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2006.08.27

無門関第十四則南泉斬猫を愚考す

 洒落たことを書く意図はないが、時折「無門関」(参照)第十四則南泉斬猫を思う。


南泉和尚、東西の両堂が猫児を争うに因んで、泉、乃ち提起して云く、「大衆、道得ば即ち救わん、道得ずんば即ち斬却せん」。衆対無し。泉、遂に之を斬る。晩に趙州外より帰る。泉、州に挙似す。州乃ち履を脱して頭上に安じて出ず。泉云く「子、若し在らば、即ち猫児を救い得たらん」

 古来難関とする所。私はわかったような気がしたことがあるが、今の気持ちとしてはとんとわからんな、いかれてるな南泉、と思うくらい……とまで言い切らないが、これを「異類中行」と呼ぶのであればむかつく。南泉斬猫を喝破し「異類中行」に一喝すべき禅師も日本いなかったじゃねえか。十年前によ。あのときに、いなかった。末法とはかくのごとし。という感じだがこの問題にはどうしようもなく暗いものがある。
 禅の世界ではこの公案にいろいろ言う。だが私はなんか変だな、猫かわいそうじゃんというあたりで抜け目のない州のごとくにはあらず、我もまた泉に叩き斬られる身の上となる。凡夫であるからな。南無南無、とすべきか。ただ私は仏法をそう見なかった。
 私は自然に道元を慕うようになった。南泉斬猫について禅師の語りように優しさを覚えるからだ。「正法眼蔵随聞記」(参照)で、懐弉が如何是不昧因果と道元に問うコンテキストで、道元は南泉斬猫を語り出す。なぜなのか。もちろん道元の答えはおそらくパーフェクトというものだろうが、私は懐弉の心の動きのドラマに惹かれる。彼は私のようにたぶん子猫のことが気になっていたのだ。

弉云く、是れ罪相なりや否や。云わく、罪相なり。弉云く、なにとしてか脱落せん。云く、別別無見なり。云く、別解脱戒とはかくの如を云か。云く、しかり。亦云く、ただしかくの如きの料簡、たとひ好事なりとも無らんにはしかじ。

 漫談を聞いてる趣もあり、なんのこっちゃという感じもするので、長円寺本(参照)を見ると岩波面山本とは違う。ありゃま。「別別無見なり」じゃなくて「別、並ビ具ス」だ。無見をいかに受け取るべきかよくわからんが、仏行と罪相並ビ具スというのはおだやかではないな。というかもともと南泉斬猫がおだやかならざるお話。
 悟りなんぞ私はとんと関心がないのでその辺りはスルーするとして、「ただしかくの如きの料簡、たとひ好事なりとも無らんにはしかじ」がよい。禅師の心の優しさがここにある。いかなる理屈があろうとも子猫を殺すんじゃねえよと。
cover
無門関
 懐弉も納得したのではないだろうか。というか、このメモワールは懐弉の禅師の心根の優しさを忍んだものではないかと私は思う。
 悟りなぞいらぬ禅師がいっらっしゃれば……まさにその禅師のありようが悟りそのものと懐弉に思えたのではないか。

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「雑記」カテゴリの記事

コメント

>南泉斬猫を喝破し「異類中行」に一喝すべき禅師も日本いなかったじゃねえか。十年前によ。あのときに、いなかった。

いませんよ。これを解ける人はめったにいません。無門関の中でも難関で、なにしろ提唱を読んでも著者によって解釈がばらばらなんですから。これが趙州狗子とか百丈野孤だったらまだばらつきはないんでおそらく、難易度は最高なんでしょう。

>いかなる理屈があろうとも子猫を殺すんじゃねえよと。
これは正しい「理屈」なんですが、だから話は元に戻っちゃうんですよ。
「だったら、今、同じ状況下に置かれた場合、お前さんどうするんだい?」
南泉和尚が今、眼の前にいて猫を猫質にとっていた場合、さてどうすればよいのか。というのがこの公案を考える際の目安です。これを過去の出来事だとか、紙の上に書かれた単なる問題だとは考えてはいけません。かわいそうだと思うならどうすればよいのでしょうか?


投稿: F.Nakajima | 2006.08.27 23:31

 ここ見てる全員が頭よくて学があるわけじゃないだろうから、ある程度解説(&現代風読み下し)込みにすると宜しいかと。
 そこに多種の解釈が紛れ込んで話がおかしくなるんであれば、そういうもんだって注釈すればいい訳だし。
 あーでも全員が頭よくて学があるわけじゃないからそんなことしたら余計混乱しますかねどうですかねどうでもいいですねハイどーも。ばーかばーか。

 通勤途中に毛虫を見つけても踏むのがイヤでわざわざ減速・徐行する私に「子猫を殺すな」なんて愚問ですなあ。
 そういうのは理屈と現実を分けて考えちゃダメですよばーか。言即行やんあほー。出来ん馬鹿が話難しくしとるだけですがなくそー。アレですよばーか。酸っぱい葡萄ですよあほー。自分に出来んもんやから難癖憑けとるだけですよくそー。難癖憑けられてふと考えちゃったらその時点で負けですよばーか。
 ばーかばーか。

投稿: ハナ毛 | 2006.08.28 08:21

そもそも公案ってのは悟りを得るための道具でしかないわけで、その人なりの理屈、正解しか無い物なんじゃないの。
素直な馬鹿にはすらっと解けて、学があると思い込んでるひねくれ者には解けない。
その証拠に愚衆の代名詞であるハナ毛はちゃんと解けてるじゃないか。

投稿: うps | 2006.08.28 10:34

南泉和尚は趙州和尚によって救われたか、ということが気になります。「あのときお前がいればなあ」という南泉の悔やみが見えてとれます。
道元禅師の言葉も、その本意はいかにして南泉和尚を救うかにあるのではないでしょうか。(F.Nakajimaさんも御同様)

『随聞記』ないのですが
「私がその場にいたら『南泉和尚、猫を殺さないで下さい』というね。」
といってから「罪」の話に行くのではなかったでしたっけ。
いかん、うろ覚えだ。

タヒチの猫を殺す先生は、何を悩んでいるのか。「小説家だからって特別だと思うな」と罵倒する人は、坂東さんを救う言葉を探すべきだと思いました。
私の場合は、「好き嫌いにかかわらず猫を飼うな。」です。

「異類行中」(猫の気持ちになってみる)については、考え方としてはありじゃないかと思っています。現実の問題をとくには手遅れかもしれませんが。

投稿: mori | 2006.08.28 20:10

「かわいそう」というのは、お前の主観でしかない。
自己愛の投影だ。
おごり高ぶっている自分に気づけ!

というわけで、子猫を谷に投げ捨てればOK。

投稿: 眞砂子 | 2006.08.29 06:53

>罵倒する人は、坂東さんを救う言葉を探すべきだと思いました。

わしを救うだとぉ、100年早いわい。

投稿: 眞砂子 | 2006.08.29 07:12

I do not brake for a frog.

投稿: Mr X | 2006.08.29 22:59

これって何かを考えている間は答えなんて見つからないと思います。
ただ頭の上に靴が乗っている。意味なんてありません。
それを一言で言い表せないから趙州さんは靴を頭に乗っけたのではないでしょうか?

投稿: えいいち | 2006.10.31 00:21

 無門関14節 南泉斬猫を考察する。

 無門関は禅を学ぶ弟子たちへの問題集であるから、解釈の間違いに気づくことによって、禅のより
高いステージに至ることを出題者は考えていると思われる。物語になっていても実際にそのことがお
きたということではなく、例題を出されただけだ。解を導くロジックを分析すれば、禅をどのステー
ジで理解しているのか、明らかになるというわけだ。ロジックと現代の知識で解を見つけてみたい。

 まずはじめに、南泉和尚も趙州も大衆も猫も、お芝居の出演役者で狂言廻しは無門和尚である事。
従って猫は実際に切り殺されたわけではない。猫を斬ろうとして片手でぶら下げるなど不可能だ。
猫についての仏性あるやなしやとの設問なら、無門関第1節で犬についての公案が提示されている。
出題者の心理を読むなら、14節を解いてより難解な1節に回帰すると考える。
第1節では犬に仏性なしと趙州は答えているが、第14節で、その解は見出せるのだろうか??
 
 斬り殺される対象が人間であるなら、南泉は弟子たちによって刀を取り上げられてしまっただろう
猫であるが故、殺されようとしたり、見殺しにされるのは、猫に仏性を認めないということになる。
猫を斬るポーズだけで、弟子に禅を伝えることは可能であったのに、命を奪ってしまう南泉の思い上
がりを趙州が言葉で諌めるなら、南泉と同じ思い上がりの立場に至るので、草履を頭に載せて南泉の
増長慢を指摘したのだろう。南泉は、弟子に追い越されてしまっていることに気づかない師というも
のを代表しているのかもしれない。 ならば、趙州がいれば猫が助かったというのは、南泉の負け惜
しみになる。

 世に許しがたいのは禅坊主の思い上がりで、心の安心を売る商売人のくせに、世の厄介になってい
る自覚が無い。芸者さんは、お行儀を覚えないで座敷に出ることはないが、行儀の悪い禅坊主は少な
くない。 仏性というものを商売道具にして金を稼いでいるのが禅坊主なら、猫の仏性も、有ったり
無かったりのご都合主義になってしまう。 従って第1節において趙州が犬に仏性なしと喝破したの
は、仏性というものの見方が、釈迦を含めた人間側の商売道具になっていることを知るからだ。
 従って第1節、犬に仏性なしとは、仏性を商売にして、もてあそぶなという意味になる。
殺される猫は、形而上的に人知の及ばぬ仏性そのものとなり、禅坊主により仏性として認知されるが
ゆえに殺されるとは酷な話で、禅坊主が仏性を認知しなければ殺される意味も存在しなくなる。
 故に 犬に仏性無しとは、われ等に犬の仏性を語る資格が有るかとの問だろう。

 猫の仏性とはなんだろう。 人類が地球に誕生し、食物連鎖の頂点に立つ直前まで地上の支配者は
猫族だった。猫族は人間を洞察している。犬も及ばぬ知恵を持っていることは猫を知る者には良くわ
かる。 犬とは格が違うのだ。 猫は貪らず、人を憐れみ、人を害さず、人の隣人として平和に暮ら
している。 人間は猫の境地に至ることさえできていない。 猫に話しかけてみれば、人間の
下心など簡単に見破られてしまう。 人間が猫族から地上の支配権を奪い取ってから、まだ5000
年しか経っていない。 洞穴を住居にして身を守っていた人類は、猫族の支配を受けていたのだ。

投稿: ちょろ | 2008.12.09 18:41

 無門関14節 南泉斬猫を考察する2

 動物界から抜きん出て、繁栄している、人間という種は、群れ集団が発展して、文明社会を構築し
文化という個人領域を持つに至っている。古代国家の成立以来の、社会システムを管理する一部の組
織と管理される側とでは、流れている情報と価値観は異質のものだ。
 支配される側からは、支配しているシステムは認知できないという状況が、国家という集合体がで
きあがった当時から連綿と続く支配の構図だ。
 その中で、宗教の役割とは、人間という動物の凶暴な行為を止めさせる洗脳の役割を果たしてきた。
さらに宗教者が文化レベルで哲学を究めようとする場合のインカムの部分で、衆生から金を得る手法
も併せ持つ。支配者からのお手当てだけでは哲学の独立性を守れないのがその理由だろう。
 ありていに言えば、人間の社会とは、人間と、大多数の人間の皮をかぶったサルの集合体なのだ。
南泉の話を聞いて、無言のまま頭に草履を載せた趙州の行為は、未だサル状態の弟子をいたぶったり
するなということかもしれない。
 猫という動物は人間の隣に居て5000年経過している。日本の猫同士のコミュニケーションも補
助言語として日本語が使われていると思われる。英国の猫は英語を理解し英語をしゃべると思われる
人間とは声を出す声帯の構造が違っているので聞き取るのは難かしいが、よく、人に話しかけている
無論、人間の言葉を理解していることは、言うまでもない。

投稿: ちょろ | 2012.03.27 17:02

無門関14節 南泉斬猫を考察する3

 人間の社会は、古代国家の成立以来、支配するものと支配されるものに分かれており、情報と文化
は、異質のものが流れている。支配の構図を理解したうえで、中国渡来の禅は、お殿様側に採用され
た臨済禅、ご家来衆に採用された曹洞禅と、分けることができるが、特徴は自力本願だ。
 被支配階級は、おおむね、念仏宗で、教義が易しいのは、貧乏人から金を集めやすいこと、自立、
ラジカルになられることが、支配側に不都合であったことと、無関係ではないだろう。
 無門関を解く鍵は、表教義の無門関で触れていない事柄に気づくところから始まるのではないか??
  
   生まれては みな死ぬるなり おしなべて 釈迦も達磨も 猫も杓子も  一休宗純

   人魂で行く 気散じや 夏の原   北斎

   南泉は 置いてけ堀で 鎌を磨ぎ  ちょろ

 


投稿: ちょろ | 2012.06.08 16:43

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