« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »

2006.09.30

WHO、DDT解禁?

 やや旧聞になってしまったが、一五日、世界保健機関(WHO)は三〇年以上も禁止されていた有機塩素化合物の殺虫剤DDT(World Health Organisation:C14H9Cl5)の利用を薦めるアナウンスを出した、とだけ書くと誤解されやすい。一六日付け読売新聞記事”マラリア制圧へ、DDT復権を…WHO”(参照)ではこう伝えていた。


 世界保健機関(WHO)は15日、ワシントンで記者会見を開き、「マラリア制圧のため、DDTの屋内噴霧を進めるべきだ」と発表した。
 DDTは、生態系に深刻な悪影響を及ぼすとして1980年代に各国で使用が禁止された殺虫剤だが、WHOは「適切に使用すれば人間にも野生動物にも有害でないことが明らかになっている」と強調、DDTの“復権”に力を入れる方針を示した。

 つまり、マラリア制圧にとっては効率的だというのが一つのポイントだ。そういえば、過去このブログでもマラリアについて二年前「極東ブログ: 天高くマラリアなどを思う秋」(参照)触れたことがある。
 ポイントのもう一つは屋内使用に限定されることだ。

 WHOマラリア対策本部長の古知新(こちあらた)博士は「科学的データに基づいた対策が必要。安全な屋内噴霧剤としてWHOが認めた薬剤の中で、最も効果的なのがDDTだ」と説明した。WHOによると、10か国でDDTの屋内残留噴霧が行われている。

 読売新聞記事ではわかりづらいのだが、DDTといえばレイチェル・カーソンの「沈黙の春」(参照)だ、と私より上の世代は脊髄反射してしまうほどで、問題点は自然界への残留にあった。その後、近年では環境ホルモンとしても騒がれていた。
cover
沈黙の春
レイチェル・カーソン
 私より上の世代は「沈黙の春」に脊髄反射してしまうと書いたものの、今の三〇代くらいの世代はDDTという言葉にあまり実体感はないのかもしれない。私などが子供のころは新築の家の土台工事の後で白蟻避けだと思うがよくDDTを撒いているのを見かけた。あの白い粉である。私より上の世代というか私の親、GHQ経験の世代だと、虱退治に頭から白い粉を被ったものである。DDTはお馴染み感があるので逆に「沈黙の春」では驚いたものでもあった。また、「生と死の妙薬」と呼ばれていたなど、この本の出版のいきさつなどもいろいろ聞かされたものだった。
 アマゾンの素人評を見ると、意外に冷やっとしたコメントもある。

★★☆☆☆ 害虫駆除, 2006/8/1
レビュアー: 理系の文系 (秋田県秋田市) - レビューをすべて見る
 この本を通じて語られていることはそれなりに正しいのだろう.しかし如何にもアメリカ的というか何と言うか・・・
 化学薬品を用いた害虫駆除を散々批判してはいるがその薬品のもたらした恩恵には一切触れていない.また,自然を支配するなどおこがましいと解きながら,害虫対策として成された提案が生物を遺伝子的に組み替えるだの,天敵を導入して害虫を駆除すれば良いとだのとは恐れ入った.生態系の破壊については一切考慮されていない.本当に科学者の言葉だろうか.
 短絡的で人間本位な結論としか私には感じなかった.自然との共存.容易ではないだろうが,それ以外に人間が地球で生き残るすべは無い.

 私も現在「沈黙の春」を再読すれば似たような感想を持つような気がする。
 DDTの毒性だが、殺虫剤なのでもちろん毒性はある。食品添加物みたいなものでもはない。人間への害は発癌性が疑われていたが、現状ではないといってよさそうだ。ウィキペディアに書いてあるかなと気になって確認したら、ちゃんと書いてあった。

発癌性
一時期、極めて危険な発癌物質であると評価されていたが最新の研究では発癌性が否定されている。国際がん研究機関発がん性評価では当初はグループ2Bの「人に対して発がん性が有るかもしれない物質」に分類されていたが、その後の追試験によってグループ3の「発がん性の評価ができない物質」へ変更された。

 同項目には「喪われた化合物の名誉のために(1)~DDT~」(参照)というページへのリンクもあり読むとなかなか面白い。

 こうして抹殺されたDDTですが、最近の研究によって少なくともヒトに対しては発癌性がないことがわかっています。また環境残存性に関しても、普通の土壌では細菌によって2週間で消化され、海水中でも1ヶ月で9割が分解されることがわかっています。危険性を訴える研究に比べ、こうした結果は大きく扱われることはほとんどないため、あまり知られてはいませんが……。

 残留の問題もそれほどではないようだ。
 以下の発言は化学的な関心を持つ人にはけっこう常識っぽい話だが、なかなか社会的には通じづらい。

 DDTの問題は我々に多くの教訓を残しました。現代の殺虫剤、農薬はDDTの時代とは比較にならないほどの厳しい安全基準を要求されています。かつての農薬は水銀、ヒ素などを含んだ、今考えると恐ろしいほどの毒物だったのですが、現在市販されているある種の農薬などは茶碗に一杯「食べても」大丈夫というほどに安全になっています。虫に毒だから人にも毒だろう、というような単純な話ではなくなっているのです。素早く分解されて環境に残留しない農薬の開発も進んでいます。
 農薬だから、化学製品だからと毛嫌いするのは簡単だし、ある程度無理もないことです。しかし化学は失敗を教訓として、常に前進を続けています。そして一般の目に触れないところで、少しでも安心して使える製品を作り出すべく、日夜研究を続けている化学者たちがいることを忘れないでいていただきたいと思います。

 環境ホルモンについては、同ページでは毒性からしか見てないが、読売新聞”DDTは環境ホルモン 環境省、メダカ試験で確認”(2005.10.02)によると内容は標題に反してどうやら人間にはあまり関係なさそうである。

 DDTは、第2次世界大戦後、蚊やシラミ退治などのため、大量に使用。毒性の強さなどが問題となり、1971年に農薬としての販売が禁止され、81年には輸入、製造も禁止となった。
 人間への影響を評価するため、同じ哺乳(ほにゅう)類であるネズミを使った試験も実施しているが、4物質とも内分泌かく乱作用は認められていない。

 WHOの今回のDDTについての判断は妥当なところだし、今回のDDT推進はマラリア問題がない日本のようないわゆる先進国にはあまり関係ないのだが、いろいろ議論は起きている。日本での報道は見かけないようだが。
 一例としてダルフール問題などをワッチするのに見ることが多いが、allAfrica.comの”Experts Oppose Chemical War On Malaria”(参照)など読むと、DDTについての危険を訴える動きもある。

Participants at the Intergovernmental Forum on Chemical Safety (IFCS) conference who staged the protest underlined the detrimental effects on human health caused by DDT, such as reproductive disorders, neurological effects, reduced breast milk production and increased risk of breast cancer.

 日本の情報環境にいるとこのあたりの問題というかバランスについて、なかなか見えてこないし、問題意識みたいのにもなってこないようだが。

| | コメント (6) | トラックバック (1)

2006.09.29

エスプレッソ雑話

 時たまエスプレッソをいれる。このところいれることが多い。イタリア製の直火式のエスプレッソ・メーカーを使う。クレマはほとんど立たないのだがけっこうおいしい。というか、手前味噌ならぬ手前コーヒーの類だろうが、自分でいれたエスプレッソよりおいしいエスプレッソを飲んだことはない、と思う。レストランとかで飲むエスプレッソでおいしいと思ったことはないような。鼻に抜ける独特のツンとした香りがくせになるのにあれがあまりない。それほど経験がないからのだろうとも思うが、手前エスプレッソはスタバのエスプレッソよりはおいしい。

photo
 不思議なのだが、スタバのエスプレッソは店によって日によって出来が違うように感じられる。同じ豆で同じマシンで同じように作っているのだろうが、主観的にはとても違う。なんとなくだがいれる人によって違う気がする。もうちょっと言うと、店員の雰囲気を見ていて、あ、この人はハズレかなと思うとたいていハズレる。
 エスプレッソ・マシンで思い出すのだが、以前職場の同僚でどの機種を買うべきか悩んでいる話を延々と聞いたことがある。もう二十年以上も前ことか。欧州暮らしの経験があるからか、エスプレッソに凝っていたようだ。というか、もう日本のエスプレッソには我慢できないと言うのだった。私はそれほどコーヒー好きでもないしエスプレッソも飲まないのだが、彼女の怒りのようなものはわからないでもなかった。話のなかで、いろいろマシンの違いとかなんたらが出てきたのだが忘れた。ただわかったことは当時の価格で五万円くらいするし、けっこう図体も大きい感じだった。業務用だったんだろう。
 そういえば沖縄で暮らしているとき知人の知人がレストランをやっていて、偉そうなエスプレッソ・マシンを導入した。一応操作はできるようになったらしいので一杯いただいのだが、論外だった。マシンの使い方に上手い下手があるのか。豆のせいなのか。
 こう言っていいのかわからないのだが、偉そうなエスプレッソ・マシンでいれたエスプレッソでそれほどうまいと思ったことがない。そこそこにはうまいというのはある。スタバ並かなとか。そのせいかどうもエスプレッソ・マシンを買う気がしない。それほど飲まないせいもあるが。
photo
Coffe percolator moka
 エスプレッソをいれるのに、私が使っているように直火式でいいのかというと、そこでも不思議に思う。直火式というとなぜかみなさん八角形のポットみたいの(macchinetta)を使っているのだが、あれでいれたのでおいしいエスプレッソを飲んだことがない。よくわからないが、歴史的にはあれがエスプレッソをいれるための原型的な道具なんじゃないかと思うのだが、うまく機能しないのか。
 自分がエスプレッソをいれる経験からすると、火のコントロールが間違っているのではないかと思う。経験的になのだが、火は弱火で、できるだけ炎がばらけないようにするのがコツなのではないか。ゆっくり沸騰させると熱湯も我慢に我慢を重ねてぶふぁっと出てくるようだ。それと私が使っているように上からぶしゅっと叩き出すタイプほうが内部の気圧が上がるのではないだろうか。
photo
カフェチコ・シルバー

by 楽天アフィリエイト
 愚考していて思い出したのだが、ポットタイプの使っている人、よく「エスプレッソ、お代わりあるけど」とか親切に言ってくれるのはいいのだけど、あのですね、最初に水を計量してましたかぁ?

| | コメント (5) | トラックバック (1)

2006.09.28

スイスの難民規制

 予想通りといえばそうなのだが、二四日スイスで難民審査厳格化と移民規制強化の是非を問う国民投票が行われ、多数で可決した。難民審査厳格化賛成は六七・七パーセント、移民規制強化賛成は六八パーセント。いずれも反対に対してダブルスコアとなった。
 CNN”難民と移民の受け入れを厳格化へ、スイス”(参照)ではこう伝えている。


永世中立国のスイスで24日、移民の規制強化と難民審査の厳格化を定める法律改正案の国民投票が実施され、賛成多数で可決した。この結果、欧州連合(EU)と欧州自由貿易連合(EFTA)加盟国以外からスイスへ入国して滞在できる労働者は、専門技術をもつ人に限定されるほか、難民申請者については、正当な理由がなく身分証明書を提示しない場合、申請を却下するなど、厳しい内容となっている。

 さすがCNNは日本国内ニュースと違い「永世中立国のスイス」と切り出してしまったが、これは単なる間違いで、スイスは二〇〇二年九月の国民投票で一九〇番目の国連加盟国となり、永世中立国ではなくなっている。
 今回の国民投票の結果、難民法と外国人法を改正され、難民申請時の身分証提示義務が厳格化される。正規旅券を四八時間以内に提示できない申請者は、原則的にその場で申請が却下され強制退去となるようだ。また、従来の申請却下者に支給された生活給付金も停止となる。
 これらの規制は欧州ではもっとも厳しい。スイスはEUには加盟してないので、こういうのもありなのかもしれない。が、この六月に実施されたEU域内での国境審査を廃止するシェンゲン協定と難民情報の共有などを定めたダブリン協定への加盟の是非を問う国民投票では、賛成五四・六パーセントということで、EU志向が無くなっているわけでもない。
 今回の国民投票で感慨深いのは、四年前(〇二年一一月)の同法の国民投票との差だ。あのおりは、賛成四九・九パーセントに対して、反対五〇・一パーセントと僅差での否決だったのが、この間に大きく右旋回した。当時は、「移民排斥などの過激発言で極右と言われるクリストフ・ブロッハー議員」と呼ばれていたものだが、現在では過激でもなく普通に定着してしまったようにも見える。
 余談だが、スイスについてはこのブログでは過去、「極東ブログ: [書評]スイス探訪(国松孝次)」(参照)で少し触れた。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2006.09.27

ハンガリー騒乱

 ハンガリー動乱(参照)、とつい口を滑ってしまいそうになるが、先日のブダペストの状況は、CNN”「最も長く、暗い夜」 ハンガリー騒乱で首相が会見”(参照)の標題のように騒乱という程度であろう。あるいは狂想曲か。とはいえ、プミポン国王のような偉大な王なきハンガリー共和国では放送局の襲撃は洒落にならない面もある。


首相によると、暴徒が同市内の公共放送マジャール・テレビ(MTV)の本部を襲撃したことは、警察にとって予想外だった。騒乱による負傷者は、警官102人を含む150人に上っている。警官隊を監督するペトレーテイ法相は、騒乱の責任を取るとして辞表を提出したが、首相はこれを却下した。

 騒乱の原因について同記事では簡単にこう触れているがわかりにくい。

ハンガリーでは17日、首相が「われわれは国民にうそをついてきた」などと話している録音テープが公共放送のラジオで流され、これがデモの引き金となった。MTV本部には警官隊が出動し、放水車で暴徒を鎮圧した。

 このニュースが一九日のもので、翌日は”首相発言への抗議デモ続く ハンガリー”(参照)と一万人デモ。日本国内ではこのニュースは少ないようだが、二四日共同”反政府デモに2万人 ハンガリー”(参照)と二万人。日経”ハンガリー、首相辞任求め4万人デモ”(参照)では四万人。
 それから数日経つが騒乱としての現状はよくわからない。沈静化しているのだろう。ただ、このまま一時期の騒乱で終わるかというと、CSM”Bitterly divisive politics fuel Budapest unrest”(参照)が指摘するように十月一日の地方選まで潜在的に危険な状況は続くのだろう。

While the violence has abated, smaller-scale protests are set to continue until crucial local elections on Oct. 1. Should the government suffer a crushing defeat, however, demonstrations could grow again.
(暴力的な状況は沈静化したものの、十月一日の地方選までは小規模の反対運動は継続するだろう。政府が壊滅的な敗北を喫すれば、デモは再発するだろう。)

 で、なにが問題だったのか。一九日のCNNニュースでは首相が国民に嘘をついていたのがばれて国民が怒ったというくらいにしか読めない。一九日産経系”反政府デモが暴徒化、ハンガリーで首相退陣求める”(参照)では次のように説明しているが理解できるだろうか。。

 首相は4月の総選挙で勝つために「朝から晩までウソをつき続けてきた」と発言。また、「経済を維持できるのは世界の有り余るキャッシュと数百のトリックのおかげだ。欧州でこれだけろくでもない経済政策をとった国はない」と語った。

 先の共同ではこう説明しているが、これも理解しにくいのではないか。

 4月の選挙で続投を決めた首相は、公約に反し、財政赤字対策として増税を打ち出すなどしたが、与党社会党の会議で国民を欺いてきたと発言したことが地元メディアで報じられ、デモにつながった。

 私自身もこの問題に詳しいわけではないが、外信の説明は不十分だし、なにか問題の核心を避けているかのような印象を受ける。国連疑惑や中国人権問題のようにまた日本のジャーナリズムでは触れてはいけない領域なのだろうか、あるいは問題が複雑で外信では十分に報道されていないのだろうか。単に、ハンガリーの問題は日本にとって些細なことか。存外にオーマイニュースとかに記事があったりして。
 今回の事態が起きなくても、経済構造から背景は理解できる。「大和投資信託/タイムリーレポート(2006年3月30日)」(参照PDF)が比較的詳しい。もっとも、その結論は現状となるといかがなものかの風情はあるにせよ。

なぜ財政赤字が拡大したのか
旧社会主義国であったハンガリーは、西欧諸国と比べると社会公共インフラが整備されておらず、道路建設など財政支出がどうしても膨らんでしまうことが、財政赤字が拡大しやすい理由として挙げられます。これに加えて、2002 年に行なわれた選挙において、財政支出を伴う選挙公約が乱発されたことも、財政赤字を悪化させた要因となりました。

2006 年は選挙の年
同国の選挙は4 年に1 度行なわれ、今年はその年にあたります。最近の世論調査によると、与野党の支持はほぼ伯仲しており、そのため現政権は選挙対策の一環として減税などの政策を打ち出しています。こうした政策が将来のさらなる財政赤字拡大につながる、と心配する声も出ています。


 単純に言えば、大衆迎合のばらまき政治をやり続け、しかも財政問題を国民に隠蔽しつづけていたのだが、その一旦が今回首相の口からぽろっと出てしまったということのようだ。ぽろっと出るものはもっと別のものであって欲しいものだが。
 大和投資信託の見通しは奇妙に明るい。

財政悪化による負の連鎖がはたらく可能性は小さい
今後は、ハンガリー政府が社会保障制度改革など実効性のある財政改善計画を打ち出し、それを実行に移せるかどうかが注目されます。しかし、前述したように、ユーロ導入に向けて後戻りのできない同国が、野放図な財政支出を続けることは考えにくく、財政赤字拡大→格下げ→さらなる財政悪化という負の連鎖がはたらき格下げが続く可能性は小さいとみられます。

 「野放図な財政支出を続けることは考えにくく」というが、そうなのか、と。そのあたりがよくわからない。今回のデモはもうバックレが効かなくなり、痛みを伴う改革に乗り出した矢先の反発だと言えないこともない。
 結局どうなるのかというと、先ほど見たBBC”EU backs Hungary's budget plans ”(参照)の記事だと、EUが支援に乗り出すという雰囲気だが、依然ハンガリー国内では増税・歳出削減というのに変わりはない。痛いぜ。ということで、このBBCの記事も後半のトーンは暗い。
 ハンガリーの現状の国際的な状況については”カワセミの世界情勢ブログ: ハンガリー動乱から50年”(参照)で六月時点の状況をまとめているが、率直なところ米国のスタンスが微妙だ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2006.09.26

小泉純一郎がやり残したこと

 小泉純一郎首相についてはなぜかあまりご苦労様という感じはしないが、これからはもう政治を離れて好きなオペラなど楽しまれたらいいだろうと思う。長い首相在任期間だったが、後悔といったものはなかったものだろうか。日刊スポーツ”「後悔なし」小泉首相最後のインタビュー”(参照)も訊いていた。


官邸で首相として受ける最後の報道各社インタビューで、記者団から対中韓関係の現状について「後悔の念はないか」と質問されたのに対し答えた。また、自民党内の反対を押し切って郵政民営化関連法を成立させたことについて「非情と言われるかもしれないが、国民全体にとって必要な改革だった」と述べた。

 いかにも小泉節というところだが、自身のありかたを「非情」と見ていたのか。私が小泉純一郎が好きでない理由は女を捨て子を捨てという非情さがなじめないからだ。政治というのは非情なものだといえばそうだが、そういうふうに政治を割り切ることはなかなかできない。
 そういえば、先日の「極東ブログ: [書評]郵政省解体論(小泉純一郎・梶原一明)」(参照)には彼が郵政民営化とならんでやりたいかったことが描かれていた。遷都である。まじかよ。

梶原 いま、ビジネスチャンスが非常に少なくてなっています。それだけに郵政省を民営化するとなれば、あらゆる企業が注目することは間違いなし、決定的な景気浮揚策となる可能性が高いでしょう。
小泉 それとあわせて遷都をすればいいんですよ。過疎地に首都を持っていくというね。

 なんだかすごい会話の展開になり、この先梶原はちょっとびびって、話だけですよねみたいな与太にもっていくのだが、どうも小泉はマジ臭い。

梶原 (中略)小泉さんがおっしゃった遷都でも、あるいはデノミにしても同じです。実際に実行できるかどうかは別としても、それをぶちあげて提案し方向を示す。それをマスコミ報道に乗せていくというようなことが、政治家に求められるのではないですか。
小泉 いまいちばん大事なのは、まさにその方向を示すということです。
梶原 実現がどうのこうのいうことは、この際二の次でいい。私は公約というのは、実現を前提するものと、ぶち上げるものと二つあると思います。
小泉 ただね、いまはそういう公約だけでは駄目なんですよ。やはりある程度の実現可能性を示さないとすぐに化けの皮が剥がれてしまう。
梶原 でも、一種の方向性を示すということは……。
小泉 それはもとより大事なのですが、その方向に向かっているな、というように国民が感じないと駄目なんです。口だけだと、公約だけだと、いままで政治があまりにも嘘をいってきたから、国民は信じない。

 小泉政治については国民を騙すという批判も多いが、そういう批判が成り立つほど、小泉を信じるという機運も大きかったのだろう。ただ、郵政民営化については捨てなかったが、遷都については捨ててしまったのだろう。

小泉 それはそうです。ただ、日本はオーストラリアとかブラジルと違って、首都を替えるのは、案外、一瞬でしょう。おそらく、どんな過疎地に首都を移しても、すぐに百万都市ができますよ。だから私は東京から離れても心配ないと思う。
 日本の場合、官依存が強いから、全官庁が移るといったら、もうあっという間に都市ができて、国際空港もできるでしょう。


小泉 (中略)ただ、私は”転都”では駄目だといっているんです。
 つまり、東京を活用したいが、その機能を少し分散させるために、東京の近くに首都を移すというのでは意味がない。中途半端になる。遷都をやるなら、思い切って東京から離れた過疎地にすべきです。
 東京にしても、それによって人口が百万人か二百万人減れば、かなり快適になるでしょう。かといって、これだけの大都市はすたれませんよ。

 こいつ大法螺吹きだなと笑いたくなるが、転写しながら、このしょーもない壮大な情熱はいったいどこから生まれたのだろうかと少し感動してくる。こんな馬鹿な政治家がまた日本に現れないなら日本の活力なんてものはないだろう。この気質はやはり祖父譲りなのだろうか。
 祖父小泉又次郎は慶応元トビ職の息子に生まれた。ウィキペディアにもあるが(参照)、軍人になりたくも家業のためにトビ職人となる決心として全身に昇り龍を彫った。芸者だった綾部直子と結婚した。軍人にはなれないが政治家になった。

| | コメント (11) | トラックバック (1)

2006.09.25

日の丸についてのトンデモ私説

 最初にお断りしておくが、以下はトンデモない話であって、きちんと主張しているわけではない。いつかきちんと主張したいと思っていたが、関心も薄く成りつつあり、関連蔵書は処分したし、貯めていた資料ももう散失してしまった。もう自分の人生で展開する機会もない。ただ、余興みたいにブログに書いておくくらいはいいだろう。
 日の丸とは蛇の目(ジャノメ)である。それが私が日の丸について二十代の後半に考えた推論で、大筋では吉野裕子の学説と絵巻の史学的な考証でなんとかなるかなと思ったが、その後の民俗学の動向を見ていると吉野裕子学説はあまり顧みられているふうでもない。が、アマゾンを見ると復刻は多く、読者は少なくはないのだろう。

cover

日本の蛇信仰
 蛇の目というからには蛇の古代信仰に関連する。ということで「日本人の死生観―蛇・転生する祖先神」(参照)や「蛇―日本の蛇信仰」(参照)が主要著作になる。これらは詳細にはいろいろ問題があるだろうが、大筋ではこれでいいのではないかと私は思う。さらに吉野学の源流近くには「隠された神々―古代信仰と陰陽五行」(参照)という衝撃的な書籍がある。近年復刻された。高校生にも読める書籍なので知識人なら一読を勧めたいものだが。
 日の丸は字義通りに太陽信仰とも受け取れるわけで、トンデモ蛇の目(ジャノメ)説はそれを否定しているかのようだが、そうではなく、吉野が蛇について議論しているように、元は太陽であるが太陽とはコスモス的な蛇の目であるということだ。つまり日輪から日の丸に直結しているのではなく、蛇の目を経由しているということ、直接的には蛇の目が起源であるということだ。蛇の目は猫の目のように反射光によって光ることもあるからなのだろう。
 蛇の目は一旦神物として鏡に転じる。古代において鏡はコスモス蛇の目であった。神物の鏡は太陽の反射光を持つことが重要であって、物を写すことは日本の古代呪術においては二義的なものである。駄洒落のようだが、吉野も指摘しているが、「かがみ」とは蛇を示す「かが」の「み」であろう。あるいは「かがの目」かもしれない。「かが」が蛇を示すことは「やまかが」の語に残っている。
 吉野はさらにこのコスモス蛇信仰とその目としての「鏡」の信仰を三輪山に結びつけている。三輪山自体を巨大な蛇とみなしているのだ。たしかに、あれは蛇がとぐろを巻いているように見えるものだと私も現地になんども行って思った。
 三輪山の信仰は現代の古代史的な研究からははっきりしてこないが、これが実際に飛鳥や河内を起点とした場合、海から太陽=コスモス蛇が出現するのは、伊勢にあたる。おそらく伊勢神というのも三輪山信仰に関連する蛇神の系列なのだろう。吉野はさらに額田王がそうした神官に関連しているとも示唆していた。その後、いわゆる天皇家に統合された神話からすると鏡は三種の神器の一つとなるのだが、おそらく三種の統合になんらかの意味があったのだろう。
 余談だが、天皇については近代的には万世一系の血統とかいう輩が多いが、南北朝の歴史などを見ればわかるように、天皇の正統性は三種の神器にある。昭和天皇の語録などを見ても彼自身も三種神器を非常に重視していることがわかる。なぜ、天皇の正統性が三種神器という「物」なのかについて私はきちんとした議論を読んだことがないが古代史にその理由が隠されているのだろう。
 トンデモのついでに放言すれば、天武天皇時代に天武天皇という特殊な王の出目と正統性から出来た仕組みではないかとも思う。兄とされる天智天皇はおそらく初代の天皇であろう。昭和天皇自身の発言にも天皇家の起源を彼が七世紀であると認識していたが、合理主義の彼は合理的に理解していたのだろう。天智天皇は先に触れた額田王=鏡神官と関連があり、天武天皇はその権威も統合的に掌握したという象徴ではなかったか。剣は実質神道を創作した中臣家の関連であろうか。
 吉野裕子は、日本の古代信仰であるコスモス蛇と鏡については論じているが、そこから蛇の目起源としての日の丸については考察していない。彼女が想定しえないわけもないので、口をつぐんでいるか否定しているかであろう。冷静に考えれば否定しているのだろうと思うのだが、それにしては中世における日の丸の基本が金色であり、コスモス蛇の目=鏡以外には見えない。
 ウィキペディアの日章旗(日本の国旗)(参照)でも紅色への変化について触れているが、日の丸の原型は金の丸である。

世界的に太陽が赤で描かれることは珍しく(太陽は黄色、また月は白で現すのが一般的である)、日本でも古代から赤い真円で太陽を表すことが一般的であったというわけではない。例えば高松塚古墳、キトラ古墳には東西の壁に日象・月象が描かれているが、共に日象は金、月象は銀の真円で表されている。また711年(大宝元年)の文武天皇の即位以来、宮中の重要儀式では三足烏をかたどった銅烏幢に日月を象徴する日像幢と月像幢を伴って飾っていたことが知られるが、神宮文庫の『文安御即位調度之図』(文安元年記録)の写本からは、この日像幢が丸い金銅の地に赤く烏を描いたものであったことが確認されている。これは世俗的にも共通した表現であったようであり、『平家物語』などの記述などからも平安末期の頃までの日輪の表現は通常赤地に金丸であったと考えられている。

 ラッキーストライク的な赤玉になることについてはこう説明している。

対して赤い真円で太陽を表現する系譜は、中国漢時代の帛画に遡る(上の日像幢と同様に内側に黒い烏を配するものである)。日本での古い例としては、法隆寺の玉虫の厨子の背面の須弥山図に、赤い真円で表された日象が確認される。また平安時代においても密教図像などに見出される表現であり、中国から仏教とともにもたらされた慣習であると推測される。こうした表現が原型となり、白地赤丸の日章旗が生まれたと考えるのが妥当であろう。

 いずれにせよ白地赤丸の出現と変化には別の理由があるのだろう。あるいは水平線に登る朝の陽が赤く見えるからだろうか。
photo
古代フェニキア船
船の目に注目
 私はこれは難避けの呪札のようなものではなかったかと考えている。そして、何の難避けかといえば、海難であろう。このあたりの変化の史料をいろいろ旅して探したものだったが確定的なことは言えない。
 船には難避けの呪物が欠かせない。そのなかで、船に付ける目はけっこう典型的な呪物であり、この呪物は太古の地中海からインド洋へと広がっているようだ。その系統がどこかで日本につながったのではないかと思う。
 近代の日章旗の起源は公的には島津にある。

また江戸時代後期には薩摩藩の船印として用いられており、開国後は幕府が日本国共通の船舶旗(船印)を制定する必要が生じたときに、薩摩藩からの進言(進言したのは薩摩藩主、島津斉彬だといわれる)で日章旗を用いることになった。一般的に日本を象徴する旗として公式に用いられるようになったのはこれが最初であるとされるが、戊辰戦争時には官軍が菊花旗、幕府側が日章旗を用いており、国旗として扱われるようになったのは明治以降である。

 ここでなぜ薩摩藩が日章旗を船印としたかについてだが、これは琉球絵巻などを見れば誰でもわかることだが、すでに琉球が日章旗を船印として利用していた。もともと薩摩の富は琉球からの、広義の搾取と言ってよいだろうし、文化的には薩摩の文化は琉球の下位にあったと私は考えている。
photo
琉球八曲屏風より
日章旗と船の蛇の目
 簡単にいえば、日章旗というのは、琉球の旗なのである。もともと日本国は、琉球国を併合しているので、昔の東欧風にいえば、国号は日本琉球国となるべきものであるが、そうはならずとも琉球の旗が日本に嗣がれているのは興味深い……というあたりは現状ではトンデモ説であるが。
 では、琉球の旗はどこに起源を持つのか?
 この調査もいろいろやって懐かしいが確たることが言えない。概ね、倭寇の文化が起源であろうとは思う。もともと琉球の王朝は倭寇の権力にフェイクとして中国的な文化をかぶせたものだろうと長年沖縄に暮らしながら考えていた。現在の沖縄ではある意味で琉球的なアイデンティティが観光産業にも合うことからいろいろ擬古的に復権しているが、華僑の覆いを除くと、室町時代というか倭寇の時代の文化が見えてくる。舜天源為朝落胤伝説はもちろん伝説ではあろうが、その伝説が生まれる核たるものは後の徳川政府・薩摩政府による併合のための下準備であったとは考えづらい。すでに沖縄本島には日本中世の時代に各種の神社ができていることや、阿弥陀信仰が行き渡っていることからも同じ歴史文化的なものだろう。
 日章旗が倭寇に起源を持つなど、公的に言えばトンデモ説だろうとわかっているが、私は密かに倭寇の呪物が嫌いではない。日本は江戸時代海に隔てられて鎖国であったというのが近代日本による日本の史観であるが、そうではないのだ。海こそがダイレクトに人々を結びつけるものだった。日本は海に囲まれていたからこそアジアのなかに開いていたのである。
 古代においてもなぜ伊勢の太陽信仰があるかといえば、あれは伊勢の地の古代水軍の名残であろう。おそらく壬申の乱まではあそこに水軍があったに違いない。大津皇子が伊勢に出奔するのも父のように水軍を動かしたかったからではないか。いずれにしても、海の人として開かれた日本人だから日の丸があるのだろう。伊勢の神の好物も海産物である。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2006.09.24

菊花紋章、雑談

 ブログなんで世間の話題は拾っておこうと思うのだが、昨今の国旗国歌問題は食傷気味。っていうかすでに「極東ブログ: 些細なことには首をすくめておけばいい」(参照)に書いた以上はない。でも昨今の騒ぎで三十年近く前の成人式のことを思い出した。日章旗を飾った壇上から「国歌斉唱ご起立」とか言われて一人立たなかったのは私です。でも萎えて立てなかっただけ。かったりぃとか思うふざけたただの若者でした。今は後悔している。
 このブログでは過去日章旗については「極東ブログ: 正しい日章旗の色について」(参照)、日の丸については「極東ブログ: 野國總管甘藷伝来四〇〇年」(参照)などで少し触れた。「君が代」についてはあまり触れていない。
 日本にはつい最近まで国歌も国旗もなかった。なくてもどってことなかったのだが、小渕総理ががんばって法制化した。とはいえそれほど関連して厳しい規制はないので、日本人が日本の国旗に対して侮辱的とも見えるかものパフォーマンスとかしても思想信条の表現ということになるのだろう。自由は大切だな、と。ただ多少変に思うのは、やっていいのは日本人が日本国旗に対してであって、他国の国旗にそれをすると外国国章損壊罪(参照)になる。


外国国章損壊罪(がいこくこくしょうそんかいざい)とは、日本の刑法92条に規定されている、外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他国章を損壊し、除去し、または汚損することによって成立する犯罪。法定刑は2年以下の懲役または20万円以下の罰金。親告罪。

 もっとも「侮辱を加える目的」というのがビミョー。もともとこれは「外国政府の請求がなければ公訴を提起することができない」ので、洒落のわからない国には気をつけましょうということで、「なーんだ、日本国が一番、洒落が通じてるんじゃん」ってことかも。
photo
菊花紋
 それより話は菊花紋章。日本には国旗・国歌ができたのだが、国章というのがない。別になくてもいいし、広義に国旗が国章に含まれることもあるだろう。だが、単純に言えばない。じゃ、パスポートについてるアレはどうよ、と。ウィキペディアの国章の項目(参照)に説明があるとおり。

 日本では、法令上明確な国章は定められていない。その為、慣例的に天皇家の家紋であり、天皇の紋である十六弁八重表菊紋(菊花紋章)が、国章に準じた扱いを受けている。
 また、首相・政府(内閣)の慣例的な紋章である五七桐花紋も、国章に準じた扱いを受ける。
 なお、日本の旅券(パスポート)の表紙に用いられる「十六弁一重表菊紋」は、菊花紋章に似ているが、八重と一重の違いがある。

 というわけで、いわゆる桜の大門、ちがった、菊の御紋のデザインはパスポートのそれとは微妙に違っているのだが、どっちが本物というような国章規定もない。
 デザイン的には、パスポートの十六弁一重表菊紋が先にあるような気がするが、この菊花紋章(参照)が天皇家に入ったのはそう昔のことではない。

 鎌倉時代、後鳥羽上皇がことのほか菊を好み、自らの印として愛用したのが始まり。その後後深草天皇・亀山天皇・後宇多天皇が自らの印として継承し、慣例のうちに皇室の「紋」として定着した。

 というわけで鎌倉時代。それ以前にはない。宋学などと一緒に伝来したものなのだろうか、いずれ中国趣味ではあるのだろう。というところで図案の元になっている菊は御紋章菊こと一文字菊である。ネットを見ると「新宿御苑の菊花壇」(参照)に写真と解説がある。重要なのはこの花弁がフラットに十六ということ。
 この一文字菊の菊花紋章なのだが、私はサロニカの考古学博物館の展示物で見たことがあり、びっくらこいて一緒に見ていたギリシア人に「これって、日本の天皇家の紋章(エンブレム)ですよ、ほれ」とかパスポート見せたことがあった。ギリシア人は怪訝そうな顔していた。わけわかめ風。
 あれがネットにあるか探したのだがめっからない。「テッサロニキ/ギリシア - よしこのインターネット・ワールド・トリップ」(参照)に近いのがある。

 左がアレクサンダー大王の父、フィリッポス2世の骨が入っていたという黄金の小箱。蓋にはマケドニア王家の象徴、太陽の紋章(光線が16本)が刻印されています。王妃と見られる女性の骨が入っていた小箱も展示されていましたが(向かって右)こちらの太陽は光線が12。天皇家の菊のご紋章が16弁というところを見ると「16」という数字には何か意味がありそうですが、どなたかご存知?

 で、太陽紋章以外に菊花紋章もあったのだ。ちなみに、この骨、フィリッポス二世ではないです。
 よくトンデモ系の考古学でユダヤ教の遺跡で菊花紋章がある云々という話があるが、ヘレニズム・デザインなんじゃないかと思う。とはいえ、インド系のヘレニズム・デザインだと蓮花が原型かと思うのだが、このあたりのデザインの系譜はどうなっているのだろうか。

| | コメント (13) | トラックバック (1)

2006.09.23

ヨガ雑感

 以前「極東ブログ: ヨガブーム雑感」(参照)を書いたが、私はもうヨガとかやらなくなっていた。が、このところ秋めいて涼しくなり長年使っていたマットを取り出して少し練習を始めた。アイアンガー・ヨガの初級ヨガ指導者のコースを終了していたこともあり、どう練習すればいいかというのはだいたいわかっているつもりだし、この歳になると中級レベル以上にまで精進することもないだろう。そもそも、また止めてしまうかもしれない。

cover
Yoga:
The Iyengar Way
 世間ではヨガのブームは依然続いているようで、コンビニで売られている女性雑誌などでもよく見かける。ああ、これは間違っているな、ここはこうとかいろいろ思うのだが、各人自由にすればいいのだろうな、若い人が多いのだろうしと思い直す。
 初心者のヨガの自習には「Yoga: The Iyengar Way」(参照)という本が一番よいと思うが、邦訳もないようだし、いずれ書籍では学びづらいものだろう。ヨガ全般についてはアイアンガー先生ご自身の名著「ハタヨガの真髄―600の写真による実技事典」(参照)があれば十分だろう。プラナヤマについては「ヨガ呼吸・瞑想百科」(参照)が詳しく、練習方法も詳細に書かれているが、グルジェフの教えのように呼吸法というのは理解せずして行うものではないし、理解が進めば自然にその発展があるだろう。というか、私は昔習った少しの呼吸法を自然に深化できるかなと思うくらいだ。
 手元の「ハタヨガの真髄」をめくっていたらこういう話があったのを思い出した。

ウッディーヤーナやムーラ・バンダを一人で試みるのは大変危険である。ウッディーヤーナ・バンダを誤って行うと、精液の放出を招き、活力が減退する。ムーラ・バンダも正しく行わなければ精力の弱い者はさらに弱くなる。ムーラ・バンダは正しく行ってもそれなりに危険性を伴う。性交時間を伸ばす効果があるので、濫用におちいりやすい。濫用の誘惑にまけると我を失い、潜在しているすべての欲望を目覚めさせて、棒で打たれた眠れる蛇のように致命的になる。

 「棒で打たれた眠れる蛇のように」というのがインドの歴史・文化とその蛇の神話を思うと含蓄が深い。
 そういえばアイアンガー先生はご存命なら九十歳近いのではないかと思ってネットを見るとウィキペディアに項目があった(参照)。ご健在のようす。八十八歳かと思う。八十八歳といえば、ヨガについてだが佐保田鶴治の「88歳を生きる―ヨーガとともに」(参照)という本があった。が、たしか彼は実際には八十八歳まで生きてなかったように記憶しているので、ネットを見る。「日本ヨーガ禅道友会」(参照)によると一八九九年生まれ一九八六年没。八十七歳だったようだが、享年は数えなので八十八としてもよいのだろう。彼は六十歳からヨガを初めてそして長命であったとは言えるだろう。
 そういえば彼のお弟子の番場一雄は何歳だろうとネットを調べて驚いた。「日本ヨーガ光麗会(お知らせ)」(参照)によれば三年前にお亡くなりになっていたのか。

番場一雄名誉会長の急逝と会葬のおしらせ
 番場一雄名誉会長が8月1日(金)に入院先の病院にて急逝いたしました。
 師は4月1日に名誉会長に退いた後、NHKおしゃれ工房出演の準備を調えつつ、17年間講師を続けてきた京都市シティーセミナーへ出講、海外視察など多忙な日を過ごしておりました。
 そうした中で、6月末に体調をくずし、入院加療致しておりましたが、8月1日午後6:10に心不全のためになくなりました。66才でした。

 私などから見ると野口晴哉ではないが人間六十歳くらいまで生きたらいいのではないかと思うが、社会通念からすれば六十六歳は若い死と言えるだろう。佐保田ヨガの第一人者が長命でなかったのかというのはアイロニカルな思いがよぎる。そして自殺した牧康夫のことを少し思い出す。
 連想で沖正弘のことを思い出したが、私の記憶では彼も六十四歳くらいで亡くなった。噂によればヨガ的な修行の最中であったというが、確かにあのころの沖ヨガはスーフィズムのようになっていたかと記憶している。奇妙にも思える荒行みたいなグループレッスンみたいのに参加していた若い人たちがいた。といっても私より上の世代で、松本智津夫などもそうした時代の空気の中にいた一人ではなかったか。あのヤングな人たちは今でも沖ヨガというのを支えているのだろうか。関心を失って久しい。
cover
あるヨギの自叙伝
 連想が続く。名著「あるヨギの自叙伝」(参照)で世界的に有名になったヨギ、パラマハンサ・ヨガナンダは六十歳に及ばず亡くなったはずだった。ウィキペディアの同項目(参照)を見ると、五十九歳だ。私は彼に関する旧跡を見にコルカタに行ったことがある。晩年の写真だろうが、その肥満は小錦を超えていたようだった。死因の実相はエルビス・プレスリー的なものかと思ったが、当地のインド人は人間の寿命は五十年だから長生きなのだという感じで説明していた。ヨガナンダのヨガ、クリヤ・ヨガはたしかその実態は特殊なプラナヤマだと思うのだが、ハタヨガのような身体実技は弟のムクンダが興した。彼も兄と同じく短命だったようにと記憶している。時代であろうか。

| | コメント (9) | トラックバック (1)

2006.09.22

安倍ジャパンになんとなく思う

 ネットから眺めている限り、あまり安倍晋三新総理の支持者というのは見かけないように思うがどうなんだろうか。朝日新聞社の世論調査では約六割が好感を持ったということのようだし、自民党内の支持などを眺めても、だいたいそんなところだろう。気になるのは男女差が目立つことだ。その朝日新聞記事”安倍新総裁「よかった」57% 本社世論調査”(参照)より。


 安倍氏の選出を「よかった」と思う人は男性52%、女性62%。自民支持層では85%に達するが、公明支持層では44%と与党支持者でも落差がある。安倍氏に親しみを「感じる」は男性51%、女性66%だった。

 単純に女性受けするという以上の意味がありそうに思うのだがよくわからない。こうした支持は何かのきっかけで逆転しそうでもあるし。
 安倍総理で今後の自民党がどうなるかということについては、この世論調査ではあまり変わらないとする人が多いようだ。「変わらないさ」という投げやりな思いと、「変わって欲しくない」という願望も多少あるのだろう。

 一方、安倍氏が総裁になって自民党が「よくなる」と思う人は17%、「悪くなる」は3%で、「変わらない」が70%と最も多かった。安倍氏のもとで、自民党改革はそれほど期待されていないようだ。

 小泉時代に自民党は変わってないと言えないこともないだろうが、単純に考えれば変わった。なので、この朝日新聞の問いかけと答えをどう受け止めていいのかは難しい。
 日本の外側からはどう見えているか?
 二一日付けのフィナンシャルタイムズ”Japan after Koizumi”(参照)ではこう評価していた。

Mr Koizumi's greatest achievements were not in foreign policy or in economic reform, but inside the LDP, where he undermined the influence of the old political factions and modernised the party to make it more fit to govern Japan. Mr Abe will be judged on his ability to build on this legacy. If he succeeds in accelerating economic reform and in restoring good relations with China, he will be a worthy successor to Mr Koizumi.

 小泉総理の業績は外交にも経済にもなく、自民党旧勢力の影響力を弱体化させた党内改革であったとしている。そして、安倍新総理がその遺産(自民党改革)を継ぎ、経済構造改革を進め中国友好に努めるなら、小泉時代を継いだと言いうるだろうというのだ。ほぉ。
 フィナンシャルタイムズが期待するように、安倍新総理の下で自民党改革が進むかどうかについては私は期待薄だが、期待したい思いもある。
 経済政策面では、フィナンシャルタイムズは小泉時代をそれほど評価しないふうでもあるが、安倍新総理にこんな提言もしているのが面白い。

Rather, Mr Abe should learn from Mr Koizumi's premiership that Japanese voters are better disposed to reforms than many LDP leaders and their friends in business and the bureaucracy. If Mr Abe is wise, he will follow the example of his predecessor - whose favourite economic troubleshooter was Heizo Takenaka, an academic and an outsider - by choosing his economic policymakers on the basis of talent rather than their standing in the LDP.

 小泉総理の流儀に習って経済政策には竹中平蔵氏のような専門家を自民党外部から登用せよというのだ。誰を選ぶかというのはいろいろ議論もあるだろうが、確かに日本の経済政策では専門家を選ぶほうがいいし、専門家となると学術面だけではなく米国との繋がりも求められるだろう。
 他、外交面では、フィナンシャルタイムズは米国メディアとは異なり、安倍新総裁をそれほど鷹派だとは見ていない。それどころか中国との関係修復に動く示唆もある。
 まあ、フィナンシャルタイムズの記事をぼんやり読みながら、概ね、参院選まで政策を日和っているようなら安倍政権の未来はたいしたことはないだろうと思う。では、実際どうなるのかと再考する。意外と小泉流とは違っていても、早々に衆目を驚かす手を出してくるのかもしれないな、経済政策面とかで。

| | コメント (6) | トラックバック (2)

2006.09.21

[書評]郵政省解体論(小泉純一郎・梶原一明)

 「郵政省解体論(小泉純一郎・梶原一明)」(参照)は一九九四年九月にカッパブックスで出版された本なので、もう十二年も前のものだ。

cover
郵政省解体論
 アマゾンを見ると、カバーのデザインを変えていまだ販売されているようだが、確かに今読み返してみても面白いし、今読み返す面白さもある。古本では一円よりともあるので配送手数料三百円程度で買える。たぶん、古本屋なら百円ではないだろうか。ついでアマゾンの素人評が二つあり、二〇〇五年の八月と九月に付いている。あまり参考にならなかった意見のようだが一つ引用する。

21 人中、1人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。
★☆☆☆☆ 置き去りの拉致問題, 2005/9/1
レビュアー: カスタマー
拉致被害者はどうでもいいのだろうか。
この本を読んで悲しくなった。
「世に倦む日々」というブログが上手く説明しているので
そちらも参考にするといいでしょう。

 そのブログには拉致被害者について上手に説明しているとのことなので覗くと”世に倦む日日 : 金英男の会見 - 韓国三大紙の日本右翼との結託は亡国の道”(参照)ではこんな意見のようだ。

以上の問題とは別に、この二日ほど考えたことは、ひょっとしたら横田めぐみは死亡していて、横田早紀江はそれを知っていて、娘の死を知っているからこそ、あのように強硬な態度をとっているのではないかという推測だった。本当に生存を確認していれば、あれほど強硬に北朝鮮との戦争を主張するだろうか。北朝鮮と日本が戦争を始めたら、真っ先に生命の危険が及ぶのは捕われの身の拉致被害者ではないか。横田めぐみの死を横田夫妻が知っていたら、という仮定を入れるとパズルが解けように理解できる。横田早紀江の本心は、愛娘の救出ではなくて報復なのだ。復讐が真の動機なのではないのか。

 こういう意見が参考になるのものなのか私にはよくわからない。が、本書にはあまり関係なさそうな気がする。なので、話を本書に戻す。
 本書でわかるのは、小泉純一郎という人は髪の色が変わったくらいで考えていることは十二年前からかわらんなということだ。そしてただ愚直に一念岩をも通すというわけでもなく、今読み返してはっとさせる発言もある。

小泉 そういう見方は必ずしも誤りではないですね。つまり、細川政権、羽田政権のときは、第一派閥の自民党が反主流になったんです。私は自民党のなかでいわゆる反経世会の構築をやってきた人間ですから、自民党が野党になってもうろたえなかったし、国民的な反自民感情はよくわかりました。旧連立の面々が反自民を構築したことは間違いない。
 とにかく、自民党から社会党まで、ほとんど差がなくなったわけだから、どういう組み合わせでもできてしまうんですね。
 だからこれは戦国時代と一緒なんです。織田、豊臣、徳川とあったわけですが、大して理念に差はない。どことくっついたら勝つか、あるいは排除できるかということが一面であることは否定できない。
梶原 ただ、普通、混乱期というのは短く、安定期が長いものです。もっといえば、これが逆になてもらうと国民は非常に困ります。
小泉 でも、四十年も自民党政権という安定期が続いたんです。そして、変化が訪れた。変化には混乱が憑きものなんですね。いまはその混乱期なんです。
梶原 しかし、いかんせん、混乱は長く続くと困る。
小泉 でも、五年や十年はこの混乱が続くのではないかな……。

 小泉政権がなぜ長期政権だったかと考えるとき、こうした冷徹なビジョンを最初から持っていたのだと考えると納得できてくる部分もある。さらにこういうビジョンも彼は持っていた。

小泉 これは厳しい問題です。その意味では、遅かれ早かれ、自民党は過半数を割らなければならない時期が来ていたのんでしょうね。もはや、どの政党も一党だけではみんなの支持は得られません。
 すべての有権者にいいことをやらなければならないとなると、どうしても無理が出てきますからね。
 だから、私はこういう場合、連立政権のほうが多くの仕事をできると思いますね。連立だと、一つの政党が過半数を取らなくてもいい。新しい方向を出しておいて、それで選挙に負けてもいいんです。
 ところが、一政党で過半数を取ろうとすると、うまいことをいおうとして、逆に何もできなくなってしまう。だから、どの政党も過半数が取れず、連立を組んだほうが大改革というのはしやすいと思います。したがって、今回の自社連立の村山政権には、国民のみなさんはぜひ、その点で期待してもらいたい。

 最後の村山政権のくだりは「極東ブログ: 「どこに日本の州兵はいるのか!」」(参照)を思い返すと苦笑せざるを得ないが、その後の公明党との連立を小泉がどう考えていたかはよくわかるし、今後の安倍政権を彼が内心どう見ているかもわかる。このあたりは勝負師というものの勘なのだろう。
 郵政改革の批判にもこの時点で見越していたふうでもある。

小泉 それはいままでやってきたことなんです。郵貯にしても必要だといわれれば、既得権がありますからね。そこで少しでも有利なことをやれば、国民の信用が背景にありますからね。
 こういう状況のなかで、細かい議論をすると、もう民間と境を接する分野がとめどなく広がっていってしまいます。専門家の枝葉末節の議論、商品の議論になってしまうんです。そうなると政治が介入する問題ではないというふうに議論がスリ替えられてしまうんです。
梶原 そういうところに議論がいってしまうと、基本的な問題が抜けてしまって、非常に危険なわけですね。
小泉 商品の話に踏み込んでしまうと、役人の仕事になってしまうわけだ。
梶原 政治家がはじき出されてしまう、と。そうするとやはり原則論が大切です。
小泉 混乱期ほど原則が大事なんです。

 転写しながら、これだけ心を固めて生涯の決戦に挑んだというのは並の人間ではないなとあきれてくる。小泉は誰かに操られていたと言う人もいるが、「第126回国会 逓信委員会 第6号」(参照)などを読み返すとなかなかそうも思えない。
 私は小泉純一郎という人が好きではない。政策もそれほど評価しない。ただ、政治家というものの一つの原型をきちんと示している点で、歴史に残る政治家だろうとは思う。

| | コメント (5) | トラックバック (1)

2006.09.20

フォートラン、五十二歳

 コンピューター史上最初の高級言語フォートラン(Fortran: Formula Translatorの略とされるが異説もある)が実行されたのが一九五四年九月二〇日と言われている。それから五十二年が経った。フォートランも五十二歳ということになるのだろう。
 フォートラン誕生の時刻は米国時間なので日本時間でいうとおそらく翌日の一九五四年九月二一日になると思うが、その頃日本はどうだったか。何か変わったことでもあったかというと、洞爺丸台風(参照)が発生した日だった。台風は日本では通し番号で呼ばれるのでそれでいうと台風十五号。英名ではMARIEだが真理絵を当てたものではない。日本列島横断のようすは”Digital Typhoon: Single Sequence View (Typhoon 195415 / MARIE)”(参照)に掲載されている地図を見るとわかる。山口県を二五日ごろ通過しているが東京にはそれほど影響はなかったようだ。
 二六日、日本海を経て北海道に再上陸。そこで惨事が起こった。北海道上磯町七重浜沖で洞爺丸が沈没。船体は裏返しになったという。死者千百五十五名。世界海難史上、死者千五百十三名のタイタニック号沈没に次ぐ惨事ともいわれる。なお、洞爺丸(参照)は一九四七年就航開始。国鉄がGHQの許可をえて建造した青函連絡船で、沈没の一か月前には昭和天皇北海道ご訪問のお召し船となったものだった。同台風では「北見丸」「日高丸」「十勝丸」「第11青函丸」も沈没。岩内町では大火により三千三百戸が焼失した。
 お隣の国韓国では一九五四年九月二一日は、一九四八年四月三日に始まった済州島四・三事件(参照)が収束した日ともされている。ウィキペディアを見ると、その後「完全に鎮圧された1957年までには8万人の島民が殺害されたとも推測される」ともある。またこう書かれているが日本人もよく知る事件ではあった。


日本による韓国併合以来、複雑な歴史背景によって本国の待遇が悪かった島民は、新天地を求めて日本へ移住あるいは出稼ぎに行き、併合初期に日本へ最初に来た20万人ほどの朝鮮出身者の大半は済州島出身であった。敗戦による「開放」によって、そのほとんどが帰国したが、この事件によって済州島民は再び日本などへ避難あるいは密入国し、そのまま在日コリアンとなった者も数多い。事件前に28万人いた島民は、1957年には3万人弱にまで激減した。

 あくまでウィキペディアの解説を元に仮に思うだけだが、八万人が殺害され三万人に残ったとして残る十七万人の内、どのくらいが在日コリアンとなったのだろうか。少なくとも数万の単位ではあるのだろう。隣国の一つの大きな事件の結果は一九五四年九月二一日ごろを目安に日本国の歴史にも関わってくるとしても不思議ではないだろう。
cover
白木蓮抄
花郁悠紀子
 一九五四年九月二一日生まれた著名人を調べてみると、漫画家花郁悠紀子(参照)がいる。ファンサイトは”花郁悠紀子ファンページ ~花に眠れ~”(参照)にある。このサイトによると、彼女は、「高校時代に坂田靖子主催の同人誌『ラヴリ』に参加、その後、萩尾望都の住み込みアシスタントとして上京」とある。夢を抱いた高校生の一人だった。漫画家として名を成すも一九八〇年胃癌により二十六歳で死去した。それからまた二十六年過ぎた。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006.09.18

農地改革メモ

 ぼんやりと戦後史のことを考えていることが多くなってきているのだがその一環で農地改革のこともときおり考える。農地改革については二つの思いが錯綜する。一つは学校で学んだ、なんというか農奴解放みたいなお話。もう一つは私の母方が庄屋の系統だったので近親者からの体験的な話だ。その二つが入り交じる。もっともそうした錯綜感は農地改革に限らない。私は基本的に戦後民主主義の申し子みたいな人なのでGHQによって日本は解放されたと原点としては考えるのだが、五十年近く戦後の後の日本人として生きてみると違和感は多い。
 農地改革について当然一時期の政策としては成功としか言えないだろう。だが、大局的には失敗だったのではないかという思いがあり、そのあたりをきちんと社会学的にまとめた書籍などないものかと探すのだが、知らない。ないわけもないだろうに。簡単に読めるウィキペディアの同項を読むと(参照)私が中学校時代に学んだこととさして変わらない話がある。


 敗戦後GHQの最高司令官マッカーサーは、寄生地主が日本の軍国主義に加担したとして農地改革を行った。
 当初、農地改革に対するGHQの姿勢は当初は消極的であったともいわれるが、当時の農相である松村謙三は貧農救済の立場を優先し、より厳しい改革を断行する(ちなみに松村自身の所有の土地も対象とされた)。
 これにより、地主が保有する農地は、政府が強制的に安値で買い上げ(事実上の没収)、小作人に売り渡された。これは、全国的に行われ実に7割余りの農地が地主から小作人のものにかわった。日本の農家はこれによって基本的に自作農となった。自分の農地になったことにより生産意欲が湧き、日本の農業生産高は飛躍的に増進した。

 GHQと日本政府側の関係について踏み込んで書かれていないが、概ね記述は嘘ではない。読売新聞”戦後体制 農地改革=下”(1998.12.25)には、当時の小作の体験談もある。

 山形県余目町の農業、池田利吉さん(75)は、その時に自分たちの農地を手に入れた。今も売り渡し書を大事に持っている。
 池田さんは二十五歳で農家の養子になった。聞けば、祖父は小作地さえなかった状態から、やっと一・五町歩(約一・五ヘクタール)を借りるまでに汗水流して働いたという。「田んぼを買い、家を建て、土蔵を造るのが夢だった。小作地が自分の家の土地になり、とにかくどの農家より収入を増やそうと頑張った」。池田さんは往時をこう振り返る。
 農地改革によって、農村経済は戦前と比べよくなった。一世帯あたりの年間所得でみると、五〇年が二十一万円だったのが、六五年には八十三万円に上がった。小作料の負担がなくなり、農機具への投資も増えた。生産性も旧農林省の統計によると、五〇年―五二年を一〇〇とすると、六五年には一六〇に上昇した。

 ざっと読むと農地改革の成果のようだが、所得の増加と生産性の向上が比例していないことに気が付く。記事はこう続く。

 機械化が進むにつれ、農村人口は減少した。総務庁の産業別就業人口統計で五〇年と六五年を比較すると、農業人口は全体の45%だったのが23%に低下し、対照的に製造業人口は16%から六五年には24%に増加した。農村から流出した労働力が工業地帯を支えた。大内力・東大名誉教授は「高度経済成長は、農地改革がプラスに作用したからといっていい」と総括する。

 これはいったいどうしたことだったのだろうか。小作が自作になることで収入が増えて万歳という光景ではない。むしろ農地が放棄されていく一端のように見える。この記事では農機具投資が増えたことが問題の端緒のようにも読めるがそもそも機械化した農機具を小規模自作農が分散して持つメリットがあったのだろうか。なにより、大内力の発言が私にはよくわからない。
 持論とまでまとまらないのだが、農地改革で実現されたのは高度経済成長に向かう労働者と消費者ということではないのだろうか。いわゆる看板の「農地改革」とはほど遠いのではないか。
 そうした思いのなか、先日ラジオで農地改革について、えっと思う話を聞いた。農地改革で開放された農地は一九四万ヘクタールだが、すでに二五〇万ヘクタールが改廃されているというのだ。単純に考えれば、農地改革は無駄だったということではないのだろうか。このあたり、冒頭述べたのように私の祖先の関連もありそうした思いも少し混じるのだが、小作たちは農地を転用とまで言うのは語弊があるかもしれないが、その子供たちの住居地に変えたりしていた。道路になって巨額の利を得た人も少なくない。農地が失われていくようすは私も見てきた。
 話は少しずれるのだが、農地改革はボトムでは農地委員会が実施してきた。これが一九五一年に農業委員会になる。以前「極東ブログ: 教育委員会は本質的に地域教育の点では欠陥組織」(参照)で触れた教育委員会のように農業委員会もGHQに起源を持つ組織と言っていいだろう。この農業委員会が現在も存在する。読売新聞社説”地方自治体 画一的な組織が問い直される”(2005.07.04)によるとこうだ。

 現在も市町村は農業委員会を原則設置しなければならない。農地がない、あるいは農地面積が一定の基準より小さい市町村は設置を免除されているが、全国の市町村の5・8%に過ぎない。
 全国に6万人近い非常勤の農業委員がいる。地方議会の総議員数並みの数である。年に約170億円(2000年度)の報酬が支払われている。
 農地の不正転用などに関与した農業委員が逮捕される例も少なくない。
 全国市長会は「業務処理件数の減少で形骸(けいがい)化したり、農家が少ないにもかかわらず、各戸の農地面積が大きいため設置している場合もある」として、選択制を主張している。地域の実情に応じ、弾力的な制度に見直す必要があるだろう。

 それから一年が経つが制度の見直しがあったようにも思えないし、社会問題としてさして取り上げられたふうでもない。が、たぶん市町村合併で農業委員会は全体には縮小しているのだろう。

【追記(2006.9.19)】
 bewaadさんより貴重な示唆をいただいた。ありがとう。

 ⇒農地改革の光と影 : bewaad institute@kasumigaseki(2006-09-19)(参照

 実はエントリを書きながら、「農地改革によって、農村経済は戦前と比べよくなった」とは経済学的に見て言えないだろうと思っていたが、そのあたりはきちんと述べることはできなかった。
 他、ご示唆の点については以下を含めて概ね納得できるものだった。


したがって、「農地改革で実現されたのは高度経済成長に向かう労働者と消費者ということではないのだろうか」との問いに対しては、農地改革で実現されたのは高度経済成長に向かう労働者と消費者の抑制であったと答えることができるでしょう。

 このエントリであえて曖昧に書いたのだが、私の関心は開放された農地の転換と富の創出の問題だった。農業委員会について後半で触れたあたりで、HPO:機密日誌さんのように問題点の匂いを嗅ぎわけられたかたもいらっしゃったが。

 ⇒HPO:機密日誌 - 成功した革命としての2.26事件(参照

 bewaadさんのご指摘の文脈では次の部分に相当する。


まず、日本の農地面積は2005年で約470万haですから(この数字は、日本の農地面積には、採草・放牧地等を含まないということなので、わざと低くなるよう農地を定義している気がしないでもありませんが)、農地改革で解放された194万haとその後改廃された250万haはまったく重ならないこともあり得、これだけで「農地改革は無駄だった」というのはいかがなものか、とジャブを。

 さしあたっての問題は農地改革で開放された194万haとその後改廃された250万haの重なり具合についてで、まったく重ならないという客観的なデータが出れば私の疑問はまったく解消する。おそらく、実態はかなりヘクタール単位でみるとそれほど重なっていないだろうと思うが、重要なのは重なった部分がどのように富に化けたかという点だ。
 単純に言えば、農地改革で事実上無料に近い金額で取得された土地が、農業委員会というしかけを介して、宅地や道路に転じさせることで発生させた富の問題だ。これは日銀が札を刷るかのようにあたかも無からカネが創出できる仕組みだったのではないかと思う。

| | コメント (22) | トラックバック (4)

2006.09.17

ギャップイヤーって制度化しているのか

 先日ラジオの話を聞いていて英国のギャップイヤー(gap year)についてあれれと思うことがあり、ネットを調べてみてへぇと思った。英国だと高校を卒業してから大学に入学する前に一年間と期限を決めて社会勉強とかすることがある。この期間をギャップイヤーと言うのだけど、私は個人的なというか家庭的な風習だと思っていた。が、ネットをざっと調べて見ると社会制度ってなことが書いてある。たとえば、三省堂の辞書には(参照)こうあった。


イギリスで 1990 年代から普及した制度で,利用する学生はこの間を旅行やボランティア,職業体験などで過ごす。

 すでに国が推し進めている制度っぽくなっていたのか。
 平成十三年九月の文部科学省委託調査「社会奉仕活動の指導・実施方法に関する調査研究」には次のような話があった。

 ギャップイヤーの利用者とっては、大学で何を専攻したいかの目的が明確になる等の効果があるとされている。ギャップイヤーをとった若者は、大学を中退する割合が少ない。イギリスでは、大学の途中退学者は20%程度いるが、ギャップイヤーを利用した若者に関しては3~4%に途中退学者の数が減ると言われている。企業も、ギャップイヤーによって様々な社会体験を経た若者を評価している。
 ギャップイヤー中の若者を支援するエージェント団体が数多くある。エージェント団体を通すと、出国前から帰国までの手続きを全部代行してもらえたり、適切なアドバイスをもらえたりすることができるため、多くの若者がこれを利用している。政府は優良なエージェント団体を22団体集めて協会をつくっており、そのうちの一つにギャップ・アクティビティ・プロジェクト(GAP)がある。

 よくわからないし、平成十三年というとニートという言葉もなかったわけだが、概ねニート対策っぽい響きがしないでもない。引用が長くなるが、続けてギャップイヤー支援の団体についても触れていた。

<GAPの団体概要>
■ 1972年に設立した。最も古く大きいエージェント団体である。
■ GAPの活動に対する政府からの資金援助はなく、活動財源は企業寄付が主である。
■ 約200人の現役を引退した高齢者が、若者のためにボランティアをしている。
■ ボランティアのほかに21人のフルタイムの有給スタッフがいる。
■ 年間に2,000件の申し込みがある。世界33か国に1,500人の若者をボランティアとして送り出し、21か国から600人のボランティアを受入れている。
■ ほとんどの若者が5~6か月のボランティア活動をしている。
■ 海外でのボランティア活動の内容としては、英語を教えることが最も多い。高齢者の介護や、孤児院や障害者を対象とした活動もしている。農業のボランティアや子どものキャンプの手伝い、環境問題を改善するたるのボランティア、病院ボランティアなど多様である。

 なんとなく日本でもそういう団体を作ろうという空気が読み取れるがこの報告書から五年が経った現在どうなのだろうか。
 英語のリソースを見ているといかにもというかガーディアンにFAQの特設ページ”Gap year special report”(参照)があった。最初の問い"Are gappers really the new colonialists?"がふるっている。「ギャッパーっていうのは新しい形態の植民地主義者じゃねーの?」ということで、行き先は第三世界とか旧植民地も多いのだろう。この答えは……Yesとある。洒落ているね。
 そういえば私が大学生のころは大学卒業に世界旅行とかいうのが流行っていたが最近はどうなんだろう、あまり聞かないが。そういえばのついでだが、大学の先生とかにはリーブ(leave)があったが、普通の企業でもリーブのような制度を設けてはどうだろう。そう呑気なこと言ってられないか。
 ネットを眺めていると、安倍晋三政権では若者を強制労働させるぞみたいな噂が飛んでいるけど、ギャップイヤーの変形みたいなものになるのだろうか。ちなみに八月三〇日産経新聞”首相主導で教育改革 安倍氏当選なら「推進会議」設置へ”(参照)にはそんな話はなく、こんな感じ。

 推進会議が設置されれば、安倍氏が主張する(1)学力の向上(2)教員の資質向上(3)児童・生徒が学校を選択し、自治体などが配布する利用券を授業料として納める教育バウチャー制度の導入-などが論議されるとみられる。
 同じく安倍氏に近い山谷えり子内閣府政務官は来賓あいさつで、「推進会議と国民運動の連携が望ましい」と述べ、教育再生に向けたネットワークが必要との認識を示した。

 ところで話が飛ぶが「安倍氏に近い山谷えり子」かぁ。山谷親平の娘だなぁとか思う私も歳を取ったもんだ。山谷親平は昭和五十九年に急性白血病で死んだ。六十二歳だった。若いなと思ったが私の父も六十二で死んだ。手塚治虫は平成元年の死で六十一歳だったな。人生短いといえば短い。生き急がず、ギャップイヤーとかも人生に数回あってもいいような気がする。

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2006.09.16

出産について聞いたこと

 先日文仁親王妃が出産を終え宮邸にお帰りになるというニュースがあったが、こうしたことは庶民の出産でも同じで、病気というわけではないが母親は産後一週間ほど入院する。別段どうという話でもないのだが、先日ラジオ深夜便でオーストラリアの出産事情について興味深い話を聞いた。出産後の入院だが出産後四日もすると病院ではなく高級ホテルに移ることもあるというのだ。もちろん夫も休暇を取り、三、四日、妻と新生児と過ごす。お祝いのシャンペンとかも出るらしい。病院とホテルでも連携はできているらしく、ホテルには常勤の看護師もいるとのこと。
 話を聞いてこれはいいんじゃないかと思ったし、日本とかでもやればできそうな気がするが、実際にはいろいろ規制があってだめなのだろう。

cover
笑う出産〈2〉
 そういえば以前まついなつきの「笑う出産〈2〉やっぱり2人目もおもしろい」(参照)を読んだおり(この本はもう手元にはないので記憶によるだが)、二人目の出産はいろいろ面倒見のいいホテルっぽい感じの病院を選んでよかったというのがあった。台湾でも出版された前作ベストセラー「笑う出産―やっぱり産むのはおもしろい」(参照)の印税でたぶん生活も潤っていたからリッチな選択もできたのだろうが、産後の母親の心理というのを知るのに面白かった。余談だが、まついなつきのこのシリーズは三男の「アトピー息子―笑う出産スペシャル」(参照)と続くのだが、大団円は「愛はめんどくさい」(参照)と見たい。連続して四冊読むとすごい感動する。
 オーストラリアの出産事情の話に戻ると日本と違うのは無痛分娩が多いというのもあった。けっこう安全に下半身だけの麻酔ができるようだ。そういえば以前米人の女性と話したとき、日本の出産は信じられないと彼女はいろいろまくしたてていたことがあったな。概ね彼女の言っていることが正しいのだろうと思った。
 文仁親王妃の出産は帝王切開だったが、そういえば沖縄暮らしのとき知人のシビリアンの妻も二子目は帝王切開ということになった。オリオンビールを飲み刺身を食いながら、手術では内臓を一旦全部出してという話を聞いていたのだが、その手の話がすげー苦手の私はちと吐きそうになった。が、彼は帝王切開なんてフツーだよという感じであった。
 彼からもひとくされ米国の出産事情を聞いたのだが、その話のなかにへその緒のカットをするのは父親の役割だというのがあった。血まみれの赤ちゃんが出てきて、ずるっとくっついているチューブをきらりと光るハサミを夫が持って切るというのだ……うっぷす思い出してまた吐きそうになった。
 そういえば、オーストラリアの出産事情でも夫は出産にずっと立ち会うのだそうだ。日本でも今ではそうなのか? 知らない。シビリアンの出産話では男子誕生の場合、ついでにちょんと割礼もするとか言っていた。ほんとかね。

| | コメント (10) | トラックバック (0)

2006.09.15

韓国の戦時指揮権問題

 日本時間一五日未明米韓首脳会談が終わり、日本国内のニュースサイトをざっと眺めるがあまり取り上げられていない。特に想定外のこともないからとも言えるが、今日に至るニュースでもこの会談についてはあまり触れられていないようだ。しかし、この会談で扱われる韓国の戦時指揮権問題は日本にとっても重要ではないかと思うので簡単にブログしておきたい。
 韓国の戦時指揮権問題は簡単にいえば韓国での有事の際に、その戦争の指揮権にどのように米軍が関与するかという問題で現状では米韓合同司令部が担っている。が、盧武鉉大統領は韓国の主権確立という名目で米軍の関与を排除しようとして、一二年までに戦時指揮権の返還を米国に求めていたところ、米側は前倒しに〇九年でよいという流れになってきた。盧武鉉政権としてはこの返還により韓国に対する米軍の支援が薄くなるわけではないと表明しているようだが、実際に米軍の関与は薄くなることに加え、後で触れる大きな問題が発生する可能性がある。韓国国内では指揮権の早期返還について軍関係者や識者の反対が強いが、韓国オーマイニュースなどから見る市民の意見は盧武鉉支持が多いようだ。
 共同ニュース”盧武鉉大統領、北朝鮮追加制裁に反対 米韓に溝”(参照)では標題のとおり、北朝鮮制裁として話題が仕立て上げられ、そのおまけのように指揮権移管問題について触れている。


 両首脳はまた、米軍が保持する有事における韓国軍の作戦統制権を韓国に移管する協議を積極的に推進する方針を確認。米側が2009年、韓国側が12年を主張する移管時期をめぐる調整については、ロードマップを作成する10月の米韓定例安保協議に委ねることになった。

 結局、指揮権移管が〇九年に決定したのかわからない。YONHAP NEWS”韓米「包括的接近案」協議に着手、6カ国協議問題”(参照)ではこう伝えている。

 戦時作戦統制権の韓国移管問題については、移管時期を含む具体的事項は来月行われる定例韓米定例安保協議会(SCM)で合意するとしている。ブッシュ大統領が政治的問題となることに懸念を示したが、宋室長はこれに対し「両首脳は基本的に安保と軍事問題が、合理性の欠如した政治的要素により決定されてはならないとの認識を同じくしている」と説明した。軍事当局間での実務的協議を経て立場を定めることが望ましいとの見解で一致したという。

 私の印象では盧武鉉独走がだいぶセーブされているという印象はもつ。韓国世論の影響もあるかもしれない。朝鮮日報”【統制権】韓国人「単独行使に反対」66% ”(参照)ではこの問題の世論調査を公開している。

 朝鮮日報と韓国ギャロップが11日、全国の成人611人を対象に行った電話世論調査によると、「アメリカと共同行使している戦時統制権を韓国軍が単独行使する」という政府の方針について「安保を不安にし、時期尚早なので反対する」という回答が66.3%と最も多いことが分かった。「主権に関わる問題で、自主国防能力があるから賛成する」という回答は29.4%にとどまった。「分からない・無回答」は4.3%だった。
 また、統制権を韓国が単独行使する場合、韓国の安保が「不安だ」(71.3%)という意見が、「不安ではない」(25.6%)という意見を大幅に上回った。このため「現政権では統制権単独行使に関する論議を中止し、次の政権で論議するべき」という意見についても賛成(71.3%)が反対(23%)を圧倒した。

 朝鮮日報だけの調査であればフカシがあるかとも思うが、韓国ギャロップを含めているのでそれほど外してはいないだろう。簡単に言えば韓国民の本音は戦時指揮権の移管について不安を抱いている。
 しかし、実際には、全体の米軍のシフトから考えて〇九年の指揮権返還となるだろうと思われるし、韓国もこれに対応していなかくてはならなくなるだろう。という意味はなにかというと、単純に言えば、韓国は自主的に軍事増強をしつつ(米国から武器購入を進めなくてはならない)、かつその反面で太陽政策を推進せざえるを得ないという矛盾を抱え込むことになる。
 しかし一番重要なことは、NHKの報道解説にあったが、現在の米韓合同司令部体制の場合、実際には米軍がトップに立つとはいえ、条約上米軍の活動は韓国政府の合意を必要とする点だ。これは、ある意味「統帥権」の歯止めのようなものでもあり、実際に米国クリントン政権の際の北爆決定について歯止めとなった経緯もある。が、指揮権の移管により、合同指令部は解体され、米軍は実際にはフリーハンドを手に入れることになる。悪く言えば、米軍は韓国を守る必要はなくなり米軍の都合で朝鮮半島で軍事活動が可能になった。あまり言うべきではないが米側の空気を読んでいると、在韓米軍はできるだけ朝鮮有事に受動的に巻き込まれる可能性を減らし米兵の損失を避けたいようでもある。
 余談のようだが関連のニュースを読んでいてネットとジャーナリズムの関係で興味深い話があった。朝鮮日報”【統制権】「12年前に朝鮮日報も賛成した」のか? ”(参照)より。

 今回の大統領発言より前から、大統領府と与党からは「過去には賛成していたメディアが、今になって反対している」との主張が上がっていた。
 盧武鉉政権寄りのインターネットメディアであるオーマイニュースも先月5日、「朝鮮日報は金泳三政権当時、社説などで戦時作戦統制権を還收する必要があると主張していたにもかかわらず、12年後に正反対の主張を行っている」と報じた。
 しかしこれは記事の一部分のみを取り上げ、全体の論旨を無視した解釈だ。

 興味深く思えたのは、オーマイニュースについてで、韓国の場合、オーマイニュースが報道社としての主張を持つのかという点だ。日本の場合、朝日新聞でも産経新聞でも社説があり社としての主張を持つのだが、オーマイニュースも同様なのかということは知らなかった。というのも日本のオーマイニュースを見ていると、設立時の田代砲の祝砲が消えてからアクセスは激減しており(参照)、「転電」と称して他報道機関のニュースを事実上コピペ(ただコピーして貼り付けるだけ)スペースというのと、ネラーとプロ市民の遊び場というふうな印象しか受けないからだ。
 と思って久しぶりにオーマイニュースを見たら多少改善しつつあるようだ。”「オーマイ速報」休止のお知らせ ”(参照)より。

 この度、オーマイニュースでは、「オーマイ速報」を休止することにいたしました。
 これまで「オーマイ速報」では、新聞各紙、テレビ各局など様々なメディアが報道するニュースを編集部でウォッチし、オーマイニュース読者の皆さまにお伝えしてきました。 
 しかし、今後速報ニュースをより良い形でお届けするため、9月13日22時30分をもって「オーマイ速報」をいったん休止し、一新することにいたしました。

 とかあるのだが、実際はさすがに「転電」というコピペはさすがにまずいでしょという背景があると思うので、そのあたりを記事していただけるといいのだが。
 というわけで、日本版オーマイニュースの「転電」と称するコピペ問題は解消に向かうとして、それで日本のオーマイニュースって何が残るのだろうとも少し思った。韓国オーマイニュースのように社としての主張が出てくるようになるのだろうか。その際は、是非韓国での戦時指揮権問題にも触れてもらいたい。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2006.09.14

[書評]田中角栄と毛沢東(青木直人)

 「田中角栄と毛沢東―日中外交暗闘の30年(青木直人)」(参照)という本がまさに題名の問題にとってどれほど重要な情報を提供しているのかよくわからないが、この問題について近年扱った書籍としては類書がないようだ。小学館あたりから出版されているならSAPIOみたいなものかと思うがちょっと左がかった講談社から出ている。が、それほどイデオロギー臭がするわけでもない。読書人なり歴史に関心を持つ人に特にお勧めというほどの本ではないものの、今朝の朝日新聞社説”歴史認識 政治家が語れぬとは ”(参照)を読みながらこの本のことを思い出した。話のきっかけは日中国交正常化について触れた朝日新聞社説のこのくだりである。


 外交とは、水面には見えない交渉が下支えしている。国交正常化の際、中国側はこの理屈で、まだ反日感情の強く残る国民を納得させ、賠償を放棄した。日本はそれに乗って国交回復を実現させた。

 朝日新聞はさも日本人だれもが共通理解を持っているかのように、日中国交正常化を下支えした交渉の存在を語っているのだが、それはそれほど自明なことだろうか。中国共産党政府による対日賠償放棄についても同じだ。なにより、「日本はそれに乗って国交回復」という背景についてどのように考えるべきなのだろうか。朝日新聞社説執筆子にはある強固な歴史解釈がありそれは明言しなくても日本国民はわかれ、というような印象だけをここから受ける。
cover
田中角栄と毛沢東
 「田中角栄と毛沢東」を読まなくても、まず対日賠償放棄の歴史的な背景は台湾問題とのバーターであったことは理解できるだろう。その一点だけでも、朝日新聞社説執筆子の史観には整合していないのではないか。すでに蒋介石は対日賠償を米国側の要請により放棄していた。あの時中共が対日賠償を蒸し返せばそうでなくても危ない橋を渡っていた田中角栄はどうなっていただろうか。いや、後の田中角栄の末路が早まっただけとも言えるかもしれないが。また、後の対中援助は実質的には賠償金の意味合いを持っていた。
 この背景について同書はこう触れている。

周は首脳会議で、国交正常化の見返りに日本側の懸案だった賠償金請求権を放棄すると示唆した。中国が最大のカードを切った目的は、日本と台湾の間に楔を打ち込むことだった。周は「内部講話」で、対日賠償請求権を放棄して日本に恩を売り、台湾との関係を切らせるのだ、と演説している。賠償は「友好」の美名のために放棄されたのではなかった。それは日本が台湾を見捨てることを引き換えにした取引だったのである。

 対日賠償放棄の問題は当初の日本側の最大懸念であったとはいえるかもしれないし、中国側の応答には水面下の交渉でも見えない部分はあったのかもしれない。だが、それは単純に友好を目指した水面下の交渉でなかった。
 中国の意図はどこにあったのだろうか。将来の中国の経済的な発展だっだだろうか。もちろん、それはある。だが、おそらく大枠は冷戦構造にあり、さらに中国とソ連の緊張関係にあっただろう。同書では毛沢東が田中角栄に次のように語っていたと伝える。

「あなた方がこうして北京にやってきたので、どうなるかと、世界中が戦々恐々として見ています。なかでも、ソ連とアメリカは気にしているでしょう。彼らはけっして安心はしていません。あなた方がここで何をもくろんでいるかがわかっているからです。」


「ニクソンはこの二月、中国に来ましたが、国交の樹立まではできませんでした。田中先生は国交を正常化したいと言いました。
 つまりアメリカは後からきた日本に追い抜かれてしまったというわけです。ニクソンやキッシンジャーの胸にはどのみち気分の良くないものがあるのです。」

 本当にそんなことを毛沢東は告げていたのだろうか。仮にそうであれば、毛沢東の意図は、対ソ・対米に日本を大きく使うということだった。そして、同書では毛沢東は中国の敵は中国の中にあるとまで言っているが、内政的な権力問題も関連した。
 田中角栄は、中国のある勢力にとってその表向きの失脚後も重要な意味を持ちづけた。中国の要人たちは目白詣を繰り返した。中国的な義の倫理行動でもあっただろうが、単純にそう見るだけで済むわけもない。そしてその交流を小沢一郎がじっと継いできた。
 田中の失脚にまつわる歴史にはオモテの歴史からは見えない部分が多い。だが、単純に考えれば胡耀邦の路線は日本の田中角栄から小沢に流れている。今朝の朝日新聞社説はちょっと読むと中国様が後ろでぷうぷうしているようにも見えるが、たぶん、胡耀邦を継いだ胡錦涛中国の思惑はそんなところにはないだろうし、むしろあの時の毛沢東の戦略に近いもののように思える。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006.09.13

レインハットとレインスティック

 小雨。秋霖。天気図を見るに秋霖前線といった感じだがそうは呼ばないか。週間予報では日本列島、来週も雨模様。長雨は秋の季語であったはず。秋湿りともいう言葉もあったか。忘れたな。
 夕飯に、そうだなママ・スパゲティでも食うかとなぜか思い、スーパーまで雨の中ちと歩くことにする。レインハットを被る。もうちょっと機能的なレインハットがいいのだがなといつも思う。気に入ったものが見つからない。機能的過ぎてダサ過ぎたりする。昔の西洋の映画に出てきそうな鐔広ものが欲しいのだが見かけない。フローグルとかで洋物を検索してもないみたいだ。スナフキンの帽子みたいのでもいいのだが……そうえばハロウィン用のがあったが実用的じゃないか。
 レインハットを使うのは傘が苦手だというのもある。傘の風情も嫌いではないし、傘そものが嫌いというのではない。好きなほうだ。私は若い頃少し気取った傘を大事に十年くらい使っていた。大切にしていたので紛失もしなかったのだが最後には無くした。悲しかった。そのころもう街中はビニール傘の時代になっていた。十五年くらい前だろうか。ビニール傘くらいでしのげる小雨ならレインハットでいいのではないか。と言いつつ便利なのでビニール傘を使うこともあるが、なんか奇妙にみじめな気分になる。
 レインハットは被るがレインコートは着ない。防水加工のウィンドブレーカーみたいのがあるのでそれを着る。けっこう派手な色彩なので自転車とか比較的避けてくれるような気がする。そういえばポンチョっていうものいいなと思う。昔ラテンなバックグランドを持つ知人がよく着ていた。今ネットを見るとポンチョって女性物なのか。どうなってんだ世の中。
 レインハットの連想でレインスティックのことを思い出した。私はレインスティックが好きで大きめのを持っている。
 レインスティックというのは雨音に似た音を出す木の棒。楽器なんだろう、これ。で、本当は木じゃなくてサボテンらしい。長さ一メートル、直径十センチくらい。棒の中には小石が適当な数入っていて水平に持ち傾けると、ざざざぁーっと、さささぁーっと、雨音のような音がする。中に入っている小石が空洞をころげて雨音のような音を出す。急速に傾けると土砂降り。その降りたる様や猫と犬。ゆっくり傾けると小雨。夜中とかに部屋を暗くして私は静かにレインスティックを傾ける。できるだけ長引くようにゆっくりゆっくり傾ける。異教の雨の神様にでもなったような気持ちになって。
 ネットを見るとレインスティックはいろいろ売ってるみたいだ。竹製のアジア物もあるが音はどうだろう。フェアトレードとかでも売っている。あまり安物は買わないほうがいいと思う、もしレインスティックが好きになりそうなら。

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2006.09.12

改正中心市街地活性化法施行、雑感

 先月二二日、改正中心市街地活性化法が施行された。まあ、施行されたからどうよっていうことであまり時事ネタでもないし、むしろ話題としては参院本会議で可決・成立した五月三一日のころだろ、などと考えているうちにさらにブログに書く時を逸する。
 そういえばこの話題、R30さんとこで読んだよなと検索すると、これだ、”郊外出店規制じゃなくて、中心市街地商店廃業強化が必要じゃね?”(参照)。え、昨年一二月? と読み直すと、大型店出店規制のまちづくり三法改正案のほうなので、ちと勘違い。とはいえ関連ない話でもない。
 まちづくり三法は、都市計画法、中心市街地活性化法、大規模小売店舗立地法ということで、いまいちよくわかんないのだが、地方の中核都市の活動をさまたげるかもの郊外型大店舗はだめよん、ということらしい。ほいで改正中心市街地活性化法ではさらに、中心市街地を活性化させる、イコール、シャッター街を復活ということ? ん? ま、とりあえず。で、こうした施策をコンパクト・シティというのだそうだ。
 先のR30さんとこの結論だと大型店出店規制については二点。(一)幹線道路沿いの方が商業集積として便利だから規制したから中心市街地に客が戻ってくることはない、(二)流通デベロッパーが中心市街地を開発しようと思わない。
 エントリを読むに、これに、(三)日本の地方は自動車しか移動手段がないが中心市街地はその自動車を吸収できない、というのも足していいかもしれない。
 オチはこう。


今市街地活性化のために本当に必要なのは、郊外の出店規制を再び強化することよりも、実は中心市街地にはびこる既得権益を取り除き、市街地での競争を激化させることのほうだと思う。

 ま、そうかなと思ったのがこのエントリが長く心にひっかかっていた理由なのだが。
 が、ちと問題の構図が違うのかなとなんとなくこの夏、あちこち歩いていて思った。
 それほど地方というわけでもないのだが、駅前近くというか駅ビルに病院とか歯医者が多いんでないかと思うことがなんどかあった。医者っていうのもこれからはもっともっとビジネスだから、当然中心街に出てくるんだよな。と考えていてさらに思ったのだが、コンパクト・シティというのは、店舗やシャッター街とかいう商業地域の問題というより、けっこう死活問題だよなの都市機能をコンパクトに集約するしかないだろ、ということだ。
 つうことで、今回の改正中心市街地活性化法だが、そういう公共リソース(病院とか集会所とか)を中心市街地に集約させるための補助というわけなのだろうが、現実、それ以外にしかたないんじゃないかという感じがする。実際には役場とその食堂と文具屋あたりから移動するんではないか。それにデイケアを移動すればかなり完成に近いか。
 町興しとかいうよりも、農村的な地域社会の再生は諦めて、さっさと中心街に人を移動させろっていうことなのか。特に若い世帯を中心街に連れてくるなりしないと学校システムも維持できないのだろうし。

| | コメント (10) | トラックバック (2)

2006.09.10

阿部謹也の死で思った

 阿部謹也(参照)の訃報を聞いた。七一歳だったとのことなので、報道通り急性心不全なのだろう。書架を見ると「ハーメルンの笛吹き男」(参照)も「中世を旅する人びと」(参照)もない。ニューアカ関連の本と一緒にごそっと捨ててしまったか何度かの引っ越しでこの手の本はがさばるから処分したか。自分はアカデミックな人生を歩むことはなかったが、今の歳になって読み返すといろいろ思うことはあるかとぼんやり思った。

cover
ハーメルンの笛吹き男
伝説とその世界
 と、書架の新書のところに阿部謹也の文字があった。「いま「ヨーロッパ」が崩壊する―殺し合いが「市民」を生んだ」(参照)である。阿部の講演部分を読み返した。昨晩なんとなく読んでいた別の本との連想で少し物思いにふけった。

 NHKでも田中角栄という人が訴えられたときとたんに、容疑者になりました。それまでは「前首相」とか「元首相」と言っていたのが「田中容疑者」と言いはじめた。
 日本語には「ミスター」とか「ミス」「ミセス」という言葉がありません。あるのは「さん」「君」あるいは「氏」なので、これらは何につくのかと言うと、ども世間のなかでの位置につくらしい。
 ここのところはきちんと分析する必要がありますが、これらの言葉は人格につくものではない。人格につくのなら「宮崎勤氏」とか「田中角栄氏」としなければならない。なんの犯罪も証明されていないし、最終的な判決を受けてもいないわけですから、いや、もし判決を受けて死刑囚になったとしても、人格はあるわけですから、やはり「氏」とか「さん」がつかなければならないと私は思います。

 これだけ読むとちょっと屁理屈みたいだし、阿部の著作に馴染んでいる人ならまたかの「世間」論ではあるだろう。「世間」というのはこんな感じ。西洋の旅では名前も聞かず市民の会話があるという文脈ではこう。

 しかし、日本の場合だとそれでは落ち着かないわけで、相手がどこの誰かを知りたい。「会社はどこですか?」とか、どうしても聞きたい。若い諸君は「大学はどこですか?」なんて野暮なことは聞かないと思いますが、やはり聞きたいという気持ちはどこかにあるでしょう。聞くと安心する。相手の素性が知れるからです。日本人は社会に住むことに慣れていないので、そういうことを聞かずにはいられないんです。

 この部分の最後の一部はちょっとネット論とかブログ論にも関係するかなと思ったがそこには突っ込まない、と。
 話を日本の「さん」「君」に戻す。昨晩「危機の日本人」(参照)の看羊録のところを別のことを考えながら読んでいて、奇妙に気になっていたことがあった。戦国時代日本の捕虜となった朝鮮人儒者姜沆は日本の社会についてこう言っている(訳文)。

「〔倭人は〕互いに号を称ぶのに、あるいは『様』といったり、あるいは『殿』といったりします。関白から庶人に至るまで、これを通用させております。夷狄〔倭〕の等威(上限の区別と威厳)のなさはこのようであります」

 これに山本七平はこう続けている。

 長たらしい称号は用いず、相手を名前で呼ぶことを失礼と考えたりせず、大体「様」「殿」だけですますのは秀吉の時代からつづいて来たわけで、これは現在でも同じだが、外国ではこういかない場合があり、「教授・博士」といって称号をつけないと非礼になる国もある。だが日本ではこの場合もすべてひっくるめて「先生」でよく、現在では「先生」「様」「殿」だけで十分である。まことに今も昔も「等威のなさ」は同じで、これは呼称の平等主義とでもいうべきかも知れぬ。
 姜沆はこれが実に奇妙に見えたらしい。

 阿部の指摘も姜沆の違和感も日本の内側からはあまり気が付かない日本の社会=世間の特徴ではあるのだろう。
 そういえば、このところ皇室の話題が多く、メディアのアナウンサーたちも訓練は受けているのだろうが、慣れない敬語を使っていて面白い。かく言う私も天皇家に関連する敬語はよくわからん。天皇家という言い方がすでに間違っているし、「天皇」とはそもそも諡で、庶民的な対比で言えば「居士」の部類だろう。「今上陛下」というのもちょっと違和感あるし、辞書に「今上天皇」の項目があるのもあれれではある。そもそも「今上」は「きんじょう」「きんしょう」「こんしょう」か。五家宝は「ごかぼう」が正しいが「ごかほう」でもいいのではないか云々。
cover
危機の日本人
 このあたりはあれだ、日本人は実際には血統なんかないのに血統意識を天皇家に投影するのと同じような仕組みで、敬語や尊称など実際はないのに天皇家に関しては美しい日本語を守りたいみたいなものなのだろう。そういうものが文化なんだろうし、そういう文化になにが潜むか阿部謹也は考えていた。
 ふと思い出したが、昔私はヨガを学んでいたが、インド人のお師匠さんから、本当のヨガを学ぶならインドの言葉も学びなさいと言われたことがある。はぁと答えるくらいの若造だったが、お師匠さんはそれから独り言のように、しかしインドの言葉は敬語が非常に難しい、と呟かれた。真のヨガを学ぶには聖者に跪いておみ足に接吻するだけの西洋人もどきではだめなのだろなと思った。

| | コメント (9) | トラックバック (0)

2006.09.09

サンフランシスコ講和条約についてのメモ

 結局私は苫米地英人の本は全部読んでいる……あ、違うな、「大好き!今日からのわたし。 ~愛される心とからだををつくる秘密の呪文集」(参照)は読んでいない。というかその続きで「脳と心の洗い方 『なりたい自分』になれるプライミングの技術」(参照)もパスでいいかなと思ったが、書店で見かけたのでぱらっと見ると最終章にサンフランシスコ講和条約の話があったので買って読んでみた。

cover
脳と心の洗い方
「なりたい自分」に
なれるプライミングの技術
 興味深いといえば興味深い指摘があるのだがどう評価していいかよくわからない点もある。批判というわけではないが、そのあたりをちょっとメモしてみたい。

 そこで実際にSan Francisco Peace Treatyの英文原文を読んでみますと、条約が効力を発する翌年四月二八日をもって終戦を宣言する第一条(a)に続く、独立を認めたとする第一条(b)の文面は、"The Allied Powers recognize the full sovereignty of the Japanese people over Japan and its territorial waters. "となっています。これは、日本語訳では「連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する」と訳されています。
 訳文は確かに「日本国」の独立を認めた文言にも読めます。ところが、原文はJapanese peopleと小文字でpeopleと言っているのであり、これは「日本人」「もしくは日本の人たち」と訳すべきでしょう。「日本国民」と訳すのは誤訳です。

 とあるのだが、私はこれは「日本国民」でいいのではないかと思うし、英語の場合はpeopleの冒頭文字を大文字することで意味を変える慣例も文法もないはずだ。
 続いて、苫米地はsovereigntyは「自治」という訳語がよいとして。

 ですから、「連合国は日本の人民による日本とその領海の十分なる自治を認める」程度が本来の翻訳でしょう。

 とするのだが、私はあまり違いがわからない。ただ、これに続くJapanについての認識は興味深い。

条約のJapanは「日本国」ではなく「日本」と訳すべきところを、日本語訳のほうで、「日本国」という独立国が認められたかのような訳し方を意図的にしているだけです。
 少なくとも、主権国家の定義である「国内統治権」と、「対外主権」の二つのうち、半分の統治権しか認められていないことは間違いないでしょう。

 この対外主権(最高独立性)についての苫米地の指摘はそうかなという感じもする。
 話はもう一点ある。

 驚くべきことにサンフランシスコ講和条約の最後の一文は、こうなっています。"DONE at the city of San Francisco this eighth day of September 1951, in the English, French, and Spanish languages, all being equally authentic, and in the Japanese language. " この一文を発見して私の正直な感想は「やられた!」です。もしかしたらこのことに気がついた日本人は五五年たって私が最初ということなのでしょうか?

 苫米地の指摘は、この条約の正文は英語、フランス語、スペイン語の三語のみであって、日本語は参考とされているだけだというのだ。そして苫米地訳をこう付けている。

訳せば、「一九五一年九月八日にサンフランシスコ市で成立した。英語、フランス語並びにスペイン語各版において全て等しく正文である。そして、日本語訳も作成した」と書かれているのです。

 どうなのだろうか。私の拙い英語の感覚だとそうは感じられない。むしろ、対日条約なので、英・仏・西が同一でこれに対して日本語版があるというように思える。ちなみに、この訳文は衆議院で正文として承認されているようだ。
 関連して、少し長いのだが、これまでの極東ブログの内容にも関連するので。

 一九五一年九月七日に吉田茂主席全権は、サンフランシスコ講和会議でのスピーチで以下のように語っています。"It will restore the Japanese people to full sovereignty, equality, and freedom, and reinstate us as a free and equal member in the community of nations." sovereigntyを「主権」という言葉であえて私が訳せば、「これにより日本の人々が主権を十分に取り戻し、平等と自由を回復するものであり、私たちを世界の民族のコミュニティに自由で平等な一員として再参加させるものである」ぐらいになるでしょう。
 スピーチを通して英文で示唆されているのは、日本の人々は、帝国主義より軍部に取られて失っていた主権を、この連合国との条約のおかげで取り戻すことができたので、世界のコミュニティに参加できるようになります、という意味合いです。

 苫米地のこの解釈は多少正確ではないのではないか、と思うのは「軍部」ではなく「政府」に取られていたという点だ。また、「取られていた」というのも貸借の関係にあるはずだ。これについては「極東ブログ: 試訳憲法前文、ただし直訳風」(参照)や「極東ブログ: 日本憲法は会社の定款と同じ」(参照)を参照していただきたい。
 苫米地はさらに次のように考察しているが、この点については妥当だろう。

 ところがこれが、そうではなく、当時の内閣は「連合国の占領から、この条約で日本国が独立国家としての主権を取り戻した」といった意味合いで訳し、国会に報告しています。これも誤訳です。吉田茂首相のスピーチを全文読みましたが、文章からアメリカ人によって書かれたものであることは明らかで、その日本語訳を吉田茂首相は読み上げただけというのが真相です。米国側公文書館の資料ではそう記録されています。

 余談だが、小林よしのり関連と言っていいのか、一部でサンフランシスコ講和条約第一一条の訳が問題になっているようだ。

Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan, and will carry out the sentences imposed thereby upon Japanese nationals imprisoned in Japan.

 承認された訳は次のとおり。

日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。

 目下の話題は、judgmentsの訳語が「裁判」であるのは誤訳で「諸判決」とせよということらしい。私は日本語として「裁判」には「裁判結果」が含まれるのだから、たいした違いが感じられないが、ようは極東国際軍事裁判の判決は受け入れたが、その裁判自体を受け入れたわけではないと小林よしのりなどは主張したいらしい。よくわからないのだが、極東国際軍事裁判の正当性をすべて日本国は受け入れたはずだということへの反対論のようでもある。
 私にはそうした議論の重要性がよくわからない。いずれにせよ、この第一一条だが。

第十一条 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない

 ようは、極東国際軍事裁判所の判決によって執行された刑について、日本が主権を回復したからって勝手に執行取りやめとかするんじゃないよ、というだけのことではないのか。とすれば、受刑者の存在しない今、もう終わった話ではないかと思うが。

| | コメント (16) | トラックバック (2)

2006.09.07

中国の新破産法

 中国はすでに共産主義とは言えそうにないが、それでも資本主義なのかと問われるとどう返答していいかわからない。専門家はどう答えるのだろうか。政治体制としては明確に民主主義とは言い難い。強い統制的な政治体制のなかで資本主義が機能するものなのかも私にはよくわからない。もっとも日本がその成功例だったじゃないかと言うなら皮肉なのか事実なのか判断が難しい。いずれにせよ、歴史はものすごい圧力で進展していく。
 そうしたなか、中国が本当に資本主義に近くなるのだなと感慨深く思えたのが、新破産法の導入だった。先月二十七日中国全国人民大会常務委員会で新しい企業破産法が圧倒的多数で採択された。ネットではFujiSankei Business i.”中国/破産法成立で国有企業ピンチ 外資の投資意欲優先(2006/8/30)”(参照)が詳しい。


 中国の国会にあたる全国人民大会(全人代)常務委員会がこの27日、企業破産法を賛成157票、反対2票、棄権2票で採択した。金融市場の対外開放を視野に、銀行など金融機関に関する規定が盛り込まれたほか、破産法の成立で、企業が破産した後の清算手続きが明確になる。これまで破産にあたって特別扱いされてきた国有企業の従業員も同法によって処遇されることになる。(上原隆)

 破産法自体は中国にも以前から存在していたが、四十三条の簡素なものであり、しかも裁判所が破産宣言するのではなく、行政機関が行政の一環として実施するものだった。計画経済の一端としての規則のようなもので、悪く言えば政治的にどうにでもなるものだったのではないか。また、国有企業対象の四十三条の破産に関する法律外に国有企業外企業に適用する法律もあったらしいが十分には機能していなかったようだ。今回の新破産法によって国営企業も私企業すべて一括化される。銀行や金融機関も含まれることになる。
 全体的には今回の新破産法の成立は中国のWTO加盟の影響と見てよく、国際ルールに馴染むものになっている。破産は裁判所の管轄になり、社長の責任や民事賠償なども問われる。
 中国の内政的には労働者の保護が問題になるかもしれない。先の記事でもそこにポイントを当てていた。

 新破産法の成立で、10万社ともいわれる不採算の国有企業が破産宣告を受けた場合、従業員たちの処遇が従来とは大きく変わることになる。

 十万社というと大きな数だが破産整理の速度はそれほど早くは進まないだろう。昨年までに整理されたのが三千六百五十八社だが、向こう二年で二千社程度らしい。斬新的な改革であることはその影響力が本質的であればしかたがないことだろう。
 今回の破産法の成立によって、企業経営の透明性が増すと見なされているし、「外資の投資意欲優先」ともされている。だが、投資に見合う担保を明確に評価する作業などで外資投資が難しくなる面もあるだろう。こう言うと悪口のようだが、従来は国営企業の破産は行政の管轄だったので要人とのコネなども担保の部類だったのではないか。中国ビジネスは人脈が鍵とも言われてきたが次第にビジネス・ルールも変わるのだろう。
 新破産法の施行は来年の六月ということでまだ間があるし、施行後の動向を見ないと実際のところどうなっていくかはわからない。
 こうした資本主義のルール整備を見れば中国も世界市場に調和して変わっていくものだなと思うが、本当に変われるのだろうか依然疑問にも思える。清算された国有企業からあふれた労働者は外資による私企業で吸収せざるを得ないのだろうが、そううまくいくものだろうか。

| | コメント (16) | トラックバック (1)

2006.09.06

近代天皇家と新井白石

 文仁親王妃、男のお子さまご出産、おめでとうございます。

 お子さまの皇位継承順位は、第一位皇太子、第二位文仁親王に次いで第三位となる。たぶん、この順で皇位が継がれていくか、あるいは皇太子の次となるかだろう。
 何年先のことになるかわからないが私はもうこの世にいないだろう。が、この慶事を聞いて私なども日本がそのころまで中国に飲み込まれることもなく存続していたらいいなという仄かな希望を覚える。
 テレビなどから見る日本庶民の喜びのようすは遠い親戚の本家の世継ぎが出来てよかったという気持ちのように受け止められる。もともと日本の庶民にはごく例外を除けば血統意識がなくあっても実際には家名の継続があるだけである。つまり、家の財産のシステムでもある。
 これで皇室典範改正は見送りになるだろうし、一世紀近くは女帝の登場もないということになるのだろう。私個人としては、「極東ブログ: 英国風に考えるなら愛子様がいずれ天皇をお継ぎになるのがよろしかろう」(参照)にも書いたように次第に女帝容認という流れになるかと思っていたが、そうはならないだろう。
 近代日本人は明治時代以降に意味付けられた日本歴史の意識のなかに生きているせいか、天皇家が古代から首尾一貫して続いていたような幻想を持つが、とまでは言ってはいけないか。いろいろ意見もあるだろうから。ただ、紆余曲折はあった。
 ネットを見ると橋爪大三郎の東工大講議「尊皇攘夷とはなにか 山崎闇齊学派と水戸学」(参照)のレジメがあり、そこに江戸時代の天皇家について簡素に書かれている。


 当時の天皇家は、山城の国の一領主。法的に幕府の支配下に置かれていた点は、浅野家の赤穂藩と変わりません。もし、天皇を絶対視し、その確認不能な「意志」を自らの志として行動する人間が出現したら? 赤穂義士の場合と同じで、それを肯定するほかないでしょう。幕末には、薩長や水戸藩ばかりか、幕府も会津も、国中が尊皇を旗印にするようになります。そういう雰囲気が、攘夷の主張(外国に侵略されるのは、政治的な正統性が誤っているからだ)と結びついた結果、尊皇攘夷思想→倒幕運動が成功したのです。

cover
現人神の
創作者たち
 これは山本七平が「現人神の創作者たち」(参照)で示した史観であり、これを小室直樹が受け止めその弟子の橋爪大三郎に影響した。
 この史観についてはこのエントリでは触れないが、この「当時の天皇家は、山城の国の一領主」ということ今回の皇統断絶の危機を救った男児をぼんやり考えながら、新井白石のことを少し考えていた。現代日本人にも新井白石のような合理主義的な考えをする人もいるだろうが、いても、どうしようもないか。いやどうだろうか。
 江戸時代中期の政治家新井白石はその時代、既存の宮家はすでに皇統と縁が遠くなりつつあったこともあり、皇統の断絶を懸念して閑院宮を創設した。ウィキペディアの同項目にはこうある(参照)。

皇統の断絶を危惧した新井白石は、徳川将軍家に御三家があるように、皇室にもそれを補完する新たな宮家を必要との建言により、享保3年(1718年)、霊元上皇から、直仁親王に閑院宮の称号と1000石の所領を下賜された。 こうして、寛永2年(1625年)の有栖川宮が創設されて以来の新宮家誕生となった。

 閑院宮を創設したのが新井白石だ、という表現でよいのか微妙なところがあるにせよ、概ねそう言っていいだろうし、この創設ということはつまり千石の所領を与えるということ。形の上では徳川家が与えたというわけでもないが実際はそう見てもいいだろうから、つまり、閑院宮というのは千石の新藩主に近い、たぶん、かなり。ちなみに私も武家で祖先は江戸時代そのくらいあったかなと思うのでその規模の領主の経世について親近感がある。
 白石の予感は当たり、後桃園天皇は安永八(一七七九)年在位中崩御。二十二歳。子は内親王のみ。女帝を立てず、新設閑院宮家より養子を迎え光格天皇として即位させた。余談だが現在の皇室典範では養子はできない。
 光格天皇についてはウィキペディアより「北摂箕面の春夏秋冬」という個人サイトの「光格天皇についてのメモ」(参照)が機微を簡素に表現している。

(2)傍流から養子に入り女帝に育てられたとか聞きますが?
 後桃園天皇が22才で没した時、皇子がいなかったので、急遽、当時9才の閑院宮師仁親王が、後桃園天皇の養子となって践祚したのが光格天皇です。
 傍系から来たために周りの人々から軽く扱われましたが、母代わりとなって養育した後桜町院が、人から軽ろんぜられないためには学問をしなさいと導き、彼もまた、周囲の軽視をはね除けたい一心で、猛烈に勉強したようです。

 この「一心」がなにをもたらしたかというのも興味深い話題だがそれはさておき、この光格天皇から、仁孝天皇、孝明天皇と続き、明治天皇となる。

chart

| | コメント (36) | トラックバック (2)

2006.09.04

マヨネーズの正体

 マヨネーズの正体は、卵、油、酢、塩、コショウということだが、ざっくり言えば、それは、油である。作ってみると、げ~それはないんじゃないのというくらい油を使うことがわかる。ケーキを作ってみるとげ~それはないんじゃないのというくらい砂糖を使うことがわかるのと同じだ。あるいはクッキーを作ってみるとわかるけどげ~それはないんじゃないのというくらいバターを入れるのがわかるのと同じだと言ってもいい。人生の真実を少しずつ理解し、なぜ世の中にデブが多いのかがわかってくる瞬間である。なんの話だったっけ。マヨネーズ。

cover
Multi Chef
スティックミキサー
 マヨネーズは簡単にできる。ただし、バーミックスタイプのハンドミキサーがないとどうだろう。ネットを眺めると泡立て器だけでできるという人がいるし、外人とかでもちょこちょこっとうまく作っている人がいるが、私は小型兵器がないとだめだった。ミキシングに「ウィクス」というのがアタッチできるタイプのミキサーならOKだと思う。
 問題は、マヨネーズの本質が油だということで、まず、原料をカップに入れるとこんな感じ。不味そうとか言うんじゃないよ。

photo

 まず全卵を一個カップにそっと入れる。黄身がくずれないように。卵は常温に戻しておくのがポイント。これに塩コショウをちょっと入れる。写真がなんかきたないっぽいのは写真がへたというはなしとして塩コショウがそう見えるのだ。
 ほいで、油を二〇〇CC入れる。コップ一杯。つまり、この写真はほとんどが油ということ。油の下に申し訳なく卵が潰れている感じなのだ。
 これをうにょ~っとミキシングするのだが、これにはちょっとコツがある。コツはたぶんミキサーのマニュアルに書いてあると思うのでここでは詳しく説明しないが、最初静かに黄身の部分から混ぜていくこと。混ぜ上がるとこんな感じ。つまりマヨネーズ。

photo

 これに酢を大さじ一杯程度入れてさらに攪拌する。慣れれば簡単にできるようになる。

cover
ニッポン全国
マヨネーズ中毒
 まあ、話はそんだけのこと。できてみるとマヨネーズなのだが、その正体はほんと油なのだ。だから、新鮮な卵を使ってますとかよりも油のほうを意識したほうがいい。「ニッポン全国マヨネーズ中毒」(参照)ではマヨネーズについて単に油の取りすぎで味覚が変になるというくらいしか書いてないけど、問題は油の質だと思う。
 マヨネーズ買うなら油の品質で選ぶべき。っていうか買うより作るのを薦めたいけど。

| | コメント (15) | トラックバック (4)

2006.09.03

岸信介とA級戦犯

 今年の夏は小泉総理の靖国参拝を巡ってA級戦犯の話題をよく見かけた。A級戦犯について私は関心ないとまでは言わないのだが私の関心は昨今の騒ぎとは若干ズレたところにあり、またそのズレについて説明するのも億劫な気がしていた。日本と限らないのだろうが文化戦争(参照)的な状況においては議論は二極化し是非だけが問われがちになる。というより現時点では文化戦争的な枠組みでのA級戦犯議論にあまり意義を感じない。
 A級戦犯についてウィキペディアの同項目(参照)を覗いてみると、当然というべきかあまり情報はない。冒頭はとりあえずは適切な説明であろうと思うが。


A級戦犯(えいきゅうせんぱん)とは、第二次世界大戦の敗戦国日本を戦勝国が裁いた極東国際軍事裁判において「平和に対する罪」について有罪判決を受けた戦争犯罪人をさす。起訴された被疑者や名乗り出たものを含む場合もある。刑の重さによってアルファベットによってランク付けされたものではない。近年はA項目戦犯という呼称もされている。

 これだけでは曖昧なので補足的な説明が続く。

詳細な定義
極東国際軍事裁判所条例の第五条の(イ)の以下の定義
「平和ニ対スル罪即チ、宣戦布告ヲ布告セル又ハ布告セザル侵略戦争、若ハ国際法、条約、協定又ハ誓約ニ違反セル戦争ノ計画、準備、開始、又ハ遂行、若ハ右諸行為ノ何レカヲ達成スル為メノ共通ノ計画又ハ共同謀議ヘノ参加。」
を犯したとして、極東国際軍事裁判によって有罪判決を受け、戦争犯罪人とされた人々を指す。

 この記述は当然間違いではないのだが、同種の説明を含めて、このような説明で十分なのだろうかという疑問を持つ。

なお、A級のAとは、同条例の英文 Charter of the International Military Tribunal for the Far East において同条(イ)が (a) となる事に由来する分類上の名称であり、罪の軽重を示す意味は含んでいないが、当該裁判では侵略戦争の開始は一番重い戦争犯罪と解釈され適応された刑も重かった(極東国際軍事裁判の被告人のうち、松井石根は同裁判の判決においてA級に該当する犯罪容疑では全て「無罪」とされており、A級戦犯ではないとする説もある)。

 これも概ね間違っているというわけではないのだろうが、結局のところA級戦犯とは何かというと、「極東国際軍事裁判によって有罪判決を受け、戦争犯罪人とされた人々を指す」という結果論になる。この点はいわゆる左派・右派とも同じ理解が成立しているようだ。
 しかし、どのような基準でA級戦犯として起訴されたについては結果論からはわかりづらい。実際の極東国際軍事裁判においてどのようなプロセスで特定の人々が起訴されたかを考察しないとA級戦犯の意味ははっきりしてこない。結果論として有罪となった人ではなく、どのような人がA級戦犯起訴となったのかがまず事実・歴史認識として問われるべきだろう。
 この点で重要なのは「当該裁判では侵略戦争の開始は一番重い戦争犯罪と解釈され適応された刑も重かった」ということで、実際的には極東国際軍事裁判では戦争開始の決議を導いた責任者がまず問われていた。
 ウィキペディアのこの項目の執筆者たちが先のように記しながら、実際にはこの点ついてそれほど十分に了解していないのかもしれないという印象を私が持つのは、「極東国際軍事裁判の被告人のうち、松井石根は同裁判の判決においてA級に該当する犯罪容疑では全て「無罪」とされており、A級戦犯ではないとする説もある」という補足があるからだ。この補足は不要で、松井石根はA級戦犯ではない。
 松井石根についてはウィキペディアで別項目(参照)があり、そこではきちんと彼がA級戦犯ではないと書かれている。

 松井は東京裁判で起訴されて有罪判決を受けたが、「a項-平和に対する罪」では無罪であり、「b項-戦争犯罪、c項-人道に対する罪」で有罪となったため、厳密にはBC級戦犯である。しかし、世間では東京裁判が日本の戦争犯罪人を裁く裁判として強く印象に残っていること、東京裁判は「a項-平和に対する罪」によって有罪判決を受けた被告で殆ど占められたために「東京裁判の被告人=A級戦犯」という印象が強く、松井石根がA級戦犯であるという誤った認識が浸透している。

 いずれにせよ松井石根はA級戦犯ではないので、仮に靖国神社がA級戦犯を所謂分祀なりをしても彼は該当しないのだろうし、それには逆説的な意味合いを含む。
 キーナン首席検事の起訴状では容疑の対象期間は昭和三年一月一日から昭和二十年までとされているし、実際の裁判過程は広範囲に及び複雑なので、私には強く言う自信はないが、概ね、極東国際軍事裁判は太平洋戦争という犯罪の共同謀議についての裁判であり、実際のところA級戦犯の容疑とは、太平洋戦争の開戦決議に関与する点が問われていたと考えるとわかりやすい。
 同じ意味合いで先月十五日読売新聞社説”[終戦の日]「『昭和戦争』の責任を問う」”で次のように開陳されている議論もA級戦犯容疑をそれほど考慮してなかった印象を持つ。

 また、同じく「A級戦犯」で、終身刑の判決を受けた賀屋興宣蔵相には、日米開戦時の閣僚だったという以外の戦争責任は見当たらない。しかも、開戦には反対していた。

 実際上A級戦犯容疑は、戦争によって日本人や他の諸国の人々に被害を与えたがゆえにその責任が問われる者という倫理的な意味合いより、実際にはもっと形式的で、太平洋戦争開始の決議を導いた責任者がまず問われていると見てよさそうだ。
 この点についての一つの重要なケーススタディとなるのが岸信介である。「岸信介」(原彬久・岩波新書赤368)(参照)では、岸信介の獄中の状況や審問について触れた後、この問題について次のようにまとめている。

そもそもA級戦犯容疑者が起訴ないし不起訴となったその分岐点の一つは、太平洋戦争開始前にもたれた日米交渉(第五章)に関連して対米開戦の国家的意思決定に彼ら一人ひとりがどうかかわったかということであった。いま少し具体的にいえば、当時の最高政策決定機関たる大本営政府連絡会議、とりわけ対米開戦を決定した昭和一六年一二月一日の連絡会議(御前会議)に出席したかどうかが、国際検察局(IPS)の最大の関心事であったということである。したがって、商工大臣岸信介もまたこの点をIPSから厳しく追及されたことはいうまでもない。

 基本的にA級戦犯の容疑の核心は、昭和一六年一二月一日の御前会議に出席したか、ということとしてよいだろう。そしてその文脈での犯罪とは、その開戦の意思決定にどれだけ強く関与したかということになる。
 話が少しそれるが、この開戦の意思決定をおこなったのがつまり政府である。「極東ブログ: 試訳憲法前文、ただし直訳風」(参照)で日本国憲法をあえてベタに直訳したがそこではこの関連がこう描かれている。

and resolved that
 またこう決意した、

never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government,
 その決意は、政府の活動が引き起こす戦争の脅威に二度と私たちが見舞われないようにしようということだ、


 日本国憲法のロジックでは、日本国民は政府の活動が引き起こす戦争の脅威に見舞われたことになっている。そしてこの政府の活動とは、極東国際軍事裁判のA級戦犯を考えると、昭和一六年一二月一日の御前会議の決定とそれに続く活動とするのが案外素直な解釈であろう。太平洋戦争の責任は日本国憲法のロジックでは日本国民にはなく当時の日本の政府にあったことになっているし、この政府とはA級戦犯のことと言えるのではないか。

| | コメント (13) | トラックバック (0)

2006.09.02

[書評]岸信介(原彬久)

 「岸信介」(原彬久・岩波新書赤368)(参照)は一九九五年に小冊子ふうの岩波新書として出たものなので、その後の研究を含めてバランス良く、かつ研究者以外が読んでも理解できる他の岸信介論もあるのかもしれない。なお本書には「極東ブログ: 下山事件的なものの懸念」(参照)で少しだけ触れたハリー・カーンへの言及は明確にはないようだ。

cover
岸信介
権勢の政治家
 とはいえ同書に優る岸信介論を私は知らない。著者原彬久は「岸信介証言録」(参照)の著者でもあり生前の岸に直接触れていただけあってその人間的な洞察は岩波新書にも反映されている。
 岩波新書「岸信介」は岸の生い立ちから青春期、戦前の満州時代、戦中、戦後とバランスよく描かれている。ただ、今日的な課題からすれば、安倍晋三の祖父というだけではなく、安倍晋三がどのように祖父の意思を継いでいるかが問われるところだろう。
 話を端折るが岸が設立に関わる自由民主党が元来どういう党是の政党なのかというと改憲政党であった。読売新聞”自民党50年 時代と共に変革”(2005.11.22)より。

 1951年9月、吉田首相はサンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約を締結し、「軽武装、対米協調」路線を明確にした。これに反発した鳩山一郎氏、岸信介氏らは54年11月に「対米自立、自主憲法制定」などを掲げて日本民主党を結成した。55年10月に左右両派社会党が再統一し、危機感を覚えた保守陣営から保守合同の必要性が叫ばれ、自由党と日本民主党が同年11月に合同して自民党が誕生した。党政綱には「現行憲法の自主的改正をはかり、占領諸法制を再検討し、国情に即して改廃を行う」と明記され、自民党は吉田路線の是正という形で出発した。

 なお、この自民党の改憲路線は一九九五年に変更された。河野洋平総裁時代に護憲を掲げる社会党への配慮から、結党以来の党是である自主憲法制定は自民党基本文書から削られたことになっている。
 戦後の改憲への意思は岸など第一世代では強く意識されたものの、実弟佐藤栄作の時代では事実上改憲を遠ざけていた。岸にはこれに強い違和感があり、その先に政治活動への復帰が意図されていたことが同書に記されている。

岸はとくに池田、佐藤両内閣が意識的に「憲法改正」を遠ざけていることにきわめて強い不満をもつようになる。注目すべきは、ここで岸が、「非常に後退した」改憲機運を再び盛り上げるために密かに政権復帰の道を模索したことである。岸はこういう。「もう一遍私が総理になってだ、憲法改正を政府としてやるんだという方針を打ち出したいと考えた」(岸インタビュー)。彼によれば、みずからが再び政権をうかがったのは、昭和四七年に終息した佐藤政権の「次」である。「割合(首相を)辞めたのが早かった」し、「まだ年齢も七〇いくつで元気だった」から、「密かに政権復帰を思ったことは随分あった」というわけである(同前)。

 昨今では中曽根に見られるような老人特有の妄言と読むことができるが、この時代を顧みると図柄にはやや異なった印象が出てくる。佐藤栄作政権後、田中角栄政権が二年ほどで終わったのだが、これを立花隆=文春ジャーナリズム的には、田中政権=カネの亡者の巨悪のように捉えることになっている。が、陰謀論めくという留保を明確にするが、田中後の三木武夫時代の動向を見ると田中の失脚には岸的なものの復権を阻止するという図柄がなかっただろうか。もっともその線を濃く出すならダグラス・グラマン疑惑が先行していたかもしれないのだが、当面は田中の除去もありそこに岸の影もあったのかもしれない。

 しかし、岸のこうした政権復帰への思いが政治舞台に具体的な波紋を呈して現実の政局を動かしていったという形跡はない。

 現在の歴史考察からはそのようになっている。
 岸は田中をどう見ていたか。その前に岸と福田康夫の父っつあんの関係がある。

それよりも、彼が佐藤政権の後継首班として実際に推したのは、福田赳夫である。岸内閣のとき福田に政調会長、幹事長を歴任させ、最後には農相のポストに就けて終始その政調に手を貸してきた岸は、政権を離れてからは岸派を福田に譲ってなお彼を支えてきた。

 岸が後継させたかったのは福田康夫の父っつあんのほうだったというのは、今日では忘れやすいことかもしれない。

その福田が四七年七月の自民党総裁選挙で田中角栄に完敗したとき(田中二八二票、福田一九〇票)、岸の落胆ぶりは、長女(安倍)洋子によれば「見るに忍びない」ものであった(『私の安倍晋太郎―岸信介の娘として』)。

 この「わたしの安倍晋太郎―岸信介の娘として」(参照)の著者安倍洋子は安倍晋三のおっ母さんである。ちなみに、晋三の父っつあん安倍晋太郎は安倍寛(参照)の息子であり、気風は安倍寛に似た印象を持つ。読売新聞”憲法改正は当面考えぬ/安倍氏強調”(1987.10.03)では、総務会長時代の安倍晋太郎はこう言っている。

 自民党の安倍総務会長は、二日、都内のホテルで記者会見し、安倍氏の政権構想では触れていない憲法改正問題について、「党の綱領では自主憲法制定をうたっており、憲法をよりよいものにするという立場から常に勉強し、研究するのは大事だと思う」としながらも、「(改正問題は)現実的な政治のアプローチとしてとらえていかねばならない。例えば(憲法改正を)政治日程にのせるなどと言うべき時ではないと思う」との考えを表明した。

 なんとなく息子晋三が言いそうな雰囲気でもある。
 話を岸と安倍洋子に戻す。田中角栄を岸はどう見ていたか。

 「なぜ田中さんではいけないのか」と洋子が尋ねたとき、岸はこう答えている「田中は、湯気の出るようなカネに手を突っ込む。そういうのが総理になると、危険な状況をつくりかねない」(同書)。


岸は田中を評してこう言う。「僕をしていわせれば、田中は幹事長もしくは党総裁としては第一人者かもしれない。しかし総理として日本の顔として世界に押し出すとなれば、あの行動を含めて、やはり教養が足りない。柄が悪いね。……総理ということになると、人間的な教養というものが必要だ。(岸インタビュー)

 じゃ岸にはそれほど教養があったのかよと脊髄反射的に突っ込みをするとしたら阿呆だ。あったのである。
 ……エントリとしては少し長くなりすぎた。当初、同書の関連で岸と戦犯の問題についても触れたいと思ったが別の機会に。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2006.09.01

イランの年代別人口構成を眺めて悩んだ

 評論家田中直毅が最近イランに行き現地の経済学者たちと懇談したという話を朝のラジオでやっていた。これはきっと微妙な形でイラン擁護をぶちかますのだろう。ワクテカ。手品のようなお話かな、と耳を傾けた。
 枕はもちろん昨今のウラン濃縮関連。続いて日本や世界はイランの国内社会・経済を考えましょうと来た。で? イランの経済は国際社会から排除されている、と。ほぉ。それが一九七九年の通称ホメイニ革命後二十六年も続いている。国際決済システムがないし米国の金融も入らない。民間航空機の部品すらまともに買えない。外人向けホテルでクレジットカードすら使えない。ほぉ。でインフレだ、と。そういえばもう十年以上も前だが私がトルコに行ったとき紙幣の数字の桁に驚き、トルコ現代経済の歴史をちらと調べたことがあった。インフレっていうのはすごいものだなと思った。
 イランがインフレだと聞いても発展途上国ってフツーそんなものかなと思っていたのだが、田中が言うにそうではない、と。現代世界では発展途上国のインフレが少ない。世界経済の連動が先進国のインフレ抑制を通じて発展途上国にも及ぶらしい。ふーん。ところがイランは世界経済から隔離されているのでそうはいかず、インフレ率は二十パーセントを上回るらしい。その関連で失業率も高い……で話はよかったか。与太話とまではいかないが、いい味出してきたぞと思っているとちと意外な話に転換。
 ホメイニ革命後イイ戦争があって、イランでは産め世増やせよということだったらしく、出生率が高まったとのことだ。それで現在二十歳までで総人口の半分を占めるらしい。三十歳で総人口の三分の二。すごいな。当然そこに失業問題が直撃するわけか。田中の話はそれからイランの閉じた国内の金融政策に移る。イランでは預金者金利も貸出金利も政府で操作・調整しちゃえということをやっているそうだ。ここは笑いのポイントだよな。とりあえず笑っておこう、ふふふココリコは面白いなと話は終わる。
 田中の話を聞いた後で、なんとなく気になったのはイランの人口構成だ。本当にそうなのだろうか。米国国勢調査局のIDB Population Pyramids(参照)で調べてみた。余談だが、このページで各国の人口構成を見ると面白い。

photo

 米国国勢調査局の今年の推計は田中の話とぴったり合っているわけではないが、大筋合っていると見てよさそうだ。が、グラフを見ていて気になったのだが、十五年くらい前からがくんと落ちている出生率の意味はなんだろ? これはどうみてもイイ戦争(参照)の終わり(正確には停戦)の影響と言ってよさそうだが、戦争が終わると出生率が落ちるものなのだろうか。それとこういう人口構成の国は一般的に今後どういうふうになっていくのだろうかとしばし考え込んだが、わからない。
 田中の話は嘘とまでは言わないが各方面の思惑もあってフカシだろう。イラン経済の現在はもっと微妙だ。端的に言えば、年間六百億ドルのオイルマネーで政府側はじゃぶじゃぶしている。ニューズウィーク日本版8・16/23”間違いだらけのイラン政策”ではこう伝えている。


 テヘラン市内のショッピングセンターに群がるティーンエージャーを見ると少年の髪形は両側を長く伸ばしたダックテールで、少女たちは派手なサングラスにエリオ・ブッチで決めている。若者たちはコーラを飲み、iPodで音楽を聴き、衛星テレビで違法に受信してジェニファー・ロペスやマドンナに熱狂する。

 そんな風景らしい。

 何よりもいいのは、原油価格の高騰による収入増で社会の隅々まで潤っていることだろう。テヘラン市街では、あちこちで高層ビルの建設が進んでいる。

 ニューズウィークとしてはイラン政府がオイルマネーで国民を買収しているというわけだが、じゃあ国際社会はこの国にどう向き合うべきかとなるとはっきりしない。
 他国のあり方について間違っとるとか言うことはできないのだが、どうもイランについてはその人口構成も含めて、なにか基本的なところで考え直さないといえないのではないかという気がすごくする。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

« 2006年8月 | トップページ | 2006年10月 »