« 祖母が娘の代理出産というニュースの雑感 | トップページ | セイタカアワダチソウ »

2006.10.19

乞食と米に外道な私

 現代日本では乞食を「こじき」と読んで卑しむ。働かないで物を貰うというのはよくないという倫理が歴史的に形成されてきた。が、世界を見渡すというそういう国ばかりではない。逆に働くことが卑しむべきこととされる文化もある。そういう宗教もある。仏教がそうだ。乞食を「こつじき」と読む。托鉢と同じ意味。頭陀(ずだ)とも言う。食住に対する貪欲をはらいのける修行で十二種あり、十二頭陀行という。厳しい。最近ではiPodしながら托鉢するのはいけないことになった。
 田畑を耕して食物を得るのも欲の部類だろうか。日本の仏教者にはそういう感性はあるまいなと思うかもしれないが、正法眼蔵随聞記(参照)の道元は乞食として生きた。徹底していた。食い物のことなど心配するなと言っていた。イエス・キリストの生まれ変わりかもしれない。


 昔一人の僧ありき。死して冥界に行きしに、閻王の云く、「この人、命分未だ尽きず。帰すべし」と云しに、ある冥官の云く、「命分ありといへども、食分既に尽きぬ。」王の云く、「荷葉を食せしむべし」と。然しより蘇りて後は、人中食物を食することをえず、ただ荷葉を食して残命を保つ。
 然れば出家人は、学仏の力によりて食分も尽くべからず。

 話はこうだ。ある僧が死んで閻魔大王の裁判所。検察が言うに「こいつの命はまだ尽きてないぞ、とはいえ一生分の食い物は食い尽くしたようだ」。閻魔大王は判決を下す。「ほいじゃ、娑婆に戻って蓮の葉でも食って生きるがよかろう」。
 このアネクドートをもって禅師は諭す。仏道にあるものは、食分(一生の食い物)は尽きない。心配するな、というのである。
 ブログも仏道のうちなれば、食分も尽くべからず。お米をもろた。ありがたい。
 炊いて食ってみた。研ぎながら炊きなら、そのにおいに農家の米だなと思う。私の母は農家の娘である。私が子供のころは田舎からときたま米が送られてきた。そんなことを思い出した。飯にする。米に甘みがある。こしひかりであろうか。私には米の味はわからない。
 恥ずべきかな、私はお米に対して外道極まった野郎なのである。もう十年前だったか、なにやら日本国が発狂しておめーらタイ米を食えということがあった。が、我、狂気乱舞、嬉しいったらない。長米、ちょー旨い、ってなものである。知人友人からタイ米頂戴頂戴と乞食して回った。
 外道というのは外道だから外道なのである。米の味などさっぱりわからん。わかるのは、てめーにとって旨い米か不味い米かそんだけ。乞食したタイ米も、実は、あまり旨くなかった。っていうか、めっちゃ味付けて食っちまったぜい。しかし、タイ米には香り米というのがあって、あれなら、なんもいらないぞ。そんだけでもうまいぞと思う。
 ジャポニカへもその流儀である。たぶんあとからげっそり後悔するだろうからすっと惚けて言うと、私は普段、もちっとしたのを食っている。雁谷哲の好みと同じ。だから外道。いや弁解させてくれ。一度飯を炊いたら二、三食分にはするのだ。つまり、レンジで珍、とはいえ、半分以上は冷や飯なのである。だったら、冷や飯に特化すべきじゃないか……ってな具合に最適化してみたのだった。
 反省することしきり。もろた米食いながら、いつもと違う食感に、舎利だ、と思った。百毫の一相、二十年の遺恩である。

|

« 祖母が娘の代理出産というニュースの雑感 | トップページ | セイタカアワダチソウ »

「雑記」カテゴリの記事

コメント

 働かざるもの食うべからずも理のひとつだし悪くないし私も基本はそうだけど、時にあり得る無償の行為(好意?)を否定するようなら、そりゃ愚でしかないんよね。そう思う秋の夜長無銘柄。

投稿: ハナ毛 | 2006.10.19 20:58

 とりあえず生きてると、思いも依らない角度から常識的にあり得ない出来事は起こるわけ。誰が起こすか知らんけど。そういうのに対して閉ざした生き方をしてる人には、そもそも「出来事」は何も起こらんのよ。仮に一度は起こっても、二度は無い。そういうもん。
 いいことが起こるか悪いことが起こるかなんて起こってみなけりゃ分かる訳ないから、とりあえず閉ざしちゃうのも、まぁ理としては有り。でも、理は理以上のもんには成らんのよね。理外の理なんて、そこいらじゅうに、ある。そんなことも考えてみる秋の夜長。

投稿: ハナ毛 | 2006.10.19 21:05

私は生米の触感が好きです。農家から米をもらって、紙製の俵からボロボローっと新米を出す時の喜びは、ビニル包装からやるのと違った趣がありますね。幸せ倍増。

投稿: hamanako | 2006.10.20 09:15

 霜降り牛肉を脂ギトギトのミンチにするのも、真っ赤なオーストラリア牛肉をすき焼きにしてダシガラとして食すのも、その食材に合った料理をしていない点は同じ。あの米不足の折、日本人がタイ米を「日本料理にあわない」と両断してしまったのは、まったくもったいないことだったと思っています。
 輸入野菜だと思えばいいんです。近所にタイ香り米をを置いているスーパーが一軒だけあるので、ライスカレーやパエリアでよく楽しんでいます。中途半端に余ったらケチャップライスなんかもいいですね。
 

投稿: hnami | 2006.10.20 15:30

>紙製の俵

 俵は60kg入り紙袋は30kg入りなんで、「俵」じゃないですよ。私らは普通に米袋と呼んでますが。
 アレ俵でいいんだったらコンビニ袋もビニール製の俵に成ります。

 もうね、袋と言わず全て俵で統一すると面白いんですね。
 若い女の子はブランド物の俵が好きですね、とか。よく分からない。

投稿: ハナ毛 | 2006.10.20 18:44

>俵は60kg入り紙袋は30kg入りなんで、「俵」じゃないですよ。私らは普通に米袋と呼んでますが。
失礼しました。そういえば確かに半ピョウ=30kgって言われてました。30kgでも重くて満杯だと私には扱えません。

投稿: hamanako | 2006.10.23 21:39

↑小脇に2個抱えてダッシュしてこそ真の漢。

投稿: ハナ毛 | 2006.10.24 20:15

私は、民衆にご利益を授けてお布施をいただくために、祈祷坊主になって、曹洞宗を逸脱、転轍させてしまった瑩山紹瑾(けいざんじょうきん) 禅師が大好きなんですよ。

開祖道元禅師が明らかにされたのが本来の仏道、仏法だとしたら、瑩山禅師が働きかけたのは、日本の庶民の素直で素朴な信仰心だったのだと思うのです。瑩山禅師は、それまで朝廷や貴族だけのものだった仏法の一部を民衆にも近づけるようにしてあげたのです。

でも、この行為は、美しいのは、はじめた瑩山禅師ただ一人で、その後継者の、お布施がほしかったり、多くの人からえらいと思われたりしたくて瑩山禅師のやり方を引き継いだ飽食坊主たちは醜悪だと思います。

きっと、道元禅師が健在だったなら、道元禅師は、瑩山禅師を破門されただろうと思います。瑩山禅師も、きっと、禅僧らしく、飄々と破門されて道元禅師の下を去ったことだろうと思います。

投稿: enneagram | 2012.10.25 15:51

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 乞食と米に外道な私:

« 祖母が娘の代理出産というニュースの雑感 | トップページ | セイタカアワダチソウ »