阿部謹也の死で思った
阿部謹也(参照)の訃報を聞いた。七一歳だったとのことなので、報道通り急性心不全なのだろう。書架を見ると「ハーメルンの笛吹き男」(参照)も「中世を旅する人びと」(参照)もない。ニューアカ関連の本と一緒にごそっと捨ててしまったか何度かの引っ越しでこの手の本はがさばるから処分したか。自分はアカデミックな人生を歩むことはなかったが、今の歳になって読み返すといろいろ思うことはあるかとぼんやり思った。
![]() ハーメルンの笛吹き男 伝説とその世界 |
NHKでも田中角栄という人が訴えられたときとたんに、容疑者になりました。それまでは「前首相」とか「元首相」と言っていたのが「田中容疑者」と言いはじめた。
日本語には「ミスター」とか「ミス」「ミセス」という言葉がありません。あるのは「さん」「君」あるいは「氏」なので、これらは何につくのかと言うと、ども世間のなかでの位置につくらしい。
ここのところはきちんと分析する必要がありますが、これらの言葉は人格につくものではない。人格につくのなら「宮崎勤氏」とか「田中角栄氏」としなければならない。なんの犯罪も証明されていないし、最終的な判決を受けてもいないわけですから、いや、もし判決を受けて死刑囚になったとしても、人格はあるわけですから、やはり「氏」とか「さん」がつかなければならないと私は思います。
これだけ読むとちょっと屁理屈みたいだし、阿部の著作に馴染んでいる人ならまたかの「世間」論ではあるだろう。「世間」というのはこんな感じ。西洋の旅では名前も聞かず市民の会話があるという文脈ではこう。
しかし、日本の場合だとそれでは落ち着かないわけで、相手がどこの誰かを知りたい。「会社はどこですか?」とか、どうしても聞きたい。若い諸君は「大学はどこですか?」なんて野暮なことは聞かないと思いますが、やはり聞きたいという気持ちはどこかにあるでしょう。聞くと安心する。相手の素性が知れるからです。日本人は社会に住むことに慣れていないので、そういうことを聞かずにはいられないんです。
この部分の最後の一部はちょっとネット論とかブログ論にも関係するかなと思ったがそこには突っ込まない、と。
話を日本の「さん」「君」に戻す。昨晩「危機の日本人」(参照)の看羊録のところを別のことを考えながら読んでいて、奇妙に気になっていたことがあった。戦国時代日本の捕虜となった朝鮮人儒者姜沆は日本の社会についてこう言っている(訳文)。
「〔倭人は〕互いに号を称ぶのに、あるいは『様』といったり、あるいは『殿』といったりします。関白から庶人に至るまで、これを通用させております。夷狄〔倭〕の等威(上限の区別と威厳)のなさはこのようであります」
これに山本七平はこう続けている。
長たらしい称号は用いず、相手を名前で呼ぶことを失礼と考えたりせず、大体「様」「殿」だけですますのは秀吉の時代からつづいて来たわけで、これは現在でも同じだが、外国ではこういかない場合があり、「教授・博士」といって称号をつけないと非礼になる国もある。だが日本ではこの場合もすべてひっくるめて「先生」でよく、現在では「先生」「様」「殿」だけで十分である。まことに今も昔も「等威のなさ」は同じで、これは呼称の平等主義とでもいうべきかも知れぬ。
姜沆はこれが実に奇妙に見えたらしい。
阿部の指摘も姜沆の違和感も日本の内側からはあまり気が付かない日本の社会=世間の特徴ではあるのだろう。
そういえば、このところ皇室の話題が多く、メディアのアナウンサーたちも訓練は受けているのだろうが、慣れない敬語を使っていて面白い。かく言う私も天皇家に関連する敬語はよくわからん。天皇家という言い方がすでに間違っているし、「天皇」とはそもそも諡で、庶民的な対比で言えば「居士」の部類だろう。「今上陛下」というのもちょっと違和感あるし、辞書に「今上天皇」の項目があるのもあれれではある。そもそも「今上」は「きんじょう」「きんしょう」「こんしょう」か。五家宝は「ごかぼう」が正しいが「ごかほう」でもいいのではないか云々。
![]() 危機の日本人 |
ふと思い出したが、昔私はヨガを学んでいたが、インド人のお師匠さんから、本当のヨガを学ぶならインドの言葉も学びなさいと言われたことがある。はぁと答えるくらいの若造だったが、お師匠さんはそれから独り言のように、しかしインドの言葉は敬語が非常に難しい、と呟かれた。真のヨガを学ぶには聖者に跪いておみ足に接吻するだけの西洋人もどきではだめなのだろなと思った。
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コメント
>「今上陛下」というのもちょっと違和感あるし
京都にいる親戚に聞いた限りだと「きんじょうさん」なんだってさ。でも、それだと「金城さん」「近上さん」「今城さん」と混同する可能性があるんで、便宜的に今上陛下って言い習わすんだそうな。単に都合の問題で、詳しいことは知らん。
>日本人は実際には血統なんかないのに血統意識を天皇家に投影するのと同じような仕組み
頑固親父だな。どうしてもそう言いたいか。んじゃまあ、もういいよ。それで。別にパーセンテージ的にどーだったこーだった迄は言えん訳だし、思えば事実、くらいの勢いなんだろうよ。実際のところ。
今現在テレビ的に天皇制に盛り上がるおっさんの意見てのは、家父長制の名残に近いもんがあるでしょな。
「日本国の象徴」って概念があると、そんなに気にしてない人に対してはどうでもいいけど、細かいこと気にする御仁には「天皇の悪口=俺の悪口」みたいに感じられて、虫唾が走るのかもしれんし。
投稿: ハナ毛 | 2006.09.10 18:09
関東圏関西圏で考え方の相違や格差があるから、そのへんも勘案されると宜しいかと。
投稿: ハナ毛 | 2006.09.10 18:56
昔、何冊か阿部の本を読んだが、結局、「世間」と「社会」の定義を発見できなかった。
恐らく、本人にも分からなかったんではないか?
戦後的インチキ学問というのが私の(現在の)結論。
投稿: by-passer | 2006.09.10 22:33
阿部さんの批判はさんざん聞いた。それこそお腹いっぱい。
個々の批判はそれなりに的を得てるものが多かったかもしれない。
だけど、批判してる人たちは、大事なことを忘れている。
阿部さんが、多くの人に知的興奮を与え、学問や歴史学の認知に多大な貢献をしたということを。
昨日の讀賣新聞の書評欄にもあったけど(竹内洋評)、学会に認められるような論考が、知的興奮を伴うことはほとんどない。
そういう芸当ができる人を大切にしないと、学問が閉じてしまい、やがて忘れ去られる・・・
実学だけになったらつまらないし、学問自体が滅ぶだろう。
投稿: 木星人 | 2006.09.11 08:21
水野弥穂子で検索していたら、このページがひっかかった。正法眼蔵の三巻がいっこうにでないので、どうしたのかと..。阿部氏の本をとりあげているところも、私の趣味とにているのでコメントしたくなった。
ということで、このHPはどういうところかわからんけど......。
歴史学者の多くはその出版物において、引用を多発する。そしてさらに、だれだれがそれについてこういっていると。だから、どうなんですかね、というのが、私の気持ちだった。そんな中で、阿部氏は、自論を展開している。もちろん引用がないとはいわない。でも、多くの書物は自論だ。これはそれが正しいか間違いかは別として読んでいて楽しかった。こういうことについてこの人は疑問を感じたのかということが。インチキなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。ただ、こういうものの見方をする人がいることを知り、私も自分の感性が磨かれたことはたしかなのだ。もちろん彼はどういう人かということを問題にする人には、それはどうでもいいことなのでしょうが、それは、価値観の違いの個人差ですね。
投稿: 吉野弘市郎 | 2006.09.12 22:17
ついでに:世間と社会の違いは、意識をもって、それをわけるときは、誰がそれを認識するか、どういう次元で認識するかと、その認識における他の世間(あるいは社会)との繋がりの程度により、言葉が使いわけられて存在しているのが差異だと、私はあの本を読んで思いました。
投稿: 吉野弘市郎 | 2006.09.12 22:23
■小沢氏、「靖国に戦争指導者をまつるべきでない」と発言■
アサヒコム(2006年04月10日 12時05分)
民主党の小沢一郎代表は9日、NHKの番組に出演し、首相の靖国神社参拝自体については「賛成だ」とする一方で、
「小泉さんの(やり方)はだめだ。戦争を指導した人たちは靖国に本来祀(まつ)られるべきではない。
戦争で亡くなった御霊を祀る本来の靖国神社に帰すべきだ」
と述べた。
しかし、具体的にどうすべきかについては、番組後記者団に「政権を取ったらすぐやる、そのとき教える」と明言しなかった。
小沢氏は、靖国神社参拝について「天皇陛下にも行っていただきたい」とした。その上で、戦争指導者が祀られていることについては、
「(極東軍事裁判での)A級戦犯という言葉は認めない。勝った国が勝手に裁判したからだ。しかし、日本国民に対して戦争を指導した大きな責任がある」とした。
「戦争指導者」を靖国神社から祭祀廃絶する理由について二つ挙げています。
○ 日本国民に対して戦争を指導した大きな責任がある
○ 戦死者ではないので靖国神社への祭祀にそぐわない。
この二つはまったく異なる理由です。
また、祭祀廃絶後の「戦争指導者」のミタマの処遇について、「政権をとったらすぐやる」にもかかわららず、「そのとき教える」と言う。
(1)「日本国民に対して戦争を指導した責任」
を問うのなら、靖国神社での祭祀廃絶後、放置するということか?
死してなお祭祀するべきではない、鞭打つべきだと、そういう責任があるという論理であろう?
(2)「戦死者ではないので靖国神社への祭祀にそぐわない」
という理由なら、おそらくですが、この方々を集めた他の神社を建立するか(第2靖国神社の建立)、あるいは他の戦死者関係ではない神社に合祀することになる。
この二つの問題は全然別物である。区別して考えなければならない。
しかし、小沢氏は「どっちにするかは教えない」と言っている。しかし、A級戦犯に指定された人々の処遇をどうするか、は本質的な問題である。
さて、A級戦犯・被指定者たちを「祭祀廃絶後に放置する」だとしたら、ますます深刻な話になる。
「戦争指導」それ自体が悪いから、祭祀したらイカンのだ、と小沢一郎は主張する。
何がイカンのか? 小沢氏の言い分はハッキリしない。どうにでも解釈できるような言い方にしかなっていない。彼の、こういうアイマイさが気になる。
「第2靖国神社を作れ」と、小沢一郎は言いたいのだろうか。
そういえば、小沢一郎は、自衛隊のイラクでのPKO活動が政治問題化した時にも、
「第2自衛隊を作り、その組織にPKO活動をやらせろ」などと、意味不明の主張をしていた。
その意見を保守派=知識人から批判されると、どこかに隠れて、自分の意見をウヤムヤにした過去がある。
最近の小沢一郎には、この種の<妄言>が多すぎる。
投稿: ヒロ | 2006.09.13 18:54
初めてコメントいたします!
今朝「こころの時代」で阿部謹也さんのお話を観て
検索していてこちらにたどり着きました。
以前「世界わが心の旅」を観たこともあって
本は読んだことがなかったのですが、とても興味を覚えました。
ご自分の思いを率直に伝えようとする姿勢が
私には、お人柄そのままに感じられました。
世間の評価云々ではなく「その映像から感じられた姿」が
私にとっての阿部謹也さんという方の「人としてのすべて」に
思えました。
その意味では、ご自分を深く見つめつつ
世間に向かってお話していた方だと感じましたが、いかがでしょうか?
私も、そんなことを最近考えつつ自らを省みることがあるので…
ながくお話してしまい、申し訳ありませんでした。
機会がありましたら、またお邪魔させてください!
投稿: 風待人 | 2007.01.28 06:50
初めて投稿します。
「有給休暇がなぜ取りにくいのか」という疑問
を持ち調べているうちに阿部謹也の本に会い、こ
ちらにたどり着きました。
私なりに、理解したところでは、会社という小さ
な世間にある上下関係というか、「休みも取らず
働く者が偉い」という建てまえが、管理者から休暇
をもらう主張を邪魔している。だから欧米諸国
に比べて日本は有給休暇取りにくいのでしょう。
阿部謹也が言っている通り「個人が世間に埋没し
ている」というのがまさに当てはまるのではない
かと思います。
投稿: クリクリ | 2009.02.11 05:41