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2006.06.08

日本憲法は会社の定款と同じ

 シリーズでお届けする民主主義と憲法、第四回は……ない。まったくないわけでもなくて、「日本国憲法はそれ自体が市民革命である」という命題が成り立つか時折考えるので、この間似たようなテーマのエントリが続く中、これも考え直したのだが、よくわからない。一番よくわからないのは、大日本帝国憲法下の日本もそれほどデモクラシーに反していないことだ。
 大日本帝国憲法において天皇は明白に国家の機関であったし(中野学校でもそう教えていた)、その憲法下でそのまま日本を民主主義国家としてなにがいけないのか。つきつめるとわからない。いわゆる戦前の日本は軍国主義とか言われるが、別段そうでもない。統帥権問題も誤解ではないかと思えることもある。その意味で敗戦によって憲法を変える必要があったのかと、これもあらためて考えると、まあそれが敗戦ということだ。変わってしまったのは歴史の事実であり、しかたがない。どう変えたのかについ関心が向く。
 憲法とはなにか? 私はこの問いにこう答えるといいのではないかと思う。憲法とは、日本を会社に見立てるとその会社定款である、と。そう思うのは、よく会社定款についてそれが「会社の憲法」のようなものですと説明されるからだ。これは、逆に憲法を会社定款で説明したほうがわかりやすい。
 会社は誰のものか。村上欽ちゃんが言うように、株主のものだ。というのと同じように、日本という国家は、その株主に相当する国民の所有物だ。では、配当というのはあるのか。ある。日本国家も利益を国民に配分するためにある。もっとも日本国も運営しないと利益を生まないから、その経営者が必要になる。それが政府だ。
 冗談のように聞こえるなら、日本国憲法がよく読まれていないからだ。「極東ブログ: 試訳憲法前文、ただし直訳風」(参照)をまた引用する。


【第2文】
Government is a sacred trust of the people,
 政府は国民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。

the authority for which is derived from the people,
 その(政府の)権威は国民に由来する。

the powers of which are exercised by the representatives of the people,
 その権力は国民の代表によって行使される、

and the benefits of which are enjoyed by the people.
 だから、それで得られた利益は国民が喜んで受け取るものなのだ。


 政府というのは、株主が会社の経営を経営陣に委託したようなもの。日本国の所有権は株主に当たる国民にある。ほいで、そのベネフィット(利益)は国民に配当される。日本国という国家は、株式会社と基本的に同じようにできている。
 ライブドア事件では多くの株主が株価下落によって不利益を被った。では、日本国のオーナーである日本人にとって株券に相当するのは何か? それは私たちひとりひとりのリソース(財産など)だ。これも憲法にちゃんと書いてある。

【第9文】
We, the Japanese people, pledge our national honor
 私たち日本人は以下のことに国家の威信を掛ける

to accomplish these high ideals and purposes
 そのことは、このような高い理想と目的だ、

with all our resources.
 そのために私たちの全財産と制度を担保としてもよい。


 つまり日本国民は身銭を切って日本国の理想という株券を買ったというのだ。これが転けたら、株価が下落するように、担保の身銭がなくなるのである。
 最悪の事態はひどいもんだとも言えるが、日本国憲法ができる前は、株主たる日本人がまるで日本国の経営にタッチできないどころか、経営陣にひどい目に遭わされたという認識が、日本国憲法には書かれている。第一文の終わりのほうだ。

and resolved that
 またこう決意した、

never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government,
 その決意は、政府の活動が引き起こす戦争の脅威に二度と私たちが見舞われないようにしようということだ、


 ここでの歴史認識は、太平洋戦争(大東亜戦争)というのは政府が勝手に起こしたもので、そのために、日本人は被害にあったというのだ。
 ここの含みは、日本国憲法が成立する前は、国家のオーナーが十分に日本国民ではなかったということなのだろう。
 すると、日本国憲法成立を挟んで、歴史は、国民がオーナーではない国家から、国民がオーナーの国家に変わったということになる。これは、そのままべたに考えれば「日本国憲法はそれ自体が市民革命である」ということになる。
 ただ、リアルな歴史を見ていると、戦前の日本も民主主義でなかったわけでもないのだから、日本国憲法が市民革命で、米国様のおかげで市民革命ができました、というのは、普通の日本人の感覚としては、いかがなものでしょう的ではある。
 いずれにせよ、日本国憲法では、日本国のオーナーは国民であるし、民主主義というのはそういうものだということで、government of the peopleは、国民が日本国に含めて政府を所有しているというふう読まないと、その配当益がなぜ生じるのかもうまく説明できない。
 さて、この憲法を日本人は今後も継続するべきか。個人的には、それでええんでないのと思う。帳簿に記載漏れした裏金みたいな軍隊を維持するために現行の九条をこのまま放置せよという物騒な勢力も多いが。それでも、読売新聞のように憲法を根本から勘違いしているよりは、このままのほうがマシだろう。
 憲法のルールとしての目的は政府の権力を限定することにある。なぜそうなるかというと、くどいが、日本国の所有者(国民)と施政者(政府)が本質的に分離されているからだ。この分離があるから、権力委譲について厳格な取り決めが必要になる。
 日本国憲法は、文書としてはもはや歴史文書に過ぎず、直接的な法源としては半ば死んでいると言ってもいいだろう。実質上の憲法はこの六十年間のログの追加分もあれば十分だ。プログラムと同じで最新仕様書がなくてもバージョン改変履歴があれば事足りる。憲法はべたに成文法である必要はない。

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コメント

「記載漏れした裏金」・・・やっぱりあんまり良くないよ、この状態続けるのは。

「はてな」の方は入っていないのでこっちに書くけど、ある種の変なプレッシャーってのは或いは鮫さんからは感じてもいるけど、finalventさんからのは「そうだよな」って感じで励ましになってますよ、正直。

東京云々は「乗りかかった船がそこまで行くなら行っちゃえ、何事も経験だ」「家でボーッとしていても或いは別の何処かへ遊びに行くにしても、時間は過ぎるし金も使う」「ある種の人間不信が徹底されるのは嫌だな」って事でオーケーと考えてます。

むしろumeさんの優柔不断振りが笑えるような深刻なような。
俺まで人間不信にさせるなよ(笑)

投稿: | 2006.06.08 19:40

ventさんに、bet!w
いやー、すてき。1票進呈させてください~

投稿: LISApapa | 2006.06.08 21:08

>ここの含みは、日本国憲法が成立する前は、国家のオーナーが十分に日本国民ではなかったということなのだろう。
憲法前文が、マッカーサー草案の和訳にほんの少しだけ手を加えただけということを考えると、そういう解釈を展開しようと考えていたのでしょう。

> すると、日本国憲法成立を挟んで、歴史は、国民がオーナーではない国家から、国民がオーナーの国家に変わったということになる。これは、そのままべたに考えれば「日本国憲法はそれ自体が市民革命である」ということになる。
平野事件で、東京地裁が仮処分決定を行った事に対して、GHQが、積極的に介入し、最高裁長官に談話を発表せしめたのは昭和23年でしたか。
というわけで、市民革命という概念を持ちだしてきた人々(というか学者)は、日本の統治を担っていた人々が「適正手続き」を経ずに、抹殺されていくことに無関心でしたね。戦前、戦時中の「治安維持法」バッシングには積極的でしたのに。不思議なことです。

投稿: ペペロンチーノ | 2006.06.08 21:26

アメリカにおける市民革命は、2回を経て/にわけて/にわたって
おこなわれたのだ、というくらいですから
日本における市民革命は、日本国憲法下で完成したのか
それとも、明治維新の時点であったのかという
問いそのものには、あまり意味を為さないとおもいます。

(ゲイリー・ウィルズによる著作の
原題は、「~Lincolon and the Second American Revolution」。)

投稿: てけてけ | 2006.06.08 21:39

「自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持」するのだから、日々是革命が始まるという宣言なのでしょ。

投稿: な | 2006.06.08 22:45

憲法が有名無実化しちゃまずいでしょ。
「権力委譲について厳格な取り決め」のガイドラインというか、「憲法」として生きていないと。
バージョン改変履歴ないし。
裏帳簿状態が憲法を死なせているのなら、解消しないと。

投稿: cru | 2006.06.08 23:39

わかりやすいところ(思いついたところ?)で、株式会社なのでしょうが、日本国が、営利社団法人であるとしても、株式会社の二大特徴である有限責任制度と株式制度(頭数ではなく、価額によって発言権が決まり、原則として譲渡できる。)が認めがたい以上、会社のうち、特に株式会社とするのはどうかと。

投稿: まあ | 2006.06.09 08:58

では、昨日辺りから
「国家元首なんだから敬語使えよこのブサヨ共」
「ただの税金食らいに何で敬語が必要なんだこの時代遅れ共」
と兆し.jpで2位に付けるぐらい話題の天皇陛下は、
どの辺りの役職に…

投稿: 無粋な人 | 2006.06.09 14:18

血と土が先ず必要。でも国家はこれだけじゃ完成しない。そこで保険を掛ける。金と命の保険。経済(社会保障)と軍事(安全保障)。でもいくら保険を掛けても、納得は出来ない人は必ずいる。後何かが必要。保険でないとすると賭けか。賭けの動機は?まぁ美学かな。

投稿: nakamuramiu | 2007.05.04 20:10

権力に縛りが掛かってるのは、責任の所在を限定するためです。縛りを掛け過ぎて何も出来ないようにしておけば、責任の所在が消滅します。もちろんこれは駄目。権力と国民が分離してるけど、ただ分離してるんじゃなく、国民が操作の主体ということ。責任の所在は、権力の行使の際の制約として事前に紙に書いて保存しておけば(憲法の事)、国民と分離された(全員が武器を持って戦うわけではない)機能としての軍隊がどういう振る舞いをしようと、憲法に書かれた方法にさえ従っていれば、責任は制約を課した国民にあるので、これで国民の側に言い訳が出来ないようなシステムになる。つまり憲法は作戦ではない。事前に、最悪のケースを想定し、やれるだけの事をやったのか、と言う気持ちの問題である。何もしないで最悪のケースを迎えるより、少なくとも最悪の状況がいつやってきても良いように準備だけはしていた、やれるだけの事はやった、と言えるようにする為の物。作戦内容には一言も触れていない。これ重要。作戦内容には普遍性はないが、これから起こる事について我々が出来る事は何かを考える事、には普遍性がある。つまり憲法は権力の範囲を限定するというより、未来の国民に対して、現在の国民が責任を取ると言う事である。そして未来の国民は、その覚悟をさらに未来の国民へ送るのである。

投稿: nakamuramiu | 2007.05.04 20:55

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