« 2006年4月2日 - 2006年4月8日 | トップページ | 2006年4月16日 - 2006年4月22日 »

2006.04.15

韓国人看護師一万人を米国へ

 人権関連ニュースでロイター・アラートネットのヘッドラインを見ていたら、向こう五年間で韓国人看護師一万人を米国へ送るという記事があって、な、なんだそれと思わず記事を読み込んでしまった。記事は”South Korea plans to export 10,000 nurses to U.S.”(参照)である。韓国の国家プロジェクトのようでもあるので、朝鮮日報など日本語で読める韓国紙に関連ニュースがあるかとざっと眺めてみたら、中央日報”韓国人看護婦1万人、米病院に就業”(参照)があった。英米系のソースと若干トーンが違うようにも感じられるが日本語なのでこちらのほうが読みやすいので簡単に引用する。


米政府は、看護婦不足を解消するため、今後の5年間、韓国人看護婦1万人を受け入れる方針を決めた。これは1960~70年代、韓国人看護婦がドイツに進出した当時(約1万人)とほぼ同じ規模。

 ベースとなるのは米国における看護師不足ということと、六〇~七〇年代の韓国人看護師ドイツ進出というのも、あーそーなのかという感じがする。こんなニュースもあるし、”ドラマ『チャングムの誓い』がドイツで放送の見込み”(参照)とか。
 ロイター・アラートのほうではディテールの記載がないが、中央日報によれば、主体は韓国産業人材公団とニューヨーク、セントジョンズ・リバーサイド病院ということらしい。が、同病院のサイト(参照)また関連のHRS Global(参照)には、この関連の情報がなかった。契約は十九日以降なのでそれからのアナウンスであろうか。
 韓国人看護師はニューヨーク州の三十六の病院に配属され、実習生として時給二十五ドルを得るというのだが、つまり、実習生なのだな。しかし、グリーンカードへの道も開けているようだ。

HRSグローバル側は「就業する看護婦は自動的にニューヨーク州看護婦労組に加入、労働条件・処遇が保障される」とし「就業から1年内に英語資格試験に合格すればグリーンカードも獲得できる」と伝えた。

 ちょっとなんと言っていいのか言葉につまる。看護師といっても実際は日本の古語でいうところの看護婦でもあろし。
 日本でも看護師不足は懸念されるわけで、近未来にフィリピンから導入ということになるのだろうかという話は以前、「極東ブログ: 日本の高齢者介護問題は外国人看護師・介護士から検討しよう」(参照)にアイロニカルに書いたことがある。現在の心境からするとこうした問題はちょっと書き飛ばせないなではある。
 韓国でそういう問題はないのか。ロイター・アラートのほうでは次のように補足があった。

An official at the Korean Nurses Association said South Korea has more than enough nurses. "Even if about 10,000 nurses get jobs overseas, it wouldn't result in a lack of medical resources in South Korea," Yi Yun-jeong said by telephone.

 そうなんだろうか、と疑うネタがあるわけでもないのだが。
 YONHAP NEWSというところの同種の記事”U.S. to import 10,000 S. Koreans for nurses over five years”(参照)があり面白い補足インフォがあった。

The move comes as the U.S. government encourages its hospitals to import foreign nurses to fill a shortage of about 300,000 nurses. In New York alone, about 30,000 nurses are believed to be needed right now.

 まず、ニューヨーク州だけで三万人の看護師不足が予想されている。米国全体ではどうなんだろうか。それにしても、ニューヨークの看護師のかなりが韓国人という光景にはなるのだろう。

There are currently about 6,000 South Korean nurses working in the U.S. In the last four years, only 320 South Koreans were employed as nurses in the U.S., according to data from HRS Global.

 全米の韓国人看護師は六千人。この四年では三百二十人ということで、そこから一気に一万人?ということなのか。
 非難とかそういうのはまったくないのだが、この状況というかお隣の国の変容についてはなんだか頭の中がはてな?になってきそうだ。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2006.04.14

教育基本法の改定に関心がない

 教育基本法の改定には私はまったくと言っていいほど関心がない。義務教育は市民生活を営む上でごく最低の知識の伝授さえあればいいし、それ以降は教育とは私学が基本だと考えるので、国家がこうした問題に口を挟むということがまずもって理解できない。もともとこうした法というのは憲法と同じように、国家が義務教育を怠ることがないようにその権力行使を限定し、最低義務の遂行を規定するというだけでいい。そしてその点で現行の教育基本法で欠落しているとも思えない。愛国心云々については、もう勘弁してよという感じだ。愛国心を伝えるのは日本国民の大人の倫理的な義務であり、そんなもの改まって伝えるようなものではない。各人の生き様を通して子供が察するように、そんなふうに大人が生きるだけの問題である。まして日本の愛国心の根幹はその美観である。語るだけ野暮ってものだ。国家の品格とかも薄っぺらな冊子で売るんじゃねーよと思う。
 ネットリソースには今回の改訂をまとめた”現行教育基本法と「教育基本法改正案」の比較”(参照)があるのでざっと見たのだが、「(家庭教育)第十条」とかバッカじゃなかろかと思った。


(家庭教育)第十条
(1)父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとすること。

 こんなのどうでもいいやと思うのだが、どうでもよくないと思うことがある。子供は遊べということだ。初等教育のもっとも重要なことは、遊べ、であろうと思う。
 先日、”極東ブログ: [書評]家族のゆくえ(吉本隆明)”(参照)で吉本隆明の新刊書「家族のゆくえ」(参照)についてちょこっと書いたのだが、この本のなかでとても気になっているのが、子供は遊べという彼の執拗とも言える主張だ。

 少年少女期の定義は何かといったら――「遊ぶこと」がすわなち「生活のすべて」である生涯唯一の時期だ。「生活がすべて遊びだ」が実現できたら、理想の典型だといえよう。遊び以外のことは全部余計なことだ。この理想が実現できなければ、おどおどした成人ができあがる。もちろん、わたしもそうだ。これは忘れてはならないことにおもえる。
 「遊び」が「生活全体」である、というのが本質だから、できれば遊び以外のことはやらせないほうがいい。どんな大金持ちの息子であろうと、どんな貧しい家庭の子供であろうと、生活全体が遊びの時期であるという意味では隔たりがない。みな同じだ。


 どの家庭もたいていその邪道を歩んでいると思う。だいたい母親が邪道だし、場合よっては父親だって邪道だとおもう。あるいは小学校の先生も。
 小学校の先生は勉強なんか教えなくて、子供といっしょになって遊んでいればいい。いちばんいい教育は休み時間にいっしょに遊んで、喧嘩の仕方を教えたりキャッチボールのやりかたを生徒に教えてやることだ。絶対それがいちばんいいとおもえる。

 さて、困った。
 私のような吉本主義者には、そりゃそーだ、というだけのことだが、まるで説明になっていない。なぜそれが本質なのか、おどおどとした大人にしないことがそれほど重要なのかねとか突っ込まれたら返答できるか。
 もちろん、具体的な人間の場なら返答ができる。なぜ人を殺してはいけないのかと問われたら、吉本翁は、じゃ、俺を殺してみなとその胸元ににじり寄る。それが返答ではあるだろうし、子供に遊びだけでいいのかとほざく大人には、けっと言えばいいだけのことだ。だが、それがまるで言葉としての答えにはなっていない。
 そういうものなのか。なにか、この問題には言葉の思想としてのカテゴリーエラーがあるのか。そこがよくわからない。
cover
ああ息子
 吉本はこの本のなかで、柳田国男の「軒遊び」という言葉に着目している。簡単にいえば、幼児期から学童期の中間で、親の目からそう遠くない軒で遊ぶという空間の重要性だ。確かに私などもそうした時期があった。そして子供がまさに「子+ども」であり、年長の子が「おみそ」を見ていた。
 野村進のなんでこんな本書いちゃったんだろうという雰囲気の「脳を知りたい!(講談社プラスアルファ文庫)」(参照)を私はハードカバーので読んですぐに捨てたのだが、一つだけ気になったことがあった。どっかの先生が言うに、もっとも優れた幼児教育は子供を子供のなかで育てるというのだ。進化論的に人間はそうできているとかいう補足もあったかと思う。ああ、それもそうかなと思う。
 大人は子供を大人となるべき何かのように見るが、そう見る大人というのはえてしてなんだか間違った存在としてこの世界に置かれている。人間の本来的な可能性というものがあり、それが子供の時代にかいま見せる何かであるなら、そのことに対するもっとも敬虔な姿勢で教育を捉えるとどういうことになるのか。たぶん、遊べ、であろうと思う。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2006.04.13

イラン問題が日本のエネルギー安全保障に関わるのか

 十一日イランのアハマディネジャド大統領は、イランが低濃縮ウランの生産に成功し核技術保有国に加わったと発表した。ニュースソースとしてはCNN”イランは低濃縮ウラン生産に成功、核技術保有国に 大統領”(参照)など。
 言い分としては原発用核燃料であり平和利用ということだが、濃縮活動の停止を求めていた国連安全保障理事会にとってはこしゃくな一撃となり、いよいよ西側主要国の制裁措置かという流れにはなってきた。
 社説としては産経”イラン核開発 抜け穴ない国際包囲網を”(参照)が扱っていたのだが、ピントがずれていると思う。


 イランの暴走を止めるには、誇り高い同国のナショナリズム、国益、安全保障上の懸念に十分配慮しつつ、国際社会が一致結束してイランを説得し、必要とあれば経済制裁を辞さない国際包囲網を築くことが必要だ。
 しかし、国際包囲網にほころびや抜け穴があれば、効果は生まれない。むしろイランの側を強気にさせてしまう。その抜け穴となる懸念を抱かせているのが、安保理の五常任理事国の中ではロシアと中国である。
 三月末の安保理議長声明は全会一致で採択されたが、そこに至るまでに、両国は経済制裁への言及に反対し、イランの核開発の停止期限を十四日以内から三十日以内に延長させた。
 ロシアはイランの原子力発電所建設に深くかかわり、中国は今年一月にイランが最大の石油輸入先になるなど、両国ともイランとの間には深い経済的利害関係があるからだとされる。

 産経としては国際包囲網とかヘンテコな用語を使っているが中露に視点を置いているということで国連の立場からと見ていいだろう。そして、中露をなんとかすればという甘っちょろいことを言い出しているので、これで産経かよ?という印象も受ける。確かに中露バッシングのトーンは産経のお得意かもしれないが、問題の要点が認識されていない。
 この点「あすを読む」の後釜番組「時論公論」でこの問題を扱った嶋津八生解説員は、国連・国際原子力機関による外交解決、有志連合による制裁、米軍の軍事攻撃という三つの選択肢を示し、実際的には有志連合の制裁となるとしていた。産経社説よりははるかにマシだ。
 具体的に有志連合の制裁とはというと、外交官渡航禁止、輸出禁止、金融機関の凍結といったところで以前のイラクを顧みてその有効性はどうかという問題にもなる。有志連合諸国のなかで反省もあるだろうし、イラク・ケースのような国連という悪の抜け穴もないだろうが、歴史を顧みてもこうした制裁の有効性はそれほどないだろう。制裁と併用する外交のあり方のほうが問われる。
 「時論公論」の嶋津解説員の話だが、この後絶妙にエネルギー安全保障に振れだした。なんだなんだコレはという違和感があった。
 まず、イランの日本向けの原油は総量の二十二%と世界最大というあたりで笑っていいのかただの噴飯物か。嘘ではないのだが、なにを言い出す、オサーンである。ほいで、それが日本側からすれば原油総量の六%となりそこが途絶えると日本はエネルギーに困窮することになると続く。もっとも備蓄で千日は持つと言及しているあたりが可愛い。
 さらに笑わしてくれるのはれいのアザデカン油田開発を取り上げ、日本はこれに二千四百億円を投じるのがフイになると話の展開上、脅す。そして、エネルギー安全保障論が課題になるというお話へ突入。
cover
世界を動かす
石油戦略
 石油危機のころの日本の中東原油依存は九一%で、これが八〇年代には六七%まで落ちたものの現在は八九%と高い。だから、中東が日本の命運だみたいな論である。もうよせよ、と思ったら、石油一般商品論ではなくエネルギー安全保障上の戦略物資論へと転換期が来たのではないかと宣った。石油公団がぷうぷう吹いているのか、NHKの後ろで。
 産経社説ではないが、中国が石油欲しくて世界各国の原油に自主開発で囲い込み路線つっぱしりという状況もあるが、それで原油の一般商品としての位置が転換したとは私には到底思えない。
 日本という国は自由市場さえあれば石油の問題はないのだから、自由市場を守るというのが基本である。他はない。イラク戦争でも米国は石油欲しさに戦争を起こしたとかいうが、米国の石油はむしろ南米に依存しており、本格的な危機は南米の左派化に伴う近未来にある。
 当方もおちゃらけてふかして書いてしまったが、日本が中国様もどきに日本が変貌して原油の囲い込みなんかできるわけもないのだから、取るべき選択肢は少ない。

| | コメント (1) | トラックバック (3)

2006.04.12

ブッシュ2・0

 テーマが絞り切れていないのと資料(ソース)の整理もしてないので散漫な話だが、このところの国際状況で思うことをメモ書きしておきたい。
 今朝のニュースで伝えられたイタリア総選挙だがベルルスコーニ首相率いる中道右派連合が僅差で敗北した。ロイター”伊中道左派連合、選挙結果覆そうとしていると首相を非難”(参照)ではその微妙な状況をこう伝えている。


 中道左派連合を率いるプロディ元首相は、4月9日―10日に実施された総選挙で勝利を宣言し、内務省が発表した公式結果でも、中道左派連合が上院・下院ともに議席の過半数を獲得したことが明らかとなった。
 しかし、ベルルスコーニ首相は投票に多くの「不可解な」点があったとして中道左派・中道右派両連合による統一政府樹立の可能性を示唆している。

 具体的にどういう動向になるかはわからないが、親米的なベルルスコーニ路線は一旦挫折したと見ていいだろう。
 これで明確に政権交代となると、二年前のスペイン総選挙で親米アスナール政権についで英国以外では西欧側での親米勢力が崩れる。恐らくイタリアのイラク撤兵はスケジュールに載るということになるだろう。単純に考えればブッシュ政権への打撃となると言っていい。
 中道左派連合を率いるプロディ元首相だが、欧州委員長を務めたこともあり、EU重視の姿勢を強化するだろうと思われるが、肝心のEUの動向がまた見えない。このあたりの問題について仏雇用策撤回に関連して今朝の毎日新聞社説”仏雇用策撤回 EU分裂のきしみが聞こえる”(参照)が意外によく書けている。

 フランスでは昨年、北アフリカ系移民層の若者を中心とする暴動が続いた。その背景にも、移民層の高い失業率があった。欧州憲法批准の是非を問う国民投票(昨年5月)で「ノン」が多数を占めたのも、EU拡大を通じて東欧などの安価な労働力が流れ込み、仏国民の雇用が脅かされるという危機感が強かったためだ。
 欧州統合の旗振り役だったフランスやオランダの批准失敗により、欧州憲法の発効は事実上不可能になった。「統合の深化と拡大」をめざす動きは停滞し、EU各国は内向きの傾向を強めたのである。求心力を失ったEUは、分裂と崩壊への道を歩み始めたのだろうか。CPEの撤回劇は、迷走する欧州の姿を象徴しているようにも見える。

 私には「求心力を失ったEUは、分裂と崩壊への道を歩み始めたのだろうか」という表現は洒落ではなくやはり懸念として受け止められる。ただ、フランスの動向についてはサルコジが盛り返した後の動きとして揺れが戻るかもしれないとは思うが、基本的にはフランス内政の問題ではなくそれを取り巻く状況の因子が大きいだろう。
 英国の動向は私には微妙としか言いようがない。個別の問題ではわかるし、以前だったら英国民のようにブレア批判でもしたくなるが、このジョンブルさんのタフなことは近年の歴史で証明済み。
 西欧側から米国、ブッシュ政権側に目を移すと、日本では依然陳腐なブッシュ叩きみたいな論調が目に付くようだが、このところのブッシュ政権の動向はかなり穏当な中道に向かっているように見える。昨日の朝日新聞社説”保護主義 米国の責任は大きい”(参照)でも、論旨はかなり粗いのだが大筋で追えば現状のブッシュを是認せざるをえないように読める。

 世界を見渡せば、資源やエネルギー、通信などの分野で、外国資本に国内産業が支配されることへの警戒感や不満があちこちで強まっている。保護主義や排外主義の誘惑が広がり、南米の選挙では反グローバル化を叫ぶ候補が国民的な人気を集める現象も起きている。
 中国やインドなど新たなライバルが台頭しているときに、保護主義に走って競争から逃げては「米国は停滞した二流経済に向かう」。ブッシュ大統領が1月の一般教書で述べた言葉だ。

 米国から世界全体を見渡しても「保護主義や排外主義の誘惑」といったものは感じらるし、その中で昨今のブッシュ政権はとりあえず現実路線的ではある。
 というところで目下のブッシュ政権の課題かに見えるのは移民問題である。同社説ではこう簡単に触れている。

 もっと厳しく不法移民を締め出す法案が議会にかかっているのも、治安対策ばかりでなく、外国人が自分たちの仕事や生活を奪っているという被害者意識が国民に広がっているからだろう。
 こうした保護主義的な動きを促しているのは、膨らむばかりの貿易赤字だ。05年には初めて7千億ドルを突破した。なかでも中国との赤字は2千億ドルを超える。安価な中国製品が市場を席巻するなかで、中国政府の硬直的な為替管理への不満が高まっている。

 保護主義の主因を「膨らむばかりの貿易赤字」とするのは短絡的にも思えるし、それはそれとして別の問題ではないかと思う。が、「不法移民を締め出す法案」とやらについては、米国を二分するかのような問題として盛り上がっている。この問題は上院下院、共和党民主党というダイコトミーがうまく機能しないのに議論が二分するという奇っ怪な様相を示しているので立ち入って説明するのがうんざりしてくる。
 ただ、単純に言えば、この問題、やはりブッシュの路線、つまり、現状の不法移民を穏和に認可する以外の対処がありようがない。もともと、米国は定期的に徳政令のように不法移民を米国に含み込むシステムがあったと見ていい。これが機能しなくなったのはむしろセプテンバー・イレブン以降の変化で、一期目のブッシュにその意図があったのか、むしろ現状のブッシュの穏和な路線のほうがパパ・ブッシュに近く本来のブッシュ政権ではないかとも思うが、歴史は逆転しない。
 痛みはともなうが現実的にな解決策の選択がないというとき、政治的な議論はあまり現実の解決に役立たないかに見えることがある。余談で言うのもなんだが、日本でも小沢民主党を取り巻く言論もポスト小泉競争でもタメの議論のような構図が浮いているように見える。現実的な解決策が絞られている状況でどのように痛みをバッファするかという実務屋的な言論というか指針があればいいようにも思うが、むずかしい。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2006.04.10

[書評]家族のゆくえ(吉本隆明)

 吉本隆明の新刊書を読むことはないだろうと思ったが、二月に出たらしい吉本隆明「家族のゆくえ」(参照)を書店で手に取り、ぱらっとめくるとこれはという思いがあった。即買って読んだ。吉本の本を買って読みふけるというのは何年ぶりだろうか。
 一読後だが非常に微妙な部分が多いので数回読んでから感想でも書こうかと思ったが、他にブログのネタもないので簡単に書いておきたい。

cover
家族のゆくえ
 最近この言いかたが多いのだが、この本もまた若い人が読めばトンデモ本だろう。知的な人にとっては噴飯という印象があってもしかたない。本当に吉本隆明が老いてボケてしまったという評すら正当かもしれない。たとえばこんなくだりだ。

 一方、現在は昔とちがって、結婚なんかしなくても性的な生活はわりあい満たされるようになっている。そういう風潮がだんだん強まっている。だから、べつだん結婚をしなくても性的な欲求不満は募らない。そこで結婚しない女性が増えてきて「晩婚化」にますます拍車がかかっている。
 これが「男女同権だ」といって少し男をバカにしてきたことの帰結だが、こうした流れは生涯出生率の低下だけでなく、もっと重要な問題にかかわっている。それは子供の性格形成、こころの成育にかかわる問題だ。

 ぶっと吹いてしまう人も多いだろうと思う。そしてこの先、母親は赤ん坊が満一歳半くらいまで育児に専念しろという話に続く。さらにその先はちょと笑い話としてしか受け取れないような展開にもなる。
 と、揶揄のように言うのは容易い。爺さんもう時代じゃないよというのもある。だが、私はどっちかというと、吉本さん老いにかこつけてかなり言い切ったなというふうに思った。
 「今の時代は女が男をバカにしている」というのは酔客の放言というくらいにしか響かない。が、男はこの手の問題をある側面で真剣に考えているものだ。なんだか私も老人力を借りてろくでもないことを言いそうになるが、男というのはそそられなくなって立つべき時に立つくらいな気概がないとなぁ、みたいなけっこう深刻な思い詰めというのをもっているものだ。そこはバカにされてはなるまいぞと思っている……というな意識それ全体が滑稽なのだが、これはちょっとどうしようもないなという次元である。
 社会の中では黙っているし、おいそれブログなんぞに放言できないけど、ああ、これはどうしようもなあという性のアイデンティティにまつわることは多いものだ。そしてこの「男」の意識は、父性的な意識でもあり、実際の家族の意識である。と、男の側で書いたが、恐らくこれの近似の思いが女性にもあるだろう(たぶん、女性の性の問題は結婚がなくても性の満足が得られるといったほど浅薄ではないだろう)。
 まあ、そういう分野の言葉というのはオモテには出てこないし、言えば、必然的にとんでもない話になる。ただ、その微妙な部分を吉本さんはかなり言い切ったなという感じがした。老という視点から人の性の人生を見るとこう見えるかという感じでもある。
 この本はよく読むと、実は国家論にもなっていて、しかも、え?と思われるような最後の吉本を暗示する言及もある。例えば、国家の必然性というのを彼は最後に、そのままありのままに否定しまうかもしれいない気配がある。
 一読後心にひっかかるのは、彼が地域性と呼ぶもの、それには歴史性も含まれうるのだが、それは小さな意味での国家の幻想ではないかと私は疑う。そのあたり、あと数回読んで私は考えてみたい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006.04.09

[書評]終風句集 終風且暴(石垣終風)

 この一年毎日日記に書いていた俳句を「終風句集 終風且暴」(石垣終風)(参照・PDF)としてまとめてみた。終風は私の洒落の雅号である。このエントリはそんな話。

cover
終風句集
終風且暴
PDF・372KB
 昨年桜の咲くころふとしたことで一年俳句を書いてみようと思った。今日ぶらっと桜見に行き、そういえば一年経ったなと思い出し、まとめてみた。気が付くと一年ちょっと過ぎていた。
 この一年はとにかく毎日一句作っていた。俳句が好きかというと、なんとも言えない。十八、十九歳のころある俳句結社に所属していたことと、若気の至りで前衛俳句を作っていたことがある。まだ加藤郁乎もわけのわからない俳句を書いていたころだ。高柳重信、金子兜太、阿部完市も気迫があった時代だった。
 加藤郁乎を模倣したことはないが、高柳重信の俳句会に出てぶいぶい言っていたら、会の後の飲み会(といっても十代で酒も飲めなかったが)で高柳重信から「加藤郁乎も、最初は、君みたいなもんだったよ」と言われた。
 詩だの俳句だのといった創作文学は気恥ずかしいもので二十歳になってやめた。というか、そういう文学的な志向そのものを恥ずかしいと思うようになった。小説も書かない。と言っておきならが先日書架を整理したらいくつか短編が出てきて驚いた。忘れていた。
 三十代になったころ洒落のわかる仲間がいたので一時期連歌をよくやった。歌仙である。遊びとしては楽しいものである。宗匠もやった。それも忘れた。今でもやれば楽しいのだろうが、今の歳になってみると、なんとなくおっくうなものだ。
 この一年俳句を作る際、もう創作とかそういう意識はなく、ただぼんやりなんとなく作ることにした。もともと技巧だけの俳句を作っていたのだが、技巧は凝らさないようにした。当然、駄句が多い。駄句ばかりなのだろうとも思う。気にしない。
 そんな感じで日々句を作りながらそれはそれで楽な感じだし、近代俳句が志向した疑似的な文学性から離れて、意外とこれが今の自分の俳句らしいかいう感じもした。
 まとめるにあたってたいして推敲もしなかった。読み返すとこの一年の四季の思いが去来した。まあ、人生の一年、俳句を書いていたことがあったというわけだ。
 もう俳句は作らないと思う。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2006年4月2日 - 2006年4月8日 | トップページ | 2006年4月16日 - 2006年4月22日 »