フォートラン、五十二歳
コンピューター史上最初の高級言語フォートラン(Fortran: Formula Translatorの略とされるが異説もある)が実行されたのが一九五四年九月二〇日と言われている。それから五十二年が経った。フォートランも五十二歳ということになるのだろう。
フォートラン誕生の時刻は米国時間なので日本時間でいうとおそらく翌日の一九五四年九月二一日になると思うが、その頃日本はどうだったか。何か変わったことでもあったかというと、洞爺丸台風(参照)が発生した日だった。台風は日本では通し番号で呼ばれるのでそれでいうと台風十五号。英名ではMARIEだが真理絵を当てたものではない。日本列島横断のようすは”Digital Typhoon: Single Sequence View (Typhoon 195415 / MARIE)”(参照)に掲載されている地図を見るとわかる。山口県を二五日ごろ通過しているが東京にはそれほど影響はなかったようだ。
二六日、日本海を経て北海道に再上陸。そこで惨事が起こった。北海道上磯町七重浜沖で洞爺丸が沈没。船体は裏返しになったという。死者千百五十五名。世界海難史上、死者千五百十三名のタイタニック号沈没に次ぐ惨事ともいわれる。なお、洞爺丸(参照)は一九四七年就航開始。国鉄がGHQの許可をえて建造した青函連絡船で、沈没の一か月前には昭和天皇北海道ご訪問のお召し船となったものだった。同台風では「北見丸」「日高丸」「十勝丸」「第11青函丸」も沈没。岩内町では大火により三千三百戸が焼失した。
お隣の国韓国では一九五四年九月二一日は、一九四八年四月三日に始まった済州島四・三事件(参照)が収束した日ともされている。ウィキペディアを見ると、その後「完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される」ともある。またこう書かれているが日本人もよく知る事件ではあった。
日本による韓国併合以来、複雑な歴史背景によって本国の待遇が悪かった島民は、新天地を求めて日本へ移住あるいは出稼ぎに行き、併合初期に日本へ最初に来た20万人ほどの朝鮮出身者の大半は済州島出身であった。敗戦による「開放」によって、そのほとんどが帰国したが、この事件によって済州島民は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日コリアンとなった者も数多い。事件前に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減した。
あくまでウィキペディアの解説を元に仮に思うだけだが、八万人が殺害され三万人に残ったとして残る十七万人の内、どのくらいが在日コリアンとなったのだろうか。少なくとも数万の単位ではあるのだろう。隣国の一つの大きな事件の結果は一九五四年九月二一日ごろを目安に日本国の歴史にも関わってくるとしても不思議ではないだろう。
白木蓮抄 花郁悠紀子 |
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コメント
「日記」のコメント欄でhimorogiさんも触れられていましたが、花郁悠紀子氏の名を目にするとは思いませんでした。友人の友人くらいの関係だったに過ぎませんが、あのときの衝撃を遠く思い出します。
投稿: Sundaland | 2006.09.21 14:06
1954年9月21日は安倍晋三の生まれた日ですね。
フォートランと同時に誕生したんですね。(笑)
投稿: kous37 | 2006.09.21 17:56
大学生の頃コンピュータの講座でフォートランやりました。懐かしいです。うん10年も前のことで恐縮です。
投稿: 星の王子様 | 2006.09.21 20:29