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2006.12.31

ポーランドのミサイル防衛メモ

 明日〇七年一月一日からEU(欧州連合)にルーマニアとブルガリアが新規加盟する。EUはこれで二七カ国体制となり、人口規模としては約五億人となる。ちなみに、米国が三億人。EUも米国に対抗できるブロック経済となったか。
 のっけから余談にそれてしまうが、中国の人口は十三億人。私のような昭和三十年代生まれの世代からすると戦後の中国は人口爆発のような印象を持ちがちだが実際には人口の増加率は低下しており、おそらく早晩頭打ちになるだろう。富裕層や中間層も生まれつつあるので、アバウト過ぎる言い方だが、そうした層の経済力をEUや米国に換算すると二億人くらいなものだろか。いずれにせよ日本を抜いていく。
 EUと米国はシニョリッジ(通貨発行益)ではないが貨幣コントロールができる。ユーロとドルの貨幣の強さがどうなるか。対立するのか。私はよくわからないが、ざっくりとしたところユーロにはドルに対抗する力はなさそうに思える。
 世界経済のプレーヤーとして日本はEU、米国、中国に比べて相対的に弱体化していくので、そのブロック化のどこにつくかという岐路もあるかのようだが、実際には円はドルと同じなので、選択肢はないのだろう。この点については実質中国もその類なので、米国帝国というのはそうしばらくは揺らがないのではないか。
 それ以外の国といえば一応英国があり、問題を孕みつつも繁栄している。インド、インドネシア、また格段に落ちるがオーストラリア、台湾などがこうした大きな経済ブロックに翻弄されるのだろう。おっと、重要なプレーヤーがいた。ロシアである。ロシアの人口は一億人強。EUとも米国とも対立している。
 大局的に見ると、EUがイスラム圏となるように、ロシアは中国に飲まれることになるのだろうが、そのあたりの大局こそもっとも嫌われるものだ。先日NHK番組でプーチン親衛隊的な組織について見たのだが、ちょっと意外に思えたのは、愛国心の文脈で若い女性は子供を産もうみたいな動きがあることだった。ロシアのナショナリズムは出産の奨励に向かっているのかと思った。
 話が散漫になってきたが、国際的な状況について、特に経済的な利害の問題についてはこのブロック間の関係が軸になるのだろう。それにべたに軍事が付随してくる。ということろで、ルーマニアとブルガリアのEU加盟の話に戻ると、EUは対立するロシアに接近した形で拡大することになる。
 これにべたな軍事問題がどう連動するのかなのだが、このブログを開始した三年くらい前はボナパルトEUみたいな構想からポストNATOの流れでEU軍かとも思えたが、その流れは消えた。意外にもこの流れのなかでけっこうなキープレーヤーだったのがポーランドだった。有志連合ではスペイン、イタリアに続き、米国側についた。
 とはいえ米側べったりではありえないポーランドは〇四年にEUに加盟。この時点の加盟人口の大半はポーランドだった。ポーランドをEUに取り込むというのは、ロシアが猛反対したように、EUと米国によるべたな対ロ戦略でもあり、この動向はれいのオレンジ革命とやらのスラップスティックにも結合していたようだ。が、この動向はすでに大きく挫折したと見ていいだろう。単的に言えばロシアの勝ち。
 一一月二四日ヘルシンキで開催されたEUとロシア首脳会議ではパートナーシップ協定が決裂。理由は、ポーランドの反対で欧州委員会が会議当日までに同協定の交渉権限を得られなかったとされている(参照)。そこでポーランドが反対した理由なのだが、ネットを見たら、日経ビジネス”ロシアとEUの関係がぎくしゃくしている理由 (門倉 貴史の「BRICsの素顔」”(参照)が扱っていて、農業問題だとしている。正しいのだろうが、もう少し離れてみるとポーランドの地政学的な意味が気になる。
 EU憲法がぽしゃり、フランスが親米化し、ドイツが保守化し、という流れで、ポーランドの位置も微妙になってくるのだが、全体構図としてはNATOに戻るような傾向を示した。簡単に言えば、ポーランドは米国のミサイル防衛システムに組み込まれる。
 この話自体はすでに昨年の時点で出ており、ブログの世界ではカワセミの世界情勢ブログ”ミサイル防衛の欧州配備”(参照)でふれている。


 ハワイ沖で米国のイージス艦Lake Erieが初めてミサイルから分離後の弾頭を撃墜することに成功したと報じられている。(参照)重要な進展だが、米国内では多くのステップの一つに過ぎないと考えられているのか扱いは大きくないようだ。むしろ欧州配備に向けたニュースに関心が集まっているようだ。(参照2)今日は軽く触れておきたい。
 欧州に対する攻撃の防衛のため、ポーランドにミサイル防衛のための基地を設け、主として中東やアフリカからの攻撃を防ぐことが検討されているらしい。大陸間弾道弾に近い中距離ミサイルが主なターゲットと見られるが、もう少し短距離のミサイルについてはイタリアやスペインも想定にあるようだ。

 カワセミさんはここの時点では「中東やアフリカからの攻撃を防ぐ」としているが、すでに名目はイランということになってきている。しかし、対イランのはずがないと見て、ロシアは反発している。二二日付けRosBusinessConsulting”Russia opposes US missile base plans in Poland ”(参照)より。

RBC, 22.12.2006, St. Petersburg 16:05:38.
 Moscow objects to US plans to install its third missile defense shield in Poland, Russian Deputy PM and Defense Minister Sergei Ivanov said at the launch of a new radar system in the Leningrad region today.
 In the minister's opinion, there is no political or military sense in the establishment of yet another missile defense center by the US. Commenting on statements that the system was being designed to intercept intercontinental ballistic missiles from countries like Iran and North Korea, Ivanov assured that neither of these states had similar missiles.

 中国も関心をもっているのだろう。二三日付けCRI”米国、欧州でミサイル防衛システム設置の意向を表明”(参照)より。

 アメリカミサイル防衛局のヘンリー・オベリング局長はこのほど、チェコのメディアのインタビューに応え、「ヨーロッパでミサイル防衛システムを配置することによって、アメリカの全般的な防衛システムはその安定性を強化できるだけでなく、ヨーロッパの同盟国の安全をも確保することができる」と述べました。


 報道によりますと、アメリカはいま、NATO・北大西洋条約機構の加盟国であるチェコやポーランドと協商し、この二ヶ国でそれぞれミサイル防衛ライダーシステムとミサイル迎撃システムを設置しようとしているということです。

 確か英国にも配備されるはず。
 ただ、対ロというならこの程度のミサイル防衛システムは機能しない。現状は政治的な象徴性しかないだろう。いずれにせよ、イランはダシである。北朝鮮がそうであるように。

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2006.12.30

[書評]エコノミストは信用できるか(東谷暁)

 首相の諮問機関、政府税制調査会の会長を本間正明が辞任し、その後釜には税調委員伊藤元重東大大学院教授が噂されていた。私は安倍政権というのは実質リフレ政策というかインタゲ政策というか、いずれにせよ強制的にインフレを起こす金融政策に舵を切るんじゃないかと予想していたので、これもスケジュール通りなのかなと内心少し思っていた。そうか、マジ看板でリフレか。
 ついでに、日本の失われた十年とはなんだったのだろう、そういえばバブルっていうのも結局なんだったのだろう、と、自分が生きていた時代が歴史になっていくヴィジョンに捕らわれ、この歴史をどう見ていいのか少し戸惑った。そんなのある程度自分の考えがまとまっているかと思ったが、案外そうでもなかった。ニューズウィーク日本語版は創刊からずっと読んでいるが、クルーグマンが札を刷れといってから十年経つなと懐かしく思った。

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エコノミストは
信用できるか
 税調だが伊藤教授は固辞し、香西泰日本経済研究センター特別研究顧問が内定した。おやという感じがした。考えようによっては税制が問題であって金融政策ではないから、このポジションにリフレ派というわけもないのかもしれない。ネットのリフレ派さんたちもあまり関心ないようでもあった。
 それにしても香西泰かと、思い出したのが本書「エコノミストは信用できるか」(参照)である。二年前の本だ。当時、名立たるエコノミストをジャーナリスティックに撫で斬りした論考は当初文藝春秋だったかで読み、その後この新書で読んだ。新刊書時点に読んで、ふーんと思ったが率直なところ私はよくわからなかった。手法としては面白いし、エコノミストというのはこういうふうに見えるものだろうなと思った。気になったのは、エコノミストに意見の一貫性と言われてもその意見の奥行きのような部分は個々の引用からはわからないのではないかということと、自分は日本経済はリチャード・クーの見立てでいいと思っていたので、こういう評価もあるのかということだった。
 読み返してみて面白かった。意外というくらいバブルや不良債権の経済学的な意味をスルーしているのが爽快でもあった。そういえば、文藝春秋に載っていた東谷暁の郵政民営化議論はけっこう変なしろものだったなというのも思い出した。ちょっとしたエンタテイメントなのだ。出てくるエコノミストもキャラの描き方として見ないとな。
 そんななかで香西泰は格段に軽い感じのペーソス・キャラで描かれていて含蓄があった。本書のまとめではこう。

香西氏が多くの仕事をしてきたことは間違いない。しかし、あまりにも辻褄合わせの発言が多くはなかったかだろうか。八〇年代バブルを見誤り、九〇年代アメリカの動向を見抜けず、IT革命に肩入れし、「仮説」によって構造改革を支持し、不要債権処理でも最悪の方法を答申した。日本経済新聞系のシンクタンクの長を続け、日本経済新聞と同じ誤謬の道を歩んだのだろう。別の研究機関、たとえば大学などで活動していた場合は、別の香西氏がいた気がして惜しまれる(合計=六〇点 九九年=B3 〇一年Ba3)。

 評者の思い入れが同情的なのは、実際に団体の長となるにはそんなものという了解があるのだろう。たぶん、税調でもそういうことが期待されているに違いない。めでたしめでたし。
 本書を読み返しながら、今の時点で考えると、IT革命騒動の六章と不良債権処理の七章については、前者は昨今のウェブ2・0論、後者は地方自治体破綻とだぶって読める部分があり、本書のようにこの問題を済んだこととして歴史の外側から冷やっと見ているのも違うかなとも思った。
 いずれにせよ、安倍政権下ではマジ看板でリフレ政策もインタゲ政策もないのだろう。永遠にいざなぎ超えを続けていくなだらかな坂道が続くのだろうか。しかし、来年からは二〇〇七年「問題」が起きる。失われた十年に取り残され、排除された人々の数が日本社会の中心部に移動しつつあるのと対照的に、潤沢な一部の老人たちが社会活動や投資を活発にやってくれるようになるのだ。ふふふ。

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2006.12.29

アルファブロガーなど雑感

 数日で2006年が終わる。どういう年だったか自分に問うてみてうまく焦点が浮かばない。このブログについて言えば今年で三年が経過した。エントリ数もたぶん初夏のころ千を超えた。自分なりに感慨があったが、そうしたことを振り返ってここにエントリの形で書いてみたいとは思わなかった。うまく言えない疲労感のようなものもあった。秋頃、体調を崩したこともあって一日一エントリを書く気概は抜けたのだが、顧みるとこの三年は気概のようなものを自分なりには持っていた。
 そうした一つのきっかけとなったのは、FPN主催の「アルファブロガーを探せ 2004」という企画で、論壇系のアルファブロガーとして選ばれたことだった(参照)。嬉しく思ったことは確かだが、困惑もした。「あんなくだらねないブロガーがアルファブロガーなんてちゃんちゃらおかしい」という趣旨のコメントもすでにいただいていたし、たぶん耳を澄ませばもっと聞こえることだろう。

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アルファブロガー
11人の人気ブロガーが
語る成功するウェブログの
秘訣とインターネットのこれから
 私がその時思ったのは、自分がアルファブロガーだという達成ではなく、一つの原点としてみようということだった。そこから自分ができる限りでいいから、アルファブロガーになってみようと。もちろん、そう努力してなれるものでもないが、努力というのか意志というのは、その本質は、宣長先生の言うように倦まずたゆまぬことが肝要なものだし、自分の生きた時間のなかにそうした石碑のような何かをもう一つ作ってみたいとも思った。
 思い出すことがあった。私は高校時代皆勤賞を取っている。こっそりと意志を持ち努力をした結果だが、誉められたいとは思わなかったし、そうした賞が存在することも知らなかった。卒業式間近に校長先生に呼ばれてこっそり賞状をもらった。こういうのを大っぴらに誉めてはいけない時代になったのでねと彼は微笑んだ。
 話をFPN主催「アルファブロガーを探せ」に戻す。今確認したら、今年2006のアルファブロガー選出の投票締め切りは来月二〇日まで(参照)とのことだ。今回は投票に加えて以下のように選考されるらしい。

 なお、今年は単純な人気投票ではなく、皆さんに投票いただいたブロガーをノミネート候補として、サイドフィード、ライブドア、はてな、テクノラティ、日本技芸などの企業の方々にもご協力を頂き、多角的な分析をした形で結果発表をする予定です。

 どんなブロガーが選ばれるのか、私のまったく知らないブロガーかもしれないなと興味深い。
 なんか先輩風を吹かしたような物言いでむっとされるかたもあるだろうが、どんなブロガーでも、よほどのことがなければ、一年は継続された人がよいと思う。ブログの世界では、私のように匿名のブロガーが多い。匿名だと無責任に言いたい放題を語るものだと批判されることも多い。だが、最低でも二日に一エントリくらいのペースで一年継続されたブロガーはそのエントリの総体がそのブロガーを定義しうるし、いわゆる匿名とは違うものになるだろう。
 私もできるだけ多くの人にブログを勧めたい。ふと思いつく理由は二つ。一つは、人の脳というのは、どうやら出力的にできているらしいということ。書いて表現する・出力することで知識が組織化されるようだ。書いてみることで自分が何を考えているのかがはっきりする。もっとも人様に見せるものを書くなら考えをまとめてから書けという意見もあるだろう。それでもブログのエントリというのは、思考の生成過程的なものでもいいのではないか。
 もう一つの理由は、エントリが蓄積されることで、自分を客体化することだ。言ってることがころころ変わってもそれでいいとは自然に行かなくなる。過去のエントリには、それなりの一貫性が求められる。また間違ったことを書いたらそれがきちんと残ることで自分の限界が見える。自分探しをする人なら、一年ブログを書けばそこに文章で客体化した自分がいることがわかる。
 実際にブログを始めて、ある程度注目されるようになると、というか注目されるということ自体が反感を持つ人を吸い寄せることでもあるので、心ない罵倒のコメントなどをもらうことになる。これはとても嫌なものだし、嫌なものだよということはブログを一年くらい書いてない人には本当のところは通じない。反面、その頃には、本当のところが通じるブロガーを見つけるセンスが身に付く。

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2006.12.27

ハイデガー「技術論」から考える新しいゲシュテル

 この間というかこの数年ハイデガー「技術論」のゲシュテル(Ge-stell)の視点から情報技術や超国家性について折に触れて考えているのだが、うまくまとまらない。そんなことを書くのはつらいし、およそ読みに耐えるものでもなかろうと思っていたのだが、なんとなく年越し前に少し書いておきたくなった。
 ハイデガーの「技術論」は一九六三年に発表されたもので、その後七〇年代から八〇年代、九〇年代と、いわゆるテクノロジー対本来の人間という枠組みで問われてきたように思う。子細に見るなら、七〇年代はサルトル流実存主義の系譜、八〇年代にはニューアカ的な例えばデリダの背景的な後期ハイデガー論とも関係しているだろう。九〇年代には浅薄にジャーナリスティックなハイデガー論も起きたが、今となっては収束したかに見える。現在、ハイデガー「技術論」がどのように問われているのか、もはや時代に問われることはないのか、よくわからない。自分にとっては、インターネットの登場以降の情報技術の関係でハイデガー「技術論」のゲシュテルが気にかかっている。

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ハイデガー入門
竹田青嗣
 ハイデガーについて手っ取り早く知るには、後期哲学までを俯瞰した竹田青嗣「ハイデガー入門」(参照)が簡便かと思う。ただ、竹田のハイデガー観は彼のフッサール的な視点のせいか初期ハイデガーに重きを置いているため、後期像が見えづらい。また前期についても木田元「ハイデガー『存在と時間』の構築」(参照)が指摘しているように七〇年代的な実存主義的な理解は文献学的に是正されるべきなのだろう。ただ、この木田の読み直しから後期ハイデガー像がどう描かれるかなのだが、入門書的な「ハイデガーの思想」(参照)はやはり前期の「存在と時間」に焦点が当てられている。哲学を学ぶという点では一つの手順としてやむを得ないのだろうが、後期ハイデガー「技術論」の今日的な意味を考えるには迂遠すぎるし、おそらくハイデガーが晩年意図したところでもないだろう。
 竹田の入門書ではこうまとめられている。

 ハイデガーは一九六三年に『技術論』を刊行する。これは一九五〇年前後におこなった一連の講義がもとになっているが、その概要はつぎの通り。
 まずハイデガーは、技術は技術の本性と同じものではない、と言う。では「技術の本性」とは何か。それを表わすのは「ポイエシス」という言葉だが、これはもともと「出で・来・たらすこと」(=その本性を露わにさせる)という意味を持っている(アレーテイアやピュシスと同じ構造だ)。すぐ分かるように、「ポイエシス」は「ピュシス」の概念と深く繋がっている。「フューシス(注 ピュシスのこと)は最高の意味においてポイエシスである」。

 技術の本性はポイエシスであるという理解に誤りがありそうにも思えるが、もう少し続ける。

 もう詳しい説明は不要だと思うが、ハイデガーによれば、もと「ギリシャ人の意味において」は、「ポイエシス」、「ピュシス」、「アレーテイア」、そして「テクネー」という言葉はすべて根本的な意味において連通管のように底でつながっていた。それはすべて、「ほんらいあるもの」をその本来性において「出で・来・たらす」、「露わにする」、「隠されないさまにする」といった意味をもっていた。ところが、

 ここでハイデガーの技術論が引用されるのだが、その前に、竹田はこの本来性をスタティックに見ていることに注目しておきたい。ハイデガーは言う。

近代技術を終始支配しているこの露わに発くということは、しかし今では、ポイエシスの意味における出で・来・たらしの形で展開されているのではない。近代技術のなかで統べている露わな発きとは、自然にむかって、エネルギーとして搬出され貯蔵されるような、エネルギーを供給すべき要求を押し立てる挑発(ヘラウスフォルデルン)なのである。

 竹田はこう解説する。

 いまや農夫の仕事でさえ、近代的な意味での「挑発」になってしまった。「挑発」とは、自然を、人間の観点から、一方的に人間に役立たせるために利用すること、を意味している。しかもそれだけではない。自然は形而上学的な(つまり人間中心主義的な)視線の中で、「挑発」の対象とするものだが、そのことはじつは、「人間自身の方がすでに自然エネルギーを搬出するように挑発されている限りにおいてのみ」可能になっているのである。そうハイデガーは言う。
 つまり、近代技術の本質は、「人間」-「自然」の双方がともに全体的な「挑発」の対象となっている構造として、はじめて理解できる、ということになる。近代技術のこのような本来的な構造を呼ぶのに、ハイデガーは「立て・組」(ゲシュテル)という言葉を示す。

 この竹田の理解も微妙なところだ。彼は、総じて、挑発は人間対自然の関係性に置かれ、その上でそれらを支配する全体構図として理解しているようだ。また彼はハイデガーの技術論を、「存在と時間」における本来性と非本来性との対立と類似の構造のなかに流し込み、自然と人間に介在する技術の本来性をハイデガーが問うているのだというふうにまとめていく。

こうして人間が近代的に歪められた技術の本性、「挑発」=「立て・組」を棄てて、「真理」を露わにするもの」として技術の本来性に目覚めるべき道すじをもつ、というストーリーは、人間が「頽落」した世人自己を棄てて、「本来的」的な実存の可能性に目覚めるのと同じ構造になっていることが分かる。

 ここまでまとめられると、私は竹田のゲシュテル理解が違うのではないかと思えてくる。私は、ゲシュテルそれ自体が存在のダイナミックな開示性であり、そのなかに人間と自然が仕組まれていると解釈したい。比喩的な言い方をすると、私たち現在の人間はガンダムスーツのようなゲシュテルのなかでどのように自覚するかということだろう。
 竹田のような理解によるハイデガー「技術論」的な世界からはすでに今日的な視点や問題意識は見えてこない。ただ、竹田のフッサール的なコギトからの視点からは、それ自体を超越的に包み込むダイミックな存在の歴史というものは無根拠なおとぎ話に見えることだろう。
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ハイデガーの技術論
加藤尚武
 疑問を原点に戻して、ハイデガーの「技術論」とは何か?
 この考察・再考に役立つのが、原文対訳の多い加藤尚武編「ハイデガーの技術論」(参照)である。まえがきはこうだ。

 この本は、ハイデガーの技術論をすこし本格的に研究しようとする人のための入門書である。ハイデガーのドイツ語を読みこなす練習書という意味もこめてある。ドイツ語を習っていない人は、ドイツ語をまったく無視して読んでいただいて差し支えない。それでもハイデガーの技術論が言葉の意味をしっかり押さえ込んでいかないと読めないという性質のテキストであることが分かるだろう。手っ取り早くハイデガーの技術論について要点を知りたいと思う人は、そういう手引き書は存在しないし、存在しえないことを思い知るべきだと思う。

 確かにそういう趣があり、哲学の授業を丹念に学ぶ喜びを感じさせる本でもある。ただ、この本で編者となっている加藤尚武自身のゲシュテル理解がこれでいいのか、こう言うと僭越なのだろうが、私はやはり疑問に思える点はある。しかし、それについてはここではふれない。
 本書ではゲシュテルは「徴発」と訳されている。戦時の意味を込めている。

 ハイデガー自身、「兵士の召集」とか「軍事物資の調達」とかいう日常語と近い意味で、このゲシュテル(Gestell)という言葉を使っている。

 そして加藤はその先に炭坑採掘機械がゲシュテルと呼ばれていたという経験談からこの語の語感を語る。
 私の関心事は二つである。一つはゲシュテルと情報技術の関係である。もう一つはゲシュテルと国家の関係である。
 ゲシュテルは、自然が内包するエネルギーを徴発するというイメージでまず描かれている。だが徴発されるのは自然のエネルギーや資源だけではない。ハイデガーの原文を受けた加藤の説明を借りる。

 この文章は「シュテレン」(stellen)づくめで書かれているが、この「シュテレン」の元締めが「ゲシュテル」(徴発性)である。
 たんに資材を調達するだけではなく、世論とか、意見とか、文化とかまで調達し、取り立てていくというあらゆるものを駆り立て、取り立てていく見えない力が働いている。誰かが私腹を肥やすために世論操作をしているということをハイデガーが言いたいのではない。近代技術の文化の根底には調達のための調達、取り立てのための取り立てという奇妙な性格がある。

 徴発の対象は、情報であり大衆の関心でもある。ここで、いわゆる情報化=マスメディアとして新聞・テレビ、そして対価されるコマーシャルメッセージを考えれば、それらがすべて商業主義や特定のイデオロギーに情報と大衆の関心を徴発するゲシュテルであることがわかる。
 だが現在の私たちはこのゲシュテルの上に、Googleのような奇妙なゲシュテルを見つつある。ここでいうGoogleは象徴でしかないのでべたにGoogleでなくてもよい。いずれにせよ、ネット検索技術や情報共有技術というものもゲシュテルとして露わになりつつある。これらは、旧メディアとしてのゲシュテルと現象面で対立しているのか、ゲシュテル自身の別の発現なのか。おそらくゲシュテルそれ自体の新しい発現なのだろう。ではその意味、つまり人間によるその存在了解はどのようにありうるのだろうか?
 もう一つの関心、国家と超国家の関係もまさにGoogle的なもので比喩的に描きやすい。その前に。随分と考えたのだが、国家がその経済成長なりでゲシュテルの発現を内部に生み出すのか、ゲシュテルそれ自体が国家を生み出すのか? 加藤尚武編「ハイデガーの技術論」には轟孝夫の関連した興味深い論考がある。私としては、ゲシュテルが国家を生み出すのだと考えてよいように思う。つまり近代国家を特徴付ける国民皆兵それ自体がゲシュテルの現れなのだろう。
 このゲシュテルは世界なかで各国家を対立的に生み出していく。だが、他方現在Google的な超国家の情報機構は本質的に国家を超える徴発(ゲシュテル)として現れている。これはいったい何なのだろう?
 単純に言えば、Googleが世界を支配しようとしているのだ、というように単一帝国的な志向を持つゲシュテルと理解することもできるだろうし、そうした警告も少なくない。だが、GoogleというゲシュテルはGoogleという単一の機械である必要もなく、それらが均衡しても特異な発現が止まるわけもない。やはり国民皆兵的な徴発性を無化するゲシュテルとなっていくように見える。
 ハイデガーの「技術論」の視野に、こうした情報を駆り立てるゲシュテル、国家を開くゲシュテルということがあるだろうか? ただ、この裏側で、国家と結託した貨幣操作技術としてのゲシュテルが大きく動いているのも事実だ。

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2006.12.26

トルコのEU加盟問題近況メモ

 トルコのEU加盟問題のメモ書きをこの時点で残しておくべきか、確か来月に会議があるのでそれを待ってからにするか。しばしためらっていたところ、先日ぼんやりヴィデオレコーダーに貯まっているクローズアップ現代を見ていたら、二十一日付けで「遠ざかる融和 ~トルコ・EU加盟交渉凍結の波紋~」(参照)をやっていたのを知り、ざっと見た。

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トルコのものさし
日本のものさし
内藤正典
 内容はなんとも微妙。間違ってもいないのだが、ローマ教皇ベネディクト一六世のトルコ訪問がトルコのイスラム勢力の反発を買ったというあたりは、おいおいと突っ込みそうな自分に苦笑した。教皇のトルコ訪問の目的は正教との関係の問題であり、キリスト教対イスラム教といった枠組みは余波的な問題である。
 番組ではしばらくすると内藤正典が出てきてかなり正確な話をしていた。トルコ問題をごく簡単に言えば、これはEUがひどいでしょとなるかと思う。余談ぽくなるが、内藤正典の「トルコのものさし日本のものさし」(参照)はもう十年以上も前になるが、自分が見て感じたトルコをきちんと描いていて面白かった。面白いといえば、漫画「トルコで私も考えた」(参照)も面白いには面白い。
 トルコのEU加盟について、昨今の情勢の簡単なまとめとしては、InterPress Service”TURKEY: New Pitfalls on the Road to EU”(参照)あたりがあり、この記事の抄訳がJANJAN「世界・トルコ:EU加盟に新たな落とし穴」(参照)にある。

 EUは凍結の理由を、トルコがEU加盟国キプロスへの港湾、空港の開放を繰り返し拒否していることと説明している。1974年にトルコが北部を占領して以来、キプロスはギリシャ系とトルコ系で南北に分断されている。国際的には南を支配するギリシャ系政府が全土を統治する政府として承認され、北のトルコ系政府を認知しているのはトルコのみ。2004年にギリシャ系政府だけがEUに加盟した。

 この問題に関連して二年前だが「極東ブログ: キプロス問題雑感」(参照)を書いた。JANJAN抄訳では以下のようにトルコ側についてのみふれている。

 過去2年間でトルコにおけるEU好感度は78%から32%に急落し、およそ1年のうちに総選挙を迎えるなか愛国心の台頭が予想される。それでもトルコのエルドガン首相はドイツのメルケル首相が提唱した「特権的パートナーシップ」の地位に甘んずることなく、完全な加盟国となることを目指すとしている。

 このあたりの話は、クローズアップ現代の内藤の指摘のほうが公平で、EUが変わってしまったことの要因が大きい。余談だが、JANJANももう少し複眼的にこの問題が扱えないものかとも思う。
 EU側の表向きの問題はキプロス港湾だが、実際にはアルメニア人虐殺問題のほうが重要だと思われるし、ここはクローズアップ現代もきちんと取り上げていた。関連する内藤の指摘も正確だった。
 アルメニア人虐殺問題自体については「極東ブログ: アルメニア人虐殺から90年」(参照)でもふれた。今回の問題は、十月十二日フランス下院でアルメニア人大量虐殺否定は犯罪とする法案を可決したことで、シラク大統領はこの歴史認識をトルコのEU加盟の条件してしまった。
 同法案は〇一年成立のアルメニア人虐殺認定の法律を拡大すべく野党社会党が提案したものだが、同法成立にあたっては五〇万人もの仏在住アルメニア人社会を背景とするロビー活動も効果があった。結果、アルメニア人虐殺否定者は一年間の禁固刑または四万五千ユーロの罰金を科すとなった。この法案はすぐにわかるように、ユダヤ人大虐殺否定と似ている。ちなみにこちらの問題の関連は「極東ブログ: 親日家ブリュノ・ゴルニッシュ(Bruno Gollnisch)発言の波紋」(参照)でふれた。
 ざっくりと見ると、トルコのEU加盟は不可能と言っていいだろうが、それでいいのかEUもトルコも、といったところ。EUは歴史の大きな流れというか人口の推移からするとイスラム圏にならざるをえないし、一見原理主義化しているかに見えるトルコだが世俗化は止められない。どこかで合理的な均衡点を見いだすべきなのだが、どうもそうはいかない。この問題の枠組みは米国のラティーノ化問題にも似ている。
 クローズアップ現代ではトルコ内でのイスラム原理主義化を強調していた。この問題の関連は「極東ブログ: 幻想のクルディスタン、クルド人」(参照)で扱ったが、都市化にも関係しているだろう。イラク内に事実上クルド国家ができてしまったことから、さらにクルド人問題は潜在的に深刻化している。
 トルコ内での現状の軋轢は、軍部による一九九七年のイスラム主導連立政権エルバカン首相の辞任と同じような結末になる可能性がある。EUにそれがわからないわけがない。
 たまたまウィキペディアを見たら「トルコの政治」(参照)という項目があり、ある程度専門のかたが書いているのだろう。間違っているわけでもないのだが、どちらかというとトルコ軍部に批判的な印象を受ける。人権という観点から見れば、そういうストーリーになるのはわかるのだが、現状のEU側のトルコの追い詰め方はそう単純に割り切れないものを私などは感じる。

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2006.12.25

アーヴィング・バーリンのこと

 アーヴィング・バーリン(Irving Berlin, May 11, 1888 ~ September 22, 1989)はホワイト・クリスマスの作詞作曲家だ。


I'm dreaming of a white Christmas
Just like the ones I used to know
Where the treetops glisten,
and children listen
To hear sleigh bells in the snow

 曲想はバーリンが別の作曲仕事の徹夜明けに思いついたものらしく、冒頭「夢見る」にはリアリティがありそう。彼は早朝オフィスに着くや秘書に楽譜として書き留めさせたという。一九四〇年のこと。大ヒットは、ビング・クロスビー(Bing Crosby)による一九四二年のミュージカル映画「ホリデー・イン」の歌だ。時代背景もあった。前年の十二月七日(米国時間)に米国は真珠湾攻撃を受けた。戦争の最中であり、兵士たちは望郷の思いで口ずさんだと言う。嗚呼南国に雪が降るの趣きもあっただろう。
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ゴッド・ブレス・アメリカ
セリーヌ・ディオン
 バーリンには有名な歌が多いが、自然とナショナリズムの文脈が見えてくるのも興味深い。「ゴッド・ブレス・アメリカ(God Bless America)」は事実上の国歌のようになった。セプテンバー・イレブンで歌われたのもある程度は自然な成り行きに近いのだろう(参照)。歴史家は皮肉なコメントを残すだろうが、民衆に自然な愛国心があれば国の歌を生み出してしまうものかもしれない。作曲されたのは一九一八年というから第一次世界大戦の終結年ではあるが、これもやはり時代的な背景を考えざるをえない。
 バーリンは愛国主義的な作曲家と見られることもあるが米国生まれではなく、移民の子であった。ユダヤ人の家庭に生まれたと書かれることが多く、ユダヤ人であると書かれることはないようだが、それでも祖父はユダヤ教会の牧師とも言えるラビであったので、家族は深くユダヤ教に関わっている。バーリン自身も生まれたときの名前は、あえて米語風に記すと「イズラエル・イジドア・バリン(Israel Isidore Baline)」となる。イズラエルと聞くと国名を連想する人が多いが、旧約聖書にあるようにイサクの子ヤコブを意味する。イスラエルという国名もヤコブの子孫という含みがある。バーリンは米国社会に合わせてイスラエルという名前を捨てた。BalineがBerlinとなったのは最初に出版した曲「Marie From Sunny Italy」の楽譜に "I.Berlin"とミスプリントされたことによる。彼はそれをそのまま生涯受け入れた。
 バーリンが生まれたのは一八八八年五月一一日。日本では明治二一年。同年生まれの日本人には九鬼周造、菊池寛、梅原龍三郎がいる。T・S・エリオットも同年の生まれなのが興味深いと言えば興味深い。生まれた場所は、ラプスーチンと同じくロシア連邦シベリア西部の都市チュメニであるとされているが、現ベラルーシの都市モギリョフという説もある。米国に家族が移民したのは、一八九三年(九一年説有り)。バーリンは五歳といったところなので彼自身にはロシアの記憶は少ないだろうが、彼は八人の兄弟姉妹の末子でもありファミリーの歴史はよく聞かされたことだろう。移民のきっかけはポグロムであると言われている。ポグロムはユダヤ人に対する集団的な襲撃・破壊・虐殺で、ロシアで特に一八八〇年代以降激しくなった。ポグロムについては一九〇三年キシナウ・ポグロムが有名だが、日本ではあまり語られることがないように思える。
 移民後家族は同じく貧しい移民ユダヤ人の多いニューヨークで暮らしていたが、彼が八歳のとき父親が死去。兄弟たちに加わってこの時から働き出すようになる。現在の感覚からすると子供への労働として厳しすぎるようにも思えるが、そうした街の文化に関わることで音楽での生計を見いだしていった。
cover
アーヴィング・バーリン
ソングブック
 著名な音楽家でありながら彼自身はピアノの黒鍵しか扱えなかったとも言う。猫ふんじゃったばかりではない。移調ピアノというのを使っていたとも言われる。いずれにせよ曲想の才能は楽器には拘束されないものがあったのだろう。
 一九六二年ミュージカル「ミスター・プレジデント(Mister President)」の興業失敗をもって引退とした。死んだのは一九八九年というから、百歳を超えた。

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2006.12.24

finalvent's Christmas Story

 KFFサンタクロース協会に奇妙な裏の顔があることを知ったのは数年前のことだった。退職した老人たちを集めて、途上国の貧しい子供たちに些細なプレゼントを渡すありがちなキリスト教慈善団体と思っていたし、その行事につきあった五年間は、この世界の圧倒的な貧しさも実感したが、どのような境遇に生まれても子供たちというのはすばらしいものだと確信できたことで、とてもよい思い出となった。
 数年前協会から突然の再依頼があったときは、もう歳だからということで断った。しかし、特命の任務だという。話を聞いて驚いた。世界でも有数の大富豪の家に行ってほしいというのだ。トナカイのソリというわけにはいかないが、飛行機も自動車も用意するという。身なりはもちろん世間のイメージ通りのサンタクロース。
 その格好がこの季節一番不審に思われないでしょう、とマリーは言った。上品なおばあさんのようでいて、彼女は協会の最高幹部の一人だった。特命について少し説明したいとのことだったが、マリーから詳しい話はなかった。そんな富豪の子供に何をあげるっていうんですかときいてみたが、マリーは少し含み笑いをして、ボブ、その袋にいっぱい入っているじゃないのと答えた。
 袋のなかにはがらくたが入っていた。腐ってしまいそうなものは除いたが、砂漠の風土に咲く花なのだろうか、いくつか自然にドライフラワーのようになっている。貧しい国の子供たちにプレゼントをすると、子供たちは数人、お礼にということでいろんながらくたを私にくれた。いや、がらくじゃない。それはとても大切なものだ。だから私はサンタクロース袋のなかに入れて大事にしていたのだ。
 それが大切なものだと大富豪の子供にわかるものだろうか。そう疑問を口にしたが、マリーは微笑むだけだった。そんなこと問うまでもないでしょという自信に満ちていたようだった。
 実際問うまでもないことだった。昨年と一昨年訪問した大富豪の子供は、こう言うのも皮肉に聞こえるかもしれないが、恐ろしく賢かった。親たちの社会的な意味と自分たちの未来と、そして世界の苦しむ姿も知っていた。普通の子供と違うのは、不思議な孤独を抱えていることくらいだ。
 「マリー、その仕事は引き受けてもいいのです。でも、この仕事は私でなくてもいいし、私は金持ちの人間というのがあまり好きではないのです。」
 「ボブ、あなたの言うことはわかります。これは私からあなたへのプレゼントの仕事なのだと受け取ってください。」
 私は難しいことは信じないが、マリーのいうことは信じることにした。昨年訪問した富豪の家庭は巨額な資金を抱える慈善団体を持っているのだが、その富豪の死後五〇年以内に財団の財産をすべて寄付するというニュースを先日聞いた。私にはその意味がよくわからなかったが、マリーには何か思うところがあったのだろう。
 シアトル空港を後にして、二時間ほど車に乗せられた。アシスタントスタッフは私の安全か何かの秘密を守るためか青年らしく緊張しながら黙っていた。こういうのは苦手だな。人の良さそうな中年の運転手に、私の格好は滑稽でしょと話しかけてみた。運転手は、大変、ご苦労様ですと答えた。心の底からそう答えているのがわかって。私は冗談を続ける機会を失った。
 富豪の家のゲートに着いた。ここもゲートから玄関までが長い。自動車の窓の外を見る。遠くの丘から少し明かりが漏れているくらいで本当に今日はクリスマスイブなのだろうか。暗く静かな夜だった。
 「サンタクロースさん、ようこそ。」
 明るい声に、用意された部屋に入る。背格好から見るに、十歳くらい女の子が私を受け入れてくれた。ブルーのドレスを着ていた。似合わないわけではない。可愛い女の子には違いない。
 「ハッピー・ホリデーズ! もう寝ているかと思ったよ。本当のサンタクロースは煙突からこっそり入ってプレゼントを置いていくものだしね、お嬢さん、お名前は?」
 「マーサです。メリー・クリスマス! 本当のサンタクロースは、でもそんな格好はしないんですよ。」
 「そうなの。マーサは本当のサンタクロースというのを知っているのかな。」
 「本当のサンタクロースというのは、私たち人類の無意識が生み出した願望のようなもの。歴史的には現在のトルコのミラに実在した司教がモデルになっているのよ。」
 「難しいことを知っているんだね。」
 マーサの話ぶりは大人そのものだった。そういう一群の子供たちがいる。
 「私が知っていることはそういうことばかり。そして私が大人になるために知らなくてはいけないこともそういうことばかり。」
 「本当にそうかな。」
 「本当は違うわ。」
 「そう。本当は違う。本当のこと学ぶためには笑ったり泣いたりしないといけない。」
 「ええ、サンタクロースさん。あなたがそうして学んだことはどんなことか少し話してださい。」
 私は、お安いご用だけど、それでいいのかなというと彼女は微笑んだ。齢は六十歳以上も違うのに、マリーのように老成した子供だ。私の上司という貫禄だ。話を始めると、彼女は、私の体験談のなかから政治的な核心となる要素に関心を持っていることがわかった。私はせいいっぱい話した。考えようによっては難しい話にもなる。だが真摯に傾聴している。その姿勢にしかし彼女はまだ子供なのにと少し哀れにも思った。いや子供だからそうした純粋さのような持っているのだろう。それを人はいつまで持っていられるだろうか。くじけそうな心を何が支えてくれるだろうか。
 時間は限られていたので、話を切り上げると、彼女もそれを心得ているかのようだった。この子はスケジュール管理のようなこともできるのだ。
 「お話はこのくらいにして」と私がゆっくり言う。
 「プレゼントをくださる時間ね」と彼女がいたずらしたように笑いながら答える。
 「本当は私が選んであげるべきなんだろけど、よくわからないんだよ。その袋のなかから一つ選んでくれるかな。ただし、その袋のなかに何が入っていても……」
 「笑ったりなんかしませんよ……」
 彼女は興味深そうに袋のなかを覗いた。もしかするとそこには彼女にとって本当の世界に近い何かがあるのかもしれない。
 「これをください」と彼女は星形の金具のようなものを選んだ。
 「アルミの板でできた星の飾りだね」と私が言うと、マーサは「あら、ご存じないの」と言って少し沈黙し、「本当の価値がわかることが富豪の能力なのよ」と笑った。
 「そうだね。そういう能力を与えられている人は少ない。ところでそれは何なんの?」
 「クッキー型よ。」
 「なるほど、そういえばそうだ。」
 「それでクッキーを作るのかい?」
 「もちろん。でも、大人になったら。」
 彼女は玄関まで見送ってくれた。寒い外で私を待っているスタッフが少しほっとしたようだった。
 「おやすみ、マーサ。プレゼントは気に入ったかい。」
 「ええ、サンタクロースさん。これからの私を支えてくれる大切な秘密になるわ。」
 空港に向かう自動車に乗りながら、少し眠気にとらわれながら、私が死んだ後の世界で、大人になった彼女がクッキーを焼いている姿を想像した。

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2006.12.21

ある心中推察

 少し暇になるか。自分から望んだとはいえ、四年続いた、大阪と東京の往復生活には無理があった。当初はひどいものだった。政府とやらに乗り込んだら、指揮命令系統すらはっきりしていない。金融相、議員、事務方の情報伝達機能もなかった。やるべきことはやったとも言えないがもはや命運尽きる。大阪に帰ろう。堂島川と土佐堀川に挟まれた中州の辺りを散歩して東洋陶磁美術館でも覗いたら、北新地で一杯やるか、昔のように。
 北海道で生まれた。一九四四年。戦後とともに育った。都会というものも知らず、海辺の町を転々と移り住んだ。父親が水産高校の校長だった。都会を知ったのは大阪大学に入ってからだ。そして大阪はふるさとになった。
 ふるさとは寂れた。先日ホームレスの人を眺めながら、自分はなぜ公共経済学に志したのかと問うた。胸に少し熱いものがこみ上げた。
 公共のために寄付をしたり、ボランティア活動を行ったりする社会貢献の経済活動をフィランソロピー(philanthropy)と呼ぶ。語源は「人類愛」である。もう十年以上も前のことだが、欧米の企業財団やコミュニティー財団を対象にフィランソロピーの調査をした。最初は学問的な関心が勝っていたが、そこで出会うスタッフの熱意に打たれた。
 福祉、教育、健康、環境、人権、文化。こうした公共の領域の問題は、政府に任せておくのではなく、草の根のレベルで何ができるのか市民が取り組まなくてはならない。日本人は何をなくしてしまったのか、戦後の日々に。
 日本の復興は、しかたがないとはいえ、官による許認可、通達、行政指導に基づく一元主義によるものだった。公共的意思決定も官に従った。企業と個人はそのがんじがらめのシステムのなかで日本国の発展のため、生産者として生産活動に努めた。結果は悪いものではない。繁栄した。総合すれば幸福になったと言える。人々が公益的な活動も政府に任せておけば良しと思っても不思議ではない。官民ともに「御上一任」こそが全体の幸せを定義していた。
 それでいいのか。二十年前のあの日の小さな怒りを思い出す。中曽根内閣による税制改革の時だった。政府は、不公平税制是正の一環として公益法人に対する課税強化を進めていた。違うのではないか。今こそ公益法人を足がかりに日本社会を変えていくべきではないのか。
 そしてあの日思ったのだ、自分の経済学の知識を社会に活かすことも貢献ではないのか。
 日本の高齢化の速度は速い。これ以上国債を発行し続ければその償還のために税負担を上げざるを得なくなる。未来の日本人に重荷を負わせることになる。だが日本ではなかなか財政赤字削減は政治課題にならない。財政赤字は国際間で日本国政府の信頼度を下げ、それが為替レートに連動し、輸出入価格を左右する。この仕組みが緩衝となり、財政が苦しくても為替や物価に直接は響かない。危機感は行き渡らない。日本は資産大国でもあり、貯蓄率も高い。
 そうしてじり貧になった。現在の日本では所得のある人の四人に一人が所得税を払っていない。企業の七割は赤字ということで法人税を納めていない。これが人々が支え合う共生社会だろうか。これで日本が立ち行けるだろうか。
 現状利益を上げている企業が日本の経済活力の源泉であることは疑えない。これに重税をかければ、また生産拠点を海外に移すことになる。雇用の減少にもなる。企業を優遇するような施策も今はやむをえない。構造改革を進めれば、財政運営の効率化や、特殊法人向けの歳出削減などの成果が出てくるが、国民に痛みだけを求めるのは無理だということもわかる。
 しかし、やられたのか。脇が甘すぎたか。地方を殺すのかとも言われた。だが、日本の政府支出全体の六四%が地方で支出されるのに、地方が集める税金は全体の四五%。単純な算数だ。維持できるわけがない。それでも地方が自主的に運営ができるようにしたかった。何? 補助率を下げただけで国の強い関与が残っただけじゃないか、と。
 改革はこれで終わったのではない。各自治体の歳入を保障する簡素な財政調整機能と、山間地や離島など特別な地域へ加算する機能と、災害が起きたら各地に支出する保険のような機能の三つに再構成する必要がある。そう必要があるのだ、誰が責任者であれ。

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2006.12.20

リトビネンコ毒殺疑惑、雑感

 リトビネンコ(Alexander Litvinenko)の毒殺疑惑の話題は世間ではもうすっかり旧聞になってしまったが、先ほど岸田今日子や青島幸男の死去のニュースを見たついでにこの件の最新ニュースを見た。共同”ロでの捜査終了発表 毒殺疑惑で最高検”(参照)が少し気になった。


 ロシア連邦保安局(FSB)元中佐リトビネンコ氏の毒殺疑惑を調べている同国最高検察庁は19日、ロンドン警視庁の依頼に基づく捜査は終了したとの声明を出した。最高検の協力を受けて行われていた英国側によるロシアでの捜査も終わったとみられる。

 この捜査がどのようなものでまたどのような結論が出たかまではわからないが、たぶんどってことない結果というか、真相は藪の中ということではないかと思う。つつくなよ、と。この事件については私はこの捜査の行方に少し関心を寄せていた。
 リトビネンコ毒殺疑惑については、率直に言ってそれほど関心がない。やるなあ西側報道という感じだ。とにかく祭りだ、野郎ども。国内メディアで一番笑ったのが十二月四日付け産経新聞社説”露元スパイ怪死 警察国家体質が暴走許す”(参照)の飛ばしようだった。

 3人ともプーチン批判の急先鋒(せんぽう)だが、プーチン政権は事件への関与を否定している。しかし、犯人が誰であれ、問題の本質は同政権の「警察国家」的な強権体質が反体制派の人権を軽くみなす風潮を蔓延(まんえん)させ、テロを許す土壌を提供していることだ。

 「しかし、犯人が誰であれ、問題の本質は」かよ、おいおい。という以前に、まさにこうした世論のリアクションも恐らくこの事件の本質に関わっているのだろう。産経新聞、豪快に釣られましたなというものでもないのかもしれない。
 事件だが欧米のメディアでは反プーチンの空気が強いこともあってプーチン大統領への疑惑という話も出てきたが、さすがにそれなりのジャーナリズムのレベルでは、それはありえないでしょうという基調トーンになっていた。つまり、ロシア連邦保安庁(FSB)の関与はありえないでしょう。
 この事件の核は案外しょぼいマフィアの暗殺(ロシアではよくあること)ではないかと思うが、大局で見るならポスト・プーチンの権力闘争の一環の構図にあるので、もうしばらくして煮詰まってきたら全体の配置から読むべきものが出てくるのだろう。
 今回の事件で衆目を集めたネタにはポロニウム210もある。日本での報道はどうなのかよくわからないが、これは要するに汚い爆弾(dirty bomb)であり、簡単な話、北朝鮮の核化よりもはるかに日本にとって脅威となるものだ。が、まあ日本だと最大の防御は無関心というところでしょうか。あるいは無防備?
 話を少し戻して、今回の英国の捜査が多少気になっていたのは、ファクツだけ取り出したときロシア政府の関与があるのかもという点だった。ポイントは二つ。ポロニウム210がロシアから持ち込まれたこと、リトビネンコ毒殺疑惑には、ロンドンのホテルで十一月一日に彼が会った二人の元ロシア治安機関工作員が運び屋として関わっていることだ。
 ロシア政府はこの二人を隔離していたのだが、このまま英国側の捜査前に口封じをしてしまうのかなというのが気になっていた。が、そうでもないようだ。
 さっき届いた日本版ニューズウィークを見ていたら、プーチンの天下り先はガス・プロムでしょという話があり、あー、もしかしたらポスト・プーチンというより、ガス・プロム回りの利権の問題とかでプーチン失墜狙いという線もあるのか、と思った。
 とか、思った時点で釣られてますな。

追記(2006.12.22)
 ポロニウム210(polonium-210)と汚い爆弾(dirty bombs)については、以下の記事が参考になる。ご関心あるかたは英文だが参照されたし。

New York Times
"The Smoky Bomb Threat"(参照

By PETER D. ZIMMERMAN
Op-Ed Contributor
Published: December 19, 2006

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2006.12.17

[書評]ワインの基礎知識(アカデミー・デュ・ヴァン監修)

 一時期ワインについてちょっと凝っていたことがあり、またその関連の本などを読むのも面白かったものだが、諸処の理由で五年くらい前に人生の酒を終了することにした。そのおり、ワインについての本も酒と一緒に処分したのだが、この「ワインの基礎知識(アカデミー・デュ・ヴァン監修)」(参照)と「岩波新書『ワインの常識』と非常識」(参照)はリファ本として残しておいた。ワインは飲まなくなったが、ちょっとしたおりの調べごとにも使えるし、特に「ワインの基礎知識」は資料編のリストが重宝。全体的に簡素にまとまっていて便利だ。

photo
ワインの基礎知識
 アマゾンを覗くと古書で買えばめっぽうお安い。現在から見ると話が何かと古いという印象もあるが、ワインの基礎は変わらない部分も多いので、ワインって面倒臭そうだけどきちんとした知識を得ておきたいという人は一冊買っておくとよいと思う。すらすらと読めるものではないが。あと「岩波新書『ワインの常識』と非常識」のほうはきっちり読んで暗記すればミクシーから勇名を漏れ聞く君くらいな偉そうなことが言えるようになるかもしれない。
 とか言いつつ最近ちょっこっとワインを飲むようになった。グリューワインが多い、といっても砂糖を入れてシナモンを入れてレンジでチンという邪道だ。でも、なかなかよい飲み物ですよ。確かフランスでは妊婦が精力付けるのに飲むという話も聞いたことがあるが、妊婦に精力でよかったか。あれれ、セージ入りワインだったか。
 ワインなんて柄にもないネタのエントリを書いたのは、今朝の日経の春秋に釣られたからだ(参照)。

 小説やドラマで金持ちを描くとき、よく使われる小道具がワインと自動車だ。レストランで「シャトー××の××年物を」などと事細かに指定し、高い外車を複数所有。しかし富裕層の会員組織を運営する知人によればちょっとした異変が起きているという。
 注文するにも半端な知識は振り回さず「この店で1番いいワインを」とスマートに済ませるのが今の通。

 おいおい。そんなのが今の通なのかよ。そんなわけはないでしょとかそのまま釣られるクマーというのもなんだが。フレンチのレストランだと、それなりに店の格に合わせて揃えておかないといけない定番のワインリストというものがあり、そしてそれをきちんと納入する業者というものがある。だから、「この店で1番いいワインを」といえば、その店の格にあったわかり切ったものが出てくる。それだけのことなのだ。
 ついでに言うと、ワインの価格は食事の二分の一から三分の一くらいなもの。日本人だとワインにチーズのおつまみみたいなことするが(ちなみにチーズはデザートの前にちょこっと出る)、ワインは食事と組み合わせる。価格の高いワインにはそれに見合う料理が必要なので、レストランもそう偉そうなワインが置けるものでもない。あと、高いといえばイケムだがこれはちょっとなぁ。
 なんだかうざったいことつらつら書きそうな感じもしてきたので、AOCだのブドウの種類だの話は省略。気になる人は勝手にお勉強あれ、なのだが、そういえばこの季節、シャンパンである。もっともシャンパンという呼称のはEUの規則で限定されている。めんどちいのでスパークリングワインだ。コストパフォーマンスでいうなら、カヴァ。ロジャーグラートのロゼが結構いいですよ(参照・アフィリエイト)。リンク先にはドンペリに劣らないみたいな煽りがあるけど、はっきりいって劣りますんでそこはひとつ。
 スパークリング・ワインを店で選ぶときは、甘口とか辛口が気になるところで、チートシートはこんな感じ。標題の本より。

Brut    極辛口  リキュール補充度 1~2%  糖度 ~15g/l
Exbra Sec 辛口           2~2.5%  12~20g/l
Sec    中辛口          2.5~4%  17~35g/l
Demi Sec  中甘口          4~6%   33~50g/l
Doux    甘口           5%以上   50~

 Brutが辛口、Secがちょい甘いくらいな感じで。
 老婆心ながら、栓の抜き方はちと練習しておくとよいかも。金具を外したらハンカチを被してゆっくり親指で押し上げていく。追記 この件大きな間違いがあり、追記参照のこと。
 私は酒を基本的に飲まなくなったせいもあり、甘いスパークリングを少し飲むだけでいいやって感じだが、意外とBrutは和食なんかにも合う。寿司とかにも。

追記 Tetsuさんからスパークリングワインの開け方について重要なコメントをいただきました。以下をご参考に。また、失念していたのですが、「ワインの基礎知識(アカデミー・デュ・ヴァン監修)」には図入りで正しい開け方の解説があります。


針金は縛ってあるのを緩めたらそのままで.利き手で栓を押さえ込み、反対の手でボトルの底を持って、ボトルの方をねじる.するとガス圧でコルクが押し出されてきますから、飛ばないように押さえて最後コルクが斜めになるようにして、わきからガスを抜いて終わり.

投稿 Tetsu | 2006/12/17 21:48:07


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2006.12.16

教育基本法改正雑感

 教育基本法が改正された。すでに別エントリ「極東ブログ: 教育基本法の改定に関心がない」(参照)で書いていたように私はこの問題に関心がない。なぜこんなことがメディアで話題になるのか不思議に思うし、率直に言って根幹はべたな利害対立だろう睨んでいた。
 だが、どことどこの対立なのかが私にはわかりづらかった。極めて単純な構図にすれば、祭り騒ぎの旧左翼的勢力と国側の対立に見える。が、国側というのが曲者で官僚は別の意味で左翼(国家主義者)に近い。他方の祭り気分の右派勢力は張り子のごときもの。こんなものもどうでもいい。具体的な局面でどういう利害対立があるかだけが重要になる。が、私は現場にいないせいもあり、よくわからなかった。恐らく教育委員会に関わる利害対立なのだろう。
 こうした過程で未履修問題だのタウンミーティング問題だのNHKの国際放送問題だのけたたましくどうでもいいネタが沸き上がってくるのだが、誰が仕掛けているのやら。多少気になって追ってみるとタウンミーティング問題は共産党、でも電通バッシングはなし、とかいま一つわからない。他も錯綜している部分もある。いずれにせよどうでもいいやという気分になる。こんなことを言うとまた元気な一言居士様たちがお出ましになるのだろうが、表向きの愛国心批判とかは左翼版木口小平のラッパに過ぎず、動いたのはその配下くらいで国民の大勢は動かず……いやここはちと微妙なものがあるな。
 ちなみに愛国心問題については、ちょっと確認してみるとこんな感じだ。


民主党案参照
 同時に、日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い、子孫に想いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び、学術の振興に努め、他国や他文化を理解し、新たな文明の創造を希求することである。


改正案第二条五
 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

 この二つの差を論じる意味があるとは私には思えない。
 教育委員会に関わるどのような利害対立があるのか? そもそもそれがなぜ教育基本法の改定に関係するのか。そのあたりが愛国心だののボーガスを除いたあとの焦点なのだろうが、およそ教育基本法なんていう教育勅語みたいなものがべたな教育行政に関わるわけはない。そこは何らかのフックのみで実体は後続の関連法の改定と現場の力学になるだろう。とすれば取り敢えずフックはどこか。おそらく司法的には全く無意味とはいえないフックだろうが。
 その前に、成立した改正法の文面は「第164回国会における文部科学省成立法律案 教育基本法案」(参照)でいいのか。ざっと見るに「極東ブログ: 教育基本法の改定に関心がない」(参照)にも関連するが、およそ教育の根幹たる私学については以下のごとく薄い。

(私立学校)
第八条  私立学校の有する公の性質及び学校教育において果たす重要な役割にかんがみ、国及び地方公共団体は、その自主性を尊重しつつ、助成その他の適当な方法によって私立学校教育の振興に努めなければならない。

 私学の国家からの独立に干渉する部分はないように思える。やはり教育基本法というのは基本的に国家セクターというか義務教育をスコープとしていると見てよい。自由主義国家の国民には些末な問題である(というか国家が教育に関わるなよ)。すでに「極東ブログ: 東京の私立中学受験が厳しいのだそうだ」(参照)でふれたように中学校ですら私学にシフトしているのだから問題は小学校かということだが、実際には高等学校が問題なのではないか。というのは事実上日本では高校が義務教育化しており、しかもこの部分での私学シフトが今ひとつ弱い。というか公立高校が頑張り過ぎ(高校を民営化しろてば)。とはいえ、この高校問題については今回はこれ以上立ち入らない。
 フックに戻る。フックは次の部分であろう。教育行政つまり機構上の問題だ。

(教育行政)
第十六条  教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
2  国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。
3  地方公共団体は、その地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない。
4  国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。

 この新規定がどのような含みを持ち、教育委員会のレベルでどのように利害対立を起こすのか? そこだけが事実上の争点なのだろう。そこが知りたい。
 そうした問題意識を持っていたせいか、先日偶然聞いた八日付けの宮台慎司のポッドキャスティング(参照)の話が興味深かった。正確に言うと話自体はそれほど興味深いわけではなく、その関連から描かれるところが興味深いのだが。
 宮台の話でもさっさと愛国心問題ボーガスは捨てられ、争点は教育の分権化・権限委譲が問題なのだとしていくのだが、やや奇妙な展開に思えた。彼は問題は地方教育行政法だとし、この改正においては自民党も民社党もある種合意があったはずだとしている。そうなのか?
 現状の教育に関わる権限の構図についてだが、彼は、箱物は地方自治体、人事権は都道府県が握る、と説明する。このあたりで私はよくわからない。地方自治体と都道府県が分離されるわけもないので、とすれば市町村対都道府県なのか。そういうふうな話のようだ。彼は、都道府県レベルでのトップの教育長というのは、かつては文部省(文科省)天下り役人だったというのを前提としている。もちろん天下り状態は解消されたが文科省は復活を望んでいると彼は見ている。
 宮台はこの先気になる言及をしていく。人事権についてはやる気になれば地域が決められるとして荒川区と杉並区を実現例としている。東京都の人事権を区レベルが取得できたわけだ。現状の教育行政では学校の上に教育委員会という事務方の教育長が人事権を握るが、荒川区・杉並区モデルでは、区長が校長選出の人事権を持つことができた。あるいは区長が委託した理事会が学校の経営を担うことになる。
 で、教育基本法改正はその分権化にとって是か非か?
cover
人生の教科書
よのなかのルール
藤原和博
宮台真司
 そこが話からはわからなかった。というか毎度の人生論みたいな宮台節になっていく。しいて言えば、彼は今回の改正に反対し、民主党案に肩入れしているふうでもある。
 そもそも論でいえば、都道府県と市町村は地方自治体としては対等の存在なのでそういう区切りかなとも私は疑問に思えた。もっとも、実態については宮台が示したスキームでよいというか……。私がひっかかったのは是非の問題よりも、杉並区立和田中学校校長藤原和博のことだ。教育分野についてのディテールについて宮台は藤原から情報や指針を得ているだろう。この話は、ビジネススタイル”「教育委員会」とは”(参照)が詳しい。とても重要なことが書かれている。

 自治体には5人程度の「教育委員」がいて会をなし、その「教育委員会」の代表が「教育委員長」である。表面的にはこの人たちが、その自治体の教育政策のすべてを決めることになっているから、ひとたび教育問題が起これば、責任者はこの「教育委員会」だということになる。
 しかし、実態はいささか異なる。
 教育委員は学識経験者ではあっても、教育行政の専門家ではない。実際の教育行政は自治体の1、2フロアは占めるほどの人員を擁した「教育委員会事務局」が担う。そのヘッドが教育委員の1人でもある「教育長」だ。この「教育委員会事務局」のことも教育委員会と呼ぶから混乱が起きるわけだ。

 つまりGHQが想定した教育委員会と、我々市民がふれている教育委員会とは別で、実態は「教育委員会事務局」であり、その事務局長の権限が問題なのだ。

 会社で言えば、自治体の首長(区役所なら区長、市役所なら市長)は社長に例えられる。会社でいう「役員会」のメンバーは、自治体の場合、通常、4人で構成される。首長の他に、助役(副社長)と収入役(専務取締役財務担当、昔の出納長)、そして教育長(さしずめ常務取締役教育事業担当)である。ほとんどの政策は、実際にはラインの長である教育長に率いられた教育委員会事務局が文科省や都道府県教委の顔色を見ながらつくってしまうから、教育委員の活躍の余地は極めて少ない。

 単純な話にすると、この教育長が文科省の出先機関として国家管理しているというのが公教育の問題の根幹だということになる。
 それが現状だ。
 では、教育基本法改正案はこの状態を変えるのか?
 藤原の話でもそこがよくわからない。
 下手の理詰めで考えるなら、現状そのようにして文科省が教育現場のファーム化に成功しているならルールの変更は不要だろう。
 旧左翼の祭り騒ぎを見れば、この改正は文科省による権力強化を狙ったかのように見えるが、実際杉並区教科書選定問題での旧左翼の祭り騒ぎを見ると、彼らは分権化を望んでいるとは思えない。
 話は尻切れになるが、現実ではなんだこりゃ的な”シュタイナー教育実践の小学校、承認 千葉・長南”(参照)のようなことが実現される。

 芸術の要素を採り入れたシュタイナー教育で、文部科学省の学校設置基準や学習指導要領に沿った小学校が初めて承認された。千葉県長南町の「あしたの国ルドルフ・シュタイナー学園小学校」(仮称)。設立代表を務め、シュタイナー教育の研究で知られる早稲田大名誉教授の子安美知子さん(73)は「公教育の一翼を担っていきたい」と話す。
 開校は08年4月の予定で、当初は1、2年生各1学級(定員32人)で発足する。07年度は1年生だけのフリースクールを運営し、開校時に編入する。
 学校の特徴として、子安さんは(1)同じ学級担任が6年間持ち上がる(2)児童は教科書を使わず、教科書に沿って指導する教師の話をノートにまとめる(3)テストはせず学力を点数化しない、などを挙げる。子安さんは「思春期を迎えるまでの子どもに大切なのは、大人との間で安定した精神と豊かな感情を養い、他人の話に耳を傾けられる力をつけること。それを土台に学力をつけ、人間力を育むのが理想」と話す。

 こんなのもアリというなら、教育に国家管理が今後強化されるということもないようには思える。

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2006.12.14

漱石のこと

 先日十二月九日は漱石の忌日であった。新聞のコラムにも漱石忌にちなんだ話があり、そういえば漱石の胃潰瘍の原因は飯の食い過ぎかなどと先達に諭されもした。その晩だったか、妙に気鬱で寝付かれず、寝間着のまま閑散とした食卓でグリューワインを飲みながら、よもやと虚空を睨んだ。黴菌マンのような微細な悪魔がはひふへほ~と不吉に笑うのを聞いたようでもあった。十万ボルトを浴びたように事典を引くと案の定。夏目漱石、一八六七~一九一六。引き算をする。一九一六マイナス一八六七イコール四九。え? 四九? 享年五〇とばかり思っていた。我ながら自分の愚かさに泣き俯した。享年というのは満年齢だ。漱石先生は一月五日生まれ(新暦二月九日)。やはり四九。この無精髭の眠れぬ愚物よ、お前は何歳だ。四九。外天に飽満したか、餡パンマン。お顔が濡れて力が出ない。
 己はついに漱石先生の今生の日数を超えるのか。そんな日が来るのか。冷え切った身体からさらに冷や汗が滲む。三島由紀夫や太宰治の享年を超えたときも奇妙に心に引っかかる物があったが、超えてみると彼らが奇妙に若い文学者のように思えてきたものだし、実際に彼らの文学は若かった。漱石先生の文学はそうは行くまい。
 「こころ」(参照)が描かれたのは一九一四年というから、漱石四七くらいであろうか。物語の先生は何歳に設定されていたか。明治大帝に殉じるとしていたのだから、四七の漱石よりそう年上の設定でもないだろう。先生の心の動きはまさに漱石四七歳の心の動きでもあったことだろう。妙に鋭敏な心の動きだ。
 そう書きながら、漱石の千六百七十七万七千二百十六分の一にも及ばぬ自分でも、昨今さてここまで身体が老いてきても心というのもそう老いないものだという珍妙な感じがしていたのだが、漱石先生四七の感性には及びもしないな。「こころ」はかつて「私」の視点から読んだ。今度は「先生」の視点から読まなくてならないだろう。


『こころ』は漱石文学の入門書であるという。ただその構成と描写があまりに明晰で図式的であり、従ってその印象は強烈だが、主題が先にあってそれに従って作品が人為的に作られたという印象を与えるがゆえに、漱石の最高作とは言いかねる、というのが多くの文芸批評家の意見と思われる。私はこの意見に賛成しかねる考え方をもっているが、今はただ私にとっては、もしそうならその方が好都合であり、それなるが故にこの作品は、私にとって最も興味深いとだけのべておこう。

 そうイザヤ・ベンダサンは言った(「ベンダサン氏の日本歴史」・参照)が、彼は山本七平より二歳ほど年上であったから四九歳くらいであっただろうか。
 私にとって漱石が人生のなかで決定的な意味を持つようになってしまったのは、「それから」に描かれる代助とよく似た境遇に置かれたことがあったからだ。二五歳だった。この物語のなかで、三千代はある些細なそれでいて決定的な素振りを何げなく代助に見せるのだが、代助はそれに圧倒された。女というのはこういうことをする。こういうことをされたら男はもう進むか自滅するしかあるまい。代助や私のような人間は自滅しかない。あるいは自滅クラスから何げない資質負ったインスタンス。方式としては人生ここまで。デッドポイント。ランズエンド。
 その後、「行人」は避け「門」(参照)を読み、「道草」(参照)で呻いた。人生というのはこういうものなのであろう。健三のように大学教師とはなれもしなかったが人生の重荷は迫るように思えた。何もかもよく分からなくなったが……自分語りはもうよかろう。このまま「明暗」を読むには自分の経験というものが足りないように思えた。
 しくじったものだな。のうのうとそのままやり過ごしたとはな。もう四九か。
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思い出す事など
他七篇
 なぜか二年前、私は携帯電話のなかに「思い出す事など」(参照)入れた。私は目が悪くなったせいもあるが、外出先に本を持つことが嫌になった。もちろん何でもいいから活字さえ読んでいればいいという狂気というか恐怖も未だあるのだが、そんな時ほど週刊誌などが読めるものではない。携帯電話の中の「思い出す事など」は一種のお守りのようなものだった。
 漱石先生四三歳。修善寺の大患のこと。

 ジェームス教授の訃に接したのは長与院長の死を耳にした明日の朝である。新着の外国雑誌を手にして、五六頁繰って行くうちに、ふと教授の名前が眼にとまったので、また新らしい著書でも公けにしたのか知らんと思いながら読んで見ると、意外にもそれが永眠の報道であった。その雑誌は九月初めのもので、項中には去る日曜日に六十九歳をもって逝かるとあるから、指を折って勘定して見ると、ちょうど院長の容体がしだいに悪い方へ傾いて、傍のものが昼夜眉を顰めている頃である。また余が多量の血を一度に失って、死生の境に彷徨していた頃である。思うに教授の呼息を引き取ったのは、おそらく余の命が、瘠せこけた手頸に、有るとも無いとも片付かない脈を打たして、看護の人をはらはらさせていた日であろう。

 ジェームス教授はウィリアム・ジェームズである(言うまでもなく弟はヘンリー・ジェームズである)。漱石のジェームズの死への思いには、奇妙な含みがある。

 多元的宇宙は約半分ほど残っていたのを、三日ばかりで面白く読み了った。ことに文学者たる自分の立場から見て、教授が何事によらず具体的の事実を土台として、類推で哲学の領分に切り込んで行く所を面白く読み了った。余はあながちに弁証法(ダイアレクチック)を嫌うものではない。また妄りに理知主義(インテレクチュアリズム)を厭いもしない。ただ自分の平生文学上に抱いている意見と、教授の哲学について主張するところの考とが、親しい気脈を通じて彼此相倚るような心持がしたのを愉快に思ったのである。ことに教授が仏蘭西の学者ベルグソンの説を紹介する辺りを、坂に車を転がすような勢で馳け抜けたのは、まだ血液の充分に通いもせぬ余の頭に取って、どのくらい嬉しかったか分らない。余が教授の文章にいたく推服したのはこの時である。

 ジェームスはプラグマティズムとして今日紹介されることが多い。漱石も「教授が何事によらず具体的の事実を土台として」と述べているのもそれに関連するのだが、他方「仏蘭西の学者ベルグソンの説を紹介する」とあるようにベルクソン哲学にも近いものがあり、漱石はそこに「自分の平生文学上に抱いている意見」を重ねていた。

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2006.12.13

美しい日本に賢い若者出現の期待

 雑談。先日NHKクローズアップ現代で雇用問題をシリーズで扱っていた。ぼんやりと見ていたのであまり記憶にないのだが、来年度は新卒採用が大幅に増えるという話と、この失われた十年で本来なら新卒採用されてもよいはずったのに非正規雇用となった若者の、明暗とでもいうのだろうか、取り上げていた。
 番組でもまったく無自覚というわけではないのだが、というか識者に語らせてもいるのだが、なぜ企業はそんなに新卒にこだわるのかというのが、よくわからなかった。もちろん、私も日本社会にずっぽり沈んでいるので日本の企業が新卒にこだわる理由がわかりませんみたいなことは言えないのだが、もうちょっと、なんか社会学的な説明みたいなものはないものかと思った。まあ、ないのだろう。
 三十代の、新卒なんてどうでもいいでしょという人と食事時そんな話をして、まったく日本の企業ってなんでそこまで新卒にこだわるのかとちと問われて、当方、つい、あれだな、結婚相手には処女を求むって……とかギャグのつもりが言い切る間もなく、またやっちまったぜ、ドン引き、された。
 話の向きを変えて、しかし今の二五歳から三十歳ちょいくらいの人々の非正規雇用が正規雇用化してくると日本の経済も本格的に復活と言えるかもねとか、つぶやきつつその場を立ち去る、と。
 そんなふうに流れは変わるのか? マジ、変わると思ってんの俺?とか自問するが、まったくそういうふうな自信がない。日本企業の新卒好みは変わらないでしょ。だって官庁がそうなんだし、できたら若者は、やっぱし公務員になりたいもんだしな……とか思い、またぼんやりと沖縄暮らしを思い出した。
 沖縄の若い子たちは意外なほど人の話をよく聞く。もちろん聞かないときは聞かない。実は沖縄の大人の人もそういう傾向がある。なんだろと当初疑問に思ったのだが、どうも、聞く・聞かないがスイッチ構造みたいになっているような感じがしたからだ。しばらくしてわかったのだが、内地言葉をつい聞いてしまうという癖があるようだ。英語を勉強しているとつい英語を聞き取ろうとしているみたいな。もちろん、聞いているというのは字義通り聞いているだけで、了解とか、理解とかでもないし、そうのうちこっちも沖縄に慣れてきて、あんまし言わなくなった。なんの話だったっけ、公務員志向だ。沖縄の若い子は公務員志向が多かった。男の子に多い。これは地方の一般的な傾向なのだろうか。
 公務員とか大企業とか若者だって新卒で入りたいもんだし、実際にそれに最適化した行動を取る。
 それってなんだろとか、ぼんやりと、つらつらと若いころなど思い出しながら、そしてNHKの番組に出てくる新卒の若い人たちの姿を見ながら、あれだな、なんであれ、若い人はきちんとやっていけるだろうなと思った。そしてきちんとやっていくということは、二五歳から三十歳ちょいくらいの人々の非正規雇用の人々と、あまりよからぬ世代差を描いてしまうだろうなとも思った。
 歳を取ると若者が愚かしく見えるものだが(その失われた肉体の美しさへの羨望もあいまって)、実際に自分が若いころを思い出すと、尊大と怯懦、愚昧と狡賢さが混ざり合っていたが、狡賢さというのは確実にあった。大人なんてちょろいもんすよのあれだ。おらおらそう思ってんだろ、オメー。
 その狡賢さというのはそれほど上っ面なものではなく、なんというか若者は彼ら自身がそう思っているより世の中にうまく流されている。私は何が言いたいのか? 年寄りは若者は愚かだと思っているが、社会が利口な若者を欲しているなら若者はちゃんと流されて利口になるのである。新卒採用が利益だとなれば、若者は会社社会にきちんと迎合した賢さを短期間に実現するものなのだ。あと数年もすれば正しい日本語をくっちゃべるきちんとした若者が目立ってくるようになる。
 ぞっとするな。
 もちろん、来年新卒の若い人だってそのころには内面、ぞっとするな、こんな自分なんて死にたくなるなとか少しは思うだろうが、社会がきちんと機能して、そんな内省なんかするような余裕無く型に嵌めてやればいいのだ。そうなるだろうか? 景気がよくなればそうなるだろう。
 話が少しずれる。今週のニューズウィーク日本版に面白い話が載っていた。「10代の暴走の意外な理由」という記事だ。内容は表題が暗示するとおり、なぜティーンネージャーは暴走するのかという理由。これが傑作。いやまったくそのとおり。科学的な研究というのは結論で笑いを取ってナンボ。


ティーンエージャーが愚かな行動をするのは、目の前のことしか考えられず、将来に待つ危険や死を理解できないせいだと思われていた。
 しかし実際には、若者たちは逆に飲酒運転や無防備なセックスなどのリスクを過大に評価していると、レイナとファーリーは言う。それなのに無謀な行為に走ってしまうのは、損得を冷静に計算したうえで、その行為のもたらす快楽や連帯感と比べて割に合うリスクだと結論つけているからだ。
 つまり、10代の若者は思慮が足りないわけではないのだ。むしろ大人のほうが直感的・自動的に、言い換えれば「非理性的」に判断を下すと、レイナーとファーリーは言う。

 若者はきちんとリスクを考えるから馬鹿な結論を享受することがあるというわけだ。その計算はたぶん正しいから、実際は多くの場合、彼らはベネフィットも得ている。快感とか連帯感とか。
 私も、若い頃を顧みて、ああそうだなと思う。若者は狡賢いものなのだから。
 社会学者の宮台真司だったか、大人からみて危険な行動をする子供に対して、リスクとベネフィットを両方教えるべきで、そこから自己選択できるようにすればいい、みたいなことを言っていたようだったが、どうもそれは科学的には間違いのようだ。
 あるいは、結局なんであれ、若者も遠からず脊髄反射で生きる大人になっていくのだから、若いときにリスクを回避しちゃったら勝ちってことか。
 このエントリのオチをどうしたものか。
 なんとく思うのだが、今の二五歳から三十歳ちょいくらいの人々の非正規雇用の人々が、社会からはじかれたように置かれることで、このしょうもない社会というのを客体化し、人の生き様の愚かであることの賢さみたいな逆説を実現していけたらいいような気がする。もうちょっと言うと愚かに生きたほうがいいようにも思うのだが、そう言葉で言えるものでもないか。

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2006.12.12

[書評]ウェブ人間論(梅田望夫、平野啓一郎)

 対談書「ウェブ人間論」は、表題の類似性から「ウェブ進化論」の続編として読まれるかもしれない。確かにそうした文脈もあり、特に「第三章 本、iPod、グーグル、ユーチューブ」に詳しい話が展開されている。いわゆるネット業界的にはこの三章の情報が有益だろうし、出版界にとっても非常にわかりやすく示唆的な内容に富んでいる。
 単純な話、未来の書籍はどうなるのか。平野啓一郎はある危機感を感じているがこれは現在出版に関わる人にとって共感されることだろう。これに対して梅田望夫は大きな変化はないだろうとしている。
 文学者と情報技術の先端にいるコンサルタントとの、時代の変化に対する嗅覚の差もあるが、ここで梅田の判断の軸になっているのは「情報の構造化」という考え方だ。確かにネットには多くの情報がある。だがそれは構造化されていない。梅田の著作に表現されているアイデアの大半はすでにネットで公開されているが、それらは書籍「ウェブ進化論」ほどには構造化されていない。書籍は「情報の構造化」に適している。また現状では、社会に幅広く影響を与える媒体として書籍の位置付けは依然変わらない。「ウェブ進化論」の読者はウェブの世界で進行していることに開眼させられたが、梅田は逆に書籍という存在の重要性を再確認した。

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ウェブ人間論
梅田望夫
平野啓一郎
 書籍とは、それを古典と言い換えるなら了解しやすいように、人間の精神である。山本夏彦風に言えば魂が籠もりうるやっかいな代物だ。そこに再度直面した梅田は、精神性を生み出す人間という存在についてもう少し踏み込んで思考しなくてはならないと思ったのだろう。うまい言い方ではないが、彼の起点となる疑問は、ウェブ2・0と呼ばれている世界を創出しているのは奇妙な狂気とも言えるものだとして、ではそれを生み出した人間とはなにか? 人間の専門家でもある文学者に問うてもみたかったのだろう。だが、それが問える文学者は残念ながら数少ない。平野はむしろ例外的な適任者に近い。
 対談の主軸は、ウェブ2・0という情報様式が強いる「人間の変容」である。この主題は「第一章 ウェブ世界で生きる」「第二章 匿名社会のサバイバル」で平野の執拗ともいる思考力と対話力によって維持されている。この執拗さこそが彼の文学的な素質を形成するものでもあり、同時にこの作家の興味深い資質でもあるのだろうが、実際に語られる背景に潜む矛盾に関心の核があるようだ。そしてそれは、思索のための方法的な疑念ではなく、この情報化の潮流のなかで人間という存在が明確に変わってしまうだろうという確信を伴っている。

平野 テクノロジーの進歩は人間の本質を変えることはできない、人の「心」は変わらない、という考え方を表明する人が、特に保守的な思想の持ち主の中に見受けられますが、やっぱり、変わるでしょう。どう考えても、狩猟時代の人間と今の人間の精神構造とがまったく同じだとは考えられない。テクノロジーが進歩すれば人間の生活の条件は大いに変わるし、人間自体も劇的に変容するでしょうね。

 梅田は対談者として沈黙しているわけではないのだが、こうした平野の疑念の最初の形をできるだけ損なわないように、自己の考えの表明を抑え、若い平野に傾聴している。一章二章において平野がよく語っているかに見えるのは、梅田の傾聴の精神的な耐久力でもある。
 そうした忍耐を欠く私は結論を急ぐようだが、梅田は七五年世代の代表にも見えるはてな創業者近藤淳也と同じものを平野から聞き取ろうとしているのだろう。私はむしろ、この対談書で梅田の職業的な精神の構えのようなものを知り、驚かされる。
 梅田の巧妙な傾聴のもとに、読者は対談を読み続けながら平野が提起する人間の変容という着想を聞き込むことになる。平野は、ネットやウェブが可能にする人間の匿名性を重視している。これは名前を隠しているというだけの、いわゆる匿名性とは異なる。むしろ、性的な身体の欲望性を可能にする匿名性ということで、隠されているのは名前であるより、欲望をむき出した身体なのだという直感が平野にはある。そして同時に平野はその匿名性の身体の持つ可能性に両義性も感じている。
 ここで対談の枠をそれてしまうのだが、そうした匿名性は、ウェブの可能性のなかで人間の変容を問うための新しい課題なのだろうか。私が想起したのは、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」である。この物語は、冒頭、名前を隠した女が主人公の男に性的な欲望をメディアを介在して語りかけるところから始まり、そして性的な情熱を持って結ばれるべき他者との断絶と統合が織りなしていく。ここでも匿名的な身体性(痛みのない身体、時空をすり抜ける身体など)が問われているが、物語は現代的なウェブ的な対話に収斂する。リアルな身体性には帰着しない。あたかも人間は情報と性的な身体とに分断された状態が必然であり、そこに特異な精神性が強調されざるを得ないような予言的なエンディングが置かれる。
 平野が見つめている人間の変容は村上が九〇年代に問いかけたことを超えた地点にあるのか、あるいは一つ後退した地点にあるのか。いずれ平野の文学に展開されてくるのだろうが、私としてはその道程にミシェル・フーコーやハンナ・アーレントの言説が置かれていることにある古さを感じている。この感性はウェブの世界がもたらしたものだろうが。
 平野が性的な身体という発想から、ウェブ世界の欺瞞性を照射しようとする場は、彼自身も自覚的なのだが、きわめて政治的な場である。単的に言おう、ブログなどでいくら政治を語ってもそれが匿名であり身体をもたないのであれば、それは欺瞞なのではないか? こうした感覚は西欧人にとっては自明な前提になっている。彼らにとって国家とは作為の契機によるものであり、国会が決したことでも実際の身体的な関与による革命的な活動によって転換しうるものだ。それは自明なことだ。ウェブが人間を変容させるというとき、その自明性は、再獲得になりうるし、退化ともなりうるかもしれない、そう平野は見ているようだ。
 私の上の世代に当たる全共闘世代にとって、政治的であることに身体的な関与を外すことはありえなかった。さらに突き詰めれば、市民の銃口なくして最終的な政治の変革はありえないことだった。が、歴史の何かがそれを変えた。私や梅田の世代はその蹉跌感が原点にあり、つねに重苦しい空気の中に存在した。
 平野の世代になってその重苦しさが抜けていくのだが、そこには史的な蹉跌の感性は継承されておらず、むしろ普遍的な疑念から人間や国家というものが問えるようになってきている。梅田も私も、そのような新しい人間を驚きをもって見る。そしてそこに情報技術のある必然的な関与も感じ取っている。
 人間の変容について、平野が提起する性的ともいえる匿名の身体性については、梅田は、対談のなかでうまく受け止めてないかに見える。だが逆に第四章に移ると局面は変わる。梅田はなんとか平野に情報技術を推進する人間のある種の狂気について伝えようとする。

梅田(前略)
 ただグーグルの連中は、歴史とか政治とか、そういう人文系の深いところは何も考えていないんですよ。熱中しているのは数学とITとプログラミング、そして『スター・ウォーズ』が大好き、という感じの若者たちが多いですから。
平野 ほんとうですか(笑)? 『ブレードランナー』や『マトリックス』じゃなくて、『スター・ウォーズ』っていうところがミソですね。
梅田 そうです。まさに恐るべき子供たちですよ。大好きな数学とプログラミング技術を駆使した凄いサービスを開発して、『スター・ウォーズ』の世界をイメージしたりしながら、世界中の情報をあまねくみんなに行き渡らせたいと思っている。

 対談者二人に私はここで少し皮肉を言う。平野が『ブレードランナー』や『マトリックス』を持ち出すあたりは坂本龍一などを連想させる古臭い教養主義でしかない。梅田は『スター・ウォーズ』をよく見ていない。
 誰か語ったことがあるだろうか。『スター・ウォーズ』とは民主主義を否定する物語なのである。特に、後から作成されたエピソード1から3の主要なテーマは、正統な民主主義が悪を生み出すことであり、この映画は、悪を暗殺する集団を是とするとんでもないサブリミナル効果を持つ。この悪に明確に歴史のイメージが背負わされているのは悪とされる人々のゲルマン的なコスチュームからも容易に推察できる。もっと簡素に言おう、この映画は、民主主義を含め、現在世界の体制を生み出す全ての機構はある絶対的な正義によって転倒しうるという強い情念を植え付ける。それは仕組まれたサブリミナルのメッセージというより歴史の限界性が自然に生み出したものかもしれないのだが。その感性がヒューマンな快感として、そして技術と結合して語られる。ハイデガーよ永遠に眠れ(参考)。
 梅田にとってはその狂気の由来が自己からは少し離れたものとして知覚されている。

梅田 僕には欠けている資質ですが、時代の最先端を走る彼らには、さっきのジョブズやベゾスと同様に、やっぱり何か狂気みたいなものがあるんです。それがないと時代を大きく変えるようなことはできない。


平野 ハッカー・エシックというのは、どういうものでしょうか。ハッカーの倫理ですか?
梅田 プログラマーという新しい職業に携わる人たちが共有する倫理観とでもいうべきものですね。プログラマーとしての創造性に誇りを持ち、好きなことへの没頭を是とし、報酬より称賛を大切にし、情報の共有をものすごく重要なことと考える。そしてやや反権威的、というような考え方の組み合わせというか、ある種の気概のようなものです。

 この部分の対話はエンディング近くに置かれている。ここで平野は逆に彼の精神の忍耐性を少しかいま見せる。彼はたぶんそうした狂気の実在を予感しながら、梅田がそれに圧倒されている具体性(身体性)を当面の未知の思索課題として認めたからなのだろう。
 対談の結語近く、梅田はこの「狂気」を社会でサポートしていかなくてはならないと語っているが、それは圧倒的な狂気に向き合ってしまった、ある変容後の人間の姿なのかもしれない。

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2006.12.11

官製談合事件雑感

 官製談合事件についてはあまり関心が向かない。地方の首長なんてものは叩けば埃が出てくるのは地方に暮らした人間なら別段どってことのないことだし、談合とかも一種の富の再配分というか、談合している側の配分や雇用ためのコストくらいなものではないか。いったいこのところのマスコミというか国政は何やってんだか。そこまでして地方をつぶしたいのか。
 また、この事態に対して、国への反感が地方の市民レベルから上がってこないものなのかと疑問にも思うが、私がぼんやり世間を見ている限りではそんなふうではない。福島県、和歌山県、宮崎県と首長を引っ捕まえて皆さん正義に喝采という図柄はどうもいただけないのだが。

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ハイエク
自由のラディカ
リズムと現代
 何が問題なのか。私は地方の議会だと思う。民主主義の小学校である地方自治が機能していないか、あるいは機能してこんなものだということだ。つまりその行政の一番の主体がそれでいいとしている状態なのだから、改善するなら、その地域の市民が意識を高め、斬新的に改革に着手していくしかないんじゃないか。ハイエクではないが、社会をゼロから作り直そうとする政治思想はそのものが危険であり、不合理でもそれなりに機能している諸制度というものにはそれなりの知恵を含んでいるものである。
 大手紙社説はこの問題について、なにやってんだ国政という批判はない。それでいて地方の議会を責めているふうでもない。ではどのあたりで正義を吹いているかというと、入札制度を変えよ、一般入札化を推進せよという感じだ。なんだかなと私は思うがこれについては後で触れる。
 談合なんてものは常態であり民主主義のコストだくらいにしか思わない私だが、今回なんで、福島県、和歌山県、宮崎県が狙われたのかはちょっと気になっていた。陰謀論を練りたいわけではないが、国側というかバッシャー側の構図はどうなっているのだろうか。なぜこの三県が入賞したのか。
 各県の談合疑惑の状態は全国市民オンブズマン連絡会議(参照)が毎年公開している公共事業落札率調査でわかる。このところ見ていなかったので昨年の「05年度公共事業落札率調査06年9月発表」(参照・PDF)を読んでみた。単純な話、入賞に輝く三県について、「ありゃまこれは誰が見てもベタにひどすぎますな」という状況なのか。
 この問題に関心を持たれるかたは資料をご覧あれ。宮崎県ついては談合疑惑一位なので、こりゃま三下をしょっぴいたら親玉もしょっ引かないといけないなというものだ。イエス・キリストだって悪の三下を捕まえたらボスだって捕まえるもんだろというジョークを飛ばしているじゃないか。
 むしろ問題は、福島県と和歌山県がこの資料から、ばればれという感じで浮かび上がっているかなのだが、難しい。福島県をしょっ引くなら他にあれとこれはどうなんだという印象が強い。ちなみに、あれとこれについてはちょっと言うのさけようかとためらったが隠されていることでもないので言うと北海道ね、やっぱし。それと鹿児島県、熊本県。熊本県ってなんか疑惑の話題があったような気がするが、最近とんと記憶力がないことにしているのでこの話は突っ込まない。
 談合というのはボスがいるもので、ボスというのは県庁所在地に権力を構えるものなので各県の県庁所在地の市についての談合疑惑ランキングを見ると、あはは、宮崎市二位じゃん。ほいで福島市四位。ちなみに一位は富山市、三位は鹿児島市、五位は松江市。松江市ってなんか有名な政治家がいたような記憶があるが薄れ。
 入賞者への講評として残る和歌山市がなんでヒットされたかだが、全国市民オンブズマン連絡会議からは見えない。なんか個別の理由があるのしょう。ありそうじゃないですか。しょっぴかれたのだからなんか悪をやっているんですよ、きっと。
 冗談はさておき、リストを見ていると言うまでもなく官製談合なんてものは空気のようなものというか空気に含まれている窒素のようなもので、叩く気になれば他からも出てくるので、「この祭、いつまでやるんですか、アベ内閣」と書いたらバカなブログみたいだな。書かなくてもここはバカなブログですか。
 NHKの解説番組時論・公論を見ていたら、全国市民オンブズマン連絡会議とは別の数値が上げられていたが、それでも立派な県として長野県と宮城県が上げられ、入札方式を一般入札に切り替えたことで落札率が七〇パーセント台になりましたとか言っている。そのあたりが先にふれた全国紙の社説の議論と似ているわけだ。
 ところが全国市民オンブズマン連絡会議の資料を見るとわかるが、そういうのっていうのはこの二県と富山県だけで、続く神奈川県、京都府、沖縄県はがくんと一〇ポイントあがって八〇パーセント台。現状では、一般入札に切り替えろソリューションは特例的な状況にあるのだろう。
 というところでワシタウチナーだが、談合疑惑ないよ上位八五・五パーセントっていうのはどういうことなんだと統計を見ると、昨年は九六・四五パーセント。そうでなくちゃね。というわけで、国もずいぶん鞭と飴を沖縄に振るったものだし、ようするに犯罪でしょみたいなベタな談合でなければくさい臭いの元を絶つ(古いなぁ表現が)方式だと自然に下がるわけだ。というか、八〇パーセント台の談合というのは、けっこうウェルフォームドなXMLとまではいかなくてもヴァリッドで必死な再配分システムなんだろう。つまり、ボスの上納金分を減らしても再配分が増える均衡点がこのあたりにあるだろう。まあ、こうした仕組みが全体的に見られるとしたら、なんのことはない、今回のバカ騒ぎというか祭は、国が地方に回すカネを減らしますからね様の赤絨毯なのだろう。
 それにしてもなんでこの時期に祭なのか。全国市民オンブズマン連絡会議を見ていると微笑んでしまうのだけど、優等生の県はオラガ信州ですよ。ヤッシーあっぱれみたいのがぷんぷんしてくるわけで、祭の御輿に変なの乗せるじゃないよってことでこの時期なのかとちと勘ぐる。
 マジな部分では九日の産経新聞社説”宮崎県前知事逮捕 「談合根絶」は看板だけか”(参照)がわかりやすい。っていうか手品のタネはこれだ。

 まさに、日本列島は談合の“ドミノ現象”である。なぜ、これほど談合の摘発が続発するのか。
 その大きな要因の一つに検察・警察の捜査当局が、今年に入って談合事件を積極的に捜査するようになったことが指摘できる。
 改正独占禁止法が、今年1月から施行され、主に談合を取り締まる公正取引委員会の調査権限が、国税当局並みに強化された点が大きい。
 これまで、公取委は、談合を摘発すると、東京高検にしか告発できなかった。これが、改正独禁法により全国の各地検に告発することが可能となり、検察当局との連携が強化された。

 地方も東京高検をマネしたいということか、東京高検的に恣意な必殺仕置き人が全国に撒き散らされたか。ちなみに、福島県と和歌山県の談合事件の背景はこう。

 福島と和歌山県の両談合事件は東京地検と大阪地検の特捜部が捜査にあたった。和歌山県前知事、木村良樹容疑者の逮捕のきっかけは、公取委が今年5月、汚水処理施設工事発注をめぐる談合を大阪地検に告発したのが端緒とされている。

 私はなんか絶句するね。というところでこの話はおしまい。

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2006.12.09

豪イアン・キャンベル環境大臣は日本人英霊を敬すとのこと

 ココログに投稿できないうちになんとなく、極東ブログも千日をもって終わってしまったような感じがしていた(本人談)。が、気を取り直してなんか書いてみるべか。と気になる最近のニュースだが、そういえば先日オーストラリア、シドニー北部沿岸海底で旧日本軍の特殊潜航艇が発見され、その報道が興味深かった。
 話の発端は、オーストラリアのテレビ局、チャンネル・ナインによる十一月二十六日報道番組「60ミニッツ」だ。第二次世界大戦時、シドニー湾攻撃で豪艦艇を撃沈した後、母艦に帰還せずに行方不明となっていた旧日本海軍の小型特殊潜航艇一隻が、シドニー湾沿岸約五・六キロ沖の海底で発見されたと報じた。しばらく真贋が論じられたが、報道内容は後日は確認された。
 一九四二年五月三一日夜、三隻の日本海軍特殊潜航艇がシドニー湾の連合軍艦船を攻撃する任務を負った。二隻は湾内に侵入できず自決。残骸は回収されキャンベラのオーストラリア戦争記念館に展示されているが、残る一隻(伊24搭載艦)は侵入に成功。米国重巡洋艦シカゴに魚雷を二発発射。うちの一発が豪軍艦艇クッタバルを撃沈。二一名が戦死(一九人が英国人、二人が豪州人)した。任務を遂行したこの一隻はその後行方不明となり、探索が続けられていた。これが今回ようやく発見された。
 任務を遂行したのは、NICHIGO PRESS”旧日本軍潜航艇、シドニー北部沖で発見か シドニー湾攻撃後、 64年間行方分からず”(参照)によると、愛知県碧海郡高瀬町出身伴勝久少佐(当時二三歳)と和歌山県海草郡貴志村出身芦辺守少尉(当時二四歳)の二名。
 同記事ではまだ確認されていない時点のものだが、豪イアン・キャンベル環境大臣は日本人英霊を敬すとの話が興味深い。


  また、同環境相は「連邦政府は、船体の長期的な扱いと、日本兵の英霊を敬うための適切な方法について、日本政府とNSW州政府と協議している」と語った。

 この英霊を敬するというのは修辞なのかというとそうではない。というのは、自決した二艦についても敬意を払っている。

一方、自爆した2艦は同年6月4・5日、シドニー湾内から引き揚げられた。オーストラリア海軍は当時、日本軍と交戦中であったにもかかわらず、船内で自害していた松尾敬宇大尉ら日本兵4人の勇敢さに敬意を表して、海軍葬を行った。

 このニュースが私の心を引いていたのは、なぜオーストラリア人は敵国日本人にそこまで敬意を持つのかということだ。ことは以前にふれた「極東ブログ: ダーウィン空爆戦死日本兵銘板除幕式」(参照)でも思った。こういうオーストラリア人の感覚が、正しいとか違っているとか難しい話は抜きにして、国際的には普通の感覚なのではないかという疑問がある。加えて、どうもオーストラリア側での報道を見ていると、伴勝久少佐と芦辺守少尉は英雄という印象を受けた。
 とはいえ、この作戦に関連してチャンネル・ナイン型のニュース”Secret papers reveal bizarre war plan”(参照)の表題にあるように、"bizarre war plan"(珍妙な戦略)とでもいうべきものもあった。
 今朝の朝日新聞社説”開戦65年 狂気が国を滅ぼした”(参照)によると日本国を滅ぼしたのは狂気で「日本中を「狂気」が覆っていたといえよう」ということだそうだ。確かに当時の朝日新聞を読むと納得するしかないし、私も二三歳の伴勝久少佐と二四歳の芦辺守少尉を死地に追いつめたものは狂気であったと思う。ただ、彼らは狂人ではない。豪イアン・キャンベル環境大臣がそう言明したように、敬すべき存在である。

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2006.12.04

チェイニー副大統領のサウジ訪問は何だったのだろうか

 難しい問題なのだがやはりブログに疑問だけでもとどめておく意味がありそうに思えてきた。話は先日のチェイニー副大統領のサウジ訪問についてである。
 まず基礎事実から。日経一一月二五日”米副大統領、サウジ国王と会談・「イラン包囲網」狙う ”(参照)より。


チェイニー米副大統領は25日、サウジアラビア入りし、アブドラ国王と会談、首都リヤドで混迷が深まるイラクやレバノン情勢への対応などを巡り話し合った。

 表面的には、三〇日ヨルダンでもたれたブッシュ米大統領とイラクのマリキ首相会談の下準備ということだが、日経の記事はこう加えている。

副大統領は国王との会談で、同じイスラム教スンニ派が主導する国家であるサウジがイラクのスンニ派勢力に影響力を行使するよう要請したとみられる。

 このあたりの見解はごく妥当なものなのだが、もう一歩踏み込むと、スンニ派勢力への影響力の内容と具体的なサウジ王家の関わりが見えてこない。
 もう一つ事実。CNN”イラクで家族襲撃と自爆テロ 外出禁止令は27日まで”(参照)より。

一方、チェイニー米副大統領は25日、サウジアラビアのアブドラ国王との会談を終えて帰途に着いた。サウジ当局者がCNNに語ったところによると、イラク情勢や域内で拡大するイランの影響力、ガザ地区におけるイスラム原理主義組織ハマスの状況、シリアのレバノン政府介入について意見交換が行われたという。

 会談は短い。報告は曖昧だ。
 この問題の深層とまで言えないのだが、サウジによるイラク介入の可能性だ。この話の発端はナワフ・オバイド氏によるワシントンポストへ”Stepping Into Iraq”(参照)寄稿だが、国内のソースを見ていると意外にも赤旗が注視している。”イラク駐留長期化狙う 米秘密メモで浮き彫り : イラク駐留長期化狙う/米秘密メモで浮き彫り/地位協定交渉を要求”(参照)より。

 この点で注視されるのは、サウジ政府の安全保障問題顧問のナワフ・オバイド氏のワシントン・ポスト十一月二十九日付への寄稿です。同氏は、米軍のイラクからの段階的撤退もありうる情勢になってきたので「サウジ指導部はイラク政策の大幅修正の準備をしている」と指摘。サウジはこれまでイラクへ不干渉の立場をとってきたが、米軍が撤退すれば、イラクのイスラム教スンニ派の擁護のため、同派の「指導」国として軍事的に介入することもありうるとの見方を示しました。
 同氏は、「サウジが関与すれば地域戦争を引き起こす危険があるが、何もしないことの結果の方がはるかに悪い」と述べています。

 赤旗の記事はここで終わるのだが、表題を見るに「イラク駐留長期化狙う」が強調されている。赤旗は米国がイラク占領を長期に継続したいという意図があるのだととらえているのだろうか。しかし実際には、サウジの関与を控えさせるためのチェイニー副大統領の努力だと見てよい。もっとも、それが正しいとか短絡的に理解していいことではない。
 ただ、ナワフ氏の見解が重要であることは確かだ。

In this case, remaining on the sidelines would be unacceptable to Saudi Arabia. To turn a blind eye to the massacre of Iraqi Sunnis would be to abandon the principles upon which the kingdom was founded. It would undermine Saudi Arabia's credibility in the Sunni world and would be a capitulation to Iran's militarist actions in the region.

To be sure, Saudi engagement in Iraq carries great risks -- it could spark a regional war. So be it: The consequences of inaction are far worse.

(試訳)
 このような事態で、サウジアラビアが傍観的な立場に留まることは容認しがたい。イラク・スンニ派の人々への虐殺に目をつぶることは、王国が依拠する原則を放棄することになる。そんなことをすれば、スンニ派の人々がサウジアラビアに寄せる信頼を傷つけることになるし、この地域におけるイランの軍事活動に屈服することになる。
 サウジがイラクに関わることは大きなリスクが伴うことは確かだ。地域戦争の引き金にもなりかねない。なすべきことをなせ。怠惰の結果はさらにひどいことになるのだから。


 この状況のなかでチェイニー副大統領が具体的に何をしてきたのか。「極東ブログ: チョムスキーとチェイニーと」(参照)でふれた過去のことを考えると、いろいろ思うことは多い。

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2006.12.01

Throw the Gem down the well

 今週の日本版ニューズウィークのカバーが「ボラットが来た」であった。カバー写真を見て、おや?、これを採用したのかと思った。というのは、ロイター”映画『ボラット』のポスター、イスラエルで廃棄される”(参照)で話題になっていたからだ。


コメディアン、サシャ・バロン・コーエンの別人格であるがさつなカザフスタン人ジャーナリスト「ボラット」が股間を強調した下着姿で現れたポスターが、イスラエルでは不適切であると判断され、廃棄された。

 「アメリカで大ヒット英国最新コメディー『Borat』」のすべてともある。ああ、このネタを日本で取り上げるのかとちょっと困惑しつつ、そういえばと思ってユーチューブをひねったら案の定すでに何本が上がっていて、いくつか覗いたが、涙が出るくらい笑った。
 特に、れいの歌は実際に聴いてみると、というかその映像の作りもだが、すごいもんだと思った。これを一発撮りでやったのかと思うと、サシャ・バロン・コーエンというのはものすごい才能だ。モンティ・パイソンにしても、ミスター・ビーンにしてもそうだけど、英国のインテリってどうしてここまで徹底的におばかなことができるのだろう。以前NHKの番組で見たが、オックスフォードやケンブリッジにこうした喜劇を志向する組織があるらしい。英国が世界に誇るものはジェントルマンとかいうが、それにおばかを加えていい、ブラボー!
 ローワン・アトキンソンのビーンを最初に見たのは国際線の映画だった。ありえないばかばかしさに隣に座っていたシーク教徒も受けていた。これはユニバーサルな芸だなと思った。喜劇も国際市場かと。だが、その後、彼のライブの映像を見て考えなおした。基本は言葉にある。シェークスピアの国だな。
 ライブもいろいろ面白かったが、インド人レストランのカルチャーネタもけっこうなしろもので、これをやれるっていうのはすごいな、でもこの先にもっとすごいのもできそうだとも思ったが、世界がだんだんナーバスになり、せいぜいサウスパークの米国カナダ戦争くらいまでがこの手のギャグの限界かと思っていた。
 そうではないのだ。やるやつはいるな。世の中にはとんでもないやつっていうのがいるな、こういうのは一種の革命家だなと、ユダヤ人の本当の強さを思うなと、バロン・コーエンを見て思う。先のロイター記事を借りると。

 イギリス生まれのバロン・コーエン(35)はユダヤ人で、母親はイスラエル人。キブツで一年間過ごしたこともある。

 しかし、残念なことに、私は英語がよく聞き取れないので肝心のところがわかってないようだ。みなさんは聞き取れるかもしれないのでユーチューブをエントリ末に貼っておく。
 話がそれるが、偽ドキュメンタリー映画、『ボラット:偉大なる国家カザフスタンに利益を生むためのアメリカ文化学習』を見ていて、ちょっとしんみりと二つのことを思った。一つは初期シャガールの絵である。もう一つはボラットにその暗喩はないのだろうとも思うが、カザフスタンの歴史である、というか、カザール人(Khazar)のことだ。まあ、この話に突っ込むのはやめとこう。
 コメディということに戻ると、おばかに笑えて涙が出るのは久ぶりだろうか。そして日本にはこれに匹敵する芸人はいるかな、電線音頭のリバイバルとかないだろうか、ホタテマンもばかさ加減ではけっこうなものだった。ビートたけしはいつのまにか、なんか全然違う知識人もどきになってしまった。まあ、日本にも芸人はいるでしょ。鳥肌実か?
 本物の笑いとはみたいな無粋な話もなんだが、バロン・コーエンのように、自分であることを笑いのめすことである。嘲笑は最低の笑いである。

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