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2006.06.14

Don't be evil. 邪悪になるな。

 Don't be evil. 邪悪になるな。ということだが、Googleという会社のモットーである。DO NO EVILのマントラとも言われる。英語版ウィキペディアにも項目がある(参照)。「ザ・サーチ グーグルが世界を変えた」(参照)などからよく知られているところだが、さっき届いた日本版ニューズウィーク記事”IT業界の優等生はどっちだ(Actions and Intentions)”にも簡単に由来が書かれている。


 グーグルで大事にされるのは自由な雰囲気。普通の大企業のようになることを恐れたある社員は、本社中のホワイトボードの隅に「邪悪になるな」という言葉を書きつけた。これが社訓となった。

 正確ではないかもだが、そんなところ。そのグーグルが邪悪になった。
 日本語で読める記事としてはITPro”米Google,自身が「evil」であることを認める ”(参照)がある。

 予想よりも早い展開だった。米Google共同創設者のSergey Brin氏は6月第2週,Googleが中国政府からの圧力に屈して「don't be evil(悪行にはかかわらない)」という信条を曲げ,同社の中国向けWebサイトで検閲を行った事実を認めたのだ。ところがBrin氏は過失を認めただけで,検閲をするという判断は見直さなかった。6月8日の時点で,Googleは中国向けWebサイトで検閲を続けている。ただしBrin氏は,進行方向を逆転させる可能性を示唆した。

 ブリムの言葉はテレグラフ記事”We may pull plug on our censored Chinese website, says Google”(参照)からも伺える。ITProの記事とは印象が多少違う。
 いずれせよ妥協だろという論の例はニューストレイツタイムズ記事”Just Sayin': Google and the fine art of compromise”(参照)にある。試訳を添えておく。

The question, however, is whether it's better to compromise for a greater good, which in this case is to engage with an authoritarian government to increase Internet services and usage in a rapidly developing nation, or is it better to be an absolutist and stick to one's convictions all the time.
(問題はよりよい善のために妥協するべきかということ。成長期にある威嚇的な政府に関わってネットサービスを広めるか、あるいはいかなるときであれ信念を貫き通すかということ。)

"We felt that perhaps we could compromise our principles but provide ultimately more information for the Chinese and be a more effective service and perhaps make more of a difference," Brin said.
(ブリムは言う、「私たちは原則に対して妥協していたかもしれない。でも、最終的に中国人により多く情報を提供すれば、よりサービスも向上するし、きっと今より違ってくるよ」)


 現実的にはそうであるしかないとも言える。ブログR30”世界観と経済圏”(参照)のエントリは私には理解しづらいが、おそらくそういう結果しかチョイスがないという前提で逆向きにそのビジネスを見ているのだろう。そしてあれって単に莫大なカネを巻き込むだけのものだったでしょ、ということなのだろう。
 カネがイコール、邪悪というわけではないが、邪悪になるなといってもビジネスにはビジネスのルールがあるものだ。そう見るなら、グーグルの「邪悪になるな」っていうのはご勝手にしてくれ的な宗教的な信念にすぎないということでもあるのだろう。
 で、終わりか?
 ニューズウィークの先の記事もこう最後に言い残す。

 夢想家の描く目標のようだ。いずれグーグルも、企業として成熟すれば、平凡な会社になるのではないか。自分たちが正しいという信念も薄れ、硬直的な組織への抵抗感も消えていくだろう。
 ただ、グーグルが絶対的に普通の会社にはならないという方針を守り続けたまま成熟していく姿を見たいものだが。

 そのあたりが世人の落とし所であろうし、私のように青春にケリを付けたような人間にしてみるとそういうチョイス以外ないようにも思える。
 だが、私は、違うよ、君たちは全然違うと言いたい気持ちがある。二つある。
 一つは、「Don't be evil.」は単なる宗教ではなく、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(参照)で古典的社会学者マックス・ヴェーバーが説いたようなエートスだろうということだ。これについては自分のなかで十分に言葉にはなってこないが、テクノロジーに関わる若い人間たちの独自なエートスが先進資本主義のなかで芽生えつつあると思う。
 もう一つは、「Don't be evil.」は普遍的に正しい命題ではないかということだ。このあたりもうまく言葉になってこないのだが、こちらは少し試みてみる。
 話を端折るために例を挙げるのだが、この数年、以前なら世論形成に関わるプロ市民たちの仕込みというのはなかなかバレづらかったが、グーグル的な世界の出現でそれに決定的な打撃を与えるようになった。そのため、プロ市民たちはグーグル的な世界を忌避しより強固なコミュニティに綴じ込められるという皮肉な結果になったのだが、それでも、グーグル的な世界はある邪悪を不可能にしてしまう。もっとも、この言い方は洒落であってプロ市民と限らずネット右翼でもいいだろう。ただ両者が対称性を持っているようには思えないが。
 これはグーグル的な世界が、どっかのお利口なジャーナリストが言うのとは異なった意味でフラットな情報世界を作り出しつつあるからだろう。フラットというのを手品に喩えたい。手品は観客を前に座らせてするものなのにこのフラットな世界ときたら、その後ろも同じように見せてしまう。意味というのが成立しづらい世界だし、人々は逆に意味を求め、その希求が各種のエートスへの希求を生み出す。そうしたなかで、おそらく選択可能なエートスは技術による「Don't be evil.」ではないのか。
 これに関連して思うのは、カントの「いかなるときも真実を言う」という命題だ。哲学者中島義道”「哲学実技」のすすめ―そして誰もいなくなった”(参照)が面白く説いているが、これほど徹底的にこのカントの命題が議論されているのを私は知らない。

 いや、幸福を真実と同じレベルで考えてはならない。いますぐに説明するよ。真実をいつでも貫き通すことはたいへん難しいのだ。だが、だからといって簡単に「しかたがない」と呟いていい問題ではない。このことをカントほど考え抜いた哲学者をぼくは知らない。
 ぼくは、三〇年以上カントを読んできたが、やっと最近ここに潜む恐ろしく深い根が見えるようになったよ。カントは殺人鬼に追われた友人を匿い、追手から「どこにいるんだ?」と聞かれたときでさえ、嘘を言うべきではないと断言している。友人を場合によっては殺しても嘘をついてはならないと確信している。友情よりも真理が断固優先すべきであることを確信している。
 この非常識なカントの見解は、予想通りたいへんに評判の悪いものであり、さまざまな人が「融和策」を出そうとした。しかし、ごく最近のことだが、ぼくはカントのこの嘘に関する議論は文字通り受け取っていいのではないかと思い始めた。

 カントのこの命題とグーグルの「Don't be evil.」はそのままではつながらない。別の話でしょとかツッコまれても、そーすっよね、洒落洒落とか言いそうになる。
cover
「哲学実技」のすすめ
そして誰もいなくなった
 でも、いかなるときでも「邪悪になるな」ということが人の仕事のエートスとなる可能性と、その持つ戦慄すべきかもしれない世界を見てしまった今、私はそちらのほうに賭けてみたい。なにを賭けるかはよくわかんないが(このブログかな)。
 グーグルが「Don't be evil.」を見放せば、「Don't be evil.」は新しいグーグルを生み出すだろう。

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コメント

「Don't be evil.」が新しいgoogleを探すだろう。
に感銘しました。私めが子育て中よく言っていた言葉を思い出しました。「嘘は効率が悪い。怒らないから本当の事を言いなさい!」と・・・物事の解決が早く済んで、楽しいお喋りは親子を安定させていた様な気がします。

投稿: あ | 2006.06.14 21:02

訂正 ×新しいグーグルを探すだろう
   

投稿: あ | 2006.06.14 21:07

Microsoft the Evil Empire が前提にある気もしますが、さておき、プログラム規定と見るのが妥当なのでしょうな。

投稿: な | 2006.06.14 21:34

 とりあえず嘘つくなとか可能な限り有り体に話せとか、至って普通のことでは?
 私とか年がら年中普通にやってるんで、ああそうですかとしか言いようがない。

 まあ、至る地域によってはやりにくいことも多々あるんでしょうけど。

投稿: 私 | 2006.06.14 22:20

そこは世界文明と固有文化とのせめぎ合いとか、普遍理念と国内法の摩擦とか、例えば日本の警察チームがグーグルジャパンに内臓丸出し画像禁を条件付けたならどういう態度を取るのかなあ、私たち。「郷に入っては郷に従えよ」と言うのか、「貫けよ」というのか……って思いっ切りたとえがよくないですね。それだとみんな「ググール、がんがれ」になっちまう。:p

投稿: ゾフィ | 2006.06.15 00:00

>それだとみんな「ググール、がんがれ」になっちまう。:p
あ、みんなじゃないですね、どうもすみません。世の中の半分は反対ですね、多分。その意味の方で思いっ切りたとえが悪かったでした。たいへん失礼しました。>みなさん

投稿: ゾフィ | 2006.06.15 00:04

限界を見透かされてるから抹殺されない。
限界を超えるには、ある種の狂気が必要。
組織が大きくなったり、富み豊かになって
守るべきものが増えると、狂気は衰えていく。

投稿: 空 | 2006.06.15 04:15

初めてコメントさせていただきます。

google八部とかある時点で、今までからして十分邪悪だったと、だから、別に検閲は驚くには値しないと思いました。

投稿: りんりん | 2006.06.15 08:07

"Don't be evel." は "Be good." と等価ではありません。
そこらへんがこの標語の肝なのかなとも思いました。

投稿: drp | 2006.06.15 17:38

>"Don't be evel." は "Be good." と...
確かに、後者が主張されないからこそ、「戦慄すべきかもしれない世界」の可能性が見えるのですね。
以前からGoogle八分を知っていた人間にとっては、今回、中国での検閲行為が公式に認められたことこそが、逃れようの無い「Don't be evil.」の力の結果であると捉えることもできます。
そして、そういう小さいところから積み上げていくのは、案外有効ではないでしょうか。

何だか当然のことを得意げに語ってしまった気がします。ごめんなさい。

投稿: laylah | 2006.06.15 21:44

自発的な検閲(Google八分)と強制される検閲が同じに見えるのはおかしなことです。彼らは前者をやり抜く為に後者を排除しようとしている訳で。
邪悪かどうかというのは正直意味がわからないのですが、言わんとするところは「これから大義を立てて事業の自主性を確保する為に喧嘩するから株主各位は損しても許してね。」なんじゃないでしょうか。
そして彼らが負けたとしても、エントリーにあるように次の勇者が立ち上がるはずだからこの事案に関しては中国様も折れなさいよってことだと思うのです。

投稿: papepo | 2006.06.15 22:54

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» Evil prove nothing [鳥新聞]
google社の倫理規定はDon’t be evil(邪悪になるな)だそうで、このほど中国版googleで中国政府の意向をのんで、検閲を行った事をevilだと認めたそうだ。(極東ブログ、R30) なにがevilか知らないが、6月13日のIT... [続きを読む]

受信: 2006.06.16 01:45

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