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2006.06.30

韓国人拉致被害者金英男さん会見、雑感

 私は自分の関心の持ち方ということから言えば、北朝鮮による拉致事件そのものにはそれほど関心はない。国際政治的に見れば、北朝鮮のミサイル核武装化や中国への難民の問題のほうが大きいし、人道的に見ればこの独裁政治の被害にあっている北朝鮮の人々が優先的な課題に思える。あまり指摘されていないような気もするのだが、北朝鮮から中国へ逃げた人はなぜか脱北者と呼ばれているが、これは明らかに難民であり、難民であれば国際的な規定に中国は従わなければいけないし、国際社会は中国を従わせなくてはいけない。ダルフール危機問題でも思うのだが、なにか日本のジャーナリズムは意図的なのか、人道問題の基本のネジが抜けているような気がする。が、それはさておき。
 韓国人拉致被害者金英男さんの会見だが、あまり映像を見ない私でもさすがに見かける。映像で伝えられることは予想された以上はないのだが、それでも北朝鮮という国の残酷さというものが伝わってきて震撼する。前近代の世界には公開処刑というものがあったが、それに近いもののにように思える。

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めぐみ、お母さんが
きっと助けてあげる
 日本での映像は、常に横田めぐみさんの両親が付随する。それが日本だからということだが、私の素朴な印象でも、横田めぐみさんの両親は「日本人の親」というものの象徴になってしまったからなのだろう。子を思う「日本の親」がいてほしいという願望でもある。そして、それは私も日本という国を愛国する人間として当然のことだと思う。というか、問題はそこにシフトしまっているし、その事が今となっては最大の外交カードにもなってしまった。
 あまり思いがまとまらないのだが、この機に関連のニュースを見ていて、いろいろ不思議に思ったので、ブログしておきたい。
 金英男さんの後妻とされる女性が若く美人(ちょっと美観が古いが)に思えた。これは、金英男さんへのご褒美なのだろう。とすれば、ご褒美に足るほど金英男さんが北朝鮮において優秀な人であるということだ。私はそんなことがあるのだろうかとなんとなく疑問に思う。海辺で遊んでいた田舎っぺの小僧がそんな有能な人材である確率が高いなんてことがあるのか。しかし、私は今回映像に出てきた金英男さんが別人にすり替わっていると言いたいわけではない。というのはこの疑問はもう一つの疑問に関係する。横田めぐみさんについてだ。
 横田めぐみさんだが、貶めて言うのではなく、彼女もまた普通の田舎っぺの娘である。しかし、現状伝聞で聞く限り、北朝鮮ではかなり優秀な人となり、金正日総書記の子供の家庭教師もしていたという。そんなことがありうるのだろうか。その子供が高英姫の子供であれば、そのサークルのベーストーンは日本である。
 そんなことはありえないと言いたいわけではないし、証言を十分に疑うにたる確証もないのだから、私はたぶん実際はそうなのだろうと思うし、おそらく、めぐみさんが優秀であったし美人でもあったから、同じくエリートの金英男さんと結婚したのであろう。
 拉致者がエリートになるという文化というのか民族性というのか、そこが私にはピンとこない。あるいは、私が知り得ないほど多数の拉致者がいたのでその数名は優秀だったということなのだろうか。あるいは拉致というのはかなり入念に優秀な人材を狙っていたのだろうか。愚問に近いのだろうが。
 なんとなく思うのは、北朝鮮の金王朝という王権がそういう拉致者のような血統のない異人を優遇するほうがよい構造があるのではないか。それは直接的にもそうであるだろうが、民族的にもそうなのではないか。
 現在、朝鮮半島では同一民族として南北融和がナショナリズムとして叫ばれているが、こういう金王朝的な文化性というのは必ずしも韓国(南朝鮮)の文化性とは一致しないだろうし、むしろ、韓国の文化・民族性というのは日本の一部に近いのではないか、とそんな気がする。
 そうしたなかでこの間のナショナリズムと文化は結局どのような機能をしているのだろうかと疑問に思うが、ま、別のおりに考えよう。

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2006.06.29

東宣公園からダーク国連への裏口

 日本の政局に関係ないよ変数宣言を最初しておき、ほいで過去エントリのフォローの意味だよとして、ごくわずかに、朴東宣の近況について。というのは外信を見ていると少し動きがある。日本国内の情報はというと、どっかにあるのか? ないわけないんだけど、知らない。
 過去エントリはとりあえず二つ。石油・食糧交換プログラム不正問題(参照)については今日はあまり立ち入らない。


  1. 極東ブログ: 朴東宣のことを淡々とブログするよ(参照
  2. 極東ブログ: 暗いニュースリンクでもたぶんあなたに熟考してほしくない暗いニュース(参照

 この間の経緯で一度エントリを起こそうか悩んでやめたのだが、朴東宣は今年の一月に米国で逮捕された。幸いブルームバーグに記事”South Korean Tongsun Park Seized in Oil-For-Food Case”(参照)やNBC記事”Korean arrested on oil-for-food scandal charges”(参照)が残っている。この時点での詳細はないが逃避行中だったらしい。というかマークされていた。極東ブログで昨年四月に扱ったころには親切な仲間の多い東京に潜伏しているだろうという噂もあった。
 最近のニュースのポイントはこのあたり。AP”Witness in New York oil-for-food trial describes work for Iraq”(参照)。Samir A. Vincentはイラクからの帰化した米人である。

Samir A. Vincent, who pleaded guilty last year to being an unregistered agent for Iraq, said he worked for years with South Korean businessman Tongsun Park to persuade U.N. officials to allow Saddam's government to sell oil to pay for humanitarian supplies.
(イラクの非公認スパイとして昨年有罪とされたイラク系米人セミール・ヴィンセントは、数年に渡り韓国人ビジネスマン朴東宣と共に、サダム・フセイン政府が人道的物資のための石油売買が認可されるよう国連職員を説得する工作をした。)

Vincent said he recruited Park to Iraq's lobbying team because of his friendship with then-Secretary General Boutros Boutros-Ghali.
(ヴィンセントが、朴東宣をロビー・チームに取り立てたのは、朴東宣がガリ前国連事務総長と親交があったからだ。)

Over two days of testimony in Manhattan federal court, Vincent has described numerous meetings and communications that he said Park arranged with the former U.N. chief, including some that occurred at Boutros-Ghali's residence. He also identified a series of letters in which he reported the results of those liaisons to top Iraqi officials.
(マンハッタン連邦裁判所での二日にわたる証言で、ヴィンセントは朴東宣が前国連会事務総長に合わせて手配した数多くの会合や交流に触れた。これにはガリ前国連事務総長宅での会合も含まれている。
またヴィンセントは、イラク高官との連絡結果について報告した一連の手紙の存在を認めた。)


 というわけで、現状のニュースは朴東宣がイラクからの帰化米人のつてでガリ前国連事務総長宅訪問したという程度しかわかっていない。
 なーんだという感じでもある。が、この背景には、この問題についての国連の独立調査委員会ではガリ前国連事務総長は無罪とされているので、ヴォルカーさん仕事したのかよぉというのがある。
 今後の展開、及び全体の構図ははっきりとは見えない。現在の世界情勢から米国の意図というあたりで考えていくといろいろ想像されることはあるが、ブロガーなんかが関心持つのやめとけ領域であろう。
 関連してであろう、ヤフーに奇妙な記事が上がっていた。”Tongsun Park Website Announced”(参照)である。朴東宣のオフィシャルサイトが数日前にできたというのだ。つまり、この機にだ。
 シャレのような名前のサイトTongsun Park(参照)はスルメのように噛めば味わい深い一品である。

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2006.06.28

勇敢な盾(Valiant Shield)

 グアム島周辺の海域で、先日十九日から五日間、米海軍、空軍、海兵隊などの統合演習「勇敢な盾(Valiant Shield)」が実施された。規模が非常に大きく、参加総員は二万二千人を超え、過去十年における最大規模の米軍演習となった。グアムは沖縄からの海兵隊移転先候補でもあるし、米軍再編成にもろに関わってくるので、国内でもう少し重視されるのかと思ったがあまりニュースにはならなかったような印象がある。
 朝日新聞記事”米軍演習に中国が初のオブザーバー参加”(参照)では、この米軍演習のオブザーバーに中国の軍関係者が招待された点を重視しているようだった。


 中国の新華社通信によると、中国の代表団は陸海空軍の6人と外交官、記者の10人構成。16~20日にグアムを訪れた。演習開始後は海軍基地で戦闘機の発着の模様などを見学。核心部分の見学は認められなかったが、代表団メンバーは帰国後、「両軍が交流を拡大し、信頼を醸成することは軍同士の関係だけでなく、米中関係全体にも利益となる」などと語った。

 記事を見てもわかるように「新華社通信によると」ということで、自社ソースではなく、パクリというか中国様へのヘタレを絵に描いたようなことになっている。記者の派遣ができなかったのだろうか、ネットリソースからは見えない。
 続けて。

 中国の軍拡路線の不透明性を問題視している米側にとって、今回中国の参加を認めたことで、中国の演習見学を求める基礎ができたことになる。

 というのだが間違いではないにせよ、一義には米軍による中国軍への威圧なのにその言及もない。この間、テポドン騒ぎがあったことも新聞社なら当然考慮すべきなのだが、そこは朝日新聞のヘタレここに極まっている。
 読売新聞は記者をグアムに派遣したようだ。記事”米空母3隻、グアム沖に集結…19日から演習”(参照)にはイロハのイくらいに「米国には軍事活動の透明性を確保しつつ、西太平洋における米軍の戦力を誇示する狙いがあると見られる」とコメントしている。
 読売記事は概ねフラットな印象。

 演習には、原子力型の「エイブラハム・リンカーン」「ロナルド・レーガン」、通常型の「キティホーク」の空母計3隻が参加する。米軍の空母3隻が太平洋上で同時に演習するのは、ベトナム戦争以降で初めてという。

 軍オタもそのあたりが狙い目っぽいので、ネットをざっとサーチするとそのあたりの写真なども目に付く(参照)。
 米国にとって今回の大演習がどのような意味を持っていたかというと、案外示威的なものではなかったか。ミリタリー・コム”McCain a 'Valiant Shield' Against Submarine Threats”(参照)の記事の標題からもわかるように、中国潜水艦への脅威というのはわかりやすい。極東ブログでも過去、「極東ブログ: 中国は弾道ミサイル原子力潜水艦(SSBN-Type094)を完成していた」(参照)や「極東ブログ: 中国原子力潜水艦による日本領海侵犯事件について」(参照)で関連の話題に触れた。
 中国の原潜が実際の脅威となるかについては、軍事的にはそれほど意味はないだろう。今回中国軍をオブザーバーにしたのも、誇示は誇示でも、もっと中国内政へのメッセージ的な意味合いが濃いのではないか。つまり、これがコミュニケーションってやつ。
 米軍関連のソースを二、三当たってみてそれなりに面白かった。本質的なことではないのだがろうが。例えば、Kuam.com”Meet the people behind Operation Valiant Shield ”(参照)には、スタインドル海軍准将の次のコメントがある。

Here in Asia, over 74% of the oil that comes in to Asia come in by ship and it's important to keep the sea lines of communication open. We're the world's pre-imminent anti submarine warfare fighting force and the way we achieve that is through a lot of practice and that's exactly what we're doing in Valiant Shield."

 このシフトはアジアの石油を守っているのだというのだ。端的に言えば、中国、日本、韓国を指すのだろうが、仮想敵が中国であれば言外の含みはわかるというもの。
 星条旗”Officials high on Guam's future as Valiant Shield wraps up ”(参照)では、あっけらかんとしたボウラ大佐の言葉を記している。

Military financial constraints are another issue, Boera said.

“Costs change on a daily basis,” he said. “The Air Force is undergoing budget restrictions.”

Still, basing Pacific air operations out of Guam is cheaper than flying from Japan, Korea or the continental United States, he said.


 軍事活動にはカネがかかるんだよ。グアムに居たら日本や韓国から飛んで来るより安上がりじゃん、というわけだ。
 おもわずツッコミを入れたくなる空気だが、これは正しいと言えば正しい。
 日本のジャーナリズムの空気だと、沖縄海兵隊のグアム移転に何兆円といった大金だせるかよとしみったれた議論花盛りだが(そのわりにこの演習の実態とかろくに取材もしない)、現状のまま有事となれば日本の負担はどかんと大きい。
 もっとも、沖縄の海兵隊はもともと冷戦シフト。佐世保の揚陸艦で動くようになっている。沖縄が戦略的に重要な意味を持っているから在沖米軍も重要だとかいう間違いが多過ぎ。グアムに移転しないと使い物にならない、使うのであれば。

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2006.06.27

[書評]藤巻健史の5年後にお金持ちになる「資産運用」入門

 先日石原真理絵がNHKの「英語でしゃべらナイト」(参照)に出るらしいとステラを見ていて知り、適当に録画しておいたら、定期録画だったらしく藤巻健史(参照)の回が入っていてついでに見た。存外に面白かった。話のネタは粗方、「藤巻健史の5年後にお金持ちになる「資産運用」入門」(参照)とかぶっているのでふーんまたかと思ったが、本と違って、ほぉと思ったのは、アメリカ人のビジネスの五時以降のことだった。
 九時から五時のビジネスにおいては藤巻もひけをとらないとのことだし、それは当然そうだろうが、五時以降酒も入った付き合いの話では教養がないとだめだという。私はあまりそうした経験があるわけではないが、ああ、あれだよなとちょっと思った。あれというのは、彼らというか若いビジネス・エリートの話題がけっこうアートに熱いのだった。
 私はあまりアートに詳しいわけではないというか今ではさっぱりだが、十代後半から三十代くらいよく展示会とか見て回った。池袋セゾン美術館の会員だったし、東京都庭園美術館もよく通った。ので、外人たちのアートの話で、なんだったかちょっとあれはこうだみたいなことを言うと、お?このジャパニーズ小僧なんでそんなアートに関心があるとかいう感じだった。その他、歴史の話とか聖書のこととか……日本人のビジネスマンだとあまりそういうのに関心ないのに……と思ったものだった。まあ、しかし、考えようによってはスノッブな話でもある。
 書籍「藤巻健史の5年後にお金持ちになる「資産運用」入門」だが、これはけっこう面白い。さらっと書かれているのだが、裏にはこういうのがある。


血ヘドを三度吐くくらい悩まないと、ディーラーとして大成しません。優秀なディーラーは、クビになって路頭に迷う心配をした経験が何度もあると思います。

 そうなんだろうなと思う。
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藤巻健史の
5年後にお金持ちになる
「資産運用」入門
 ところで、この本、アマゾンの素人評を見たら、案の定というか、評価が高くない。経済に詳しい人にしてみると、こんな初歩的なことは知っているということなのだろうし、またか感もあるのだろうが、これ、良い本だと思いますよ。三十代前半の人なら主婦を含めてこれを一読しておくことで二十年後人生変わりますよ、たぶん。

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2006.06.26

戦争犯罪としてのダルフール危機

 話は少し古くなるのだがこの間日本の報道や人道問題に関心を持つブロガーの動向などをブラウズしても話題になっていないようなので、やはりここで書くしかないのだろうか。
 話は、戦争犯罪としてのダルフール危機の問題である。私はダルフール危機の本質はジェノサイドではないかと考えている。ジェノサイドは集団虐殺とも訳されるが、genocideの語源から考えても欧米では語感があると思うが、特定の民族への組織的な抹殺である。日本人の場合、人道に関心があると思われる人たちですら、massacre(虐殺)との区別が付かない、あるいは区別を曖昧にしたいと意図する人たちが多いようなので困惑する。
 ダルフール危機の本質がジェノサイドであるとするなら、ポイントは組織的な殺害であることと民族の特定である。前者については、スーダン政府が関わっていることはすでに覆うべくもないことだが、後者については難しい問題があった。ダルフール危機を、スーダン南北問題のように政府対反抗勢力という内戦の構図に縮小して見せようとする勢力が存在するからである。確かに、そうした構図が存在しないわけではないが、危機の本質ではないのは、実際の殺害の状況を見ればわかることだ。
 多少余談になるが、ダルフール危機問題を曖昧にするもう一つのボーガスは、単純に個人の倫理が問われるような問題に縮小したがる勢力があることだ。ルワンダ虐殺についてですらそうした歴史修正とでも言えるような見解が見られるのが不思議でならない。ルワンダ虐殺については、一部で誤解されているようなものではない。”武内進一「ルワンダのジェノサイドが提起する諸問題」”(参照)が正しく指摘している。


ルワンダのジェノサイドについては、一般大衆が多数参加し、農民がナタを持って殺戮を遂行したとの理解が流通している。しかし、公刊された文書資料や聞き取りから状況を再検討すると、民間人が殺戮に関与した例もあるにせよ、多くの場合、軍や警察が近代的武器を持って殺戮を実践したことがわかる。また、殺戮の動員に際して重要な役割を担った民兵組織は、一党制時代に由来するものであった。殺戮実践の方法は、ポスト・コロニアル国家の構造と密接に関連している。

 ルワンダ・ジェノサイドは「軍や警察が近代的武器を持って殺戮を実践した」のが重要な点で、まさにその点において、ダルフール危機と重なる。映画「ホテル・ルワンダ」の作成に関わったドン・チードルとポール・ルセサバギナもこのように述べている(参照PDF

Government-backed militias, known collectively as the Janjaweed, are systematically eliminating entire communities. Villages are being razed, women and girls raped and branded, men and boys murdered, and food and water supplies targeted and destroyed. Victims report that government air strikes frequently precede militia raids.
( まとめてジャンジャウィードと呼ばれる、その政府が後押しする民兵たちは、組織的に、社会全体の排斥を行っています。村落は破壊され、婦人と少女はレイプされ傷つけられ、男性と少年たちは殺害され、食料と水は標的とされ破壊されています。被害者の証言によれば、政府軍による空爆が民兵の襲撃に先行しています。)

 組織的な殺害こそが重要な問題である。
 余談が長くなったが、第二点目の特定民族についてだが、十四日、ルイス・モレノ・オカンポ国際刑事裁判所検察官(Luis Moreno Ocampo)が、国連安全保障理事会での報告で一部を特定してきた。ソースは国際刑事裁判所のダルフールのページ(参照)から入手できる。該当レポートは”14.06.2006 -Third Report of the Prosecutor of the International Criminal Court, to the Security Council pursuant to UNSC 1593 (2005)”(参照)である。重要なのは次の部分である。

A large number of victims and witnesses interviewed by the OTP have reported that men perceived to be from the Fur, Massalit and Zaghawa groups were deliberately targeted.
(OTPがインタビューした多くの犠牲者や証言者は、意図的に目標とされた民族グループが、フール人、マサリット人、およびザガワ人と見なされた人たちであると報告した。)

 ダルフール危機において特定の民族が念入りに狙われていた容疑が高まってきていると言っていいだろう。
 この報告は欧米ではAPを通じてニュースとなった。CNN”U.N. hears of mass Darfur killings”(参照)も掲載している。報道で重要な点は次の部分である。

Those details are among the strongest indication so far that Moreno Ocampo, the chief prosecutor with the International Criminal Court, has uncovered substantial evidence of ethnic cleansing and crimes against humanity in Darfur.
(特定民族が狙われていたとする詳細は、モレノ・オカンポ国際刑事裁判所検察官が、ダルフールでの民族浄化と人道に対する犯罪の実質的な証拠を明らかにしてきたことで強く示唆される。)

 ようやく戦争犯罪としてダルフール危機が扱われることになりそうな動向に対して、当のスーダン政府は奇妙なことを言い出している。同じくAPを掲載したCNN”Sudan toughens anti-peacekeeper stance”(参照)より。

Sudan's President Omar al-Bashir has escalated his rejection of the United Nations deploying peacekeepers in Darfur, saying they would be neo-colonialists and accusing "Jewish organizations" of pushing for their deployment.
(スーダン大統領オマール・アル・バシル大統領はダルフールに国連平和維持軍が投入されることへの拒否をエスカーレートさせ、こうした政策を推進しているのは新植民地主義者だと言い、ユダヤ人組織を非難している。)

 というわけで、すっかりな世界に入ってしまっているのだが、アラブならスーダンを支持せよという国際世論は少しずつ広まりつつある。

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2006.06.25

奈良母子焼死事件の印象

 奈良県田原本町の医師(四七)の家がその長男の放火で全焼し、母子三人が死亡した事件について、この手の事件がいつもそうであるように、私は関心を持っていなかった。事件の概要すら理解していなかった。少年の父親も焼死していたと思っていたくらいである。たまたまラジオを聞いていて、父親が存命であることを知り、知った途端、事件の印象は激変した。私のその印象は率直に言って妄想に近いものだろう。これが事件の真相だとはまるで思わない。この事件には外面的にはそれほどのミステリーはなく、事件の核心は少年の心の中にある。私はその少年の心を洞察するわけでもない。できないし、率直に言ってあまりしたくない。そして、このことは、本当は書かないほうがいいのかもしれないが、簡素にだけ書いておこう。
 最初この事件をなんとなく知ったとき、少年はなぜ家出しなかったのかと思った。自分のなかに殺意を抱えるより、憎む対象と無関係になりたいと私などは思うからだ。もう一つ思ったのは、この事件は、たぶん古典的なフロイト理論的で説明されるものだろうなということだった。だが、その部分はあまり考えたくなかった。考えても妄想としか言われ得ないものだろうし。
 私は今年四十九歳になる。この父親に近い。私がもし三十歳ころに結婚して子供があれば彼または彼女は成人に近い。自分の思いはそうした複雑な父親の内面にどうしても向かうが、正直に言って、ただ苦いようなつらいような思いがするだけで混沌とする。この父親の人生の課題は息子とこれから向き合うことなのだろうが、それがどれほどつらいことか。人生というのは人にそこまでつらいことを強いるものなのかと思う。
 回り道していないで妄想的な私の印象を語ってこのエントリは終わりにしよう。私は、いつも事件というのをブラックボックスとして見る。ブラックボックスというのは入力と出力だけが見えるものだ。そうしてこの事件を見ると、入力側に少年の殺意があって出力に継母とその子二人の死がある。私はこの死がブラックボックスの機能なのだとまず考えてしまう。そしてその発想を入力側で解釈させると、この事件はその出力、継母子を殺害することが目的ではなかったかという仮説がどうしても浮かぶ。そして、ここから先は妄想である。少年のなかでその殺意を促す無意識があったのだと。その無意識――内面からの命令は誰の声かといえば、少年のなかに形成された心的な母親象ではなかったか。
 事件の報道を聞くと、当初少年は父親を殺すはずだったが失敗したとも言われる。父を殺せなかったのも、そしてこの放火事件が父を生存させるようになされたのも、少年の無意識の意志ではなかったか。繰り返すまでもなく私の妄想であるが。
 私はあまり宗教的な世界観というものを持たない。来世も輪廻転生も死後残る霊魂というものも信じない。が、人の無意識のなかには、こっそり来世への信頼や輪廻や霊魂があることも私は知っている。人はなにかを自分の意志でするかのようだが、無意識のなかの他者の命令であることが多い。あまりこう言うべきではないが、親に死なれることはつらいものだが、同時に無意識のなかで命令を下していた親という無意識との別れの契機になるし、自分の人生を歩むというのはそうした心の中の他者の命令に背いていくことではないかと思う。
 この事件で父親が長男を持ったのは彼が三十歳のころである。すると初婚は二十代の終わりであったのだろう。少年の実母が生別したか死別したか知らない。それが少年の心に映ったのがいつかも知らない。少年は実母の言葉にすら触れたことがないかもしれない。
 少年が継母と出会うのは十歳のころである。継母は三十歳になったばかりくらいである。少年が十二歳くらいちょうど思春期のただ中に継母に長女が生まれる。そのことが少年にどういう心象をもたらすのか、自然に私は心を寄せるものがある。
 ここでエントリを終える。一つだけ言い忘れた。この事件の悲劇的な結果は多分に偶然だろうと思う。普通の人もかなりの愛憎を抱えて生きていても、それが事件となって現れることは、偶然があまりないことで、守られている。

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2006.06.24

石けんはインド

 一年くらい前だが石けんの話を書いた。「極東ブログ: マイブームは石けん」(参照)である。その後もこのマイブームは続いているので、そんな話。この一年間のインド石けんレポートといったところ。

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マイソール
 インド石けんは国内ではあまり見かけないか妥当な価格とも思えないのが多いので、海外から取り寄せた。まず懐かしのサンダルウッド(白檀)だが、マイソールはメジャーらしく簡単に入手できた。もっともマイソールというのはサンダウッドの生産地名なので正確にはなんだろうか。サンダルウッドは白檀なのだが日本人の白檀イメージとは違う。でもありがちなケバイ感じでもなく、最初はインドきっつぅとか思う人もいるだろうが、はまる人ははまると思う。サンダウッドはアロマテラピーオイルなんかもそうだが、ちょっとみには弱そうなのだがけっこう強い香りだし、意外とセクシーな香りでもある。むふふ。マイソールは泡立ちもよくけっこうクリーミーな泡ができる。肌への刺激も少ない。石けんとしてもかなり質がいいので、満足。
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ナグチャンパ
 そこでやめておけばいいものをそうもいかないのがマイブームである。他にも手を出した。ってか、よりによってナグチャンパ。ここでどっと引いたあなたはすっかりな人でしょう。でもないのかな。ま、一部ですごーく有名な香りですよ。私にはちときっつい。ってか、バスがすっかりアレゲでした。石けんの品質はよくて泡立ちもいい。マイソールよりちょっといいかもというくらい。肌へのきつさも同じくらいかな。この匂いが好きな人はいいのでしょうね。で、ババブランド以外にもナグチャンパがあって、当然というか、マイルドなのはある。
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チャンドリカ
 海外のショップを見まわしていると、おっ、あるじゃないか。チャンドリカ。あるのかぁである。ピュアヴェジテリアンだぜ。ということもあって、これは世界中に愛好家がいるすげー有名な石けんなのだが、最初匂いを嗅ぐと普通の日本人だとまずドンビキだと思う。漢方薬ですかこれ、みたいな感じなのだが(なので使ってなかったが)、使っていみると、これがすげーグッドな石けんでした。香りも慣れてくると、サンダルウッドやニームの香りがわかってくるし、なんか説得力あるんですよ、この香りは。泡立ちはマイソールとかに比べるとちょい劣る。肌にはきつくない、というか、使っていて、唖然とするほど肌に良い(突っ張り感は多少ある)。一週間も使っていると肌質が変わってくるのがわかった。すげーっす。するっとセレブな感じのお肌じゃないですか。ほいで肌質が変わるということは、皮膚の感受性が変わってくるので、風の感触とかむふふな方面の感触まで変わってくるインドですてば。
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メディミックス
 チャンドリカにずっぽりはまってしまったので、こりゃ薬草効果かもと思って、この方向をぐいと進めて一部に愛好家の多いメディミックスも使ってみましたよ。くせー。泡立ちもいまいち。なんかこれ効くんかいなと思って使っていくと、なんなんでしょ、奇妙なリラックス感がありますよ。肌にもよいです。チャンドリカよりもよいかも。これで泡立ちがクリーミーならいいのになというところで、この香りにも慣れて、いい感じぃになりつつある。
 この他、インド人なら誰もが知っている(たぶん)、ニームとかも使ってみたけど、悪くないけどそれほど私はニームの必要はなさげ。デオドラントっていうのでしょうかね、効果は。他に印象深いのはクローブとツルシの石けん。なんじゃこれ、バスタブがクリスマスティみたいな風情でもあるけどクローブの香りというのはちょっとはまるものがある。
 総じてインドの石けんはすごいというのがこの一年間の結論。なんでこんなに上質な石けんなんだろと思うのだけど、薬草成分よりも油脂の問題ではないかと思えてきた。基本はパーム油なんだろと思うけど、とにかく人間の肌によくなじむ。
 というわけで、私、石けんはインドです、なのだが、普通の日本人がこういうのを広く使うようになるかなというと香りがネックでしょうかね。ナチュラルでそれほど残らないんですけどね。

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2006.06.23

フランス新移民法案、雑感

 結局それが政治ってもんかなと考えてもみるのだが、フランスの新移民法案は十六日上院でも可決した。下院では先月十七日に可決していた。話が少し古くなったせいかネットのリソースは少ない。共同で残っていたのが”仏・新移民法が成立”(参照)である。新移民法案の問題点が簡素に描かれている。一言で言えば、フランス社会から移民を排除していこうとするものだ。


 新移民法は、移民が家族を呼び寄せる条件などを厳しくする一方、優秀な外国人は積極的に受け入れるとする内容。
 また、不法移民が10年間住めば滞在許可証を取得できる従来の手続きを廃止。これまでフランス人と結婚した外国人は2年後に滞在許可証を取得できたが、3年後に変更した。このほか、移民を仏社会に融合させるため、10年間の滞在許可証を取る際にフランス語習得を義務づけた。

 記事はこれに続き、野党からの批判などが多少加わっている。問題の波及というか深刻さは朝日新聞”不法移民の子の「里親運動」 フランスで拡大”(参照)がわかりやすい。移民の子供まで社会から排除することになりかねない危機感を感じる人々が多い。

 フランスで、滞在資格がない移民家庭の子供の里親になる運動が急速に広がっている。ナチス占領時代に多くの市民がユダヤ人の子供たちをかくまったように、強制送還から守るのが狙い。教え子やわが子の仲良しが送還されるかもしれない現実に危機感を抱いた教師や親たちが、続々と里親登録している。

 現地の状況は、先見日記”代父母縁組”(参照)がさらに詳しい。このエントリで興味深いのは、「市民の不服従」が考えの中心になることだ。

 法律に背いた行為によって市民権を主張することを「市民の不服従」という。良心的兵役拒否などもそうだが、その法律がより普遍的な倫理(人権の尊重など)に反するという立場からの抵抗行為だ。サン・パピエの子どもたちの庇護の場合、子どもの権利条約にも明記されているが、すべての子どもが教育を受けられ、人間らしい暮らしができるようにという基本的人権からみると、現在の移民規制法は非人間的で、共和国の精神にも反している。

 「市民の不服従」については、英語のウィキペディア"Civil disobedience"(参照)に簡素な解説がある。日本の歴史における「市民の不服従」については興味深い歴史があるが、いわゆる歴史書としてまとめらているか知らない。いわゆる社会主義運動史のようなものに混在させられているのではないか。
 この新移民法によってフランスはどうなるのか。フランス市民たちは強く結束して移民の子供たちを守るだろうか。
 とそれ以前に新法を推進していたサルコジ内相はどうなるのか、といった政治臭い匂いがする。「極東ブログ: おフランスの学生さん大暴れ」(参照)でふれた学生暴動のオチがヴィルパン失墜であったように、また大騒ぎして今度はサルコジを潰すか。そうなると、一年半前のエントリ「極東ブログ: シラク大統領の次はサルコジ大統領」(参照)とは違ったことになるか。
 日本語の最近のリソースとしては朝日新聞”仏与野党、大統領選へ党員数競う”(参照)があり、現状ではサルコジの強さも伺える。まあ、この間いろいろあったのだが。

 02年、シラク大統領の支持母体として発足したUMPだが、04年に党首になったサルコジ内相を慕う若い世代が大量に入党し、すっかり大統領を目指す同氏の選挙マシンとなった。07年初めの党大会では「党員の意思」で同氏を候補者に指名する段取りだ。

 朝日記事を読んでいただくとわかるように、主眼は社会党ロワイヤル元環境相(参照)に置かれている。

 社会党の党員増やしはサルコジ流の草の根戦略に対抗したもの。にわか党員が増えるほど、世論調査の人気で他を引き離すロワイヤル元環境相に有利とみられる。

 そうかねという感じもするが、ロワイヤルの人気が高いのは確か。このあたりは今週のニューズウィーク(6・28)”フランス救う「中道」の女神”が簡素にまとめている。簡単にいえば、ロワイヤルは第二のサルコジと称されているように社会党でありながら保守強行的な側面が強く支持されている。全体としては、フランスの政治の空気は右派傾向といった感じするが、そうした空気を取り込まないことにはまたルペンのようなものが出てきてしまうというある種、庶民のバランス感覚のようなものではないか。
 とはいえ、先のニューズウィーク記事にもあるように、ロワイヤルの人気の裏で社会党は旧来の社会主義的な傾向の維持にもつとめている。というか、そのあたりが先日のおフランスの学生さん大暴れみたいになにか胡散臭い印象がある。

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2006.06.22

秋田小一男児殺害事件、妄想かもの印象

 秋田小一男児殺害事件についてあまり関心はなくなんとなく耳にする程度の情報しかないのだが、世相としてみると話題は依然続いており、世相のログとしてちょっとだけ印象を書いておいてもいいかもしれない。もっとも一部で馬鹿呼ばわりされている当ブログにさらにこんなことを書くのもなとも思うが。いずれにせよ、今回のエントリはあまり考えたものではなく素直に自分の印象だけだ。なお、この話題について週刊誌的な記事は事件発生前後に少し目を通したが、その後は関心がなくほとんど読んでもいない。基本的なところで私は事件を勘違いしているかもしれない。
 まず目下の秋田小一男児殺害事件だが、米山豪憲君(七)の死体遺棄容疑で逮捕された畠山鈴香容疑者(三十三)が犯人だという印象は私の心の中では少しぼんやりとしている。が、犯罪に関わっていたことはほぼ間違いないのではないかとは思うし、死体遺棄については確かだろう。
 犯罪に関わった畠山容疑者の動機だが、そこがわからないと言えばわからないのだが、なんとなく印象として思うことはある。それを言うには、畠山容疑者の長女彩香ちゃん(九)の死についての印象が先立つ。この事件は彩香ちゃんの死との関連があるだろう、どのような関連かは明確にはなっていないとしても。
 昨年の彩香ちゃんの死は警察の扱いでは事故死ということになっている。この点について、畠山容疑者は事故死ではなくなんらかの犯罪があったのではと疑念を抱き、警察に違和感をもっていたようだ。また彼女自身もそうした意図の背景からビラなどを作っていたらしい。このあたりの話は私はなんとくメディアで知った。
 畠山容疑者が、娘彩香ちゃんの死が事故死ではないと疑念を持ち、表明していたのはなぜだろうか。
 事故にしては不自然だからという思いがあったと考えるのが一番素直な推論だが、考えようによっては、それが事故死ではないことを彼女が知っており、またそれを警察に明らかにして欲しいという意図があったのかもしれない。
 彩香ちゃんについては保険がかけられていたという話がある。噂として聞く程度で報道を通して事実の確認はできない。そうした噂が出るのは、彩香ちゃんの死からの一連の事件が保険金目当ての殺人というストーリーを付けたいからだろう。私はその発想はあながち違うとも思えない。ただわからないのは、彩香ちゃんに保険金がかけられていたかという事実性もだが、仮にそうであるとして事故であることと事件であることの差で、保険金に差があったのだろうかということだ。あるとすると事件であることへのインセンティブが働くかもしれないとは思う。
 話を端折る。彩香ちゃんの死について目下世間の関心は畠山容疑者が関わっていたかということだろう。私は、特になんの根拠もない印象なのだが、関わりがあるだろうが、殺人ということはないだろうと思う。母は子供を殺さないものだという信念から思うのではない。そんな信念はない。畠山容疑者は非情な親であるかのように報道されているが、私がなんとなく見聞きした印象ではこの人は自分の子供を殺す人ではないと思う。
 という前提に立ち、彩香ちゃんの死が事故死でないなら、そしてそれが事件性を持つなら別のストーリーが要求される。
 豪憲君の死に戻る。私は、畠山容疑者が殺人犯であるとしても、豪憲君に対する直接的な関係性はなかったのではないかと思う。つまり、豪憲君への憎しみとかなんらかの口封じとかいうことではないだろうと。では、なぜ? 
 私は怒りではないかと思う。あるいは理不尽な状況に対する心理的な補償、バランスを求めたのではないか。自分の娘が理不尽に殺されたのに、なぜこの子は生きているのかといったものではないか。殺意というより、理不尽な状況に対する自己憐憫からの反抗なり、あるいはそれ自体が誰かへ憎しみのメッセージといったものではないかと思う。
 と、そこまで書いて、別になんか真相をほのめかすというわけでもないが、これ以上書くことができないし、その必要もないだろう。なにより、以上の話はただの妄想と言われてもしかたがないものだ。ただ、もしこの妄想が真相の一部であるなら、畠山容疑者が娘の死の事件性を問うていたとき、警察は答えるべきだったということになるだろうし、警察に悲劇の責任の一端があることになる。
 私の心象のなかでは、畠山容疑者はとても哀れな、そして愚かな人間に見える。悪人には、現状では、見えない。

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2006.06.21

台湾陳水扁総統の親族不正疑惑、流れは変わったか

 台湾陳水扁総統の親族不正疑惑の動向だが、どうもこれは国民党のフカシではないかと思えてきた。日本でも先日民主党永田議員が偽メール問題でフカシしていたのを連想する。
 このニュース、国内ソース、英語圏ソース、中国語ソースである程度ワッチしてきたのだが、しみじみ思ったのは情報戦ということだ。私の誤解でなければ台湾の報道は歴史・資本の関係から国民党ベースだし、これにどうしても大陸の中国様もノリノリにしてくださるわけで、しかも私のように「極東ブログ: 陳水扁が勝つと信じ」(参照)みたいにベタな陳水扁支持では偏見も多いので、情報を見極めるのが困難だったが、面白くもあった。
 ほおと思ったのが日本国内での扱いで、奇妙に腫れ物をさわるふうでもある。意外にすら思えたのは、台湾では呉淑珍夫人へのバッシングが大きいのにそこをそっと避けている雰囲気がある。日本人ジャーナリズムの大半は北京官話系のソースしか見ていないとしてもある程度現地の、毎度の国民党の派手な嘘臭さを感じていたのではないか。
 昨日夜の陳水扁総統のテレビ演説についてだが、ニュースで見るだけでもかなり攻勢に出てきたように思えた。中国様の覚えめでたく瀋陽に支局を置かせていたいている朝日新聞”台湾・陳総統、罷免案に「不当」と反論”(参照)でも、そうしたトーンがある。


 台湾の陳水扁(チェン・ショイピエン)総統は20日夜、野党陣営の提案を受けて立法院(国会)で審議が始まった総統罷免案に対し、テレビ演説で反論した。株式インサイダー取引容疑で娘婿が強制捜査を受けるなど劣勢に立たされていた総統だが、罷免案成立の見通しが低いことから強気の姿勢に転じた。

 さらにフィナンシャルタイムズ”Taiwan’s Chen defends himself on live TV”(参照)は陳水扁の主張を多く伝えている点で流れの変化を強く暗示させているように読める。
 政治的に見れば、罷免案がコケたのが大きい(馬英九は当初からそう読んでいただろうが)。
 当然と言えば当然で指摘するも野暮だが、朝日記事ではとても重要な点を見落としている。産経新聞”不正疑惑 台湾・陳総統、TVで釈明”(参照)が手短だが伝えている。

総統は2時間の演説の大部分を台湾語で話し、言論の自由がなかった国民党独裁時代と対比させ、危機克服のために「個人を捨てて自ら十字架を背負う」と、団結を呼びかけた。

 私はよく知らないのだが、総統(大統領)自らが台湾語でテレビ演説をしたなどということがあっただろうか。それだけでも、革命的だと思える。
 もっともそれだけで台湾民衆の心を掴むといったものでもないし、いわゆる本省人民進党対外省人国民党という対立でもないだろう。
 ただ、朝日記事にある国民党の攻撃はさらに国民党側の傷手を深めるのではないか。

 最大野党・国民党は陳総統の演説を「疑惑に明確に答えていない」と批判。総統罷免案が不成立の場合は、行政院(内閣)不信任に向けた動きを直ちに進め、攻撃の手を休めない方針だ

 中国様の動きがよくわからないが、このとばっちりで馬英九沈没ということになると、けっこう青ざめるだろうし、ある意味でさらに日本を含め関連者ご一同混迷を深めていくだろう。

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2006.06.20

ソマリア南部情勢

 ソマリア情勢に大きな動きがあるので、とりあえず現時点でのメモを書いておこう。比較的最新のところでは日経”ソマリアのイスラム武装勢力、南部を支配”(参照)がわかりやすい。


アフリカ東部ソマリアで首都モガディシオを制圧したイスラム原理主義勢力「イスラム法廷」の武装勢力は14日、首都北90キロのジョワルにある敵対勢力「反テロ連合」の拠点も押さえ、同国南部をほぼ支配下に置いた。「反テロ連合」は米国の支持を得ていたとされるが、幹部の暫定政府元閣僚らは逃走したもよう。イスラム勢力はイスラム法に基づく支配を強めるとみられている。

photo
ソマリア
 ソマリア南部はイスラム原理主義勢力下に置かれた。もっとも、このイスラム原理主義勢力が何を意味するかは、とりあえず留保しておいたほうがいい。原理主義といっても「極東ブログ: 国連がハマスに資金供与の疑惑?」(参照)といった面もある。
 ここに至る近況はCNN”イスラム武装勢力、ソマリア首都掌握”(参照)が詳しい。現時点の国際情勢で関連するのは次の部分だろう。

 米国と国連は今のところ、首都を掌握したとする同連盟の主張を確認していない。マコーマック米国務省報道官は、ソマリアが「外国人テロリストの避難場所」になることを望まないとする米政府の意向を表明。アナン国連事務総長は声明を発表し、ソマリア各勢力に停戦と交渉開始を呼びかけた。
 また、アフリカ連合(AU)は米政府に対し、ソマリア政権樹立に向けた支援強化などを要請する一方、ソマリア国内の世俗派部族勢力への支援を打ち切るよう求めた。

 米国が「ソマリア国内の世俗派部族勢力」を支援していたのだが失敗したということだが、端的に言えば、テロとの戦いと称して現地の軍閥に肩入れしたが失敗に終わったということ。
 現在の南部ソマリアの状況は比較的安定しているとも言えるようだ。CNNと同時期の記事だが、朝日”イスラム勢力が首都掌握 秩序回復に期待 ソマリア”(参照)が伝えるのはあながち反米に偏っているわけでもない。

 「法廷」の代表は数百人の群衆を前に、「イスラム国家が成立するまで戦い続ける」と宣言した。一方で、英BBCに「我々は政治組織ではない。今後のことはソマリアの人々自身が決める」とも語った。
 「法廷」は、厳格なイスラム法の施行を求める聖職者らでつくる組織。無政府状態のソマリアで、イスラム法に基づいて地域社会の秩序を守ってきた。イスラム教徒が全人口の9割を占める国民には反米感情が強く、「法廷」への支持は厚いとされる。

 これも端的に言えば、「法廷」側が現地での治安維持に機能しているということだ。ちなみにイスラム法が何を意味するかは、「極東ブログ: 罪のない者と罪を犯したことのない者」(参照)でその一端に触れたことがある。
 これをもって米国の対テロ戦略が失敗に帰したというには規模が小さいにようにも思える。先の朝日記事でもこう触れられている。

 ただ、首都が掌握されても、北部では一部勢力が「ソマリランド共和国」「プントランド」などの名で独立を宣言、全土の群雄割拠状態に変わりはない。秩序回復に向かうかどうかは予断を許さない。

 今回の事態で背景に気になることがある。アルジャジーラ”米外交がソマリアでも失敗 イスラム原理主義組織が首都制圧”(参照)が触れている点だ。

 ―ソマリアでの戦闘を米国とイスラム過激派との代理戦争と表現してもいいのか。
 「それだけではない。ソマリアでの戦いはエリトリアとエチオピアとの代理戦争でもある。エリトリアはイスラム法廷を支援し、エチオピアは米政府に協力している。イスラム法廷は、シャリア(イスラム法)の施行で治安の維持を期待する地元財界から資金提供を受けている」

 問題の背景の一端にエリトリアがある。
 私が注視してきたダルフール問題に関連してエリトリアが関連していることがあった。昨年の六月十二日ロイター”ダルフール紛争の協議再開、エリトリアをめぐり暗礁に”より。

 国連、欧州連合(EU)などの支援を受け、アフリカ連合(AU)が仲介役を務めているが、エリトリアも加わる見通しとなった。
 これに対し、スーダン政府代表団は「エリトリアを仲介役、あるいは交渉役として受け入れることはできない。エリトリアが武装勢力に武器を提供していることは周知の事実だ」と述べた。
 スーダンは再三にわたりダルフール地方の武装勢力を支援しているとしてエリトリアを非難してきたが、エリトリアはこれを否定している。

 簡単な図柄を想定するとスーダン政府側がイスラム勢力なのでエリトリアに近いようにも思える。この構図はよくわからないが、気になる。
 もう一点。ロンドン同時テロ事件の容疑者の四名の一人、ムクター・サイード・イブラヒム(二十七)容疑者はエリトリア出身だった。もっとも、彼が英国に来たのは十四歳なので直接的な関連はないのかもしれない。
 ダルフール問題を紛糾させているのが中国だが、今回の事件の裏に中国の動きはあるか見ると、むしろ政府を国連寄りに支援していたふうでもある。

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2006.06.19

カナダ大規模テロ未遂

 旧聞になるが今月三日カナダでテロ未遂犯が十七人逮捕された。日本でまったく報道がなかったわけでもないが、それほど報道がなかった。未遂犯逮捕では話題になりようもないというのもあるかもしれない。が、ニュースを追っていくとこれは実現していたらとんでもない事件となる可能性はあった。日本でのこのニュースの軽視には多少違和感をもった。
 ネットにもすでにあまりリソースは残っていないが、共同”テロ計画の17人逮捕・カナダ、爆発物材料3トン”(参照)を引用しておこう。


カナダ騎馬警察隊(RCMP)は3日、オンタリオ州で、テロを目的に爆発物の製造を計画していた男17人を逮捕したと発表した。未成年5人を含む容疑者らは、国際テロ組織アルカイダに共鳴していたとされ、RCMPはほかのテロ組織との関係を調べている。

 アルカイダとの関連はその後のニュースでもよくわかっていない。実施されていたらどれほどの被害であったかは次の部分でわかる。引用としては長めだが、この共同のニュース全体がロイターのパクリのようなものし、事実性が問われているということで引用する。

 調べによると、容疑者らは、爆発物の材料となる硝酸アンモニウム3トンを注文し、入手した。これは、168人が犠牲となった1995年の米オクラホマシティー連邦政府ビル爆破事件で使われた硝酸アンモニウムの3倍の量に相当する。

 ふと思うのだが米国で日本のオウム事件に意外に関心が持たれたのはこの事件の関連もあったのかもしれない。
 逮捕については確とした根拠があったと言ってもいいだろう。
 未遂のテロについてはその後の朝日新聞”国会襲撃、首相人質を計画 カナダのテロ”(参照)がわかりやすいだろう。

 カナダで今月3日、大量の爆発物を準備してテロを計画したとして中東・南アジア系の若者ら17人が一斉に逮捕された事件で、グループが首都オタワの国会議事堂を襲撃して、政治家を人質にアフガニスタンに派遣されているカナダ部隊の撤退を要求する計画を立てていた疑いがある、と地元メディアが伝えた。

 「地元メディアが伝えた」というのに多少苦笑するが、テロ未遂犯についても日本国内ではあまり報道はなかったかと思う。五人は未成年。成人は十二人。内六人が爆発物を使ったテロを計画。残り六人を含む九人はテログループから訓練を受けていたという容疑。重要なのは、この訓練を受けていたという容疑で逮捕に踏み切ったことで、これはカナダでは今回が初めてのことのようだ。裏付けとなる法改正なりがあったのかよくわからない。
 テロ訓練については、CNN”カナダのテロ容疑者、航空機操縦訓練受けていた者も”(参照)が多少詳しい。

 容疑者らはカナダ議会襲撃や政界指導者拉致を企てていたが、アフガニスタン駐留カナダ軍の撤退を要求することが目的だった。無線操縦の玩具を利用して、トロント市内の警察署を爆破することも計画していたとされる。
 一方、AP通信はカナダ軍関係者の発言として、議会襲撃や首相を含む政界指導者の斬首を計画していた容疑者の1人、アブドゥル・シャクールことスティーブン・ビカシュ・チャンド容疑者が、武器関連訓練を受けた元予備兵であることが判明したと伝えた。チャンド容疑者はトロントの予備兵部隊であるロイヤル・カナダ連隊に所属していたという。

 日本語ソースから見えるのはこんな感じで、ネットによくあるアルカイダは幻だ陰謀論で済むレベルではない。もっともそれでアルカイダが明確になったわけでもないが。
 狙われていたハーパー首相は未遂に終わってよかったね的にそれほど大事としてないようだが、今回のように未遂に抑えた計画はほかにもあるらしい。ふかしというほどでもないだろうし、であれば米国などでも同様なのだろうとは思う。
 話は余談だが、最初に引用した共同にある「カナダ騎馬警察隊(RCMP)」にちと笑った。英辞郎をRCMPで引いてみると、ほぉである。「カナダ王立騎馬警官」だそうだ。

RCMP
【略】 =Royal Canadian Mounted Police
カナダ王立騎馬警官◆カナダ西部管轄。愛称は、マウンティ(Mountie)、Red Coats(真っ赤な制服から)、Riders of the Plains(荒野をどこまでも追跡した)。現在名=Northwest Mounted Police

 JANJAN”米国、「マリファナの王子」の身柄引き渡しをカナダに要求”(参照)だと「王室カナダ騎馬警察(Royal Canadian Mounted Police:RCMP)」。
 こんなんでいいのか、カナダ。と思って大使館情報を見ると説明があった。”カナダ連邦警察(RCMP)”(参照)である。

 真っ赤な上着につば広の帽子をかぶったカナダの騎馬警官 "マウンティ" は、最も広く知られるカナダの象徴のひとつである。カラフルなロイヤル・カナディアン・マウンテッド・ポリス(RCMP=騎馬警察隊)のミュージカル・ライド(音楽に合わせた騎馬行進)は、カナダでも海外でも人気の高い呼び物だ。
 しかしRCMPは、単なる神話的存在ではなく、その活動も騎馬ショーに限らない。RCMPはカナダの国家警察であり、世界的にも優れた治安維持機関として高い評価を得ている。

 で、実態を説明したあとこうまとめている。

以上のように、RCMPは小規模で暫定的な地方の警察から、国際的に通用する警察へと発展した。だがその歴史を通じて、RCMPは常に紛争の解決を平和的に行うことを心掛け、武力の使用は最終的な手段とした。「正義の維持」というそのモットーどおり、RCMPは国の内外でカナダの象徴的存在となっている。

 というわけで、定訳語も「カナダ連邦警察(RCMP)」と変えたほうがいいぞ、共同とか。
cover
Dance hall girls & mountie
by Ranger Gord

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2006.06.18

サッカーと愛国心

 サッカーと愛国心についてあまり考えたことはないが、ネットを見たりラジオを聞いていたりして、ふーんと思うことがちょっとあるでなんとなく書く。
 米国人はほとんどサッカーに関心はないのだそうだ。お国柄というのだろうか、野球とかいわゆるアメリカン・フットボールとかバスケットとかそういうので足りているのだろう。そこまで自国に閉じてしまうのも愛国心かというと考えすぎでしょ。大衆とメディアの問題か、よくわからないけど。ただ、将来米国のサッカー人口が増えるという話も聞いたことがあるので数年後に変わるかもね。
 英国ではというかイングランドでは、サッカーはそりゃもう職場を休んでみるくらいスゴイ人気だそうだ。が、これも愛国心がどうたらということは違うみたいだ。スゴイ人気といっても大半は男性の話らしく、女性はというとあまり人気がないらしい。なので奥さんがたはフットボール・ウィドウらしい。そういえば昔、コンピューター・ウィドウっていう言葉があったな。元コーシングラフィックスの社長さんが起業した時代の話だ。で英国テンポラリ未亡人はどうすべきかというと対処方法は米国に行けという洒落もあるらしい。実際はお茶でもするかチャットでもするのでしょう。
 英国の男たちというか旦那たちのサッカー観戦に欠かせないのはビールだそうだ。自宅でビールというではなくパブとかに出かけるらしい。それって英国と限らないのではないか。昔トルコのエフェスで夕刻ビールでもとぶらっとビュッフェに入ったらおい日本人も来いとかトルコのおっさんの間に挟まれて小さなテレビでサッカーを強制的に見る羽目となったことがある。
 サッカーと愛国心といえば開催国ドイツはどう? あそこって愛国心が日本みたいにタブーっぽいんじゃいのとかちらと思ったのだが、ラジオで聞いた話だと、そういう問題は解決済みらしい。つまりスポーツの愛国心は政治やイデオロギーの愛国心じゃないじゃん、というケリがついているそうだ。もっとも実際にはそうでない輩もあるだろうが、反面ドイツ国内のトルコ系移民もドイツ応援で盛り上がる風景もあるらしい。
 先日のオーストラリア戦で日本はオーストラリアと戦ったので、相手はオーストラリア人でしょとか思っていたら、その数名はクロアチア系の移民らしい。へぇ。クロアチアの選手にもオーストラリアで選手している人がいるらしい。知らなかったが考えてみればそうだな。ドイツ選手にもいるし。ワールドカップとかいうと各国民が自国に戻ってとか考えがちだが、そういうものでもない。
 ジーコ監督もブラジル人なので日本の対ブラジル戦で監督は自国と戦うとかいうとき、まあいい意味でたかがスポーツの話である。
 日本対オーストラリア戦についてブラジル人も見ていたらしく、その感想だが、なんで日本人はゴールに向けてキックしないのか、フットボールというのは相手のゴールに玉をけり込むゲームなのということらしい。一部の意見ってやつでしょうが、あ、そうだよねとか私も思った。

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2006.06.17

恋は四十過ぎからの時代へかも

 はてなブックマークをたらっと見ててなにげに、はてな日記「esereal」のエントリ”でもまあなんていうか彼氏いらない”(参照)のフレーズ「ちなみに、19年の人生の中で異性もしくは同性に恋愛感情やそれらしきものを抱いたことは一度もありません。恋ってどうやってするものなんですか?」を読んで、脊髄反射で「あと20年くらい修行。」と呟いた私は今年四十九歳です。
 吉本隆明が娘さんに恋について諭して曰く、一生のうちに一人くらいは好きな人がいるもんだよ、いなきゃそんなものかと諦めな、だったか、正確には覚えてないが、そんな感じ。考えようによっては深いお言葉というか深すぎて地盤沈下デスチニー!かもだが、昨今では安珍清姫的物語はなくなったのでなんだが恋てふものはデザスター。しかたないよ。
 このところ「蜻蛉日記」をつらつら読むに、いやこれとても恋の形てふいふべきものか。右大将藤原道綱母日記を閉じるに満年齢三十九歳。一巻の終わり恋の終わりといういうべきかわからぬが、絶世の美女知性派眼鏡してたら現代でもクリステル嬢より萌え萌えの蜻蛉三十九歳の様を思う。かくありし時過ぎて、世の中にいとものはかなく、とにもかくにもつかで、世にふる人ありけりというも、今の俺より十も若いしまだまだ乳だってあるかも(いやそれはないかも)。
 日記はそこで閉じられるが後の人無粋にもまとめサイトならぬ年表なるものを作る。見るに蜻蛉六十歳まで生きていて、その五年前、あはれともいうべきか、敵、兼家六十一歳の死を見る。恋の末路。見るべきものは見果つか。人生ってなんなんでしょ。加えて道綱は凡庸絵に描くがごとしのオッサーンであったようだ。人生ってなんでしょ^2。
 ってなことはある意味で現代人にはどうでもいいというか、ネオテニー進化の現代人にしてみると死は八十歳くらい、恋の現役六十歳くらいか、女でも。いずれにせよ、四十歳くらいじゃ現役バリバリじゃんてことで、ゆかりたんガンバレ。
 負け犬さんも藻男さんも、四十くらいから恋をしてみるもよいのではないか、恋をいたしましょ~♪、とおじゃる丸の歌みたいに言うのも、ニューズウィーク日本語版6・14「負け犬たちを待つ輝かしい未来」が妙に面白く、世の移ろいかくのごとしと得心した。曰く。


20年前には「40歳の女性が結婚する確率は2.6%」だが自由なスタイルでチャンスをつかむ女性が急増中

 ネタかよと思ったがアーティクルを読むに、そうでもなさげ。四十過ぎて結婚というトレンドがあるそうだ。しかも晩婚カップルのほうが破綻しづらいようでもある。
 少子化というとなんとか初婚で子供産ませろみたいな、三十代お母さんのイメージがあるが、そういう方向をすっぱり止めて、四十歳くらいで結婚して産んでみるとか、子供を産むのが難しければ養子を取るとか別のチョイスもあるのだろう。グリーンスパンから学ぶべきことは経済だけじゃない。
 とまつまらんネタエントリ書くんじゃねーみたいな話だが、マジこいても未婚者の大半は結婚願望を持っているのは確かだし、米国ではそれが少しずつ目に見えるような流れにシフトしてきているようだ。だから、日本でもあと五年くらいしたら、多少はそうなるんではないか。少子化とかの問題解決にはならんでしょうけど。

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2006.06.16

貧乏について

 雑談。このところ、時折貧乏について思う。貧乏といっても、世代によってすごく感受が異なるのではないか。私は昭和三十二年生まれなので、ある意味で上の世代のすさまじい貧乏を知らないと同時に、下の世代のように、おや?この人たちは貧乏というのを知らないかと思うこともある。もっとも貧乏は世代の問題じゃないというのもあるだろうが、世代の問題というのもある。床屋談義に向いている。
 私はたぶん最古参のネットワーカーだと思うがネットに触れたとき、ほぉ文学なんて恥ずかしいものを読んでいる人が広い世間にはやっぱりいるのだと思った。身近な周りにはいなかったし、というか世界って広いもんだ、東京には出てみるべさ的な感じがした。そうした中で十歳も上の世代の人の交流もありいろいろ伺ったが、なんというかなにかと貧乏だな、この人たちと思った。けっこう中流家庭の人でもなんか世代的な貧乏なのである。コッペパンにマーガリンを薄く塗ってジャムを塗って食うという話になんの意味があるのかとか思ったが、その意味の空間に歴史があるのだろう。吉本隆明の料理にほうれん草のおひたしに醤油をかけるというのがあるのだが、その前に味の素を振る、えっ? リキッドアミノでしょとか洒落はさておき、なんつうか貧乏臭ぇとか思った。世代的な感性でしょうね。
 じゃ、おまえさんの貧乏じゃないってどうよ、なのだが、先日、人とクリスマスケーキの話をした。私が時間待ちに料理の本を読んでいると、なによ?と言うのだ、イギリス料理と答える。イギリス料理って何よ?というので、いろいろあるがスコーンとかクリスマスケーキとかいうところで写真を見せる。不味そうなんだよねこのクリスマスケーキと私が言うと、これって本当に食べるのかしらと答える。意味がわからないので聞くと、一か月くらい熟成させるというのだ。え?みたいな話から昔の話に移るのだが、私にしてみると五十年代から六十年代のアメリカの消費生活が貧乏じゃないという無意識の象徴のようだ。つまり、私も歴史の無意識のなかにいる。
 昨今勝ち組負け組とか、格差とかよく言われるのだが、私はあまりピンとこない。ここだけの話こっそり言うのだが、日本社会というのは格差以前に家の品格というものがあって、特に縁談システムに機能していた。あの家は貧乏だが家柄は良いとかいうのである。もちろん、民主主義日本にとっていいことじゃないしおおっぴらに言えるこっちゃない。それと私が子供の頃には「世が世なら」みたいな話はよく聞いたし、曾祖父近衛兵の私もその感じはちょっとわかる。貧しても品があるみたいなものだった。それもすべて敗戦という歴史の無意識のなかにいたということなのだろう。
 私の父母たちは貯金ということが生活様式になっていた。ピギーバンクといってもいっても米国みたいなもんじゃないエースコックの貯金箱とかが子供にも普通にあった。今考えると、貯金といっても最終的に国家の投資に回っているのだから、もっと利回りのいい民間部門が使えそうなものだが、いずれそういうチョイスはなかった。で話だが、子供のころから無駄遣いはしない、貯金はするという生活様式は私にも少し浸透していたので、あるいは家の気風というのもあるのかもしれないが、世の中に出てから人の金遣いの荒いのに驚いた。カネがあって金遣いが荒い人もいれば、カネがなくても金遣いが荒い人がいた。世の中というのは面白いものだなとは思った。
 若い頃勤めていた会社で財形と社債があるのを知ってするっと買った。会社の人にえらく褒められたがピンとこない。貯金の延長の感じでいるだけ。その会社を辞めるときは、それなりの額になった。サラリーマンの収入が安定しているというのは支出も安定しているということかもしれないが、少しづつセーブしてかつ金利が高い社会なら、じっと我慢の十年くらいでお家を建てられるように世の中というのはできているものだなと思ったし、そういうことができればお嫁さんも貰えるのであろう。「おうち」とか「およめさん」とかレトロな響きがするな。
 今月の文藝春秋に橘玲の「55歳から金持ちになる方法」という面白い記事があった。いや、ごく普通のことが書いてある凡庸な記事というべきかもしれない。ま、私には面白かった。エピソードのなかに、金利がまともな社会で夫婦働きで貯蓄をすれば自然に億万長者になるという話があった。そうなのだろう。普通に億万長者にならなくても、それなりに貧乏にはならない、今のような日本であっても、と思う。
 ぼんやり考えた。二十代後半から五十に手が届きそうなくらい娑婆の空気を吸ってみて、自分の馬鹿でどれだけ損したかな。貯蓄心があるとか言ったわりに、顧みると、ところどころで大きな損をしている。総額で一千万円くらいか、もっとか。馬鹿だったな俺とか思うのだが、世間を見渡してみると、マクロ経済学的にと言うべきか(洒落ね)、普通の人でも娑婆に出て四半世紀していると一千万円くらいドジな損をしている。普通の人っていうか庶民ってそんなものなんだろう。計画通りにいかないとか、不運があるとか、騙されたりとか。もっと多いのは、小銭を垂れ流してビンボダンスか。逆に言えば、世の動きに聡い人、好機のある人、騙す人、小銭をマジで締めるられる人というのは金持ちになるだろう。
 うまくいけば、四十代後半で一千万円くらいの余剰ができそうなものだが、見渡すにそんな人は見かけないっていうか不動産化しているのだろう。「金持ち父さん貧乏父さん」(参照)のいう負債だな。あはは。起きて半畳寝て一畳。一畳も安くない。

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2006.06.15

日銀福井総裁の村上ファンド投資問題、只管傍観

 この話、近年になく私は野次馬。アルファーコメンテーター「うんこあらため私」さんくらいなスタンス。問題をすげー単純に福井総裁辞めろか辞めるなか、というと、心情的には辞めたほうがいいと思うが、そういう主張もしない。辞めるべき理はないと思う。福井総裁は無罪でしょとは思う。
 でこの騒ぎはどうよだが、ブログH-Yamaguchi.netのエントリ”いったいどうすりゃいいのさ”(参照)に同感。


いやそんなことは実際どうでもいい。それは本題ではない。私たちが必要としているのは「政権にダメージを与えるための、あるいは国民が溜飲を下げるためのつるし上げの対象」ではなく、「責任ある立場の人たちに課されるべき明快かつ公正なルール」だ。

 正論。この騒動も、ま・た・か、ではある。が、ブログの風景を見ると、あれ?という感じもする。面々が異様に熱い。
 東の大関はブログ「債券・株・為替 中年金融マン ぐっちーさんの金持ちまっしぐら」のエントリ”福井総裁・・・あなたもですか???”(参照)だろうか。ほいで、西の大関はブログbewaad institute@kasumigaseki”[BOJ]福井総裁は絶対に辞任すべきではありません”(参照)か。ぐっちーさんが心情的であるに対してbewaadさんは理詰めなので、bewaadさんの議論のほうが良いような印象は受けるのだ、が。
 がというのは、そういう枠組みで見るなら、ホリエモンも村上欽ちゃんも同じでねーのと私は思う。心情擁護・バッシング、理詰めの擁護・バッシング。庶民が見えてもはっきりしているように、そういう問題じゃなく線路は続くよぉどこまでもである。行き先がデッド・エンドでも耐震偽装問題みたいになんとなくごにょごにょにしてしまえばいいし、と。
 私としてはだからこの問題はこれからの社会ヒステリーとかそのスジの権力がどうゴリっと動くかということだけが気になる。というかもっとリアールに世界を見ると、そろそろエアバックのご用意をというか、バーナンキ耐久力テストぉというか、予言者に災いあれというか、かも。いずれ、別の要因が方向を決めるのだろうと思う。
 しいて個別の問題で見れば、日刊スポーツの”福井総裁、村上ファンド解約はなぜ2月”(参照)については若干もめるのでは。

 日銀の福井俊彦総裁が村上ファンドへ1000万円を投資していた問題で14日、解約を申し入れた時期が量的緩和解除直前の2月であったことが新たな問題点として浮上してきた。緩和解除で株式市場への資金流入が細り、ファンドの資金運用が難しくなる可能性があったためで、市場では「売り抜けようとしたと言われても仕方がない」(ヘッジファンド関係者)と、脇の甘さを問題視する声が出ている。

 それとブログ「半休眠ぶろぐ」のエントリ”福井総裁の話はさらに拡大?”(参照)に指摘されているが、これってまだ続くのかぁ?である。
 抑止があるとすればさすがに懲りた民主党も自分たちのえんがちょをめっけて、うひゃぁまじーとかですっこむか。
 野次馬的には、五味太郎「みんなうんち」(参照)みたいに、みんなえんがちょの光景を見たいと思う。どうでしょ? 今回は亀甲様もホゲているし、左翼もどうでもいいようなネタで安倍バッシングしているし。
 つうわけで、なんか貧乏人の怨念ここに炸裂みたいなワクテカ感もあるが、日本社会というかアドミニストレーターさんたちどこで抑えるか。その前に、世界経済クラッシュっていうのはやだなぁ。

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2006.06.14

Don't be evil. 邪悪になるな。

 Don't be evil. 邪悪になるな。ということだが、Googleという会社のモットーである。DO NO EVILのマントラとも言われる。英語版ウィキペディアにも項目がある(参照)。「ザ・サーチ グーグルが世界を変えた」(参照)などからよく知られているところだが、さっき届いた日本版ニューズウィーク記事”IT業界の優等生はどっちだ(Actions and Intentions)”にも簡単に由来が書かれている。


 グーグルで大事にされるのは自由な雰囲気。普通の大企業のようになることを恐れたある社員は、本社中のホワイトボードの隅に「邪悪になるな」という言葉を書きつけた。これが社訓となった。

 正確ではないかもだが、そんなところ。そのグーグルが邪悪になった。
 日本語で読める記事としてはITPro”米Google,自身が「evil」であることを認める ”(参照)がある。

 予想よりも早い展開だった。米Google共同創設者のSergey Brin氏は6月第2週,Googleが中国政府からの圧力に屈して「don't be evil(悪行にはかかわらない)」という信条を曲げ,同社の中国向けWebサイトで検閲を行った事実を認めたのだ。ところがBrin氏は過失を認めただけで,検閲をするという判断は見直さなかった。6月8日の時点で,Googleは中国向けWebサイトで検閲を続けている。ただしBrin氏は,進行方向を逆転させる可能性を示唆した。

 ブリムの言葉はテレグラフ記事”We may pull plug on our censored Chinese website, says Google”(参照)からも伺える。ITProの記事とは印象が多少違う。
 いずれせよ妥協だろという論の例はニューストレイツタイムズ記事”Just Sayin': Google and the fine art of compromise”(参照)にある。試訳を添えておく。

The question, however, is whether it's better to compromise for a greater good, which in this case is to engage with an authoritarian government to increase Internet services and usage in a rapidly developing nation, or is it better to be an absolutist and stick to one's convictions all the time.
(問題はよりよい善のために妥協するべきかということ。成長期にある威嚇的な政府に関わってネットサービスを広めるか、あるいはいかなるときであれ信念を貫き通すかということ。)

"We felt that perhaps we could compromise our principles but provide ultimately more information for the Chinese and be a more effective service and perhaps make more of a difference," Brin said.
(ブリムは言う、「私たちは原則に対して妥協していたかもしれない。でも、最終的に中国人により多く情報を提供すれば、よりサービスも向上するし、きっと今より違ってくるよ」)


 現実的にはそうであるしかないとも言える。ブログR30”世界観と経済圏”(参照)のエントリは私には理解しづらいが、おそらくそういう結果しかチョイスがないという前提で逆向きにそのビジネスを見ているのだろう。そしてあれって単に莫大なカネを巻き込むだけのものだったでしょ、ということなのだろう。
 カネがイコール、邪悪というわけではないが、邪悪になるなといってもビジネスにはビジネスのルールがあるものだ。そう見るなら、グーグルの「邪悪になるな」っていうのはご勝手にしてくれ的な宗教的な信念にすぎないということでもあるのだろう。
 で、終わりか?
 ニューズウィークの先の記事もこう最後に言い残す。

 夢想家の描く目標のようだ。いずれグーグルも、企業として成熟すれば、平凡な会社になるのではないか。自分たちが正しいという信念も薄れ、硬直的な組織への抵抗感も消えていくだろう。
 ただ、グーグルが絶対的に普通の会社にはならないという方針を守り続けたまま成熟していく姿を見たいものだが。

 そのあたりが世人の落とし所であろうし、私のように青春にケリを付けたような人間にしてみるとそういうチョイス以外ないようにも思える。
 だが、私は、違うよ、君たちは全然違うと言いたい気持ちがある。二つある。
 一つは、「Don't be evil.」は単なる宗教ではなく、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(参照)で古典的社会学者マックス・ヴェーバーが説いたようなエートスだろうということだ。これについては自分のなかで十分に言葉にはなってこないが、テクノロジーに関わる若い人間たちの独自なエートスが先進資本主義のなかで芽生えつつあると思う。
 もう一つは、「Don't be evil.」は普遍的に正しい命題ではないかということだ。このあたりもうまく言葉になってこないのだが、こちらは少し試みてみる。
 話を端折るために例を挙げるのだが、この数年、以前なら世論形成に関わるプロ市民たちの仕込みというのはなかなかバレづらかったが、グーグル的な世界の出現でそれに決定的な打撃を与えるようになった。そのため、プロ市民たちはグーグル的な世界を忌避しより強固なコミュニティに綴じ込められるという皮肉な結果になったのだが、それでも、グーグル的な世界はある邪悪を不可能にしてしまう。もっとも、この言い方は洒落であってプロ市民と限らずネット右翼でもいいだろう。ただ両者が対称性を持っているようには思えないが。
 これはグーグル的な世界が、どっかのお利口なジャーナリストが言うのとは異なった意味でフラットな情報世界を作り出しつつあるからだろう。フラットというのを手品に喩えたい。手品は観客を前に座らせてするものなのにこのフラットな世界ときたら、その後ろも同じように見せてしまう。意味というのが成立しづらい世界だし、人々は逆に意味を求め、その希求が各種のエートスへの希求を生み出す。そうしたなかで、おそらく選択可能なエートスは技術による「Don't be evil.」ではないのか。
 これに関連して思うのは、カントの「いかなるときも真実を言う」という命題だ。哲学者中島義道”「哲学実技」のすすめ―そして誰もいなくなった”(参照)が面白く説いているが、これほど徹底的にこのカントの命題が議論されているのを私は知らない。

 いや、幸福を真実と同じレベルで考えてはならない。いますぐに説明するよ。真実をいつでも貫き通すことはたいへん難しいのだ。だが、だからといって簡単に「しかたがない」と呟いていい問題ではない。このことをカントほど考え抜いた哲学者をぼくは知らない。
 ぼくは、三〇年以上カントを読んできたが、やっと最近ここに潜む恐ろしく深い根が見えるようになったよ。カントは殺人鬼に追われた友人を匿い、追手から「どこにいるんだ?」と聞かれたときでさえ、嘘を言うべきではないと断言している。友人を場合によっては殺しても嘘をついてはならないと確信している。友情よりも真理が断固優先すべきであることを確信している。
 この非常識なカントの見解は、予想通りたいへんに評判の悪いものであり、さまざまな人が「融和策」を出そうとした。しかし、ごく最近のことだが、ぼくはカントのこの嘘に関する議論は文字通り受け取っていいのではないかと思い始めた。

 カントのこの命題とグーグルの「Don't be evil.」はそのままではつながらない。別の話でしょとかツッコまれても、そーすっよね、洒落洒落とか言いそうになる。
cover
「哲学実技」のすすめ
そして誰もいなくなった
 でも、いかなるときでも「邪悪になるな」ということが人の仕事のエートスとなる可能性と、その持つ戦慄すべきかもしれない世界を見てしまった今、私はそちらのほうに賭けてみたい。なにを賭けるかはよくわかんないが(このブログかな)。
 グーグルが「Don't be evil.」を見放せば、「Don't be evil.」は新しいグーグルを生み出すだろう。

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2006.06.13

シンドラーエレベータ事故雑感

 シンドラーエレベータ事故の真相がわからないし自分の経験から思うこともあまりないが、少しだけ書いておこう。いつもにもまして有益なエントリではない。
 私は半田鏝でマイコン制御機器を作っていた世代ということもあり二十代後半世過ぎにその分野の仕事を少した。高度なメカ制御ではなく特殊なOA機器とかだったが、あの頃ついでにエレベーター制御の本なども読み、そこにオペレーションズ・リサーチが応用されているのを知って興味をそそられた。以降エレベーターで長く待たされているとどんなアルゴリズムを使っているのか考えることがある。
 今回の事件で、私が気になったのは制御系の問題ということはないだろうかということだった。私が制御機器開発をやっている頃ザイログ八〇が出てきて、割込もデージーチェーン方式というかソフト的になった。設計も変わった。これじゃハード屋は誤動作を簡単に追求できないかなと思ったものだ。もちろん設計はそんな単純ではないのだが。
 シンドラーエレベーターについて制御系に問題があれば世界中で同様の問題を起こしているはずだがと英米ニュースなどをあたってみたが見あたらない。が、JIN ビジネスニュースの「でたらめシンドラー 世界中で事故」(参照)という記事を見かけた。


 シンドラーエレベータ社製のエレベーターによる事故が、日本だけでなく海外でも多発していたことが明らかになってきた。にもかかわらず、情報開示も、徹底的な原因究明もせず、「当社の責任ではない」といわんばかりのコメントを出し逃げ回っている。あきれた体質に関係者の怒りは爆発寸前だ。

 世界中で事故というわりには数例で統計的なデータではない。その数例を読むと、これは制御系かなという印象も持つ。制御系に問題があればもっと大量の事故パターンが出るだろうと思うが、やはりよくわからない。
 最新の時事では”ブレーキ摩耗わずか=「制御盤」異常強まる-エレベーター死亡事故・警視庁”(参照)として制御が疑惑対象となっている。

 ブレーキは、アーム部分やばねにも異常がないことが分かっており、同課などは、ドアの開閉やブレーキを作動させる制御盤に何らかの不具合が生じ、事故を起こしたとの見方を強めている。

 最新の朝日新聞系のニュース”ブレーキのボルトに緩み 死亡事故エレベーター”(参照)ではメンテナンス及びメカニカルな原因説もあげられている。

 東京都港区の公共住宅で、都立高校2年の男子生徒(16)がエレベーターに挟まれ死亡した事故で、事故機のブレーキの部品を留めるボルトの締め付けが緩んでいたことが、警視庁の調べで分かった。同庁はこの緩みが事故につながった可能性もあるとみて、慎重に鑑定を進めている。

 二説出てきたのだが、朝日記事には制御系の問題の示唆もある。

 エレベーターは扉が開いていると動かない構造になっているが、事故が起きたとき扉は全開状態で、そのまま上昇。男子生徒が救出された後には、電源が切られた状態で、本来だったらその場でとどまるはずのかごが最上階を超えるまでに達したとされる。

 確かにこれはメカニックの不具合とは思えない印象がある。
 制御系に本質的な問題があるなんてことがあるのか、考えたくもないなという思いもするが、もしそうであれば問題の解明はかなり難しいだろう、そう再現可能な誤動作はしないはずだから。

追記(2005.06.14)
 十四日付け産経新聞”エレベーター圧死、ブレーキ異常が原因 ディスクに多数の傷”(参照)の情報が重要に思えた。
 制御系の問題ではなく、メンテナンスの問題と見てよいのかもしれない。


 警視庁でブレーキを分解して鑑定を進めたところ、アーム部分やバネには異常がなく、ブレーキパッドの摩耗も許容範囲内だったが、ディスクに新旧の無数の傷があることが新たに判明。これらの傷がブレーキの利きを甘くしたとみられるという。
 警視庁では管理会社がこれらの重大な傷を見落とした可能性があるとみて捜査するとともに、事故機などがトラブル続きだったことから、ブレーキ異常につながる構造的欠陥の有無について製造元の「シンドラーエレベータ」側から事情を聴いている。
 過去のトラブルについて管理会社間の引き継ぎがなかったことも明らかになっており、委託元の「港区住宅公社」の安全管理に問題がなかったかについても調べている。

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2006.06.12

中国の対外武器販売が世界の紛争を悪化させている

 BBCが十一日付けのニュース記事”China arms sales 'fuel conflicts' ”(参照)で、中国の対外武器販売が世界の紛争を悪化させているとするアムネスティ・インターナショナルの報告書を取り上げていた。国内ニュースが出ないようなら、また日本のアムネスティが例によって中国に配慮してか取り上げないようなら、少し極東ブログのほうに書こうかと思っていた。が、共同”中国の武器輸出非難 アムネスティ報告書”(参照)でベタ記事になっているようだ。


 同団体は、兵器の輸出入データを国連に提出するよう促す「国連軍備登録制度」への参加を中国が拒否していることなどを批判。武器輸出の情報公開に向け「国連安全保障理事会の常任理事国、また主要な武器輸出国としての責務を果たすべきだ」と指摘している。

 とりあえずそれだけ書いてあればマシなほうかな。ほいじゃ、今日のエントリはなし、とも思ったのだが、なんとなくだらっと書いておく。
 アムネスティ・インターナショナルによるオリジナルの記事は”China: Secretive arms exports stoking conflict and repression”(参照)である。試訳を添えておく。

China is fast emerging as one of the world’s biggest, most secretive and irresponsible arms exporters, according to a new report issued today by Amnesty International.
(アムネスティ・インターナショナルが今日発表した報告書によれば、中国は今日の世界において、秘密裏にかつ無責任に武器を輸出する最大の国家として急速に台頭してきている。)

The report shows how Chinese weapons have helped sustain brutal conflicts, criminal violence and other grave human rights violations in countries such as Sudan, Nepal, Myanmar and South Africa. It also reveals the possible involvement of Western companies in the manufacture of some of these weapons.
(この報告書によれば、中国発の武器によって、スーダン、ネパール、ミャンマー、南アでの残虐な紛争や犯罪的な暴力、人権侵害の持続が可能になっている。同報告書では西側諸国の企業が武器製造に関わっている可能性も明らかにされている。)

“China describes its approach to arms export licensing as `cautious and responsible`, yet the reality couldn‘t be further from the truth. China is the only major arms exporting power that has not signed up to any multilateral agreements with criteria to prevent arms exports likely to be used for serious human rights violations,” said Helen Hughes, Amnesty International's arms control researcher.
(「中国は武器輸出認可について注意深く責任を持って行っているとしているが、これほど事実に異なることはない。中国は、武器の輸出が深刻な人権侵害を起こさないようにするための、いかなる多国間条約も批准していない唯一の主要な武器輸出国である」とアムネスティ・インターナショナルの軍備管理研究員ヘレン・ヒューズは言う。)


 報告書”People’s Republic of China, Sustaining conflict and human rights abuses, The flow of arms accelerates”(参照)では次のように、ダルフールによる虐殺に中国輸出の武器が使われていることにも言及している。

For example, China has continued to allow military equipment to be sent to Sudan despite well-documented and widespread killings, rapes and abductions by government armed forces and allied military groups in Darfur.
(例えば中国は、スーダン政府軍や関連軍事グループがダルフールにおいて殺害、レイプ、誘拐を広げており、かつそのことが十分に文書化されているにもかかわらず、武器をスーダンに送り続けている。)

 ひどいもんだな中国はと言ってみても特にインパクトもない、またか、ということであろう。日本の左翼も経済界も仲良くこの問題には黙りを決め込んでいるし、Google様もお嫌いな話題というわけだ。
 子細に考えれば、中国も単一の国家の指導で武器商人をやっているというよりは、むしろそうした死の商人たちのコングロマリットを制御できないのだろう。

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2006.06.11

社会保険庁による国民年金保険料の不正免除問題がわからん

 社会保険庁による国民年金保険料の不正免除問題について私はよくわからないし、ブロガーにはakazawa namiさん(参照)のように専門家もいらっしゃるのだし(特に「社会保険庁改革案の成立と施行規則改正をめざせ」(参照))、特に私なんぞが言うことはないでしょ、と思っていた。今でもそう思っているのだが、ブログだしな、「わかんないよ」と言ってみてもいいかもしれない。
 わかんないのは私だけではないようだ。鳥越俊太郎もわかんないと言っていたらしい。話の枕にJANJAN記事”国会ウオッチ!・国会NOW:「偽造」は、やはり悪い 社会保険庁問題”(参照)を引く。


 社会保険庁の国民年金保険料免除「偽造」の問題は、制度が難しいと思われているためか、一般に理解が十分でないようである。というも、5月29日朝、テレビ朝日の情報番組で、コメンテーターの鳥越俊太郎氏が不正免除について「なぜ悪いのかわからない」と発言したのを当方がたまたま見て、びっくりしたからだ。
 内心、あなたはプロなんだからそんな発言をする前に自分でまず調べろよ、と思ってしまった。しかし、社会の仕組みに精通していると見られてきたはずの鳥越氏でそうなのだから、多くの人が必ずしも問題を理解していない可能性があるとも思い直した。

 この記事、鳥越さんがまるでわかってないじゃんと批判しているようだ。どうでもいいことだが、私は鳥越俊太郎という人にはまるで関心ない。なにを読んでもまるでピンと来ない。筑紫哲也だとなにを読んでも馬鹿だなぁと思うのに。
 解説が続くのだが。

 まず、「なぜ悪いのか」である。確かに、免除すれば低所得者だから払えないので助かるし、正式手続きをしておくことで将来の受給資格を失わない。免除期間分は、本来の年金受取額の3分の1と少なくなるものの、受給はできる。本人はいいかもしれない。しかし、その他の人に波及し、制度そのものがますます弱るのである。

 いや私にはまるでわからない。ビンボ人にやるカネはねーぜってこと?
 この先賦課方式の説明をわかってないでしょと話が続くのだが、おやまぁである。
 他にわかる話はないかと見ると、”国民年金の「免除」とは 暮らし「荻原博子の"がんばれ!家計"」”(参照)を見るに、私はますますわからない。

 国民年金の年金額は、79万2100円(平成18年度価格)。もし、今回の不正免除が発覚せずに、免除された10万人が3分の1の年金を受け取ると、最高で年264億円の給付額になり、そのぶん、私たちの将来の税金負担が重くなります。免除そのものは収入が少ない人のセーフテイーネットで大切な制度ですが、許せないのは、組織保全のためにこの制度を悪用したこと。社保庁など、さっさと解体し、年金は、公正な第三者機関が目減りさせないように守るべきでしょう。

 おばちゃんのおっしゃることがよくわからないのだが、ようするに、不正なやつらにわてらのカネを渡すのは許せんってこと? これが前半。
 ところが後半は別の理由がある。つまり、「組織保全のためにこの制度を悪用した」のがいけない? では、前半のほうはそれでもよいわけ?
 私の考えを書く前にこの仕組みなのだが、おばちゃんが言うように。

免除には、所得基準によって全額免除、4分の3免除、半額免除、4分の1免除があり、独身だと所得57万円以下(収入の目安は約122万円)は全額免除、あとはそれぞれ収入に応じた免除になります。

 ということで。
 ほいでだ、国民年金は、月額一万三八六〇円。年間だと、十六万六三二〇円。所得五十七万円の人が約十七万円、そもそも払えますか? 払えるわけないじゃん。そうでなくても国民の三分の一は払ってもいない。
 今回の「問題」、不正免除とか言うけど、現実的な話、「正当に免除しない」っていうチョイスなんかないでしょ? こんなの免除するしかないわけで、それを何を騒いでいるのか、私は皆目わからない。免除にあたり、本人の署名・捺印が必要なのにそれをしなかったのがいけないとも聞くが、ほんとかね。
 この問題は、荻原おばちゃんの言う「組織保全のためにこの制度を悪用した」ということが問題で、つまり、社会保険庁の政治的な問題なんじゃないか? もともと知事に属するのか国に属するのかよくわかんない組織だしなどなど。
 話の向きを個人的な思い出話にする。
 私が十年くらい前だが沖縄にぶらっと流れていったとき、また来たか貧乏ないちゃー、国民年金払えるのかという感じで地域の組長さん?区長さん?のオジーが心配してくださったことがあった。よくわかんないのだが、毎月そのお宅に行って払うようにということらしい。沖縄ってそうなってんの?と思った。年度が変わりいつもどおり私は一括支払いをしたのだが先のオジーがまた心配してくれた。ついに支払えなくなったかと思ったようだ。いや、一括支払いした、そのほうが安いでしょと答えると、オジーびっくりしていた。ないちゃーは何を考えておる、という感じ。
 あの時思ったのだが、こうして国民年金徴収は地域の末端まできちんとコミュニティが機能していたのだなと知った。ということは、払えない人たちへの配慮もその中でなされていたに違いないと私は思った。
 その後、〇二年だったか、徴収事務は市町村から国に移った。これはひどい事になるだろうなとあのころ思った。正確な数字は覚えていないが、徴収率は激減したはずだ。そりゃそうだろ。
 今回のいわゆる不正免除問題はこの徴収の切り替えのエフェクトなのではないかと思うが、そのあたりもわからないといえばわからない。

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2006.06.10

電子レンジで作るえびせん(ってかパパダム)

 ビールの季節だ。つまみは?と考えて、知人からもらったインドネシア土産のえびせんを電子レンジでチンと作ってみた。うめー。ヘルシー。

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 酒はもう飲めなくなっていたのだが、昨年あたりから少しくらいならワインとかビールが飲めるようになった。といってももともとビールとか好きではないのだが、キリンの豊潤(参照)とゴールデンホップ(参照)ならなんとか。
 えびせんの作り方だが、パパダム一枚を電子レンジ強(五〇〇Wくらい)で一分、チン。ほいでできあがり。マジそんだけ。ついでに中国版の小さいえびせんチップを四枚を同じく一分、チン。これもできる。

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 それではあんまりなので、吉田よし子先生の「マメな豆の話―世界の豆食文化をたずねて(平凡社新書)」(参照)より。


 インドネシアの食卓には、油でパリッと揚げたえびえせんが欠かせないが、インドの食卓にも油で揚げた豆せんべい、パパダムが欠かせない。薄焼きせんべい状のパパダムはパパア、パパドなどとも呼ばれる。スパイシーで香ばしい食欲増進剤としてそのまま食べたり、もんでカレーの上からご飯にかけて食べたりするが、これも基本的にはウラドダルやムーンダルと米粉、そしてアサフォティダ、コショウなどのスパイスと塩で作られている。

 基本は揚げるのだが。

ただほんの数枚を揚げるのに油を熱するのが面倒で、家庭では作りにくかった。
 ところが最近、電子レンジに二〇秒から三〇秒入れるだけで、パリパリのパパダムができることがわかり、簡単でしかもカロリーが低いのが受け、急激に普及している。イギリスあたりでもインド人の野菜カレー屋などに行くと、カレーに添えられているのは、どこでも電子レンジで焼いたパパダムになった。

 というわけ。実際には、物にもよるけど一分くらいがよい。ま、最初は三〇秒とかでやってみて、調節すると勘がわかるだろう。
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マメな豆の話
世界の豆食文化を
たずねて
 あ、で、パパダムなんだが楽天とかにないわけではない。パパダムプレーン(参照)やプレーンパパド(参照)。ただ、エスニック食材屋とか覗けば見つかると思う。

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2006.06.09

カレーについての断章

 私はカレーについて思うのだが、その社会的な存在について、特にその様式についてと言うべきかもしれないが、私が自身を人間的存在であると捉え、同様に他の人間(他者)について思うことと同じく、特に好悪というものはないのだが、いろいろと思惟を促す何かをもっていると確信するのだが、まとまった散文をもってまとめることができない。以下は、カレーについての断章である。


  • カレーが好きだと公言する日本人が多いのはなぜか。この現象は日本の政治制度など制度、さらに歴史に関連しているのだろうか。
  • 私が半世紀にわたる観察の結果知り得たのは、日本の官僚とはカレーを主食とする人間的存在である。だが、彼らが、その職務に対するのと同様、それを好んでいる風はない。
  • カレーを主食とする類似の存在に、政治家がいる。だが彼らはただカレー食っているだけで、カレーを食ったという記憶ももっていない。カレーと政治家の脳にはなにか関連があるのだろうか。
  • カレーを主食とする第三の存在が弁護士である。いや日本の司法の大原則はカレーを食うことであるかもしれない。憲法にカレー・コードとして記載されている。
  • 本格カレーはインドには存在しない。シャングリラに存在するという説もあるが、にわかには信じられない。
  • 日本人はカレーをカレールーから作る。カレールーは日本にしか存在しない。
  • カレールーの主要成分は油脂である。牛脂なのか水素添加硬化植物油なのか不明。
  • 私は海軍式カレーを二度ほど作り失敗した。レシピに本質的な欠陥があるのではないか。
  • 私はカレーをブラウンソースにカレー粉を入れて作る。
  • カレー粉は、クミン、コリアンダーを等量、ターメリックはその半分を混ぜるとできる。これに辛みとしてカイエンヌを適当に加える。
  • 私がおいしいと思った唯一のカレーはキクヤ(参照)のカツ・カレーである。
  • 私はコルカタの中産階級の家にステイして本格インド料理を食べたことがある。カレーは出てこないというか全部カレーというか、微妙。
  • ベンガル地方ではナンを食べない。日本のインド料理屋にナンが出てくるのはナンでなの?とか言ってみるテスト。
  • タイカレーはヤマモリのレトルト(参照)がうまいと思う。
  • カレーライスかライスカレーかを論じることに興味を持つ世代があり、うんこ味のカレーかカレー味のうんこかを論じる世代がある。
  • 沖縄暮らしが長かった私はオリエンタル・マース・カレー(参照)をよく食べた。別段おいしいわけではない(まーさこーねーん)。
  • 沖縄暮らしが長かった私はボンカレー(参照)をよく食べた。これははっきり言って、まずい。
  • 意外だが、ボンカレーパン(参照)はうまい。激辛がよい。
  • ボンカレーといえば松山容子(参照)である。松山容子と言えば品川隆ニである。品川隆ニといえば近衛十四郎である(涙)。
  • 松山容子と松坂慶子を正規表現で表すと 松\.+?子 であろうかって、カレーとは関係ないな。
  • カレーチャーハンをやたら簡単に作る方法は、市販カレールーを一かけフライパンに入れ、熱してとろっととけたところに卵と飯を入れてまぜることだが、別段うまくはない。
  • インド式のカレーを作るにはタマネギをよく炒めろというのだが、インドで実際の現場を見てわかったことは、これができるのは雇い人がたくさんいる家庭でないと難しいかもということ。
  • 椎名麟三は中村屋のカレーが好きだったと知って食べに行ったことがある。青春の思い出。味はまあおいしいの部類。
  • 私はほうれん草カレーをときたま作る。若いとき、赤坂のタージで食べたのが最初。タージのインド料理は日本人の口によく合う
  • インドでダールのカレーっていうかカレーっぽい味のダールを好んで食っていると、インド人が、それはよいそれは健康によいといって褒めてくれた。ちなみに、トルコでルコラをしこたま食っていたら、トルコ人が、それはよいそれは健康によいといって褒めてくれた。
  • 五色納豆は好きだが、納豆入りカレーについては考えたくもない。ってか、書きたくもないのだが、書けというオブセッションを覚えるのは私が疲れているからか。
  • 人と松屋のカレーを食ったことがある。あとで、ちょっと気持ち悪くなった。一緒に食った人もそうだった。なぜだろう?
  • カレーうどんを時たま食う。またしてもヤマモリのカレーうどん(参照)がうまい。いい醤油使っているからであろうか。
  • カレーに添えるものはチャツネより福神漬けであるが、先日買った福神漬けは真っ赤ではなかった。赤くないとまずい感じがするのはなぜだろう。
  • 内村鑑三はカレーに砂糖をかけて食ったという話を聞いたことがある。本当だろうか。カレーに砂糖をかけるとどんな味になるのだろう。甘い?
  • カレーの木というのがある。木にカレーが実るのだ。嘘ぴょん。
  • 一三四七年イギリス王工ドワード三世はフランス北部の港町を包囲し、市民にカレーを食うことを強要した。市民は特にカレーが嫌いそうな六名を選んでカレーを食わせることで攻撃の中止を提案したという。これがきっかけになってフランスにもカレーが普及した。

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2006.06.08

日本憲法は会社の定款と同じ

 シリーズでお届けする民主主義と憲法、第四回は……ない。まったくないわけでもなくて、「日本国憲法はそれ自体が市民革命である」という命題が成り立つか時折考えるので、この間似たようなテーマのエントリが続く中、これも考え直したのだが、よくわからない。一番よくわからないのは、大日本帝国憲法下の日本もそれほどデモクラシーに反していないことだ。
 大日本帝国憲法において天皇は明白に国家の機関であったし(中野学校でもそう教えていた)、その憲法下でそのまま日本を民主主義国家としてなにがいけないのか。つきつめるとわからない。いわゆる戦前の日本は軍国主義とか言われるが、別段そうでもない。統帥権問題も誤解ではないかと思えることもある。その意味で敗戦によって憲法を変える必要があったのかと、これもあらためて考えると、まあそれが敗戦ということだ。変わってしまったのは歴史の事実であり、しかたがない。どう変えたのかについ関心が向く。
 憲法とはなにか? 私はこの問いにこう答えるといいのではないかと思う。憲法とは、日本を会社に見立てるとその会社定款である、と。そう思うのは、よく会社定款についてそれが「会社の憲法」のようなものですと説明されるからだ。これは、逆に憲法を会社定款で説明したほうがわかりやすい。
 会社は誰のものか。村上欽ちゃんが言うように、株主のものだ。というのと同じように、日本という国家は、その株主に相当する国民の所有物だ。では、配当というのはあるのか。ある。日本国家も利益を国民に配分するためにある。もっとも日本国も運営しないと利益を生まないから、その経営者が必要になる。それが政府だ。
 冗談のように聞こえるなら、日本国憲法がよく読まれていないからだ。「極東ブログ: 試訳憲法前文、ただし直訳風」(参照)をまた引用する。


【第2文】
Government is a sacred trust of the people,
 政府は国民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。

the authority for which is derived from the people,
 その(政府の)権威は国民に由来する。

the powers of which are exercised by the representatives of the people,
 その権力は国民の代表によって行使される、

and the benefits of which are enjoyed by the people.
 だから、それで得られた利益は国民が喜んで受け取るものなのだ。


 政府というのは、株主が会社の経営を経営陣に委託したようなもの。日本国の所有権は株主に当たる国民にある。ほいで、そのベネフィット(利益)は国民に配当される。日本国という国家は、株式会社と基本的に同じようにできている。
 ライブドア事件では多くの株主が株価下落によって不利益を被った。では、日本国のオーナーである日本人にとって株券に相当するのは何か? それは私たちひとりひとりのリソース(財産など)だ。これも憲法にちゃんと書いてある。

【第9文】
We, the Japanese people, pledge our national honor
 私たち日本人は以下のことに国家の威信を掛ける

to accomplish these high ideals and purposes
 そのことは、このような高い理想と目的だ、

with all our resources.
 そのために私たちの全財産と制度を担保としてもよい。


 つまり日本国民は身銭を切って日本国の理想という株券を買ったというのだ。これが転けたら、株価が下落するように、担保の身銭がなくなるのである。
 最悪の事態はひどいもんだとも言えるが、日本国憲法ができる前は、株主たる日本人がまるで日本国の経営にタッチできないどころか、経営陣にひどい目に遭わされたという認識が、日本国憲法には書かれている。第一文の終わりのほうだ。

and resolved that
 またこう決意した、

never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government,
 その決意は、政府の活動が引き起こす戦争の脅威に二度と私たちが見舞われないようにしようということだ、


 ここでの歴史認識は、太平洋戦争(大東亜戦争)というのは政府が勝手に起こしたもので、そのために、日本人は被害にあったというのだ。
 ここの含みは、日本国憲法が成立する前は、国家のオーナーが十分に日本国民ではなかったということなのだろう。
 すると、日本国憲法成立を挟んで、歴史は、国民がオーナーではない国家から、国民がオーナーの国家に変わったということになる。これは、そのままべたに考えれば「日本国憲法はそれ自体が市民革命である」ということになる。
 ただ、リアルな歴史を見ていると、戦前の日本も民主主義でなかったわけでもないのだから、日本国憲法が市民革命で、米国様のおかげで市民革命ができました、というのは、普通の日本人の感覚としては、いかがなものでしょう的ではある。
 いずれにせよ、日本国憲法では、日本国のオーナーは国民であるし、民主主義というのはそういうものだということで、government of the peopleは、国民が日本国に含めて政府を所有しているというふう読まないと、その配当益がなぜ生じるのかもうまく説明できない。
 さて、この憲法を日本人は今後も継続するべきか。個人的には、それでええんでないのと思う。帳簿に記載漏れした裏金みたいな軍隊を維持するために現行の九条をこのまま放置せよという物騒な勢力も多いが。それでも、読売新聞のように憲法を根本から勘違いしているよりは、このままのほうがマシだろう。
 憲法のルールとしての目的は政府の権力を限定することにある。なぜそうなるかというと、くどいが、日本国の所有者(国民)と施政者(政府)が本質的に分離されているからだ。この分離があるから、権力委譲について厳格な取り決めが必要になる。
 日本国憲法は、文書としてはもはや歴史文書に過ぎず、直接的な法源としては半ば死んでいると言ってもいいだろう。実質上の憲法はこの六十年間のログの追加分もあれば十分だ。プログラムと同じで最新仕様書がなくてもバージョン改変履歴があれば事足りる。憲法はべたに成文法である必要はない。

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2006.06.07

スキナー(Burrhus Frederic Skinner)と日本国憲法

 池沼とかブレーンストーミングとか言われているし。どさくさ紛れに今回はかなりトンデモかもしれないがこの間考えていた日本国憲法の謎について書いておこう。結論を先にいうと、日本国憲法にはスキナー(Burrhus Frederic Skinner)(参照)の思想が込められているというもの。仮説だ、もちろん。誰か他にこのことを研究している人がいたら教えてくださいませ(井の中の蛙?)。
 バラス・フレデリック・スキナー(Burrhus Frederic Skinner)は一九〇四年生まれの米国の心理学者。その立場は行動主義心理学(参照)と呼ばれている。日本版のウィッキペディアには行動主義心理学についてごく簡単な解説がある。


行動主義心理学(こうどうしゅぎしんりがく)は、意識は客観的に観察することができないので、刺激や反応といった観察可能な概念によって人間の行動を研究していこうとした心理学の一派である。

 とりあえずそういうことだが、スキナーと言えば日本ではオペラント条件づけ(参照)が有名なので、スキナーの思想というのは、もし彼に政治思想があるなら、そういうものの延長であるかと考える人が多いのではないか。あるいはスキナー箱の忌まわしいエピソードなどを思い描くかもしれない(チョムスキアンとか)。そういう連想もあながち間違いとも言えないかもしれないが、むしろスキナーにとっては人間の行動の基礎原理自体が前提としてオペラント条件づけのように捉えられていた。
 スキナーの政治思想については、英語版のウィキペディアのPolitical Views(参照)が簡素にまとめている。

Political Views
Skinner's political writings emphasized his hopes that an effective and humane science of behavioral control - a behavioral technology - could solve human problems which were not solved by earlier approaches or were actively aggravated by advances in physical technology such as the atomic bomb. One of Skinner's stated goals was to prevent humanity from destroying itself.

 人間と人間の間の諸問題を解決する行動技術としてのコントロールという考え方に着目してほしい。このやや珍妙な考え方こそ、日本国憲法の前文に該当するとしか私には思えない。「極東ブログ: 試訳憲法前文、ただし直訳風」(参照)からあえて引用しよう。コントロールというキータームが目立つようにした。

【第5文】
We, the Japanese people, desire peace for all time
 私たち日本人は常時平和を望み、

and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship,
 人間関係を制御(コントロール)する高い理想というものを深く意識して、

and we have determined
 以下のことを決定事項とした、

to preserve our security and existence,
 私たちの安全と生存の保持は、

trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.
 平和を愛する世界の国民の正義と信頼に委託しよう、と。


 日本国憲法は、人間と人間の間の諸問題を解決する行動技術としてのコントロールが強く意識されている。コントロール(制御)という技術的な視点が一般的な法学的な文章とは異なり、非常に奇妙な印象を与えている。
 ここで、先のスキナーの政治思想についてだが、人間の諸問題を解決するのは技術であるという発想に加え、原子爆弾のような技術では人間の諸問題は解決されないのだとされていることに留意してほしい。スキナーは、威嚇を人間のコントロール原理としては捉えていない。彼が理想というか究極の目的としたのは、人類が人類を滅ぼさないためにはどうしたらいいのかという実践的、具体的な課題=理念だった。当然、この理念こそが人間と人間の間のコントロールの究極にあると延長して考えられ、まさにそこが日本国憲法のこの第五文と同じになっている。
 先の英文の先ではこうなる。

Skinner saw the problems of political control not as a battle of domination versus freedom, but as choices of what kinds of control were used for what purposes. Skinner opposed the use of coercion, punishment and fear and supported the use of positive reinforcement.

 人間と人間が滅ぼし合わないようにするには、自由のために生死をかけるのではなく、コントロール技術を用いるべきだというのだ。そして、そのコントロールというのは威嚇や恐怖でなく「ポジティブなリインフォースメント(positive reinforcement)」というのだが、これは人間と人間との関係性の文脈にあるのだから「善意と相手の信義の確認と再確認」と言ってもいいだろう。ここでも、日本国憲法の第五文の理念がそのまま浮き出ている。
 私はトンデモなことを言っているのだろうか。嘲笑するのはブログのご自由にだが、その前に日本国憲法の原文・英文とスキナーの思想を照合してからにしていただきたい。
 私にはスキナー思想と日本国憲法のコントロール原則は、偶然の一致だとはとうてい思えない。この思想は、一般に言われる平和思想ではなく、人間行動をいかに外在的にコントロールするかという技術的な思索の一つの結果である。
 この一致がもし偶然でないならば、前提として日本国憲法が成立した時代とスキナー思想の時代が合致する可能性を見ていかなくてはならない。
 スキナーの生涯で目立つのが、彼による理想世界の小説的Walden Two(参照)だがその出版は一九四八年。なので、これは日本国憲法が公布された一九四六年より後となる。Walden Twoが単純に日本国憲法に影響したということはありえない。むしろWalden Twoは日本の戦後教育的な気味の悪さを持っている。
 Walden Twoがべたに日本国憲法へ影響ということはありえないが、それでも日本国憲法とスキナー思想には同時代的な近接性があるとは言える。当時の最先端的な科学思想・軍事思想として、スキナーの思想がなんらかの経路で日本国憲法に取り込まれているという可能性はある。

Additionally Skinner felt behavioral technology would offer alternatives to coercion, good science applied right would help society, and we would all be better off if we cooperated with each other peacefully. Skinner's novel has been described by Skinner as "my New Atlantis" referring to Bacon's utopia.

 戦後の日本国とはそうしたNew Atlantisとなるように仕組まれていたのではないか。そしてその失敗はまさにスキナー思想の末路という点でもほぼ同型になっている。

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2006.06.06

人気、人形、人情、人数、人間、人民(にんみん)

 昨日のエントリ”極東ブログ: 国民による国民のための国民の政府”(参照)でいろいろ愉快なコメントをいただいた。歴史認識についてはゆるりと議論すればいいし、他の意見の相違の類は面々のおんはからいにするがよろしかろう、多事争論ではあるが、にしても基本的な部分でテキストが読まれてないっていうか、昨今の人は言葉の持つ歴史の感覚っていうのはなくなっているのかなと思うことはあった。特にこれ。


どうせ「人民はアカっぽい」とかいう意図を込めてるんだろうが、ミエミエ。finalventなんてミラーワールドでモンスターに喰われちゃえ。

 妄想メソッドやんとか言わない。左翼って私の知らない本心とか批判してくださるのがテンプレだし、その土俵は野暮過ぎ。そんなことはどうでもいいのだけど、”どうせ「人民はアカっぽい」”という発言にちとびっくりこいた。エントリを読んで貰えばわかると思うけど、「これは近代日本の造語ではないのか?」という近代の歴史時間の感覚が伝わらないのだろうか。「革命」が易姓革命の「革命」から来ているわけではないと補足までしたように、こうした近代造語は明治期のものでしょうっていうのが伝わらないのだな。
 「人民」という造語・訳語が明治期に創造されたとすると、山路愛山(参照)とかを思うに、明治時代であっても後期だろう。しかし、「人民の人民による人民のための政治」はリンカーンだし、福沢諭吉なんかに近い時代の地層に属しているだろう。
 いずれにせよ、左翼用語だから批判しているのだろうというありえない妄想ミラーワールドのfinalventはモンスターに食われるが吉。
 なんだかなと思ってみたものの、あ、そーかと思い至った。いやいや妄想メソッドでもなんでも多事争論で喚起されるものはあるもんだ。「人民」って「じんみん」じゃないな、「にんみん」だな。日本語の「にんみん(人民)」が西洋文化訳語的に利用され、音変化し「じんみん」となったのだろう。こういうのはよくある。「人身(にんしん)」「人畜(にんちく)」「人事(にんじ)」「人道(にんどう)」「人徳(にんとく)」「人馬(にんば)」「人面(にんめん)」。余談だが私の子供のころはまだ万葉集を「まんにょうしゅう」と読んでいる人がいたもんだ。
 宣長先生秘本玉くしげに曰く。

むかしより外国共のやうを考ふるに、広き国は、大抵人民も多くて強く、狭き国は、人民すくなくて弱ければ、勢におされて、狭き国は、広き国に従ひつくから、おのづから広きは尊く、狭きは卑きやうなれども、実の尊卑美悪は、広狭にはよらざることなり、そのうへすべて外国は、土地は広大にても、いづれも其広大なるに応じては、田地人民はなはだ稀少なり、唐土などは、諸戎の中にては、よき国と聞えたれども、それすら皇国にくらぶれば、なほ田地人民は、はなはだ少くまばらにして、たゞいたづらに土地の広きのみなり、

 「人民」という言葉は、「田地人民(でんちにんみん)」というふうに日本語としては使われてきた言葉で、むしろそう考えると、定訳「人民の人民による人民のための政治」がおそらく明治時代に与えたインパクトが想像できる。
 宣長先生は実際はけっこう近代人だが、「人民(にんみん)」の語はいつからあり、どのような意味の変遷をしていたのかと見るに、いずれ呉音だから仏教だろう。法蓮華経安楽行品には「王、兵衆の戦ふに功ある者を見て即ち大に歓喜し、功に随つて賞賜し、(中略)を與へ、或は種々の珍寶(中略)瑪瑙、珊瑚、琥珀、象馬、車乗、奴婢、人民を與ふ。」とあり、奴婢に対する王の所属の概念ではありそうだ。儒学・儒教の線はなかろうというのも論語では「民人」としている。
 さらに見ていくに、神皇正統記にこうある。神皇正統記というのは昨今のウヨサヨ誤解しまくっているがかなり面白い本である。

他人の田種をさへうばひぬすむ者出て互にうちあらそふ。是を決する人なかりしかば、衆共にはからひて一人の平等王を立、名て刹帝利といふ(田主と云心なり)。其始の王を民主王と号しき。十善の正法をおこなひて国をおさめしかば、人民是を敬愛す。閻浮提の天下、豊楽安穏にして病患及び大寒熱あることなし。寿命も極て久无量歳なりき。民主の子孫相続して久しく君たりしが、漸正法も衰しより寿命も減じて八万四千歳にいたる。

 これって「民主」という言葉にも大きく関わるわけなのだな。つうか、日本の民主主義というのが天皇主義と調和するというのは依然べたに神皇正統記の世界つうことか。がびーん。

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2006.06.05

国民による国民のための国民の政府

 明け方ぼんやりしていていて、ふと、"government of the people, by the people, for the people"の定訳、「人民の人民による人民のための政治」(参照)が誤訳なんじゃないか。なんで「人民」なんだ?と思った。the peopleは、単純な話、「国民」でしょ。
 日本だと、日本国があって、国民がいて、政府がある。で、この、"government of the people, by the people, for the people"というのは、政府というもの性質が、"of the people"国民に所属する、"by the people"国民が運営する(たぶん委託する)、"for the people"受益者は国民である、ということなんじゃないか。
 もう随分前になるが、「極東ブログ: 試訳憲法前文、ただし直訳風」(参照)を書いたことがあるのだが、あれは意味の違和感を浮き上がらせるためにわざとらな直訳にしたのだけど、あの前文のここ。


【第2文】
Government is a sacred trust of the people,
 政府は国民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。

the authority for which is derived from the people,
 その(政府の)権威は国民に由来する。

the powers of which are exercised by the representatives of the people,
 その権力は国民の代表によって行使される、

and the benefits of which are enjoyed by the people.
 だから、それで得られた利益は国民が喜んで受け取るものなのだ。


 は、実は、べたに"government of the people, by the people, for the people"なんですな。つまり。
 "of the people"国民に所属する、が、「その(政府の)権威は国民に由来する」で、この権威というのは所有権。
 "by the people"国民が運営する(たぶん委託する)、が、「その権力は国民の代表によって行使される」。
 "for the people"受益者は国民である、が、「それで得られた利益は国民が喜んで受け取るもの」
 で、この"government of the people, by the people, for the people"の根幹にあるのは、government=政府、っていうのは、国民=the peopleの、委託物(トラスト)ということ。
 委託というのは、所有権は国民が持つが、施政権は政府が持つということ。このあたりのからくりは、「極東ブログ: 領有権=財産権、施政権=信託」(参照)に書いたことがある。このときの要点の一つがこれ。

つまり、元来、領民と領土は王のものであったが、市民革命によって、領民と領土は国民の主権に収奪された。しかし、国民=主権というのは、概念的なものなので、実際に国家の経営は、信託としてつまり施政権として、政府に貸与されているのだ。

 話を戻して、"government of the people, by the people, for the people"のthe peopleをなんで「人民」と訳したのだろう? 誰がこんな訳を付けたのだろう。ネットを調べてみたがよくわからない。
 そういえば、先日、胡錦涛訪米の際、米政府がナイスジョークで、Republic of Chinaと言ったが、それは中華民国=台湾。中華人民共和国は、People's Republic of China。で、ここに poepleが入っているのは、中華人民共和国をベタに訳してみましたというより、poepleの語感にsovereign が kingではないという含みがあるのだろう。語感としては、このPeople's Republic of Chinaのpoepleはやはり国民=民族であり、漢民族ってやつなのだろう。なので、諸民族は一応文化的には諸民族に認めるけど、国家に所属する国民=漢民族化を進めてしまう。
 この「人民」という一風変わった訳語がなにに由来するのかわからないが、これは近代日本の造語ではないのか? とすると、「中华人民共和国」の「人民」というのは日本語に由来するのではないか。このあたりもよくわからんところだ。ちなみに、「革命」というのは明確に近代日本語。近代中国の「革命」は易姓革命の「革命」から来ているわけではない。
 調べているついでに、"government of the people, by the people, for the people"の元ネタ、ゲティスバーグ演説の岡田晃久+山形浩生訳というのをめっけた(参照)。で、こうなっている。

It is rather for us to be here dedicated to the great task remaining before us -- that from these honored dead we take increased devotion to that cause for which they gave the last full measure of devotion -- that we here highly resolve that these dead shall not have died in vain -- that this nation, under God, shall have a new birth of freedom -- and that government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.
 
ここにいるわれわれの使命とはむしろ、かれらが最後の完全な献身を捧げた理念に対し、この名誉ある死者たちから一層の熱意を持って、われわれの前に残された偉大な任務に専念することなのです。その任務とは、あの死者たちの死を無駄にはしないとわれわれがここに固く決意し、この国が神のもとで新しい自由を生み出すことを決意し、そして人々を、人々自身の手によって、人々自身の利害のために統治することを、この地上から消え去さらせはしない、と決意することなのです(*2)。

 でこの(*2)が面白い。

(*2) government of the people, by the people, for the people. 「人民の、人民による、人民のための政府」と訳すのがふつうなんだが、なんとなく耳あたりはよいのでみんな流してきいてしまう一方で、これがどういう意味かをきちんと考え、説明できる人は少ない。特にいちばん最初の「of the people」の部分。ふつうはみんな、「人民の」というので、「人民が所有する」という意味だと思っている場合がほとんど。そうではなく、これは統治される対象が人民であることを指しているのだ。

 アメリカ建国以前の政府というのは、人民(という統治される対象)を、官僚や貴族たち(という統治する主体なり実体)が、王さまや教会(という統治の旗印なりなんなり)の利害のために支配する、という形態だったわけだ。それとの対比で考えてもらうと理解しやすいかと。


 というわけで、岡田晃久+山形浩生訳でも、the peopleは国民と訳されていない。「人々」とかになっているが、私の日本語の語感では「多様なる各人」みたいなもんというか「面々のおんはからいなり」の「面々」に近い。the peopleの語感とはけっこう違う。ま、これは日本語の感性の問題かも。
 で、ほぉと思ったのは、この注釈、of the peopleを、「統治される対象が人民であることを指しているのだ」としている点だ。そういう考えがあるのかいなとちょっと考えたけど、日本国憲法とかのべた性を見ても、西洋国家論のスキームを見ても、これは国民の所有ということでしょ。
 え、山形浩生訳にケチをつけると恐いってか。いえ、ケチなんか付けてませんてば。お好きなかたはお好きな解釈でどうぞ。面々のおんはからいなり。

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2006.06.04

出生率向上は米国にも学んだら

 少子化の議論はもうおなか一杯です的腹膨るる業だが、先日発表された今年の合計特殊出生率一・二五関連の話をメディアとかで読んでいて、あまりに物言わざるもなと思いちょっと書く。わかりやすく書くとどっと非難を浴びそうだが、それほど物騒なネタでもないし、亀甲様には及びもせぬが馬鹿呼ばわりされるもブログの芸の内。
 話の枕は毎日新聞社説”1.25ショック サバ読み年金設計は出直せ”(参照)。社説としてはどうでもいいような内容だが、次の部分にカチンと。


 日本の出生率は世界の先進国ではドイツ(1.34)イタリア(1.30)と並んで最低レベルだ。米国は97年に1.97で底を打ってから上昇傾向に転じている。最大の要因は移民のヒスパニック系住民が原動力になっていることだ。フランス(1.89)は先進国の中で米国に次いで高い。手厚い家族給付と行き届いた育児サポートに起因すると言われる。

 どう読むかね、これ。出生率向上に成功しているのは米国だが、米国に学ぶのやめましょってことか。
 米国の出生率向上は、移民のヒスパニック系住民が原動力だから、日本の鏡にはならん、とか言う。ここで私がOKOK牧場とか言うと、移民受け入れはいかーんという毎度のパターンをやる? やらないよ。
 まず、事実として、米国は出生率向上に成功している。ガチ。で、じゃ、それは移民のせいか?
 敬愛するローバート・サミュエルソンのコラム「アメリカだけが少子化しない理由」(日本版ニューズウィーク5・31)ではこう。

 アメリカの出生率は2・1と、ほぼ人口を維持できるレベル。ヒスパニック系の出生率が高いからだという声もあるが、アメリカン・エンタープライズ研究所のニコラス・エバースタットによれば、非ヒスパニック系の白人で1・9、アフリカ系アメリカ人で2だ。

 一応留保するのだが、この報告が統計学的に正しければ、米国出生率を支えているのは移民だ論はぽしゃる。私も米国人口増加はヒスパニック系だと思っていたのだが、確かに人口全体から見ればそうなのかもしれないが、出生率という点でみるなら、所謂白人でもそう低くないようだ。
 その前提でサミュエルソンに沿って話を進めるのだが、じゃ、なぜ米国の出生率が高い? というか、どうもそのあたりで、現代日本人というか、ブログとかジャーナリズムでタブー化してやんな的なものがうっすら見えてくる。
 それを見ないでやる議論の典型はさっきの毎日新聞社説も同じだが、こんな感じ。

 出生率の急落の原因は、ある程度わかってきている。よく指摘されるのは、所得の増加、健康と平均寿命の延び(子供の生存率向上による少子化)、都市化の拡大(農作業に必要な子供の数が減少)、女性の教育や雇用機会の拡大、避妊、晩婚化、非婚化、それに離婚の増加がある。

 ともう食えない的に列挙されるのだが、これにこう続く。

 しかし、それだけでは説明できない。アメリカという重要な例外があるからだ。

 例外といっても、重要な例外としての米国の出生率だ。そして、それは移民というだけではなさそう。では、何か?
 サミュエルソンはエバースタットをひいて、それは愛国心だと言う。げっ!
 でも、そうなのではないのか。

 それを裏づける証拠もある。シカゴ大学全国世論調査センターが33カ国で実施した調査では、「他のどんな国よりも自国の国民でありたい」と「強く思う」と答えた割合がアメリカでは75%、ドイツ、フランス、スペインではそれぞれ21%、34%、21%だった。

 なんだか悪い冗談を書いているような気持ちもちょっとするが、案外そういうことなんじゃないのか。昨今の教育基本法で愛国心がどうたらとくだらねー議論をしているのは、当為としての愛国心であって、事実としての愛国心ではない。先進国の出生率は事実としての愛国心に支えられているのではないか。
 引用が多くてなんだが、サミュエルソン・ザ・オサーンはこう言う。

 産まないという選択は、自国の、そしておそらくは自分自身の未来を否定することになる。

 自分自身の未来にというのはディスカウントしてもいいのだろうが(誰が世話してくるかわらないほどボケたいもんだし)、自国の未来を否定するというのはざっくり言えばそうなんじゃないか。未来の日本国民は基本的に今の日本国民が産むのだから。もちろん、世間には子供を産めない人もいる。わかってる。
 私はもう一〇年前だったが、マルタ島の街角で子供がたちがわーっとベビーカーを囲んでいた光景を思い出す。沖縄でもそうだった。赤ちゃんがいるーとかいうだけで子供が集まってくる光景。あの光景のないところに出生率向上はないと思う(とか言ってマルタは少子化だったりして、知らんが)。

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2006.06.03

どうして、そう、なるのっ

 朝日新聞記事”村上代表を立件へ インサイダー容疑、東京地検近く聴取”(参照)が確かなら、東京地検特捜部は、村上世彰氏をインサイダー取引の容疑で立件するとのこと。ことは昨年のライブドアによるニッポン放送株の買い占めなのだが、なぜ今頃これが出てきたかというのがこの話の妙味なのだろう。記事によると理由はライブドア捜査を足がかりにしたようだ。


 特捜部は、この取引について、複数のLD元幹部らに対する事情聴取で、村上氏から同放送株の大量取得を提案されたとの供述を得た。さらに、村上ファンドの取引記録の分析や関係者の聴取を進めた結果、村上ファンドがLDの大量取得の方針を事前に知ったうえで株売買を行ったとして、証券取引法違反のインサイダー取引にあたる疑いが強いとみている模様だ。

 振り返って浮き上がった構図を見ると、検察によるライブドア潰しも狙いは直接ホリエモンというより、当初から村上世彰氏だったのだろう。ということは、その後ろにあるおカネなんだろうが。検察の目論みとしては「複数のLD元幹部らに対する事情聴取」ではなく、ホリエモン改心したかぁ、みたいな水戸黄門的正義の絵を描いていたのではないか。そこはコケたな、と。
 今回のインサイダー容疑がガチということなら、それはあの時点でわからないというものでもなく識者は臭いんでねーという声もちょろちょろと上げていた。そうならなかったのはそうならない理由というのもあった。今朝の朝日新聞社説”村上ファンド 本当のことを知りたい”(参照)でも触れているようにお茶目な抜かりがあったわけでもないだろう。

 一歩間違えば、危ない橋を渡ることになりかねない。そうした懸念に対して、村上氏は「私は決して法律は犯さない。コンプライアンス(法令順守)は大原則だ」と反論してきた。
 自身が旧通産省の官僚出身で法令に精通しているだけでなく、側近に大手証券出身者や警察官僚OBらもいる。情報の扱いには慎重だったはずだ。実際にはどうだったのだろう。

 実際はグレーマターということで、今回の話の根っこはインサイダー容疑よりも、村上氏の活動に対して国策がどう転ぶかだけの問題だったのではないか、というと陰謀論過ぎか。でも今回の騒ぎは共謀罪成立のための煙幕だぁとまで陰謀論は採らないけどね。
 私はホリエモン逮捕のときは検察が無茶苦茶なことをするなと思ったし、ホリエモンに勝ち目がないわけでもないと思った。では、今回のチェックメートについてはどうかというと、村上側はステイルメートには持ち込めないと思う。
 理由は、村上ファンドがシンガポールに拠点を移した時点で、なんであれ日本に居られねーと自らが認めたに等しいからだ。日本に置いておくにはやばすぎな物があったと疑われてもしかたないし、たぶんあるのだろう。村上氏よりもっとその懸念を持った牛筋があるだろう。なんていったってシンガポールじゃんか、ということで加えて言うべきこともない。
 日本にいることすらやばすぎなのかもと、ワタシ的には俊寛僧都島物語を連想して、よよよと哀れをもよおす。つい村上さんとさん付けになってしまう心情だ。村上さん、星港のほうがなにかとセキュリティが高いと思ったのだろう。しかし是乗せてゆけ具してゆけと海の彼方で叫ぶより、堀の中のほうが安全かもしれない。日本食だしヘルシーだし、たぶん。
 世界史のなんとか王朝とかのテンプレ的世代交代話では、王位が変わるときは前時代の忠臣たちはクリーンナップされる。今回きれいさっぱり焼け野原なら、なるほど見えないけどオルフェノクの王は出現していたということなのだろう。スマートブレイン社長は村上さんだったけど峡児でしたね。別人。

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2006.06.02

Scripps National Spelling Bee in 2006

 金曜日は基本的にニュースを見ないことにしているのでお金持ちの欽ちゃんとかその後どうなっているのか知らない。が、ちょっと調べ事の関連で覗いたSalon.comのトップニュースに今年のSpelling Beeの話があり、つい読んでしまった。記事は”13-Year-Old N.J. Girl Wins Spelling Bee”(参照)。Salonの非会員でも広告にちょっと我慢していると読めるはず。
 Spelling Beeは、英辞郎を引くとこうある。


スペリング競争、スペリング・コンテスト、単語のスペルを正確に書く・言う競争◆間違った者はその場でどんどん外される。◆【同】spelldown / spelling contest

 ちょっとわかりづらい。ネットに解説はないかとちょっと見ていると、昨年の大会をネタにしたallaboutの”米国で大流行!スペル・コンテスト賞金は300万円! 子供に勝てるか?スペルテスト!”(参照)がある。

 しかしその全国規模での大会は、歴史も古く、1925年に第1回大会が開催されました。子供たちが楽しく英語を学べるようにとの理由で始まったものです。
 全国大会で優勝すると、現在は賞金約2万8千ドル(およそ300万円)をもらうことができます。

 実際は全米だったかテレビ中継されるすごいイベントで、最近では映画やミュージカルのネタにもなった、とか書いたものの私はそのあたりまだ見てないのだが。
 もちろん、チャーリー・ブラウンとか見ていると、学校レベルでの大会というのもある。あっちこっちで小規模にも、よくやっているのだろう。Wikipediaには詳しい解説がある(参照)。
 今回の大会では十三歳の少女がチャンプとなった。女の子のチャンプは久しぶりのようだ。

June 01,2006 | WASHINGTON -- A 13-year-old New Jersey girl making her fifth straight appearance at the Scripps National Spelling Bee rattled off "ursprache" to claim the title of America's best speller Thursday on prime-time television.

Katharine Close, an eighth-grader at the H.W. Mountz School in Spring Lake, N.J., is the first girl since 1999 to win the national spelling title. She stepped back from the microphone and put her hands to her mouth upon being declared the winner. She recognized the word as soon as she heard it.


 天才少女出現!といった感じなのだろうか。決めの英単語は”ursprache”だったそうで、私はこの単語を始めて見たのだが、"sprache"は以前シュタイナー教育のシュプラッハを学んだことがあるのでドイツ語で「言葉」という意味だというのは知っている、とするとドイツ語だから、urは、フッサール哲学とかに出てくる Urdoxaのur、「元の」という意味だろうということで、意味は祖語だろうってか、印欧祖語は……Proto-Indo-Europeanか。
cover
綴り字のシーズン
 ところでなんでBee(ミツバチ)なのか。そういえば、映画Bee Seasonの邦題は「綴り字のシーズン」(参照)だったが、ミツバチの季節の洒落だ。なんでミツバチだったかひとくされ話を聞いたことがあるのだが忘れた。と、Wikipediaを見るに。

The etymology of the word "bee" is unclear. Historically, it has described a social congregation where a specific action is being carried out, like a husking bee, or an apple bee.

 よくわかってないらしい。
 映画Bee Seasonは見てないのだが、さわりは知っていて、あのときのキーワードがorigamiだったようだというあたりで、この言葉に米人はなにか東洋的なものを感じるのだろう。マイクロソフトあたりがいかにもパクつきそう。
cover
チャレンジ・キッズ
 エントリにオチもないのだが、この手のお子様勉強コンテストっていうのは日本でもないだろうか。差詰め漢字コンテストといったところだろうが、全国ネットでテレビで中継の大イベントっていうのは聞かないな。やったらいいのにと思うけど、やっちゃマズイんでしょうね、きっと、やっぱり、そのぉ、なんたらとか理屈がついてさ。

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2006.06.01

2ちゃんねるまとめサイト炎上・閉鎖

 2ちゃんねるまとめサイトの多くが炎上・閉鎖している。理由は存外に複雑なのかもしれないが、一つには2ちゃんねるコンテンツでアフィリエイト収入をあげているサイトに2ちゃんねるユーザーが強い不快感を持ったことだろう。
 今回の事態は、昨年の「のまネコ問題」に似ている面もある。あの問題は、エイベックス発売「恋のマイアヒ」CD特典映像の「のまネコ」が、2ちゃんねるのアイドル・キャラクターとして定着してたモナーの盗用ではないかということだった。が、反感のコアは、それによってエイベックスが利益を上げていくことだったように思える。
 まとめサイト炎上は、案外特定のネット・ユーザーのいさかいなのかもしれないが、薄目で見ていると、2ちゃんねるのコンテンツのありかたそのものに起因しているような気もする。
 というのも、同種の電車男話も2ちゃんねるの運営サイドの了解のもとに新潮社が出版し、テレビ化・映画化でビッグビジネスとなったが、富を生む可能性のあるコンテンツなのだから、たかがブログだからといってそのまま無断転載でいいとは運営側は考えにくいだろう。
 すでに消滅しているのかもしれないが、抗議というか疑惑糾弾を受けた側のニャー速の運営者は一応対応を試みていたようだ。そのなかの「脱税疑惑について」で「違法な行為は行っていません」というのがあった。んなこと言われてもねだが、詰問者はアフィリエイトによる利益を巨額なものと推定していたのだろう。
 すでにいくつかのブログで疑問視されているように、まとめサイトのアフィリエイトは本当に儲かっていたのだろうか? ブログ「ARTIFACT@ハテナ系」”VIP系まとめサイトのアフィリエイトは儲かるか?”(参照)に参考となる考察がある。


ただ、アフィリエイトで儲けるコツは月5万円ぐらい稼げるサイトを何個も作ることだ。もしかするとこれを書いた人はサイトを20個ぐらい作っているのかもしれない。しかし、そもそものソースがVIP板な訳で、そこから複数のサイトを作るのは大変難しい。やっぱり無理だ(笑)。

 さらに今回の事件に関連して”VIP系まとめサイトのアフィリエイトの話再び”(参照)では、儲かったとして月三十万円くらいではないかと推測している。
 実態がわからないものの月額三十万円近い収入があれば、運営規模にもよるが趣味のレベルを超えてビジネスといってもいい。なので、ネタの仕入れについてもそれなりのビジネス・ルールがあってしかるべきだろう。
 今回の事件がのまネコ問題とは違って難しいのは、落としどころが見えないことだ。あるいは、現状有名なまとめサイトがひとまず沈没して終了なのかもしれない。もちろん、今後も小規模なまとめサイトは出てくるだろうが。
 今回の事態に関連して、もうひとつ気になることがある。すでに一部で疑問が提出されているのだが、まとめサイトやその関連グループが2ちゃんねるにネタを仕込んでいたのではないか。こうした疑惑は電車男の時にも起きたので、定番的なものかもしれないが。
 ネットのなかになんとなく転がっているかに見える面白い話というのは、たまたま転がっているのではなく、誰かが話題作りのためにネットのなかに仕組んだものかもしれない。主体の見えない広告という時代がすでに来ているのかもしれない。

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