出てくるが、経済に余力があったら、長谷川泰子のような女がいるなら、なるほどちょいとサポートしてみるかという酔狂な男はいるだろう。まあ、そんなところに今の私は共感して少しトホホな感じもした。
 そういえば変な話なのだが、昔と言っても私が三十少し過ぎた頃、悪友のいた頃、キャバクラというのかよく知らないが(あまり経験ないのだ)、酌をしてくれる二十代後半のお姉さんのいる飲み屋なのだが、私は無粋をかこって女と向き合っていたが、なんかのおりに女が中原中也のファンだというのだ。ほぉ俺は小林秀雄のファンだよ。共通の話題といったら長谷川泰子だな、まだ生きているんだそうだよ……という話になった。女はよくこの恋愛劇を知っていて驚いたが、江藤淳の「小林秀雄」は読んでないようだった。あれには当時自殺しかけた小林の文章があるよ、などと言うと、女は長谷川泰子に著作があると言うのだった。が、それが「我が闘争」という題だそうだ。そんな本あるのか? あるわよ、と続くのだが、「ゆきてかへらぬ」以外にまだあったのだろうか。中原中也の「我が生活」の間違いではないのか。わからないな。あの女はこの世界のどこに生きているだろう。このブログ見てますか、ハロー。
 今時の若い人がこの恋愛劇に関心を持つかわからない。「含羞 我が友中原中也(モーニングKC)」(参照1参照2)が出たのはまだ八十年代ではなかったか。アマゾンを覗くと中古売ってプレミアが付いているが私にはそれほど面白くはなかった。
 長谷川泰子の語りを読みながら、小林秀雄の妹高見沢潤子が、「兄小林秀雄との対話―人生について(講談社現代新書 215)」(参照)にも表れているが、なぜ泰子に憎悪に近い思いを持っていたのか、わかるようなわからないような不思議な感じがした。長谷川泰子と小林秀雄の関係がどうなのかというのに小林の母や妹など女たちがどういうポジションにいたのか、いろいろ思った。
 端的に言えば、長谷川泰子を狂気に導いたものは小林秀雄の天性のなにかであることは間違いなく、後にまさに「ゆきてかへらぬ」(参照)となる中原中也の本質を見抜いていたのも、それに匹敵する狂気を抱えていたのも小林秀雄だった。彼の終生のテーマというか、「本居宣長」(参照)の冒頭、折口信夫に「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さようなら」と語らせたものは長谷川泰子との狂気の愛であっただろうし、ドストエフスキーの著作のなかに見ていたものもそれだっただろう。
 なぜ女と狂気の関係性になかに入っていたのか。そこに意識はどのようにありうるのか。江藤淳はこの問題を「父」として語っていたが、今私は思うのだが、違うだろう。もっとどろっとしたなにかだ。「Xへの手紙」(参照)の、あの有名なくだりに近い。

 女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた。と言っても何も人よりましな恋愛をしたとは思っていない。何もかも尋常な事をやって来た。女を殺そうと考えたり、女の方では実際に俺を殺そうと試みたり、愛しているのか憎んでいるのか判然しなくなって来るほどお互の顔を点検し合ったり、惚れたのは一体どっちのせいだか訝り合ったり、相手がうまく嘘をついてくれないのに腹を立てたり、そいつがうまく行くと却ってがっかりしたり、――要するに俺は説明の煩に堪えない。

 それはある意味では本当だが、嘘でもあろう。もっともっとどろっとしたなにかだ。

 女は男の唐突な欲望を理解しない、或は理解したくない(尤もこれは同じ事だが)。で例えば「どうしたの、一体」などと半分本気でとぼけてみせる。当然この時の女の表情が先ず第一に男の気に食わないから、男は女のとぼけ方を理解しない、或いはしたくない。ムッとするとかテレるとか、いずれ何かしら不器用な行為を強いられる。女はどうせどうにもでなってやる積もりでいるだからこの男の不器用が我慢がならない。この事情が少々複雑になると、女は泣き出す。これはまことに正確な実践で、女は涙で一切を解決して了う。と女に欲望が目覚める。男は女の涙に引っかかっていよいよ不器用になるだけでなんにも解決しない。彼の欲望は消える。男は女をなんという子供だと思う、自分こそ子供になっているのも知らずに。女は自分を子供の様に思う、成熟した女になっているのも知らずに。

 これがどういうふうに意識に映えるか。「考えるヒント(文春文庫)」(参照)の『井伏君の「貸間あり」』に近い。あれだ。

 「貸間あり」の映画を見ていると、画面に、長々と男女の狂態が映し出される。これには閉口したが、見物は誰も閉口しているに違いない、と思った。これは、趣味や道徳の問題ではない。もっと端的な基本的な事柄なのだ。誰もこんな映画を見ていられないと感じているのだ。画面から来る一種の暴力に誰の眼も堪えられず、或る不安を我慢している。この不安のうちには、一かけらの知性も思想も棲むことは出来ない。私は、しきりにそんな事を思った。なるほど、画面に現れる人々の狂態は、日常生活では、誰もごく普通な自然な行為である。ただ、私達は、自分の行為を眺めながら行為する事ができないだけの話だ。実生活の自然な傾向は行為せずに眺めることを禁じている。

 と、この先に文学の工夫のようなことを小林は語るのだが、その脳裏にあったものは、疑いもなく泰子との狂態であっただろうし、泰子の、この口述を読むと、その奇妙な狂態の共犯の意識の関係性のなかに二人がいたことがわかる。端的に言えば、泰子は中原への愛より、小林との関係が戻ることを確信していたのだ、と私は知る。泰子がこの口述で思想だの文学だのというとき、その陰影は小林との狂態のトーンを持っていると私は思う。
 もちろん、現実にはそうはならなかった。小林は狡猾だったし、長谷川に幸運か不運はあった。
 と、書いてみたものの、うまく言葉にならない。
 正岡忠三郎については、「ひとびとの跫音(中公文庫)」(参照上参照下)を読まれたし。今日出海の父について、長谷川は地霊学としているが、これは神智学のことである。などなど、ディテールについてもいろいろ言いたいこともあるが、うまく言葉にならない。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2006.05.12

暗殺のランデブー(ドイツWDR・NHK)

 ケネディ暗殺の謎を探るという主旨の、七日NHK・BSで放映されたBS特集 「暗殺のランデブー」- ケネディとカストロ -(参照)が面白かった。率直なところ当初、高校生向けノビーさんの愉快な「決定版 2039年の真実(集英社文庫)」(参照)みたいな、またかよかもという予断を持っていたので、たらっと見始めたたのだが、冒頭から、従来の陰謀論あるいは陰謀解説的なものとは違うトーンで引き込まれた。スポイラーになるかもしれないし、私の読み違いかもしれないが、私はこのドキュメンタリーを見てむしろ法的にはオズワルド単独犯説でよいと思うし、歴史はよい選択をしたのだというふうに受け止めた。そして、ドキュメンタリー作品の手法としても優れていたと思う。
 話の概要としてNHKの釣書を引用しよう。


 その真相について様々な推測がされてきたケネディ暗殺事件について、当時のFBIの主任捜査官や、キューバサイドのスパイなどの証言によって、新たな事実を探る。
 カストロはキューバ危機以前から、アメリカに強い敵意を持っていたと見られている。一方、アメリカは、ピッグス湾侵攻の失敗をきっかけにカストロへの敵意を強め、少なくとも8回に及ぶ暗殺未遂を続けていた。

 この作品を、ケネディ暗殺についてのキューバ説と読む人もいるだろう。そのあたりは、人によっていろいろな受け止めかたはあると思う。私としては、オズワルドとキューバの関わりはこのドキュメンタリーで明白になったとは思えない。そして、その要所は、一にロランド・クベラにかかっているし、この作品の主人公は、当時FBI主任捜査官だったローレンス・キーナンよりクベラであろうし、作品の最後の、老いたクベラの後ろ姿はある明白な印象を視聴者に残すだろう。
 ネットをざっと検索すると毎日新聞に紹介記事”テレビ:「暗殺のランデブー」 ケネディVSカストロ、新たな証言--NHK・BS1”(参照)に紹介があった。記事ではないが記者は若いのではないか。あるいは、私より上の、当時岡林信彦が「さとうを苅りにキューバに行くぜ」世代かもしれない。いずれにせよ、ジョンソンとフーバーの政治的な決断のトーンを見落としている(紹介記事なので書けないのかもしれないが)。それは端的に言えば、キューバの影はあったが、あの時その真相を明らかにしてもどうしようもなかった。その決断を彼らがしたことは良かったことだろうということだ。
 ネットリソースでは”「蟻の兵隊」監督からの便り:ケネディ暗殺の謎に迫る”(参照)も興味深かった。制作にはNHKも関わっていたようである。が、プラネット・アースのような分担は見えない。

今日は朝9時にNHKの編集スタジオに入って、ドイツのプロダクションとNHKが国際共同制作したドキュメンタリーの日本語版づくり。4月にハイビジョンで放送したものをBS1でも放送することになり88分の番組を前編、後編に分ける作業を行った。明日MAを行い、あさって仕上げる。

 ドキュメンタリーの手法としては、これはすごいなと思ったのだが、インタビューで語るどいつもこいつも嘘こいていることが自ずとわかる仕立てになっていて、嘘を吐く人間というものの、人間の本質のようなものを描き出している点だ。そこにはなんというのか、真実のストーリーの憶測も真実の証言なんかも信じない、すげーリアリズムを感じた。
 ケネディ暗殺は私の世代には、東京オリンピックや、お目々の超特急ひかり号とならんで、生涯の刻印となる映像であった。そのあたり、もう少し書きたい思いもあるのだが、また古い話ですかと言われても、な。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006.05.08

夢のリヤカー

 明け方ぼんやりと夢から現に意識がゆっくりと移っていくなかでリヤカーのことを思っていた。いつから見なくなったのか。私はどんなリヤカーを見ていたのか。リヤカーとはなんだったのか。何を乗せていたのか。誰がそれを引いていたのか。人だった。どんな人だったのか。自転車もあった。あの風景はなんだったのだろう……。

cover
コリアン世界の旅
 たしか「コリアン世界の旅(講談社プラスアルファ文庫)」(参照)だったと思うがと書架を見てこの初版本が見あたらないのだが、ヤフーの、いや孫正義ソフトバンク株式会社代表取締役社長が子どものころリヤカーに乗せられていた話があった。そのあたりの背景のインフォがウィッキペディアにあるかと見るが驚くほどない。彼自身が語った話でもありタブーでもないと思うが、あまりこの話につっこむべきでもない。とりあえずリヤカーとは孫社長の魂の原点ではないかと思うし、とりあえずそれは特定の貧しさというものでもあるだろう。彼は私と同い歳だが随分と人生が違うものだと二十年くらい前に思いそれ以降思わないことにしているが、二十年くらい前までは、けっこう同じ風景を見ていた。彼は向こうで私はこっちから、という感じがするが、そこにある風景は同じだっただろう。
 西原理恵子も子どものころリヤカーに乗せられたという話をなにかで読んだ。どの本だったか忘れた。風景としては「ぼくんち(ビッグコミックス)」(参照)に近い(この本はできたら三分冊本で読んだほうがいい)。彼女は六四年の生まれで私とは七歳も違うが、高知というディープな地方がそれだけ歴史の風景を保持していたのかなと思うし、それは高知と限らないだろう。彼女はリヤカーに乗せられた経験を楽しく懐古しているふうだったと私は読んだ。子どもには楽しいだろう。
 地域差はあるにせよある年代の子どもからリヤカーの風景の記憶はないのではないか。それはどのあたりで、どういう歴史の触感を持っているのだろうか。明け方いろいろ思った。そういえば、土管も見なくなった。コニーちゃんの友だちドカンくんも最近は見かけない。コンダラも見なくなった。コンダラ? あれは正式名はなんというのだろうか。
 目が覚めてきて、マシンでリヤカーをざっと調べてみて間違いに気が付いた。私は「リアカー」だと思っていたのだが、字引には「リヤカー」とある。また、この語源は、私は rear cart だと思っていたのだが、rear car らしい。あれは car じゃなくて cartだろと辞書にツッコミを入れたものの字引は一様に car 説を採っている。ウィッキペディアを見ると意外に詳しい(参照)。

 1921年頃、海外からサイドカーが日本に輸入された時に、サイドカーとそれまでの荷車の主流だった大八車の利点を融合して日本人が発明した。
 Sidecarに倣ってRear-Carと命名したため和製英語である。
 1923年9月1日に発生した関東大震災、燃料不足だった太平洋戦争の戦中・戦後などの時期に人力によるリヤカーは効率的な荷車として大活躍したが、自動車が普及するにつれてオート三輪・軽トラック・オートバイ等に取って代わられ、次第に衰退していった。

 語源としてはサイドカーからの派生の和製英語だとしているのは、説得力がある。ちなみに、和英辞典を引くと、a bicycle-drawn cart; a bicycle trailer.とあるので、cart に見えるよなとは思う。
 ウィッキペディアの解説によると、関東大震災を契機に大八車に代わったものとしている。この説も概ね正しいようにも思う。
 ところで、ウィッキペディアにはリヤカーの図がないのだが、それがなんだかわからない人もいるだろうか、と心細くなってきた。どっかに写真でもと思うと、けっこう良いのがある。ウィッキペディアから辿ったのだが、「リヤカー博物館」(参照)である。これは、かなり面白い。中でも次の説は私の記憶の風景のスイッチをポチッとなである。私は、物心付いたころからラジオ好きの父に連れられて秋葉の部品屋をうろうろしていた。

諸説が在るが、総合的に判断すると、当時 秋葉原駅近くの総武線の高架下を利用した 工場で、スクーター及び自転車の部品工場を営んでいた 中村銀造氏経営の中村銀輪社にて 製造されたのが最初であるという説を 当博物館としては採りたいと思う。

 我ながら無知だったなと思ったのだが、リヤカーというのはあのカート部分が主体ではなく、フレームであり、むしろ自転車の変形だったのかということだ。つまり、カートをはずした状態がリヤカーの本体なのだ。というところで、そうかとわかったのだが「今 リヤカーは何処に」(参照)である。なんでも知ってるつもりでも、ほんとは知らないことがたくさんあるんだよである。
 どうもアナクロ的な意識になりつつあるのか、「アフリカで甦ったリヤカー」(参照)もいい話だなと思う。洗濯板やリヤカーといったテクノロジーが有効に活かせる地域はまだ地球には多い。それをもっと活用すべきだとまで言うとなんかそれはそれで間違っているようにも思うが。

| | コメント (14) | トラックバック (0)

2006.05.07

老人の風貌

 今日で連休は終わり。天気図を見ると低気圧が日本を縦断しているようなので関東などは午後には少し荒れるかもしれない。今日東京に帰る人たちは少し難儀するだろうか。話は、前回の「極東ブログ: 連休の感想」(参照)の続きのような話。あまり意味のない雑談である。しいて言えば、老人の風貌について。
 リュックサックを背負った老人の列を、醜い、見られたもんじゃないと書いたところ、コメント欄などで、誰に迷惑をかけているわけじゃない、いいじゃないか、そういう批判はすべきではないというふうなコメントを貰った。という理解は誤解かもしれないが。
 ブログをしながら思うのだが、エントリよりもいただいがコメントが優れていることが多い。特に特定の専門領域に関わることなどで識者の適切なコメント、しかもマスメディアには出にくい貴重なコメントをいただくことがあり、それはなんというか、そういう声が出る場であることにブログの意味があるだろうと実感する。エントリは「私」が強すぎるが、ブログ全体は「私」だけのトーンでもない。また、できるだけ庶民感覚で忌憚なく書いているつもりでも、もっと素直な意見に出会うこともある。今回もそうなのかもしれない。
 リュック老人をそれはそれでいいじゃないか、誰に迷惑かけるわけでもなしはそれはそれで正論だと思う。電車のなかでの携帯電話通話は迷惑だが、では若い娘さんの化粧はどうか。迷惑かけてない点は同じだが、私はみっともないと思う。そのあたりの美観のようなもの、その社会的な意味というのはどうなんだろうか。美観なのだから、私的な領域というのは当然なのでそこで終了ということだろうか。
 前回のエントリを書いてから、ぼんやり昔のことを思った。昔というのは私がまだ子どものころのことだ。あの頃も老人がいた。昨今の老人向けファッションなんてものはなかったし、そもそも着ているものが貧しかった。マジで醜いとしかいいようのない老人・人々もいた、と思うが、自分の記憶のなかでは、不思議とその人の美観の表明というよりあるいはその人の美観の崩壊というより、ある時代の反映だったように思える。話が少しそれるが、私が中学生くらいまで街中にはよろしからぬ映画の、どう見てもこれはないでしょ的なポスターが充満していた。駅のホームにすらあった。そうした街の光景は醜いとしかいいようがないのだが、記憶のなかで不思議な陰影を持っている。子どもだったからというのもあるだろう。
 私が子どものころの老人は醜かったか。素直に言うつもりだが、記憶のなかの老人たちには、その大半に老人の風貌というものがあった。着ている物でも、浴衣の尻をからげたような風体ですら、なにか風流があった。凛としていたということはないのだが、今思い出すと、皆、なにか視線が違っていた。遠くのようなものをゆっくり見ていた。視線が柔らかった。所作に無駄がなかった。立ち居が、老人で身体が弱っているのに、それなりに無駄なく動いていた。私の祖父母たち、明治生まれの日本人だなと今更に思うが、老人の美のようなものはあった。子どもを可愛がるというふうはなかったが、子どもを自然に守っていた。
 それが崩れたように思ったのが、二十年くらい前だろうか。私の二十代が終わり三十になるころか。父が六十少しで死んであまり老人の風体を見せずに消えたこともあり、彼が生きていたらという老人の風景に関心を持ったからかもしれない。
 あれっと思った二つのことがあった。一つは銭湯の老人だ。私は当時銭湯が好きでよく通っていたのだが、老人のマナーが崩れだしたという感じがしていた。老人の裸体などというのは美しいものではないのだが、みな公共空間のなかでその分をわきまえていた。水の使い方にも歩きにも風呂の出入りにも無駄がなかった。ばしゃっというのはあるのだが、それは身体を洗った最後の締めの伝統芸のようなものだった。が、そうした老人が変わってきたと銭湯で思った。その後、私はわけあって銭湯には行けなくなった。その後は知らない。
 もう一つは、それより後になる。街の自転車の老人が危ないと思う機会がふえたことだ。歩道をふらふらと老人が自転車に乗っている。今では見慣れたが、次第に増えていくその光景は奇妙に思えた。もちろん老人だって自転車に乗る。というか、おそらく膝や腰の痛みで、歩くより自転車が楽なのだろう。しかし、これが危ないのは確かだ。いずれ社会問題になるだろうと思ったが、それから十年以上も経つが特にどうってことはない。この間、自転車が事実上存在しない沖縄で暮らしていて戻ってから、さらにその悪化した状況に唖然としたが、さすがに慣れた。
 老人はかくあれとかは思わない。確かに社会に迷惑をかけなければいいのだろう。でも、自分としてはリュックサック老人は醜いという感じがする。ということろで、話が錯綜するのだが、そういえば沖縄から東京生活に切り替えたころ、東京の老人は身綺麗だなと思っていた。電車などに乗ると、沖縄のオジー、オバー風な人はいないという意味だ。
 沖縄のオジー・オバーも言われているイメージほどの老人ではない。むしろアメリカ世時代の青春なので、泡盛は好かんウィスキーが旨いというオジーのほうが自然のようにも思う。それでも、さすがに一群のオジー・オバーターには、人間の威厳が滲む風貌がある。
 とエントリに特に結論はない。あーせーこーせーとか言うわけでもない。ただ、概ね、私が子どものころにあった老人たちには美があったなと子ども心に思ったし、その思いの視線から離れることはないだろう。もちろん、昔のほうが良かったとは思わない。昔の老人のほうがつらく悲惨だった。今の時代のほうが時代としてははるかにましだと、それは確実に思う。

| | コメント (22) | トラックバック (2)

« 2006年4月30日 - 2006年5月6日 | トップページ | 2006年5月14日 - 2006年5月20日 »