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2006.05.31

高学歴になるほど就職しづらい

 今週のニューズウィーク日本語版のカバー「学歴難民クライシス」が面白かったといえば面白かった。高学歴になるほど就職しづらいという話だ。「就職できない一流大卒が急増 ブランド校を企業が警戒する理由」と補足されている。記事のほうの標題は「世界にあふれる高学歴難民(Overeducated & Unemplyed)」。リードはこう。


有名大学や大学院を出ても企業から冷たくあしらわれ事務職や短期雇用に甘んじる「学歴でっかち」が増殖している

 まあ、そんな話。
 いきなり個人的な述懐になるが、自分もいつのまにか大学からはるか遠く離れ、かつてそこで学んだものがビジネス的にはなんの役にもたってないなとはっきりわかるので、こうした話にそれほど違和感はない。
 では大学での学問になんの意味がなかったかというと、それはそれなりにそうでもなく、世界の眺め方が変わったなとは思う。いずれにせよ、済んだことは良いように解釈しておくのが良い。なにより私の存在は社会的にはかなりどうでもいいものだ……でも、大学を離れたころは自分がいかに矮小な存在かと頭でわかっていても、「あははは、俺は社会のゴミ」と現在のように明るく達観していたわけでもないので、現在大学院などで学究に志している人は、就職に大きな不安を持っているのだろうと同情する。そうした不安は未来に質を持っているので、いずれ十分な歳月がすべてをファイナンスしてくれるだろうが。
 単純に言えば学問の価値と社会の価値は違う。社会はその構成員のサービスの交換で成り立っているのだから、それに見合うサービスが提供できなければその存在価値はない。社会的個人の価値を決めるのは社会のシステムであって、その個人の属性と化した学歴などではない。では、スキルは?と連想が進むが、現実社会でのスキルというのは社会に出てみないと身に付かない。もちろん、例外もある。が、例外の人は悩む間もなくちゃんと食っていけているものだ。たいていの人は例外にはならない。
 ニューズウィークの記事は学歴に着目しているが、日本の場合が特にそうだが、大学は青春の場でもある。洒落のようだが、三十代から四十代になってみると、学問なり社会人なりとしてそれなりに成功していても端的に言えば家庭的というか個人の内面的な生き様としては崩壊しているというか索漠としている人々が目立つようになる。運命というのもあるので、なんらかの結果そうなったというものではないのが、なんとなくだが青春なりというものの始末の付け方に関連はしているだろう。生きるというのはけっこう難しい。幸福というのは金銭なり名声なりとイコールでもない。
 記事で面白かったのは、高学歴な人々が職を得られないというのは、高度な資本主義社会にとってある程度一般的な傾向なんだなと思わせるあたりだ。国家の施策でどうとなるものではないのかもしれない。

 高学歴者の就職難民化は、先進国共通の問題だ。韓国では大卒以上の失業者が33万人超に達し、ドイツでは年間の新卒数に匹敵する23万人の大卒者が失業する。ブレア政権が大学進学率の向上を推進したイギリスでは、単純労働の仕事しか見つけられない高学歴者が社会問題化している。

 もちろん日本というのは、大卒から一斉に就職というまるで一連の流れのように大学と企業・社会が連結する特殊な国なので、そうした点の考慮は必要だろう。が、傾向としては、資本主義社会の発展と高学歴者の就職難には関連があるのだろう。
 アメリカでは事情が違うようでもある。それはそれなりに特例かもしれないが。

 ただ、専門性を生かせない企業側の画一的な採用や処遇に問題があるという専門家も多い。外資系求人サイトを運営するCCコンサルティング代表のリチャード・バイサウスは、「社外の知識や経験を重視する外資系企業に比べ、日本の中途採用市場はまだ未成熟だ」と言う。
 確かに、学士より修士、修士より博士が就職に不利という逆転現象は、専門職の採用や処遇にたけたアメリカには見られない。

 記事は日本版のみで書かれたのではないかと思うので、こうした指摘が米国全体に当てはまるとは言えないかもしれないが、米国はそれなりにうまくやっているという印象はある。なので、日本の高学歴者就職難が問題なら、社会の方向性としては米国型に向かうしかないのだろうと思う。が、ブログとかでぶいぶいしているインテリ小僧からそうした認識(米国型がよい)は私にはあまり伺えない。たぶん、日本はそういう点で米国型にはならないのだろう。むしろ、学歴と高級公務員志向が結合し、さらに問題を深めていくような気がする。
 話が逸れるのかもしれないが、大学というのは、労働者を調節する社会施設でもある。日本の現状だと大学生がバイトに勤しむかのようだが、それですら正規雇用にバッティングするわけではない。そう考えてみると、現状大卒者・高学歴者の就職が難しいというのは大学の持つ労働者調節機能がより高度化しただけなのではないだろうか。そして、それはある意味で正常な社会機能に向かっているのではないか。

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2006.05.30

イグナチウス龔品梅枢機卿

 昨日のエントリの補足のようなもの。イグナチウス龔品梅枢機卿についてはWikipediaのIgnatius Cardinal Kung Pin-Mei(参照)に英語の情報がある。が、Catholic Cultureサイトの”Chinese Cardinal Ignatius Kung Pin-mei Dies in Stamford, USA”(参照)と違う点もある。中国語ウィキペディアの同項はより詳しい(参照)。以下、各情報を私の判断でまとめておく。
 龔枢機卿は一九〇一年八月二日上海近くP'ou-tongのカトリック教徒の家庭に生まれ、聖職に進む。一九四九年十月七日ローマ教皇より蘇州(江蘇省)の司教に任命、翌年上海の司教に任命された。一九五五年、反革命反逆集団の組織・指導罪で逮捕され、無期懲役となる。宗教事務局や愛国会などによれば、司教は中国共産党の政策に反対し、朝鮮戦争参戦や土地改革に従わず、外国に国家機密を漏らしたとされる。三十年後、八五年七月に仮釈放されたが、八八年まで自宅軟禁。その後、表向きは政治権利も回復されたことになった。
 一九八八年読売新聞社が龔司教とのインタビューに成功している(「30年ぶり出獄 中国カトリック“司教”と会見 今もローマ法王を信じる」1988.02 22)。


 --あなたは今も司教とお考えか。
 「その通り。一九四九年十月七日に(江蘇省)蘇州の司教に、翌五〇年八月に上海の司教にローマ法王から任命された。上海司教は上海のほか蘇州、南京も管轄する」
 --当時、あなたは何をして逮捕、投獄されたのか。
 「そのことについては、もうしゃべりたくない」(注)
 --刑務所内での生活は。
 「ずっと上海市監獄に収容され、常時、三―四人の囚人と相部屋だった。同房者には反革命罪に問われた者もいれば、殺人や放火などの刑事犯もいた。しかし、宗教関係者とは一度も同房にならなかった。小説や新聞は読めたが聖書だけは禁じられた。何度も聖書を与えてくれと頼んだが聞き入れてもらえなかった。苦しくつらいことだった」


 --この三十年間で考えが変わったか。
 「私の信仰は何ら変わらない。刑務所内でも心の中でいつも神に祈りをささげてきた。今もローマ法王を信じている。法王の説教を聞かない者を(カトリック)信者とは呼べない」
 --中国独自の愛国会と、今も地下で祈りをささげる信者についてどう思うか。
 「私は(愛国会に)参加しないし、関係もない。自分の考えと信仰を持ち、他の人々のことは関知しない。ただ、多くの信者は今もローマ法王を信じているし、多数の神父が(愛国会系の)教会に行くのを嫌がり、自宅でミサをしている。表立って布教活動をすれば逮捕されてしまうからだ」

 歴史を少しだけ前に戻す。ヨハネ・パウロ二世が龔司教を枢機卿とすることに決めた(in pectore)のは、一九七九年である。まだ彼が獄中にあった時代だ。正式な発表は一九九一年六月。枢機卿自身八八年まで知らなかったとも言われる。
 八八年に自宅軟禁が解かれると、五月、甥や姪が多数暮らす米国に親戚訪問と、投獄生活で患った高血圧と心臓病の治療を目的に出国。中国に戻ることはなかった。
 二〇〇〇年三月十四日、コネティカット州スタンフォードの親戚の家で胃癌により死去。九十八歳。
 死後、龔枢機卿をしのび、中国のカトリックの地下教会を支援する「キョウ(龔)基金」(参照)ができる。龔枢機卿の甥にあたる基金のキョウ代表は、枢機卿の死後であろうと思うが、無線機を持った信者によって守られたなか北京郊外の地下教会のミサに参加した。

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2006.05.29

多分、胡錦濤の屈辱

 中国とバチカンの争いについて少し書いておきたい。まず前提となるのは中国における宗教の扱いだが、ざっくりと言えば信教の自由はない(憲法上はあることになっているが)。というのも宗教活動は中国政府の公認を必要とするからである。日本人などの考えからすれば、まず宗教団体がありそれが政府に公認を求めるといった図を描きがちだが、そのあたりの宗教団体側の主体性というものがまず根底から否定されていると見ていいだろう。
 中国のカトリックは、国家公認の「天主教愛国会」と「天主教主教団」がある。後者のほうがより中国に批判的ではないと言われているが、その違いについては私はわからない。昨今の話題としては天主教愛国会になる。同会は四月三十日と今月三日、雲南省昆明教区と安徽省蕪湖教区について新司教の任命式典を開催した。多少世界史というか西洋史に関心がある人ならバチカン側からの命令と考えたくなるが、この任命(人選)は天主教愛国会が独自に行い、事後バチカンに報告した。が、バチカンはこれを承認せず、さらに、任命式を催行した司教と新司教二名は破門となるとの表明が出た(正式な破門なのかよくわからない点があるが)。
 天主教愛国会の独自性は中国政府への迎合でもあるし、また歴史の結果でもある。一九五一年に共産党中国はバチカンと断交し、以降は天主教愛国会がカトリック信者を支え、結果百七十人以上の司教を任命してきた。中国側からすれば、そういうものだろうという思いこみはある。なお、よく知られていることだが、バチカンは台湾(中華民国)と正式の外交を持っている。
 中国側の甘さには背景がある。昨年四月新ローマ法王ベネディクト十六世が就任し、これを機にバチカンは外相にあたるラヨロ外務局長が中国の外務省当局者と会談した。その直接的な結果かどうかわわからないが、その後天主教愛国会が独自に任命した司教二名をバチカン側が追認したといわれている(文匯報)。
 今回のバチカン側の破門の通告に対して応答したのは当然中国政府、その国家宗教事務局であり、応答内容は人選は民主的だったというものだ。バチカンの組織に民主的などありえないということも中国はまるでわかっていないか、毎度の俺様外交が通じる相手だと思っているのか。中国としてはそれなりに裏交渉をしていたという自負もあったようなので、総じて見ればむしろ今回の事態はバチカン側が強行に出ているという印象がある。
 しかし現実的に強行に出たかに見えるのは中国だろう。十四日天主教愛国会は三人目の福建省閩東教区の司教任命を敢行した。これでバチカンと中国の関係は事実上最悪の事態になったと言っていいだろう。そのあたり、中国様はわかってないかもなというガクブル感を、ラプスーチン佐藤(優)が”FujiSankei Business i. ラスプーチンと呼ばれた男 佐藤優の地球を斬る/胡錦濤政権へのシグナル”(参照)で指摘している。


 バチカンにとって司教の任命権は譲ることのできない原則であり、現在、中国政府以外の国でこの問題をめぐってバチカンともめている国は一つもない。中国はバチカンの底力を見誤っている。カトリック教会が七八年にポーランド人司教を法王(ヨハネ・パウロ二世)に選出したのも、ソ連・東欧社会主義体制を崩す大戦略に基づくものだった。
 バチカンが本気になって中国人カトリック教徒の二重忠誠を利用するならば、ポラード事件とは比較にならない規模のインテリジェンス活動を中国政府の中枢で行うこともできる。今回、ローマ法王ベネディクト十六世の「天主教愛国会」関係者の破門は、バチカンが胡錦濤政権に対して「カトリック教会をなめてかかるとソ連・東欧の二の舞になるぞ」というシグナルなのであるが、どうも中国政府はそれを正確に読み取れていないようだ。

 私もそう思う。
 ここで重要なのはセンセーショナルなお話よりも、「司教の任命権」つまり叙任権だ。このあたりは世界史の「カノッサの屈辱」(参照)を思い出すといい。

ハインリヒ4世は北イタリアにおける影響力を増すべく自分の子飼いの司祭たちをミラノ大司教、フェルモやスポレトの司教などに次々と任命していった。教皇は司教の任命権(叙任権)は王でなく教会にあることを通達し、対立司教の擁立中止を求めたがハインリヒは聞き入れなかった(これを叙任権闘争という)。

 結果、ハインリヒ4世はどうなったか。

ハインリヒは武器をすべて置き、修道士の服装(粗末な服に素足)に身をつつんで城の前で教皇にゆるしを求めた。三日間、真冬の城外でゆるしを請い続けたため、教皇は破門を解く旨を伝え、ローマへ戻っていった。

 洒落でなく、胡錦濤の屈辱がやってくると思うのだが、彼は呑気にダヴィンチ・コード(参照)の映画でも人民に見せておけばいいとまだ高を括っている。もう少し現実的に言えば、カノッサの屈辱のような絵に描いたような胡錦濤の屈辱にはならないのだろうが。

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2006.05.28

初恋の味

 カルピス。なんてもうギャグにもならないのかと思ったら、JMAMというサイトの”「創業者から何を学ぶか」経営コンサルタント・市川覚峯第3回”(参照)が冒頭いきなりこれで飛ばしていた。声はできたら浜村淳で。


初恋の味といえばだれもが知っている、あのカルピス。もう80年もの間、初恋を続けてきている。甘酸っぱい独自の味を生み出したのは三島海雲という、純情一途の男であります。

 ここで歌が入るといいんだけど、先に進む。

 寺の息子として生まれた三島は、13歳で得度し、本願寺の大学寮に学び、“国利民福”つまり国の利益と人々の幸福を常に考える人生観を抱きます。
 25歳で中国大陸に渡り、大隈重信の勧めで蒙古の緬羊の改良に着手します。そして日本のために万丈に気を吐く大活躍をします。ある時彼は蒙古の家の軒下の瓶に入った、甘酸っぱい乳と出会います。蒙古の人々が健康で兵隊も元気があるのは、この乳のおかげであることを確信した彼は、この味を日本に持ち帰って人々を救おうと“民福”の心に燃え、何年も、何年もかかってカルピスの商品化を成功させます。

 「羊をめぐる冒険」(参照)を連想させるエピソードだが、彼が日本にもたらしたのは脳内羊ではなく、甘酸っぱい乳だった。いやあれは甘いってことはないけど。
 大隈重信はカルピス誕生のエピソードにも関わっているらしい。”COBS ONLINE:20世紀の発明品カタログ 第12回 「不老長寿の夢を求めて 初恋の味、カルピス」”(参照)はこうエピソードを伝えている。ちと引用が長いが、面白い過ぎなんで。

 明治天皇、崩御。その訃報を知った国民は悲しみに包まれ、大君の御霊を追って自害する者も少なくなかった。国中に末世的風潮が蔓延していたこの頃、ときの元老・大隈重信は、「国力の源は臣民の健康にある」との信念のもとに、大正元年、イリア・メチニコフの大著『不老長寿論』を大日本文明協会から出版した。
 メチニコフは大隈と同時代に生きたロシアの生物学者で、その主著『不老長寿論』は、文字通り不老長寿の実践的なテクノロジーを述べた快箸だ。いわく、人間の老化は、腸の中の廃残食物の発酵や腐敗によって有害な菌が発生することか要因で、それを抑えるためには乳酸菌飲料を摂ることが重要である……。その主張は、腸内の善玉菌と悪玉菌のバランスを保つことによって免疫カを高め、老化を抑制する、という現代医学の見解と一致し、今日の乳酸菌ブームの最初の医学的根拠となる。
 そして『不老長寿論』の出版から7年後、世界に先駆けて乳酸菌飲料の量産化に成功した男がいた。その男の名は三島海雲(かいうん)。商品名を"カルピス"という。

 「不老長寿の実践的なテクノロジーを述べた快箸」の最後のところは「怪著」とすべきかもしれない。私はポーリングとメチニコフの晩年のトチ狂いに関心をもって精力的に調べたことがあった。この分野のメチニコフ学説は単純に否定されているだろう(だって菌が腸に届かないんだし)と思ったが、日本では面白いことにヤクルトなんかでもそうだけど、メチニコフ学説のカルチャーが胃酸にも耐えてしぶとく生きていてなかなか無下に否定もできない空気が漂っていて、とか思っているうちに同じく辺境というか北欧で生き延びたメチニコフ学説がプロパイオティクスとして息吹き返してきて、なんだかわけわかんないになってきた。それはさておき。
 この時代の乳酸菌飲料の興隆はいまひとつわからないのだが、軍隊が兵士のカルシウム摂取のために牛乳を採用しようとしたけどゲリゲリな試験結果じゃんという背景があったと推測している。ちなみに日本人がカレーライスを食っているのも軍隊が不味い肉でタンパク質を摂取させようと工夫したもの。どっちも、戦後学校給食の柱となっているあたりが日本って今も戦時体制って感じだが、特定的なアジアからのツッコミはこのあたりにはない。知らないんでしょね。と連想だが、いつだったか、旧ソ連人生まれユーリ・イルセノビッチ・キムというカネも権力もあるオカタの個人的な趣味の映画セットの町をなんかのおりに映像で見た。ユーリさんは日本映画のファンでもあるらしく、そこに昭和初期の日本の風景セットもあって懐かしかったのだが、町のセットには乳酸菌飲料の張り紙広告なんかもあった。へぇって思った。それもさておき。
 でなんで牛尿なんだと昔知人の米人が笑っていた。いや日本ってそういう国なんだからさ。他にも、力塩基汗汁(ポカリスエット)とかじわっとクリープとか、いろいろ、ある。
 歴史的には「カルピスの誕生」(参照)にこうある。

「カルピス」の”カル”は、牛乳に含まれるカルシウム、”ピス”はサンスクリット語で、仏教での五味の次位を表す”サルピス(熟酥=じゅくそ)”に由来します。本来は五味の最高位である”サルピルマンダ(醍醐味)”から、”カルピル”としたかったところですが、音声学の権威である山田耕筰やサンスクリットの権威である渡辺海旭に相談をし、歯切れが良く、言いやすい「カルピス」と命名しました。

 音声学の権威やサンスクリットの権威も普通に英語は知らなかったと、Don't piss me off! 英語だとなのでCalpico。だけど、寺の子三島海雲の仏教の思いというか七カルマくらい思いが入っているのかもしれないカルピスもなかなかいいじゃん。
 「カルピスの誕生」を読んでいくと水玉デザインについての説明はある。

「カルピス」の発売は、大正8年の7月7日。七夕の日に発売されたことに因んで、天の川、すなわち銀河の群星をイメージした包装紙が、大正11年に当時の宣伝部員によってデザインされました。最初は青地に白の水玉模様でしたが、後年、白地に青の水玉模様に変わり、「カルピス」のさわやかさを伝えるものとして、いまだに古さを感じさせない優れたデザインと評価されています。

 だが、あれの説明がない。歴史を消しちゃうのもなと思い、ウィッキペディアを見るとあれについてこうある(参照)。

元々は、パナマ帽を被った黒人男性がストローでグラス入りのカルピスを飲んでいる様子の図案化イラストが商標だった。これは、第一次世界大戦終戦後のドイツで苦しむ画家を救うため、社長の三島海雲が開催した「国際懸賞ポスター典」で3位を受賞した作品を使用したものだが、1989年に“差別思想につながる”との指摘を受けて現行マークに変更された。

 ネットではThe Archive of Softdrinksというサイトの”Calpis Water”(参照)がもう少し詳しい。

 また、黒人マークは1923年(大正12年)に制定されたが、これは第一次世界大戦後のインフレで特に困窮している美術家を救うため、ドイツ、フランス、イタリアでカルピスのポスターの懸賞募集が行われた。その中から選ばれたのが黒人マークで、作者はドイツのオットー・デュンケルスビューラーという図案家であった。
 黒人マークは1980年代になると国際化時代の背景から人種差別的な問題を提起されたり、黒人差別をかかえる国々から反対意見を展開されるようになり、企業イメージの面で不利ということで1990年に使用を中止することとなった。

 あの絵もネットにあるだろうと思ったら、「こんなんみっけ」(参照)というページにあった。
cover
カルピス
マンゴー
 菅公学生服とか水原弘と由美かおるの大塚製薬ハイアースの看板とか、東芝エスパー君とか……廃れゆく日本の懐かしい風景でもある。
 あ、むりむりのアフィリエイトっぽいけど、カルピス・マンゴーはけっこう旨いです、いやマジで。

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2006.05.27

ダーウィン空爆戦死日本兵銘板除幕式

 朝日新聞や読売新聞にも掲載されているのかもしれないが、昨日カウラで開催されたダーウィン空爆戦死日本兵の銘板除幕式について、ネットで見られる記事は共同”豪で日本兵18人の銘板除幕 空爆の死亡、公式確認”(参照)と日経”豪で元日本兵18人の墓銘碑を除幕”(参照)の二点だった。話は共同のほうがわかりやすい。


第2次世界大戦中にオーストラリア北部のダーウィンへの空爆で死亡し、無名戦士として埋葬されていた旧日本軍兵士18人の名前がオーストラリア政府により公式に確認され、26日、東部カウラの日本人戦没者墓地で遺族らが出席し18人の名前が刻まれた銘板の除幕式が行われた。

 同記事では「キャンベラ在住の歴史家ロバート・パイパーさん(59)」が戦死者の名称確認作業に尽力されたことも簡単に伝えている。
 日経の記事では銘板に記された兵士の関係者の話が中心になっていた。

広島市から参列した山崎光子さん(91)は「戦後60年を経てようやく弟の遺骨の所在がわかり、ほっとしています」と語った。
 山崎さんは今回墓碑に名が刻まれた赤松清・一等飛行兵曹(当時25)の姉。赤松さんは1942年11月の豪北部の都市ダーウィン空爆の際、搭乗機が撃墜され7人の搭乗員とともに戦死した。山崎さんは「弟がどこに眠っているのかわからず、ずっと心にわだかまりがあった」という。

 九十一歳という年齢に歴史を重みを感じる。
 戦死者名についてはすでに四年前に判明していた。当時は十九人となっていた。無名戦士は三十一人おり、残りもある程度絞り込みされている。
 判明に尽力されたパイパーさんについては、読売新聞”豪に眠る無名日本兵19人の名、近く墓碑銘に 歴史家の調査で判明”(2002.09.03)に詳しい。なお、記事に記載はないが墓碑銘の起案もハイパーさんによる。費用はオーストラリア政府が担った。パイパーさんはパイロットの経験もある。

 パイパー氏によると、十九人は一九四二年十一月二十二日から二十三日にかけて豪州北部のダーウィンを爆撃した海軍第七五三航空隊の赤松清・一等飛行兵曹や高橋三郎・飛行兵長ら。パイパー氏は元豪国防省職員で空軍史の研究部署に十五年間在職。妻の美佐子さん(49)の父親が元日本陸軍のパイロットだったこともあり、九四年に国防省を退職後は大戦中の日豪関係や戦史などを調べている。
 カウラにダーウィンから移転した日本人無名戦士の墓があることは知られていたが、二、三年前、日本の防衛庁防衛研究所に日本軍の爆撃出動記録があることが明らかになり、ダーウィン方面の偵察機に乗務していた元日本軍兵士(故人)や防衛庁の協力を得て、豪州側の撃墜記録と照合することで十九人の名前を突き止めたという。

cover
カウラの風
 記事中「カウラにダーウィンから移転した日本人無名戦士の墓」とあるように、オーストラリアで亡くなった日本兵は当初オーストラリア各地に埋葬されていたが、一九六五年にカウラにまとめられた。今日のエントリではカウラについては触れない。「オーストラリアで亡くなった」のは戦死とイコールではない。
 ダーウィン空爆ではオーストラリアに約九百人の死者を出したことなどもあり、オーストラリアは長く反日の空気もあった。今もそれがないわけではない。しかし、今回の除幕式はオーストラリアの退役軍人会が主催したことは、友好の強いメッセージでもある。

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2006.05.26

牛乳の生産過剰問題

 話としてはやや古いのだがこの間なんとなく牛乳の生産過剰問題を考えていた。なんとなくというのは、私は個人的に牛乳が好きで愛着があるからだ。ラジオ少年である私にとって秋葉原駅のミルク・スタンドは記憶の初源的光景である。
 ニュース的な部分については三月十七日読売新聞”JA道中央会など 生乳減産方針決める ホクレン、1000トン廃棄も=北海道”を引用する。


JA道中央会やホクレンなどは16日、生乳が生産過剰になっているとして、2006年度から減産する方針を決めた。生産量は前年比97%程度になる見込みで、減産は13年ぶり。同会によると、05年度の生産見通しは約377万トンで、減産量は11万トン程度になる。また、ホクレンは3月中に生乳1000トンを廃棄することも決めた。ホクレンが生乳を産業廃棄物として処理するのは初めてで、費用は約2000万円という。

 千トン、牛乳パック百万パックというと、うぁもったいないと思う。二十五メートルプールだと三杯分というと圧倒感は少し減るか。しかし補償価格は二千万円ということなら農政としてはちょっとした失敗ということだろうか。なお、実際には九百トンの廃棄となった。廃棄は九州でも発生している。
 つまり、単純に言えば、需要予測ミスということになる。これが予測できないものだったかというと、そうではないらしい。「産業廃棄物として処理するのは初めて」というのは嘘ではないが、すでに生産過剰を乳製品に回すということを近年繰り返しており、その面で言うなら、乳製品加工工場のキャパを超えたというだけのようだ。
 なので、一部でもっと牛乳を飲みましょう論が上がっているのはちょっと違う感じがする。日本の牛乳飲料が減っているのは確かで、それを押しているのは他の清涼飲料だ的な議論もある。私としては、それはちと嘘くさいと思う。
 ラジオで聞いたのだが、トン数で見るなら、日本人の米の消費量は八百五十万トンで、牛乳は千二百三十万トン。その側面で見るなら、日本人の主食は牛乳である。
 いずれにせよ、いわゆる牛乳を飲みましょうは頭打ちだろう。
 関連してほぉと思ったのだが、平成十六年度の牛乳の国内総生産は八百二十八万トンで、内、北海道が三百八十二万トンと約半分を占める。さすが北海道だと思ったのだが、これはどうやら飲用にはそれほど回ってないらしい。都府県の生産が四百四十六万トンでそちらが飲用の九割になっている。ということは、基本的に北海道の牛乳生産は乳製品用であり、都府県の飲用の欠落のバックアップとして位置づけられていたようだ。ここでも、需要構造、つまり情報産業的なミスのようでもある。
 ついでにもうひとつほぉなんだが、需要予測が難しいなか、需要の鉄板化しているのがどうやら学校給食らしい。なるほどねぇである。
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カルピスバター
 農政としてみると、酪農家は、全国の農家三百万戸に対して二・八万戸。内北海道が0・九万戸。北海道にも人が住めるようにする国策といった印象もあるが、だからやめれとは私はまるで思わない。っていうか、カルピスバター好き・チーズも好きだぁの私はもっと上質な乳製品が出てほしい。
 また酪農は米とは違い、補助もそれほどすげーことになっているというふうではなさそうだ。WTOなどで関税を無理目に維持しなくても価格は国際競争に耐えそう。ありがたい。ブログとかで米国牛乳の話をずるっと日本にもってきて牛乳はホルモン漬けだとかそのホルモンで巨乳が出来るといったネタが上がって馬鹿だなと思うが、日本の牛乳はそんなことはないよ。ってうか、その面でも日本の牛乳を守ったほうがいい。
 あとは、脱脂粉乳を作る工場を増やして、アフリカとかに送ってほしい。

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2006.05.25

李鍾郁WHO事務局長の死を悼む

 李鍾郁WHO事務局長について私がよく知っているわけではないし、このブログもいつまで残るかわからないが、記しておきたい。彼は国連傘下の国際機構を率いる長としては韓国人として初の人であった(加盟国選出)。スイス・ジュネーブのカントン病院で二十二日、死去。享年、六十一。
 国内ニュースとしては産経新聞”「ワクチンの皇帝」、WHOの李事務局長が死去”(参照)が詳しい。


世界保健機関(WHO)の李鍾郁事務局長が22日、ジュネーブ市内の病院で死去した。61歳。WHO総会に参加中の韓国代表団関係者らが明らかにした。李氏は21日、脳出血の手術を受けたが、意識が戻らなかった。李事務局長は感染症対策に尽力したことで知られ、「ワクチンの皇帝」との異名をとった。最近は世界的な蔓延(まんえん)が危惧(きぐ)される鳥インフルエンザ対策にも精力的に取り組んでいた。

 過労もあったと言われる。
 夫人は東京都出身の日本人鏑木玲子さん。同記事にもあるが、なれそめは「慶州ナザレ園」である。

李氏が大学在学中、「慶州ナザレ園」(日本統治時代、韓国人に嫁いだ日本人の施設)をハンセン病治療のため訪れた際、そこで奉仕活動をしていた玲子さんと知り合った。

 大学在学中の大学はどこだろうと思い、他のニュースにあたる。毎日新聞”訃報:李鍾郁さん61歳=世界保健機関事務局長”(参照)によればソウル大学のようだが、この記事で夫人名と「慶州ナザレ園」が伏されているのはなぜだろう。

ソウル大医学部在学中からハンセン病患者の治療奉仕に携わった。83年に南太平洋ハンセン病対策チーム主任としてWHO入り。感染症の専門家でジュネーブの本部では結核対策部長などを歴任。妻は日本人。

 生い立ちについては03年の朝鮮日報記事”「地球村の疾病退治」総責任者となった李鍾郁博士”(参照)が詳しい。引用が少し長くなるが、事実のなかに心打たれる人柄が感じられる。

 28日、WHO事務総長に当選した李鍾郁(イ・ジョンウク/58/世界保健機構事務総長特別代表兼結核管理局長)博士は60年代末、ソウル大学医大生だった当時、暇さえ見つければ、京畿(キョンギ)道・安養(アンヤン)のナサロ村で、ハンセン病患者の診療活動を行った情の深い若者だった。
 日本人で同じ歳の夫人 レイコ女史と出会ったのもナサロ村だった。カトリック信者のレイコ女史は当時、ボランティアのため韓国を訪れていた。李博士は「ナサロ村で医者としての社会的奉仕に目覚めた」と話した。
 李博士は1945年、ソウルで四男一女中、4番目に生まれた。麻浦(マポ)、龍山(ヨンサン)、西大門(ソデムン)、鐘路(チョンロ)区庁長を歴任した父のおかげで、これといった苦労もなく幼年時代を送ったが、4.19の直後、父が公職を辞任し、1年後に突然死去すると、家の事情が急激に悪化した。
 カネを借りて高校を終えてから、家庭教師などをしながら大学の授業料を補った。李博士は「当時、苦労というのがどんなものかを知った」とした。
 ナサロ村でのボランティア活動を経て、彼は平凡な医師としての道を歩まないことを決心した。大学卒業後、ハンセン病を研究するため、ハワイ州立大に留学し、公衆保健学の修士号を取得した。卒業後は米国領サモアのリンドン・B・ジョンソン熱帯医療院で、ハンセン病の診療を始めた。

 李総長の人生には結果として玲子夫人の強い影響力があるように思える。彼は生前はカトリック教徒だったのだろうかと思ったが、そうではないようだ。東亜日報”「真実な友を失った」…世界が故李鍾郁総長を追悼 ”(参照)が興味深い。

 夫人のカブラキ・レイコ女史をはじめ、遺族たちは22日、WHO側と協議を経て、カトリック儀式で葬式を行うことにした。葬式は24日、ジュネーブ中央駅近くのノートルダム聖堂で行われる予定だ。
 李総長は21日、意識不明の状態で、カトリック信者であるレイコ女史の希望によって、カトリックの洗礼を受けた。遺族たちは葬式を終えた後、故人の遺体を火葬し、遺体をソウルに奉送することに意見を集めたと、チェ・ヒョク・ジュネーブ代表部大使が伝えた。

 「洗礼」とあるがこれは終油の秘跡と呼ばれるものではないか。
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慶州ナザレ園
 ラジオで聞いた話なのだが、李総長はその地位にありながら専用車を使わず、おそらく健康のためであろうがジュネーブの街中を移動の際は闊歩されたとのことだ。また、NHKの記者ということで韓国語でインタビューしても、回答はざっくばらんに日本語であったとのことだ。

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2006.05.24

中国企業を外資が買って制御できるか

 今日発売のニューズウィーク日本版のPeriscopeに「株式市場改革で外資流入歓迎」という短い話があった。この四年間低迷していた上海総合指数が昨年末から四〇%上昇したのは、株式市場改革が完了したからだというのだ。
 改革というのは、記事によれば、中国企業の大半を占める中国国有企業の非流通株が流通するようになったこと。先週は新規株式公開(IPO)も再開したという。再開理由は、大企業が香港やニューヨークの市場に逃げることに、中国当局が危機感を抱いたとしている。
 そうなのだろうか? よくわからないが、先日ラジオで聞いた評論家田中直毅の話を思い出した。
 田中の話では、私の記憶違いかもしれないが、上海株ではなく香港株が上昇しているのは、中国が自国内の企業統治(コーポレートガバナンス)をいっそ外資に任せた方いいと中国当局が判断したからだというのだ。
 なぜ香港でかというと、上海では自由にできないからとかいうことだったように話を記憶している。が、このニューズウィークの話によれば、上海でも大筋ではそうなるということなのだろう。
 中国政府が企業統治のために外資をあえて呼び込んだというのは、面白い話かもしれないが、いずれ外資が入れば結果論的にそうなるし、現状の世界の仕組みからしてそうなる以外の選択もないのだから、あらためて考えてみるとどうということでもない。
 だがなんとなく、そうか中国国営企業が外資に買われ、経営されるようになるのか、それって昔のマルクス・レーニン主義的には帝国主義とか言われるようなものではないか……とつらつら考えるのだが、どうも悪い洒落でも練っているようでもある。
 マスメディアでもネットでも何かと理由があって、嫌中・親中の議論があるようだが、実際のところ、もはや中国というのは外資を導入することでその企業の形態を外部的に制御するしかどうしようもないのだろう。ただ、中国共産党とか人民解放軍とかがその上澄みを吸い込むために外国勢力を利用しているように扱っているなら、どっかで立ち行かなくなる地点があるだろうし、いずれ生産力が上がり民衆に富が配分されていけば民主化というのは必然的な流れになるだろう。すると、現状のような政治体制は必然的に自壊していくのだろう。西洋のような革命という形で壊れることもないような気はするが。
 国家という単位で見ていくと、外資というと国の富が外国に奪われる的な発想を取りがちだが、日本の自動車産業はもうすぐ米国のそのセクターを食うだろうし、日本板硝子がピルキントンを買うみたいな展開もある。というわけで、日本も傾向とすれば同じと言えないこともないようだ。
 ただ、なんか違うな。文化・歴史のしがらみを捨象した経済学的なお利口さんの理想論のようには行かないような感じがする。というか、最終的な国富を形成する鍵は結果としての経済学的な図柄になっても起因とはならないんじゃないか。

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2006.05.23

ライブドア事件・個人投資家は救済されるのかな

 ざっと見た後いつもどおりVDRから消してしまったのだが、昨日のクローズアップ現代「ライブドア事件 個人投資家は救済されるのか」(参照)はメモとっておけばよかったか。後から悪夢のように心をひっぱり続けるものがある。話題は、二十二万人ともいわれるライブドア個人株主の被害についてなのだが、再考するに、焦点は微妙。


 結成された被害者グループの調査では、超低金利の中、老後の資金を増やそうと初めて株の運用に手を出した中高年が目立ち、リスクの高い信用取引で莫大な損失を抱えた事例も多いと言う。賠償請求を求める訴えが相次いで起こされる予定だが、損失と粉飾決算の因果関係をどう立証するか?など様々な課題がある。

 後から気が付いたのだが、クロ現のこのネタがNHKニュース「ライブドア被害 60代が深刻」(参照)でもあったのだろう。

「被害者の会」は、詳しい被害の実態を把握しようと会員を対象にアンケートを行い、およそ800人から回答を得ました。その結果、年代別で最も被害者の人数が多いのは60代で、全体の4分の1を超え、1人あたりの被害額も653万円と各年代の中でもっとも大きくなっています。退職金を使って老後の蓄えをしようとライブドア株を購入した人もおり、深刻な被害の実態がうかがえます。

 ニュースの見出しのとおり「ライブドア被害 60代が深刻」ということで、当初私はなぜ六十代がと疑問と驚きを持った。よく読むと統計の元は被害者の会に限定されるので全貌はわからない。クロ現で見た棒グラフの記憶だと、六十代以外にも被害は分散されており、四十代にも多かった。基本的に、キャッシュポジションのある世代でないと鉄火場のとば口にも入れない。
 それでも六十代に被害は多かったようだし、クロ現でもそうした映像を出していた。妻が癌で入院し、退職金を切り崩して生活していたのに、という感じのナレーションに、六十代の男がインスタントラーメンを作り啜っているのだが、ネタ? こういう映像はやめとけってばNHK。
 別の映像では、三十代だろうか、マイホーム資金を突っ込んで焦がした主婦の話。彼女の場合は信用取引でさらに焦げが一千万円強にまで広がったということだった。今後パートをしながら返していくというのだが、家族的にはつらい出来事だろう。
 もう一つ印象に残っていた映像は、集団訴訟に加わるカネもないという若い男だった。訴訟に七十万円ほどかかるらしい。ということは訴訟やれる人間にはまだそのくらいのキャッシュポジションがあるということかもしれない。
 父親譲りの二十年物塩鮭を抱えた木彫りの黒熊さんである私が、こうした被害者を自己責任ですよとか言える立場にはない。が、映像例では、株の分散投資はしてないような印象を受けた。なにより奇妙だったのは信用取引なんて私の世代では庶民にはありえなかったのだが、私も古い人間だな。安田二郎とか読んでいたクチだ。最近の人は「株の道しるべ ころばぬ先の投資バイブル」(参照)とか読まれないのだろうか、というのとそんな読んでいたら儲けにはならないか。
 クロ現でも株の素人が被害にあってという基調だったのだが、素人がどうしてそんなことができたのか、怪物スプーの幻想が脳内に充満してきたので、人に聞いてみた。なんでこんなことがあるわけ? クチこみでしょ。そうなのか? 儲け話ってたいていクチこみだよ。ほぉ。
 話をシフトして。クロ現では賠償請求訴訟についても解説していただのが、私はうかつにも知らなかったし、例えば”ライブドア株主、個人でも提訴簡単”(参照)にもはっきり書いてないが、「購入額と暴落後の売却額の差額を損害額として、その分を請求する内容になる。ただし、違法行為をした時期より後に同社株を購入したことが条件」というとき、違法行為がなにに相当するかが今回の事件では微妙。というか、相当するのは粉飾決算なのだが、暴落の引き金となった強制捜査のときは粉飾決算が対象ではなかった。というわけで、「訴訟は単純に、購入額と暴落後の売却額の差額を損害額として、その分を請求する内容になる」とはいえ、そのピヴォットが後ろにずれ込むと差額は微々たる額となり、この訴訟は有意義に成立するとはいえなくなりそうでもある。というあたり、訴訟は別の文脈の話かなとも思うのだがよくわからない。
 話にオチはないのだが、みなさんよくキャッシュポジションを持っているなと思った、特に年寄り。カネ余りは庶民でも同じだったのかというのと、こうした影の反面、けっこう儲けた人も多いのだろう。
 世捨て人たる私はブログとか書いて少し世界を覗いているつもりでいるが、知らないことがたくさんあるんだなと思った。

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2006.05.21

ワッフル

 そういえば最近食べてないなと思って、ワッフルを焼いてみた。ついでに写真も撮ったのでこんな感じ。つまり、リエージュ・ワッフルである。ついでにお皿はスヌーピー。お聖さんや年配のニューヨーク・タイムズ読者と同じく私はスヌーピーが好きだ。セブン・イレブンで貰った。

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リエージュ・ワッフル by finalvent

 ワッフルについて私はあまりこだわりがない。一時期日本でもブームみたいだったが、最近はどうだろう。この手の食い物に本格ベルギーがどうとかあまり考えたことがない。気になるのは、せいぜいベーキング・パウダーを使うアメリカン・タイプっていうのか、あれが嫌いだなというくらい。ワッフルはブリュッセルもリエージュもイーストを使うので、パンを作るのと基本的には同じ要領でできる。私は、パン作り歴三十年の強者である、ってか、ただなんとなく年月が経っただけだけど。
 リエージュ・ワッフルの作り方も我流。スイートパンのドゥーを作って、それを丸めて、ワッフル器で潰して焼く、とそれだけ。普通のバターロールのドゥーでもいいのだろうけど。
 ワッフル器は、最近は Vitantonio PWS-1000 (参照)を使っている。以前はクリップのでかいのみたいのを使っていた。火加減が難しい。というか、いまいちうまくできない。ワッフルなんてうまく出来なくてもいいやと思っていたが、Vitantonio PWS-1000は操作が簡単でうまくできるので驚いた。べーカリーマシンもそうだが、機械にはかなわない。ついでに PWS-1000 だと鯛焼きもできる。なぜ鯛焼きと思うのだけど、これもうまくできる。ホットサンドも……これじゃアフィリエイトブログだな。
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Vitantonio
バラエティサンドベーカー
PWS-1000
 リエージュ・ワッフルだとドゥーの下ごしらえに一時間前から用意しないといけない。ピザとかナンとかバターロールとかと同じ。朝飯でそんな時間はないだろフツーっていう人は、ブリュッセル・ワッフルのほうがいい。ネタを作って鍋に入れて冷蔵庫に入れとく。朝取り出してふにょふにょとかき回してなんとなく常温になるとすぐに焼ける。
 ところで、あまり考えたこともないのだが、ワッフルというとイメージ的にはベルギーだが、ベルギーの人ってほんとにこんなもの食っているのか。私は知らないので、ネットを覗いたら、へぇ、そうなんだという話が、パティシエっ記というブログのエントリ”ベルギーワッフルなしに語れない国”(参照)にあった。

 でも私はワッフルって浅草の人形焼みたいに「ちょっと観光っぽい食べ物」かな、って思ってたんですよ。
 でも今、スーパーに行ったり、「暮らし」を始めてみて、結構日常的にみんな食べてます。
パンの代わりとゆうか、パンの一種のような扱いですかね?
 焼き立てを買って歩きながらおやじも子供もかじったり、スーパーにはワッフルの棚があったり・・・

 そうそう私にとってワッフルっていうのはパンの一種です。イースト使うし、強力粉使うし。
 ついでにこのブログを読ませてもらっていたら、え?みたいな話が”ベルギーといえば・・・”(参照)。

 ついでにベルギーと言えばワッフルですが、こないだの授業で同じクラスのドイツ人のおっさんが知らないって言ったので「変わった人だなあ・・」って思ってて、今日、いつも家で朝食べてるワッフルを一つ持っていってあげたんですね、
 そしたら「ゴーフルって言うから知らなかったけどこれは知ってるよ!!」って。
 フランス語ではワッフルよりゴーフルってよく使うんですよ。

 もしかして、ゴーフルって、あのゴーフルって……神戸土産のゴーフル(参照)って……。”銘菓「ゴーフル」の誕生”(参照)によると。

 このゴーフルのヨーロッパにおける歴史は古く、12~13世紀にはすでに知られており、詩や絵画などにも何度も出てくるという。18世紀頃には、ウーブリの生地に凸凹模様をつけて焼くことが考案され、この模様が蜜蜂の巣に似ているため、フランス語で蜜蜂の巣を意味する「ゴーフル」と呼ばれるようになった。

 知らなかった。ワッフルとゴーフルが同じものだなんて! もしかして、鯛焼きもワッフルが原型ってことはないよね。
 ちなみに日本のゴーフルの歴史は先のサイトによるとこう。

 この関東大震災は風月堂にも多大な被害をもたらした。しかし、南伝馬町風月堂総本店と米津風月堂は共同でただちに工場を再建、さらに米津風月堂は店舗も改修し、営業を続けることになった。
 風月堂の看板菓子となり、永遠のベストセラーとなった「ゴーフル」は、この大震災が起きた大正12年頃、南鍋町米津風月堂において考案され、製造販売がはじめられた。

 うーむ、「極東ブログ: 夢のリヤカー」(参照)と同じ時代か。
 パンから餡パンが出来たように、ワッフルから鯛焼きが出来たんじゃないだろうか。

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2006.05.20

オウム事件のころをまた思い出す

 オウム事件とその余波についてはこれまでも書いてきたし、あらためて書くこともないような気がしていたが、このところまた多少気になることがあり、その無意識のひっかかりにぼんやりと思いに沈んでいた。うまく書けることではないし、黙っているほうが賢いのだろうが、この問題のとてもタッチーな部分で書くことを促すものがある。いや、促されるものがあるというべきだろう。あるブロガーの力でもあるが。
 ひっかかりは、こういう言い方も誤解を招くだろうが、とりあえず島田裕巳問題としよう。もう古い話になるのかと思うが、宗教学者島田裕巳が当時上九一色村のオウム施設を見てその陰謀を看破できず結果としてオウムは安全だとお墨付きを与えたかのようなできごとがあった。このため彼は社会的なバッシングを受けることになった。私はこのバッシングに与するものではない。また、率直に言って島田裕巳を宗教学者としてはそれほど評価はしていない。が、この数年の彼のオウムに向き合う活動はもっと傾聴されるべきだと思う。例えば、”島田裕巳official blog:『オウム』3刷とオウム元幹部の責任(1)”(参照)には私もこのブログでも触れた重要な問題が提起されている。

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オウム
なぜ宗教は
テロリズムを生んだのか
 島田裕巳問題は私のなかでは、こういう問いになっている。なぜ宗教学者がオウムの欺瞞・詐術を見抜くことができなかったのか? それは、そういうものだという答えもある。私が彼の場にいても見抜くことはできなかっただろうという思いもある。だが、私は、あまり正確に思い出したくもないが、オウムの欺瞞・詐術を見抜いたことが二度ある。一つはある人生を考えるといったふうな会合でしだいにある男が説得力を持ち、その場の空気を掴みだした……、その流れのなかでその会合で誰も気が付かなかったのだが、私は彼はオウムであろうと確信した。私は彼との対決に立ち上がった。もちろんいい思い出ではない。黙って立ち去ればそれはそれで大人らしい振る舞いであったかもしれない。もう一つはネットでの場だった。ここでは対決はしなかったが、彼は私を取り込もうとしたのを私は公然と拒絶した。それはうまく言えないが単純に切り捨てるというものでもなかった。その契機は後味の悪いものだった。私は結果として彼を追い詰めたし、私も嫌な思いを残した。この二つの経験のなかで、私が思ったのは、そうした重要性が浮かび上がるのは自分の痛みの場であるのはなぜなのかということだった。
 ここで誤解されるかもしれない懸念を少しだけ減らすことができればと補足するのだが、私は宗教学的に見ても教義的にもオウムには社会との協調の点で間違いがあると考えている、そういう言い方は拙いのだが。また当然間違いとはなんだという議論にもなるがそれは宗教学的にまた歴史学的に問えるものだ。めんどくさいので展開しないしそうした契機がなければ展開する気もない。それでも、私はオウムというのが宗教ならそれは彼らの信仰の問題でしょ、私の知ったことではない、ご勝手にと思う。先日、ポリティカル・コンパス日本版バージョン3というのやったが、質問項目には私の感性からすればそれはプライベートの問題であって私は答えるべきではないというのが目立った。私は靖国問題でも信者の問題でしょというくらいにしか思わない。私は個人の領域の問題に言及することに嫌悪が先立つ。
 しかし、オウムの問題とは、少なくともこの文脈ではだが、それが私たちの公共の場に立ち寄る、手を伸ばすのそのありかたに対するある別種の嫌悪であり、その嫌悪の公開と自分の立ち居振る舞いと、それがもたらす先のある種の痛みの関連にある。
 と書くことで話を複雑にしてしまったかもしれない。抽象的過ぎる。あえて傲慢だろうと思うがという前提で言えば、私があの時の島田裕巳の立場にいたら私は彼らを見抜いたのではないかという思いがどうしてもぬぐえない。私ならできるが島田にはできなかったと架空の設定で自己を誇っているのではなく、私に問われているのは、見抜くことよりも公と私的な傷の関係である。オウムが、あるいはオウムのようなものが公の場に手を伸ばすときそれを本質的に察知するのは、ある私人の傷の感覚ではないかと思うのだ。
 東京サリン事件によってオウムの危険性が暴露された後、ある若い思想家が、あんな科学のイロハもわかってない教義を信じているのは馬鹿なだけで関心ないというふうに発言した、そんなふうに私は記憶に残ってる。彼を特定しないのはネットで不要な刺激をしたくないからで、またその個別の思想家の問題ではないからである。いずれにせよ、オウム信者をそれがどれほど高学歴だろうが馬鹿で切り捨てることは可能だ。私もそうしたい欲望のようなものに駆られる。だが、それは、たぶん、あのもっとも重要な傷の感性から逃げることではないのか?
 当時の上九一色村の欺瞞を暴いたのはたしかフランス人のカメラマンだった。彼は日本の報道規制を屁とも思わずやってのけた。私はちょっと物騒な発言だが、ジャーナリスト、プロの水準というのは法を破ってもいいと考えている。それだけの痛みを当然覚悟するだけの仕事だと考えている。こういうジャーナリズムのプロが日本にいるなら、あの程度の欺瞞・詐術は暴露されるのだと、当時考えた。問題はその水準のジャーナリストがいただろうか? いまいるだろうか? もしネットのなかの公の部分にあるオウムのような勢力がそっと欺瞞・詐術の手を伸ばしたとき、ネットはそれにどう対応するのか。プロの水準のジャーナリズムがあればそれを暴露できるだろうが、そういう問題なのだろうか。
 ブログというものに未来があるなら、たぶん、へたれジャーナリズムをよりプロに特化した場であるというより、私的な心が傷のような部分を見せることである連帯の感性を喚起することではないか、私は、そう考えている。
 もちろん、それが正しいとは思わないし、私はどうやら自分でも思いがけず心まで老いてしまって、今なら、たぶん、いろいろな場で黙って立ち去る人間になりつつある、誰かが、きちんと公というものを「私」の部分で正直に痛む勇気の姿を見ることができるのでなければ、あるいは、その痛みのなかでしか、「公」のもっとも本質的なものが見えないのかもしれない。

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2006.05.19

再現コンチキ号

 ブログのネタとしては古過ぎだが、先月二十八日、ヘイエルダールの孫たちがコンチキ号航海を再現するというニュースがあった。国内ニュース・サイトの情報はもう消えているようだが、ノルウェーの公式サイトには情報が残っていた。”コンチキ号航海に再挑戦-タンガロア号4月28日に出航”(参照)である。


トール・ヘイエルダールが、バルサ材で作ったいかだコンチキ号で太平洋を渡ったのは1947年。このコンチキ号の冒険を再現しようと、ちょうど59年目にあたる今年の4月28日、一艘のいかだ舟がペルーの港を出港しました。ヘイエルダールの孫ら6人のクルーを乗せたタンガロア号が、コンチキ号の航路を辿り太平洋を横断する長旅に挑戦しています。

 BBCにはその模様の写真が”In pictures: Kon-Tiki voyage recreation”(参照)にあって面白い。
 先のノルウェーのサイトの話では、タンガロア号の航海レポートはオスロにあるコンチキ号博物館に配信され、博物館で公開されるとのことで、もしかしたらインターネットでもモニターできるのではないかといろいろ探してみたがなかった。グーグル・アースとか使えば面白いのにと思うのだが、と少し調べるとコンチキ号が座礁したラロイア環礁のグーグル・マップの情報があった(参照)。追記:コメント欄にてタンガロア号の航海ブログを押してもらった(http://tangaroa.nettblogg.no/)。ネットはすごいなというのと英語以外の情報は探しづらいなと思った。
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コンチキ号漂流記
 そういえば、「コンチキ号漂流記(偕成社文庫)」(参照)は映画の影響もあってか私の世代の子供の読書の定番だが(教科書にも載っていたような気がするが)、冒険譚はさておき、柳田国男の「海上の道(岩波文庫)」(参照)と同じで、学術的な意味はあまりないのではないか。そのあたりは最近はどうかなととりあえずウィッキペディアを見たら、まあ、そのようだ(参照)。

この航海によって、南米からポリネシアへの移住が技術的に不可能ではなかったことが実証されたと一般には思われている。しかしながらほとんどの研究者(人類学者・考古学者・歴史学者など)は、考古学・言語学・自然人類学・文化人類学的知見を根拠に、ポリネシアへの植民は東南アジア島嶼部からメラネシア、西ポリネシア、東ポリネシアという順序で行われたと考えている。

 今回のタンガロア号は、じゃ、孫によるリベンジかというとそうでもない。ノルウェーのサイトにあるように、海洋汚染による海中生物や植物の生産能力への影響を調査するものらしい。イベントとしては面白いし、それはそれでいいのだろう。個人的にはスンダランドとか「海を渡ったモンゴロイド―太平洋と日本への道(講談社選書メチエ)」(参照)とか、そういう話のほうが好きではあるが。

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2006.05.18

植田重雄、逝く

 朝のラジオで田村高廣が亡くなったと聞いてネットで確認したところ、併せて植田重雄の死を知った(参照)。十四日のことであったそうだ。
 直に学んだこともなくお会いしたこともないのだが、いつも心のなかで植田重雄先生とお呼びしていた。お別れ会は日本キリスト教団早稲田教会でとのことだが、やはりカトリックではなかったのかなと少し思った。そうした面についてはあまり知らない。
 死因は胃がんとのことだが、八十三歳、天寿に近いと言ってもそう間違いではないように思う。年号年齢早見表 極東ブログ・リソース 2006年版(参照)を見るに、大正十二年か十三年の生まれ。吉本隆明とほぼ同じ世代の人になる。
 とすれば、昭和三十五年には三十七歳ということになる。書架にある植田重雄「旧約の宗教精神」をお書きになったのは、三十六歳ころであったか。しばし感慨に打たれる。
 早稲田大学出版部から出た同書はすでに古書店にもないか、あるいは意外と今だに販売されているか。先日、銀座の教文館に寄ったところ古書かと思われる良書が当時の値段のままに販売されていて、カネとスペースがあったらいくつか全集を買い占めたい世俗の欲望に駆られた。
 ネットをひくと、ビーケーワンに情報があり(参照)それを見ると、発行年月が一九七二年である。私の所蔵の三版と同じだというところで、しばし植田とある検印を見つめた。と同時にしおりにしていた第121回紀伊國屋ホール名画鑑賞会のチケットに青春時代を思った。
 同書をめくって熱い思いがこみ上げてくる。


 イスラエル人の場合、「認識する」「知る」を表す語は、「ダアアート」(da'at)とか、「ヤーダー」(yada')などで示している。しかし、この認識はけっして、事物の本質の認識ということではなく、そこには体験的な内容を持っている。ヤーダーの場合、直感する、体験する、場合によっては出合うという意味をもつ。この語のニュファール形では「啓示する」という意味がある。旧約聖書においてはもともと「知る」ことは、自己の体験をはなれて成り立つものではない。彼らの目ざしているのは、存在の本質とか、存在の普遍化にあるのではなく、自己と他の存在が関係を結ぶことによって生ずる出来事が問題になる。体験することは、ある一定の距離を保って客観的認識を獲ることではない。少なくとも自己が動揺させられ、精神的な感動を与えられることによって生ずる実存的な内容を問題にする。実存にたいし窮局に働きかけるものは、人間の意志である。

 私は少し古典ヘブライ語を学んだことがある。ほとんど忘れて些細なことを覚えている。間違いかもしれない。ヤーダーには男女の交わりの意味があるはずだった。やまと言葉の、相見ての後の心にくらぶればの見るにやや近いかもしれない。やまと人にとって見ることは今の日本人のように視覚において見ることではなかった。観想とも違うものだった。古代イスラエル人にとってのヤーダーの知とは情熱的な男女の交わりのなかに置かれる知のありようだった。そのなかで相互に意志としての存在を確認するような、そんななにかだ。
 イスラエル最大のラビと呼ばれるアキバの伝説を思い出す。アキバは無知な羊飼いであったという。が、ある娘に惚れた。結婚したかったが、その娘の父の約束だったか、立派なラビとなって戻れと言われた。アキバはラビとなり弟子を連れて娘に再会するとき、娘はアキバを抱き寄せ弟子は眉をひそめたというが、アキバは弟子をいさめたという。私の記憶違いかもしれない。また、いわゆる旧約聖書となる聖書の編纂にアキバが関わったのだが、その折り、雅歌を聖典に含めるか議論があったという。偉大なラビ・アキバが決めることになり、彼がこれを聖典とした。雅歌は聖書の神髄であることをアキバは知っていた。あるいはアキバによって私たちはそれを知ることになる。

あなたの口の口づけをもって、
わたしに口づけしてください。
あなたの愛はぶどう酒にまさり、
あなたのにおい油はかんばしく
あなたの名は注がれたにおい油のようです。
それゆえ、おとめたちはあなたを愛するのです。

 ソロモンに擬された歌謡のなかに神と人のヤーダーの知の原型があり、それがのちにキリスト教では教会と信者の関係の比喩となる。余談だが、エーコの「薔薇の名前」(参照)の主人公の愛欲のテキストは雅歌のパロディで書かれている。
 こんな話をすれば、植田重雄先生は眉を顰まれるであろうか。
 先の引用はこう続く。

 意志の主体は自己であり、人格存在にほかならない。人格(προσωπον)は顔を意味し、ローマにおいて人格(Persona)は、俳優の面を指したものらしく、やがて人間の全存在のもつ価値をあらあわす概念となった。これに反しイスラエル人の場合、顔といった視覚的、造形的な意味はなく、つねに向けている面すなわち何ものかに向かっている存在としての行為の主体を表現しているのである。

 こうした実存観は、マルティン・ブーバーの哲学を連想させることだろう。しかり、その「我と汝・対話(岩波文庫)」(参照)の卓越した翻訳は植田重雄によるものだ。
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リーメンシュナイダー
の世界
 植田重雄先生には、会津八一の研究家の側面もあった。現在入手できるものでは「秋艸道人 会津八一の学芸」(参照)がある。その石仏への洞察には、言うまでもなく「聖母マリヤ(岩波新書)」(参照)に通じるものがある。
 しかし、私はその先生の精神の探求と慰めに背いて生きてきたと思い返す。ヤーダーの本質は情交であるとほざく、下品でデーモニッシュな私は、先生の静謐なる世界には住めもしない。

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2006.05.16

Shave and a Haircut, Two Bits

 書架の整理をしていると、The Joy of Sexの昭和五十年の訳本が出てきて、おおっと我ながら、ひいた。何歳だった、俺? 十八? まったく無用な物を読んでいたというか。時代というか、「かもめのジョナサン」(参照)も読んだしな、である。もう絶版でしょと思ったら、河出新社から出ているようだ(参照)。アメリカ文化に関心ある人と栗先生は読んでおくといいかも。
 内容についてはちと触れないのだが、その後書きにこうあって、面白かった。


 本書の「まえがき」には、「軽快な文体」と書いてありますが、本書は英語としてはたいへん難解でした。そこで、英米文学者の青木日出夫君が、訳したものを、私、安田一郎が、奥沢四郎の援助を受けて大幅に手を加えました。

 そして。

 なお本書一九五ページ「ひげ剃りと散髪、二十五セント」shave and a haircut, two bits.という文は、無線を専攻している友人に聞きましたが、わかりませんでした。ご教示いただければ幸いです。

 え? それって、ほんとか。その後の訳本では反映されているか。いずれにしろネイティブに聞けば、HAHAHAHAでわかると思うのだが(でもないのか)。というわけで、些細な話なのでブログのネタにしよう。
 該当書一九五ページはちょっとなぁの項目なんだが、その短いコンテクストはこう。

モールス信号のツートン「ひげ剃りと散髪、二十五セント」は安全のための手です。

 とあり、だもんで訳者は無線専攻の友人に聞いたのだろうが、わかんなかったそうだ。これは、アレ、です。トントトトンのトン・トン(参照MIDI)。
 で、終わり。と書いたものの。なんでそうなのかというとちとわからない。ネットを見ると”Where did "shave and a haircut, two bits" come from?”(参照)という話がある。

Interesting question. Vague, vague answers. Have checked with lots of sources that claim to know lots of stuff about lots of subjects. The best I could do was that it might come from International Morse Code. If you translate the knocking pattern as "dash dot dot dash dot, dot dash," that's /a (slash-a), which I'm told can mean "attention" at the beginning of a code message. If you send and receive code all day and you want to wake up your buddy who also sends and receives code, to be funny, you might tap out "attention." Code folks recognize letters, words, phrases by the rhythmic pattern they form, not letter by letter.

 まあ、これ自体はモールス信号ではないんだろうな。
 というところで、小学生アマチュア無線技士だった私の頭に「路頭迷う」という言葉が思い浮かぶ。子供ながらに、ロ、路頭迷う、ってなんだ?と思ったものだ。今ではモールスなんかやる子供はないか。ということろで、ふと、よもや……。
 ”Codelength of Morse code”(参照)というページにこうある。

モールス符号の暗記法
モールス符号を暗記するときに暗記法があった。長点を長音に対応させて覚えるのである。一例を示せば、 カナ 符号 覚え方 発音
イ ・- 伊藤 イトー
ロ ・-・- 路上歩行 ロジョーホコー
ハ -・・・ ハーモニカ ハーモニカ
全50文字についてあった筈だが、電信をやっていないから覚えてはいない。 ( 「ロ」は「路頭に迷う」と覚えていたが、それでは長短に合わない。記憶違いか、それとも「路頭迷う」だったのか。 )

 「路頭迷う」を現代日本人は、ろ・とー・ま・よ・う、と読むのではないか。これは、ろ・とー・ま・よーと読むのですよ。「また合う日までぇ♪」は、また、「おーおーおーひまでぇ♪」と歌うわけです。とか言っても、日本語が変わってしまったのだからしかたないか。
 ネットを見ていると、海軍式だと、ロ、「路上歩行」らしい。そうなのか。では、なぜ私は、「路頭迷う」で学んだのだろうか。
 私が生まれる前にインパールで戦死した若い伯父は、父の話ではモール信号の達人だったそうだ。どう学んだのだろうか。

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2006.05.15

コシヒカリHG

 米というかコメ。コメの話は複雑でよくわからないが、なんだかすごいことやってんなという印象を持ったので、簡単にブログる。ニュースは朝日新聞”新潟コシヒカリ、品種変更したのに表示そのまま”(参照)。話は標題からもわかりやすい。


 「米の王者」新潟コシヒカリにちょっとした「銘柄騒動」が起きている。昨年産米から、新潟県とJAが産地偽装の防止などを目的に県内のコシヒカリを一斉に新品種に切り替えたが、品種変更を知らない消費者から「味が違う」との声が出始めたからだ。品種の切り替えには、消費者の試食も重ね、農水省から同じブランド名で売るお墨付きも得ているが、一部の農家や業者の中には、消費者の声を意識して従来品種を流通させる動きも出ている。

 つまり名前が同じでも品種を入れ替えちゃったわけ。新品種名は「コシヒカリBL」。入れ替えた理由は、病害に弱いコシヒカリの欠点を克服すべく新潟県が15年かけて開発したからだそうだ。この路線で現在開発中なのがもちろん「コシヒカリHG」。
 すでにBL種が新潟県内のコシヒカリの作付面積の九八%がになっているらしい。で、まずい、と。いや、そこまではいろいろあって露骨には言えないのだが、これは違うねというのが市場の声だったようだ。国とか新潟県としては同じだと思うんだけとなというわけで、ブログのコメント欄だったらよかったけど、市場は厳しい。
 というところで、市場? コメに市場なんてあったっけ? そういえばと思い出したのがこれ。日経”コメ入札、安値基調続く”(参照)。

公設市場のコメ価格センターは24日、2005年産米の第11回入札(20、21日に実施)の結果を発表した。3月の前回入札に続き新潟・魚沼産コシヒカリが値下がりするなど、全体としては安値基調が続いている。当面の必要量を確保した卸売業者の買い意欲が鈍く、落札率は31.9%と05年産として最低になった。

 今朝の「コシヒカリBL」のニュースで思ったのは、「新潟・魚沼産コシヒカリが値下がり」の理由はまずかったからではないかということだった。やっぱ、ここは「コシヒカリRG」か。もっとも同記事にもあるように、オリジナル・コシヒカリは他産地でも値下がりしているわけで、そうとも言えないか。なお、この価格っていうのは指標価格、いじり甲斐のある指標だ。
 話はここでBLから、HG、RGとずれていくわけだが、「公設市場のコメ価格センター」ってなんだ? っていうか公設市場って牧志? そうじゃない。
 短い解説ということなので、Web東奥/ニュース百科の該当記事を全文引用する(参照)。

コメ価格センター
 正式名称は財団法人全国米穀取引・価格形成センターで、原則月1回、産地、主要銘柄別のコメの入札を実施し、落札価格はセンター外の取引の指標にもなる。2004年4月に改正食糧法が施行、コメ流通が自由化したことに伴い、入札参加者の拡大など組織を改正した。05年には全農秋田県本部のコメ不正取引などを受け、再発防止と適正な価格形成を目指して監視機能を強化したほか、04年に廃止した売り手に一定量の上場を課す「義務上場」を自主ルールとして事実上復活。しかし、05年産米で毎回落札率が低迷し、再び入札改革をすることになった。

 月一回で市場ですかいな、ほいほい。しかも、なんかきな臭い仕組みもある。 コメ価格形成センターのサイト(参照)の「入札取引の仕組み」(参照)からは販売奨励金の仕組みとかよくわからない。
 改革は多少進み現在は毎週になった。三月二六日の共同”コメ入札毎週開催へ 価格センターの改革案決定”(参照)より。

 センターでの基本取引は、売り手がコメの販売計画数量の3分の1以上を入札に出さなければならない「義務上場」があるが、改革案では上場量を緩和。3分の1未満の上場も認めた。
 落札の下限となる希望価格(指し値)が提示できる現行ルールは残した上で、3分の1未満の場合は、売り手が希望価格を提示できるのは、収穫後から年末までなど一定の時期に限定。その後は値幅制限(ストップ高・安)に移行する条件を付けた。

 よくわからないが基本的なところで変化はないんでしょう、たぶん、きっと、フォー。

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2006.05.13

[書評]中原中也との愛 ゆきてかへらぬ(長谷川泰子・村上護)

 昭和文壇の三角関係恋愛劇、中原中也、長谷川泰子、小林秀雄。そのピヴォット、長谷川泰子自身の語りによる一冊。私は小林秀雄の愛読者で、この劇にも強い関心をもっていたが、この本は読み落としていた。一読、村上護の仕事がすばらしい。

cover
中原中也との愛
ゆきてかへらぬ
 今回読んだのは文庫本による復刻。初版は一九七四年。オリジナル・タイトルは「ゆきてかへらぬ 中原中也との愛」、とこの文庫版の逆。そのまま愛がかへらぬという洒落に読める。なぜ今頃復刊といぶかしく思ったが、文庫の最終ページに新編中原中也全集の広告、「生誕90年・没後60年を期して30年ぶりに全面改訂の全集!」とあり、その祭の一環なのだろう。
 一読して面白かった。なぜ今まで読まなかったのか悔やまれたかというと、そうでもない。五十歳にも近い自分にしてみると、もう彼らの二十代の惨劇は、「ああそういふものか」と見える部分もあるし、今の自分にしてみると三十歳くらいの女はかわゆく見える。本書で長谷川泰子を別に性的な対象ということもなく養っている初老の男の象がいろいろ出てくるが、経済に余力があったら、長谷川泰子のような女がいるなら、なるほどちょいとサポートしてみるかという酔狂な男はいるだろう。まあ、そんなところに今の私は共感して少しトホホな感じもした。
 そういえば変な話なのだが、昔と言っても私が三十少し過ぎた頃、悪友のいた頃、キャバクラというのかよく知らないが(あまり経験ないのだ)、酌をしてくれる二十代後半のお姉さんのいる飲み屋なのだが、私は無粋をかこって女と向き合っていたが、なんかのおりに女が中原中也のファンだというのだ。ほぉ俺は小林秀雄のファンだよ。共通の話題といったら長谷川泰子だな、まだ生きているんだそうだよ……という話になった。女はよくこの恋愛劇を知っていて驚いたが、江藤淳の「小林秀雄」は読んでないようだった。あれには当時自殺しかけた小林の文章があるよ、などと言うと、女は長谷川泰子に著作があると言うのだった。が、それが「我が闘争」という題だそうだ。そんな本あるのか? あるわよ、と続くのだが、「ゆきてかへらぬ」以外にまだあったのだろうか。中原中也の「我が生活」の間違いではないのか。わからないな。あの女はこの世界のどこに生きているだろう。このブログ見てますか、ハロー。
 今時の若い人がこの恋愛劇に関心を持つかわからない。「含羞 我が友中原中也(モーニングKC)」(参照1参照2)が出たのはまだ八十年代ではなかったか。アマゾンを覗くと中古売ってプレミアが付いているが私にはそれほど面白くはなかった。
 長谷川泰子の語りを読みながら、小林秀雄の妹高見沢潤子が、「兄小林秀雄との対話―人生について(講談社現代新書 215)」(参照)にも表れているが、なぜ泰子に憎悪に近い思いを持っていたのか、わかるようなわからないような不思議な感じがした。長谷川泰子と小林秀雄の関係がどうなのかというのに小林の母や妹など女たちがどういうポジションにいたのか、いろいろ思った。
 端的に言えば、長谷川泰子を狂気に導いたものは小林秀雄の天性のなにかであることは間違いなく、後にまさに「ゆきてかへらぬ」(参照)となる中原中也の本質を見抜いていたのも、それに匹敵する狂気を抱えていたのも小林秀雄だった。彼の終生のテーマというか、「本居宣長」(参照)の冒頭、折口信夫に「小林さん、本居さんはね、やはり源氏ですよ、では、さようなら」と語らせたものは長谷川泰子との狂気の愛であっただろうし、ドストエフスキーの著作のなかに見ていたものもそれだっただろう。
 なぜ女と狂気の関係性になかに入っていたのか。そこに意識はどのようにありうるのか。江藤淳はこの問題を「父」として語っていたが、今私は思うのだが、違うだろう。もっとどろっとしたなにかだ。「Xへの手紙」(参照)の、あの有名なくだりに近い。

 女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた。と言っても何も人よりましな恋愛をしたとは思っていない。何もかも尋常な事をやって来た。女を殺そうと考えたり、女の方では実際に俺を殺そうと試みたり、愛しているのか憎んでいるのか判然しなくなって来るほどお互の顔を点検し合ったり、惚れたのは一体どっちのせいだか訝り合ったり、相手がうまく嘘をついてくれないのに腹を立てたり、そいつがうまく行くと却ってがっかりしたり、――要するに俺は説明の煩に堪えない。

 それはある意味では本当だが、嘘でもあろう。もっともっとどろっとしたなにかだ。

 女は男の唐突な欲望を理解しない、或は理解したくない(尤もこれは同じ事だが)。で例えば「どうしたの、一体」などと半分本気でとぼけてみせる。当然この時の女の表情が先ず第一に男の気に食わないから、男は女のとぼけ方を理解しない、或いはしたくない。ムッとするとかテレるとか、いずれ何かしら不器用な行為を強いられる。女はどうせどうにもでなってやる積もりでいるだからこの男の不器用が我慢がならない。この事情が少々複雑になると、女は泣き出す。これはまことに正確な実践で、女は涙で一切を解決して了う。と女に欲望が目覚める。男は女の涙に引っかかっていよいよ不器用になるだけでなんにも解決しない。彼の欲望は消える。男は女をなんという子供だと思う、自分こそ子供になっているのも知らずに。女は自分を子供の様に思う、成熟した女になっているのも知らずに。

 これがどういうふうに意識に映えるか。「考えるヒント(文春文庫)」(参照)の『井伏君の「貸間あり」』に近い。あれだ。

 「貸間あり」の映画を見ていると、画面に、長々と男女の狂態が映し出される。これには閉口したが、見物は誰も閉口しているに違いない、と思った。これは、趣味や道徳の問題ではない。もっと端的な基本的な事柄なのだ。誰もこんな映画を見ていられないと感じているのだ。画面から来る一種の暴力に誰の眼も堪えられず、或る不安を我慢している。この不安のうちには、一かけらの知性も思想も棲むことは出来ない。私は、しきりにそんな事を思った。なるほど、画面に現れる人々の狂態は、日常生活では、誰もごく普通な自然な行為である。ただ、私達は、自分の行為を眺めながら行為する事ができないだけの話だ。実生活の自然な傾向は行為せずに眺めることを禁じている。

 と、この先に文学の工夫のようなことを小林は語るのだが、その脳裏にあったものは、疑いもなく泰子との狂態であっただろうし、泰子の、この口述を読むと、その奇妙な狂態の共犯の意識の関係性のなかに二人がいたことがわかる。端的に言えば、泰子は中原への愛より、小林との関係が戻ることを確信していたのだ、と私は知る。泰子がこの口述で思想だの文学だのというとき、その陰影は小林との狂態のトーンを持っていると私は思う。
 もちろん、現実にはそうはならなかった。小林は狡猾だったし、長谷川に幸運か不運はあった。
 と、書いてみたものの、うまく言葉にならない。
 正岡忠三郎については、「ひとびとの跫音(中公文庫)」(参照上参照下)を読まれたし。今日出海の父について、長谷川は地霊学としているが、これは神智学のことである。などなど、ディテールについてもいろいろ言いたいこともあるが、うまく言葉にならない。

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2006.05.12

暗殺のランデブー(ドイツWDR・NHK)

 ケネディ暗殺の謎を探るという主旨の、七日NHK・BSで放映されたBS特集 「暗殺のランデブー」- ケネディとカストロ -(参照)が面白かった。率直なところ当初、高校生向けノビーさんの愉快な「決定版 2039年の真実(集英社文庫)」(参照)みたいな、またかよかもという予断を持っていたので、たらっと見始めたたのだが、冒頭から、従来の陰謀論あるいは陰謀解説的なものとは違うトーンで引き込まれた。スポイラーになるかもしれないし、私の読み違いかもしれないが、私はこのドキュメンタリーを見てむしろ法的にはオズワルド単独犯説でよいと思うし、歴史はよい選択をしたのだというふうに受け止めた。そして、ドキュメンタリー作品の手法としても優れていたと思う。
 話の概要としてNHKの釣書を引用しよう。


 その真相について様々な推測がされてきたケネディ暗殺事件について、当時のFBIの主任捜査官や、キューバサイドのスパイなどの証言によって、新たな事実を探る。
 カストロはキューバ危機以前から、アメリカに強い敵意を持っていたと見られている。一方、アメリカは、ピッグス湾侵攻の失敗をきっかけにカストロへの敵意を強め、少なくとも8回に及ぶ暗殺未遂を続けていた。

 この作品を、ケネディ暗殺についてのキューバ説と読む人もいるだろう。そのあたりは、人によっていろいろな受け止めかたはあると思う。私としては、オズワルドとキューバの関わりはこのドキュメンタリーで明白になったとは思えない。そして、その要所は、一にロランド・クベラにかかっているし、この作品の主人公は、当時FBI主任捜査官だったローレンス・キーナンよりクベラであろうし、作品の最後の、老いたクベラの後ろ姿はある明白な印象を視聴者に残すだろう。
 ネットをざっと検索すると毎日新聞に紹介記事”テレビ:「暗殺のランデブー」 ケネディVSカストロ、新たな証言--NHK・BS1”(参照)に紹介があった。記事ではないが記者は若いのではないか。あるいは、私より上の、当時岡林信彦が「さとうを苅りにキューバに行くぜ」世代かもしれない。いずれにせよ、ジョンソンとフーバーの政治的な決断のトーンを見落としている(紹介記事なので書けないのかもしれないが)。それは端的に言えば、キューバの影はあったが、あの時その真相を明らかにしてもどうしようもなかった。その決断を彼らがしたことは良かったことだろうということだ。
 ネットリソースでは”「蟻の兵隊」監督からの便り:ケネディ暗殺の謎に迫る”(参照)も興味深かった。制作にはNHKも関わっていたようである。が、プラネット・アースのような分担は見えない。

今日は朝9時にNHKの編集スタジオに入って、ドイツのプロダクションとNHKが国際共同制作したドキュメンタリーの日本語版づくり。4月にハイビジョンで放送したものをBS1でも放送することになり88分の番組を前編、後編に分ける作業を行った。明日MAを行い、あさって仕上げる。

 ドキュメンタリーの手法としては、これはすごいなと思ったのだが、インタビューで語るどいつもこいつも嘘こいていることが自ずとわかる仕立てになっていて、嘘を吐く人間というものの、人間の本質のようなものを描き出している点だ。そこにはなんというのか、真実のストーリーの憶測も真実の証言なんかも信じない、すげーリアリズムを感じた。
 ケネディ暗殺は私の世代には、東京オリンピックや、お目々の超特急ひかり号とならんで、生涯の刻印となる映像であった。そのあたり、もう少し書きたい思いもあるのだが、また古い話ですかと言われても、な。

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2006.05.08

夢のリヤカー

 明け方ぼんやりと夢から現に意識がゆっくりと移っていくなかでリヤカーのことを思っていた。いつから見なくなったのか。私はどんなリヤカーを見ていたのか。リヤカーとはなんだったのか。何を乗せていたのか。誰がそれを引いていたのか。人だった。どんな人だったのか。自転車もあった。あの風景はなんだったのだろう……。

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コリアン世界の旅
 たしか「コリアン世界の旅(講談社プラスアルファ文庫)」(参照)だったと思うがと書架を見てこの初版本が見あたらないのだが、ヤフーの、いや孫正義ソフトバンク株式会社代表取締役社長が子どものころリヤカーに乗せられていた話があった。そのあたりの背景のインフォがウィッキペディアにあるかと見るが驚くほどない。彼自身が語った話でもありタブーでもないと思うが、あまりこの話につっこむべきでもない。とりあえずリヤカーとは孫社長の魂の原点ではないかと思うし、とりあえずそれは特定の貧しさというものでもあるだろう。彼は私と同い歳だが随分と人生が違うものだと二十年くらい前に思いそれ以降思わないことにしているが、二十年くらい前までは、けっこう同じ風景を見ていた。彼は向こうで私はこっちから、という感じがするが、そこにある風景は同じだっただろう。
 西原理恵子も子どものころリヤカーに乗せられたという話をなにかで読んだ。どの本だったか忘れた。風景としては「ぼくんち(ビッグコミックス)」(参照)に近い(この本はできたら三分冊本で読んだほうがいい)。彼女は六四年の生まれで私とは七歳も違うが、高知というディープな地方がそれだけ歴史の風景を保持していたのかなと思うし、それは高知と限らないだろう。彼女はリヤカーに乗せられた経験を楽しく懐古しているふうだったと私は読んだ。子どもには楽しいだろう。
 地域差はあるにせよある年代の子どもからリヤカーの風景の記憶はないのではないか。それはどのあたりで、どういう歴史の触感を持っているのだろうか。明け方いろいろ思った。そういえば、土管も見なくなった。コニーちゃんの友だちドカンくんも最近は見かけない。コンダラも見なくなった。コンダラ? あれは正式名はなんというのだろうか。
 目が覚めてきて、マシンでリヤカーをざっと調べてみて間違いに気が付いた。私は「リアカー」だと思っていたのだが、字引には「リヤカー」とある。また、この語源は、私は rear cart だと思っていたのだが、rear car らしい。あれは car じゃなくて cartだろと辞書にツッコミを入れたものの字引は一様に car 説を採っている。ウィッキペディアを見ると意外に詳しい(参照)。

 1921年頃、海外からサイドカーが日本に輸入された時に、サイドカーとそれまでの荷車の主流だった大八車の利点を融合して日本人が発明した。
 Sidecarに倣ってRear-Carと命名したため和製英語である。
 1923年9月1日に発生した関東大震災、燃料不足だった太平洋戦争の戦中・戦後などの時期に人力によるリヤカーは効率的な荷車として大活躍したが、自動車が普及するにつれてオート三輪・軽トラック・オートバイ等に取って代わられ、次第に衰退していった。

 語源としてはサイドカーからの派生の和製英語だとしているのは、説得力がある。ちなみに、和英辞典を引くと、a bicycle-drawn cart; a bicycle trailer.とあるので、cart に見えるよなとは思う。
 ウィッキペディアの解説によると、関東大震災を契機に大八車に代わったものとしている。この説も概ね正しいようにも思う。
 ところで、ウィッキペディアにはリヤカーの図がないのだが、それがなんだかわからない人もいるだろうか、と心細くなってきた。どっかに写真でもと思うと、けっこう良いのがある。ウィッキペディアから辿ったのだが、「リヤカー博物館」(参照)である。これは、かなり面白い。中でも次の説は私の記憶の風景のスイッチをポチッとなである。私は、物心付いたころからラジオ好きの父に連れられて秋葉の部品屋をうろうろしていた。

諸説が在るが、総合的に判断すると、当時 秋葉原駅近くの総武線の高架下を利用した 工場で、スクーター及び自転車の部品工場を営んでいた 中村銀造氏経営の中村銀輪社にて 製造されたのが最初であるという説を 当博物館としては採りたいと思う。

 我ながら無知だったなと思ったのだが、リヤカーというのはあのカート部分が主体ではなく、フレームであり、むしろ自転車の変形だったのかということだ。つまり、カートをはずした状態がリヤカーの本体なのだ。というところで、そうかとわかったのだが「今 リヤカーは何処に」(参照)である。なんでも知ってるつもりでも、ほんとは知らないことがたくさんあるんだよである。
 どうもアナクロ的な意識になりつつあるのか、「アフリカで甦ったリヤカー」(参照)もいい話だなと思う。洗濯板やリヤカーといったテクノロジーが有効に活かせる地域はまだ地球には多い。それをもっと活用すべきだとまで言うとなんかそれはそれで間違っているようにも思うが。

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2006.05.07

老人の風貌

 今日で連休は終わり。天気図を見ると低気圧が日本を縦断しているようなので関東などは午後には少し荒れるかもしれない。今日東京に帰る人たちは少し難儀するだろうか。話は、前回の「極東ブログ: 連休の感想」(参照)の続きのような話。あまり意味のない雑談である。しいて言えば、老人の風貌について。
 リュックサックを背負った老人の列を、醜い、見られたもんじゃないと書いたところ、コメント欄などで、誰に迷惑をかけているわけじゃない、いいじゃないか、そういう批判はすべきではないというふうなコメントを貰った。という理解は誤解かもしれないが。
 ブログをしながら思うのだが、エントリよりもいただいがコメントが優れていることが多い。特に特定の専門領域に関わることなどで識者の適切なコメント、しかもマスメディアには出にくい貴重なコメントをいただくことがあり、それはなんというか、そういう声が出る場であることにブログの意味があるだろうと実感する。エントリは「私」が強すぎるが、ブログ全体は「私」だけのトーンでもない。また、できるだけ庶民感覚で忌憚なく書いているつもりでも、もっと素直な意見に出会うこともある。今回もそうなのかもしれない。
 リュック老人をそれはそれでいいじゃないか、誰に迷惑かけるわけでもなしはそれはそれで正論だと思う。電車のなかでの携帯電話通話は迷惑だが、では若い娘さんの化粧はどうか。迷惑かけてない点は同じだが、私はみっともないと思う。そのあたりの美観のようなもの、その社会的な意味というのはどうなんだろうか。美観なのだから、私的な領域というのは当然なのでそこで終了ということだろうか。
 前回のエントリを書いてから、ぼんやり昔のことを思った。昔というのは私がまだ子どものころのことだ。あの頃も老人がいた。昨今の老人向けファッションなんてものはなかったし、そもそも着ているものが貧しかった。マジで醜いとしかいいようのない老人・人々もいた、と思うが、自分の記憶のなかでは、不思議とその人の美観の表明というよりあるいはその人の美観の崩壊というより、ある時代の反映だったように思える。話が少しそれるが、私が中学生くらいまで街中にはよろしからぬ映画の、どう見てもこれはないでしょ的なポスターが充満していた。駅のホームにすらあった。そうした街の光景は醜いとしかいいようがないのだが、記憶のなかで不思議な陰影を持っている。子どもだったからというのもあるだろう。
 私が子どものころの老人は醜かったか。素直に言うつもりだが、記憶のなかの老人たちには、その大半に老人の風貌というものがあった。着ている物でも、浴衣の尻をからげたような風体ですら、なにか風流があった。凛としていたということはないのだが、今思い出すと、皆、なにか視線が違っていた。遠くのようなものをゆっくり見ていた。視線が柔らかった。所作に無駄がなかった。立ち居が、老人で身体が弱っているのに、それなりに無駄なく動いていた。私の祖父母たち、明治生まれの日本人だなと今更に思うが、老人の美のようなものはあった。子どもを可愛がるというふうはなかったが、子どもを自然に守っていた。
 それが崩れたように思ったのが、二十年くらい前だろうか。私の二十代が終わり三十になるころか。父が六十少しで死んであまり老人の風体を見せずに消えたこともあり、彼が生きていたらという老人の風景に関心を持ったからかもしれない。
 あれっと思った二つのことがあった。一つは銭湯の老人だ。私は当時銭湯が好きでよく通っていたのだが、老人のマナーが崩れだしたという感じがしていた。老人の裸体などというのは美しいものではないのだが、みな公共空間のなかでその分をわきまえていた。水の使い方にも歩きにも風呂の出入りにも無駄がなかった。ばしゃっというのはあるのだが、それは身体を洗った最後の締めの伝統芸のようなものだった。が、そうした老人が変わってきたと銭湯で思った。その後、私はわけあって銭湯には行けなくなった。その後は知らない。
 もう一つは、それより後になる。街の自転車の老人が危ないと思う機会がふえたことだ。歩道をふらふらと老人が自転車に乗っている。今では見慣れたが、次第に増えていくその光景は奇妙に思えた。もちろん老人だって自転車に乗る。というか、おそらく膝や腰の痛みで、歩くより自転車が楽なのだろう。しかし、これが危ないのは確かだ。いずれ社会問題になるだろうと思ったが、それから十年以上も経つが特にどうってことはない。この間、自転車が事実上存在しない沖縄で暮らしていて戻ってから、さらにその悪化した状況に唖然としたが、さすがに慣れた。
 老人はかくあれとかは思わない。確かに社会に迷惑をかけなければいいのだろう。でも、自分としてはリュックサック老人は醜いという感じがする。ということろで、話が錯綜するのだが、そういえば沖縄から東京生活に切り替えたころ、東京の老人は身綺麗だなと思っていた。電車などに乗ると、沖縄のオジー、オバー風な人はいないという意味だ。
 沖縄のオジー・オバーも言われているイメージほどの老人ではない。むしろアメリカ世時代の青春なので、泡盛は好かんウィスキーが旨いというオジーのほうが自然のようにも思う。それでも、さすがに一群のオジー・オバーターには、人間の威厳が滲む風貌がある。
 とエントリに特に結論はない。あーせーこーせーとか言うわけでもない。ただ、概ね、私が子どものころにあった老人たちには美があったなと子ども心に思ったし、その思いの視線から離れることはないだろう。もちろん、昔のほうが良かったとは思わない。昔の老人のほうがつらく悲惨だった。今の時代のほうが時代としてははるかにましだと、それは確実に思う。

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2006.05.06

連休の感想

 連休でぶらっと日帰りできる温泉に行ったりなどしていたのだが、この間、列車の中や街で、あれは山歩きルックとでもいうのだろうか、しかしおよそ登山の風体ではない、一様にだらっとしたリュックサックをしょった老人を多数見かけた。男女比でいうと男が多いのだが……と言葉に詰まるのだが、端的に言うと、みっともなくてみられたもんじゃない貧乏人ファッションである。
 サマになっていないというか、醜い。それがぞろぞろいるのだ。ああ、日本は少子化だとかネットでは話題になるが、リアルワールドはなんかチープなリュックサックをしょったきたない老人があふれ出しているのだ。
 団塊ニートの反乱……みたいなネタに振る気もないし、正直なところ、テメーの風体を顧みれば人様のことを醜いなんぞ言えた義理ではない。とはいえ、あのリュックサック団塊老人ぞろぞろは醜いというのが正確な描写だろう。ぞろぞろいるのだ。が、ぞろぞろ歩いているという感じではなく、一列に歩いている。なんかの団体かと思うのだが、あちこちで見かけたところを見ると、特定の宗教団体でもなさそうだ。
 一番気になったのは、その特徴たるリュックサックの中身である。何を背負っているのだ? 人生? いや、ほんと、すみません、中見せてくださいと聞きたい衝動に駆られた。弁当? 水筒? タオル? 財布? 携帯電話?
 歩きっぷりはというとたーらたらではない。でもサマになってなっていない。が、少なからず早歩きをしている。たぶん、きっと、これは、あれだ、健康ウォーキングなんじゃないか。カネをかけずに自然にふれあってしかも健康……ついに来たか、ハルマゲドン。寺社とかに立ち寄るとうじゃっとかたまっているので、プラス教養とか? うぁあ。
 歳とって小銭があったらカネをかけて遊べよと思うのだが、これもまた人様のことを言えた義理でもあるまい。同じビンボ次元にいるから、ビンボ・レミングに会うのか?
 別所ではこの世代がリッチに遊んでいるか? 例えば、FujiSankei Business i.”ネットでオーダーメード旅行 自由・割安 相次ぐ参入、急成長兆し”(参照)。


 インターネットで航空券やホテルを組み合わせるオーダーメードのパック旅行「ダイナミックパッケージ」が人気だ。市場規模は将来、海外旅行で数千億円、国内旅行で一兆円に膨らむともいわれ、急成長する兆しをみせている。

 まだこれからか。ただ、現状の国内旅行はというと、もう三年も経つのでちょっと状況が違うかもしれないが、私は沖縄に八年暮らしていたし、田舎ということもあって、つまり観光地でもあったのだが、そこにどんな奴らが来るかはよく知っていたと、自分も奴らに入れていいのだろうが。で、ブセナはそれほどでもないが、今回騒いでいる辺野古の向かいのカヌチャ、これに空港からチャーターバスが出ているのだが乗っているのは小オヤジとどう見ても水商売ですのお姉さんのカップル。いや、それは案外夫婦でしょとかツッコミされても、そうは見えないってば、というしかないのだが、まあ、話を端折るとそんなのばっか。話を戻すと、団塊世代というかその上の老人とかはいない。
cover
おでんくん
DVD-BOX
 とま、連休中に奇妙に思った恐い話というだけだが、そういえば、街中で中学生とか高校生くらいの女の子が黒い下着みたいのでうろうろしているをよく見た、ので、あれはなんだと女に聞くと「ゴスロリ」というのだそうだ。なんだそのアカスリみたいのはと言うとさらにしらけそうなので、元の言葉はなんだと聞く。ゴシック・ロリータらしい。ああ、もういいよ。
 というわけで、なんか折に触れてリアル世間を見聞きしているつもりでも、みんな、なんでも知ってるつもりでも、ほんとは知らないことがたくさんあるんだよ。世界の不思議やいろんな奇跡、それはみんな、ネット右翼たちの仕業かもしれない…。

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2006.05.03

ブッシュ大統領と横田早紀江さんの面会のこと

 思いがまとまらないうちに時が過ぎていきそうなので、この話もとりあえず書いておこう。二八日のブッシュ大統領と横田早紀江さんの面会について。
 私が最初に気になったのは浅野泉さん(五四)のことである。メリーランド州在住公認会計士の浅野さんは、昭和四九年新潟県佐渡旧新穂村で行方不明となり北朝鮮に拉致された疑いの高い大沢孝司さんの従兄弟で、その縁から米国で拉致問題解決に向けての活動を続けていた。ネットを見ると、ワシントン日本商工会ホームページに浅野さんご自身の『メグミ・ヨコタ ストーリー』(参照)という話が見つかった。従兄弟が拉致されたということからこう語っている。


 それから約30年、さまざまな状況証拠から、拉致は確実であるということが被害者の会の全国組織でも総意になってきました。今や新潟の家族や親戚は、救出嘆願のための活動に必死です。私は海外にいることもあり、何もしていないという後ろめたさが、いつも心に潜んでいました。
 そんな折でした。パティ-とクリスというアメリカ人(正確にはカナダ人)の若い夫婦のことを知りました。彼等はクレジットカードで借金までして横田めぐみさんを主人公にした映画を製作中で、それで一般のアメリカ人に拉致のことを訴えようとしている、と聞いたのです。実際にその二人に会って話をしてみると、いっそう感動しました。何故、日本人ではないあなた達がやっているんだ。何で借金までしてやっているんだ。色々と率直に聞いてみました。彼等の答えは、それが人々に伝えるべきヒューマンストーリーだから、というのです。彼等が一種の使命感のようなものを感じているように、私には受け取れました。

 今回のブッシュ大統領面会の背景には浅野さんとその支援者の動きが強くあったのだろうと私は思った。しかし、ざっとニュースを見聞きした範囲ではそうした報道はあまりなかったように思う(そうでもないのだろうか)。なぜなのだろうという不思議な感じがしていた。
 気になって「ワシントンDCらち連絡会」のnews(参照)をあらためて見ると、彼らの活動は直接的な影響ではないにせよ、背景要因としては大きいように思える。
 反面、日本のニュース報道やブログなどからは安倍晋三がどうのこうのという話ばかりが肯定的また否定的に強調されているのだが、これはどうなんだろうか。まったくの影響がないとは思わないし、米国のトップとの面会なので日本国のインターフェースがないわけもないのだが……。報道やブログなどでの受け止め方の多くで、バランスに違和感を感じた。そういえば、先日の竹島問題で森喜朗が裏で動いていたようだが、そのあたりの報道もあまり聞かないように思う。
 今回のブッシュ大統領と拉致被害者関係者の面会は、当然国際外交としての文脈もある。外交というのは冷酷なものだという以上にこの部分については率直のところあまり語りたくない感じがしている。
 もう一点、韓国が今回の面会をどう見ているかも気になった。韓国の代表的な世論とは言えないのだろうが、中央日報の記事”韓国人除いたブッシュ大統領の脱北者面談”(参照)は興味深かった。

早紀江さんはホワイトハウス訪問に先立って日本の外務省と駐米大使館の積極的な支援のもと、米国家安全保障会議(NSC)高位関係者らに相次いで会い、知られるようになった。
一方、政府の関心の薄さから、ワシントンまで来た韓国の脱北者と拉致被害者たちはスポットライトを浴びることができなかった。北朝鮮人権問題に関する限り駐米韓国大使館は言葉数が少なくなる。政府の指示のためだろう。「我々も北朝鮮の人権状況は懸念するが…」で始まるような言葉ばかりを繰り返す。ホワイトハウスが5人の韓国人を招待しながら、大使館関係者を陪席させないのはこの言葉に聞きあきたからかもしれない。

 韓国における北朝鮮拉致問題は日本とはまた異なった背景が多様にあり、簡単な議論にはならないが、それでも韓国人の拉致被害者関係者にしてみれば、今回の面談は評価できるものではあっただろう。
 と、どうもエントリの歯切れが悪いが、とりあえずその当たりだけでも記しておく。

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2006.05.02

男児投げ落とし事件、いまさら編

 世間的にはもう過ぎ去った話になるのかもしれない。川崎市のマンションで小学三年生の男児が投げ落とされ殺害された事件だ。無職の今井健詞容疑者(四一)がすでに犯行を供述している。恐らく事件としては解決なのだろうが、なぜこんな事件が起きたのかということはわからない。そして恐らくわからないままに過ぎていくのだろう。
 容疑者と同じく、日常生活近所に腰の低い中年男でもある私としてその心理に洞察するところがあるかというと、まるでない。皆目検討も付かない。マスメディアの報道も同じようでこの間いろいろなストーリーはつけてみたものの空振りだったのではないか。
 しいて言えば、すでに今井容疑者の供述にあるようだが、死刑を覚悟していたから、なんでもできたというのはあるのだろう。先月二九日付け読売新聞記事”投げ落とし「死刑になりたかった」今井被告が供述”(参照)はこう伝えている。


 川崎市多摩区のマンションで小学3年男児(9)が投げ落とされた事件で、殺人容疑などで再逮捕された同市麻生区細山、無職今井健詞被告(41)(殺人未遂罪などで起訴)が、神奈川県警多摩署の特捜本部の調べに対し、「自分では死にきれなかったので、人を殺して死刑になりたかった」と供述していることが28日、わかった。
 今井被告は昨年11月に同市内の病院に入院する前、何度か自殺を図っており、特捜本部は一連の犯行は自殺願望を満たすためだった可能性が高いとみて、さらに詳しく動機を追及している。

 気になることというかますます不可解な感じだが、自殺願望があったというのはあながち嘘でもないだろう。入院とあるのは精神疾患の可能性に関係しているだろうから裁判では一応争点とはなるだろうが、現状のニュース報道の供述からは善悪の判断もないということはないだろう。
 大阪池田小学校殺人事件の犯人詫間守の時も思ったのだが、彼は狡猾に精神疾患を装っていたものの、死刑なんかなんぼのもんじゃいみたいな覚悟もあったと見ていいだろう。こういう犯罪者に対して、死刑というのがその犯罪の抑止として有効かというと、有効以前の問題のようでもある。今回の今井容疑者の場合死刑になるかはわからないが、その意義をどう市民社会で了解を取っていくかはもう少し問われてもいいように思う。死で贖って終わりという市民社会の意志より、死をそのような贖いに使わせないという意志のほうが重要なのではないか。まあ、単純に死刑廃止論という文脈でもないが。
 事件報道の記憶を振り返り、ネットでの報道の残存をざっと見ていて他に思ったのだが、今回の事件は監視カメラが犯人の自供につながったとみていいようだ。その意味では事件解決には監視カメラは有効だったのだが、朝日新聞社説を初め、監視カメラは犯罪防止には結びつかなかったという議論がもわっと黴のようにわいた。おかしな話で、今回犯罪が発生したことと監視カメラの犯罪抑止力とは別の問題であり、後者は社会学的な土台で議論されなくてはいけない。こうした評価は難しいだろうが、議論の範疇は個別ケースから導かれるものではないだろう。
 事件を振り返りながら、細かい点では、ランドセルについて少し考え込んだ。四月六日付け共同通信記事”ランドセルに一致指紋なし 小3投げ落とし事件”(参照)によると、こう。

 川崎市の小3投げ落とし事件で、現場マンション15階の通路に落ちていた山川雄樹君(9つ)のランドセルに、今井健詞容疑者(41)=女性(68)への殺人未遂容疑で逮捕=と一致する指紋がないことが6日、分かった。

 たまたま指紋が採取できなかっただけでたいしたことじゃないと最初は思っていたのだが、この事件、物証という点から見ると、ランドセルが重要な位置にある。先月二五日東京新聞記事”県警と一問一答”(参照)でもここは重視されている。

 ――男児のランドセルは今井容疑者が外したのか。
 今井容疑者は「自分でランドセルを外した」と言っている。「男児と正面になり、肩にかけていたランドセルを外し、両わきに手を入れてそのまま抱えて投げ落とした」と話している。

 そういう状況でまったくランドセルに指紋がないということがありうるのだろうか。事件に謎があると強調したいわけではない。ただ、供述をはずして事件の世界だけを見たとき、ちょっと光景が変わるなという印象はもつ。

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2006.05.01

木村建設と姉歯元建築士関係が薄いとしたら

 耐震偽装問題の関連というか直接には関係ない話かもしれないが、これはどうなんだろうと奇妙に思うので、時折の記録としてブログに書いておきたい。まず、話は今日付の朝日新聞記事”姉歯容疑者の「木村の仕事が9割」証言に疑義”(参照)だ。簡単に言うと、木村建設と姉歯元建築士の関係は当初流布されていた話と違うというのだ。え?今頃言うという感じだ。


 耐震強度を偽装した元建築士姉歯秀次容疑者(48)=建築士法違反幇助(ほうじょ)の容疑で逮捕=が昨年12月の国会の証人喚問で、初めて構造計算書を偽造したとされる98年当時、「仕事の90%ぐらいは木村建設から請け負っていた」とした説明は事実と異なる疑いがあることがわかった。国土交通省が現時点で把握しているデータでは、同社がらみの仕事の割合は大幅に低かった可能性がある。姉歯元建築士は、偽装したのは木村建設からの圧力があったためだとしていたが、証言と客観的データが大きく食い違っており、警視庁などは押収資料を分析するなどして動機の解明を進めている。

 その、「証言と客観的データが大きく食い違っており」というのが、どうなんだろ。単純な話で言うとだ、それって警察が介入しなければわからなかったことなのか? っていうか、このニュースが正しいとすると、発注元の木村建設の立場にしてみれば、そうした事実は当たり前のことなので、当初問題が起きたとき、え゛っ゛、何故に?という反応だったのではないか。
 記事の引用が長くなるが、ファクツに関連するので引用する。

 ところが、姉歯元建築士が構造設計やその一部である構造計算に関与したとして国交省が把握している205件のうち、97年までに請け負ったのは17件で、木村建設が施工した物件は1件もなかった。98年は受注した10件のうち同社がらみは2件で、99年になると24件のうち10件に増えたが、割合は4割程度。木村建設がらみの仕事が9割に上るという実態は確認されていない

 こうしたファクツは木村建設側を取材すれば手に入ることだろうと思うが、ジャーナリストは何をしていたのだろうか。というか、一、そんなのはわかっていた。でもそれじゃ萌えない。二、木村建設なんか取材しても本当のことはわからん、きっこのブログでも読んでネタを探せ、か。
 今回の朝日新聞の記事では、木村建設の関係者に取材し、九六年に姉歯元建築士を使ったものの構造設計ではなく、九八年のグランドステージ池上で初めて構造計算を依頼したとのこと。それって今頃の取材なのか?
 もう一つニュース。ちょっと前になる。同じく朝日新聞。朝日新聞のなかで何かが進行しているのかわからないが、朝日新聞。記事は二十三日付”姉歯元建築士、鉄筋減は「自分の判断」 施主が明かす”(参照)。

 耐震強度偽装事件で、姉歯秀次元建築士(48)が千葉県船橋市のマンションの構造計算書を偽造した理由について、「まともに設計すると鉄筋が入りすぎる」などと施工主に説明していたことがわかった。鉄筋量が増えて建設コストがかさむことを避けるために「自分の判断で減らした」と述べたという。

 これは、施工主のサン中央ホーム二十三日に姉歯元建築士と同社社長の録音記録によるものというのだが、この記録は昨年十一月十日の物。なんで今頃出てくるのだろう。
 重要なのは、この千葉県船橋市のマンションだが、木村建設は関与していないということ。
 こうした話を拾っていくと、どうも姉歯元建築士は自分の判断だけで構造計算書を偽造していたと考えてよさそうに思えるし、なにより、こうした推論の元になるファクツは今頃で無ければ出ないものでもない。
 どういうことなんだろうか? 一義にはジャーナリストは何をしていた?
 とかげの尻尾切りが進んでいるという話なら、そのあたりをちゃんとファクツで補強して欲しいと思う。フカシじゃなくてさ。

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