« ユダの福音書 | トップページ | [書評]家族のゆくえ(吉本隆明) »

2006.04.09

[書評]終風句集 終風且暴(石垣終風)

 この一年毎日日記に書いていた俳句を「終風句集 終風且暴」(石垣終風)(参照・PDF)としてまとめてみた。終風は私の洒落の雅号である。このエントリはそんな話。

cover
終風句集
終風且暴
PDF・372KB
 昨年桜の咲くころふとしたことで一年俳句を書いてみようと思った。今日ぶらっと桜見に行き、そういえば一年経ったなと思い出し、まとめてみた。気が付くと一年ちょっと過ぎていた。
 この一年はとにかく毎日一句作っていた。俳句が好きかというと、なんとも言えない。十八、十九歳のころある俳句結社に所属していたことと、若気の至りで前衛俳句を作っていたことがある。まだ加藤郁乎もわけのわからない俳句を書いていたころだ。高柳重信、金子兜太、阿部完市も気迫があった時代だった。
 加藤郁乎を模倣したことはないが、高柳重信の俳句会に出てぶいぶい言っていたら、会の後の飲み会(といっても十代で酒も飲めなかったが)で高柳重信から「加藤郁乎も、最初は、君みたいなもんだったよ」と言われた。
 詩だの俳句だのといった創作文学は気恥ずかしいもので二十歳になってやめた。というか、そういう文学的な志向そのものを恥ずかしいと思うようになった。小説も書かない。と言っておきならが先日書架を整理したらいくつか短編が出てきて驚いた。忘れていた。
 三十代になったころ洒落のわかる仲間がいたので一時期連歌をよくやった。歌仙である。遊びとしては楽しいものである。宗匠もやった。それも忘れた。今でもやれば楽しいのだろうが、今の歳になってみると、なんとなくおっくうなものだ。
 この一年俳句を作る際、もう創作とかそういう意識はなく、ただぼんやりなんとなく作ることにした。もともと技巧だけの俳句を作っていたのだが、技巧は凝らさないようにした。当然、駄句が多い。駄句ばかりなのだろうとも思う。気にしない。
 そんな感じで日々句を作りながらそれはそれで楽な感じだし、近代俳句が志向した疑似的な文学性から離れて、意外とこれが今の自分の俳句らしいかいう感じもした。
 まとめるにあたってたいして推敲もしなかった。読み返すとこの一年の四季の思いが去来した。まあ、人生の一年、俳句を書いていたことがあったというわけだ。
 もう俳句は作らないと思う。

|

« ユダの福音書 | トップページ | [書評]家族のゆくえ(吉本隆明) »

「書評」カテゴリの記事

コメント

しぶいな~。
それだけです。

投稿: cosmo | 2006.04.11 03:34

 二句ほど、描いている風景に深く魅せられるものがありました。

静かなる細き声あり沈丁花

 花の息吹が聞こえてくるようです。

長閑なる春陽や修羅の心にも

 なぜだか宮沢賢治を連想しました。

 あと、クスっとさせられたのが

貫之の昔の花の匂いかな

投稿: 寝太郎 | 2006.04.12 10:13

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: [書評]終風句集 終風且暴(石垣終風):

« ユダの福音書 | トップページ | [書評]家族のゆくえ(吉本隆明) »