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2006.07.07

[書評]心の探究(佐々木孝次)

 佐々木孝次「心の探究」(せりか書房)はアマゾンではもう見かけなかった。文庫本化していることもないと思う。初版は一九八〇年なのでそう古い本でもなく、古書店などでは比較的容易に見つかるだろう。サブタイトルに「精神分析の日記」とあるように、ラカン派の著者がフランスでラカン派の精神分析を七十二回に渡り受けていた足かけ二年を扱っている。
 私は折に触れてこの本を読み続けてきた。そうしなければならない内的な理由があるからだ。この本以外では出会うことのない恐ろしいインサイトに自分の精神を晒さなくてはならなかった。気が付くと、今の自分が佐々木が分析を受けていた年齢を超えている。
 精神分析とは、単純に言ってしまえば、疑似科学であろう。そこで終わりとなればいいのだが先日のニューズウィークに蘇るフロイトの記事があったが(それはそれなりに浅薄なものだったが)、フロイトはそう容易く葬り去られはしない。理由はある意味で明解である。


なるほど、精神分析の理論についても、それはつまるところ、人間のこころについての気のきいた話の体系であって、そこで言われていることが本当であるかどうかはけして検証できない、こう言う人もいる。けれども、分析の言葉には少なくとも約束があって、概念相互の関係を確定していこうとする共同の努力がある。

 本書はまさにその努力をそのまま、ほとんどむき出しに近いかたちで見せている。理論と実践はどのような関係にあるのか。

 面接者は、私がフロイトやラカンやその他の分析家の書物を読んでいて、理論に通じていると言う。私の方では、自分の貧弱な知識をすっかり忘れてしまうことこそ大切だと思う、と言うと、面接者は、そういうことは必要ないし、できるわけもないと言う。そして、知識から現実への移し換え(la transposition)が、この分析の大きな課題のひとつである、と言う。

 問題はこの移し換えられた現実とはなにかということと、移し換えられない知識を生きている状態とはなにかということだ。この変調(transposition)には当然有名なラカンのテーマがある。がそれを言うだけでは虚しいのだが。

 妻は私に対して、あなたには何かがかけている、と言うことがある。私には、感じが良いとか悪いとか、自分の感じ以外にものを判断する基準がない、と言うのである。私は長いあいだこのことについて考えていたが、最近になって自分に欠けているのは、つまるところ父であろう、と考えるようになった。これは、自分には現実の、生身の父がいないのとは少し意味が違う、人間のこころのなかに当然あるべきひとつの働きである。もう少し抽象的に言うなら、それはこころのなかに内面化された掟の働きだと言ってもよいし、さらに大文字のPを持つ父(Pere)だと言ってよい。自分のこころは、この父との関係が希薄であるために、その場その場の感じ以外に頼るべきものがない。

 こうした問題を日本人論に結びつけるのは安易だろうし、また日本人については本書でラカンが非常に難しい命題を突きつけている。が、この部分の引用を続けたい。

別の言い方をすると、感じを支配して、自分の判断を統一的に構成する働きがこころに生じてこないのである。私は、自分のこのような傾向の危険性について、ますます強く感じてきている。それはつまるところ、快と不快の波に何の抵抗もなく身を任せることであり、快に向かおうとする傾向に、ただ盲目的に従いながら、それに対してこころのなかには何の歯止めもない。あらゆることが自分の環境しだいで、許されれば快、許されなければ不快で、自分の不快の全てを周囲の他人のせいにする。しかしこれは、出口のない堂々めぐりである。

 この快について、仮に動物化というなら、佐々木の思いから少しそれる。この快は、母的なものと結びつきいわば幼児としての全能感に関連付けられている。その全能感が、成人して性的な関係のなかで反復するという問題でもある。
 佐々木は、後のいわゆるラカン学の解説書ではあまり触れなくなったが、本書では、この母的な問題のなかに恐ろしい権力の構図の可能性を思い描いているのだが、このエントリではこれ以上に触れない。
 精神分析は心の問題を解くというものでもない。佐々木はきちんと後期フロイトの死の衝動の重要性を認識している(彼は「死の本能」と記しているが)。

フロイトが、それほどうまく理論化することができないのに、どうしてもこれを捨てることができなかった反復強迫や死の本能の現象は、そのような、だれにも明らかに見てとれながら、しかもきわめて頑固で、最終的には謎にも満ちた事態を指しているのだろう。ヒステリーにしても、強迫症にしても、分析が成功したさいに取り除かれる症状は、それ自身はごく部分的、表面的なものである。

 おそらくかつての米国的なフロイト理解はこの後期フロイト的なペシミズムをうまく受容できなかったか、あるいは心の問題に還元することで人生の課題、つまり死がその衝動として現れるまさに死というものに向き合うことを避けるようなトリックに陥っていってしまった。
 本書については、もしかするともう一つエントリを書くかもしれない、いつか。

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コメント

「書評」が自身の問題意識と交わる事で、「書」自体より難しくなってるような(笑)
でも、この本は軽くも重くを読める良い著作だったと思います。

投稿: トリル | 2006.07.07 16:46

> がそれを言うだけでは虚しいのだが。

> のだが、このエントリではこれ以上に触れない。

> 本書については、もしかするともう一つエントリを書くかもしれない、いつか。

こういうことわりを書く意味がよく分かりません。言いたいことがあれば書けばいいし、言いたくないなら書かなければいいだけのことのように思われます。私は(すべてを)知ってるけど(あえてそれを)書かない、でもいつか書くかもしれない、なんていうコメントはまったく意味がないように思われます。書かなければ知らないことと同じです。

投稿: 貧乏人 | 2006.07.07 21:16

きっと君と話しがしたかったんだよ

投稿: - | 2006.07.07 22:39

結局は宗教的背景つーことでは?
キリスト教社会で死の本能なんてのが受け入れられないのも、日本人に父が存在しないってのもさ。

投稿: うps | 2006.07.08 08:47

>キリスト教社会で死の本能なんてのが受け入れられないのも

 そうでしょうか。

 キリスト教社会では、そもそも〈「本能」という概念は無条件にポジティブな意味を持つ〉という考え方が受け入れられないかも。

 「本能」は日本語ですしね。

 敵は本能寺にあり、ですね。

投稿: 左近 | 2006.07.08 12:15

死の本能、死の衝動ってのはタナトスの日本語訳だと思った。
破壊衝動とか自殺願望とかそんな意味の。
そんなものが人間に備わっていると言う考え方とキリスト教は両立できないんじゃないかな?って事です。

と言うか、フロイトも無意識にユダヤ教を下地としていたために幾ら頑張ってもタナトスをうまく理論化できなかったんじゃなかったんじゃとか思ったり。
涅槃なんて仏教用語だし。

投稿: うps | 2006.07.08 16:40

>うpsさん

 私自身は、タナトスについては「罪」、乱暴にいえば「原罪」との絡みで理解しています。

 涅槃とタナトスについては、涅槃はエピキュロスのアタラクシア的なものと漠然と考えていたので、カオティックにエントロピーの極限を志向するタナトスとはある意味対極かなと。
 もっとも、似たものととらえる(それを根拠に仏教を忌避する)スタンスもあるようですね。

 宗教というのはそれぞれ一つの価値観・世界観なので、宗教が理論や考えの背景や理由だというよりも、むしろそれ自体が理論や考えそのものだと思っています。(一般的な理論や考えと同じく、解釈にあたっては相当の幅があり得ますが。)
 そういう意味では宗教も、無意識をすくい上げ思考をメタに把握していこうとする点で、フロイトの試みなどと同格に位置づけるべきなのかなと(価値が、とかいうことではなく)。

投稿: 左近 | 2006.07.11 01:09

 先日、三ヶ月かけて「心の探究」を読み終えました。読み進めることが苦痛というわけでもなく、ぼんやりと内省をしつつ過ごしていたら、三月も経っておりました。そのおかげか、我が意を得たりとすることもなく、過剰に胸を締め付けられることもなく、不思議な読後感に浸っております。
 このような読書になったのも、8月15日の夜に見た夢が、一因になっているのでしょう。それはfinalventさんの日記を読んだ夜のことでした。私なりに両親と向き合う最後の機会と考え、長い帰省をしていた折のことでした。
 辛く悲しい夢でしたが、この日の夢が、私の人生のひとつの転機になったように思います。
 運命という概念は、自己成就に陥りそうで忌避しておりましたが、3年前から気になっていたこの本を、この機会に手に取ったことに不思議な力を感じております。
 ご紹介していただき、ありがとうございます。

投稿: ponquest | 2012.12.31 14:57

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