国民による国民のための国民の政府
明け方ぼんやりしていていて、ふと、"government of the people, by the people, for the people"の定訳、「人民の人民による人民のための政治」(参照)が誤訳なんじゃないか。なんで「人民」なんだ?と思った。the peopleは、単純な話、「国民」でしょ。
日本だと、日本国があって、国民がいて、政府がある。で、この、"government of the people, by the people, for the people"というのは、政府というもの性質が、"of the people"国民に所属する、"by the people"国民が運営する(たぶん委託する)、"for the people"受益者は国民である、ということなんじゃないか。
もう随分前になるが、「極東ブログ: 試訳憲法前文、ただし直訳風」(参照)を書いたことがあるのだが、あれは意味の違和感を浮き上がらせるためにわざとらな直訳にしたのだけど、あの前文のここ。
【第2文】
Government is a sacred trust of the people,
政府は国民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。the authority for which is derived from the people,
その(政府の)権威は国民に由来する。the powers of which are exercised by the representatives of the people,
その権力は国民の代表によって行使される、and the benefits of which are enjoyed by the people.
だから、それで得られた利益は国民が喜んで受け取るものなのだ。
は、実は、べたに"government of the people, by the people, for the people"なんですな。つまり。
"of the people"国民に所属する、が、「その(政府の)権威は国民に由来する」で、この権威というのは所有権。
"by the people"国民が運営する(たぶん委託する)、が、「その権力は国民の代表によって行使される」。
"for the people"受益者は国民である、が、「それで得られた利益は国民が喜んで受け取るもの」
で、この"government of the people, by the people, for the people"の根幹にあるのは、government=政府、っていうのは、国民=the peopleの、委託物(トラスト)ということ。
委託というのは、所有権は国民が持つが、施政権は政府が持つということ。このあたりのからくりは、「極東ブログ: 領有権=財産権、施政権=信託」(参照)に書いたことがある。このときの要点の一つがこれ。
つまり、元来、領民と領土は王のものであったが、市民革命によって、領民と領土は国民の主権に収奪された。しかし、国民=主権というのは、概念的なものなので、実際に国家の経営は、信託としてつまり施政権として、政府に貸与されているのだ。
話を戻して、"government of the people, by the people, for the people"のthe peopleをなんで「人民」と訳したのだろう? 誰がこんな訳を付けたのだろう。ネットを調べてみたがよくわからない。
そういえば、先日、胡錦涛訪米の際、米政府がナイスジョークで、Republic of Chinaと言ったが、それは中華民国=台湾。中華人民共和国は、People's Republic of China。で、ここに poepleが入っているのは、中華人民共和国をベタに訳してみましたというより、poepleの語感にsovereign が kingではないという含みがあるのだろう。語感としては、このPeople's Republic of Chinaのpoepleはやはり国民=民族であり、漢民族ってやつなのだろう。なので、諸民族は一応文化的には諸民族に認めるけど、国家に所属する国民=漢民族化を進めてしまう。
この「人民」という一風変わった訳語がなにに由来するのかわからないが、これは近代日本の造語ではないのか? とすると、「中华人民共和国」の「人民」というのは日本語に由来するのではないか。このあたりもよくわからんところだ。ちなみに、「革命」というのは明確に近代日本語。近代中国の「革命」は易姓革命の「革命」から来ているわけではない。
調べているついでに、"government of the people, by the people, for the people"の元ネタ、ゲティスバーグ演説の岡田晃久+山形浩生訳というのをめっけた(参照)。で、こうなっている。
It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us -- that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion -- that we here highly resolve that these dead shall not have died in vain -- that this nation, under God, shall have a new birth of freedom -- and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.
ここにいるわれわれの使命とはむしろ、かれらが最後の完全な献身を捧げた理念に対し、この名誉ある死者たちから一層の熱意を持って、われわれの前に残された偉大な任務に専念することなのです。その任務とは、あの死者たちの死を無駄にはしないとわれわれがここに固く決意し、この国が神のもとで新しい自由を生み出すことを決意し、そして人々を、人々自身の手によって、人々自身の利害のために統治することを、この地上から消え去さらせはしない、と決意することなのです(*2)。
でこの(*2)が面白い。
(*2) government of the people, by the people, for the people. 「人民の、人民による、人民のための政府」と訳すのがふつうなんだが、なんとなく耳あたりはよいのでみんな流してきいてしまう一方で、これがどういう意味かをきちんと考え、説明できる人は少ない。特にいちばん最初の「of the people」の部分。ふつうはみんな、「人民の」というので、「人民が所有する」という意味だと思っている場合がほとんど。そうではなく、これは統治される対象が人民であることを指しているのだ。アメリカ建国以前の政府というのは、人民(という統治される対象)を、官僚や貴族たち(という統治する主体なり実体)が、王さまや教会(という統治の旗印なりなんなり)の利害のために支配する、という形態だったわけだ。それとの対比で考えてもらうと理解しやすいかと。
というわけで、岡田晃久+山形浩生訳でも、the peopleは国民と訳されていない。「人々」とかになっているが、私の日本語の語感では「多様なる各人」みたいなもんというか「面々のおんはからいなり」の「面々」に近い。the peopleの語感とはけっこう違う。ま、これは日本語の感性の問題かも。
で、ほぉと思ったのは、この注釈、of the peopleを、「統治される対象が人民であることを指しているのだ」としている点だ。そういう考えがあるのかいなとちょっと考えたけど、日本国憲法とかのべた性を見ても、西洋国家論のスキームを見ても、これは国民の所有ということでしょ。
え、山形浩生訳にケチをつけると恐いってか。いえ、ケチなんか付けてませんてば。お好きなかたはお好きな解釈でどうぞ。面々のおんはからいなり。
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コメント
ちょっと前に、このリンカーンの演説の翻訳の部分で、なるほどと思った記事がありました。
特に「government of the people」の部分の解釈は大変勉強になったので、少し長くなりますが、その部分を転載させて下さい。
メルマガの「宮崎正弘の国際ニュース早読み」の2006.02.20号の「読者の声」より。
---------
(読者の声2)リンカーンの有名な「ゲティスバーグ演説」(The Gettysburg Address)
の中の有名な文句である「government of the people, by the people, for the people」は通常「人民の人民による人民のための政府」と日本語に訳されています。これは、全くの誤訳です。
日本における英語教育がいかにひどいかを示す絶好の例なの以下に考察してみます。
まず「of the people」を「人民の」と約すのがとんでもない誤訳です。前置詞「of」は、通常「の」と訳されています。「of」にも「の」にもたくさんの用法があり、それらの多くが重なっています。
しかし一つ大きく違う点があります。
他動詞の動名詞または、他動詞から派生した名詞の後ろに「of」がつくと、「of」の後ろにある名詞は意味上「of]の前の語の目的語になります。日本語では、「私の考え」が「私が考えていること」であり「私のことを考えるということ」でないように通例は「の」の前の名詞が意味上の主語になります。
したがって、「government of the people」の意味は「人民を統治すること」という意味です。
「人民が政府を所有している」というわけではありません。上記の文句を全体を敷衍して訳すと「人民の利益のために、人民自身が人民を統治するということ」となります。さらに、その一節「.Government of the people, by the people, for the people shall not perish from the earth」
全体を訳すと「人民の利益のために、人民自身が人民を統治するという統治形態は地上から決してなくならないのである」となります。
「government」はこの文脈で政府ではありません。個々の政府「a government」が決してなくならないなどとはいえないからです。概念としての「統治形態」ということです。だから不定冠詞がついていないのです。
戦後日本の人権論者たちは主権在民を行使する側の権利という面でしか見ていないようです。しかし、その主権なるものの行使される対象は戦争と外交を除いて、国民でしかありえないのです。
したがって、議会制民主主義国では議会がその主権を国民に対して行使することになります。
これがいかに恐ろしいことかは、議会制民主主義から多くの独裁国家が産まれたことから明らかです。そもそも「主権」とはヨーロッパで王権が神権と合体し、国王が国民の殺生与奪の権を得た絶対王政下での王権を表現する言葉として生み出されました。その苦しみをぶち破るために自由主義や革命が産まれました。
民主主義は必ずしも主権在民を意味しません。主権在民は独裁への希求という鎧を衣の下に隠したものです。主権者など誰もいなくても、誰もが当人の日常生活に十分なそこそこの権利しかなくても、民主主義は成立します。いや、それこそ健全な民主主義です。
絶対王政などという過酷な時代を一度も経験したことのない日本で、ことさら主権在民などということを持ち出すのはとんでもないことです。主権在民などと得意げに言うやからは馬鹿か詐欺師とみてまず間違いありません。
下記に「ゲティスバーグ演説」の全文を記します。
(ST生、神奈川)
http://www.law.ou.edu/hist/getty.html
The University of Oklahoma Law Center
(以下省略)
投稿: にふ | 2006.06.05 20:14
むちゃくちゃ恣意的な論だなあ。
国民はnationの構成員に当てられる語。だから成立するのはプロイセンの台頭に代表されるナショナリズム概念発見以降の話だよ。それ以前は、貴族などの統治者階級を除けばみんな土地に住み着いているpeopleでしかなかった。つまり「国」という意識に乏しい。従って国という概念から自由な白い単語である「人民」を当てている。
どうせ「人民はアカっぽい」とかいう意図を込めてるんだろうが、ミエミエ。finalventなんてミラーワールドでモンスターに喰われちゃえ。
投稿: Bar | 2006.06.05 20:39
うーん、でも「of」は属格だし…
投稿: jiangmin | 2006.06.05 20:44
町工場で従業員集めてブレインストーミング(笑)するときって、どんなにトンデモな意見が出ても、それはそれでいいんだって認識ですけどね。
場の空気を読んでる健全&慎重な言い回ししか出ないようだと、その集団は活気が無いって認識される。
そんな感じ。
で、言えば。
f i n a l v e n t は 池 沼 !
以上、終わり。(←おい)
投稿: 私 | 2006.06.05 21:12
中国(中華人民共和国)は「人民」も「共和国」も元は日本のはずです。
北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)は恐ろしい事に「朝鮮」以外全部元が日本のはずです。
確か。
明治時代の造語力が妙な影響力を及ぼしている…
…peopleを国民とするのには私もちと違和感を感じますね。
「市民」「臣民」「人民」「国民」ここら辺の単語は今一度コンセンサスを取っておきたいところ。でも右も左も「臣民」のところでつまづいてるみたいなんだよなぁ…
投稿: 通りすがり | 2006.06.05 21:51
the people make; operate; proud - government
投稿: Shuji | 2006.06.05 22:28
いずれにせよ、中国の人民はポエプル。
投稿: | 2006.06.05 22:29
> 日本語では、「私の考え」が「私が考えていること」であり「私のことを考えるということ」でないように通例は「の」の前の名詞が意味上の主語になります。
日本語でいう「の」の前は英語でいう「of」の後ろじゃないの? 「of」の後ろが主語だと主張してるように見える。
投稿: | 2006.06.05 22:41
>つまり「国」という意識に乏しい。従って国という概念から自由な白い単語である「人民」を当てている。
そこでtheの登場ですよ、と言ってみる。
投稿: | 2006.06.06 00:00
仏語のle peupleなんかだともっと特定の集団を指すイメージが強くなりますね。大抵ほとんどそのまんま「国民」です。
また、既に挙がっていますが、英語でもthe peopleの場合には「国という概念から自由な白い単語」にはならないことが多いと思います。国を離れたとしてもle peupleと同様最低限「一群の人々」を指してしまいます。リンカーン自身、政治演説で普遍主義やってる場合ではなくって、この場合は君ら一般有権者≒国民の皆様と考えてゆく方が地に足の着いた捉え方だと思うのですけれど。
それからnationの発見(的創造≒想像)みたいな話と絡めたとしても、リンカーンの時代の欧米ってもうその真っ只中なのでそんなに不自然な読み方でもないのです。「イタリアは出来た。次はイタリア人を創る番だ。」というのが、ほぼ同じ時期の名言ですし。
ただ、演説そのものの内容が政体の対比を指しているとした場合に、臣民ではなくって主体としての人民ですよという意味を込めて「あなたがた人民」と語りかける、と解釈するならありですが、これも同時代的なものより歴史的な位置づけがずいぶんと強すぎる。
たぶん、「国民」でも対比のインパクトが損なわれないので、ぜんぜん構わないと思えてしまうからでしょう。
投稿: ânon | 2006.06.06 01:12
人民は少なくとも途中からはアレげな方面にしか使われなくなりましたが、語源としてはどうなんですかね。
投稿: スープ | 2006.06.06 09:47
衒学者風を吹かせられるのは勘弁願いたい。鼻持ちならぬ。
投稿: 置屋草間 | 2006.06.06 22:53
ゲティスバーグ演説のthe peopleが国民の意味であるなんてことは今では通説的な話だと思ってたんで、むしろこの反応の方が驚きでしたね。
気になって辞書検索してみたら、普通に「国の人々」「一般国民」ってカテゴリーだし。
http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?index=305200&p=the%20people&dtype=1&stype=1&dname=1ss&pagenum=1
だいたい、ゲティスバーグ演説って南北戦争という国家分裂危機の内戦の最中に国立戦没者墓地の奉献式で、戦死者たちの死を無駄にしないために国家の原点を取り戻せ、みたいな話なわけでしょ?なんか靖国で小泉が演説してるとこを連想しちゃうけど(w、日本人が思ってる以上にリンカーン本人はナショナルな意味で使ってたりして。
投稿: とおりすがり | 2006.06.07 21:32
1860年奴隷制に反対する共和党の候補者が大統領に当選した。
この人物がリンカ―ンである。
リンカーンが残した
名言に「government for the people… 」とあるが、
奴隷制に賛成していた南部諸州は
奴隷制反対派のリンカーンに対して、
合衆国からの脱退をし、
アメリカ連合国をつくったのです。
国民と解釈した場合、アメリカ合衆国の国民だけという意味になってしまう為、
アメリカ連合国の人々も含め、政治を行っていこうという理由で、
国民と解釈せず、広い意味の人民という意味で使っているのです。
投稿: すぎ | 2007.09.23 19:16