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2006.09.02

[書評]岸信介(原彬久)

 「岸信介」(原彬久・岩波新書赤368)(参照)は一九九五年に小冊子ふうの岩波新書として出たものなので、その後の研究を含めてバランス良く、かつ研究者以外が読んでも理解できる他の岸信介論もあるのかもしれない。なお本書には「極東ブログ: 下山事件的なものの懸念」(参照)で少しだけ触れたハリー・カーンへの言及は明確にはないようだ。

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岸信介
権勢の政治家
 とはいえ同書に優る岸信介論を私は知らない。著者原彬久は「岸信介証言録」(参照)の著者でもあり生前の岸に直接触れていただけあってその人間的な洞察は岩波新書にも反映されている。
 岩波新書「岸信介」は岸の生い立ちから青春期、戦前の満州時代、戦中、戦後とバランスよく描かれている。ただ、今日的な課題からすれば、安倍晋三の祖父というだけではなく、安倍晋三がどのように祖父の意思を継いでいるかが問われるところだろう。
 話を端折るが岸が設立に関わる自由民主党が元来どういう党是の政党なのかというと改憲政党であった。読売新聞”自民党50年 時代と共に変革”(2005.11.22)より。

 1951年9月、吉田首相はサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約を締結し、「軽武装、対米協調」路線を明確にした。これに反発した鳩山一郎氏、岸信介氏らは54年11月に「対米自立、自主憲法制定」などを掲げて日本民主党を結成した。55年10月に左右両派社会党が再統一し、危機感を覚えた保守陣営から保守合同の必要性が叫ばれ、自由党と日本民主党が同年11月に合同して自民党が誕生した。党政綱には「現行憲法の自主的改正をはかり、占領諸法制を再検討し、国情に即して改廃を行う」と明記され、自民党は吉田路線の是正という形で出発した。

 なお、この自民党の改憲路線は一九九五年に変更された。河野洋平総裁時代に護憲を掲げる社会党への配慮から、結党以来の党是である自主憲法制定は自民党基本文書から削られたことになっている。
 戦後の改憲への意思は岸など第一世代では強く意識されたものの、実弟佐藤栄作の時代では事実上改憲を遠ざけていた。岸にはこれに強い違和感があり、その先に政治活動への復帰が意図されていたことが同書に記されている。

岸はとくに池田、佐藤両内閣が意識的に「憲法改正」を遠ざけていることにきわめて強い不満をもつようになる。注目すべきは、ここで岸が、「非常に後退した」改憲機運を再び盛り上げるために密かに政権復帰の道を模索したことである。岸はこういう。「もう一遍私が総理になってだ、憲法改正を政府としてやるんだという方針を打ち出したいと考えた」(岸インタビュー)。彼によれば、みずからが再び政権をうかがったのは、昭和四七年に終息した佐藤政権の「次」である。「割合(首相を)辞めたのが早かった」し、「まだ年齢も七〇いくつで元気だった」から、「密かに政権復帰を思ったことは随分あった」というわけである(同前)。

 昨今では中曽根に見られるような老人特有の妄言と読むことができるが、この時代を顧みると図柄にはやや異なった印象が出てくる。佐藤栄作政権後、田中角栄政権が二年ほどで終わったのだが、これを立花隆=文春ジャーナリズム的には、田中政権=カネの亡者の巨悪のように捉えることになっている。が、陰謀論めくという留保を明確にするが、田中後の三木武夫時代の動向を見ると田中の失脚には岸的なものの復権を阻止するという図柄がなかっただろうか。もっともその線を濃く出すならダグラス・グラマン疑惑が先行していたかもしれないのだが、当面は田中の除去もありそこに岸の影もあったのかもしれない。

 しかし、岸のこうした政権復帰への思いが政治舞台に具体的な波紋を呈して現実の政局を動かしていったという形跡はない。

 現在の歴史考察からはそのようになっている。
 岸は田中をどう見ていたか。その前に岸と福田康夫の父っつあんの関係がある。

それよりも、彼が佐藤政権の後継首班として実際に推したのは、福田赳夫である。岸内閣のとき福田に政調会長、幹事長を歴任させ、最後には農相のポストに就けて終始その政調に手を貸してきた岸は、政権を離れてからは岸派を福田に譲ってなお彼を支えてきた。

 岸が後継させたかったのは福田康夫の父っつあんのほうだったというのは、今日では忘れやすいことかもしれない。

その福田が四七年七月の自民党総裁選挙で田中角栄に完敗したとき(田中二八二票、福田一九〇票)、岸の落胆ぶりは、長女(安倍)洋子によれば「見るに忍びない」ものであった(『私の安倍晋太郎―岸信介の娘として』)。

 この「わたしの安倍晋太郎―岸信介の娘として」(参照)の著者安倍洋子は安倍晋三のおっ母さんである。ちなみに、晋三の父っつあん安倍晋太郎は安倍寛(参照)の息子であり、気風は安倍寛に似た印象を持つ。読売新聞”憲法改正は当面考えぬ/安倍氏強調”(1987.10.03)では、総務会長時代の安倍晋太郎はこう言っている。

 自民党の安倍総務会長は、二日、都内のホテルで記者会見し、安倍氏の政権構想では触れていない憲法改正問題について、「党の綱領では自主憲法制定をうたっており、憲法をよりよいものにするという立場から常に勉強し、研究するのは大事だと思う」としながらも、「(改正問題は)現実的な政治のアプローチとしてとらえていかねばならない。例えば(憲法改正を)政治日程にのせるなどと言うべき時ではないと思う」との考えを表明した。

 なんとなく息子晋三が言いそうな雰囲気でもある。
 話を岸と安倍洋子に戻す。田中角栄を岸はどう見ていたか。

 「なぜ田中さんではいけないのか」と洋子が尋ねたとき、岸はこう答えている「田中は、湯気の出るようなカネに手を突っ込む。そういうのが総理になると、危険な状況をつくりかねない」(同書)。


岸は田中を評してこう言う。「僕をしていわせれば、田中は幹事長もしくは党総裁としては第一人者かもしれない。しかし総理として日本の顔として世界に押し出すとなれば、あの行動を含めて、やはり教養が足りない。柄が悪いね。……総理ということになると、人間的な教養というものが必要だ。(岸インタビュー)

 じゃ岸にはそれほど教養があったのかよと脊髄反射的に突っ込みをするとしたら阿呆だ。あったのである。
 ……エントリとしては少し長くなりすぎた。当初、同書の関連で岸と戦犯の問題についても触れたいと思ったが別の機会に。

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コメント

2ヶ月前になるか、団地のゴミ捨て場で、大分の書籍を拾ってきました。文庫と新書で5,60冊ほどでした。その中に「岸 信介」もありました。たまたま昨夜、頁を繰り始めました。昨日の安倍晋三氏の総裁選出馬表明があったせいかもしれません。彼の「「美しい国」は、TVタックルの大竹さんが、ちっとも面白くないといっていました。彼と祖父の政治思想がどう繋がっているのか興味あるところですね。

投稿: mochan | 2006.09.02 20:12

今朝(9/4)の中日新聞の一面下のおまけの部分。
パクられましたね、finalventさん。
きっと本ではなく、ここ読んで書いたと思いますよアレは(笑

投稿: とまとまと | 2006.09.03 08:28

あ、日にち間違えた。9/3だった

投稿: とまとまと | 2006.09.03 08:29

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受信: 2006.09.24 16:58

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