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2006.10.31

タミフルと大淀病院問題と報道

 ちょっと散漫なエントリを書く。考えがまとまらないからだ。というか、このままこの話題は書かずに済まそうかなとも思っていた。まず、枕の話。タミフル。
 一年近く前になるが、タミフルと報道について「極東ブログ: タミフル副作用報道雑感」(参照)というエントリを書いた。参照リンクは当然切れている。


 該当の毎日新聞記事は十二日付け「インフルエンザ薬:タミフル問題、学会でも論議」(参照)である。ざっとメディアの情報の流れを見ると、この毎日新聞の記事が発端となり、共同で増幅という印象を受ける。そのせいか、毎日新聞では十五日社説「タミフル 副作用の可能性十分伝えよ」(参照)で他紙社説並びネタではなく取り上げている。

 当時の報道の流れを見ていると毎日新聞がなぜと思ったものだった。
 先日厚労省研究班がタミフルについての報告書をまとめた。あえて毎日新聞の記事”タミフル:服用と異常言動に関連性ない 厚労省研究班”(参照)を引用する。昨日付で一点ネットにあった。まず概要はこうだ。

 インフルエンザ治療薬のタミフル(一般名オセルタミビル)の服用と、インフルエンザの子供が起こす理由なくおびえる、笑うなどの「異常言動」との関連について、厚生労働省の研究班(班長・横田俊平横浜市大教授)が「明らかな有意性はなかった」とする報告書をまとめた。研究班は明確な結論を導くため、この冬も詳細に調査するという。

 毎日新聞的なまとめはこうなっている。

 タミフルでは、マンションからの飛び降りなどの「異常行動」が副作用で起きるおそれがあると問題になっていた。これに対し、今回調べたのは「ニヤリと笑う」なども含めた「異常言動」の率だった。研究班は「異常行動」が広く報道されたため、うわ言などまで「異常言動」として報告され高い率が出た可能性があるとみており、今冬も調査を続けることにした。

 単純な疑問がある。厚生労働省研究班は昨年の騒ぎについて、異常行動が広く報道されたことに疑義を投げている。これに報道社は答えなくていいのだろうか。もっと単純な話、昨年のタミフル報道について検証する必要はないのだろうか。
 話を変える。本当はこちらの話がこの間気になっていた。奈良県大淀町の町立大淀病院で重体の妊婦が多数の病院に搬送を断られて死亡したとされる問題だ。
 まず、報道の端緒を簡単に確認しておきたい。報道は共同通信としては十月十七日だったようだ。徳島新聞の記事”処置遅れて出産後に死亡 奈良の妊婦、転送拒否続き ”(参照)より。

 奈良県大淀町立大淀病院で分娩中に意識不明になった奈良県の妊婦(32)が、受け入れ先の病院に次々断られ、大阪府の病院に収容されるまでに約6時間かかっていたことが17日、分かった。妊婦は転送先で緊急手術を受け出産したが、約1週間後に死亡した。
 県福祉部によると、奈良県では緊急、高度な医療が必要な妊婦の約3割が県外に転送されており、態勢の不備が問われそうだ。

 として十七日の時点で「態勢の不備」として報道されている。
 問題自体の発生は八月のことだった。

 大淀病院によると、妊婦は今年8月7日、分娩のため同病院に入院。8日午前零時すぎに頭痛を訴えて意識不明になった。主治医は分娩中にけいれんを起こす発作と判断し、県立医大病院(橿原市)に受け入れを打診したが満床を理由に断られた。

 ちなみに同日の朝日新聞記事”奈良の妊婦が死亡 18病院が転送拒否”も類似で、報道の経緯は書かれていない。八月七日から共同の報道の十七日までの間の報道社はどうしていたのだろうか。
 発表時間の経緯をネットから見ると、内容の詳しさや署名記事という点から”分べん中意識不明:18病院が受け入れ拒否…出産…死亡”(参照)が詳しく、また、同紙二二日”支局長からの手紙:遺族と医師の間で /奈良”(参照)から察するに毎日新聞のスクープから共同へと伝搬したようだ。毎日新聞かと思ってそういえばタミフルのことを私は思い出したのがエントリの冒頭である。

 今年8月、大淀町立大淀病院に入院した五條市の高崎実香さん(32)が容体急変後、搬送先探しに手間取り大阪府内の転送先で男児を出産後、脳内出血のため亡くなりました。
 結果的には本紙のスクープになったのですが、第一報の原稿を本社に放した後、背筋を伸ばされるような思いに駆られました。

 これをそのまま受け取れば毎日新聞奈良支社が報道の発端ということにも思える。
 この先が重要なのでもう少し引用する。

 というのは、今回の一件はほとんど手掛かりがないところから取材を始め、かなり時間を費やして事のあらましをどうにかつかみました。当然ながら関係した病院のガードは固く、医師の口は重い。何度足を運んでもミスや責任を認めるコメントは取れませんでした。なにより肝心の遺族の氏名や所在が分からない。
「これ以上は無理」
「必要最低限の要素で、書こうか」
 本社デスクと一時はそう考えました。
 そこへ基礎取材を続けていた記者から「遺族が判明しました」の連絡。記者が取材の趣旨を説明に向かうと、それまでいくら調べても出てこなかった実香さんの症状、それに対する病院の対応が明らかになりました。それがないと関係者にいくつもの矛盾点を突く再取材へと展開しませんでした。

 この話をそのまま受け取ると、当初最小限の記事となるはずが、遺族が判明したことで遺族側からの取材、遺族側から見た病院の対応というふうに記事がまとめられていったようだ。

 支局の記者たちも、ジグソーパズルのピースを一つずつ集めるような作業のなかで、ぼやっとしていたニュースの輪郭がくっきりと見えた感覚があったに違いありません。手掛かりある限り、あきらめないで当事者に迫って直接取材するという基本がいかに大切で、記事の信頼性を支えるか。取材報告を読みながら、身にしみました。

 毎日新聞としては記者お手柄スクープということなのだろうか、記者の視点を二六日に”記者の目:「次の実香さん」出さぬように=青木絵美(奈良支局)”(参照)として掲載している。

 取材は8月中旬、高崎さん一家の所在も分からない中で始まった。産科担当医は取材拒否。容体の変化などを大淀病院事務局長に尋ねても、「医師から聞いていない。確認できない」。満床を理由に受け入れを断った県立医科大学付属病院(同県橿原市)も個人情報を盾に「一切答えられない」の一点張りだった。

 記者の意識は次のようであったようだ。

 報道以降、多数のファクスやメールが届いている。「医師の能力不足が事態を招いた印象を与え、一方的だ。医療現場の荒廃を助長する」という医師の声も少なくない。だが、記事化が必要だと思った一番の理由は、医師個人を問題にするのではなく、緊急かつ高度な治療が可能な病院に搬送するシステムが機能しない現状を、行政も医師も、そして私たちも直視すべきだと思ったからだ。居住地域によって、助かる命と失われる命があってはならない。

 こういうまとめでいいのかわからないが、記者は今回の問題を、助かるはずの命が病院搬送システムの機能不全によって失われたとして捕らえられているのだろう。
 ここでようやく原点の問題が浮かびあががるのだが、ようするに、そういう問題だったのだろうか?
 十七日以降の報道の経緯のなかで、問題の構図についての疑問は、私の見る限りかろうじて二三日付け朝日新聞記事”奈良の妊婦死亡、産科医らに波紋 処置に賛否両論”に見られた。

 奈良県内では3月にも、大和高田市立病院で出産直後の妊婦が大量出血で死亡し、産科医が同容疑で書類送検された。今回、妊婦の受け入れを打診されたが、満床を理由に断った病院の産科医は「担当医なりに一生懸命やった結果、立件されるようでは、ますます産科医をめざす若者がいなくなる」と漏らす。


 死亡した妊婦は当初、頭痛を訴え、間もなく意識を失った。その1時間半後にけいれんを起こしたため、主治医だった常勤医は、妊娠高血圧症候群(妊娠中毒症)によって起こる「子癇(しかん)」の発作と判断。脳の異常を疑わなかったとされる。「出産中に脳内出血を起こす例は1万人に1人程度。自分も子癇とみて治療を進めた可能性がある」と、奈良県内の50代の開業医は同情する。

 今回の問題については、ブログ「天漢日乗」が”「マスコミたらい回し」とは? 医療現場で起きていること”(参照)以降一連のエントリで、ネット上の情報、特に、医師の側の本音ともいうべき匿名発言を多く掲載して興味深い。
 だが、私のように非専門の立場や情報が限定されている立場からこの対処の是非については問えない。ただ、問題の構図は毎日新聞の当初のスクープの構図でよいのか、検証のプロセスが必要になっているのだろうとは思う。そしてそのことがジャーナリズムに問われていることだろうし、ブログにもし意味があるとすればその経緯の監視のわずかな機能を担うことだろう。

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2006.10.28

高校の世界史履修漏れ雑感

 高校の世界史履修漏れの事件だが、以前は私も高校・大学の歴史の先生とか交流もあったのでいろいろ現場の声を聞いていた。しかしもう十年くらい聞かない。あまり変わってないのではないかとも思うが、現場の感覚を失うとピンとこない。
 しかし、今回の事態は基本的には、世界史がどうの大学入試がどうのということより、学校経営の問題であり、どちらかというと岐阜県庁とかの組織ぐるみの裏金作りなんかと同質の問題ではないかと思う。
 この件について最新のニュースはどんなだろうと、朝日新聞のサイトを見て”「補習出ない」「学校ふざけるな」 履修漏れ、受験生ら”(参照)に驚いたというか、なーんだというか。


 学校への同情を口にする生徒もいた。秋田県立秋田南の男子生徒は「テストを受けていない世界史の成績表には日本史と同じ点数が記載されていて変だと思っていた。だけど、学校は僕らの受験のためにやってくれたことで仕方がなかったとも思う」と話した。

 すべてがそうじゃないだろうとも思うが、こういう実情について笑っていいのか泣いていいのか、少なくとも怒るべき部分があるのになんとも気が抜ける。
 実態がよくわからないので的はずれかもしれないが、事態は相当に深刻だろう。というのは、たぶん、今年度だけの問題ではないのに、事実上、今年度の学生だけが、なんというか処罰みたいな対象になるのだから。これを公平性の問題とかで問うていいのかもよくわからない。
 話をちょっと素っ頓狂に世界史という学問のありかたに移すと、「世界史」ってなんだろというのは、私にとっては長年根の深い恨みのような問題だった(数学もそうだったし英語もそうだったが)。
 高校生のときから「世界史」というのに違和感があった。かなり単純にいうと、高校の世界史というのはアカデミズムの史学のイミテーションみたいなもので、背景理論は大筋でマルクス・エンゲルス主義であり、その対象は、経済制度・法制度など諸制度の変遷になっていた。そんなものに若い人が関心を持てるはずもなく、しかも、これらの対象は、世界史といいつつ実際は西欧史でもあった。
 私は高校時代にその社会主義臭さにむかついて図書館でトインビー全集かなんか読んでいた。トインビー(Arnold Joseph Toynbee)は史学者の受けは悪いが、高校生にはというか当時の高校生にはそれなり68へぇくらいな高校生向きの学者ではあったように思うし、なかなかよい爺さんだったのではないか。コリン・ウイルソン「オカルト」(参照)だったがトインビー翁には一種の超能力もあったのかもしれない。そういえばトインビーの対話というとドンビキばかりの印象があるが、若泉敬との対談「未来を生きる―トインビーとの対話(1971年)」(参照)もあった。若泉敬(参照)か。
 歴史について自分のなかでようやく何かがわかってきたのは岡田英弘に学んでからだった。「極東ブログ: [書評]世界史のなかの満洲帝国(宮脇淳子)」(参照)の宮脇ではないが、私の疑問は氷解したという感じがしたものだ。
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世界史の誕生
岡田英弘
 一九九二年に出版された「世界史の誕生」(参照)では、まえがきから「世界史」が強く意識されていた。

 十九年前、私は「世界史は成立するか」という一文を書いたことがある(『歴史と地理』二一一、一九七三年四月)。「世界史という言葉が我々の心に呼び起こす映像には、ほぼ二つの相矛盾する概念が重ね焼きになって、全体の輪郭がぼけて何となくつかみにくい感じがする」と書き出して、その二つの概念の第一が、明治以来の「万国史」の概念であること、第二が中国の伝統的な「正史」の概念であることを指摘した。

 岡田はこの矛盾は決定的なものだと話を進める。

世界史Bの高校用教科書は、その無理がありありとうかわれるものばかりである。本来、東西それぞれ縦の脈絡がついていたものを輪切りにして、一つ置きに積み重ねたのでは、教える方も学ぶ方も、まるっきり話の筋が通らない。聞くところによると、高校の先生方には、西洋史なら西洋史の部分を拾って教え、あとで東洋史の部分を拾ってつなぎ合わせて教えている人も多いという。これでは「世界史」以前と変わりない。
 それに不都合なことに、東洋史と西洋史が合体した「世界史」には、「国史」に由来する日本史が含まれないのである。その結果は、日本抜きの世界を日本を日本の学校で日本人が学習する、ということになってしまう。まるで日本は世界の一部ではないかのごとくであり、日本の歴史は世界史に何の関係もなく、何の影響も与えないものであるかのごとくではないか。これでは、「世界史」で扱うべき事項の選択に、我々日本人との関連が観点が入ってこず、事項を増やせば増やすほど筋道の混乱がひどくなり、やたらと雑駁になるばかりなのは当然である。

 ではどうすればよいのか。

 この「世界史は成立するのか」の一文の結びは、「少なくとも現在の日本では、本当の意味での世界史は成立しない。それでも世界史を教えなければならない。この矛盾を解く道はただ一つ、大学入試の科目から世界史を廃止することである」となっていた。

 岡田がそう語ったのは七〇年代の初めであった。その後も岡田がそう考えていたわけではないのは、世界史というものがどう記述されうるか、この本で示したからだ。

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2006.10.25

原油下落と中国の謎

 原油下落についてだが、これまでの高騰はやっぱただの投機じゃんて書こうと思いつつ逸していたことを思い出す。で、書くべきことはやっぱ投機じゃんというだけで終わりそうなのでエントリのネタにもならない。こんなときは愉快な陰謀論でふくらましておくのがブログっていうもんだ。
 この夏まではWTI(West Texas Intermediate)がぐんぐん上がって、原油一バレル百ドル時代の到来かとか言われもした。なわけないでしょ。だぶだぶ原油抱えてカトリーナ・リターンズを狙ってたのでしょ。で、来ない?なに?藪さんから電話があった?ほいじゃ、ってな具合でがたがたと下落が始まったというだけでもなく、ただ単に季節が変わったのでホットマネーが株式市場に移っただけでしょ、と思っていた。
 先日NHKの解説番組を見ていたら、原油価格下落について、景気が好調なのでお金が株に移ったという説明をメインに、投機がシフトしただけという説もあると付け足していた。ほぉ、すげーマネーが動いていても真相っていうのはわからないものか。
 原油下落でもう一つ思ってたことがある。原油高騰期間、中国のエネルギー事情がしばしば語られた。曰く、エネルギー価格の上昇にもかかわらず大幅に需要が増加している中国……ってな具合である。あながち嘘でもないが急騰の理由にはならんでしょに加え、「極東ブログ: 中国の石油消費はそれほど伸びない?」(参照)でふれた奇妙な動向が気になっていた。


 なぜ中国の石油消費が伸びなくなったのか。理由とされる説明は単純で、高いから、だそうだ。で、中国様はこの事態をどう考えているかというと、これでいいのだ、らしい。年率七%経済成長をさせてかつ四%ずつ石油消費量を減らすというのだ。うぁ、さすが中国様でなくちゃ吹けないお話、ぷうぷう。

 年率七%経済成長ぷうぷうのくだりは笑ってさておき、中国様が原油を買わないのは高いからというのはありだろうな、それと非効率な石油消費はなんとかなる部分だろう。っていうか、原油高騰のチキンレースの勝ち目はそのあたりにあったのではないか、という感じがしていた。ほいで、結局中国様のがまん勝ちなのか。
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”俺様国家”
中国の大経済
 中国のエネルギー効率の悪さに加え、気になることがあった。山本一郎「”俺様国家”中国の大経済」(参照)のこのくだりだ。

 産業分野での電力需要の伸びや、家計部門での電力消費は上がっているはずだが、中国は実は精油施設が不充分なのである。じゃかすか原油を輸入しておきながら、精油能力が足りなくて輸入したはずの原油がどこかに消える怪奇現象が発生している。一億バレル単位で輸入原油と精油能力と発電能力が釣り合わないので、中国大陸のどこかに原油を飲み干している、知られざる中国人集落が存在しているのかもしれない。中国の電力関係は銀行融資と並んで中国経済最大の底なし沼である。

 原油を飲み干す民族といえば猪八戒のモデルとなった朱八戒の居留地烏斯蔵にその伝説があるとかないとかあるわけないじゃんというかなのだが、要するにエネルギー需要とは別の話もありそうだ。そんなのが適当にバランスというか清算したあたりがレースの勝ちを導いたのか。いや陰謀論にするにはもっと壮大にふかさないと。
 「銀行融資と並んで」といえば、十八日のフィナンシャルタイムズに愉快な奇譚”China's reserve riddle”(参照)が掲載されていたが、このあたりがネタになるかも。

Yet in spite of the renminbi's undervaluation, private capital seems to be leaving China. That is a conundrum. But even if the phenomenon is real it will not erase the pressure for, or the logic of, a higher real exchange rate.

人民元が過小評価されているのに、民間資本が中国から出ているようだ。これは謎である。この現象がもし現実にあるのだとしても、切り上げ圧力や機構の現実が打ち消せるわけもない。


 なんだか不自然なカネが中国からどばどば出ているようだが。

That might mean that "hot money" is departing China.

 中国がホットマネーを操っているのかもな、と。
 中国様、いったいなにかたくらんでいるのだろうか。というか、原油値下げのホットマネーがもし中国様の仕業だったら、す・ご・い、な。
 では、今日の愉快な陰謀論を終わります。また明日。

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2006.10.24

おフランスのパリ症候群ですか

 パリ症候群なんてネタは内田樹先生の合気道的ブログエントリ「内田樹の研究室: パリ症候群」(参照)が出てしまった昨年二月二日時点でブログ的にはもうペンペン草も生えないネタかなと思っていたが、ABCを見てたらこの話題が出てきて驚いた。ロイターのネタだった。十月四日の朝日新聞社説的にいうと「荒川選手のイナバウアーではないが、思わずのけぞりたくなるようなこと」って感じだろうか。まあ、つまり、国際ニュースっていうことだ。
 それにしてもパリ症候群かぁと思って、まさかと思ってウィキペディアを引いたら、ちゃんと載っていてこれも若干朝日新聞的イナバウアーだった(参照)。簡単な概説にはいいので引用する。


パリ症候群(ぱりしょうこうぐん)とは、「パリは流行の発信地」であるという日本におけるイメージに憧れてパリで暮らし始めた者が、現地の習慣や文化などにうまく適応できずに精神的なバランスを崩し、鬱病に近い精神状態になることを指す新語・流行語である。精神科医の太田博昭が創った言葉とされ、彼は同名の著書も出版している。

 太田博昭の「パリ症候群」(参照)は一九九一年の刊行なんで随分と古い。あのころ私もパリではないが海外旅行にうろうろした時期でもあり、あの頃と今のパリ症候群はだいぶ違うようにも思うのだがどうなのだろうか。ロイターの記事でもパリ症候群がフランスで最初に紹介されたのは二〇〇四年だとある。
 ウィキペディアの同項目をざっと見ていくと、女性への言及が多いが事実を元にしているのだろう。例えば、「発症者は、20~30代の日本女性に多いといわれている」「日本の若年女性の社会が、他の社会に比べて他罰主義的な社会であるために、発症者が20~30代女性に集中しているとの指摘もある」といった感じ。極めつけはこれか。

外的な要因としては、表層的な情報を過剰に収集することによって生じる、西洋への過剰な憧憬と自国への極端な卑下、日本で自分が認められないのは日本社会の男尊女卑のためであると思い込み、パリで自己実現ができない原因を、「日本人男性によって自分が妨害されている」と責任を転嫁せざるを得ず、その結果、上記のような精神疾患に近い症状を発症するとも言われる。

 なんか変な話だなと思いつつ、読み直してみるに、これはあれかな、と過去エントリ「極東ブログ: あの時代、サリン事件の頃」(参照)を思い出した。この話に突っ込むのはやめてロイターに戻ろう。

Around a dozen Japanese tourists a year need psychological treatment after visiting Paris as the reality of unfriendly locals and scruffy streets clashes with their expectations, a newspaper reported Sunday.

"A third of patients get better immediately, a third suffer relapses and the rest have psychoses," Yousef Mahmoudia, a psychologist at the Hotel-Dieu hospital, next to Notre Dame cathedral, told the newspaper Journal du Dimanche.

(フランスの日曜新聞「ル・ジュルナル・デュ・ディマンシュ」によれば、パリを訪れた日本人のうち年間十数名が精神科の治療が必要になっている。日本人の期待に反して現地は不親切で市街も汚い。ホテル・デュ病院の精神科医師ユセフ・マフムデァによると、患者の三分の一は早期に回復するが、残り三分の一は後遺症が残り、さらに残りは精神病になる。)


 かなり深刻なケースが年間四、五人ということだろう。基本的には無視してもいいような少数でもあるし、記事もそれほど深刻に受け止めていない。ちょっとネタに釣られたか。

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2006.10.23

前頭側頭葉変性症と才能

 前頭側頭葉変性症と才能についてちょっと変わったニュースを見かけて、ちょっと考え込んだ。よくわからないのだが、気になる部分もあるので簡単にブログにでも書いておこう。
 話はたまたま米国立衛生研究所のサイトにあるロイターで見かけたもので”Why brain damage may spark artistic ability ”(参照)。標題を訳すと「なぜ脳障害が芸術的な才能を誘発するのか?」。確かに、ある種の脳のトラブルは芸術的な才能を開花させることがあるようにも思えるし、「なぜかれらは天才的能力を示すのか―サヴァン症候群の驚異」(参照)ではないが脳にはなにか奇妙な謎がある。
 今回のニュースだが、脳障害といっても、前頭側頭葉変性症(FTLD: frontotemporal lobar degeneration)に限定されている。


The condition known as frontotemporal lobar degeneration (FTLD) occurs when sections of the frontal and temporal lobes of the brain deteriorate, leading to dementia. There have been reports of previously inartistic people becoming talented visual artists after developing FTLD. But it is not clear whether the brain atrophy is releasing dormant talent, or the disease itself has somehow triggered the artistic expression.

この状態は前頭側頭葉変性症として知られているもので、前頭葉・側頭葉に障害は起こり、認知症となる。発症後に視覚面で芸術的な才能を開花させることがあるという報告もあった。しかし、脳萎縮が才能を解放しているのか、病気自体がなんらかの芸術的な才能の引き金になっているのかについては不明である。


 今回のニュースでもそのあたりは不明という感じだったので、なーんだということでもあるのだが、研究ではその産物を芸術として多面的に評価し、感情表現などにおいてはそれほど優れてないともしていた。つまり、芸術的な才能と手放しで言えることではないようだ。小林秀雄が山下清の絵について優れているが人間が表現されていないと表していたことを思い出した。
 またニュースでは、絵画的な能力が前頭側頭葉変性症によって障害を受けていないということだが、肯定的にその部分の能力を引き出す可能性については言及していないようだった。
 歳を取ると能力が劣化するのは、私も来年は五十歳ということで、そりゃそーですよねということにしている。べたな記憶力は悪くなっているようにも思う。が、正直能力が劣ってきているのかと問いかけると、別に勝ち気に言うわけでもないが、よくわからない。むしろ、直感的な側面では以前よりアップしているのかもと思い、ちょっとそう思うときに検証してみるのだが、そういう面もありそうだ。経験則からなにかメタな部分を引き出しているのだろう。そのあたりはそういうものかということで、吉本隆明「家族のゆくえ」(参照)に内省されている老人の能力ということも頷ける。ただ、自分だけが特例というわけでもないだろうが、経験性でもない感覚面でも若いときよりもきつくになっている面もあるので奇妙な感じがする。
 話を前頭側頭葉変性症にシフトすると、ピック病も含めてだが、こうした病気ほど深刻な状況ではなくても類似の緩和な状態というのがあるのではないかとときおり思う。ネットを見ると「さまざまな認知症:前頭側頭葉変性症」(参照)にはこうあるが。

前頭側頭葉変性症(frontotemporal lobar degeneration)は一次性認知症の約1割を占め、アルツハイマー病に比べ発症が若い傾向があります。もの忘れはみられますがあまり目立たず、人格変化が中心になります。自己中心的、短絡的な行動や、意欲低下、だらしない行動がみられるため、精神科疾患のようにみえることもしばしばあります。食事の好みの変化(甘いものや大量飲酒など)、繰り返し行動、言語障害(漢字が書けない、読めない)などもみられるようになります。

 歳を取るとそういう変化をある程度緩和に示すケースは多いのではないかと思う。「ピック病」(参照)についてはこんなページもある(この病気自体がよくわからないので情報についての正確さもよくわからない)。

ピック病は、アルツハイマー病に比して少なく(アルツハイマー病の1/3~1/10といわれている)、40代~50代にピークがあり、平均発症年齢は49歳である(アルツハイマー病の平均発症年齢は52歳)。

 ちなみに私はその四十九歳。

たとえば、人を無視した態度、診察に対して非協力、不真面目な態度、ひねくれた態度、人を馬鹿にした態度などで、病識はない。その他、会話中に同じ内容の言葉を繰り返す滞続言語(滞続言語とは、特有な反復言語で、質問の内容とは無関係に、何を聞いても同じ話を繰り返すもので、他動的に誘発され、持続的で制止不能である)も特有である。

 なんか藻前ずばりこれじゃんとか言われそうだが。まあ、病識はない、と。
 こじつけたいわけではないが、今日の産経のニュースで”家庭のストレス?退行現象? 万引に走る50~60代男性”(参照)を連想した。

 ボールペン、塗料…。1000円にも満たない物を万引し、人生を棒に振る年配男性たちが目立つ。NHK放送局長。警視庁課長。地位も収入もあるのに、ホームセンターで安い日用品を万引した。50~60代の万引検挙者数はこの10年間で倍増しているという警察庁の統計もあり、関係者は「家庭のストレス」「欲求を吐き出したいとする退行現象では」と分析する。

 医学的には前頭側頭葉変性症ということでは全然ないというのはわかるのだが、なにか類似の傾向というのはあるような気がするし、単に老化の心理的な傾向というだけかもしれないのだが、脳の機能面ではなく構造面での変化がありそうにも思える。

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2006.10.21

サハリン2は何がなんだかわからない

 専門ではないので何がなんだかわからないのだが、専門家でもそうなんじゃないかというのがエントリの主旨になる予定なので、そう、別にどうという話でもない。この間ずっと気になっていたし、潮目のような感じもするのでちょっと書いておこう。
 話はサハリン2プロジェクト、略してサハ2、じゃ略しすぎ。ではサハリン2・0、ってこともなし。サハリン2は、ロイヤル・ダッチ・シェルと三井物産、三菱商事、三社が出資するサハリン・エナジーによるロシア・サハリン沖の資源開発事業だ。開発契約開始は新ロシア黎明・混沌の九四年。出資比率は順に五五パーセント、二五パーセント、二〇パーセント。というわけで、かつての日本領土近くだから日本の比率が多いというわけではないが、対露投資として見れば大きい。来年から原油の通年生産(日量一八バレル)、再来年から液化天然ガスの生産(九六〇トン)開始の予定、だった。が、そう行かないかもしれないというのが事の発端かのような。
 話は先月五日。ロシア天然資源監督局がサハリン・エナジーは環境保全措置を怠っているとして事業許可の取り消しをモスクワ市の裁判所に求めた。一八日これを受けて、露天然資源省は事業第二段階の許可承認を取り消す決定を下し当面開発は停止となった。環境問題があったかなかったかというと、サハリン・エナジーもまったくないとは言えないわけで、そう不当な決定ということでもない。
 停止ということもあるんじゃないのかくらいに私は思っていた。が、日本の報道と限らないのだが、これはロシア政府が仕掛けたものでロシア企業ガスプロムを開発事業に加えろというメッセージではないかという話がふくらんできた。なぜ?
 そこが私にはわからない。誰がそんなこと言っているのかというのが気になってこの間ニュースを見聞きしてきたのだがわからない。専門家は口を揃えてロシアの国策だろうと言うのだが、いったいどこにそんなソースがあるか。プーチン皇帝は、エネルギーを国家支配下に置き国際戦略に使いたいのだろうという観測から、なーんとなく出てきたお話ではないのか。
 二一日、アレクサンドル・ロシュコフ駐日ロシア大使は、プロジェクト全体を中止するつもりはないと明言。どういう権限でそう言えるのかわからないが、中止しないというメッセージをはっきり出したた。さらに二六日、トルトネフ天然資源相はサハリン2について、約一か月は環境調査を行うが、その間は工事継続を容認すると記者会見で述べた。
 ロシアを敵視しているかのようなメディアの思惑とロシアから公式に出てくるメッセージが噛み合わない。
 今月に入り、ロシア会計検査院はサハリン2について、投資額が増大になればロシアの収益化が遅れて不利になると発表したが、それとても環境問題とは直接リンクしない。別の話に思える。ロシア会計検査院の言っていることはただの正確な予想というだけで、問題はむしろサハリン・エナジーの投資増大にある。
 もともとこの開発は生産物分与協定(PSA)によるもので、これは企業の投資分の回収を優先し、ロシアへの収益配分はその投資回収後になる。ロシアがカネのない時代に開発を進めるためにしかたなしに酔っぱらったエリツィンが打ち出したものだが、当然投資が増えればその回収は遅れてしまい、ロシアは手を拱いていなければならない。しかも、現在のロシアは原油価格高騰でカネがだぶだぶ。
 ロイヤル・ダッチ・シェルもロシアというかプーチンのご不満はわかっていたわけで、昨年、サハリン・エナジーの株式を二六パーセントロシアのガスプロムに譲渡することになっていたし、その後、三井物産・三菱商事がその株をシェルに回すことになっていた。
 が、シェルはこれと併行して、事業経費を当初の百億ドルから二百億ドルに増やすと言い出した。ロシア皇帝もそりゃむっときて当然だろう。なので、環境問題はその反撃かと読まれたわけだが、そういう読みの裏付けは私の見る限りだが何もない。
 今日になって共同からこんなお話が流れた。”ロシア大統領がサハリン2批判 日本に影響か”(参照)より。


ロシアのプーチン大統領は20日、日本商社などが出資する極東サハリン州沖の石油・天然ガス開発計画「サハリン2」について、現行の契約形態である生産物分与協定(PSA)や、事業主体が打ち出した事業費倍増計画はロシアの利益にならないと厳しく批判した。大統領がサハリン2について自ら考えを表明したのは初めて。

 初めてプーチン皇帝のお言葉が出てきたわけだが、なんかおかしい。と思っているうちにこの問題にけっこうきちんと取材しているNHKから”ロ サハリン2で対話の構えも”(参照)が出た。ちと長いが重要なので引用する。

これについて、トルトネフ天然資源相は20日、上院の公聴会で、事業主体のサハリンエナジーがロシア政府に歩み寄り、環境対策の不備を認め、改善に取り組む意思がみられるとして、「建設的な対話を行いたい」と述べ、事態打開に向けた協議に応じる構えを示しました。また、プーチン大統領も20日、EU・ヨーロッパ連合との首脳会談後の記者会見で、「双方が交渉のテーブルについて合意することが必要だ」と述べました。その一方で、「環境問題以外に事業費の増加が問題だ」とも指摘し、サハリン2の経費が予定の2倍にふくれあがることによって、ロシア側の利益の取り分が少なくなることに不満を示しました。

 こっちのHKニュースのほうが真相に近いように思える。プーチンとしてはなんとか日本ともめたくないという心情が優先的なのではないか。
 昨年の話だが、シュレーダー元ドイツ首相がロシア・ガスプロムの共同事業NEGPの締役会長に就任した(参照)。ドイツ国内ではすごいブーイングの声が上がった(参照)がプーチンとしては信頼できる国外の仲間を要所に据えたかったことは間違いない。
 たぶん、プーチン皇帝は日本でもそういう信頼できる人が欲しいのではないかと思う。でも候補者は早々に潰されていたということか。

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2006.10.20

セイタカアワダチソウ

 セイタカアワダチソウ(参照)は漢字で書けば、たぶん「背高泡立草」となるのであろう。でも、子供のころから見慣れたこの植物について、私は、ヨウシュヤマゴボウ(参照)と同じように、カタカナの名でしか受け付けない。多分に気分的なものだが、北米からの帰化植物だからという印象が強かったからかもしれないし、「背高泡立草」なら「セダカ」となりそうなものを「セイタカ」と呼ぶのにも、なにか懐かしい響きがある。そういえば、みんなの歌だったか、宇多田ヒカルがクマクマクマと歌っていたが……違う違う、十朱幸代だ。歌っていた。まだ七〇年代だったか。ベトナム戦争の歌だったのか。
 セイタカアワダチソウが好きかと自問するといつも微妙な気分になる。明らかにある種の嫌悪感がある。にょきにょきと生えていたり川辺に群生していたりすると、およそ日本の美観にそぐわないように思えるのだ。が反面、そう嫌いとばかりも言えない。昨年たまたまとある場所で、四メートルは超えようかというセイタカアワダチソウを見かけて、驚嘆した。奇妙なものであり、それゆになにか私に問いかけてくるようにも思えた。セイタカアワダチソウの黄が目立つこの季節が巡ってきたので、あいつのことが気になって、足を伸ばして今年のようすをわざわざ見に行った。二メートルくらいのがしょぼっと生えているくらいだった。みすぼらしい感じでもあった。この一年の気候か、あるいは何者かにいじめられていたのかもしれない。案外、自業自得っていうことかなとも思った。
 セイタカアワダチソウが繁茂する理由の一つでもあるのだが、その根から植物の成長を阻害する物質を出して、他の植物を圧倒する。物質の正確な名前はなんだったっけかなとど忘れするが、ネットを見ると出てくる。シス-デヒドロマトリカリアエステル(cis-DME:cis-dehydromatricaria ester)。特定の物質を使った植物間の争いはアレロパシー(allelopathy)と呼ばれていて、なにもセイタカアワダチソウだけの得意芸というわけではないし、こうした物質の研究は農薬にも活かされているらしい。
 セイタカアワダチソウの自業自得というのは、自分の根が出すこの物質で自家中毒のようにもなるからだ。川辺などに繁茂しているのは、土壌中にこの物質が残留しにくいからなのだろう。昨年の見事なセイタカアワダチソウも自業自得であったかとも思ったのはそんなわけだ。
 文句なしにセイタカアワダチソウが美しいと思ったことが一度だけある。もう随分昔のことだが、斑鳩のあたりをこの季節とぼとぼと歩いて旅していたら、川の向こうが金色に輝いていた。なんだあの金色は。浄土に辿り着いたか。それとも懐かしのケンタッキー。セイタカアワダチソウだった。あまりの群生を遠くで見ると不思議な光景になっていた。
 セイタカアワダチソウは英語ではゴールデンロッド(Goldenrod)になる。黄金の枝ではあるな。ただ、正確にゴールデンロッドというならアキノキリンソウであり、セイタカアワダチソウがその一種であっても、見た目はちと違う。ケンタッキー州の花だそうだが、これも群生しているのだろう(参照JPEG)。
 日本中で見かけるセイタカアワダチソウ(Solidago altissima)は北米からの帰化植物ということだが、本家の北米でも繁茂しているのだろうか。そういえば、日本の葛は北米に帰化して繁茂していると聞く。葛は私には美しい植物だが、北米の人にはそうでもないのかもしれない。
 セイタカアワダチソウは花粉症の元のように言われてもいるが、ウィキペディアを見ると日本語版も英語版もそうじゃないという話がある。悪いのはブタクサ(参照)ともある。そうなのだろうか。セイタカアワダチソウもキク科(Asteraceae)なのでアルゲンにはなりそうにも思えるのだが。
 季節はこれからセイタカアワダチソウを枯らしていく。冬にはあいつらもその枯姿を晒すだけかのようだがそうではない。ロゼットで冬越しをする。霜に当たったセイタカアワダチソウのロゼットは美しく、これには愛着がある。地べたにへばり付いたおまえさんが、セイタカだっていうのを俺はよくわかっているよと、冬の朝にはときおり思うのである。

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2006.10.19

乞食と米に外道な私

 現代日本では乞食を「こじき」と読んで卑しむ。働かないで物を貰うというのはよくないという倫理が歴史的に形成されてきた。が、世界を見渡すというそういう国ばかりではない。逆に働くことが卑しむべきこととされる文化もある。そういう宗教もある。仏教がそうだ。乞食を「こつじき」と読む。托鉢と同じ意味。頭陀(ずだ)とも言う。食住に対する貪欲をはらいのける修行で十二種あり、十二頭陀行という。厳しい。最近ではiPodしながら托鉢するのはいけないことになった。
 田畑を耕して食物を得るのも欲の部類だろうか。日本の仏教者にはそういう感性はあるまいなと思うかもしれないが、正法眼蔵随聞記(参照)の道元は乞食として生きた。徹底していた。食い物のことなど心配するなと言っていた。イエス・キリストの生まれ変わりかもしれない。


 昔一人の僧ありき。死して冥界に行きしに、閻王の云く、「この人、命分未だ尽きず。帰すべし」と云しに、ある冥官の云く、「命分ありといへども、食分既に尽きぬ。」王の云く、「荷葉を食せしむべし」と。然しより蘇りて後は、人中食物を食することをえず、ただ荷葉を食して残命を保つ。
 然れば出家人は、学仏の力によりて食分も尽くべからず。

 話はこうだ。ある僧が死んで閻魔大王の裁判所。検察が言うに「こいつの命はまだ尽きてないぞ、とはいえ一生分の食い物は食い尽くしたようだ」。閻魔大王は判決を下す。「ほいじゃ、娑婆に戻って蓮の葉でも食って生きるがよかろう」。
 このアネクドートをもって禅師は諭す。仏道にあるものは、食分(一生の食い物)は尽きない。心配するな、というのである。
 ブログも仏道のうちなれば、食分も尽くべからず。お米をもろた。ありがたい。
 炊いて食ってみた。研ぎながら炊きなら、そのにおいに農家の米だなと思う。私の母は農家の娘である。私が子供のころは田舎からときたま米が送られてきた。そんなことを思い出した。飯にする。米に甘みがある。こしひかりであろうか。私には米の味はわからない。
 恥ずべきかな、私はお米に対して外道極まった野郎なのである。もう十年前だったか、なにやら日本国が発狂しておめーらタイ米を食えということがあった。が、我、狂気乱舞、嬉しいったらない。長米、ちょー旨い、ってなものである。知人友人からタイ米頂戴頂戴と乞食して回った。
 外道というのは外道だから外道なのである。米の味などさっぱりわからん。わかるのは、てめーにとって旨い米か不味い米かそんだけ。乞食したタイ米も、実は、あまり旨くなかった。っていうか、めっちゃ味付けて食っちまったぜい。しかし、タイ米には香り米というのがあって、あれなら、なんもいらないぞ。そんだけでもうまいぞと思う。
 ジャポニカへもその流儀である。たぶんあとからげっそり後悔するだろうからすっと惚けて言うと、私は普段、もちっとしたのを食っている。雁谷哲の好みと同じ。だから外道。いや弁解させてくれ。一度飯を炊いたら二、三食分にはするのだ。つまり、レンジで珍、とはいえ、半分以上は冷や飯なのである。だったら、冷や飯に特化すべきじゃないか……ってな具合に最適化してみたのだった。
 反省することしきり。もろた米食いながら、いつもと違う食感に、舎利だ、と思った。百毫の一相、二十年の遺恩である。

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2006.10.18

祖母が娘の代理出産というニュースの雑感

 祖母が娘の代理出産というニュースをなんとなく耳にしたとき、「ああ、それができるのは根津八紘医師しかいないだろう」と脊髄反射的に思った。そして、それはいつもの根津八紘医師の言動の一環でもあり、考えなくていけない課題だが、時事的な枠組みで考えることでもないだろうと、そのまま関心を失っていた。
 昨日、大手紙の社説がこの問題を扱っていた。一読して、どれも違和感を覚えたが、うまく考えがまとまらないまま、気が付くとエントリも書かず過ぎた。それはそれでいいのだが、さらに一日経過してみると、新聞社説への違和感は強くなっていた。そのあたりの、なんというか自分の気持ちみたいなものからちょっと書いてみたい。
 朝日新聞社説”代理出産 法整備は待ったなしだ ”(参照)はこんな切り出しだった。


 祖母が孫の生みの母。生殖医療の進歩が、こんなややこしい親子関係を作った。違和感を持つ人は少なくないだろう。
 50代後半の女性が、がんで子宮を失った娘とその夫の受精卵を自らの子宮に入れて妊娠し、出産したのだ。祖母による代理出産である。手がけた長野県の産科医が明らかにした。

 一般の人は違和感を持つだろうというところで気を引き、そして「長野県の産科医」とした。その名前は社説には出てこない。確かに違和感はある。だが、その違和感はこの問題の考察の基盤になるのだろうか。
 結論は、代理母の命を危険にさらすな、法的枠組みが必要だ、原則なく現実の追認はいけないというものだった。だが、その三点こそ、根津八紘医師が答えたことでもあった。
 命を生むという人の根源的な意志に対して「命懸けの行為を承知で産んでくれる人がいるなら、他人がとやかく言う問題ではない」(一五日会見より)ということ。
 法的な枠組みは必要だろう。だが、現状は「学会の会告はあくまで内規。目の前の患者を忘れていては、何のために医者になったか分からない」(同日読売インタビューより)ということ。
 原則なく現実の追認にという点については、「医療法人登誠会諏訪マタニティークリニック」(参照)の「扶助生殖医療(非配偶者間体外受精・代理出産)を推進する会」(参照)が対応していると思う。

 私、根津八紘は、此の度、別紙のごとき、扶助生殖医療(非配偶者間体外受精・代理出産)を推進する会を結成し、より多くの恵まれぬ人々のために、残された人生を捧げることを決心致しました。
 生まれながらにして、又、その後、何らかの理由で配偶子(精子や卵子)や子宮が無いがために、子供さんを欲しくても子供さんが授からない方達が居ます。私達の住むこの日本国には、憲法によって幸福追求権が保障されており、何人たりともそれを侵してはならないことになっています。しかし、本来悩みや苦しみを持った患者さんのためにあるべき日本産科婦人科学会は、ガイドラインでしかあり得ない会告をもって、日本の法律であるかのごとき態度により、ひとの助けを借りれば子供を持つことのできる前述した方達から、その幸福追求権を奪っております。その上、国も新しい法律を作り、代理出産に関しては罰則まで付け禁止しようとしています。戦後、やっと勝ち得た自由、即ち、様々な生き方を選択できるそのような権利を放棄し、再度統制社会を作ることなど断じて許すことはできません。

 もちろん、この問いかけは難しい。朝日新聞の社説は根津八紘医師の名を伏すことでこうした問いから身を隠しているように私は思った。
 読売新聞社説”「孫」代理出産]「現実的なルール作りを急ぎたい」”(参照)は、朝日新聞同様根津八紘医師の名を伏した一般論だが、フランスでは禁止しているが英国では政府監視下で実施しているとの中立的な話にまとめた。毎日新聞社説”生殖技術 包括的な法整備の検討を”(参照)は論旨が破綻しているように思えた。

 50代後半の女性が無理に妊娠・出産することは、明らかに命にかかわる。本人が望んでいても、出産の手段として人を利用していることは間違いない。親なら許されるというものではないだろう。
 「子供がほしいという気持ちにこたえるべきだ」という意見もある。家族がみな納得しているなら問題はないという考えもあるだろう。だが、これらは親の願望に重きを置いた見方だ。
 本来、重視すべきなのは生まれてくる子供の福祉ではないか。誰が産むにしても、代理出産は子供の家族関係を複雑にする。子供の心理やアイデンティティーの形成にも影響しかねない。その点では、米国人女性に代理出産を依頼して子供をもうけた向井亜紀さんのケースも同様だ。

 細かいツッコミは省略するとして、論旨破綻のような印象には宗教的な価値観が伴っているように思えた。
 論旨破綻というより、これはどうしたんだと驚いたのが産経新聞社説”「孫」代理出産 やはり法整備急ぐべきだ”(参照)だ。冒頭から他紙とは異なり根津八紘医師を名指して挑んでいる。

 医師の独走ではないか。根津八紘(ねつやひろ)院長による娘の代わりに祖母が孫を産んだ「代理出産」のことである。
 がんで子宮を摘出した女性の卵子とその夫の精子とを体外で受精させ、受精卵を女性の母親の子宮に移植して育て出産させた。母親は50代後半で、閉経し、子宮も萎縮(いしゅく)していた。女性ホルモンを投与し、人工的に生殖機能を回復させてカバーしたとはいうものの、出産後に一時的な更年期障害に陥った。今後、健康問題は深刻化しないだろうか。初めてのケースだけに心配だ。

 二段落目は論旨が破綻しているか、この祖母が主体的に命を懸けてしたことを他人の健康問題にしているのは、やはり健康は命より大切というブラックユーモアなのだろうか。

 代理出産を一部の州で合法化しているアメリカでは、代理母が子供を引き渡すのを拒んだりするトラブルや、代理母に報酬を支払う斡旋(あっせん)業者まで出ている。

 それは別の問題だろ。
 この社説は文体も変だった。

  • 初めてのケースだけに心配だ。
  • 将来、問題は起こらないのだろうか。
  • やはり違和感はぬぐえない。
  • とも語っているが、説得力に乏しい。

 最初に代理出産はイカン、法的に禁止せよ、ということで、この社説にも私は特定の宗教的な主張を感じた。
 各紙社説が総じて結論とするのは、法的に決めてしまえということだ。
 私はこのエントリを書き出すとき、この問題はあまりに難しいから、社説を皮肉っても自分の意見は曖昧にしておこうと思った。
 しかし、書き進めていくうち、自分の考えは少しクリアになった。医療が可能性を示していて、そこに命をかけて希望を見いだそうとする人がいるかぎり、つまり、今とは違った未来を人が構想しえるとき、それを禁じて終わりの緞帳を降ろすことはできないだろう。つまり、この問題はどう考えても、どのような条件下でOKを出すのかというその条件が問われなくてはならないのではないか。

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2006.10.15

魚のこと、雑談

 このところNHKのラジオやテレビで漁業の話を何度か聞いた。概ね、世界の人々(っていうか中国人)の魚食が増加してきているため魚の市場価格が上がってきたから日本人も気楽に魚が食べられる時代ではない、というのと、マグロなど魚の乱獲がはげしく今後は規制が強化されるので、日本人も気楽に魚が食べられる時代ではないと、まあ、どんな話でもオチはそういうこと。ニュースを見ると、スポニチ”“高級トロ”漁獲量削減を勧告”(参照)は後者の話。


 最高級トロの材料として日本で大量に消費される東部大西洋と地中海のクロマグロの資源量が急激に減少、資源維持のためには現在の漁獲枠を半分以下にすべきだとする資源管理機関「大西洋まぐろ類保存国際委員会(ICCAT)」の科学委員会の報告書案が14日、明らかになった。11月にクロアチアで開くICCATの特別会合に提出される。同会合で国ごとの漁獲枠を定め、各国がこの範囲内でマグロを漁獲することになっている。

 個人的にはトロはそれほど好きでもないのでふーんという感じ、というか、ああいう魚は欧米人でも食べやすいのだろうなと思う。
cover
築地市場の
さかなかな?
平野文
 個人的な話だが三十台から四十台にかけて沖縄の海辺を八年間転々としたのだが、海辺というのは漁村なもので、漁師をよく見かけた。捕れた魚を見ると、イラブチャーやミーバイなど、熱帯魚かよこの色彩、食欲湧かねぇ、と当初は思ったが、食い慣れた。皮を剥けば同じだよと漁師は言ったがそのとおりだった。そのうち、魚に旨い(ミーバイとかマクブとかタマン)のとそうでもない(イジキンとかグルクンとかオジサン)とか見ればわかるようにはなかった。というか、けっこうどうでもいい魚などは分けてもらったりもしたし、できるだけ買いもした。暮らした界隈によっては三輪車にオバーが乗ってきてマグロやカジキの切り身を売りに来た。いおこーらーんがーである。
 沖縄は海に囲まれているから魚も豊富なのだろうと思っていたが、中部とか那覇とか街に出るとようすは違う。どうやら普通のうちなーんちゅは沖縄の魚をほとんど食べてないというか、そもそもスーパーにもあまり売ってない。もちろん牧志にはあるが、っていうか、つまり観光とか料亭のニーズなのだろう、地方魚は。
 代わりに沖縄のスーパーで売っている魚は本土と変わらない。しいていうと本土よりまずい。東京に戻ってからデパ地下などで魚を買うが、ようするにカネさえだせば旨い魚は買えるのだけど、沖縄だとそうでもなかった。もっとも経験が狭いのでそうでもないのかもしれないが。
 当たり前といえばそうだが沖縄の漁師たちはできるだけ旨い魚を捕ってこようとしている(高く売れるからでもあるが)。沖縄の漁師たちというのはけっこうオジーの漁師たちである。いかにもうみんちゅという人々。言語はほとんど外国語なのでもうぜんぜんわかんないのだが、それはそれ私もまだ若気の残っているころでもあるのでいろいろ訊いてみた。いくつか驚いたことの一つに秋刀魚のことがある。漁師たちの捕ってくる魚に秋刀魚とか鰯とか鰺とかない。鰯が無いのはよくわからない。鰺はもともとこの海にいなさそうだというか代わりにガーラがいる。秋刀魚もここでは捕れないのだろうと思ったが、なにかのおり、うみんちゅのオジーに聞くと「あれは魚の餌である」と言う。捕れるのだそうだ。そして魚の餌にするのだそうだ。あんなものは魚ではないのだそうだ、である。
 考えてみるとナイチでも昔はというか江戸時代以前というか、魚というのは鯛みたいのが魚であって、鰯だの鰺だの秋刀魚だのは魚ではあっても魚の部類ではなかったのではないか。そういう事情は朝鮮でも同じようだし(イシモチとか)。そういえば以前「極東ブログ: [書評]「築地市場のさかなかな?」平野文」(参照)を書いた。
 っていうか、魚を食うっていうのはそういう、なんというか下魚を食うということではないのだろうなとなんかわかった。自分も歳とってきたので、おりに触れてできるだけ、カネのあるぶんだけ、人生もこれから残り少なくなるのだから、ジョートーな魚を食べよう、とも思った。もちろん日々そういうわけにもいかない。たいていは普通の魚を食う。普通の魚?
 日本人にとって普通の魚ってなんだろと思い、ネットを眺めてみた。購入量の多い魚という話が「ジュニア食料・農業・農村白書」(参照)にあった。鮭がだんとつに多い。年間五キロ。たしかに、なにかと鮭は食うな。次いで烏賊三キロ。私はあまり烏賊が好きではないのでそんなに食わない。同量くらいが鮪と鰺。鰺は好きだな。ちゃんと釣ってきた鰺とかちとカネ出して食うとうまいよな。秋刀魚は二キロくらい。同じく海老。私は海老があまり好きではない。そして鰤。鰤は好きだな。そして鰯。鰯って実はあまり食えなくなったような気がする。リストはこれにアサリと鯖と続いて終わり。
 ふーんという感じだが、鯛とか鰈とかはもっと少ないのだろうか。私はけっこうカジキを食べるがな、鱈とかも、などなど。
 同資料にはその輸入元の国の比率があるが、海老を除けばけっこうまだ日本でよく捕っている。スーパーとか見ていると各国の魚ばかりという気もするが、グロスで見るとそれほどの量ではないのだろうか。
 ついでに漁業生産量の推移とか見ると現在の日本は九〇年代の半分くらいに減っている。ピークが八四年で一二八二万トン。〇五年は五七二万トン。イラストのお船が「魚がへったことや国際規制などで生産量はへっているんだ」と言っているが、単にコストの問題ではないのか。海外から調達したほうが安くなったというだけでは。
 ついでに漁業従事者も年々減っているのだが、推移を見るに四割がたは六〇歳以上。漁師って老人の仕事っていうことなんだろうか。沖縄のうみんちゅうも老人が多かったが。

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2006.10.14

ダイエーゲットがイオンの野望か知らんがメモ

 昨日一三日ダイエー再生に向けて同じくスーパーのイオンが資本・業務提携の交渉に入ることで合意した。イオンはたしか産業再生機構からの売却のときにも手を上げていたのでようやくその野望を達したということなのか、資本の関係もよくわからないので、ちとニュースを追ってみたメモメモ。
 ダイエーはこの間、産業再生機構の主導でリストラを進め、再建にめどがついたとして、丸紅に株式を売却していた。今回どうなるのか。朝日新聞”丸紅・ダイエーがイオンとの提携交渉開始へ、マルエツ株の譲渡も”(参照)によると資本提携はこう。


資本提携の交渉は、丸紅が保有するダイエーの発行済み株式の約15%と、ダイエーが保有するマルエツ<8178.T>の発行済み株式の約20%程度について、イオンに売却することを検討する。丸紅はダイエーの筆頭株主で44.6%を出資している。また、ダイエーはマルエツ株を37.8%を保有する筆頭株主。イオンにダイエー株が譲渡されれば、丸紅の出資比率は29.6%程度になり、マルエツ株が譲渡されれば、ダイエーの出資比率は17.82%程度に下がることになる。

 ダイエーについては丸紅とイオンの株の比率は二対一。というか、丸紅が三分の一の株を売るということになる。この記事でもよくわからないし他でもよくわからなかったのだが、これでイオンはダイエー株の第三位というのだが、第二位って誰? と調べると投資ファンドのアドバンテッジパートナーズというらしい。似たような名前のなんとかパートナーズがあったがそれじゃない、と。でそれは何か、と、読売新聞”[戦略を聞く]アドバンテッジパートナーズ・笹沼泰助、フォルソム両代表”(2006.7.5)より。

アドバンテッジパートナーズ
 1992年設立で、日本の企業買収ファンドの先駆け的存在。これまで1号(30億円)、2号(180億円)、3号(465億円)の各ファンドを設立し、計19件の投資を行った。2005年9月、株式会社から、利益の配分などが柔軟にできる有限責任事業組合(LLP)に組織変更した。本社・東京都千代田区。

 記事を読むと村上ファンドとは違うと強調されている。また、フォルソム氏は「ファンドは最初の3~4年は投資を行い、10年以内に回収するのが原則だ。2~3年経過して、どう展開するかが見えてくる」と言っている。十年を長期というべきかよくわからないが、そのくらいで回収にかかるということなのだろう。ということは、売・る・ぜ、ということだ。
 今の流れだと、イオンが、買・う・ぜ、となるのだろう。ビジョンとしては、丸紅を超して、ダイエー、ゲットだぜ、となると見ていいのだろう、大筋としては。もちろん、うまくいくとの話なんだろうが。
 今回丸紅が、わてら小売はわかりゃしまへん的に音を上げたということでもあるのだろう。そこにイオンとウォルマートが手を上げて、じゃイオンってことでというのが背景か、先の大筋を考えると、ちとわからん。それはそれとしてウォルマートはかなりへこんだということになるだろう。つまり、西友は何処へ?
 この音を上げたとたぶん関係があるのか、今日の日経社説”ダイエー再生を流通業進化に”(参照)にもあるが、再建は食品中心でとかいう話の変化だ。

 今回の提携が実現するのは半年後になる。商品の共同開発など効果が表れるのはさらに先だ。丸紅、イオン、当事者であるダイエーの3社は真剣かつ迅速に再生に取り組み、今度こそ一連の混乱に終止符を打ってほしい。従来の「食品中心による再建」という構想に対し、今月就任した丸紅出身の新社長は衣料品や日用品にも力を入れるとしている。柱となる方針の擦り合わせは急務だ。

 よく読めないのだが、ようするに「食品中心による再建」はダメでしたぁ、二年間は本当は回り道の無駄でしたぁ、というのがイオンと結びついているのだろう。
 NHKの解説だと、雑貨関係ではこれでイオンが市場の十パーセントという価格決定権の水準を超えると言っていたが、話はむしろ逆で、イオンがこの分野で強くなるように、やっぱりダイエーをこっちむけほいだったのではないか。
 ついでにそのNHKの解説では今後の最大の課題は、誰が主導者か、とあまりに率直に述べていたが、そういうことなんだろう。
 イオンに目を向けるとこれで小売りの規模としては六兆円を超えて、セブン&アイ・ホールディングスを抜くらしい。
 イオン側のメリットとしてはやはり規模の拡大で、NHKの解説員は「イオンがマルエツの二百店舗を手に入れる」と言ってから「一気に取り込む」とあわてて言い直しただけで撮り直し編集なしだったので、実は狙ったわかりやすい表現だった。それと関連して、「極東ブログ: 改正中心市街地活性化法施行、雑感」(参照)でもちとふれたけど、イオンが得意としてきた郊外型の発展は規制が強くなったので今後都市へと展開したいのだろう。
 庶民の私としてはどうでもいいよ感もある話だが、結局税を投入したわりに、うっすら、なんかおかしくね感があり、すっきりしない。

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2006.10.12

[書評]世界史のなかの満洲帝国(宮脇淳子)

 「世界史のなかの満洲帝国(宮脇淳子)」(参照)は書名通り、満洲帝国を世界史に位置づけようとした試みの本だが、その試みが成功しているか妥当な評価は難しい。いわゆる左翼的な史学からすれば本書は、珍妙な古代史論と偽満州へのトンデモ本とされかねないところがある。史学学会的には概ね無視ということになるだろうが、おそらく日本には本書をカバーできる史学者は存在していないのではないかと私は思う。

cover
世界史のなかの満洲帝国
 一般読書人にとって新書としての本書はどうかというと、率直に言えば、有無を言わず買って書棚に置いておけ絶対に役立つとは言える。各種の事典的情報がコンサイスにまとまっているので便利だ。ブログに書評を書いてブックオフへGO!という本ではない。ただ、読みやすさと読みづらさが入り交じる奇妙な読書体験を強いられるかもしれない。
 言うまでもなくと言いたいところだが、宮脇淳子は岡田英弘の妻であり、その史学の後継者である。岡田英弘は、私は彼の史学の心酔者なので(直に教わったこともあるし)偏見でいうのだが、日本国が二世紀後、三世紀後に存在しているのなら、この史学こそ日本国民のナショナルアイデンティティになると確信している。日本人が中国に飲み込まれずに存在しているなら、中国を対象化する学恩となるだろう。それをもっともよく理解しているのが宮脇淳子だろう。「最後の遊牧帝国 ― ジューンガル部の興亡」(参照)も興味深い書籍だが、「あとがき」は胸熱くなるものがあった。

 岡田の学問は、『世界史の誕生』(ちくまライブラリー一九九二)で示されているように、全く独自である。日本の東洋史学会では孤立した存在だった。しかし、中国史に関する岡田の講義をはじめて聞いた時、東洋史を専攻して以来わだかまっていた私の疑問は氷解した。そのうえ、私の志したモンゴル史については、世界中を見ても、岡田ほどふさわしい指導者はいなかった。学位の取得や就職へのコースからはずれようと、岡田について学問する以外に、私の選択の余地はなかった。

 岡田はかなり厳しく宮脇を指導したようだ。
 その後彼らは結婚する。年の差は二〇歳。どうでもいいが、あのころ、私は銀座で闊歩するご夫妻を見かけたことがある。
 もう一カ所引用したい、本書において筆者の内的な部分に関わるだろうから。

 最後に、寺の長男に生まれたのに理系を選び、満鉄に入社して依託学生として在学中に終戦で大陸雄飛がかなわなかった父、宮脇俊と、私を自分の母方の祖母の生まれ変わりと信じて、三代の女の夢を託して私を応援し続けた母、宮脇久子に、これまでの私への信頼と支援を感謝することも許していただきたい。

 ちなみに私の父もまた宮脇と同じ境遇だったので、顔見知りだったかもしれない。
 本書に戻る。
 宮脇自身に満州の歴史が関わっていた。私もそうだ。日本人にとって満州国とは日本人の生活史からそぎ落とせるものではない。ではそれはどのように理解すべきなのか、その大きな問いかけが本書の根幹にある。
 その答えが簡素に十分に本書で答えられているかどうかは読者によって異なるだろうし、おそらく一部の日本人知識人にとっては本書は忌まわしい代物かもしれない。
 本書の帯には、「日中韓の歴史認識問題を知るための必読書」とあるが、それはそうなのだが、その受け止め方は多様だろう。それでも、本書の次の結語はある問題意識を持っている人には共通の痛みではないが痛みに近い感覚をもたらすだろう。そしてこのつぶやきは岡田の声でもあるだろう。ここでいう「東北」とは「満州」の意味である。

 毛沢東はかつて、「仮にすべての根拠地を失っても、東北さえあれば社会主義革命を成功させることができる」と語った。実際、戦後の満州は中国重工業生産の九割を占めた。東北地方は国有企業が中心で、たとえば大慶油田は純収益の九〇パーセントを政府に上納、売上高の六〇パーセントが税金というふうに搾取されていた。これは「東北現象」と呼ばれる。
 満州帝国の遺産を食いつぶしたのちはじめられたのが、改革開放路線であったのである。、

 この問題の別の陰影については、ふざけたトーンで「極東ブログ: 遼寧省の鳥インフルエンザ発生からよからぬ洒落を考える」(参照)で言及したことがある。
 脇道ばかりの話になったし、当初このエントリは本書との関連で、北朝鮮の古代史と満州の関わりあたりを、「極東ブログ: 朝鮮民族の起源を考える」(参照)の続きを兼ねて書こうかと思っていた。関連では、「極東ブログ: 韓国の歴史は五千年かぁ(嘆息)」(参照)、「極東ブログ: 乙支文徳」(参照)、「極東ブログ: 新羅・しらぎ・しんら・シルラ」(参照)もある。
 尻切れトンボだがまたの機会に。

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2006.10.11

フィナンシャルタイムズが暗示する朝鮮半島の未来

 北朝鮮核実験についてのその後。まず、実験の規模が小さく失敗ではなかったかという話がちらほら出ているが、依然確たるものではない。韓国の言い分はさておき米国がこの件に発言をしないのはなんらかの思惑があるからなのだろう。公表されている日本の地震観測のデータからは洒落にならない推測ができそうなものなのでお茶の間の話題になっているのだろうか。日本の観測は意外にナイーブに科学的にこんなの出ましたけど的なことをするので、日本政府の思惑は入ってないかもしれない。
 日本の新聞社はというと、昨日はのんびり新聞休刊日のわりに号外を戸配していた。ご苦労様。各紙社説は今朝になって読めるのだが、朝日新聞がなにをどう勘違いしたかブッシュ叩きのユーモアで笑いを取っていた他、どうという主張もなかった。実際どうという話でもないのかもしれないのだが。
 前エントリで紹介したテレグラフは、その後”China must rein in North Korea”(参照)で中国がなんとかしろよと宣っていた。まあ、そんなものか。余談の類だが、記事中"Mr Kim, 64 or 65 depending on which version of his biography you believe,(キムさん、お歳は六四歳か六五歳か読者のお好みの自伝で違うのだけど)"という皮肉がおかしかった。ちなみに、キムさんのお名前は実はユーリ・イルセノビッチ・キムでソ連人として生まれたようなんですけど。
 テレグラフは保守的な新聞なんで保守でも意見はそのくらいかと思ったし、穏健なフィナンシャルタイムズも五日付”Kim's challenge”(参照)、社説ではないが九日付け”orth Korean nuclear crisis - Analysis: North Korea test a sign of weakness”(参照)なども、それほどぱっとしなかった。朝日新聞社説みたいなユーモアもない。例えばこんな感じ。


Yet the test is more a sign of weakness than of strength. Though analysing what goes on at the top of the isolationist regime is difficult, some analysts have speculated that Kim Jong Il is under internal pressure.

今回の実験は強さより弱さの兆候を示している。孤立した政権のトップでなにが進行しているのか分析するのは難しいにせよ、金正日が政権内の圧力の元に置かれていると見るむきもある。


 が、十日付け”Pyongyang's act of irresponsibility”(参照)は、えっと思うくらい痛快だ。こっちのほうが中国様の本音かもと思ってしまったほどだ。まず現状認識はこう。

China is the key to resolving this nuclear crisis, and it is time for Beijing to put serious pressure on the North Korean regime, even if that means undermining Mr Kim and setting the two Koreas on the path to reunification. For too long, China has baulked at "destabilising" North Korea for fear of an exodus of Koreans seeking refuge in China and the eventual creation of a united Korea allied to the US.

中国は今回の核危機を解決するための重要な位置にあり、中国政府は北朝鮮に重大な圧力をかける時期にきている。たとえその圧力の結果、分裂している朝鮮半島国家の再統合を金正日が模索することになろうとも実施すべきだ。中国政府は、長期に渡り、北朝鮮からの難民と、米国と同盟した韓国連邦が実質的に成立してしまうのを恐れるあまり、北朝鮮情勢の不安定化を避けてきた。


 つまり、難民が出てもしかたないじゃないか、統一朝鮮もしかたないじゃないかという含みがある。そう言わせる背景は経済かもしれない。フィナンシャルタイムズはここでは言及してないが、近年北朝鮮への中国からの投資も大きい。
 痛快なのはその先。

Chinese leaders must now accept that Mr Kim's regime, especially when armed with nuclear weapons, is itself unstable, as well as being a destabilising force in the region. South Korea, meanwhile, is already moving out of the US orbit into the embrace of an economically powerful China. It will be an expensive and tumultuous time, but if the dysfunctional North Korean government collapses peacefully a de facto takeover of the north by the developed south will be as inevitable as west Germany's absorption of the east in 1990.

中国指導部は、もはや核化した金正日体制自体が不安定要因なのだと現状を受けれるべきだ。また、この地域の不安定的な軍事力についても同じだ。この間すでに韓国は米国が敷いた軌道を脱し経済大国としての中国に取り込まれてきている。朝鮮半島統一までの時代には損失も多く混乱もあるだろうが、統制不能になった北朝鮮政府が平和裏に解体すれば、発展を遂げた韓国に事実上併合されることは、一九九〇年代ドイツが東地域を併合したのと同じく、避けがたいことなのだ。


 そこまで言うか。
 多少曖昧に書かれている部分もあるが、要するに、韓国はすでに経済的に中国の下に入った。中国様はその韓国に北朝鮮を併合させなさい、ということだ。
 日本としては、二つ懸念があるだろう。まず、金正日の核兵器はどうなるの?だが、この文脈だと統一朝鮮に保持されるようでもある。フィナンシャルタイムズはこう補足している。

But the government of a united Korea might see the sense in abandoning the expense and the awesome responsibility of nuclear weapons, just as South Africa and Ukraine did after their own revolutionary upheavals at the end of the cold war.

しかし統一朝鮮国家は、南アフリカやウクライナが冷戦後の動乱期に合理的に判断したように、核兵器保有の出費と重い責務を放棄したほうが良いとする理性を持ち合わせる可能性だってないとは言えない。


 英国風のユーモアですかね。
 次に、統一までのごたごた時代に日本は影響受けるだろうかだが、フィナンシャルタイムズは言及してない。そりゃ、言いたくないよね。

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2006.10.09

北朝鮮核実験実施

 このところ英紙テレグラフでの報道を見ていると、慎重でありながらも、現地報道員や米国やロシアの情報を元に、核実験が近いことを報道していた。日本政府もこの情報はかなり正確に把握していたようなので、政府側としても驚きはないだろう。
 五日付けの”US spy satellites detect N Korea's nuclear moves ”(参照)によれば米人工衛星で察知されていたようだし、六日付の”North Korea 'could test bomb this weekend'”(参照)では近々の実験について、谷内正太郎外務事務次官の発言をソースとしている。国内ソースを見ると例えば朝日新聞の”北朝鮮の核実験、「今週末にも」 谷内外務次官”(参照)があるにはあるが、記事の弱いトーンが印象的だ。
 私も今日の実験は予想できなかった。もうちょっと中国がなんとかするだろうし、意外と米国は交渉にねばり強いところがあるので、外部から見ていると、そこまで北朝鮮は追い詰められていたかなという感じがする。もっとも、昨年四月”極東ブログ: 北朝鮮核化の新動向”(参照)でこう書いていた。


 現実の問題として、日本ではこの北朝鮮核搭載ミサイル可能性の問題をどう受け止めていいのかは難しい。社会パニックになることは避けたいし、頓珍漢な予想みたいのはしたいわけではないのだが、このまま北朝鮮を追いつめていけば、核実験を行うしかなくなるだろう。そうなってから、日本の世論なりの立て直しが可能かというと、よくわからない。ある程度関心をもつ人が、現状では、できるだけ細かくニュースを追っていく必要はあるだろう。

 今日以降の日本の世論がどうなるか気にはなるが、現状の一報後のようすを見ていると社会パニックのような状態にはなりそうにない。というか、依然、遠い他国の出来事のような非現実感が覆っているのかもしれない。
 事実確認にちとウィキペディアを参照したところ、意外に優れた記事があった。”北朝鮮核問題”(参照)より。

北朝鮮の核開発に関しては事実上、完了していると見られている。これまで起爆装置の製造には欠かせない高爆実験を140回程度行ったとされる。公式には核実験そのものは確認されていない。しかし、1998年にパキスタンが行った核実験は当時のパキスタンの核開発にはあり得ないはずのプルトニウム爆縮原爆の痕跡があり、北朝鮮の核技術者も核実験場に居た事から、少なくともパキスタンの核実験のうち一回は北朝鮮の核の代理実験だったのではないかという疑惑も浮上している。

 現在から振り返ると、「少なくともパキスタンの核実験のうち一回は北朝鮮の核の代理実験だったのではないか」というのはほぼガチといっていいだろう。そしてこの情報はすでに米国側では昨年二月二十七日付ニューヨーク・タイムズの報道(一九九八年パキスタンの核実験後現場付近に派遣された米軍機が大気中からプルトニウムの痕跡を検出していた)でしっかりおさえられていたものだが、日本での報道ではブッシュ叩きの空気もあってか妄想に近い扱いではなかったか。
 現状では完全に核実験が確認されたわけではなく、米国側から「あれは違うってことひとつ」となるかもしれないが、想定された範囲で、具体的に今回の実験がどれほどの危険性を持っているかについては、先と同じくテレグラフだが予想している。”N Korea's bomb 'would kill 200,000'”(参照)より。

The nuclear weapon that North Korea intends to detonate in an underground test is big enough to kill up to 200,000 people were it ever to be used against a city such as Seoul or Tokyo, Russian military experts have revealed.

北朝鮮が今回地下実験を試みようとしている核兵器は、ソウルや東京といった都市を対象とするなら、二十万人程度殺害できる能力があるとロシア軍専門家は明らかにした。


 東京大空襲の二倍の惨事が想定されるということで青ざめるが、これは東京というより北朝鮮に近隣の大都市の例というだけのことだ。

They say that the weapon, with the same 20-kiloton yield as the bomb dropped on Nagasaki, is about 10ft long and weighs four tons. It is too big to fit on to any missile Kim Jong Il's regime currently possesses but if it were detonated above ground it could destroy everything within five square miles.
 
今回の核兵器は、長崎に落とされた原爆と同じ二〇キロトン出力で、長さ約一〇フィート、重さ約四トンである。この形状と重量は現在金正日が所有しているミサイルには装着できない。だが、地上爆破に成功すれば五マイル四方を破壊し尽くすだろう。

 ということで、東京にミサイルでどかんと一発禿頭ふうになることはない。というか、都民は直下型地震を恐れているだけで恐怖はまだまだ十分な状態だ。この核兵器の恐怖ということなら、すでに国境で小競り合いが見られるともいう地続きの韓国が心配になるかもしれないが、この点においても、盧武鉉大統領の太陽政策のもと韓国国民は同胞民族である北朝鮮の人々に恐れを抱く必要などありえないので、いくらソウルが地理的に北朝鮮に近いとはいえ、東京と同じく安心して暮らしていけるとの心情に間違いない。まして日本人が過剰に心配することでもない。
 今後北朝鮮の核実験がこれで終了かといえば、すでに保有しているプルトニウム量からすると、まだまだ数回はできるのであり、日本としてもこれからは、朝鮮労働党創建記念日の年中行事かというふうに見るようになるかもしれないが、あまり油断しないほうがいいだろう。
 ちなみに「極東ブログ: テポど~ん」(参照)で中国様の心境についてこう察した。

中国様としては、対米的な手前、北朝鮮にこれ以上ミサイル商売をさせたくはないだろう。内心ふざけんなという感じではないか。そのあたりをうまくツンツンとできる外交力が日本にあればいいのだけど、難しいか。北朝鮮も韓国も東北部の第四省にはなりたくないだろうし、存亡をかけた必死の工作が、今、広大な宇宙に始まろうとしている。

 ミサイルと核実験とはお商売がちと違うのだろうが、このあたり面々はいろいろご活躍なのだろうと思う。中国様や韓国様のお家のご事情というのもいろいろありそうだし。
 米国様は前回民主党政権下では北朝鮮の空爆を決定した経緯があるが、現米国政府はもうちょっと慎重なんじゃないかと思う。というか、胡錦涛を立てるように動くだろうと思うが、ちと読みが甘いか。

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2006.10.08

「MOON -月亮心-」(チェン・ミン)

 昨日も美しい月だったが、今日もまだ見た目には満月に見える。美しい。が、月の美しさというのに私は奇妙な違和感がいつもある。沖縄の人は、私がそうなのだが本土日本人とは違った月への思いというのがあり、長く暮らして、少しわかったように思えた。そして、中国、アジアの人の月への思いというのをときおり考える。理解が深まるほどに、違和感も深まる。

cover
MOON-月亮心-
チェン・ミン
 月への思いは、それをテーマにしたチェン・ミンの「MOON -月亮心-」(参照)にも感じられる。このところ季節がらというか、このアルバムをiPodでよく聞く。美しい曲が多いし、確かに月というものを強く感じさせる。
 チェン・ミンは素直にいうと苦手だ。美人過ぎるところに違和感を覚えるし、中国人に対してどうしてもアンビバレンスな思いもある。彼女の演奏や曲へのインサイトにはそうした見てくれなどどうでもよい純粋な部分もあるのだが、そこでもなにかがなじめない。女性だからということではないと思うが、ヨーヨー・マやユンディ・リなどには東洋的・中国的な身体的ともいえる感性があっても大枠で西洋音楽のなかで聞くことができるし、その音楽的な情感の作りもそうした安心感があるのだが、チェン・ミンには奇妙な不安感がつきまとう。
cover
魅惑の二胡
チェンミン
MOON 月亮心
(yueliang xin)
チェンミン監修
 「MOON-月亮心-」では「PHOENIX~ベートーベン「悲愴」より~(MOON Ver.) 」にそうした違和感が強い。どうしても受け入れられない。こうしたアレンジや演奏があってもいいし、むしろベートーベンを忘れてもいいと思うのだが、なかなかそうはいかない。奇妙なのは、坂本龍一作曲の「ラストエンペラー」だが、坂本龍一自身が関わった演奏では、言い方は悪いが、東洋趣味・中国趣味の西洋の偽物として安心して聞ける。そしてその情感は私には馴染みやすい。だが、チェンミンの演奏はむしろそうした坂本を忘れさせてしまうものがある。
 素人の当てずっぽうにすぎないのだが、二胡という楽器の魅力や能力は「万華鏡」によく現れているし彼女の純音楽的な才能はここに活かされているのだろうと思うし、ああ、これは中国人だと逆に距離感を置いて安心してしまう。
 そうした音楽外の情報を一切抜きにして、「feel the moon」はただ心を奪う音楽の力がある。曲想は日本的だし、クラッシック音楽とは違った西欧的な響きがある。その美しさにシンプルに圧倒される。作曲は月下團とあるが澤野弘之という人なのだろうか。いずれ、日本人的な印象を受ける。
 「feel the moon」には、チェン・ミン(陳敏)自筆の蘇軾の水調歌頭が添えてある。

人有悲歓離合
月有陰晴圓缺
此事古難全
但願人長久
千里共嬋娟

 訓ずるに。

人に悲歓、離合有り
月に陰晴、円缺有り
此事、古より全う難し
但願わくば、人、長久に
千里、嬋娟を共にせんことを

 試訳。

人には悲しみと喜びが別れと出会いにあるが
月に明暗と満ち欠けがあるのと同じことなのだ
このさだめは昔から避けがたい
人は永遠に憧れ
遠く離れてもこの月の美を共にしたいと願う

 この月への思いというのは、中国的な感性かなと思う。
 「feel the moon」での音楽的な美しさとは少し違うのだが、私がもっとも好きな曲は「恋雲」である。ベタに日本的と言ってよさそうな曲調だし日本人的な感情の動きがあるのだが、ところどころにこの人は外国人だな、チェン・ミンという異国人だなというフラッシュバックのような起立感と、日本の少し貧しい風景を含んだ、もう三十年以上前に感じていた若い日の恋のような感情を喚起させる。それでいてさらっと泣きに転じていない大人というか青春を過ぎた軽さが救いになっている。
 チェンミンが来日したのはこのアルバムから十三年前とある。九一年であろう。今から十五年前。読売新聞大阪”二胡奏者のチェン・ミン 異文化吸収し、表現力豊かに 3作目アルバム発表”(2001.06.28)ではこう伝えている。

 父は上海音楽学院の教授で二胡奏者、母は女優。幼いころから二胡を学び、上海の民族楽団で活躍する一方、テレビドラマにも主演した。順調な芸能生活だったが、十八歳の時、日本人の知人を頼って来日した。「毎日、同じ生活をしているのが嫌で、違う世界を体験してみたいと思ったんです」
 音楽で生計を立てるつもりだったが、言葉が通じないから、自分が二胡奏者であることがなかなか伝えられない。「ボロボロのアパートに住み、喫茶店でアルバイトをしながら、語学学校に通う毎日でした」
 その後、共立女子大に入学。サークルで二胡を弾いたのをきっかけに名前が知られるようになった。カルチャースクールで教え、演奏会で弾くようになった。一九九五年にデビュー。昨年、チェロ奏者のヨーヨー・マと共演したウイスキーのテレビCMは、清らかな美しさと二胡の穏やかな音色が印象的だった。

 女性の歳に関心を持つのはよい趣味ではないが、彼女は現在三三歳くらいだろうか。曲に現れるものからはもう少し成熟した印象を受けるが。
 それにしても、喫茶店でアルバイトしている十八歳のチェン・ミンの姿に「恋雲」が重なるような感じがしてならない。

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2006.10.07

[書評]「快楽 ― 更年期からの性を生きる」(工藤美代子)

 工藤美代子「快楽 ― 更年期からの性を生きる」(参照)をようやく読んだ。書名は「けらく」と読ませているが、エロス的快楽(かいらく)ではなく仏教的な「けらく」で宗教的な含みを持たせた趣向といったふうでもない。テーマは更年期にさしかかった女性の性、もっと端的に言えば、おセックスにまつわる話ばかりである。帯的にはこう。


現実と欲望の間で揺れる身体とこころ。男性から見た女の更年期、セックスの重み、新たな性の目覚めに向けて、求めつづける女たち…。更年期の性の問題を深く掘り下げるノンフィクション。『婦人公論』連載を単行本化。

 いかにも「婦人公論」的な話がてんこ盛りなので、続けて読んでいると船酔いみたいな吐き気にも似たようなものが私などには感じられる。と、私とは四九歳の男である。つまり、少年期青年期の同級生の女性たちがここに描かれているわけだし、そうした思いで読み始めた。彼女たちはどうしているのだろうか、と。
cover
快楽
更年期からの
性を生きる
 読み進めていて、そこに描かれている更年期の女性たちの性行動、とくに不倫が多いのだが、それは端的に言って、私より上世代である団塊世代の女性特有のものではないかという感じがした。平凡パンチで後楽園球場百人ヌード写真イベントとかいうと、どっとあつまってすっぽんぽんになっていた若い日の彼女たちが後年繰り広げそうな光景だな。
 本書では不倫の話が多いのだが、そのフレームワーク内の男は、やはり妻子持ちの男性、しかも中年五十、六十でまだガタが来ず、社会的に地位のある男。著名人だとあんな感じと過去エントリの参照をつけたくなるが控える。しかしだな、そんな男が私の世代にどれほどあるだろうか。女は五十過ぎの独身。そういうのが社会に希少とまでは言わないが、まずそういう男女が主体に描かれることに私は世代的な異和感を感じる。
 加えて、その不倫の背後にはハウスホールダーというかハウスキーパー的な女があるはずなのだが、彼女たちがまったく描かれていないわけでもないのだが、うまく話に取り込めていない。ぶっちゃけた言い方をすれば、本書は「婦人公論」を読むタイプの女性に向けてある種の不倫幻想なり日常の鬱憤晴らし的なお下劣話を提供するもののようだ。
 団塊後の私の世代の女性が更年期を迎えるのはたぶん、シフトして十年から五年後。本書に描かれる中年女性の性行動に類似の光景が今後展開されるだろうか。
 もちろん女性の更年期という現象は世代的な問題ではない。更年期前後の性交痛の問題などは確かに大きな問題だし、本書に描かれているホルモン補充療法(HRT)についてはかなり妥当な入門的な指導内容になっていて好ましい、と思う。
 本書のなかである意味で文学的な陰影を感じたのは著者工藤美代子と晩年の森瑶子の交流だった。森瑶子についてウィキペディアに解説があるかと思ったらない。もう忘れられた作家なのだろうか。没年を見ると九三年。もう少し調べると七月六日。五十二歳だった。デビューは三五歳の「情事」(参照)。すばる文学賞で文壇デビューし、「誘惑」「傷」芥川賞候補となったが芥川賞は得ていない。
 私は森の小説のよい読者ではないがエッセイはよく読んだ。エッセイと言っていいのかわからないが、ユング派の精神分析を受けていく過程を描く「夜ごとの揺り籠、舟、あるいは戦場」には衝撃すら覚えた。同書はアマゾンにはない。一度文庫化されているので古書店で見つからないものでもないだろう。ネットを見ると復刊リクエスト(参照)があるがその価値がある。同書の刊行は八三年なので森が四二歳のことであっただろう。更年期にはまだ早いが心の中の葛藤はある極限に達していた。
 工藤の「快楽」から森瑤子に話がそれたが、私の印象では、「快楽」に描かれている、ある種強迫的ともいえるような中年以降の女性の性行動には森が直面していたような精神的な問題が関係しているだろう。同書も子細に読むと工藤もそうした直感を得てはいるようだ。が、雑誌連載でもあり、また彼女の資質からしてもこれ以上掘り下げられるものでもないだろう。
 ただ掘り下げて何があるのだろうか。意味があるのかというとわからない。人生触れないでおくほうがいいような真実の類かもしれない。それでも、その何かは来年五十歳にも達する男の自分にもまったく関係のないこともでないのだろう。そういえば、中年のうらぶれた男の側の教訓としては女が情事にいちいち点数を付けているあたりがよかった。

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2006.10.06

難病と社会支援についてごくわずかに

 社会問題に関連する話題やブログで話題になっていることにはなるべくふれておこうと思うのだが、気が乗らない話題も多い。「さくらちゃんを救う会」を巡る話題もそれに近い。今回のこの話題に限らず難病支援の募金については、声高な支援者の人だけが救われるのかというやるせない思いが以前からあるし、特に米国での高額な医療が対象になる場合は、その医療を待つ人々のことも思う。私の誤解もあるかもしれないが、こうした問題は、お金があれば医療が受けられるというだけの問題ではなく、それを待つ他の人々の関係の問題があるかと思う。
 支援の声が特定の誰かを救うという意図の場合、それと一市民としての自分がどう関わっていいのかそこもよくわからない。むしろ、一市民としての私は一般的な難病者と国や地方行政を介して関係を持つのではないかと考える。そうした場合、気になるのは、難病を扱う特定疾患の補助制度のありかたについてだ。
 ニュースとしては八月九日に遡る。読売新聞”パーキンソン病と潰瘍性大腸炎、公費補助絞り込みへ”(参照)より。


 治療困難で患者数の少ない「特定疾患」のうち、パーキンソン病と潰瘍(かいよう)性大腸炎について、厚生労働省の特定疾患対策懇談会は9日、医療費を公費で補助する対象を重症患者に絞り込む方針を決めた。

 パーキンソン病と潰瘍性大腸炎については、難病としての補助がなくなる可能性が高い。治療法が確立して難病ではなくなったから、というのではけしてない。理由は、大筋では公費削減ということではあるのだろう。

 原則として患者数が5万人未満の疾患が選ばれるが、2004年度末の段階で医療費補助を受けた患者数は、パーキンソン病が約7万3000人、潰瘍性大腸炎が約8万人。この二つで特定疾患の患者全体の約30%を占めており、財源の面などから03年10月以降は追加選定されていない。
 同省疾病対策課は「二つの病気の患者数は今後も増加が予想され、見直さざるを得ない」としている。

 難病というより希有な病気ではなくなったということもあるようだ。もともと、特定疾患治療研究事業には、こうした難病に対する医学研究という含みもあり、そういう研究対象しては他の難病に向かざるをえない部分もあるのだろう。つまり、私の誤解かもしれないが、難病者の支援より、医学研究の側面の強いものだったのではないか。
 行政としてはまず特定疾患対策懇談会の見解を厚労省が選定し、具体的な補助については全額自己負担か一部負担かを国と地方行政に任せる。この場合の地方行政のありかたについてどうなるか気になっているのだがよくわからない。北海道新聞”道難病連 難病助成の維持を 道議会に協力求める”(参照)などを読むに、厚労省の見解がなんであれ地方行政で補助の判断ができそうでもある。
 読売新聞の記事では、「全国パーキンソン病友の会」斎藤博会長による、「高齢患者も多く、厳しい闘病生活を強いられている中、数が増えているだけで補助を絞り込む方針には納得できない」とのコメントも掲載しているが、潰瘍性大腸炎についての言及はない。
 潰瘍性大腸炎については、UC・WAVEというサイトの患者数と発症年齢の情報(参照)があるが、次のような特徴がある。

患者さんの発症率に性別の差はなく、ほぼ1:1の割合です。発症年齢もあらゆる年代に分布していますが、20代をピークに10代~30代の若年齢層に多く分布しています。


潰瘍性大腸炎って
どんな病気
 若年層にのみ多いわけではないが、パーキンソン病に比べると若年層が特徴になっていることはあきらかで、この若い時期に罹患すると職業の基礎ができず、当然ながら十分な収入も得られないため自己負担はかなりきつくなり、それが一生涯にわたって固定する懸念がある。
 あまりきれいごとですませることはできなのだろうが、難病を抱えながら生きていける社会のビジョンが必要だろうし、補助はその方向で模索されなくてはならないように思う。

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2006.10.04

ペンシルベニア州アーミッシュ学校襲撃雑感

 米国時間で二日の、ペンシルベニア州アーミッシュ学校襲撃のニュースを聞いて衝撃を受けた。私自身の衝撃の核は、その残酷な犯罪もだが、アーミッシュのコミュニティが襲われるということにあった。そのあと、テレビではなくネットを通してだがこの問題について日米メディアの扱いをなんとなく見てきた。日本人にとってアーミッシュというのはどう見えるのだろうか。変な宗教というかカルトっぽく見えるのだろうか。普通の米国人にとってはどうなのだろうか。そんなことが気になった。私の印象に過ぎないが、普通の米国人にとってアーミッシュはいわば心のふるさとというか、自分では実践できないが信仰の原点のように感じているのではないだろうか。
 事件について邦文で読める報道はCNN”アーミッシュの学校で5人を射殺 米ペンシルバニア”(参照)が詳しいように思えた。


ペンシルバニア州ランカスター郡のアーミッシュの学校に2日、銃を持った男(32)が侵入し、少女ばかり3人を縛ったうえで射殺、8人にけがを負わせた。男は直後に自殺した。


ロバーツ容疑者はさらに、911(日本の110番にあたる)に電話し、10秒以内に警察官が立ち去らなければ銃を撃ち始めると宣言。この数秒後に、容疑者は乱射を始めた。その後、警察官が突入し、容疑者の死体を発見したという。

 余談だが日本の110番が米国では911番なので9・11は偶然にせよ米国人の心に強い印象を残している。
 アーミッシュのコミュニティは同記事でも触れているように、「電気の使用を含む近代的な生活様式を拒み」というものである。なので電話も存在しない。記事での電話のやりとりには当然いろいろと不都合があったようだ。
 今朝になって英米のニュースをみると、AP系”Amish schools not likely to modernize”(参照)や、USAトデイ”Amish seclusion shattered by school slayings”(参照)では、電話もないアーミッシュの非現代文明的な生活では十分なセキュリティを保持できないし、犯罪を誘発しかねないというあたりが強調されているようだった。
 また、BBC”US killer in sex abuse confession”(参照)やニューヨークタイムズ”Gunman May Have Planned Abuse ”(参照)などでは今回の事件の性犯罪的な側面を捉えている。この文脈は日本でもわかりやすいかもしれない。
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アメリカ・アーミッシュの人びと
「従順」と「簡素」の文化
 アーミッシュについては、先日NHKラジオ「心の時代」で、「アーミッシュに生まれてよかった」(参照)の訳者であり、「アメリカ・アーミッシュの人びと―「従順」と「簡素」の文化」(参照)の著者でもある池田智の、アーミッシュ・コミュニティでの滞在経験談を通しての考察が興味深かった。
 彼の話のなかで意外に思えたことが二つあった。一つは、アーミッシュについては、例えばウィキペディアの同項目(参照参照)などが詳しく記しているので十分にその生活状況がわかっているのかと思ったがそうではなく、現在でもよくわからないことが多いという指摘だった。もう一点は、先の一点とも関係しているのだが、アーミッシュ・コミュニティの拡大・人口増加は今世紀に入ってからということだ。私はアーミッシュのような歴史の遺物のようなコミュニティは、シェイカーがそうであったように、早々に消滅していくものとばかり思っていた。シェイカーについてウィキペディアを見たら日本語版には項目が書かれていない。英語版ではShakers(参照)に簡素な説明がある。

The Shakers, an offshoot of the Religious Society of Friends (or Quakers), originated in Manchester, England in the late eighteenth century (1772). Strict believers in celibacy, Shakers maintained their numbers through conversion and adoption. Once boasting thousands of adherents, as of 2006 the Shakers number four people living in Sabbathday Lake, Maine.[1]

 考えてみれば、シェイカーたちは純潔を守った人々なので子供が増えていかない。それに対してアーミッシュのコミュニティというのは、子供を産み育てるということが本質的に組み込まれているのである自然状態が維持されればコミュニティは大きくなっていく傾向がある。このあたり、持続可能な文明ということでは現代文明とアーミッシュとどちらが存続しやすいかとあのおり考えた。その後「極東ブログ: [書評]人類の未来を考えるための五〇冊の本(ランド研究所)」(参照)で触れたが、ランド研究所による人類の未来を考える上で重要だとする五〇冊の本のリストにAmish Societyが含まれていて、なるほどと思ったことがある。
 アーミッシュなどメノー派やシェイカーなどクエーカーの派生については、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(参照)ではプロテスタンティズムの倫理の主流としては扱われていないわりに、諸派(デノミネーションズ)としてクエーカーについて多く言及があり、註などにはメノー派への言及もある。ヴェーバーのプロ倫は資本主義の精神の成立への興味深い理論にはなっているが、ヴェーバー自身には同時発生した諸派のエートスに対して微妙な思いがあったようだ。

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2006.10.02

ヨム・キプール(Yom Kippur)

 今年のヨム・キプール(Yom Kippur)は日本人が採用しているキリスト教暦では十月一日にあたる。いや今日の二日か。ユダヤ教ではこの日、一年分の贖罪のために終日断食して祈る。ユダヤ人は全世界に散らばっているので、ヨム・キプールはあちこちで祝うことになる。オンタリオでの写真が”Yom Kippur, 10/02/06”(参照)にあった。
 ヨム・キプールはユダヤ暦七月(ティシュリ)十日にあたる。由来はレビ記(レビ23:26-32)より。


主はまたモーセに言われた、「特にその七月の十日は贖罪の日である。あなたがたは聖会を開き、身を悩まし、主に火祭をささげなければならない。その日には、どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。またすべてその日にどのような仕事をしても、その人をわたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。あなたがたはどのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて、代々ながく守るべき定めである。これはあなたがたの全き休みの安息日である。あなたがたは身を悩まさなければならない。またその月の九日の夕には、その夕から次の夕まで安息を守らなければならない」。

 贖罪一年分という話が出てくるのは七月一日から新年が始まるため。というわけでユダヤ暦の元旦はキリスト教暦では九月二三日。今年は紀元五七六七年。天地創造から数えている。
 ところで元旦から十日だと数が合わない? よもやと脳裏を懸念が走る。ウィキペディアを見ると項目があり、「ユダヤ暦でティシュリ月の9日にあたり、西暦では毎年9月末から10月半ばにあたる」とある。九日か。まあそのほうが合理的か。正確には、新年が始まるのは九月二二日の日没。つまり安息日と同じしくみだ。
 日付が太陽暦ベースのキリスト教暦に合っていないのはユダヤ暦が太陰暦だからで、ちょうど九月二二日は日本でも旧暦の八月一日なる。ちなみに、今年の十五夜は十月六日。しかし月齢ではこの日は十四日もなっていない。七日が十六夜(いざよい)だが実は満月になる。
 ヨム・キプールではユダヤ教徒は仕事をしてはいけない。なのでサッカー選手も競技ができない。マルカの記事”イスラエル人GKアオアテの“贖罪の日”問題は解決”(参照)が興味深い。イスラエル人アオアテは日没からはサッカーができなくなる可能性があった。

最終的にデポルの試合は土曜日(9月30日)の20時ではなく18時から始まることで落ち着いた。
 18時に始まればアオアテは試合に出場し、その後祝日の伝統を守り通すことが出来る。「僕は今、イスラエルではなくスペインに住んでいる。だからクラブやチームメイト、この国にも敬意は表しているよ」というアオアテは、スペインでの生活に馴染みながら祖国の伝統を破らずにすむことに喜んでいるようだ。

 二時間が絶妙だったようだ。というか、西欧では八時ごろまで日は沈まないと見ていいのだろう。
 ユダヤ人はこの期間仕事はできない。では、その間に敵が攻めてきたらどうなるか。もちろん敗北する。ヨム・キプール戦争またはラマダン戦争と呼ばれる第四次中東戦争(参照)がそうであった。三三年前だ。
 AP”Israel shuts down for observance of Yom Kippur holy day”(参照)にあるが、今年のヨム・キプールはムスリムのラマダンに重なる。彼らも太陰暦を使うので同じく九月二二日から始まっている。今年のようにユダヤ教新年とラマダンが重なるのは三三年周期になる。ユダヤ暦は日本の旧暦と同じで閏月を設けるがイスラム暦にはそれがないためだ。
 そういえば、今年は、しちがち(七月)がゆんじち(閏月)である。一年が三八五日になる。太陽暦からずんとはみ出すために、立春が二度訪れる雙春年(サンチュンニョン)となる。ということで今年は韓国では結婚ブームだった。ラジオ深夜便ソウルからのワールドネットワーク担当の坂野さんも結婚されたのこと。おめでとうございます。

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2006.10.01

農薬のポジティブリスト制度

 農業関係者なら皆さんご存じのことだし特にブログ的な話題でもないかとなんとなく書かないでいた農薬のポジティブリスト制度だが、昨日のDDTのエントリの関連でちょっと言及しておいてもいいかなと思うようになったので、既知のことばかりだが簡単に触れておく。
 農薬のポジティブリスト制度というのは、利用可能な農薬をポジティブに、つまり「積極的にこれは使って良しの品目」で制限するという規制である。今年の五月二九日から導入された。
 従来はネガティブに、「これは使っちゃダメよんリスト」で規制していた。がそれだと、新薬の農薬とかこれって何がなんだかわけワカメ農薬とかが、行って良し!、ということになり、行った結果、ひどい毒性なんじゃないのって後からわかるという悲劇が満喫できる。そう考えると、農薬のポジティブリスト制度のほうがいいのではないのというのは基本線では理解しやすい。
 ポジティブリストでは、七九九品目の農薬について、原則作物ごとに基準を設定し、基準値が設定できない場合は一律〇・〇一ppmとした。
 すでにこの夏は、農家の皆さん、農薬のポジティブリスト制度で苦労されたようだが、現場的に一番の問題は農薬の飛散で、この作物にはこの農薬をこれだけ利用してよいとしても、隣の畑のこの作物にその農薬が飛散したら、じゃーん、アウチ!ということになる。農薬散布の技術が非常に難しくなった。ヘリの散布はダメっぽい。無人ヘリなどはやはり別の国に販売ルートを広げたいものである、かどうかはさておき。素人的な感想を言うとそれまでけっこうアバウトに撒いていたんでねーのという感じも〇・〇一ppmくらいする。

cover
森の娘
マリア・シャプドレーヌ
 ルイ・エモン「白き処女地」(参照)だったか、農家は常に不平しか言わないとかいうフレーズがあったように記憶しているが、どうでもいいが、ルイ・エモンの絵本「森の娘マリア・シャプドレーヌ」(参照)も昨年翻訳されているか。話がそれた。
 今回の規制改変で農家の不満もわからないではないが、マクロ的に見ると、農薬のポジティブリスト制度というのは、剛力非関税障壁である。もう安い中国野菜なんかばしばしはねのけできるからいいじゃんということになる。とおふざけのようだが、農薬のポジティブリスト制度導入が促進したのは、〇二年の中国産冷凍ほうれん草騒ぎがきっかけで、翌年の食品衛生法改正で導入が決まったものだった。余談だが、米国のほうれん草騒ぎはまだ続いている。生食うからだよと思っていたが、NCRを聞いていると日本みたいに規制管轄の問題などもありそうだ。
 もう一点気になるのは、規制が強化されるということは、検査体制が公平に強化されないと面白い結果になってしまうことだ。が、まだ導入の日も浅いせいかそれほどしっかりしていないようだ。せっかくのバッチグーな非関税障壁ということもあってか、残留農薬検査について、輸入品は国の検疫所で行うが、国内流通分は市場で都道府県などの保健所が実施するということになっている。後者は抜き打ちでもいいのでその分手心が加えやすくてよろしい。むしろ問題は検疫所のほうなのだが、大量をこなせるのだろうか。
 ネットを見ていると対外的には現実認識が鋭い中国様は、やったな日本、マジ非関税障壁じゃんということで、ずばり人民網”日本の非関税貿易障壁に対応 茶葉産業に新衛生基準”(参照)ということで対応に乗り出すケースもある。

今年5月末、日本は輸入農産品に対して「食品中残留農業化学品ポジティブリスト制度」を導入した。このポジティブリスト制度では、茶葉の検査項目が89から276に増え、農薬残留量はすべて0.01ppm以下に統一された。0.01ppm以下とは、100トンの農産品における化学物質の残留量が、1グラムを超えてはならないという量である。中国が実施する新しい茶葉衛生基準は、間違いなく日本による非関税障壁に対応した措置だが、日本の標準と比べ、中国の基準はまだまだかなり低い。専門家は、国外の農薬と科学技術に関する貿易障壁に対応する道は、農薬の使用を減らし、総合的な対策を行うしかない、としている。

 問題認識はしているようだ。余談だが昨今話題の中国での日本の化粧品規制だが……ってまあそこまでは話は広げず、と。
 私は中国茶が好きなので中国茶の汚染についても気になるほうなので、最近はよほどの銘茶でなければ有機のものを指定して購入している。そう、中国で有機農法のお茶があるわけですよ。中国を甘くみてはいけないわけで、やればできるわけです。日本はまだまだ、ワハハで非関税障壁ができたと思っていると、そんなものは簡単に破られることになるだろう。

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