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2006.05.30

イグナチウス龔品梅枢機卿

 昨日のエントリの補足のようなもの。イグナチウス龔品梅枢機卿についてはWikipediaのIgnatius Cardinal Kung Pin-Mei(参照)に英語の情報がある。が、Catholic Cultureサイトの”Chinese Cardinal Ignatius Kung Pin-mei Dies in Stamford, USA”(参照)と違う点もある。中国語ウィキペディアの同項はより詳しい(参照)。以下、各情報を私の判断でまとめておく。
 龔枢機卿は一九〇一年八月二日上海近くP'ou-tongのカトリック教徒の家庭に生まれ、聖職に進む。一九四九年十月七日ローマ教皇より蘇州(江蘇省)の司教に任命、翌年上海の司教に任命された。一九五五年、反革命反逆集団の組織・指導罪で逮捕され、無期懲役となる。宗教事務局や愛国会などによれば、司教は中国共産党の政策に反対し、朝鮮戦争参戦や土地改革に従わず、外国に国家機密を漏らしたとされる。三十年後、八五年七月に仮釈放されたが、八八年まで自宅軟禁。その後、表向きは政治権利も回復されたことになった。
 一九八八年読売新聞社が龔司教とのインタビューに成功している(「30年ぶり出獄 中国カトリック“司教”と会見 今もローマ法王を信じる」1988.02 22)。


 --あなたは今も司教とお考えか。
 「その通り。一九四九年十月七日に(江蘇省)蘇州の司教に、翌五〇年八月に上海の司教にローマ法王から任命された。上海司教は上海のほか蘇州、南京も管轄する」
 --当時、あなたは何をして逮捕、投獄されたのか。
 「そのことについては、もうしゃべりたくない」(注)
 --刑務所内での生活は。
 「ずっと上海市監獄に収容され、常時、三―四人の囚人と相部屋だった。同房者には反革命罪に問われた者もいれば、殺人や放火などの刑事犯もいた。しかし、宗教関係者とは一度も同房にならなかった。小説や新聞は読めたが聖書だけは禁じられた。何度も聖書を与えてくれと頼んだが聞き入れてもらえなかった。苦しくつらいことだった」


 --この三十年間で考えが変わったか。
 「私の信仰は何ら変わらない。刑務所内でも心の中でいつも神に祈りをささげてきた。今もローマ法王を信じている。法王の説教を聞かない者を(カトリック)信者とは呼べない」
 --中国独自の愛国会と、今も地下で祈りをささげる信者についてどう思うか。
 「私は(愛国会に)参加しないし、関係もない。自分の考えと信仰を持ち、他の人々のことは関知しない。ただ、多くの信者は今もローマ法王を信じているし、多数の神父が(愛国会系の)教会に行くのを嫌がり、自宅でミサをしている。表立って布教活動をすれば逮捕されてしまうからだ」

 歴史を少しだけ前に戻す。ヨハネ・パウロ二世が龔司教を枢機卿とすることに決めた(in pectore)のは、一九七九年である。まだ彼が獄中にあった時代だ。正式な発表は一九九一年六月。枢機卿自身八八年まで知らなかったとも言われる。
 八八年に自宅軟禁が解かれると、五月、甥や姪が多数暮らす米国に親戚訪問と、投獄生活で患った高血圧と心臓病の治療を目的に出国。中国に戻ることはなかった。
 二〇〇〇年三月十四日、コネティカット州スタンフォードの親戚の家で胃癌により死去。九十八歳。
 死後、龔枢機卿をしのび、中国のカトリックの地下教会を支援する「キョウ(龔)基金」(参照)ができる。龔枢機卿の甥にあたる基金のキョウ代表は、枢機卿の死後であろうと思うが、無線機を持った信者によって守られたなか北京郊外の地下教会のミサに参加した。

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