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2006.08.31

下山事件的なものの懸念

 安倍晋三政権がほぼ確実という流れになってきた。私は安倍晋三は評価しない。父っつあんの晋太郎みたいにきちんと外交の仕事とかしてきたわけでもないのにというのが理由。つまり評価しようがないというのがより正確。経歴を見るにあまり頭もよさそうでもないが、それを言うなら森喜朗とか鈴木善幸とか指三本とかなので特に言うまい。この間の官房長官としての仕事はというとそう悪くもなかった。経済面での発言などを聞くに、ブレーンの説明を理解しているようではある。うまく人を使える人なのかもしれないが、そのあたりは蓋を開けてみないとわからないところはある。
 個人的に気になるのは、祖父岸の亡霊が出てくるってことはないのかというあたりだ。先日安倍晋三が統一教会に祝電したと左翼っぽい感じの人たちが一部騒いでいたが、率直に言って君たちそんなことも知らないでこれがネタだと思っているのとか驚いた。昭和の歴史が忘れられて久しい光景なのだろう。祝電問題自体はそれほどどうというほどでもないが、それでも関係は続いていたのだろうなとは思った。
 岸の亡霊ということで、なんとなく気になるのは、うまく言葉になってこないが下山事件的なもので、これがまさに戦後の亡霊みたいなものでもある。下山事件自体についてはウィキペディアの項目(参照)に簡素にまとまっている。


下山事件(しもやまじけん)とは、第二次世界大戦敗戦後の連合軍による占領中の1949年(昭和24年)7月5日、時の日本国有鉄道(国鉄)初代総裁・下山定則(しもやま さだのり)が、出勤途中に公用車を待たせたまま三越日本橋本店に入り、そのまま失踪、15時間後の7月6日午前零時過ぎに常磐線・北千住駅―綾瀬駅間で轢死体となって発見された事件。事件の真相が不明のまま多くの憶測を呼び、「戦後史最大の謎」と呼ばれる。また、同事件から立て続けに発生した三鷹事件、松川事件と合わせて国鉄の戦後三大ミステリーとも呼ばれる。

 近年この事件が顧みられたのは、森達也の「下山事件・シモヤマケース」(参照)がきっかけだろう。当時の報道を見ると、共産党の犯行が示唆される、世間の空気が感じられる。だが、森が改めてこの事件を追っていくと歪曲された目撃証言や事実隠蔽があり、政府首脳や国鉄幹部らの世論誘導があったのではないかというのだ。つまりこの事件はその後日本が反共かつ対米追随路線を取るきっかけとなった、と。森の意図をさらに乱暴に言えば、昨今の北朝鮮脅威論みたいなものはメディアの誘導ではないか、踊らされてはいけない、という主張を込めたかったのだろうと思う。
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下山事件
最後の証言
 ところが森のこの著作のネタとなるべき証言者柴田哲孝が翌年「下山事件―最後の証言」(参照)を著した。これが森の著作を補うようであればいいのだが、そう読める部分もあるにせよ、私が見るかぎり異なったストーリーを展開していた。森の見る、政府側の反共・対米追随路線もだが、当時の国鉄売却の攻防から満州史の亡霊を示唆しているのだ。当然ここに岸の存在が浮かんでくる。
 柴田の著作ではさらに驚くべきことに森達也「下山事件・シモヤマケース」の情報誘導まで暴露されており、私はこれまで森達也の著作をある程度信頼して読んできたこともあり、軽い衝撃感を受けた。とりあえず、森達也はボーガスとしていいだろう。
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昭和史の
謎を追う
 ここで問題なのは、まず前提として、「下山事件」は他殺なのか自殺なのかということだ。前二著は他殺論に立っている。この他殺論の系譜は松本清張の「日本の黒い霧」(参照〈上〉〈下〉)にひな型を持ち、柴田の著作などを読むと自殺論はありえないかのようだが、史学的には(柴田が集めた証言が考慮されていないこともあるが)秦郁彦「昭和史の謎を追う〈下〉」(参照)でまとめられているように、またウィキペディアのまとめもそうだが、自殺か他殺かわからないとしか現状では言えない。
 歴史の謎としてはそこまでが精一杯なのだが、「下山事件―最後の証言」は他殺論の追求というよりも、当時の日本の政治状況と満州史への闇に考察を伸ばしていき、それが興味深い。思わせぶりな書き方でもあり、柴田自身も未整理なのかもしれないが、事件に深く関係がありそうな亜細亜産業の矢板玄のつぶやきを重視している。

 事件の背後には、大きな三つの流れがあった。莫大な国鉄利権を守ろうとする者。事件を反共に利用しようとする者。大局を見つめ、すべてを操ろうとする者。三者の利害関係が一致した。たまたま三つの流れの合流点に、下山定則という男が存在した。すべては、運命だった。そういうことだ。
 だが、たったひとつだけ、最後まで理解に苦しむ謎が残った。矢板玄が生前に言った、あの一言だ。
「ドッジ・プランとは何だったのか。ハリー・カーンは何をやろうとしていたのか――」

 同書はこのあと、ハリー・カーンの考察を数ページ進めていくのだが、いうまでもなくハリー・カーンについてはジョン・ロバーツらの「軍隊なき占領―戦後日本を操った謎の男」(参照)が詳しい。もっとも、当然というべきか、下山事件とハリー・カーンの関係についてこの書籍が扱っているわけではない。むしろ、下山事件は現状では判断しかねる問題でしかないのに対して、ハリー・カーンが戦後なにをしていたのかという問題はその延長の歴史を生きる日本人にとって重たい課題を残している。ごく簡単にいえば、GHQの施策を逆行させたのがハリー・カーンの一派だということ。これにはサウジアラビアの石油の問題も関係しているし、今日日本国憲法として残されたGHQの遺産が奇妙な形でねじれているのもハリー・カーン一派の影響が大きい。
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軍隊なき占領
 そのハリー・カーン一派の日本の政治へのほぼ直接的な関与のインタフェースとして浮かび上がってくるのが岸信介と彼らに関わりさらに韓国を巻き込む諸団体である。このあたりが、冒頭亡霊といった懸念を連想させる。
 しかしことは簡単ではない。ハリー・カーン・プラス・岸であたかも陰謀の根が同定されるわけではないからだ。ここでロッキード事件にやや隠れた形のダグラス・グラマン疑惑が関係してくる。このあたりから私が生きている時代の歴史になるのでいろいろ考えさせられることが多い。
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巨悪vs言論
田中ロッキードから
自民党分裂まで
 話を端折ってしまうのだが、立花隆「巨悪vs言論―田中ロッキードから自民党分裂まで」(参照〈上〉〈下〉 )に描かれているように、ダグラス・グラマン疑惑とはハリー・カーンを失脚させるための事件であった可能性が高い。余談だが、当然同じようにロッキード事件を考えることもできそうだが、立花はシンプルに田中角栄を巨悪に置いている。そしてこの構図が以降文藝春秋ジャーナリズムの呪いとなっていく。いわゆる左翼も立花・文藝春秋ジャーナリズムと同じ見解に立っているようだ。
 ダグラス・グラマン疑惑がハリー・カーンを失脚させるものであれば、それを失脚させた側の構図が描かれなくてはならないし、その構図がその後の現在の日本にまで影響してはいるのだろう。このあたりはやや陰謀論的な発想になりがちなので要注意だが。
 参考書が多く、話が錯綜してしまうのだが、もし岸の亡霊というのがあれば、それは一旦大きな挫折を経由し歪んだ形のものではあるのだろう。その一例は可視だが可視ではない部分がどれほどあるのだろうか。

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2006.08.30

バンコク郊外で逮捕された脱北者についてメモ

 先日タイ警察がバンコク郊外で逮捕した北朝鮮からの脱北者についてなんとなく気になっている。見えない部分が多いのでもう少し見えてから、というか考えてから書くべきなんだろうと思っているうちに書く機会も逸しそうなので現時点の感想をメモ書きしておこう。
 話は毎日新聞記事”タイ大量脱北:ミャンマー経由の新ルート、検挙で判明--韓国系NGOが支援”(参照)が詳しい。


タイ警察が北朝鮮からの脱北者175人をバンコク郊外で逮捕した事件で、脱北者が中国雲南省からミャンマーを経てタイ北部に陸路で入国する新たな脱北ルートが24日、判明した。また、その過程で韓国の非政府組織(NGO)が支援していたことも明らかになった。

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脱北ルート
 ルートは、中国雲南省から陸路でラオスを避けてミャンマーに入り、タイ北部チェンライ県メーサイを経由してバンコクへということらしい。百七十五人全員が一丸となっていたのではないようだ。移動の期間だが一気にということではなく、三年くらい前からパラパラと動いていたらしい。
 脱北者というと命からがら北朝鮮を抜けてと思うしそれで間違いでもないのだが、九〇年代から中国側への難民が多い。ウィキペディア”延辺朝鮮族自治州”(参照)より。

1990年代の北朝鮮水害や旱魃と経済破綻によって、豆満江を超えて中国側に逃れる脱北者と呼ばれる人々が増加し、数万人から数百万人とも言われる北朝鮮の人々が中国や東南アジアに潜んでいると考えれらるが、多くがこの自治州にいると思われ、中国政府が警戒している。

 すでにかなりの難民が中国領内にプールされているのが現状なので、そうした人々への人道的な救済だったのではないかという印象を持った。今回の脱北者百七十五人の構成で、この記事には言及がないが、内訳は女性百三十六人、男性三十九人ということで、圧倒的に女性が多い。子どもも多いらしいが内訳はわからなかった。いずれにせよ女性が主体である。
 経路でラオスを避けるのは地形的なことで特に意味がないのかもしれないが、メーサイが気になる。言うまでもなく、黄金の三角地帯である。このあたりで取れる台湾高山烏龍茶がうまいことは中国茶通なら誰でも知っていることだというつまらんギャグでお茶を濁すが、メーサイの意味はなんなのだろう。
 支援者は記事では韓国の非政府組織(NGO)とあるが韓国のキリスト教団体らしい。そのあたりの背景と国際的なネットワークはどうなっているのだろうか。
 全然関係ないのかもしれないが、横田めぐみさんの拉致事件を題材にした米国ドキュメンタリー映画「アブダクション(拉致) 横田めぐみ物語」を製作したのは、カナダ人クリス・シェリダンさんと妻のパティ・キム(Patty Kim) さん。製作のきっかけはキムさんがワシントンポストで〇二年に拉致事件を知ったからだというのだが、その後の反響には在北米の韓国人のネットワークなりも背景にあるのではないか。

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2006.08.29

政党ビラ配布の無罪判決、雑感

 夢のハチミツご飯ほどには私には関心のない話題でもあるのだが、政党ビラ配布の無罪判決ついて、これって「地裁判決」かぁと思いなおす。とするとこの先の展開があるのだろう。現時点で簡単に少し触れておいてもいいかもしれない。
 この問題だが、ビラ配りが理由で逮捕し二十三日間も拘束というのは警察の行き過ぎだろうというのに異論はない。総じてこの問題について私はそれほどどうあれという意見はなく、今回の司法判断についても大筋で違和感はない。
 だが、この事件の報道をよく見ていないせいもあるだろうが、話のポイントを表現の自由が守られたとのみするのは、ビラ配りと、それと率直に言ってだが、新聞勧誘に困惑する実際の庶民感覚とはずれているように思えた。そのあたりの庶民的な実感から書いてみたい。
 この問題で当初私が気になったのは「オートロック」の扱いである。今回のケースでは、朝日新聞社説”ビラ配り無罪 うなずける判決だ”(参照)によると、エントランス部にオートロックはなかったようだ。


 判決によると、被告の住職、荒川庸生さん(58)は、オートロックのないマンションに玄関から入り、最上階から順に各戸のドアのポストにビラを入れて回った。配ったのは共産党の区議団だよりや都議会報告などだった。

 単純な話、オートロックがあったらどうだったのだろう。この十年に建築された現在都市部の大半のマンションはオートロックになっていると私は思うので、実際の大半のケースで今回の判決はどういう意味を持つのか理解しづらかった。
 毎日新聞社説”政治ビラ配布 知恵絞り表現の自由守ろう”(参照)ではこのマンションがオートロックでなかったことにはふれていないものの、状況をもう少し詳しく説明している。

被告は1階の集合郵便受けでは他のチラシ類と紛れてしまうと懸念し、各戸のドアポストにビラを投かんしていた。見とがめた住民が110番通報し、急行した警察官が住民の求めに応じて逮捕したという。宅配業者や水道の検針員などを装った強盗、窃盗犯が増えている折、一般的には、他人の住居に立ち入った者が身元を明かさない場合、警察が住居侵入容疑で逮捕するのは無理からぬところだろう。政治ビラを配っていても、偽装工作の可能性を否定しきれないからだ。

 社説としては、身元が不明の場合は逮捕もやむを得ないととしており、それはそれで共感できる。ただ、この問題はまずオートロックとの関係が気になる。同社説では一般論としてオートロックにふれている。

 判決が指摘するように、最近はオートロックシステムなどで部外者を排除しようとする集合住宅が増えており、共有部分は私的領域としての性格を強めている。ビラを配る側も、プライバシーを重視し犯罪多発に警戒心を強める住民の心情を酌み取りながら、無用な疑念やトラブルが生じないように細心の注意を払わねばならない。

 実際のところオートロックシステムは住人が入るのを見計らってついていけば自動的にスルーになるので、セキュリティの機能は低い。むしろ、オートロックの機能は住民の意思表示として見るべきだろう。この意思表示がどのような意味をもつのだろうか。なお、今回のケースでは、該当マンションではビラ配りなどを禁止するとの張り紙があったようなので、明示された意思表示はあった。
 毎日新聞の指摘で今回のビラのありかたが問われている点にも触れておきたい。今回のケースでは「1階の集合郵便受けでは他のチラシ類と紛れてしまうと懸念」したわけだが、その懸念は、「ビラを配る側も、プライバシーを重視し犯罪多発に警戒心を強める住民の心情を酌み取りながら」ということを考慮すれば、あまり肯定できないということになるだろう。政党ビラが他のビラよりも重要であるとマンション住民が判断することはなかった。
 私も沖縄で安い賃貸マンション暮らしをしたことがある生活感覚でいうと、「順に各戸のドアのポストにビラを入れられる」のは、戸口までやってくるしつこい新聞勧誘と同じく、相当に嫌なものである。共用廊下に住民外や配送外の見知らぬ人が歩かれるもの緊張する。先日、知人の家に行ったら、ドアのポストがガムテープで封鎖されていたので、何かトラブルがあったのかと聞いたのだが、火のついたものを投げ込まれる事件を聞いて恐くなったとのことだった。ジャーナリスト山岡俊介はそれで火災になった事件があった。
 住民の意思表示に関連して今回の事態ではマンション住民が直接警察に通報したようだが、管理組合のセキュリティ対策の手順としてそうなったものかも、オートロック問題と合わせて気になる。推測でしかないのだが、管理組合のセキュリティ対策もなかったのではないか。とすると、今回の問題は、オートロックがなく管理組合のセキュリティ対策もないマンションでのみ発生する問題ということになるだろうか。

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2006.08.28

夢のハチミツご飯

 なんの意味もない夢の話。でも目が覚めてみるまで夢とわからなかった。
 辺りは夕方である。なんだったか七時以降に用事があるので早い夕飯でもと思い、いつものエスニック屋に行くとまだ準備中。でも戸が少し開いているので覗くと週刊誌を読んでいるオヤジがいて、「おっ、おまえさんを待ってたところだよ、来るんじゃないかと思って用意していたんだ」と言う。にやにやしている。よからぬ雰囲気。ポンテギのアラ不思議風でも出てくるのか。
 「また変なものこさえたのかい」と私。
 「変なものじゃないよ、すごーくシンプルな料理だ」 すごーくの音引きが長い。
 「いただくよ、なんでもいいや」
 「まだ完成してないんだけどね。何かが足りない感じがしてさ。おまえさんの味覚だとなんか言うんじゃないかと思ってね、ほれ」
 出てきてのはただの白いライスなのだが、妙につやっとして、甘い香りがするっていうか……。
 「食えるよ」とオヤジ。
 「いただくよ、ナマステ」
 匙で掬って一口ライスを口に入れる。甘い。少し塩味がある。
 「これ、ハチミツご飯ってことか」とこっちを見つめているオヤジに言う。
 「そう、わかった?」となにやらオヤジは嬉しそうだ。
 「わかったよ、っていうか、わかるよ」
 「甘いだけか?」
 「いや、これね、かなりいいハチミツ使ってるでしょ。でないとこの香りが出ないから」と答えると、オヤジはさらに嬉しそうな顔をする。
 「そうそう、甘さがポイントじゃないんだ、ハチミツの香りがポイントなんだよ」としたり顔。
 「そんな上質のハチミツ使ったんじゃ、また採算合わないよ」
 「ところでひと味何か足りないと思うのだがなんだ?」
 「なんだ、って言われても、俺、ハチミツご飯なんて食べたの初めてだよ。どっかの国の料理なのか?」
 「エジプトだったかチュニジアだった、記憶違いだったか……なにかライスに赤い感じのものがぱらっと降りかかっていたような気もするし」とオヤジ。
 「ナッツかな。コショウってことはないし。ピンクペパーとか合いそうけど、うーん、せっかくの上質のハチミツの香りが消えちゃうしね」
 オヤジもしばし考え込んみ、「あとさ、飯、もうちょっとつやっとした感じなんだよね、油かな」
 「どうなんだろ。ハチミツってさ、あれだよ、なんか酵素があって、飯と炊き込むとなんとかとか言うじゃない」と私。気が付くとハチミツご飯は食い終えている。
 「それね」とオヤジはからっぽの皿を指さし「炊き込みじゃなくて、まぜたんだよ。少し岩塩入れて」
 私も少し考えて言う、「ミツロウ(蜜蝋)じゃないかな」
 オヤジはちょっと目を丸めて「ああ、そうかもしれないな。いやそうかもしれない。あいつらいつもミツロウ付きのハチミツ食ってたしな」と自分の世界に入っていくオヤジ。
 「他に食うものなんかないの?」と私が呼び返す。でも聞いてない。
 「今度ミツロウで作ってみるからまた食う?」とオヤジ。
 「食うよ。けっこううまかったよ。でも、採算に合わないってば」
 ……というあたりで夢の記憶が途絶える。
 目覚めた私は夢の味覚と香りを思い出す。私はけっこう夢のなかで物を食うし、味や香りの記憶をもっている。
 とはいえ、ハチミツご飯なんて本当にこの世に存在するのだろうか。
 朝飯に冷や飯の残りにオレンジハチミツと岩塩をまぜて食ってみた。
 うん、うまいな。だいたい似た感じ。

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2006.08.27

無門関第十四則南泉斬猫を愚考す

 洒落たことを書く意図はないが、時折「無門関」(参照)第十四則南泉斬猫を思う。


南泉和尚、東西の両堂が猫児を争うに因んで、泉、乃ち提起して云く、「大衆、道得ば即ち救わん、道得ずんば即ち斬却せん」。衆対無し。泉、遂に之を斬る。晩に趙州外より帰る。泉、州に挙似す。州乃ち履を脱して頭上に安じて出ず。泉云く「子、若し在らば、即ち猫児を救い得たらん」

 古来難関とする所。私はわかったような気がしたことがあるが、今の気持ちとしてはとんとわからんな、いかれてるな南泉、と思うくらい……とまで言い切らないが、これを「異類中行」と呼ぶのであればむかつく。南泉斬猫を喝破し「異類中行」に一喝すべき禅師も日本いなかったじゃねえか。十年前によ。あのときに、いなかった。末法とはかくのごとし。という感じだがこの問題にはどうしようもなく暗いものがある。
 禅の世界ではこの公案にいろいろ言う。だが私はなんか変だな、猫かわいそうじゃんというあたりで抜け目のない州のごとくにはあらず、我もまた泉に叩き斬られる身の上となる。凡夫であるからな。南無南無、とすべきか。ただ私は仏法をそう見なかった。
 私は自然に道元を慕うようになった。南泉斬猫について禅師の語りように優しさを覚えるからだ。「正法眼蔵随聞記」(参照)で、懐弉が如何是不昧因果と道元に問うコンテキストで、道元は南泉斬猫を語り出す。なぜなのか。もちろん道元の答えはおそらくパーフェクトというものだろうが、私は懐弉の心の動きのドラマに惹かれる。彼は私のようにたぶん子猫のことが気になっていたのだ。

弉云く、是れ罪相なりや否や。云わく、罪相なり。弉云く、なにとしてか脱落せん。云く、別別無見なり。云く、別解脱戒とはかくの如を云か。云く、しかり。亦云く、ただしかくの如きの料簡、たとひ好事なりとも無らんにはしかじ。

 漫談を聞いてる趣もあり、なんのこっちゃという感じもするので、長円寺本(参照)を見ると岩波面山本とは違う。ありゃま。「別別無見なり」じゃなくて「別、並ビ具ス」だ。無見をいかに受け取るべきかよくわからんが、仏行と罪相並ビ具スというのはおだやかではないな。というかもともと南泉斬猫がおだやかならざるお話。
 悟りなんぞ私はとんと関心がないのでその辺りはスルーするとして、「ただしかくの如きの料簡、たとひ好事なりとも無らんにはしかじ」がよい。禅師の心の優しさがここにある。いかなる理屈があろうとも子猫を殺すんじゃねえよと。
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無門関
 懐弉も納得したのではないだろうか。というか、このメモワールは懐弉の禅師の心根の優しさを忍んだものではないかと私は思う。
 悟りなぞいらぬ禅師がいっらっしゃれば……まさにその禅師のありようが悟りそのものと懐弉に思えたのではないか。

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2006.08.26

松任谷由実と「A GIRL IN SUMMER」

 先日プレゼントを貰った。その前に「何がいい?」というから「そうだなユーミンの最新アルバムがいい」と答えた。「ほんとにそれでいいの?」とか「ユーミンなんか聞くの?」とか言われたような気がする。自分がなんて答えたか忘れたし、なんでユーミンの最新アルバムなんて言い出したのか自分でも不可解な感じがした。何が最新アルバムかも知らなかった。

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A GIRL IN SUMMER
松任谷由実
 「A GIRL IN SUMMER」を貰った。iPodに入れて聞いてみた。ピンとこない。というか、これって最新アルバムなのか? 音のつくりがベタに初期の作品なんだが、発表されていない昔の曲ってことはないのか。れれれ?という感じがして、これが最新なのかなとネットで見たら、そうっぽい。ウィキペディアの「A GIRL IN SUMMER」(参照)より。っていうかこんな項目があるのか。

A GIRL IN SUMMER (ア ガール イン サマー)は松任谷由実 (ユーミン) の34枚目のオリジナルアルバム。2006年5月24日に東芝EMIよりリリースされた。


 前作から約1年半ぶりのオリジナルアルバム発売である。
 発売に先駆けてiTunes Music Storeで一部楽曲が先行販売されるという画期的な試みもなされた。『A GIRL IN SUMMER iTMS edition』として6曲を先行配信(『Forgiveness』のビデオクリップとデジタルブックレット付き)、残りの6曲は6月21日から配信が開始された。

 そういえば、iTMSで見かけたから記憶に残っていたのか? そういえば、NHK「探検ロマン世界遺産」のユーミンの曲をこれって何時の時代だろうとか疑問に思ってもいた。
 このブログに書いただろうか。私はユーミンのファンだった。ある時期までは全曲持っていたし、けっこうディープに好きだった。ある時から、ぷっつりそれが途絶えた。沖縄出奔前だと思う。ウィキペディアの「松任谷由実」(参照)を見ると、どこで切れたかわかった。「天国のドア(THE GATES OF HEAVEN)(1990年11月23日) 」までだ。このころから街中を流れる彼女の曲に違和感をちょっと感じてもいた。「TEARS AND REASONS (1992年11月27日)」という標題に、Rhymes and Reasonsの洒落かなとちょっと思ったことがあった。私のなかでユーミンが終わったのは一九九〇年だから、十五年くらい経つのだろうか。自分が三十三歳のころだ。
 NHKの番組で標題は「ユーミンを聴いた男たち」だったか、八〇年代の若い男たちがどうユーミンを聞いていたかみたいな番組があって、宮台真司なんかも出てきてなんかありげなことを宣っていた。番組の記憶があるのは、自分もそういう男たちの一人だっただろうかと少し思ったからだ。八〇年代私は二〇代だったわけだ。ただ、ちょっと違うなという感がしていた。
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紅雀
松任谷由実
 私にとってユーミンというのは七〇年代であり、七〇年代を引きずるある生き方みたいなものだった。私にとってユーミンのベストアルバムは「紅雀」であり、ベストの曲は「ハルジョオン・ヒメジョオン」である。浅川の土手の暮れていく風景は私の原形的な風景でもある。この曲をユーミンが歌うのを見たことはないし、歌わないのではないかと思っていたら、近年のコンサートで歌っていた。大人のユーミンが大人の情感で歌っていて、泣けた。
 セカンドは「昨晩お会いしましょう」である。「タワー・サイド・メモリー」とか街中で聞いたら号泣してしまうかもしれない。「夕闇をひとり」のぐちゃぐちゃどろどろした女心が好きだ。そういう女が好きというわけじゃないのに。「カンナ8号線」はこれも自分の風景だ。
 ユーミンの歌にある五〇年代からの米軍の匂いと昭和の風景とそこから青春に破れていく男の子や女の子のやりきれないような死にたくなるなんて言えないような「埠頭を渡る風」の心情とメロディが好きだった。
 今思うと、あの三十三歳のころ、私は青春とともにそれに終わりを言い渡したというかその引き替えだったのか、あるいはそれを大切にしたから、九〇年代に変わっていくユーミンがわからなくなったのか。
 ウィキペディアの情報を見ていたら、売り上げの記録があり。「A GIRL IN SUMMER」は最高順位3位、112151枚売り上げ、登場週数5週(オリコン、2006年7月3日号現在)」とのことだ。十一万枚ってことか。え?と思った。前作は知らないのだが、「VIVA! 6×7」らしく、こちらもその程度。私がユーミンを聞かなくなった「天国のドア」は「最高順位1位、累計売上197.5万枚(オリコン)」ということで、二百万枚代のシンガーだったと思っていたので、これは凋落と言っていいのか考え込んだ。
 そういえば、二〇〇〇年ころから私は宇多田ヒカルのファンになった。なんというのか私にもこんな歳の娘さんがいてもおかしくねーよの時代になったというか、藤圭子も好きだったので、吉田司の「あなたは男でしょ。強く生きなきゃ、ダメなの」(参照)じゃないけど、なんか女というのは転生してくるような奇妙な感じした。「宇多田ヒカルの作り方」(参照)で縮緬ビブラートといっていたが私もそう感じた。ビブラート以外にも。で、「First Love」が「累計出荷枚数976万枚(全世界・東芝EMI) 」だけど、「ULTRA BLUE」は「初動50万枚(オリコン)」となるのだが、これも凋落と言っていいのではないか。
 単にCDの売り上げっていうのがなくなったということなのか。iPodで聞くっていうことなのか。話がばらけるのだけど、最近、iPodで音楽を聴くのがけっこうつらい。最高音質にしてもぜんぜんダメだという感じ。しかし、むかしはカセットテープで聞いていてそれなりに満足していたのにどうしたことなんだろう。

追記
 「哀しみのルート16」は国道16号線か思ってなにげなく聞いているうちに、この曲のものすごい哀しみのようなものが響いてきた。「海に来て」「もうここには何もない」は関連の歌だろうと思った。

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2006.08.24

若月俊一と佐久病院についてほんのわずか

 若月俊一が二十二日に死んだ。九十六歳だった。死因は肺炎とのことだが、このお歳での肺炎は寿命に近いかもしれない。すでに伝説の人というべきか。ウィキペディアには簡潔な説明がある(参照)。二十世紀医学そのものの人生といってもよいだろう。医学的にはどう評価されているのかわからないが、長野県の長寿の一端は彼が開始した巡回診療の影響もあるのではないか。

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プロジェクトX
挑戦者たち〈12〉
起死回生の突破口
 私の祖父は佐久病院で死んだ。単に地域医療というだけのことだが、見舞いに行ったおり、なんとなくだがこれはよい病院だなという印象を持った。彼が入院するころはもう佐久病院への信頼は揺るぎないものになっていた。もちろん、大衆は警戒的な噂をときおりしたがどうというものでもない。このあたりの大衆と医療の歴史の機微というのはなかなか言葉にならないものがある。
 佐久病院といえば、司馬遼太郎の「ひとびとの跫音(参照〈上〉〈下〉)では、正岡子規の養子忠三郎の友人西沢隆二(同書ではタカジ)の晩年をこう描いていた。

 タカジと忠三郎さんの生涯にとって最後の年(一九七六年)になった晩春、タカジは、ひどく無邪気な顔つきをして、信州まで検査を受けに行ってみるといって、大阪から信州にゆくのはどうすればいいのか、と私の家内にきいた。家内も知らず、私も知らなかった。そのことは、すでにふれた。
 タカジは、東京に住んでいる。
 (東京の病院で検査をうければいいのに)
 と思ったが、そういう忠告は彼にはむだであった。彼は信州の佐久の病院を信じきっていた。
 結果は、手遅れの食道癌だった。そのまま居つくようにして、佐久の病院に入院した。

 「すでにふれた」の箇所の前には同じような記述がある。

 信州の佐久の盆地に、土地の農協がたてた総合病院がある。屋上にのぼると、磧石と浅瀬の多い川が盆地を銀色に掻き切るように流れていて、ところどころの黒い杉の森によく映えている。
 院長のWさんは半生を農村医療につくした人で、臨床家としても研究者としてもよく知られている。医師というよりも病者の友というほうが、その人柄にふさわしい。
 タカジは、この病院を信用していた。

 司馬の書き方は簡素でこれだけ書けばわかるでしょという含みがある。だが、もうそうした理解の基礎たる戦後史の常識は消えてしまっているかもしれない。
 今この箇所を読み返すと、なぜ司馬が若月俊一をWと略したのか少し疑問に思うとともに、当時は思わなかったが、若月と直接ではなくても佐久病院での活動と西沢にはなんらかの交流があったのではないかとも少し思えた。ウィキペディアの佐久総合病院の項目(参照)にはこんな記述がある。

 「農民とともに」をスローガンに地域のニーズから出発して第一線の医療を担いながら発展を続け、農村部に特有のの健康問題を解決しようというところから農村医学という学問もうまれた。また農村部の医療を担える人材を地域で育てようと農村医科大学の設立を目指した。その過程は創成期を支えた若月俊一の「村で病気とたたかう」、や南木佳士の「信州に上医あり」などに詳しい。演劇班や吹奏楽団、コーラス部、野球部など文化活動も盛ん。病院の屋上から響く応援団の練習の声は臼田の夏の風物詩となっている。

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ひとびとの跫音
 西沢隆二については、「ひとびとの跫音」で十分過ぎるほど描かれていると思っていたが、そうでもないのかもしれない。高倉輝(参照)とかも関係しているのだろうな。

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2006.08.22

栃ノ華はどうしているだろうかと思っていた

 十九日から始まった大相撲台湾巡業が昨日終わった。成功裏に終わったようだ。興業としては七十年ぶり。言うまでもなく前回は日本統治下のこと。そのころからの相撲好きもいるだろうが、台湾ではNHK(ワールドプレミアム)を通して相撲が見られるので戦後のファンも多いだろう。そういえば、引退した栃ノ華はどうしているだろうかと思っていた。
 六月七日の毎日新聞夕刊に”人模様:70年ぶり台湾巡業「楽しみ」--元十両・栃ノ華の劉朝恵さん”という記事があり、元気なようすが少し報道されていた。


 劉さんは、相撲ファンの父親の勧めで春日野部屋に入門し、80年5月に初土俵を踏んだ。しこ名は、台湾の正式名称「中華民国」にちなんで名付けられた。最近は外国人力士の活躍が目覚ましく、今年の夏場所では三役以上を5人が占めるほどだが、当時はまだ、外国人力士は珍しい時代だった。85年5月に十両に昇進した。

 その後についてはごく簡単に触れられていた。

 十両を通算13場所務め、けがのため87年の9月場所を最後に引退。その後も日本に在住し、今年1月に台北に戻ってきたばかり。「巡業を機会に台湾でも相撲ファンが広がれば」と期待している。

 記事には日本に在住とあるのだがそうなんだろうか。昨日のNHKのラジオで聞いた現地の日本人会の人の話では、現在はビジネスマンとして友人の会社の副社長をされているとのこと。現在でも一五〇キロの巨漢らしい。今回の巡業ではいろいろと解説役としてメディアにも登場したそうだ。
 毎日新聞の記事では当然GHQ漢字で「劉朝恵」とあるが簡略漢字でなければ「劉朝惠」であり、グーグルニューズの台湾版・香港版でこの名称で検索すると、いくつか関連のニュースが出てくる。聯合新聞網”台灣力士第1人》劉朝惠 塊頭猶在”(参照)には近影と最近のインタビューがあった。ヤフーの翻訳をベタに引用する。

劉朝恵は、今年、やっと妻が台へ帰って定住することを持って、差し当たって台中に1個の生物科学技術会社は副社長を担当して、差し当たって仕事はすでに相撲とかかわりがなくて、ただ「体の型」からやっとぼんやりと昔風貌を見つける。

 奥さんは日本人なのだろうか。いずれにせよ、台湾に定住するということ、仕事はバイオテクノロジー関連なのだろうなと察する。

しかし劉朝恵は行き来を笑いながら雑談して、ただ実は「長く作ることを学ぶ」が厳格である相撲生活はともに過ごしにくくて、いままで到達したことがある日本が相撲を学ぶことの台湾人の8、9人、大半は因が耐えることができないことであり先輩は「卒業」をしつけてそれで早めて、劉朝恵は「意志の力」に依っていて、台湾の「相撲の第1人」になる。

 栃ノ華以外にも台湾出身力士がいたようで、この話はいわゆる辛抱が大切といった話だろう。
 今回の巡業を機会に台湾でもいっそう日本の相撲人気が高まるように思う。
 そういえば、韓国で相撲巡業があったのは二〇〇四年。一九四三年の「中国・満州・朝鮮巡業」以来で六十一年ぶりということであった。この巡業も現地では歓迎されたが、韓国には韓国の伝統競技「シルム」があるといった話題もあった。関連の記事は、「極東ブログ: 韓国の大相撲興行にふれて」(参照)で書いたことがある。今読み返すと、今ならこういう書き方はしないかな。

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2006.08.21

国連レバノン暫定軍(UNIFIL)へのイスラム教国の参加意志

 レバノン紛争停戦後の動きについて、この時点で気になることを簡単にメモしておきたい。国連レバノン暫定軍(UNIFIL)へのイスラム教国の参加意志についてだ。
 停戦以前からインドネシアおよびマレーシアはイスラエルによるレバノンへの空爆に反対しており、そのために和平活動への意欲を見せていた。こうした動向は、CNN”OIC緊急首脳会議、マレーシア首相が安保理批判”(参照)などで垣間見ることができた。
 ここに来て、国連レバノン暫定軍(UNIFIL)へのイスラム教国の参加という形を取るようになった。産経新聞”イスラエル、「国交のない国」は拒否 国連増強部隊”(参照)より。


イスラエルのオルメルト首相は20日の定例閣議で、レバノン南部に展開する国連レバノン暫定軍(UNIFIL)の増強部隊について、「(イスラエルと)国交のない国」の参加に反対するとの考えを示した。
 イスラム教国のバングラディシュやマレーシア、イスラム教徒が多いインドネシアが参加の意向を示しており、イスラエルがこうした国々を念頭に置いて参加を拒否する姿勢を鮮明にしたことで、増派部隊の展開がさらに遅れる可能性が強まってきた。

 とはいえ停戦維持は、バングラディシュ、マレーシア、インドネシアなどアジアのイスラム教国によるUNIFILへの参加がないと難しいのではないのだろうか。人民網”Indonesia reaffirms support to Lebanese and Palestinian people ”(参照)によるとインドネシアでは千人規模のようだ。

The Indonesian Military has made 850 personnel ready to be deployed to Lebanon and Defense Minister Juwono Sudarsono said the number of the personnel might be increased to 1,000 people.

 先の記事と話が被るが、イスラエルはこの動向に反発している。東京新聞”伊に国連軍指揮要請”(参照)より。

ロイター通信によると、イスラエルのオルメルト首相は二十日、イタリアのプローディ首相と電話で会談し、レバノン南部で停戦監視に当たる国連レバノン暫定軍(UNIFIL)の指揮をイタリアが執るよう要請した。
 当初、UNIFILの主力と期待されたフランスが工兵隊二百人の派遣にとどまっており、イスラム圏からも複数の国の参加が予想される中、指揮権を非イスラム国に担ってもらいたいとの考えがあるとみられる。

 建前上イスラエルにはこの要請の権限はないが、国連側は中立性ということで考慮中のようだ。
 私にはやや意外だったのは、東京新聞に記事にもあるようにフランスの関与が当初の予想より薄くなりそうなことだ。
 また、ドイツは派兵すらしないことになりそうだ。理由はドイツの歴史問題とのこと。朝日新聞”ドイツ、レバノン派兵に二の足 ユダヤ人虐殺の過去連想”(参照)より。

 だが、イスラエル周辺は特別だ。戦闘に巻き込まれればユダヤ人に銃を向ける可能性が生じるためだ。
 メルケル首相はこれまで「最大限の慎重さがいる」と繰り返してきた。16日の連立与党党首会談でも「何らかの形で貢献する」としたが具体策はまとまらなかった。シュトイバー・キリスト教社会同盟党首が「歴史的な背景から軍の投入は難しい」などと強い反発を示している。

 そういう議論を日本に当てはめるとどうなるのだろうと少し考えたがよくわからない。
 いずれにせよ、停戦維持にはアジアのイスラム教国の関与を深める方向で進むしかないのではないか。”OIC Countries' Participation In UN Peacekeeping Force Vital”(参照)といったマレーシアの報道を見ていると、イスラム諸国会議機構(OIC)はイスラム教国という枠組みを超えて国際平和への寄与が読み取れる。
 こうした動向に対して、日本はもとより、米国、中国、ロシアといった国がどう対応していくのかが見えてこない。

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2006.08.20

イスラエル兵に志願した移民の若者

 こんな話を書くと「おまえの本心は?」批判とか印象操作とかとか言われるのだろうか。しかたないか。それでも私は今回のイスラエルの軍事行動がよいとは思わないととりあえず断り書きしてから、心に引っかかっているこの話をちょこっとだけ書いておこう。
 先日ラジオでオーストラリアのユダヤ系移民の青年がイスラエル兵となり今回のイスラエル・レバノン紛争で戦死したというニュースを聞き、心に重くひっかかっていた。
 戦死したオーストラリアのユダヤ系移民の青年、エイザフ・ネイマー(Asaf Namer)君のニュースは、ネットを通して見るとそのガールフレンドと一緒の写真と報道されていて、いっそう痛ましさを覚える。ジ・エイジ”'Perfect son' dies at war in Lebanon”(参照)の冒頭を引用する。試訳を添えておく。


"THE moment he said he was going to Lebanon I knew I would not be seeing my boy any more."
(息子がレバノンに行くと言ったとき、この子をもう見ることがないかもしれないと思った。)

So spoke Tzahi Namer yesterday after learning that his son Assaf was the first Australian to die in the conflict in Lebanon.
(ザヒ・ネイマーは昨日、息子のエイザフがレバノンでの紛争で死んだ最初のオーストラリア人であると聞いて、そう語った。)

Assaf Namer, 26, a volunteer with the Israeli army, was killed in a battle with Hezbollah. He was a month short of finishing his army service.
(エイザフ・ネイマー二十六歳は、イスラエル志願兵となり、ヒズボラとの戦闘で戦死した。軍隊勤務終了を1か月余すばかりだった。)


 エイザフ青年はイスラエルに生まれ、十二歳のおり母とシドニー郊外に移住したが、二年前イスラエルに戻り志願兵となっていた。
 米国やオーストラリアなど各国にいるユダヤ人移民の子供がイスラエル兵となるというのはそう珍しいことでもない。
 恐らく話はトリビアの類だろうが、米国関連でも類似のニュースがあった。”Local Jews feel called to serve as Israeli army battles Hezbollah”(参照)。若者の名前はヨーニー・ゲラー(Yoni Geller)。

Yoni Geller told his parents in January of his decision. Over time, they came to accept it. But Israel was at peace.
(ヨーニー・ゲラーは一月に自分の決心を両親に話した。しばらくして、両親はそれを認めた。イスラエルはまだ平和な時期であった。)

The plane carrying their 19-year-old son toward his goal was in flight July 13 when Eddie Geller and Esti Gumpertz watched the first explosions of war flash across the television in their Beachwood home.
(十九歳の若者を乗せた飛行機が目的についたのは七月十三日。その日、エディー・ゲラーとエスティ・ガンパーツはビーチウッドの自宅で最初の戦火をテレビで見た。)

Their son called two days later from Haifa, a city in panic. Air-raid sirens had shut down the recruiting office before he could sign up, he said. That's when his mom pitched her plea. Come home, Gumpertz said. Don't do it. This is a war.
(二日後騒動のあったハイファから彼らの息子は電話をかけてきた。なんとか志願登録したら、空襲警報で徴兵事務所が閉鎖したんだと息子は言った。母親のガンパーツは息子に、家に帰りないさい、そんなことしてはだめ、戦争なの、と懇願した。)


 ヨーニー君がイスラエルの志願兵となったのは平時だが、両親も戦争に加わることを望んでいなかった。
 各国にいるユダヤ人移民の子供がイスラエル兵となるのは、その経験を通して移民の若者が学ぶことや、同胞という連帯感や友情を培う機会となるからでもあるようだ。

With its strong ties to Israel, Greater Cleveland's Jewish community has always sent a handful of young men and women each year into Israel's armed forces. But most enlisted when the Jewish state was at peace - or at least not in the throes of war.
(イスラエルとの強い連帯感から、グレーター・クリーブランド・ジューイッシュ・コミュニティは毎年イスラエル軍に男女若者を数名送っている。しかし、たいていはイスラエルの平時に限定される。テロと戦いの時期ではけしてない。)

 ヨーニー・ゲラー(Yoni Geller)という名前が気になったが、両親は別姓でEddie GellerとEsti Gumpertz。ゲラーは父系の名前だ。母系の名前を継ぐわけでもないのかと、以前書いたエントリ「極東ブログ: ユダヤ人」(参照)のことを感慨深く思い出した。

Gumpertz, a soft-spoken dermatologist, understands why her son went.
(穏やかな声の皮膚科医でもある母カンパーツは息子がイスラエルに行った理由を理解していた。)

His grandparents are Holocaust survivors. One of his grandfathers fought in Israel's 1948 war of independence. A bit ruefully, she says she raised him to know when to stand and fight.
(彼の祖父母はホロコーストの生き残りである。祖父の一人は一九四八年のイスラエル独立戦争で戦った。彼女は少し悲しげにではあったが息子に立つべきときと戦うべきとき知るように育てた。)


 第二次世界大戦後日本に生まれた私としてはこうした話を聞くと複雑な気持ちになる。

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2006.08.18

「女性の脳(The Female Brain)」(ルーアン・ブリゼンディン)は翻訳されるだろうか

 先日読んだニューズウィークの記事(日本語版は8・9)に、「女性の脳(The Female Brain」(ルーアン・ブリゼンディン)の話があった。英語のオリジナル記事は”Why Girls Will Be Girls”(参照)にある。リードはこんな感じ。


In a controversial new book, this psychiatrist argues that differences between men and women start with their brains.
(物議を醸す新刊書で、この精神科医は男性と女性の違いをその脳から解き明かそうとしている。)

 つまり、男性と女性は脳が違うから違うのだというのだが、そんなの当たり前じゃないかという人は……困るなぁ。話はその逆が当たり前という前提にしとかないと。
cover
The Female Brain
 精神科医ルーアン・ブリゼンディン(Louann Brizendine)による、リードのような主張の本"The Female Brain"(参照)がこの二十二日に出版の予定。

 その成果をまとめた初の著書『女性の脳』がもうすぐ出版される。著者自身が「女性の心の健康マニュアル」と位置づける本だ。
 この本が一部で反発を招くのは必至だ。脳の性差を論じれば、フェミニストの批判を浴びることはわかっていると、ブリゼンディンも言う。「私自身、政治的な立場と研究結果の間で苦しんできた。でも女性のものの見方は男性とは違うと確信している。その違いを認識すれば、人生のさまざまな局面でよりよい判断ができる」

 というわけで、出版されると米国ではなにかと議論になるのだろう。
 日本ではどうなんだろうか。すでに「話を聞かない男、地図が読めない女(Why Men Don't Listen and Women Can't Read Maps)」(参照)がトンデモ本ということもなく、なんなく出版されているので問題なくこれも翻訳とか出るのだろうか。
 こういう問題をどう扱っていいのかわからないが、心理学的には別の結果が定説だしその方法論による科学的な研究も多い。

著名な心理学者のジャネット・ハイドは昨年、男女の感情と行動を比較した過去数十年分の論文を検証して、大半の性差は統計学的に「ゼロに近い」と結論づけた。「性差」と呼べるほどの違いはないとハイドは言う。

 性差は文化的に形成されたものだという定説だが、感情表出や行動に現れる性差のなさも文化的に形成されたものに等しいという解釈が成り立つだろうか。無理過ぎるか。
 まずはこの本が日本語に翻訳されるかなというあたりを気に掛けておこう。

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2006.08.17

二日以内においしいタンドリーチキンを作る方法

 GIGZINEに”30分以内においしいタンドリーチキンを作る方法”(参照)というエントリがあって、ほぉ三十分以内かぁと思った。私なら二日以内だな……ダメじゃん。いやいや、これは仕込みを含めてということで、実際には二〇分でできる。
 作り方。
 鶏もも肉一ブロックにヨーグルト大さじ一、カレー粉小さじ一、塩小さじ一をビニール袋みたいなのに入れて、ぴっちりさせ一日おき、取り出して、そのまま、オーブンで焼くだけ。焼くときパプリカをかけると赤くなる。そんだけ。
 もうちょっと補足。
 鶏肉はもも肉が柔らかくていい。
 ヨーグルトはナチュラル系がいいけど、おやつヨーグルトの食べ残しでもOK。ちなみに、ナチュラル系のヨーグルトというのは腐らないので賞味期限を二週間くらい過ぎても大丈夫なもの(ただし自己責任でね)。
 カレー粉はありがちなS&Bでもいい。私はカレー粉を自分で調合しているのでそれを使う。カレー粉は基本的にはターメリック、クミン、カルダモンを混ぜるとできる。タンドリチキンの場合、ターメリックはなくてもいいかも。
 塩はもうちょっと多めでもいいかも。
 これらをビニール袋に入れて、鶏肉全体にまぶすように、もみもみ。そして、冷蔵庫に入れておく。一日でも二日でも三日でもOK。逆に十二時間くらいでもいい。朝用意しておくと、ディナーになる。
 焼き方は私は「極東ブログ: コンベクションオーブンとスロークッカー」(参照)のコンベクションオーブンを使う。二百度で二十分。
 コンベクションオーブンなんてないです、という人は、少しヨーグルトのタレを落として、フライパンか中華鍋で焼く。このとき、皮を下にして弱火でじっくり、皮の油が溶けるように焼く。二十分くらいか。そしてひっくり返して五分くらい。っていうか中まで火が通るまで。火が通ってねーというときは後から電子レンジで。

photo

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2006.08.16

時代小説 黄宝全

 手すさびに時代小説を書いてみた。もちろん、文学的価値なんかないけど。

「時代小説 黄宝全」
 盧溝橋事件の知らせを電報で聞いた時、蒋介石はそっけなく私に視線を向けて戻した。部下たちは気が付かなかったようだが、私にはその意味はわかった。その後、彼は私を呼んで「なるほど、日本と戦うことになったわけだ」と言った。
 私は「そのために閣下の軍事顧問としてドイツから派遣されています」と答えた。蒋介石はわかっているという表情をした。西安事件の翌年にこうなった。これが抗日を飲むということなのだ、選択の余地はない、飲まなければ消されるだけのことだ、蒋介石の無言の思いは伝わってきた。
 「日本人と戦うのはいやですか」私はあえて訊いてみた。彼は私のそういう外国人らしい率直さが気に入っていたからだ。蒋介石は答えなかった。ややうつろな表情は東京のことを思い返しているかのようだった。彼は士官学校予備校振武学校を終え高田の陸軍歩兵聯隊で見習い士官をしていた時に辛亥革命が起き、中国に戻った。
 「宝全」とドイツ名でなく彼の名付けた中国名で私を呼び「私が日本と戦えば誰が得をするか日本人はわからないのか」と言った。私の答えを求めているわけではなかった。一九三七年七月。盧溝橋事件は日本の対支一撃という暴発に過ぎなかったが、幕は上がった。
 八月、日本軍は上海に及んだ。予想していたことであった。蒋介石はドイツが用意させた塹壕戦で勝てると強気なそぶりを崩さず平然と事態を受けれているかに見えた。が、心中には疑念もあり、ふとした折りに私を信頼してか問いかけた。「日本人はなにを求めているのか。満州国の承認を求めているのではなかったのか。」
 二年前、蒋介石は大使を通じてまだ外相だった広田弘毅と会談していた。日本は、日中提携三原則として、排日停止・満州国承認・赤化防止を持ち出した。会談の席の後、蒋介石は広田に伝えた、「広田さん、排日停止と赤化防止はいいでしょう。しかし、日本が中国に対して満州国を承認しろというのはどういう了見なんですか。満州が日本の傀儡国家だと世界に向けて日本が主張しているのと同じですよ。満州についてはすでに通郵協定も設関協定も結んでいるというのに。」
 広田は苦笑するだけだった。中国にしてみればこれを受け入れる意味のないことを広田は了解しているようだった。
 上海戦は予想外に崩れた。蒋介石は私に「ドイツ人ならこの事態をどう見えるかね」と訊いた。軍事顧問としての私には皮肉な響きもあった。
 私は蒋介石にこの事態への見方を変えるべく答えた。「ドイツの東部にシュレージエンという土地があります。オーストリア継承戦争の結果、ハプスブルク領のシュレージエンはプロイセンへ帰属することになりましたが、他国はこれを認めません。その時代を連想します。欧米人から見れば、日本は満州と中国の国境を明確にしたいのだと理解するでしょう。」
 蒋介石はぼんやりと聞いていたが、もう少し話を聞きたいようだったので、提案を切り出してみた。「よろしければ私たちから和平交渉を切り出しましょうか。第三国が和平の証人になれば日本も考え直すでしょう。」
 蒋介石は許諾した。私は早速駐中ドイツ大使トラウトマンに和平交渉にあたるように本国経由で打診した。
 ドイツ本国はすぐに承諾した。ドイツにとって重要なことは、蒋介石の軍隊が強まり、ソ連国境に緊張をもたらすことだ。ソ連軍がドイツに対して手薄になることが好ましい。ドイツでは日本の軍事活動に対する官製デモまで実施された。少しでも日本を中国から引かせておくのが得策である。
 トラウトマンは広田外相に接触し、広田は駐日ドイツ大使ディルクセンに和平斡旋を要請した。日本側が提示した内容は大筋で以前の日中提携三原則と大して変わりのないしろものだった。
 十一月。日本軍が南京に迫りつつあった。
 十二月一日。よくない情報が密かに私のもとに入った。日本の大本営は南京総攻撃の認可を現地軍に与えたというのだ。命令ではないのかと確認させたが、攻撃命令ではない。
 トラウトマンによる交渉は難航したものの、十二月二日、蒋介石は日本案を受諾し、さらに和平会議を提案した。
 十二月八日、日本は受諾の確認をした。広田外相は中国受諾の旨、天皇に上奏した。これで、盧溝橋事件から始まる一連の騒動は終わることになった……
 しかし、二日後、十二月十日、日本軍による南京総攻撃が開始された。
 なぜだ。日本から提示された条件をすべて飲み、和平交渉が終了したのに攻撃が始まるのか。
 蒋介石は疲労の色を深めながら私に静かに言った。「私は君やトラウトマンに騙されたということかね。」
 私は即座に否定した。

【参考】
「日本人と中国人」(参照
「現代中国と日本」(参照

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2006.08.15

終戦メモ

 今朝の読売新聞社説”[終戦の日]「『昭和戦争』の責任を問う」”(参照)を読んで困ったもんだなと思い、いやいやそんなものさと明るく笑って忘れることにするか苦笑に抑えるべきかちと迷ったのだが、考えてみれば憲法私案の読売新聞なんだからどうでもいいやということにしたものの、さすがにこの一点はどうなんでしょと思ったことがあったので、簡単にメモ書きしておきたい。


 また、同じく「A級戦犯」で、終身刑の判決を受けた賀屋興宣蔵相には、日米開戦時の閣僚だったという以外の戦争責任は見当たらない。しかも、開戦には反対していた。
 逆に、戦争を終結に導いた“功績”がしばしば語られてきた鈴木貫太郎首相にも、「終戦」の時期を先送りして原爆投下とソ連の参戦を招いたという意味での戦争責任があった。

 読売様によると、開戦に反対した賀屋興宣は無罪で、終戦に尽力された鈴木貫太郎が有罪ですか。私は天を仰ぐ。まあ、男の人生というのはそんなものかいう一般論でもあるが、さすがに隔世の感はあるな。
 ウィキペディアにも面白いことが書いてあるかなと覗くと懸念した方向とは別だった(参照)。

その後の天皇臨席での最高戦争指導会議(御前会議)で、鈴木は従来の多数決にせず、いきなり起立した。陸軍大臣・阿南惟幾が鈴木の行動の裏にあるものを直感して止めようとした。鈴木が御前会議の慣例を破って、天皇の和平を望む発言を引き出そうとしている、と悟ったのだ。鈴木は阿南の制止を無視し、「陛下の思召をもってこの会議の結論にしたいと存じます。」という言葉を搾り出した。天皇は涙ながらに、ポツダム宣言受諾の心情を吐露した。鈴木は天皇の口から直接意見を言わせることで、大戦争を終わらせた。

cover
昭和史の
謎を追う〈下〉
 「その後の天皇臨席」の日時がこの項目から読み取れないが八月九日深夜である。「昭和史の謎を追う〈下〉」(参照)の終戦史再開(上)で補足すると次のようだった。

 八月九日深夜の最高戦争指導会議構成員(六巨頭に平沼枢密院議長を加えた)による御前会議は、無条件降伏を要求しているポツダム宣言の受諾をめぐり、国体護持(天皇制の保全)だけを条件とする東郷外相と、四条件(自発的武装解除、連合軍の進駐拒否、戦犯を処罰しない、を加えたもの)付きを主張する阿南陸相の意見が対立し、東郷を支持する米内、平沼と、阿南を支持する梅津参謀総長、豊田軍令部総長が三対三で分かれた。
 多数決なら鈴木が票を投じて四対三となるところだが、首相は進み出て聖断を仰ぎ、天皇は外相案に賛成すると述べ、ひきつづき開いた閣議も、この結論を承認した。

 阿南派を巧妙に排除する鈴木貫太郎の機転のように思われるがそうではなかった。

 さて、ここで登場した「聖断」は、前年夏頃から木戸内大臣を含む重臣の間でひそかに検討されていた秘策で、鈴木のとっさの思いつきではなかった。ただし、聖断には憲法上の根拠はなく、御前会議も法制的裏付けのない懇談の場にすぎないという弱点があった。

 平沼の去就には後日譚があるが省略するとして、これを機に阿南陸相夫人実弟竹下正彦中佐らはこの動向を覆すべく十四日午前十時にクーデターを計画するが不発に終わった。梅津参謀総長が同意しなかったためである。不穏な動きは他にもあるが省略。
 が、直後梅津に動きがあったという流れが出た。

 その梅津が変心してやる気になった、との情報が原中佐から竹下の耳に入ったのは、十四日の十一時ごろである。意気消沈していた竹下は気を取り直し、「兵力使用第二案」を急ぎ起案して、御前会議のため宮中に入っていた阿南陸相のもとにかけつける。

cover
日本のいちばん長い日
 結果は有名な「阿南を斬ってからやれ」ということで阿南がその場を収めた。ちなみにこの夜、阿南はポツダム宣言の最終的な受諾返電の直前に陸相官邸で「一死、大罪を謝す」(参照)として自刃。絶命したのは翌十五日。三島由紀夫のように介錯があれば切腹は短時間で死ねるものだが、そうでないととても痛いし苦しい。よい子はまねしないように。
 鈴木を断罪した読売新聞様は阿南については疑問もなく断罪で済むかもしれないが、歴史を考える者にしてみると阿南の評価は難しい。
 「昭和史の謎を追う〈下〉」では面白い視点を出している。

 ところが数年前、親泊朝省大佐(大本営報道部員)が九月三日の自決に際して上司の報道部長あてた遺書が、茶園義男によって発見された。この遺書には「国体護持ができぬ事を明瞭知りつつ奸賊をさえ斬る機会を有たなかった憾み――天なり命なり……聖将阿南閣下の後を慕わせていただき度いと存じます」とあり、今も健在の上田少将はこの「奸賊」が米内海省を指すと認めた(『増刊歴史と人物』一九六八年、の茶園稿)。

 阿南は米内を斬れとも口走っていたらしいが、阿南に立ちふさがったのは米内光政であったか。

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2006.08.13

統帥権についてささやかなメモ

 今朝の朝日新聞社説”「侵略」と「責任」見据えて 親子で戦争を考える”(参照)は私には新味のないつまらないお話に過ぎなかったのだが、文中唐突に現れる「統帥」という言葉にひっかかった。この言葉は現代日本においては日常語ではない。大衆紙の社説に使うのであれば、もう少しくだいた表現になるべきではないかと思うのだが、そうできない、あるいはそうしたくない含みを感じた。


 実質的な権限はともあれ、昭和天皇は陸海軍を統帥し、「皇軍」の兵士を戦場に送り出した。終戦直後、何らかの責任を問う声があったのは当然だが、東京裁判には出廷さえ求められなかった。その権威が戦後の統治に必要だと米国が考えたからである。

 戦後のGHQ統治に天皇の権威が必要ゆえに免責されたというのが歴史の解釈を超えて歴史の事実のように書かれているが、そんなことに目くじらを立てるものでもない。気になったのは、「昭和天皇は陸海軍を統帥し」という文言が何を意味しているかという点だ。
 「統帥」について字引を引くと意味は明瞭である。大辞林より(参照)。

とうすい 0 【統帥】
(名)スル
軍隊を支配下におき率いること。
「天皇は陸海軍を―す/大日本帝国憲法」

 親切に用例までついている。だが、朝日新聞社説は「昭和天皇は陸海軍を支配下におき率い」と書き換えることはできただろうか。たぶんできないだろう。この問題はれいのやっかいな統帥権問題に関係するからである。
 統帥権問題の中心たる「統帥権」だがウィキペディアをひくと存外に微妙な説明が掲載されている(参照)。

 統帥権(とうすいけん)とは、軍を統括する権能をいう。大日本帝国憲法(以下明治憲法)下では第11条により天皇が持ち、戦後では自衛隊法第7条により内閣総理大臣が持つ。
 明治憲法下では、天皇の権能(大権)は、特に規定がなければ、国務大臣が補弼することとなっていたが、憲法に明記されていなかったが、慣習的に軍令については、国務大臣が輔弼せず、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補弼することとなっていた。

 話を先回りしていうと、この「とは」論が間違っているのではないかとも思うが、さしあたって気になるのは第二段落である。素直に読めば、戦前・戦中の天皇には軍を統括していないことになる……と書いて、少し勇み足だった。ここで問題になるのは、「国務大臣が補弼すること」というのが何を意味しているかだ。
 これに関連してたまたま社会学者の宮台慎司の解説を”YouTube - 左翼はずっと嘘をついてきた”(参照)で聞いたのだが、彼は統帥権を「軍令部の補弼」としていた。
 そこで補弼とはなにかだが、先と同様に大辞林を引くと明快であるとともに一貫している(参照)。

ほひつ 0 【▼輔▼弼/補▼弼】
(名)スル
(1)天子の政治をたすけること。また、その人。
(2)旧憲法で、天皇の権能行使に対し、助言を与えること。
「国務各大臣は天皇を―し其の責に任ず/大日本帝国憲法」

 単純に読み取れば、大日本帝国憲法下では、補弼とは大臣の助言に過ぎず、天皇は助言を勝手に判断できるかのように読める。さすがだな、三省堂、とも思うが字義のレベルでの一貫性はあるのだろう。
 問題は、では、補弼が歴史的にどうようなものであったかということになり、この先は辞書の議論ではないかのようだが、広辞苑はもうちょっと踏み込んでいる。

ほ‐ひつ【輔弼】
①天子の政治をたすけること。また、その役。
②明治憲法の観念で、天皇の行為としてなされ或いはなされざるべきことについて進言し、採納を奏請し、その全責任を負うこと。国務上の輔弼は国務大臣、宮務上の輔弼は宮内大臣および内大臣、統帥上の輔弼は参謀総長・軍令部総長の職責であった。「―の任」

 重要なことは、その助言・進言者が全責任を負うとしている点で、つまりは、天皇には責任を追わないことになっている。統帥上の輔弼についても、大日本帝国憲法のロジックでは同じことになる。しかし、この問題についてはやはり歴史学・憲法学に立ち入ることになるのでここではそれ以上踏み込まない。
 ウィキペディアの解説に戻ると、やや奇妙に読める解説がある。「憲法に明記されていなかったが、慣習的に軍令については、国務大臣が輔弼せず、統帥部(陸軍:参謀総長。海軍:軍令部総長)が補弼することとなっていた」ということで、ここの解釈が難しい。ウィキペディアの解説というか、特定の立場の見解だと私は考えるのだが、この問題の根幹を大日本帝国憲法の「缺陥」としている。余談だが、この項目の英語の対応は"Chain of command"だがなにかの間違いであろうか。
 この統帥権問題についての議論にはテクニカルな問題が多いのだが、私のような素人がいつも疑問に思うのは、統帥権のコアとなる意味の了解である。ちょっと刺激的な言い方をすると、このコアの部分が理解されていないのにテクニカルな議論が盛んになっているように見える。
 ではそのコアとはなにかなのだが、私の理解は小室直樹と山本七平の対談集「日本教の社会学」にべたに寄っている。なお、同書は復刻されているのだろうか?
 小室直樹は日本の軍というものに触れて、こう続ける。

小室 ですからそういう意識があればこそ「統帥権の独立」というものは徹底的に誤解されたんですよ。「統帥権の独立」とは、まず、軍隊を国民から隔離することであると。それからさらに、軍部が勝手なことをしてもよろしと、そこまで誤解したんだから、どうしようもないんですね。「統帥権の独立」ということが意味をもつための第一の必要条件は、政府と軍部とのあいだの密接な協同(コーディネーション)にあるのです。

 ちょっと聞くと違和感があるかと思うが。これを小室は詳しく解説している。

小室 歴史的にいいますと、統帥権の独立とは、ビスマルクとモルトケとウイルヘルム一世の関係から出てきたのです。ビスマルクは鼻っ端が強いから、用兵の内容までもいちいちくちばしを出すんだそうですよ。ところがモルトケは、「おまえは外交の天才かもかもしれないけど、戦争のほうはおれにまかせとけ」と。いっさい作戦内容には容喙させなかった。しかしながら、国家的見地に立った大国策、大戦略に関しては、モルトケはビスマルクに絶対服従。

 対談で山本七平が日華事変について触れたのに対して。

小室 近代戦というのはそういうものじゃなくて、クラウゼヴィッツもいっているように、軍事は政治外交の延長であるという理解から出発します。ゆえに軍部は統帥権が独立していようがなかろうが、総理大臣の命令には絶対服従するというのでなければ意味がないわけです。だから、内閣の方針として「戦争やめろ」といったら、ピタッとやめる。ただし、統帥権が独立している場合は、総理大臣といえども、軍隊の動かし方の内容に関してはひと言も発言できない。そういう意味なんですよ、本来。

 繰り返しになるが、軍事は政府(総理大臣)下の外交の延長であるが、軍事活動内容は政府から独立しているということで、だからこそ、統帥権の独立が意味をもつための第一の必要条件が政府と軍部とのあいだの密接な協同(コーディネーション)となる。
 そして、小室の指摘によれば、日本における「統帥権の独立」問題は、そのコア概念の誤解から始まっていた。あるいは意図的な曲解であり、それを「統帥権の独立」というふう一般的な概念で捉えていいのか、疑問を促す。

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2006.08.12

[書評]日本人と中国人(イザヤ・ベンダサン)

 「日本人と中国人」(イザヤ・ベンダサン)(参照)についてこのブログで取り上げることはないだろうと思っていた。分かり切った無用な議論はしたくない。だが、昨日のエントリでいただいた「うんこ」さんのコメント「かっこつけて間違ってたことを誤魔化そうとするから何年経っても進歩がないんだよ」に触発されて、あっ違った、もとうんこさんこと現「私」さんからのコメントで、この本のことを思い出した。


 倭寇の時代の物語など考察されると、今後10~20年程度の行く末が見えるんでないかと。>最終弁当(finalvent)

 氏が倭寇の時代の物語にどう謎を掛けているのか、よくわからないので、その応えということではない。思い出したのは、同書に描かれている日本と中国と倭寇の関係である。
 先日蒋介石国民党関連の資料を見ていたら「倭寇」とあって、いつまでたっても日本人は倭寇かよ、しかし歴史上の倭寇は日本人とは言えないぜと苦笑しつつ、しかしどっちにしても中国人にしてみれば日本人はイコール倭寇か、とさらに苦笑した。確かに日本はひどいものだった、というのは、いわゆる倭寇とされる略奪のことではない。日本は当時、日本刀という武器輸出国だったことである。
 足利義満の死後、義持は中国の礼を尽くした対応を無視して日中断行を決した。微笑外交がうまくいかなければ怒ってみせるのが中国(明)というものである。しかし日本はさらに無視した。この時代、中国が困惑していたのは倭寇であった。

彼が対中断行をしたのは、当然それなりの理由があった。しかしこの問題は、日本側からだけ眺めては不公平で、日中双方の問題点を調べねばならない。問題は倭寇にあった。倭寇は本質的は商人で、いわば私貿易業者というべきものであっただろう。というのは、中国側が自由貿易を認めれば自然に消滅するからである。

 そして自由貿易ができなくなると武装化する。余談だが、このようすは琉球もからんでいて面白いのだが先を進める。

では「政教分離」で自由貿易を許可しておけばよいではないか、なぜ、中国側は自由貿易を禁ずるのか、日本側は自由放任だから、中国側も自由放任にすればよいではないか、と考えたくなるが、そうはいかない理由が中国側にはあった。

 イザヤ・ベンダサンはそれを日本刀という武器輸出の問題と見ていた。

 この日本刀がどれだけ輸出されたか明らかではないが、一四五一年から一五〇〇年までの半世紀間(足利義成<政>-義高<澄>の間)、記録に残るものの総計だけでなんと約九万本になる。


 といって貿易を禁ずれば、相手はたちまち海賊に早がわりする。といって貿易を許せば、何しろ輸出品は日本刀しかないも同様だから、ずんずんと民間や地方豪族の手元に武器が流れ込んでしまう。倭寇といってもその主体は中国人である、ということは多くの資料が証明しているが、彼らの持つ武器がメイド・イン・ジャパンであったことは想像にかたくない。従って、倭寇にとっては、武器を売って民需品を購入してもいいし、武器を沿岸中国人に与え、その代償に民需品を掠奪させてそれを日本に持ち帰ってもいいわけだから、貿易を許可すれば途端に倭寇は静まる。しかしそれでは、武器の中国への自由流入を認めることになってしまう。中国側から見れば、当時の日本とはまことに始末の悪い対象であって、中国にとって、おそらくはじめて経験した奇妙な状態であったろう。

 現代日本は武器輸出をしない国家になってので、すべては過ぎ去った歴史と見ることもできるが、同様に困った別の物をだらだら現在も輸出しづけている国家と見えないこともないかもしれない。
cover
日本人と中国人
 倭寇の歴史は前期後期に分けれらるので、倭寇は単純に中国人とは言い切れない。「中世倭人伝(村井章介)」(参照)で描かれているように、日本人とも朝鮮人ともつかない集団という側面もあった。そしてこの集団は明朝崩壊から清朝成立に関わっており、今日の東アジア世界の基本のフレームワークを形成していく。
 話を本書の「日本人と中国人」に戻す。私はこの本を月刊文藝春秋掲載時から背伸びして読み返してきた。いつか単行本にならないものかと思ったがそうなるには長い月日が経った。山本七平ライブラリーで収録されそして現在は単行本となった。三十年以上の年月が経ったが今現在読み返しても新しいなにかが読み取れるだろう。
 本書の中心的な価値の一つは、南京攻略がなぜ行われたのかという難問への一つの回答である。その不可解さを理解する試みは、現在の日本人にも難しい。ただ、この問題はこれ以上触れない。

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2006.08.11

中国の外貨準備高が日本を抜いたことへのやや妄想っぽい話

 先日書いた”極東ブログ: [書評]もう一つの鎖国―日本は世界で孤立する (カレル・ヴァン ウォルフレン)”(参照)のことがその後もなんとなく気になっているのだが、その関連で、アジア特に中国の外貨準備高について、先日ラジオで聞いた内橋克人の話がわかりやすかった。そのさわりのメモからファクツを並べてみる。
 ポイントは中国の外貨準備高だが日本を抜いたこと。日本が八千五百億ドルだが、中国は八千五百三十六億ドル(GDPの四割)。しかもその達成速度が速い。この二年間に二倍になった。毎月百八十億ドルの増加。年内に一兆ドル規模に近づく。
 中国の外貨準備高増の理由として主に対米の貿易収支による黒字が筆頭でこれが増分の半分を占める。次に対中直接投資(資本進出)が三割。投機は一割程度。
 東アジア全体の外貨準備高も増加し、世界四兆ドルの外貨準備高の六割がアジアが占める。上位七国が東アジアの国ということで、一九九七年のアジア通貨危機といったことはほぼ完全に過去のことになった。
 これらの外貨準備高だが米国債として消化されるわけで、中国の外貨準備高の六割から七割がドル建ての米国債になっている。
 当然、米国債を支える外国の比率も変わる。二〇〇四年段階で、ヨーロッパが三九・七パーセントに対して、アジアが四一・二パーセント。米国を支えているセクターとしてはアジアのほうがヨーロッパより大きい。この変化も最近のことで、二〇〇〇年ではヨーロッパが六一・四パーセントに対して、アジアは二二・八パーセントだった。
 以上がファクツ。
 これに対して内橋は、問題点として、もし中国が米債を売るようなことがあれば、ドルが暴落しアジア全体に影響するだろうし、日本は急激な円高になるだろう、ということで、そうしたことがないように中国とアジアの経済の協調体制を重視しなければならないというのだが、そのあたりが、れいによって私にはよくわからない。
 わからないポイントは、”極東ブログ: [書評]もう一つの鎖国―日本は世界で孤立する (カレル・ヴァン ウォルフレン)”(参照)でも触れたように、やはり中国が米国債を売るということがあるのかということだ。
 同エントリでは、”マクシミリアンの日記:中国は米国債を売るか”(参照)で親切にもトラバをいただいた。まず前提としてはウォルフレンも言っているのだが、そう短期的にそうした動きが出てくるわけではない。つまり差し迫った危機というほどではないとは言える。
 では、そんなことは長期的にもないのかというとよくわからない。


不良債権処理はどうか。対外的に伸して行くためには、当然BIS規制をクリアする民族資本銀行をいくつか持っておきたいところでしょうから、積極的に処理していくでしょう。そうなった場合、政府のバランスシートの悪化は免れません。これを何でファイナンスするかが問題になるでしょうね。米国債でやっちまおうという輩も出てくることでしょうが、多分その頃には中国は自力で十分ファイナンスできるようになっていることでしょう。

 私が経済オンチなこともあって、反論とかではなくその予想に妥当性を感じない。

とは言え、中国が、長期的にはユーロを交えた通貨バスケット制に移行したがっているのは周知のことですから、徐々に外貨のウチの米債の比率を少なくしていく方向にはなるんでしょうな。もしかしたらコレ、中国のエネルギー問題絡んでませんかね。アメリカは米債を売ったら「損をするのは中国」で「他にもドル債を買える国はある」と言ってますが、ユーロ圏のロシアが米債を買うことは無いでしょう。アメリカにとって悩ましいのは、インドとブラジルをどれほど頼りにできるのかということ。

 つまり、中国の米国債減少はある程度オン・スケジュールでBRICS移行があるか? そのあたりもあまりピンとこない。
 中国の米国債減少は国策と見てもいいのだろう。うさんくさい話を広げたいわけではないが、四月の”中国は米国債の保有高を徐々に引き下げるべき=全人代副委員長”(参照)のストーリーに関心が持たれるということ自体がある程度の裏付けなのだろう。

中国全国人民代表大会(全人代)の成思危副委員長は、中国は米国債の保有高を徐々に引き下げるべきで、ドル建て債の購入を中止することもできる、との考えを示した。香港の中国系新聞「文匯報」が伝えたもので、発言は3日に香港で行われた。


 中国は大量の米国債を購入して、米国の経常赤字をファイナンスする形となっているため、この発言が伝えられたことを受けてドルがユーロや円に対して下落し、米国債が売られた。
 ただ、同副委員長の発言が、中国の外貨準備政策の決定権限を持つ最高幹部の意向を反映したものかどうかは明らかになっていない。
 同副委員長は10人以上いる全人代副委員長の1人で、経済政策について発言することの多いエコノミスト。ランクは閣僚よりも高く、副首相と同等だが、経済政策について特定の権限は持っていない。

 私の認識としては、ウォルフレンの警鐘はけっこう重要なのでないかということで、そこから彼の議論を再構築すると、いわゆるネオコン的な米国の動向はその対応と見てよいのではないかという感じもする。と書きながらトンデモかもな俺感はあるが。
 どさくさっぽい言い方になるが、いわゆるテロとの戦い史というかブッシュ・レジームによるとされている米国の巨大な赤字だが、米国が赤字を垂れ流しているというより、こうした米国債を購入する中国プラスアジア諸国のお買い物として、実際上用意されていたということではないのだろうか。
 話をきな臭くもっていくという自覚を残しつつ言うのだが、日本の米軍基地は日本ではあまり語られていないが、日本を暴発させないための「ビンの蓋」という意味があり、それは東京を米軍が一気に鎮圧できる配備でもわかるものだった。これが今後、ビンの蓋から、米国の対アジア・中東の戦略基地という形で一体化されるわけだが、広く見れば、今後はアジアのビンの蓋となると見えないこともない。
 話がだいぶ杜撰になってきたが、私は中国なんていう巨大な国家はなんかの錯誤で、あの全体が南米のように分割されるのが歴史の必然というものだろうと考えていた。しかし、経済的な理由から、つまり米国を中心とした経済の世界システム的なものの必要性から、あの巨大国家は維持されなければならず、しかも、暴発しないようにかつ資金を吸い上げるように軍事フィクションという芝居を続けることになっているようにも思える。
 そんなことはあり得ないよというのがあれば、傾聴したい。

追記
 有益なコメント・トラックバックをいただいた。感謝したい。この問題に関心あるかたに示唆深いと思われる。

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2006.08.09

明石順三のこと

 中学生のころ読んだ岩波新書でその後ずっと自分の人生観の根っこのころに沈んでいるのは、今読み返したら愉快かもの「キューバ:一つの革命の解剖」ではなく、「兵役を拒否した日本人 灯台社の戦時下抵抗」(参照)だ。先日書棚を整理して中学生のころ書いた日記なんかと一緒に発見したが、その後見つからない。間違って処分してしまったのだろうか。
 アマゾンの古書で安く買えるならまた買ってもいいけど、そもそもリストなんか載ってないだろうと思ったらそうでもなかった。紹介がてらに釣り書きを引用したい。


昭和14年、ほぼ時を同じくして3人の兵士が上官に兵役拒否を申し出た。彼らが所属するキリスト教集団灯台社は、以後苛酷な弾圧にさらされる。兵役を拒否し、信仰を貫くという行為に直面して、戦争への道を疾走しはじめていた軍隊や国家は、どのような本質を露呈したか。関係者の証言や新資料により、抵抗者たちの生き方を描く。

 明石順三はその灯台社のリーダーだった。
 私はこの本を読んで良心的兵役拒否というものを知った。中学生ながらに、世の中を平和にする・戦争を無くするというなら、みんな自分の良心から兵役を拒否すればいいのではないかと単純に考えた。そして、この思想の背景からクェーカーについて関心を持った。私はクェーカーの信仰は持たないがそうしたことを思っていると、人生にはちょっとした出会いのようなことはあった。
cover
良心的兵役拒否の潮流
日本と世界の非戦の系譜
 昔の読書記憶に頼るのだが、明石順三ら灯台社の人々は、良心的兵役拒否の考えに従ったというより、ごく単純に彼らのキリスト教信仰に従ったようにしか見えなかった。そういう人の生き方というのはなんなのだろうとも思った。平和・反戦が先にあったわけではない。後に私はマザー・テレサについても関心を持ち、カルカッタにも行ったくらいだが(現地の人に阻まれたが)、彼女の人道的な立場もまるで人道の概念に寄ったものではなく、ただの彼女の信仰の延長だった。しかも、その信仰はどうやら一般に理解されているものとはかなり違うことを知って驚いたことがある。
 明石順三について、私はいわゆる平和運動の人から話を聞いたことがない。ちょっとその方面に話を向けると嫌がられるというか間違った思想であるかのような対応を受けた。今思うと、平和運動というのは平和教とでもいうべき信仰の形態に近いので宗教的な対立でもあったのか、あるいは、いわゆる戦時下の反戦運動や一般的なキリスト教徒にはなにか、突かれたくない問題があるようにも思えた。
 灯台社は現在のものみの塔だと理解されている。ウィキペディアの兵(日本軍)(参照)の項目にはこうある。

兵役拒否
 兵役拒否は兵営で、あるいは一般社会で公然と兵役に付かない意思表示をすることである。
 「兵役に付かない意思表示」と一言でいっても、実行には信念と勇気が必要とされ、ひとたび意思表示をすれば、厳しい徴兵令(後に兵役法)違反として処罰された。兵役拒否にものみの塔(エホバの証人)など信仰、宗教上の信念に基づいて行ったものなどいくつかの例があるが、日本では兵役拒否についてあまり知られていないのが実情である。
 註:戦時にものみの塔代表だった明石順三は、アメリカ合衆国のものみの塔(Watch Tower)が戦争に協力したことに異議を唱え、敗戦後にものみの塔を離れている。

 日本で兵役拒否がその歴史とともにあまり知られない理由には、明石順三の評価が関係しているようにも思うが、それはさておき、この記述だと、平和信念の人明石順三が、あたかも日共に対立した筆坂秀世のように、米国本部と対立したかのようだが……そうとも言えないこともないか……確か事情は違っていて、明石順三だけではなく彼に従った人も自然に米本部から離れていったようで、戦前・戦中の灯台社と戦後のものみの塔とは人的にはつながっていないようだ。
 明石順三については反戦運動家や一般的なキリスト教徒が触れたくないような印象を持つのはそれが平和運動でもなく、また所謂異端キリスト教だったからだろう。
 この問題は私が高校生になってからも奇妙に心を離れなかった。というのは私の記憶だが確かあのころ、ものみの塔信者の輸血拒否が問題になっていたこともあるが、どうやら自分の高校で信者による体育の武道拒否者が出たようだ。私はこのことが気になって、幾人か先生に聞いたが、そんなことに首を突っ込むんじゃねー的な対応を受けた。
 そういえば以前暮らしてていた町でよくものみの塔の信者がやってくるので明石順三のことを聞いたことがある。どういう対応だったか忘れたが、彼らは私を覚えていていろいろ内部資料を持ってきてくれた。ある意味で貴重なものなのでファイリングしていたが、これも無くしてしまった。記憶によるのだが、米国のワッチタワーの本部としては、なにかの理由で明石順三は契約を裏切ったということになっていた。もちろん、訪問の信者はそんなことにはあまり関心を持ってないようだった。
 ウィキペディアの「日本の宗教家一覧」(参照)にはその筆頭に「明石順三」があり、彼をリストに含めた人の見識を評価するが、項目は書かれていない。
 明石順三は後年万葉集など日本の古典に魂の慰みを見つけたようで、その人柄や生涯の全体から考えてみたいと思うが、それでも、これまでの私の人生に彼が投げかけた一番大きな問いかけは、「狂信者にしか見えない人が私の良心である可能性がある」ということだ。考えてみたら、パウロもそのように見られていたな。
 ただの連想なのだが、先日胡錦涛訪米のおり、オープンのプレスで王文怡女医が胡錦涛の面前で法輪功迫害を止めよと叫び騒動になったことを思い出す。
 ワシントンポスト”Overreacting to Protest”(参照)によると、彼女はその後六ヶ月の禁固刑を食らったようで、同紙はそんなに重罰なのかと疑問を投げかけていた。私もそんなものかなとは思っていた。
 だが私は問題を勘違いしていたのかもしれない。三日付けのクリスチャン・サイエンスモニター”Organ harvesting and China's openness”(参照)を読んでぞっとし、よもやと思い返した。同記事は法輪功信者が臓器提供の対象となっているもので、これまでアングラ情報とされてきたものだ。

A report from two respected Canadian human rights activists, featured in today's Monitor and widely elsewhere, charges China with putting to death "a large but unknown number of Falun Gong prisoners of conscience" since 1999 and selling their organs - hearts, kidneys, livers, corneas - at high prices to foreigners. China quickly dismissed the charges.

The report's evidence is circumstantial, but persuasive. It includes a sharp rise in transplants that parallels massive arrests of Falun Gong members, websites listing organs for sale, officials at Chinese hospitals and clinics admitting by phone that they have Falun Gong organs on hand, and a shocking secondhand account from the wife of a transplant surgeon.


 やはりそうだったのかと思ったのはその事実ではなく、王文怡女医についてだ。ソースの信用性はよくわからないだが、カンザス・シティ・インフォジーン”Public Forum: Harvesting Organs from Living Falun Gong Practitioners for Transplant in China”(参照)にこうあった。

On April 20, Dr. Wang cried out at the ceremony for Chinese leader Hu Jintao on the South Lawn of the White House. Dr. Wang called out to Mr. Hu and President Bush to stop the organ harvesting from live Falun Gong practitioners in China's labor camps and end the 7-year persecution of Falun Gong

 これが本当なら私は彼女の叫びを聞いていなかったことになる。
 彼女は法輪功信者なのではないかと思うし、私にしてみると、奇妙な宗教の狂信者の類である。だが、もしかして、「狂信者にしか見えない人が私の良心である可能性がある」ということだったのではないか。
 この問題はよくわからない。情報源があまりに不確かだし、今考えると、ワシントンポストの扱いもあえてこの問題に触れてないようだ。たしかに、あまり考えたくもない問題でもある。人は本当の良心というものにあまり向き合いたくないものだ。

追記
 エントリ執筆後、次のページを知った。この情報が確かなら、明石順三は戦後、戦前の灯台社を再興したのち、一九四七年彼の本部質問状ゆえに除名となり、ここで灯台社と戦後のものみの塔は分断した。

ものみの塔日本支部の基本財産(参照

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2006.08.08

冷麺とか

 この夏は冷麺をよく食っている。以前から冷麺は好きなのだが、今年はなんかちょっとしたマイブームである。と言いつつ、何がうまい冷麺なのかわからない。適当にスーパーとかデパチカで買ってきて湯がいて食うだけのこと。
 以前は冷麺は韓国食材の店で買っていた。歌舞伎町によく行った店があるが、以前暮らしていた町にもなぜかあった。店には昔は美人だったんじゃないかなという感じの気の強そうなおばさんがいて、私が興味深そうに商品を見ていると当初はうさんくさそうな視線を投げていた。愛想はすごく悪い。商品は高い。この近在でこの値段では売れないでしょという感じ。他に客が入ってくるのも見かけたことがない。今思い出しても謎だ。
 その店のキムチとかうまかった。あれを食うと他のキムチは論外でしょという感じだったのでよくその店に通った。そうしているうちに、おばさんも気を許してくる感じがしたし、いろいろ食材のことも聞くようになった。おばさんの日本語はちょっと変な感じがしたのでいわゆる在日ではないのかもしれない。話を聞くと食材は彼女のお手製らしい。驚いた。キムチはもちろん、ナムルなんかもうまかった。チンジャというのをその店で覚えた。コチュジャンも瓶詰めではなかった。今思うとケジャンはなかった。ポンテギもなかった。トラジは……そういえば、以前トラジのこと書いたな、「極東ブログ: トラジ、トラジ」(参照)。
 店は私が沖縄で暮らしているうちになくなっていた。そういえば別の町だがうまい朝鮮料理の店があった。近所では焼き肉屋と見られているのだが、メニューを見ているとそうではない。チゲはもう絶品だった。ケジャンもうまかった。店は朝鮮人がやっているのかわからない。娘さんらしい人が給仕をしてくれるのだが日本語がたどたどしい。大柄な美人だった。この店も今はない。というか今でもそこに焼き肉屋があるのだけど、別の店になっていた。
 昔通った店で今でもあるのは荻窪の南漢亭くらいかなとネットを見たら銀座店がある。同じ店の系列なんだろうか。南漢亭は一度だけなんかの手違いで厨房を覗いたことがある。白髪交じりの長髪の女性が調理しているのだが、なんというのか気品のオーラが漂っていた。給仕の立派そうな男性は息子さんだろうか。「なぜ貧者餅なの?」と一度聞いたら、困惑げに「昔は貧しい人が食べていたからでしょう」とのお答えだった。そういえばジョンとかメニューにあったか。最近行ってないな。
 朝鮮料理は朝鮮人が作るのがうまいもんだと思っていたが、そうでもないのかもしれない。以前職場の同僚に在日朝鮮人(韓国籍だっただろうか)がいて、なにかの飲み会のあとで、そうだ妹の店に行こうというのだ。え? こいつ妹いたの? しかも水商売? え?え?という興味につらてついていくと、こいつの妹のわけがねーという美人がいて、話も丁寧。したたかに飲んで、じゃラーメンだな、というころ、「チゲ」でも作りましょうかと彼女が言う。わー幸せとか思った。が、出てきたチゲは不味かった。
 このエントリのテーマは何だったったけ。冷麺か。どうでもいいか。
 さっき食ったのはモランボンの冷麺だが、スープに酸味がない。なぜなんだろう。冷麺のスープというのは水キムチから作るのではないかと思うのだが、わからない。そういえば、水キムチというのはスーパーとかではあまり見かけないように思う。白菜漬けとなにが違うと言われてもよくわからんというか同じものかもしれないし、こんなの簡単にできそうに思うのだが、水キムチのうまいのは至福に旨い。水茄子と水キムチが旨かったら夏もいい。
 アフィっぽい締めだが、ネットの通販では韓国食材は癒しのキムチ(参照)がうまいと思う。ページに掲載されてない商品でもアレはないのとか、あれはいつ(季節)からとか聞くと、丁寧に応答してくれた。

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2006.08.07

[書評]もう一つの鎖国―日本は世界で孤立する (カレル・ヴァン ウォルフレン)

 私はカレル・ヴァン ウォルフレンについて「日本 権力構造の謎」(参照上)以来の愛読者で考えてみればもう十五年以上にもなる。当時の空気を思い出すと、市民派の新しい理念の可能性を秘めながら、改憲や差別問題にも屈しない姿はすがすがしく思えたし、小沢一郎を明確に支持したのもスジが通っていた。彼は日本史・東洋史についての知識は乏しいものの、逆に欧米人の考え方の根幹のようなものをくっきりと見せてくれた。彼から私が学んだ最大のことは、市民と社会が敵対するとき国家が市民を守らなければならないということで、それまで私は吉本隆明風に国家という共同幻想は曲線を描きながら死滅することを理念とすべきだと思っていた。が、まさにその曲線の部分で自分なりに西洋の考えかた特にルソーの一般意志論などを考えなおした。今思うと九〇年代だなと思うし、三十代の尻尾で自分もぶいぶいしていたと思う。

cover
もう一つの鎖国
日本は世界で孤立する
 ウォルフレンについての私の違和感は、基本的なところでは、ネオコンという思想についてであった。ネオコンについてはいわゆるネオコンと政治哲学的な部分があり、ジャーナリズム的に簡単に割り切れるものではないし、この議論に突っ込むだけの知見は私にはない。だが、大筋のところで私は、フランシス・フクヤマが「歴史の終わり 歴史の「終点」に立つ最後の人間」(参照上)で言うようにヘーゲル的な歴史の終焉の最終過程ではないかと思った。なお、フクヤマは最近この考えを否定している。
 この問題はセプテンバー・イレブンからイラク戦争、いわゆる「テロとの戦い」という流れのなかで理解され、日本など非英米圏の知識人は子ブッシュとネオコンの間違いという形で議論されることが多く、日本ではそれが表層的に左翼的な言説と結びつくように思えるのだが、そのまさに表層性において根幹たる思想的な批判を形成していないように私には思えた。
 ウォルフレンもまさに非英米圏の知識人として「ブッシュ/世界を壊した権力の真実」(参照)から「アメリカからの“独立”が日本人を幸福にする」(参照)において、そうした子ブッシュ=ネオコン思想という枠組みから日本の立ち位置を論じ、そしてそれは結果的に外部的な小泉政権批判という形に結びつくのだが、「世界の明日が決する日―米(アメリカ)大統領選後の世界はどうなるのか」(参照)を注意深く読めば、ウォルフレンが子ブッシュ=ネオコンをそう表層的に見ていないことはわかるし、その決した明日についてウォルフレンがどのように語り出すかということに私は関心を持ち続けた。が、「世界が日本を認める日―もうアメリカの「属国」でいる必要はない」(参照)は私はピンボケの印象を受けた。
 ウォルフレンは私のような読み方をしてきた読者にとっては、日本の内在について西洋的な市民原理性においてどのように批判が構築されるべきかという課題が主軸にあるだが、しだいにウォルフレンはあたかも彼自身がブッシュの鏡像のように日本を外在的にどういうふうな駒として動かすかという視点を語り出してしまった。
 私は、前回の郵政民営化衆院選だが、二人の意見を聞きたいと思った。一人は吉本隆明であり、もう一人はウォルフレンだった。吉本は「家族のゆくえ」(参照)において小泉支持という明瞭な形ではないが郵政民営化の方向性だけは消極的に是認していた。私はこのブログを始める一つのモチーフとして吉本隆明とどう自分が決別していくかといことがあったのだが、この三年間、方向は逆で吉本の巨大さが別の形で理解できるようになりつつある。ウォルフレンについては新聞などで口頭で語ってるものを見たが、ようするにあの選挙は自民党内部の権力シャッフルで意味はないとしているだけだった。私はおかしいと思った。自民党の権力シャッフルという見方は取りえないことはないが、問題はそこではない。まさに日本の経済体制の大きな変化をどう見るべきかという点だった。という以前に、日本を内在的に語らないウォルフレンを訝しく思うようになった。
 この訝しさは今回の「もう一つの鎖国―日本は世界で孤立する」(参照)という口述のような小冊子でかなり明瞭になった。
 本書は明瞭な中国擁護論であり、子ブッシュ=ネオコンが世界の危険であるという主張になっている。ただ、子細に読むと非常に曖昧な著作にも思えた。
 本書に対する個別の突っ込みや批判はいくらでもできる。私にとっての最大の問題点は、中国の内在的な人権で問題でも軍拡でもない。まさにウォルフレンがある程度頼ろうとしている国連を使って中国が国際的に結果的な非人道的な行為をまき散らしている点にある。端的に言う。中国が拒否権を使わなければダルフール危機はもっとましな対応が取れたのではないか。あるいは常任理事国としてもっと積極的にこの問題に関わることができたのではないかということだ。この問題を私が深刻だと思うのは、それはルワンダ・ジェノサイドについて人類が依然対応できないこと、様々な見解があるが20から40万人という無辜の人間が国家権力によって虐殺されたことだ。私はこの間の世界上の問題という点で、イラク戦争よりダルフール危機のほうが重要だと考えている。
 この問題に本書のウォルフレンはまったく口をぬぐっている。そう私が言えば、人道面した子ブッシュ派ネオコンとでも非難されるのだろうか。
 しかし、本書を全体として読み終えたとき、その価値は依然大きいし、ウォルフレンのこの著作は私にとって今だ愛読書となるだろうと思った。というのは日本の将来においてもっとも重要な問題についてはきちんと指摘しているからだ。
 問題は彼が言うところの「新ブレトンウッズ体制」の崩壊である。日本はすでに事実上米国の属国さらに傭兵国家と化していくだろうから、米国債を売ることはありえない。だが、中国はいつか売るだろう。現在の巧緻にも見える中国の経済運営を見ていると韓国のような間抜けなことをしないせよ、長期的に対米プレザンスを取り始めるだろう。ウォルフレンは米国の軍産共同体の自律的な動向を問題としているが、私にはそれ自体が中国のこの対応への布石に見える。
 ウォルフレンは本書で日本の左翼が言いそうな薄っぺらな小泉靖国参拝批判を述べているようだが、私は最大限ウォルフレンを好意的に見たい。というか、そこに本質的な問題はない。また、子ブッシュ=ネオコンもこの大きな経済の潮流の連鎖現象ですらあるだろう。
 自分にはわからないことであるが、経済通の方から見れば、中国が米国債を売るということはありえないトンデモですよアハハということだろうか。そうであればそうした議論を読んでみたいと思う。その一点がクリアなら、ウォルフレンを私はもう読み続けることはないだろう。

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2006.08.05

ヴェトミンに参加した日本兵

 先日朝のラジオでヴェトミン(参照)の軍事指導に当たった残留日本兵の話をしていた。今頃なんでこんな話が出てくるのだろうと奇妙に思ったのだが、クヮンガイ省に出来た士官学校の六十周年記念ということだった。この士官学校は現在はなく、軍敷地内に記念碑を残すだけだが、この機にもっと立派な記念碑を建てる計画があるそうだ。
 この話は秘史ということではない。ウィキペディアのベトナム(参照)にも記されている。


戦後、フランスが再び進駐してくると、それに対するベトナム国民の抵抗戦争(第一次インドシナ戦争)が始まったが、この戦争には日本軍兵士が多数参加した。当時、ベトナムには766人の日本兵がとどまっており、1954年のジュネーブ協定成立までに47人が戦病死した。なかには、陸軍士官学校を創設して、約200人のベトミン士官を養成した者もおり、1986年には8人の元日本兵がベトナム政府から表彰を受けた。なお、ジュネーブ協定によって150人が日本へ帰国したが、その他はベトナムに留まり続けた模様である。

 ラジオでの話によれば、日本人教官は四名で、うち一名は齢九十を超えて都下に住んでいるとのこと。
 六十周年記念では日本兵教官から学びヴェトミンの軍事中核となったヴェトナム人が二十名ほど集った。歳はすでに八十歳を超えている。彼らは軍事の基礎を日本人に学ぶことでフランスや後のアメリカと戦うことができたと語っていたとのこと。以上がラジオでの話。
 日本兵とヴェトミンの関わりについては近年研究が進んでいる。日本では元・朝日新聞記者で、サイゴン支局長としてサイゴン陥落にも立ち会った、現大阪経済法科大井川一久客員教授もこの歴史発掘に関わっているらしい。
 ネットを見ると、”Japanese soldiers with the Viet Minh”(参照)に比較的詳しい話があり、フランス側の資料からも研究が進んでいるようだ。このあたりの研究を日本語でまとめたものはないだろうか。小松清研究などにあるのだろうか。
 ウィキペディアの記事と相違があるが、井川教授によれば、ヴェトミンに参加した日本兵は六百人に及び、その半数が抗仏戦争で戦死・病死したらしい(ふとこの人々は靖国神社に祀られているのだろうかと疑問に思う。)
 読売新聞”ベトミンの英雄、旧日本兵の墓 ホチミン市西北に2つ見つかる”(1987.05.05 )には抗仏戦争で戦死した日本兵の墓の話があった。

 ベトナムの小さな村で日本人の墓が二つ見つかった。発見したのは、旧日本軍の足跡などを追っているアジア現代史家の吉沢南さん(43)(埼玉県富士見市関沢)。日本の敗戦直後に現地で軍を離れ、統一戦線組織「ベトミン」に参加、フランス軍と戦って戦死した旧日本兵の墓らしい。村人たちは今でも二人を英雄として敬い、墓を大事に守っている。だが、この墓に眠っているのが、どこのだれかわからない。戦後四十二年。吉沢さんは、異国に眠るこの二人が、村人たちの心の中と同じように、遺族の胸の中にも生き続けているはず、と関係者を懸命に捜している。

 生き残った元日本兵三百名だが、一九五四年ジュネーブ協定締結で抗仏戦争が終結し、その半数の百五十名は帰国した。
 単純な引き算であと百五十名はどうなったのかということだが、ベトナム人になったのだろう。「新ベトナム人」と呼ばれていたらしい。
 当然の類推だが、彼らは現地で妻を娶り子供なしただろうから、その子孫はどれほどになっているのか、その実態を知りたいと思う。フィリピンの例でもそうだが、父が日本人である場合、その子孫は日本国から見れば同胞の日本人である。

追記
コメントにてよい資料を教えてもらった。ありがとう。

井川一久(大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター客員教授)の報告書
PDF:「日越関係発展の方途を探る研究 ヴェトナム独立戦争参加日本人―その実態と日越両国にとっての歴史的意味― 」
PDF:「ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のあり方に関する研究」

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2006.08.04

ビーフン

 都会の朝が静かな季節になるので、のんびり寝ていたら来客あり。なんだと訊くと、飯は済んだかという。これからだと答えると食いに行くかという。嫌なこった。用はそれだけらしい。か・え・れ。と、もう八時か。湯を沸かし、フォーでも食うかと棚を覗くと切れている。いやあるじゃんと手にしたら上海白湯ビーフンだった。こんなの買ったっけ? 間違って買ったか。記憶が定かではない。が、これでもいいや。
 冷蔵庫を開けると芫荽がない。パクチーというべきか。ドクダミでも刻むかとも思うがさすがにな。卵もない。っていうか、ゆで卵にしたらするっと剥けそうなのが一個ある。これはな。ゆでた鶏肉とかはもちろんない。チャーシューの残りはある。チャーハンにもラーメンにも便利だし……しかし味の系統が違うしな。ネギは? ちょっとあるので刻む。レモンの汁でも入れるかとちと悩むがやめとく。

photo
 味の素のアジアめんシリーズはそれなりに美味しい。GIGAZINEみたいにうまうまとは書かないし、本場の味がどうたらとかもどうでもいいや。おまえ味の素食うのかよと突っ込まれそうだが、味の素の食品はまさに味の素の効かせ方が絶妙なんでそんなに舌がしびれないぜ。アフィリエイトのリンクでも貼ったれと思ったがソースがない。ロングテールとか言われるが単価の低いものはまだまだアフィリエイトには向かない。そういえば昨日だったか、アマゾンがビタミン剤とか扱うようになった。石鹸にいいのがあるかと覗いたけど、なかった。
 ビーフンが好きだ。なぜかよくわからん。麺食いなのでその一環かもしれないし、ビーフンはどれがいいのかもよくわからん。台湾物は歯ごたえと切れがポイントか。沖縄で暮らしていたころ台湾人の知人が新竹のこれがうまいと教えてくれた。溶けるやつはダメなんだよと言ってた。よくわからんが、同じように見えて値段の違うパッケージを示して教えてくれた。ちなみに素麺ならうまいのがわかるので、私はずぶずぶの日本人ということか。そういえば気のせいか華僑の店には同じように見えるけど値段の違うもの置いてあって、なんでしょ、日本人なら妥当な売れ筋のを一つしか置かないのにと疑問だったが、ふと今思ったのだが店のほうでこういうのから客の質を見ているのかな。
 ビーフンは汁にするか焼く(炒める)かだ。汁ビーフンは以前東京の下町で暮らしてころ近所の店の福建人の作るのがうまかった。あらかたメニューを食い尽くしたころ、汁ビーフンがないよと思って、日本語もたどたどしいお姉さんに訊くと調理人の旦那に聞いてくるという。できるらしい。じゃそれお願いということで作ってもらったのが旨かった。海鮮がよく効いているんだよ。他にもあれはできないのとか料理を作ってもらった。店は今でもあるが調理人は変わった。
 焼きビーフンは台南のあるご家庭でいただいたのが絶品だった。海老が旨かった。私は海老は嫌いとは言わないが好きではないが、海老の味が香ばしというか。海老自体がぜんぜん違うのかもしれない。料理もたいしたものだった。
 沖縄で暮らしているころ馴染みのタイ料理屋があって、そこでもビーフンをよく食った。そこそこ旨い。汁ビーフンは牛ダシの薄味のスープに載せた空心菜がしゃきっとしてうまかった。東京に戻って、なつかしくていくつかタイ料理屋に入ったけど、もう諦めた。
 朝飯の上海白湯ビーフンとやらを食って、なんか忘れているなと心に引っかかっていたのだが、そうだ、肉味噌だ。私は政治信条が合わないせいかアグネスチャンが好きではないが、彼女が肉味噌を作っているをテレビで見たことがある。あれはうまそうだったな。

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2006.08.03

スワンナプーム空港

 先月二一日バンコクの新空港スワンナプーム国際空港が報道陣に公開された。東南アジアにまた一つ産まれる大きなハブ空港である。予定では利用者は年間四五〇〇万人、広さは成田空港の三倍。四〇〇〇メートル級の滑走路も二本。さらにもう一本追加の予定もある。開港予定は九月二八日。オーマイニュースが軌道に乗るとするとその一ヶ月後くらいかな。現在のドンムアン空港は貨物用になるらしい。
 開港は当初予定からすると一年ほどの遅れであり、今回の九月も無理じゃないのという声も聞かれるが、タクシン首相は期日を強調している。とはいえ、アナウンスでは開港には多少のトラブルもあるかもとしているらしい。他の類例からしてもトラブルはあるだろう。newsclip.beの記事”スワンナプーム空港、国際機関が安全性に疑問符”(参照)は安全性についてこう伝えている。


スワンナプーム空港の安全性については、国際民間航空機関(ICAO)が行った調査で、全93項目のチェックリストのうち、「高い危険」が29項目、「中程度の危険」が43項目に上った。

 大きな問題とならないといいが。
 いすれにせよ、そう遠くなくスワンナプーム空港の運営も軌道に乗るだろう。運用の印象は先のnewsclip.beでは試乗記”新空港、初フライトに試乗”(参照)も参考になる。記事には言及がないが、スワンナプーム空港はアクセスの便もよい。高速道路でバンコクから三〇分ほど。バンコクに向けた電車も開通予定とのこと。
 ウィキペディアを覗くとすでに項目があり(参照)、名称についての面白い話も載っている。ちなみに英語表記はSuvarnabhumi Airportである。

英語表記はサンスクリット語によるローマナイゼーションを利用しているので実際の発音とは相容れないが、英語表記をそのまま読み下して、スヴァルナプーミー空港とも、またノーングーハオ町にあるため、ノーングーハオ空港、あるいは単に新バンコク国際空港(NBIA)とも言われる。

 そういえば、アテネ空港は英語だと「アスンズ」と聞こえて最初ちょっと戸惑ったことを思い出した。
 ウィキペディアでは開発経緯の話も比較的詳しい。

1973年(タイ仏暦2516年)にタノーム政権時に用地買収が完了した。しかし同年に発生した10月14日政変によりタノーム首相が辞任し、計画がお蔵入りした。その後何度かこの計画が現れては消えたが、1996年(タイ仏暦2539年)に再び計画が現実味を増しバンコク新空港株式会社が設置され、計画が日の目を見ることになった。しかし、翌年アジア通貨危機に見まわれ、またもやお蔵入りになった。その後、建設費用取得のための円の租借交渉で多少の問題が起きたものの、空港会社設立から6年後ようやく建設が開始された。

 一度頓挫しかけたのは九七年のアジア通貨危機であり、これが克服できたのは日本からの有償資金援助である。別ソースだが工費の半額を占めているそうだ。「スワンナプーム」という言葉は「黄金の土地」を意味するらしいが、ジパングの援助をかけた、わけではない。
 日本から恩を着せがましいこというのも下品なことだが、スワンナプーム国際空港は日本の投資なくしてはできなかったのだろう。というあたりで、先日読んだ本を思い出す。「極東ブログ: [書評]藤巻健史の5年後にお金持ちになる「資産運用」入門」(参照)で触れた。

 みなさんは、「いま日本という国が、どうやって食べているのか」ということを考えたことがありますか?
 モノを作り貿易して、日本は食べることができている、そういった昔のイメージを持っているかもしれません。貿易立国というわけですね。しかしいまの日本は、けっしてそうではない。日本のモノの取引などの黒字幅は減ってきているのです。
 細かい数字は省きますが、どういうところで日本は食べているかというと、投資の収益が非常に大きくなっているのです。


モノとサービスの収支を合わせたよりも、いまは所得収支のほうが大きくなってきているのです。
 所得収支とは何か? モノを海外に売ったりサービスを海外に提供して黒字を貯めますよね。その黒字を海外に投資して、海外の株や債権を買ったりします。その配当金や利息が入ってきます。それが所得収支です。日本はいまそれで生きているのです。モノを作り輸出して食べている国から、投資をして儲かっている国に変わっている。
 ですから、投資が悪いとかディーリングがいけないとかいうとことになると、日本が生きている道を否定することになるのです。

 スワンナプーム空港の援助が直接日本の利益に結びつくのかどうかはわからないが、そういう投資をアジアに向けて行なっていくことが日本が生きる道だというのは間違いないだろう。

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2006.08.02

韓国カルト「摂理」問題、雑感

 韓国カルトという刺激的な呼称を使っていいのかためらうが、七月二八日付け朝日新聞” 韓国カルト、日本で2千人 若者勧誘、教祖が性的暴行”(参照)の標題にならうことにする。教団については次のように報じられている。


 この集団は、キリスト教の聖書を独自に解釈する教義を掲げ、韓国で80年ごろ設立された。当初は「モーニングスター(MS)」、現在は「摂理」と呼ばれている。教祖の鄭明析(チョン・ミョンソク)氏(61)は、女性信者への性的暴行が韓国で社会問題化した99年、国外に脱出。ソウル地検などから強姦(ごうかん)容疑で指名手配され、国際刑事警察機構(ICPO)を通じて国際手配されたが、逃亡を続けている。
 集団の内部資料などによると、日本側の信者は、全国の国立大学や有名私立大学の学生や卒業生がほとんど。女性が約6割を占める。東京、大阪、名古屋、福岡、札幌など40カ所前後に「教会」と呼ぶ拠点がある。集合住宅の一室の場合が多く、一部の信者はここで数人単位の共同生活を送っている。

 ウィキペディアの項目”摂理 (宗教団体)”(参照)には経時的にもう少し詳しい解説がある。朝日記事では設立の経緯を次のように書いている。

 鄭教祖は、「摂理」を設立する以前の70年代に、世界基督教統一神霊協会(統一教会)でも活動していた。
 統一教会広報部は「鄭氏が2年間ほど、韓国の統一教会に在籍した事実はあるが、当教会と摂理と呼ばれる集団とは一切関係ない」と話している。

 現統一教会(原理教)と現摂理の関係はないのだろう。が、教義や活動などは統一教会を模していたと見られてもしかたあるまい。
 統一教会については……とウィキペディアをひこうと思ったらなにやら項目がない。困ったことだなと思うが、さて、日本社会がこの問題に警戒感を持つのは、一九九二年の統一教会問題の記憶があるからだ。
 と言いながら桜田淳子さんの結婚が話題になったころからもう十五年近い年月が経つ。三十歳以上でないと当時の日本の空気の記憶はない。これについて生きた歴史の記憶のない世代に今回の「摂理」が襲ってきたような印象も受ける。
 昨今は非婚の時代と言われるがこういう宗教を契機に結婚する人がそう少なくもないように見える日本の社会の実態はどうなのだろうかと奇妙に思う。十五年前と変わっていないからなのか。そうした部分がなかなか見えづらいだけなのだろうか。
 今回の事件では表立った報道ではないが、ゲンダイネット”セックス教団 広告塔は有名漫画家”(参照)という話もある。「純粋な愛」漫画の影響というなら、そういうものへの希求のベースのようなものが日本社会の若い層にあるのだろう。ブログ「豪一郎がゆく」のエントリ”鏡の法則(ハンカチを用意して読め!)”(参照)にコピペされたナイーブな都市伝説に感動する若い世代の層も存在しているし、他にも巧妙なかたちでブログの世界に手を伸ばす旧カルト勢力の影も感じられる。困ったものだと思うし、途方に暮れる。
 今回の事件だが、性犯罪の側面が強く、なぜ韓国系の宗教にこうしたものが絡み込むのかという疑問も日本社会にはあるようだ。私はこれは道教の影響ではないかと考えている。
 韓国を含め朝鮮では、中国が”異民族”王朝の清代の時代だが、李王朝において、両班制度を含め、むしろ本来の中華文化を嗣いだという自負のようなものを持っていた(変形した形で日本もそれを持っていたが)。その中華文化の本質ともいえるのが秘密結社であり、さらに秘密結社の根幹が、現代日本人には違和感のある奇妙な性儀礼である。それを韓国カルトは嗣いでいるのだろう。日本ではこれに類する立川密教が中世において現在の歴史観からはなかなかわからないほど全国的に普及したが、それでも本貫といった制度が日本の家制度に和さないことや、別種の家系システム(例えば安倍晋三の家系を見ても閨閥であることがわかる)があることから、その後の日本では、対抗する集団組織としての、中華的な秘密結社というのは根付かなかった。
cover
中国意外史
 中華秘密結社が性儀礼を持つことについて史学者岡田英弘は「中国意外史」(参照)でこう示唆している。なお、同書は「やはり奇妙な中国の常識」(参照)で改題改訂されているが基本的に同じ書籍である。

 しかしこれは考えて見れば、別段不可解なことではない。中国に限らず、どこの社会でも、社会を構成する基本的な関係は、親子でなければ夫婦である。つまり言いかえれば、いずれも性的な関係である。男女のセックスがあってはじめて社会が構成される。漢代に農村の同族部落からはみ出して、大都市に集中した貧困階級としては、血縁関係ではない同志的結合を求めるのは、最初は困難であったに違いない。
 そこで利用されたのが、男女の性的な関係による擬似的な血縁関係・同族組織であり、これによって教団の統一が可能になったのではないか。単なる淫祠邪教のしわざと片づけたのでは、この特異な現象は説明がつかない。

 余談だが(あまり雑駁にメモ書きするのもなんだが)、現代中国共産党も実は秘密結社から発生している。そこに性儀礼を見るかについては表向き異論も多いだろうが、当時の共産党の実態を知ると驚くことも多い。共産党が結社法輪功を敵視しているのも類縁の匂いがあるからかもしれない。蛇足ついでに、「気功」と呼ばれているものは文革時の造語でこれは本来仙術の一部であり、仙術の大きな部分には「極東ブログ: [書評]戦国武将の養生訓(山崎光夫)」(参照)でも触れたようなものがあり、日本に入ってもいた。

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2006.08.01

小二女児プール死亡事故に思う

 小二女児プール死亡事故は痛ましいかった、で、済む話というわけでもない。ブログ、「大石英司の代替空港」のエントリ”業務委託と供に責任も丸投げ ”(参照)に共感する部分は多い。


 私が親だったら、8連装ミサイル・ポッド付きレールキャノンで……、いやここはやはりアプサラス3で焼き尽くすか、それは痛みを感じないし、やはりビグザムのクローで市の担当者を踏み潰すね。4、5人に責任取って貰いますね。まさか子供が遊ぶプールで、そんな危険な状況が放置されているなんて思いもよらないですよ。

 大石先生の華麗な修辞の先には、責任追及と背景にある無責任な社会構造への批判がある。ただ「そんな危険な状況が放置されているなんて思いもよらないですよ」なのかというと、そうとばかりも言い切れない。
 昨年の読売新聞記事”学校プールの安全対策 排水口は大丈夫?”(2005.07.03)では、学校プールについてではあるが、排水口の危険性について紙面を割いて扱っていた。

 学校のプールで排水口に子どもが足を吸い込まれる事故が毎年のように発生している。ところが、安全管理が不十分なまま排水口が放置されているケースの多いことが最近の調査でわかった。関係機関はプールの管理者に対して「排水口のふたはボルトやネジでしっかりとめてほしい」と呼びかけている。
 プールの排水口は、通常、格子状のふたで覆われている。しかし、何らかの原因でこのふたがはずれ、子どもの足などが吸い込まれると、水圧がかかって引き抜くことが困難になる。危険を知らない子どもたちがふたを外して遊んだりするケースもあるとみられる。

 この記事では主に学校のプールを話題としているので排水口も小さいと想定されているのだが、危険性が低いわけではない。

 同協会のまとめでは、1966年から昨年までの間に、全国のプールで約60件の吸い込み事故が発生し、事故に巻き込まれた子どもの多くは死亡している。昨年は新潟県内の町営プールで小学生が死亡したほか、茨城県内の高校でも生徒が一時重体になる事故があった。

 排水口の構造の問題などもある。また古いプールで事故が発生しやすいようだ。学校のプールについては、排水口の実態調査に加え一九九六年に当時の文部省の通達があり、危険性についてはそれなりによく知られているようだ。公共プールについては文部省管轄ではないだろうから管理面はどうだっただろうか。
 ざっくりと過去の同種の事件を見直すと、排水口による事故は少なくはない。気分が重くなってくるような記事がいくつもある。
 先日二十日の読売新聞”旧横越の小6プール死 地検は控訴せず=新潟”(2006.07.20)では、二〇〇四年のプール排水口事故の裁判を扱っていた。

 旧横越町(新潟市)の町民プールで2004年7月、遊泳中の小学6年男児(当時12歳)がふたのはずれた排水口に吸い込まれて死亡した事故を巡る裁判で、新潟地検は19日、業務上過失致死罪に問われた当時の町職員2被告に対する新潟地裁判決(罰金50万円)について、控訴しないことを決めた。

 この裁判の過程を簡単に眺めてみたが評価に苦しむ。この事件での排水口の吸引力はそれほど大きなものでもなかったようだが、排水口が小さく、その吸引力が弱いとしても、溺死誘因の危険性は大きい。

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